橋下発言と世界「提言」、そして在日朝鮮人の「責任」

  日本のマスコミは朝鮮民主主義人民共和国の人工衛星打ち上げをひたすら「ミサイル発射」と連呼し続けているが、その渦中に産経新聞が報じた橋下大阪府知事の以下の発言は、なかなか問題含みだと思う。

 「大阪にも多くの北朝鮮籍の人が住んでいる。言論の自由が保障されている日本に住む北朝鮮籍の人は、北朝鮮の今の体制について厳しく批判しないといけない。国民に変える気概がなければ、国は変わらない」

 まず、日本は朝鮮民主主義人民共和国と国交を結んでおらず、別途共和国の国籍を承認する措置を講じているわけでもないので、少なくとも日本政府の見解によれば「大阪にも多くの北朝鮮籍の人が住んでいる」というのは誤りである。ただし、共和国国籍法上は日本にいる朝鮮民族は潜在的に共和国国籍なので、その限りでは橋下知事のこの発言は妥当するが、大阪府独自の判断で共和国国籍を承認するつもりなど無いだろうから、ただ無知なだけだろう。

 自分で否定しておきながら、その事実を知らないというのは、なかなか日本的で興味深いのだが、私がもっと重大だと思うのは別にある。橋下知事はここで「北朝鮮籍」の人間は「北朝鮮の今の体制」を「批判しないといけない」と言っている。言い換えれば、大阪府在住の朝鮮人のうち「北朝鮮籍」の人間は、「今の体制」を批判する義務、あるいは責任がある、と言っているわけである。

 大阪府の「北朝鮮籍」の人間に「今の体制」を「批判しないといけない」と知事が命令することは、人工衛星打ち上げを「ミサイル発射実験」であると理解し、かつそれを深刻な「脅威」と理解している大阪府民に対し、府内にその「脅威」に何らかの責任を負う朝鮮人が存在することを示す行為に他ならない。しかもより深刻なことに、前述のように政府見解上「北朝鮮籍」の人間はいないため、事実上これは全朝鮮人に対する大阪府民の「脅威」視を誘発する。一言でいえばレイシズムである。

こうした状況が存在するからこそ、民団は朝鮮総連に抗議する(朝鮮民主主義人民共和国に、ですらない)ことにより自らの「無罪」を日本に訴えるといった、親日派のお手本のような振る舞いに出るのである。もちろん民団の今回の振る舞いの醜さ・愚かさは目に余るものがあるし、ああ人間ここまでダサく生きられるんだなあ、という感慨すら覚えるが、その背景には橋下知事の発言を典型とするレイシズムの扇動があることを、とりあえずはそれに先んじて批判する必要がある。橋下知事の発言はレイシズムであり、断じて許容してはならない。これが第一に言いたいことである。

 それに加えて、私はもう少し考えておくべきことがあると思う。それというのも、橋下知事は在日朝鮮人のうち「北朝鮮籍」の人間は、「北朝鮮」を批判する責任がある、と語ったわけだが、別の論理で同様の結論を導き出している文章があるからである。それは他でもない、このブログで繰り返し批判してきた『世界』の「共同提言」である。朝鮮民主主義人民共和国の核開発をめぐって、「提言」は次のように書いている。

「日本は一九四五年に広島と長崎を経験し、原子爆弾のおそろしさを身をもって経験した。日本人は日本に住む朝鮮人とともに核兵器にあくまで反対する責任を人類の前に負っている

 ここで「提言」は、在日朝鮮人には核兵器に反対する責任がある、と書いている。なぜか。「原子爆弾のおそろしさを身をもって経験した」からであるという。これは何ともおかしな文章である。そもそも私には「反対する責任を人類の前に負っている」という言葉の意味が全くわからない。

 原子爆弾の被害を受けた者が、原子爆弾に反対する「権利」がある、というのならわかる。あるいは、原爆被害者はそうでない人間より優先的な批判権をもつ、とか、その主張は優先的に政策に反映されるべきである、ならわかる。だが「責任」を負っている、というのはどういうことだろうか。

普通に考えれば、原爆に反対する責任を負っているのは、原爆投下国である米国政府あるいはその国民である。もしくは自らの(旧)植民地で繰り返し核実験を行ってきたフランスを初めとする国際的に公認された(というよりも自分で認めているだけなのだが)核保有国の政府あるいはその国民である。

 だがここで「提言」は被害を受けた日本人及び朝鮮人が、「あくまで反対する責任」を有しているというのである。「提言」発表当時の状況から考えて、ここでの「核兵器」が朝鮮民主主義人民共和国のそれを指すことは明らかである。つまり、「提言」は、在日朝鮮人は共和国の「核兵器」に反対する「責任」を「人類の前に」負っている、と言っているわけである。

 人工衛星打ち上げと核開発は違う、という意見もありうるし、それについては別に検討するが、とりあえずここまでの検討で橋下知事と「提言」が、在日朝鮮人には「北朝鮮」の核兵器保有あるいは「ミサイル発射」に反対する「責任」があるという、同じ結論に達していることがわかる。もちろん、その結論に至る論理は違う。

おそらくタチが悪いのは「提言」の論理だろう。「提言」では巧妙にもこの「責任」なるものの主体は「日本人は日本に住む朝鮮人とともに」とされており、ここに日本人と朝鮮人の「責任」は「人類」の名の下に融合してしまっている。米国あるいはフランスなど核保有国に核兵器反対の「責任」があると前に述べたが、私は戦後一貫してこれら諸国の核保有に賛成し、自らの領土内に核兵器を搭載する原潜を停泊させ、かつそれを「非核三原則」なるウソでごまかしてきた日本政府、あるいはそれを許した国民もその「責任」を負っていると考えている。そうした日本人の「責任」はどこかへ吹き飛び、「人類の前に」ナゾめいた「責任」が朝鮮人に課されてしまっている。

 橋本発言に対しては、さすがに賛同する朝鮮人はいないだろう。おそらく、在日朝鮮人は、一部を除いては「北朝鮮」と何の関係も無い市民(大阪の地域住民)であり、むしろ日本と朝鮮のはざまでいじめられた被害者ですらある、そんな人間を「北朝鮮籍」だから体制を「批判しないといけない」と名指しするなんて、とんでもない、という反論が上る。だが、そうしたメンタリティの論者にとって、「提言」の論理は(結論は同じ、あるいは近似しているにもかかわらず)非常に受け入れやすい。これならば、民団のような醜態をさらさなくても、自らを「北朝鮮」から分離し、「安全」な市民であると示すことができる。在日朝鮮人には「北朝鮮籍」者としての責任は無い、だが「人類の前に」「責任」を負っている、だから「北朝鮮」を批判する、というわけだ。

 私はこれは非常に問題のある議論だと思う。誤解の無いように言っておくが、私は朝鮮人には朝鮮半島に存在する国家がいかなる政策を取るかに関与する「権利」があると考えている(さらに言っておくが、朝鮮に居住する外国籍者にもその権利はある)。当然、共和国の核保有に反対する「権利」も持っている。だが「提言」のいうような論理に基づく「責任」などは存在しないのである。
# by kscykscy | 2009-04-18 01:05 | 世界「共同提言」批判

和田春樹の天皇訪韓提案と「東アジア共同体」

 前回書いたように、和田春樹は『世界』2009年4月号に寄稿した「韓国併合100年と日本 何をなすべきか」(以下、和田論文)と題した論文で、韓国併合100年に際して「当然実現されていい懸案」として、「天皇皇后のソウル訪問」(168頁)を挙げている。天皇が大統領主催の晩餐会で村山談話の表現を取り入れた挨拶をすれば「日本国民の心を伝えるものになるはず」で、しかも天皇皇后が高宗、純宗の廟を訪れ、「花輪を捧げ、頭を垂れれば、植民地支配への反省を象徴的に表わすという意味で、意義深いことであろう」(169頁)というのである。

 和田春樹が天皇のソウル訪問を主張したのはこの論文が初めてではない。むしろ90年代からの一貫した主張といっていいが、来年の「併合100年」にあわせて和田は改めて天皇訪韓の意義を強調しているといえる。韓国内のメディアでも同様の提案を行っている。

 結論から言おう。私はいかなる形、いかなる時期であっても、「天皇」が「天皇」として朝鮮半島を訪れることには反対である。和田は「天皇がソウルを訪れて、高宗の廟に花を捧げるだけでは意味がない、謝罪と償いの新たな行為を伴わなければ意味がないという考えがあるかもしれない」と、自らへの反論を予め天皇訪韓をめぐる条件論へと限定し、論点を意図的に「天皇がソウルで何をなすべきか」へと誘導しているが、問題はそんなことではない。

 日本政府は、併合条約は当時としては合法に締結された、と主張している。一方、村山談話は「遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」と植民地期を規定する。つまり、併合そのものに問題は無いが、統治の過程で「多大の損害と苦痛を与えました」というのが、政府の立場である。

 併合条約によれば、「韓国皇帝陛下ハ韓国全部ニ関スル一切ノ統治権ヲ完全且永久ニ」天皇に「譲与」し(「韓国併合ニ関スル条約」第一条)、かつ天皇はそれを「承諾」している(第二条)。だがこれ自体は問題ではなく、あくまで「統治」の過程での「損害と苦痛」だけが問題になる。つまり「譲与」を「承認」した明治天皇の行為は全く問題にされず、あくまで問題は「君側の奸」にあるというわけだ。

 だが問題は天皇制そのものにある。日本敗戦直後に被侵略地域から天皇制廃止の声が起こったのは、45年以前のあらゆる侵略が天皇の名において行われたからであり、最低限天皇制が廃止されない限り、日本に対して講和は行わないという意思の現れだった。しかし天皇制はこうした要求をかいくぐり、封殺しながら巧みに生き延びた。その天皇が、天皇の地位にあるままで、ソウルを訪れることは、植民地支配を反省する意思表示なのではなく、むしろその逆、天皇制が植民地支配及び侵略責任を回避しきったということを意味するに過ぎない。

 しかも和田はこれを高宗の廟の前でやれといっている。高宗はハーグ密使事件によって退位に追い込まれ、1919年の死は三一運動の引き金にもなった。しかも毒殺説が有力な説として未だに主張されており、日本政府はその真相究明すら行おうとしない。そういった状態で、天皇が高宗の廟に頭を下げるということは、植民地支配を反省するどころか、いまだに天皇なるものが平穏無事に存在し続けていることを象徴的に示す行為であるといえよう。つまり、天皇のソウル訪問及び高宗の廟への献花は、単なる天皇の「勝利宣言」なのである。

(※ちなみに私は天皇が朝鮮の土を踏んでもよい場合は二つあると考えている。一つは天皇制が廃止され完全な私人になった場合、もう一つは日本の植民地支配・戦争責任を裁く国際法廷が朝鮮のどこかの都市で開かれ、そこに被告あるいは証人として出廷を要求された場合である。いずれも現時点では実現可能性は低いので、どちらにしても天皇の朝鮮訪問には反対である。)

 おそらくこうした意見はそう突飛なものではないと思う。少なくとも韓国内でもこうした世論は存在するはずだ。だが、おそらく和田は、だからこそ天皇の訪韓を主張しているのではないだろうか。
 
 和田論文では92年に明仁天皇が中国を訪問し、中国国民への「苦難を与えた不幸な一時期」について「悲しみ」を示し、「我が国民は、このような戦争を再び繰り返してはならないとの反省にたち、平和国家としての道を歩むことを固く決意して、国の再建に取り組みました」との発言したことが「中国政府に好意的に受け取られた」と肯定的に評価している。訪韓にしてもこれと同様の効果を狙っていることは歴然としており、つまり、和田が意図しているのは、韓国政府の、あるいは韓国政府による対日批判の押さえ込みであるといえる。

 言うまでも無く、中国政府に対する天皇発言は事実に反している。明らかに日米安保条約は中国を仮想敵国の一つに据えていたし、サンフランシスコ講和条約後の米軍駐留の根拠の一つとなった「国連軍地位協定」(1954年2月19日署名)は、朝鮮民主主義人民共和国及び中華人民共和国を侵略者と規定した国連安保理及び総会決議に準拠している。1972年の国交回復後もそれは変わらない。これら諸協定の修正あるいは撤廃のために日本政府が能動的に行動したことは無く、またその意思も無い。中国に対し、日本が「平和国家」どころか明確に敵対姿勢を示していたのは歴然たる事実である。これは和田が多大な影響を受けたと公言している竹内好『現代中国論』の認識とも全く背馳するものといえる(私自身は竹内の中国論に賛同しているわけではないが)。

 だが逆に考えてみると、これは「提言」でも強調されている「戦後日本礼賛」の主張と軌を一にするものであるともいえる。あくまで日本の侵略の問題については、1945年8月15日以前に限定させ、「戦後」日本については平和国家としてアジアとの協調を望んできたのだというラインで押し通す。しかも、45年以前についても法的責任は絶対に承認せず、天皇のあいさつで「手打ち」をする。天皇訪韓についても同様の意図があるといえるだろう。

 また一方で和田は天皇訪韓によって、日本の右翼勢力を黙らせる効果も期待しているのではないか。天皇訪韓主張については右翼から「陛下の政治利用」として猛烈な批判がある。だが、実際に天皇が行けば、ごく一部の右翼勢力以外は言うことを聞くだろう。そしてこの「手打ち」によって、日本・韓国・中国の協力関係――「東北アジア共同の家」を実現する。こうした構想を和田は持っていると思われる。

 政府は戦後一貫して責任を果たそうとしなかったし、その結果国民も別にアジアに対する侵略責任があるとは大して考えていない。被侵略地域の人々はこうした日本のあり方に不満を持っている。当然である。だがこうした不満に対し、日本の政府関係者や国民はこれまた不当だと感じる。戦後日本では侵略責任を果たすための苦痛に満ちた戦いが全く行われなかったのだから、こうした反応は当然起こるだろう。だがこれでは東アジア共同体なんてできようにもない。そこで天皇の登場、というわけだ。

 つまり、和田は今後東アジアにおける何らかの「共同体」的なものを作っていく際に、天皇にその調停役としての機能を担わせるつもりなのではないか。だとするならば、今回の天皇の訪韓要求は、明らかにその第一歩である。そして、朝鮮民主主義人民共和国との国交「正常化」の際には、和田は天皇の平壌訪問を語りだすだろう。東アジアの至るところで天皇の「勝利宣言」がこだますることになる。和田の提案する薄気味悪い東アジアの「未来」を、私は絶対に拒否する。
# by kscykscy | 2009-03-17 05:13 | 日朝関係

世界「共同提言」と日朝平壌宣言

 これまで四回にわたって世界の「提言」を批判してきた。この「提言」への左からの批判は比較的少なくなく(多いわけでもないが)、それぞれの批判から学ぶところが無いわけではない。ただ、それらの批判を読んでいて、何とも理解できない点がある。

 それは、世界「提言」を批判する論説が、日朝平壌宣言に極めて肯定的、あるいは黙認の姿勢を取っていることである。私がここで世界の「提言」を批判し続けているのは、日朝平壌宣言批判の延長線上でのことである。平壌宣言によって、日朝国交締結過程で日本の植民地支配責任が「無答責」とされる可能性が一気に高まり、しかもそれに批判的に言及する人々が全く存在しないことを私は批判している。そして平壌宣言のラインで、つまり植民地支配責任を全く問題にしないかたちで、しかも朝鮮への「介入の論理」すら用いて国交締結しようとしているからこそ、世界「提言」を俎上に乗せているのである。

 例えば、「提言」の共同執筆者の和田春樹は、今号の『世界』に「韓国併合100年と日本 何をなすべきか」という文章を寄稿しているが、そこで次のように書いている。

「国交正常化の過程を国交樹立と経済協力に分け、まず日朝基本条約調印による日朝国交樹立を実現することに進むことができる。これはほとんど日朝平壌宣言を基本条約に組み替えることで可能になる。そのときには、経済制裁はすべて白紙に戻し、在朝被爆者や元慰安婦などの被害者個人に対する医療福祉支援措置を実施する。生存していることが明らかになった日本人はすべて返してもらわなければならない。」(166頁)

 ここで和田は、あくまで日朝基本条約は平壌宣言のラインで締結されうることを確認している。後段の被爆者や元「慰安婦」への「医療福祉支援措置」というのも、個人も含め請求権を相互に放棄することを規定している平壌宣言に忠実な提言なのである。ただ、朝鮮民主主義人民共和国側は、平壌宣言で放棄された請求権には「慰安婦」などの人的被害は含まれないという立場を取っているため、あくまでこれは日本外務省側の平壌宣言理解に和田が忠実だという意味である。

 いずれにしても世界「提言」は、明確に平壌宣言の枠内で自らの議論を展開しているのであって、「提言」と平壌宣言を切り離して、一方は批判するが一方は評価するという立場はありえない。

 しかし、私は、世界「提言」批判をしている論者が、同時に平壌宣言を批判しているのを見たことがない。例えば、「自主・平和・民主のための広範な国民連合」は、「共同提言「対北政策の転換を」への疑問」と題して、「提言」の認識の問題点を逐一批判しているが、同「国民連合」の2002年9月以来の活動を見ると、あくまで日朝平壌宣言のラインで国交正常化を成し遂げようという趣旨らしい。つまり、上に書いた世界「提言」は批判するが、平壌宣言は批判しない、という立場である。

 だがこうした立場からの批判は、いきおい瑣末な方向へと向かわざるをえない。例えばここでは「提言」が「強制連行」や「創氏改名」について言及していないことを批判しているが、平壌宣言が「1945年8月15日以前に生じた事由に基づく両国及びその国民のすべての財産及び請求権を相互に放棄する」ことを「基本原則」にしている以上、これらが宣言を下敷きにした「提言」で扱われないのはある意味当然である。

 もし、扱われるとしたら、日本にそれら被害に補償する法的責任は無いが、自発的に何らかの措置を取る、という論理にならざるを得ない。「提言」はそこのところをよくわかっているからこそ、元「慰安婦」に対する「個別的措置」という言葉を使っているのである。また、今回の和田春樹論文では「強制動員労働者問題」は「懸案問題」の一つとして言及されており、「苛酷な強制連行(強制動員)を正面からとりあげてはいない」という批判はあたらない。だが、だから和田がいいといっているのではない。ここでも和田はこれまでと同様、あくまで「新しい基金をつくって企業、国民、政府が道義的責任を果たすことが必要」と書いている(168頁)。法的責任を絶対に承認しない、という平壌宣言のラインで議論を展開していることがわかる。

 つまり、重要なのは、強制連行が扱われているかいないかではなく、いかなる論理によってその被害に対する日本国家の責任が根拠付けられているのか、なのである。「国民連合」は平壌宣言第二項についての評価が不明瞭なため、日本国家の植民地支配責任という論点を立てることができず、結局、世界「提言」への批判も不十分たらざるを得ない。もう少しいえば、世界「提言」の方が少なくとも論理的には整合性が取れている(むろん、だからいいというわけではない。和田論文では天皇訪韓問題をめぐる驚くべき「提言」がなされており、これについては改めて批判する)。

 国民連合は「この共同提言は、日朝国交正常化に対する日本政府の考え方とどこが違うのだろうか」と「提言」執筆者たちに問いかけているが、本人たちに確認するまでもなく、「提言」と政府・外務省の考え方には、基本的には違いは無い。いまさら聞くまでも無いのである。むしろ私は、平壌宣言を肯定しつつ、世界「提言」とは異なる論理をどうやって構築するのかと問いたい。少なくとも植民地支配責任に関する限り、平壌宣言第二項を肯定した上で、責任を問うという立場は矛盾である。

 繰り返しになるが問題は平壌宣言である。日朝平壌宣言に対しいかなる態度を取るか。それこそが最大の論点にならねばならない。そこを回避した批判には意味がないのである。
# by kscykscy | 2009-03-15 02:06 | 世界「共同提言」批判

入管法・入管特例法改悪案と「有効な旅券」

 産経新聞が伝えているように、三月六日、政府は入管法及び入管特例法の改正案を閣議決定した。現在配布されている入管法及び入管特例法改正案要綱に、その主たる内容が掲載されているが、これが相当にひどい。

 第一に、すでに言われていたように、入管法適用対象者には在留カードの、入管特例法適用対象者には特別永住者証明書の常時携帯義務が課され、前者については不受領、不呈示、不携帯、すべてに懲役及び罰金等の刑事罰が課され、後者は常時携帯義務違反については過料に処するとし、それ以外には懲役及び罰金等の刑事罰が、課されるとされている。罰則規定が形を変えて維持されたといえる。これについては改めて検討したい。
 
 第二は、「再入国許可」に関わることである。これについて今回の法律案要綱は、「みなし再入国許可」という名の一部「再入国許可」取得免除を定めている。原文は以下の通り。

  第九 再入国許可の有効期限の伸張に関する規定及びみなし再入国許可に関する規定の整備
 二 みなし再入国許可
 1 本邦に在留資格をもって在留する外国人(中略)で有効な旅券(第六十一条の二の十二第一項に規定する難民旅行証明書を除く)を所持するもの(中長期在留者にあっては、在留カードを所持するものに限る。)が、法務省令で定めるところにより、入国審査官に対し、再び入国する意図を表明して出国するときは、第二十六条第一項の規定にかかわらず、再入国の許可を受けたものとみなすものとし、ただし、出入国の公正な管理のため再入国の許可を要する者として法務省令で定める者については、この限りではないものとすること。
 

 また、特別永住者について「第九の二は、有効な旅券及び特別永住者証明書を所持して出国する特別永住者について準用することとし」とも記されており、特別永住者を含む全外国人に対する「みなし再入国」の内容がここに示されている。そもそも「再入国許可」とはいうものの、これは政府が外国人の再入国の許可権限を掌握しているという意味なので、実態は「再入国規制制度」であり、この権限を放棄しないために「みなし再入国許可」なる名前をつけていること自体問題である。
 
  ただ、より深刻なのは、これの対象となるのが「有効な旅券を所持するもの」に限定されていることである。日本には「有効な旅券」を所持しない者が多数住んでおり、代表的なのは朝鮮籍あるいは韓国に国民登録をしていない韓国籍の在日朝鮮人である。朝鮮民主主義人民共和国の旅券について日本政府は「有効な旅券」ではないとしているので、両者はこの「みなし再入国許可」なるものの適用対象外となる。逆に言えば、朝鮮人のうちこの「みなし再入国許可」の対象となるのは、韓国旅券保持者だけである。ちなみに、日本政府は国交の無い台湾やパレスチナについては、その旅券は「有効な旅券」であると認めている。

 以前、「再入国許可制度」については欧米からも批判が多く、規制緩和の観点から撤廃の声が高まっており、おそらく政府としては在日朝鮮人に対する再入国規制を維持しつつ、外国人一般に対する再入国規制緩和を行うため、民主党の出してきた入管特例法に限定した再入国規制案を採用する可能性が高い、と書いた

 この予想は半ば当たり、半ば外れたといえる。やはり日本政府としては、外国人一般の再入国規制緩和と、在日朝鮮人に対する再入国規制を何とか両立させたいと考えていたといえる。これが「半ば当たり」である。だが外れたのは、「有効な旅券を所持するもの」という規定をいれたことにより、民主党案よりも明確に狙いを定めたかたちで、外国人一般に対する再入国規制緩和と、朝鮮人に対する再入国規制を両立させたことである。しかも、これならば入管特例法適用対象者の在日朝鮮人のうち韓国旅券所持者には再入国規制の緩和を出来るので、日韓関係上も問題が生じない。驚くべき官僚的屁理屈である。

 逆に、今回の法律案要綱が旅券を所持しない朝鮮人に対する再入国規制に特化されたことによって、再入国規制制度の「植民地主義」的な側面はむしろ強まったといえる。最悪の展開であるといえるだろう。
# by kscykscy | 2009-03-07 18:03 | 出入国/在留管理

「共同提言 対北政策の転換を」を批判する④――日韓条約と日本の責任

 少し間が空いてしまったが、世界「提言」の批判に戻ろう。前回、「提言」が戦後日本の対アジア諸国外交を極めて高く評価していること、そして「大韓民国との清算が曲がりなりにも果たされた」とされる日韓共同宣言が、実質的に日韓条約への高い評価を打ち出していることを指摘した。日韓条約の問題は非常に重要なので、もう少し検討を続けよう。

 日韓交渉における論点の一つに「管轄権問題」というものがある。朝鮮が分断状態にあるなかで、韓国政府の管轄権の範囲をどこまでとみなすのかという問題である。これに関連して「提言」は「3 これまでの国交正常化の努力の評価」の項目で次のように説明している。

韓国政府は大韓民国が朝鮮半島における唯一の正統政府だと主張したが、日本政府は、ついに同調せず、大韓民国を休戦線の南のみを有効支配している国家であると認めるにとどめた。つまり休戦線の北側には別の国家があると日本は認識していたのである。ただし、その国家とは外交関係をもたないと決めていた。」(128頁)

 下線部は非常に不可解な書き方をしている。なぜ不可解なのかというと、この一文は、韓国の朝鮮半島における唯一の正統政府との主張に日本は同調しなかった、と書いているわけだが、そうなると韓国を朝鮮半島における唯一の正統政府と認めるかどうかが、ここでの争点であったということになってしまうからだ。だが管轄権問題について少し勉強したことのある人ならば誰でも知っていることだが、そんなことは一度も日韓交渉で問題になってはいない。問題になっていたのは、韓国の主権が全朝鮮半島に及ぶのか、あるいは南半部だけに及ぶのかである。韓国が朝鮮半島における唯一の政府であることについて、日韓間での意見の対立は無かったはずである。

 実際、締結された日韓条約第三条には「大韓民国政府は、国際連合総会決議第百九十五号(III)に明らかに示されているとおりの朝鮮にある唯一の合法的な政府であることが確認される」と記されている。ここで引用されている国連総会決議では、国連臨時朝鮮委員会が観察した地域(つまり38度線以南)において「有効な支配と管轄権を及ぼす合法な政府(大韓民国政府)が樹立されたこと」、同地域における「選挙民の自由意思の有効な表明」により韓国政府が選出されたこと、そして「この政府が朝鮮における唯一のこの種の政府であること」が宣言されている。どう読んでも、朝鮮における政府は韓国政府のみであることが謳われていると解釈するのが妥当だろう。

 これだけを見ても、日韓共に韓国政府が朝鮮における「唯一の合法的な政府」であることについては認めていたのであり、日韓条約にもそう記されていることは歴然としている。ただ、日本側は朝鮮半島に「唯一の合法的な政府」の支配の及ばない地域が存在すると主張していただけだ。

 さらに続けて「提言」は「休戦線の北側には別の国家があると日本は認識していた」と書いているが、これも意味不明だ。日韓条約第三条が記しているのは、朝鮮半島にある合法的な政府は韓国だけであるということであって、「休戦線の北側」には「別の国家」があるとはどこにも書いていない。日韓条約第三条に書いてあるのは、国連朝鮮臨時委員会が観察した地域(「休戦線」ではない)にある政府だけが合法的な政府である、つまり、その地域以外に仮に政府があるとしてもそれは非合法的な政府である、ということだ。

 引用した段落は続けて次のように記す。

「大韓民国も朝鮮民主主義人民共和国もそれぞれ自らが朝鮮半島における唯一の正統政府だと主張していたので、韓国と国交をもつ日本が北朝鮮と国交をもつことは不可能であった」(128頁)

 二つの引用文をつなげて読むと、日本としては韓国の「唯一の正統政府」だとの主張には同調しなかったが、朝鮮では南北がそれぞれ「唯一の正統政府だと主張していた」、だから日本は朝鮮民主主義人民共和国と国交をもつことが不可能であった、という物語が出来上がる。つまり日本が朝鮮民主主義人民共和国と国交を結べなかった原因は、朝鮮の南北がそれぞれ「唯一の正統政府だと主張していた」から、ということになる。

 だがこれは滅茶苦茶な話である。日本と朝鮮民主主義人民共和国の国交交渉が全く進まなかったのは、日本が韓国を「唯一の合法的な政府」として承認したからであって、南北の両政府が互いに「唯一の正統政府」だと主張し合っていたからではない。この段落を一読すると、あたかも日本側は朝鮮民主主義人民共和国との国交交渉の余地を賢明にも残していたかのような印象を受けるが、これは問題のすりかえである。

 しかも、日本側が韓国の管轄権を南半部に限定したのも、別に「国交正常化の努力」のためではない。

  確かに交渉の最終局面において、全朝鮮に主権が及ぶことを主張する韓国と、朝鮮南半部のみとする日本の見解は対立していた。だが、すでに吉澤文寿が指摘しているが、1951年11月7日の国会答弁で西村熊雄条約局長は「北鮮〔ママ〕にある日本の財産の問題も大韓民国政府相手の交渉の内容をなす結果になる」と答えているのである(吉澤『戦後日韓関係』48頁。なお同答弁についてはここで全文閲覧できる)。

 つまり、日本は自らの「財産」を請求する際には、韓国の管轄権に朝鮮半島全域を含ませようとしていたのである。逆に、交渉の最終段階では、韓国側が北半部の分も対日請求権を持っていると主張していたため、日本側は対日請求権を値切るために管轄権を限定した。別に日本による朝鮮民主主義人民共和国との「国交正常化の努力」として肯定的に評価できるようなものではない。

 世界「提言」は、事実を捻じ曲げ、問題をすりかえ、朝鮮側に責任をなすりつけてまで、戦後日本外交を肯定したいのだろうか。
# by kscykscy | 2009-02-21 03:52 | 世界「共同提言」批判