日朝国交正常化と植民地支配責任
2016-07-10T12:23:20+09:00
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「東アジアの平和を毀損する」のは誰か
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2016-07-10T00:00:00+09:00
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さきごろ韓国で刊行された私の著書『忘却のための「和解」 『帝国の慰安婦』と日本の責任』の朝鮮語版に対する朴裕河の評価である。
朴裕河は7月11日、私の本への反駁のためだけに新聞記者懇談会を開くという。「この本の主張に深刻な問題があり、特に引用や論旨の展開において、極めて恣意的な方式で私の本といわゆる「良心的」な現代日本知識人すら歪曲していることを明らかにするつもり」だという。上に引用した「東アジアの平和を現在以上に毀損する」云々という文句は、記者懇談会の案内文に朴が記したものである。日本のメディアへのアピールも念頭に置いているのであろう。
韓国での私の本の刊行に、朴裕河は相当に狼狽しているようである。「少なくないメディアが36歳の在日僑胞研究者の歪曲された認識を、たいそうな洞察であり認識であるかのように伝え、彼の言葉を韓国社会が信じるようになったのみならず、私を詐欺師扱いする事態が展開してしまった」(2016年7月6日)との認識のようなので、あわてるのも無理もない。在日の若造の言うことを韓国メディアが評価しているのが気に食わないのだろうが、自らの蒔いた種である。朴裕河が採るべきは自らの著作に誠実に向き合い、批判に正面から答えること以外にない。ところが、朴裕河は私の本の韓国での出版を自己省察の機会にするどころか、私の入国拒否や出版記念会をめぐって、にわかには信じがたい言動を繰り返している。
既報のとおり、拙著の刊行にあわせてソウルで7月1日に出版記念会が開催されたが、私は韓国政府にふたたび入国を拒否され、行事に参加することができなかった。このため、当日の昼に記者会見を行い、私は中継で抗議の意思表示をした。記者会見にあたり、出版記念会実行委員会は入国拒否への抗議声明を発表した。声明への賛同署名には600人にのぼる方々が抗議の意思を示してくださった。もとは韓国の方々を中心に始まった署名であったが、少なくない日本在住の方々も署名してくださった。抗議の意思をともに示してくださったことに、改めて感謝の意思を表したい。
7月1日の出版記念会には朴裕河本人がカメラクルーとともにあらわれた(詳細は『ハンギョレ』の報道を参照)。このため私は『忘却のための「和解」』の要旨を説明し、具体的にいくつかの質問を示した。だが30分近い時間を浪費したにもかかわらず、朴裕河はあいかわらず「誤読している」とくりかえすばかりで、私の質問に何らまともに答えることがなかった。日本のメディアは議論のやりとりを伝えず、この場が「険悪」になったことを紹介する記事のみを配信している。だが、むしろ私からみると、朴の言動は参加者たちを激昂させるに充分であったにもかかわらず、主催者や参加者は最大限丁重に遇したと思う。質問に答えない朴の姿勢に、みかねた参加者から早く質問に答えるよう促す声があがったが、当然の反応であろう。私も、入国ができずようやく中継でつながった読者との対話の時間をくだらないやりとりで朴が奪ったこと(指定討論者を除けば会場から発言できたのはたったの一人であった)、にもかかわらず何ら誠実な応答をしない朴の傲岸不遜な姿勢に平常心を失いかけたが、貴重な場を用意してくれた主催者のためにも堪えた。そもそも出版記念会にカメラクルーを連れてきて、撮影をする神経が私には理解できないが(自分のドキュメンタリー用のようだ)、それは措こう。
この間の朴裕河の言動のなかで到底座視しがたいのは私の入国不許可処分に対する発言である。この間、朴裕河は私の入国拒否の判断が妥当であるかのようにほのめかす発言を繰り返した。拒否処分直前の、6月28日、朴は次のように書いた。
「鄭栄桓氏は韓国と北朝鮮で政治的活動をしたとの理由で韓国入国が不許可となった人物だ。国家が個人の移動の自由を管理することに私は批判的であるが、彼らの言説が韓日和解に強い懸念を示すのはだからかもしれない。
事実、鄭栄桓の懸念を理解できないわけではない。だが、人々が私抜きで(彼の表現に従えば忘却して)和解するかもしれないと恐れるよりは、在日僑胞社会や日本との、あるいは北朝鮮と日本との和解を模索するほうがはるかに生産的である。」(「誰のための不和なのか」2016年6月28日)
朴裕河らしい文章である。「国家が個人の移動の自由を管理することに私は批判的であるが」と、あからさまな反共主義者と思われないように予防線をはる一方で、私が韓国や朝鮮民主主義人民共和国で「政治的活動をした」ため入国不許可となったという韓国政府当局の説明をそのまま垂れ流し、だからこそ韓日和解に懸念を示すのだろう、と根拠のない推論を示す。この文を読む者は、私の「和解」批判が朝鮮民主主義人民共和国と何らかの関係があるかのような、そして入国不許可にも相応の理由があるかのような印象を抱くであろう。だが朴はほのめかすに留めているため、その責任は読み取った読者に転嫁されることになる。『帝国の慰安婦』と同じく、きわめて無責任な文章である。
この投稿には相当な批判が寄せられたとみえる。朴裕河は翌日になると次のような弁解を行った。
「私は国籍を持たないことを選んだ朝鮮籍の方々を立派だと考える人間だ。その頂点に作家・金石範先生がおり、私「朝鮮籍」の意味が何かを知るようになったのもあの方を通してだった。
私が言及したのはただ「韓国政府の判断」だ。書いていない非難をあえて読み取り非難する者たちの行為は、慰安婦はもとは日本人が対象であったし、国家により移動させられた貧しい女性だという意味で「朝鮮人はからゆきさんの後裔」と書いたのに、「それは売春婦という意味!」としながら板金[削除要求を指すのであろう]を要求した支援団体と何ら異なるところがない。」(2016年6月29日)
朝鮮籍者の金石範を尊敬する私が、朝鮮籍者を差別するはずがない、といいたいのであろう。自分は「鄭栄桓ではなく政府を批判した」のだとも書いている。いまだに告訴したのが「慰安婦」被害当事者であることを認めないその姿勢には驚くほかないが、呆れてしまうのは、上の文章で意図したのは韓国政府批判だ、という弁解である。この文を読んで、朴が私の入国不許可処分を批判したと考える読者はおそらく地球上に一人もいまい。自らへの批判を「勝手に、深く、歪めての読み」と非難し、「冷戦後遺症を患っている私たちの社会の断面であろう」としているが、これまた『帝国の慰安婦』と同じく、もし朴の「真意」が読者の理解と異なっていたとすれば、その責任は書き手である朴自身にある。
しかも朴はこの投稿においても、私の入国不許可が妥当であるかのようなほのめかしを続けている。朴は投稿の末尾で「鄭栄桓問題[!:引用者]についての参考資料として、趙寛子先生の論文をあげる。在日僑胞/朝鮮籍について語るならこの論文は必ずや読まねばならないだろう。入国制限問題については特に第六節が詳しい。」として、趙寛子の論文(*조관자「재일조선인 담론에 나타난 ‘기민(棄民)의식’을 넘어서: ‘정치적 주체성’을 생각하다」『통일과평화』(7집 1호·2015))のリンクを貼り付けている。
趙寛子はソウル大学日本研究所の助教授で、日本語の著書もある朝鮮近代思想史研究者である。朴が参照することをすすめた趙寛子論文の第六節には、私の入国に関する次のような記述がある。注とあわせて引用する。
「イラク戦争で高揚した反米運動の現場で朝鮮籍の在日朝鮮人たちが北朝鮮の反米、統一のスローガンと一致する内容をそのまま叫ぶ場合もあった。54)」(209頁)
「注54 筆者は在日朝鮮人鄭**氏を日本でみたことがある。2006年冬だと記憶しているが、当時大学院生だった彼が東京のある出版記念会で平澤の反米集会に参加した経験を披瀝した。日本に居住しながらちょうど鄭**氏の演説を聞くことになった筆者は、北朝鮮を自由に往来する在日朝鮮人青年が平澤住民たちのまえで北朝鮮の語法で米軍撤収を叫ぶ場面を頭に浮かべ、韓国の変化と政権の寛容さに驚いた記憶がある。[中略]筆者は鄭**氏が決して脅威であるとか無謀な人間ではなく、彼の学術活動は許容されねばならないと考える。だが北朝鮮の反米民族主義が韓国で生生しく再現されることを「脱分断」と考えることはできず、いままでに展開された朝鮮籍の統一表象と統一運動を首肯できないため、朝鮮籍の政治活動を制限する政府の立場に基本的に同意する。」(210-211頁)
念のため確認しておくが、これは公安警察の報告書ではない。ソウル大学の研究所紀要に載った、れっきとした「学術論文」である。言うまでもなく、ここでの「鄭**氏」とは私を指す(この「論文」のもとになった学会報告ではフルネームが上がっていたという)。趙寛子のこの論文は朴裕河のいうような「在日僑胞/朝鮮籍について語るならこの論文は必ずや読まねばならない」ような質のものではなく、上の引用をみてもわかるように、治安当局の視点と同一化した立場から書かれた極めてイデオロギー色の濃い「在日論」であり、率直にいって研究としての価値はゼロである。
ここで触れられているのは、私がはじめて韓国に入国した2005年の出来事をさす。韓国に行ったのは、ソウル大学で開かれたある国際シンポジウムで報告をするためであった。そして、このシンポジウムの関連行事として、当時米軍基地移設の予定地とされていた平澤へのフィールドワークが企画された。私もこれに同行して地域で反対運動に従事する人々との交流会にも参加し、短い時間であったが感想を発言した。日本で生まれ育った身のため「自分の土地」という感覚を実感として持ったことがなく、みなさんの土地への思いは想像するほかない、といった内容の発言をしたと思う。「北朝鮮の反米、統一のスローガンと一致する内容」などというご立派なものではない。
しかも、趙寛子は文中にもあるようにこの行事にもフィールドワークにも同行しておらず、私の日本での発言から、「北朝鮮を自由に往来する在日朝鮮人青年が平澤住民たちのまえで北朝鮮の語法で米軍撤収を叫ぶ場面を頭に浮かべ」たのだという。つまり、「朝鮮籍の在日朝鮮人たちが北朝鮮の反米、統一のスローガンと一致する内容をそのまま叫ぶ場合もあった」という記述の根拠は、趙の想像なのである。そのうえで、私の学術活動は許容するが(当たり前だ)、「朝鮮籍の政治活動を制限する政府の立場に基本的に同意する」と主張し、事実上私の入国不許可を是認している。趙寛子「論文」の私に関する記述は以上のようなものである。
朴裕河が趙寛子論文の参照を指示することで、韓国の読者に何を示唆したかったかは明らかであろう。朴裕河は、はじめに私の入国不許可処分を擁護するかのような印象を読者に与え、それが批判されると、自分は韓国政府を批判したのだと無理な弁明を行いつつも、同時に、私の入国不許可を是認する「論文」の参照を読者に求めたのである。いかに朴が私の入国不許可には相応の理由があるという印象を韓国の読者たちに与えたいかがわかる。冒頭で引用した「東アジアの平和を現在以上に毀損することになる」云々という私の本への評価もそうであるが、この数日のあいだ、朴は一貫して私の入国問題を国家の安全保障や治安の視点で考えることをほのめかしている。論争の相手に対するこのような手段を用いた報復は、控えめにいっても「卑劣」と評さざるをえない。改めてこの場を借りて抗議する。
果たして「東アジアの平和を毀損する」のは私の本なのか、それとも朴のかような姿勢なのか。答えは明らかではあるまいか。冒頭で紹介したとおり、7月11日に朴裕河は記者懇談会をするという。安易な反共主義的レッテル貼りに頼らず、自らの著書への批判に対して誠実に応答することを求めたい。これは私と朴裕河のあいだの問題に留まらない。何より『帝国の慰安婦』により名誉を毀損されたと主張する被害者たちが存在することを忘れるべきではない。
(鄭栄桓)
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研究集会「『慰安婦問題』にどう向き合うか 朴裕河氏の論著とその評価を素材に」の記録公開
http://kscykscy.exblog.jp/25955489/
2016-06-27T00:00:00+09:00
2016-06-27T12:15:02+09:00
2016-06-27T12:15:02+09:00
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研究集会「『慰安婦問題』にどう向き合うか 朴裕河氏の論著とその評価を素材に」
http://www.0328shuukai.net/
*参考
研究集会「「慰安婦問題」にどう向き合うか 朴裕河氏の論著とその評価を素材に」について
http://kscykscy.exblog.jp/25697120/
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米軍の朝鮮人捕虜尋問記録の「発見」?――『毎日新聞』6月10日付記事について
http://kscykscy.exblog.jp/25900987/
2016-06-11T00:00:00+09:00
2016-06-12T01:01:18+09:00
2016-06-11T17:47:41+09:00
kscykscy
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米調書発見 日本の支配、過酷さ記録 慰安婦「志願か身売りと認識」
http://mainichi.jp/articles/20160610/ddn/001/040/004000c
朝鮮人捕虜:米の尋問調書発見…日本支配の過酷さ記録
http://mainichi.jp/articles/20160610/k00/00m/010/117000c
朝鮮人捕虜尋問:米、反日意識鼓舞狙う?
http://mainichi.jp/articles/20160610/k00/00m/010/118000c
朝鮮人捕虜尋問:調書の概要
http://mainichi.jp/articles/20160610/k00/00m/010/119000c
記事によれば、かつてアジア女性基金の資料委員会は、米軍による朝鮮人捕虜の尋問記録のうち、捕虜の「回答」のみを発見した。これはその後「所在不明」となっていたが、2016年に入って「見つか」ったという。また今年3月、浅野氏と毎日新聞は新たに米軍がいかなる「質問」をしたのかを示す資料を「発見」したという。つまり、この記事は【資料1】捕虜の回答と【資料2】米軍の質問という二つの資料を扱っており、後者がこの度「発見」されたものということになる。
記事に掲載された浅野・秦・木宮・熊谷各氏の資料解釈もただちには納得しかねる部分があるが、それ以前の問題として、この『毎日』報道に対しては、韓国の研究者から「研究倫理」と「報道倫理」を問う批判が示されている。すなわち、浅野氏及び毎日新聞が「発見」したとする【資料2】はすでに公表されており、今回の「発見」報道は妥当性を欠くというのである。重要な指摘と思われるので以下に紹介したい。
指摘したのは聖公会大学の康誠賢研究教授(社会学)である(*1)。康誠賢氏によれば、『毎日新聞』6月10日付報道が依拠した二種類の資料は、それぞれ下記の通りである。
【資料1】“Composite Report on Three Navy Civilians, List no. 78 dated 28 Mar, 45, Re Special Questions on Koreas”
【資料2】Special Questions for Korean PWs, 1945. 4. 4.
前述のとおり、【資料2】が今回毎日新聞と浅野氏が「発見」したとされるものだが、康誠賢氏によれば、この資料はすでに昨2015年2月に、ソウル大学校人権センター日本軍「慰安婦」米国資料調査チームが公表しKBSニュースと『聯合ニュース』で報じられている。また、その後に制作されたKBSのドキュメンタリー『連れていかれた少女たち、ビルマ戦線から消え去る』でも言及されているという。康誠賢氏はソウル大学校人権センターのチームの一員であった。
康誠賢氏は自身のfacebook上で、今回の「発見」報道に対する論評として、【資料2】は「すでに本調査チームが2015年1月に発掘し、韓国のメディアに公表したものだ。これをもってあたかも今年の3月に自身らが新たに発掘したかのように書くことは、この重要な時点においては、意図的であろうがなかろうが歪曲である。その内容も悪意的である。」と厳しく批判し、「浅野教授と毎日新聞の研究倫理と報道倫理」を問うている。
確かにweb上に残された記事をみても、2015年2月にKBS及び聯合ニュースは朝鮮人捕虜に対する米軍の質問(【資料2】)も含めて、国史編纂委員会とソウル大学校人権センターが「発掘」したと報じている(*2)。2015年2月27日付の『聯合ニュース』報道の一部を以下に翻訳しよう。
「太平洋戦争当時、日帝が朝鮮人女性が軍慰安婦として強制動員した事実を米軍が認知していたことを立証する、米国側資料が第96周年3.1節を前に公開された。
国史編纂委員会(国編)とソウル大学校人権センターは、米国国立公文書記録管理局(NARA)とマッカーサー記念図書館にて調査・発掘した日本軍慰安婦関連資料のうち、日本軍捕虜尋問に関連する文献を27日公開した。
これらの機関によれば、太平洋戦争期米軍は捕虜尋問を専門に担当する組織を地域または戦域別に置いた。連合軍翻訳通訳部局(ATIS)、東南アジア翻訳・尋問センター(SEATIC)、戦争情報局(OWI)、戦略諜報局(OSS)などでこれらの組織を運用した。
米軍は捕虜のうち、技術・戦略的に重要な情報を持っていると判断される捕虜は、米国カリフォルニア州トレイシー基地に移送し、再尋問した。
当時、米陸軍省が1945年4月4日、トレイシー基地に下達した「朝鮮人捕虜に対する特別尋問」(Special Questions for Korean PWs)文献からは、当時米軍が日帝の軍慰安婦強制動員の事実をすでに知っていたことが明らかになる。
あわせて30の質問項目のうち、18番目の質問項目をみると、米軍は捕虜に「一般的に朝鮮人たちは日本軍が慰安婦として働くように朝鮮の少女たちを充員したことを知っていたのか?このプログラムに対する普通の朝鮮人の態度はいかなるものか?捕虜はこのプログラムのために発生した何らかの騒乱や抵抗を知っているのか?」という質問を朝鮮人捕虜にすることになっている。
国編関係者は「30の質問項目のうち、軍慰安婦関連項目が含まれていることは米軍がすでに軍慰安所制度について相当の情報を蓄積し、この問題を重要なものとして取り扱っていることを意味する」とし、「朝鮮人の抵抗があったのかを聞いたのは、対日本軍心理作戦において朝鮮人と日本人のあいだの葛藤を活用できるとみたため」と語った。」
この報道からも、今回浅野氏及び毎日新聞が「発見」したとされる【資料2】の米軍による質問項目は、2015年2月に国史編纂委員会とソウル大学校人権センターによって公表された資料と同一のものであることは明らかであろう。
もちろん既出の資料を利用し、その解釈を公表することが非難に値するわけではない(当然のことである)。だが、今回の報道は明らかに質問項目の「発見」を重要なニュースバリューの一つとして提示している。相当なことでもない限り、既出の資料の解釈が全国紙の一面を飾ることは想像しがたく、資料の「発見」がこの記事の価値を裏付けていることは明らかであろう。
康誠賢氏の指摘のとおり、浅野氏及び毎日新聞が資料を「発見」したとの報道は、上記の韓国における資料調査と公表の事実を無視したものというほかない。浅野氏や毎日新聞は2015年2月の韓国メディアの報道を知らなかったのであろうか。知っていながらあえて「発見」と報じたとは考えたくはないが、仮に知らなかったとしても資料「発見」を報じるための最低限の裏付けを欠いているといわざるをえず、「研究倫理と報道倫理」を疑われても仕方がないだろう。毎日新聞社は早急に事実関係を確認し、「発見」報道を訂正するべきではなかろうか。
*1 康誠賢「6月10日付『毎日新聞』記事に対する論評」
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=1156978337692100&id=100001398346271&pnref=story
*2 KBS及び聯合ニュースの報道は下記の通り。
[단독] “버마 위안부는 모두 조선인”…‘일본군 심문’ 입수[KBS]
http://m.news.naver.com/read.nhn?mode=LSD&mid=sec&sid1=102&oid=056&aid=0010135985
[취재후] 버마 전선의 위안부, “그들은 모두 조선인”[KBS]
http://m.news.naver.com/read.nhn?mode=LSD&mid=sec&sid1=103&oid=056&aid=0010135977
"미군, 조선인 일본군 포로에 軍위안부 문제 물었다"[聯合ニュース]
http://m.news.naver.com/read.nhn?mode=LSD&mid=sec&sid1=103&oid=001&aid=0007435347
軍위안부 문제 관련 진술 담긴 미군의 포로심문 문건[聯合ニュース]
http://m.news.naver.com/read.nhn?mode=LSD&mid=sec&sid1=103&oid=001&aid=0007435353
軍위안부 문제 관련 문항 담긴 미군의 포로심문 문건[聯合ニュース]
http://m.news.naver.com/read.nhn?mode=LSD&mid=sec&sid1=103&oid=001&aid=0007435350
追記(6/12)
康誠賢氏は前掲の論評の続編を自身のfacebookに投稿している。
康誠賢「6月10日付『毎日新聞』記事に対する論評(2)」
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=1157319550991312&id=100001398346271
康誠賢「6月10日付『毎日新聞』記事に対する論評(3)」
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=1157352484321352&id=100001398346271
論評(2)で康氏は次のように指摘している。
「何より、資料を新たに発掘したと公表しながら、果たして本当にそうかと左右を確かめてみなかったことも、結果的に意図したかどうかとは関係なく、このようなやり方で『毎日』に記事化したことは、研究倫理の点で責任を負うべき部分があるように見える。
率直にいえば、日本軍「慰安婦」研究者として言論に公表された韓国の資料調査発掘状況を確認しなかったことは、彼が研究者として不誠実である証拠であるか、そうでなければ、韓国などはみないでもよろしい、という[姿勢を想像させる:訳者注]ものだ(あるいは仮に韓国で調査発掘されたことを確認したにもかかわらず、今年3月に自身が発掘したと主張したのであれば、これはより深刻な問題である。そうでないことを信じたい)。」
(鄭栄桓)
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拙著『忘却のための「和解」 『帝国の慰安婦』と日本の責任』正誤表
http://kscykscy.exblog.jp/25722140/
2016-04-27T23:35:00+09:00
2016-04-28T20:18:57+09:00
2016-04-27T23:34:55+09:00
kscykscy
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研究集会「「慰安婦問題」にどう向き合うか 朴裕河氏の論著とその評価を素材に」について
http://kscykscy.exblog.jp/25697120/
2016-04-21T00:00:00+09:00
2016-04-23T01:53:01+09:00
2016-04-21T19:30:14+09:00
kscykscy
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まず経緯を整理しておこう。この集会は東京大学の外村大氏の呼びかけにより実現した。擁護(主として在宅起訴反対声明の賛同人たち。当日はA側との呼称が用いられた)・批判(『帝国の慰安婦』批判を執筆したことがあるか、その意思があると思われる者たち。B側)双方の立場から、この問題に関心があると思われる人々に参加が呼びかけられ、実行委員会が組織された(私は実行委員にはなっていない)。
当日は蘭信三、板垣竜太両氏の司会のもと、報告を西成彦(A)、岩崎稔(A)、鄭栄桓(B)、浅野豊美(A)、小野沢あかね(B)、梁澄子(B)の6人が、コメントを木宮正史(A)、吉見義明(B)、太田昌国(A)、金昌禄(B)、上野千鶴子(A)、北原みのり(B)、李順愛(A)、金富子(B)、千田有紀(A)、中西新太郎(B)の10人が行ったのち、総合討論に入った。討論では報告者がリプライを行い、その後、司会者が論点を整理したうえで総合討論に入った。
研究集会は6時間近くに及んだため、ここでその内容を要約することは不可能である。いずれ集会の記録が公開されるだろうから、関心のある方はそちらを参照されたい。また、日本語で読める記事としては『東京新聞』の報道がもっともまとまっているのでご覧いただきたい。
そもそも私がなぜこの研究集会に参加したかを説明しておく必要があるだろう。研究集会「『慰安婦』問題にどう向き合うか 朴裕河氏の論著とその評価を素材に」の呼びかけ文(外村大氏執筆)には、次のような一節がある。
「植民地支配の反省を確立し、被害者の心に届くような謝罪と補償を実現していくためには、この問題に対する関心を高め、正確な史実を伝えるためのいっそうの努力が必要となっています。そして、目標実現のためには、幅広い市民の力をまとめることが必要です。」
私は呼びかけ文のいう、「植民地支配の反省」の確立、「被害者の心に届くような謝罪と補償」、そして「正確な史実」を明らかにするための努力の必要、という問題意識に賛同し、本研究集会に臨んだ。上にあげた呼びかけ文の問題意識を前提として共有できるならば、私と『帝国の慰安婦』に対する評価の異なる人たちとも建設的な議論が可能であると考えたからである。
私は、『帝国の慰安婦』には「正確な史実」を明らかにしようという謙虚な姿勢がみられず、むしろ恣意的な史料や文献解釈により「正確な史実」の探求への道を遠ざけている、と考える。「反省」や「謝罪」「補償」などの重要な用語や概念を朴裕河氏は自分流に修正し、被害者たちの目標自体を換骨奪胎している。研究集会の報告においては、これらについて具体的な事実をあげて指摘した(詳細は拙著『忘却のための「和解」 『帝国の慰安婦』と日本の責任』世織書房、2016年を参照されたい)。
だが意外なことに、『帝国の慰安婦』を評価する側の報告者・発言者は、私のこうした批判に具体的な反論をいっさい示さなかった。私はこの一年半にわたりブログなどで『帝国の慰安婦』を批判してきた。日韓会談をめぐる朴氏の誤謬については『季刊戦争責任研究』に掲載された論文で指摘しており、私の『帝国の慰安婦』批判の論旨は予測できたはずである。実際に研究集会において西成彦氏は私のブログの記述に言及して反論を行った。また、浅野豊美氏は韓国の歴史学研究誌『歴史批評』に掲載した私の批判に触れていた。にもかかわらず、私の提起した論点について、ただのひとつも具体的な反論が示されることがなかった。大変意外であり、また、遺憾である。
私は当初、次のような主張がなされるのではないかと予想していた。『帝国の慰安婦』の命題は確かに十分に立証されてはいない。だが朴氏が言及していない他の史料や証言には、朴氏の命題を支持するような内容が含まれている。『帝国の慰安婦』は論証としては不十分だが、日本軍「慰安婦」の実像に迫っている、と。これならばまだ議論になりうるが、この種の反論すらついに示されることがなかった。
もちろん『帝国の慰安婦』の誤りや「脇の甘さ」を認める発言がないわけではなかったが、それらはいずれも極めて抽象的であり、それが具体的に何を指すのかは示されなかった。ある書物のすべてが誤っていることなどありえないから、抽象的に「誤りもある」と認めるだけでは批判に応じたことにならないのは当然である。仮にそのように考えるならば、具体的に何が「誤り」「脇の甘さ」なのかを明らかにすべきであろう。その指摘がなされず、「誤り」「脇の甘さ」はあるが評価すべき点もある(その多くは日韓和解のための意義の強調であった)、という言明を繰り返すだけでは、議論になりようはずがない。
ただ、興味深く感じたのは、上野千鶴子氏の『帝国の慰安婦』評価である。上野氏は開口一番、私のレジュメをとりあげたうえで、A側について、すべて一緒くたにしないでほしい、私は「避けて通れない書物」とは書いたが優れた本だとは言っていない、と発言した。確かにその通りである。『毎日新聞』掲載の上野氏の『帝国の慰安婦』評には、内容がいいとは一言も書いていない(ただし上野氏も賛同人である「抗議声明」は本書の内容を高く評価している)。私自身もこの点は気になっており、実際には『帝国の慰安婦』の問題点に上野氏が気づいているがゆえに、『毎日』では奇妙な紹介の仕方をしたのではないかと推測していたので、この発言を聞いてやはり内容の評価には踏み込まないのだなと思った。
だがここから上野氏は一転して、『帝国の慰安婦』の優れた点を指摘し始めた。上野氏によれば、『帝国の慰安婦』は日本の免責などしておらず、むしろ植民地支配の罪をつきつけたところにおいて日本人としての痛覚をもっともついた。戦時性暴力の普遍性に対して植民地女性という視点を持ち込んだ。私や金昌禄氏の「業者主犯説」との評価は誤読である。これが上野氏の『帝国の慰安婦』評価である。これは意外であった。私はひそかに、上野氏は『帝国の慰安婦』のほとぼりが冷めた頃に「別に評価していたわけではない。起訴に反対しただけだ」と言い出すのではないか、と思っていたので、ここまで内容に踏み込んだ評価をするとは思わなかった。しかし、上野氏は『帝国の慰安婦』が「業者主犯説」ではないとする根拠を一切示さなかった。これでは反論のしようがない、というのが正直なところである(*1)。
反論に具体性がないこと以上に私が気になったのは、『帝国の慰安婦』擁護の論者たちのなかに、批判者(私を含む)に対する印象操作をするような「反論」があったことである。例えば浅野豊美氏は自身の報告において、私の批判は「先輩」たちの枠組みを前提にしており、誤っているにもかかわらず、若くて威勢のいい朝鮮人に言われると反論できないため、周囲は贖罪意識からしぶしぶ従っているにすぎない、という趣旨の「批判」をおこなった。そして浅野氏はこれを「鄭栄桓現象」と名付けた。この主張には何らの根拠もなかった。浅野氏自身、反証可能性がないことを認めながら発言していた。「研究集会」の場でこのような憶測が述べられたことに私は驚きを禁じ得なかった。
仮に浅野氏が上のような主張をするならば、最低限以下のような手続きを経てなすべきである。私が特定の先行研究の問題意識を無批判に受容していることを指摘したいならば、「先輩」という通俗的な表現を用いず、具体的に当該の研究及び研究者を指摘すべきである。また、浅野氏の批判(「鄭栄桓現象」)が成り立つためには、(1)私の主張(『帝国の慰安婦』批判)が誤っていること、(2)周囲がそれを認知しながら贖罪意識から同意していることを立証しなければならないが、浅野氏はこれを証明しようと試みることすらなかった。浅野氏も研究者である以上、上のような手続きを欠いた批判が単なる「誹謗」にすぎないことは十分に理解できるはずである。
それゆえ私は、浅野氏がここまでの主張を表明したからには、相応の根拠があるものと考え、報告後のリプライにおいて再度二点の質問を名指しでおこなった。(1)日韓会談で韓国政府が朝鮮人「慰安婦」の個人請求権を進んで放棄したとする『帝国の慰安婦』の主張に賛同するのか、(2)朴裕河氏は浅野の研究に言及したうえで、もし個人請求権が認められれば日本は在朝鮮日本資産の請求権を主張できるようになるというが、この主張にも賛同するのか、の二点である。ほかにも問うべきことはあったが、浅野氏は日韓会談関係文書の資料集編纂者であるから、少なくともこの二点については別途の準備を経ずとも回答できると考え限定した。だがこれについても浅野氏が回答することはなかった。
もし何らの根拠なく上記のような主張を行ったのであれば、それは浅野氏自身の偏見の表明にすぎず、私のみならず『帝国の慰安婦』批判を行ったことのある人々の主体性を愚弄するものとみなさざるをえない。ひいては『帝国の慰安婦』擁護論は、朴裕河氏と同様「正確な史実」の探求には関心がないとの疑いを免れないのではないか。ここでは浅野氏の主張への言及にとどめたが、他の発言者も、西成彦氏をのぞいてはそもそも『帝国の慰安婦』の内容に触れることすら稀であった。これは集会主催者や参加者のみならず、そもそも朴裕河氏に対する敬意を欠く振る舞いではあるまいか。
冒頭に記したとおり、私は本研究集会を『帝国の慰安婦』というテクストの内容をめぐる真摯な議論の場になりうると考え参加した。だが残念ながらそのような場にはならなかった、と評価するほかない。せめて本研究集会の記録ができるだけ正確な形で公表されることを願うばかりである。
*1 『帝国の慰安婦』評価とは直接関係がないが、上野氏の発言をめぐっては印象深い一幕があった。上野氏は最後の総合討論の席上、司会が論点を二つに整理して討論に入ろうとしたところに割って入り、三つ目の論点がある、として刑事告訴への批判に合意するよう参加者たちに訴えた。私は韓国の裁判所が判断すればよい問題であると考えており、上野氏のような起訴反対の立場を採らないため合意できないと指摘した。続けて上野氏が告訴は検察がしたのだから、という趣旨の発言をしたところ会場から「違う」の声があがり一時騒然となった。すると上野氏は次の用事があるからと壇上を降りて退場した(ちなみに、上野氏が総合討論の壇上にあがった時点で、すでに終了予定時刻を過ぎていた)。このため司会が整理した論点は十分に議論することができなかった。残念である。
(鄭栄桓)
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新刊の購入方法/出版記念セミナーのお知らせ
http://kscykscy.exblog.jp/25619696/
2016-04-03T00:00:00+09:00
2016-04-04T00:48:53+09:00
2016-04-04T00:02:09+09:00
kscykscy
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拙著に関連して、2つお知らせがあります。
一つは購入方法についてです。拙著について、書店やamazonで購入できないとの連絡を少なからずいただいてます。出版社によれば、今週には書店に並ぶようですが、地域によって時間差もでると思います。現時点では、下記の世織書房のアドレス宛てに注文のメールを入れていただくのが、最も確実な注文方法です(本自体はあるのですが書店への配本が遅れているようです)。
世織書房 seori@nifty.com
お手数ですが、お急ぎの方は上記のメールアドレス宛てに注文のご連絡をお願い致します。
もう一つは、出版記念セミナーのご案内です。下記の通り、拙著の出版記念セミナーが開催されます。多くの方にご参加いただければ幸いです。
(鄭栄桓)
-----------------------転送歓迎---------------------------
【出版記念セミナー】 鄭栄桓著『忘却のための「和解」 ――『帝国の慰安婦』と日本の責任』世織書房
2014年から2015年、日韓を駆け抜けた『帝国の慰安婦』事態とは何か?
この問いに正面から挑んだ著作・鄭栄桓『忘却のための「和解」『帝国の慰安婦』と日本の責任』(世織書房、2016年)が、この度世織書房より出版されました。在日朝鮮人史研究者の鄭氏は、『帝国の慰安婦』の問題点とその背景を検証し、日本軍「慰安婦」制度についての日本軍の責任の矮小化、被害者たちの「声」の恣意的な利用、日本の「戦後補償」への誤った根拠に基づく高い評価などの致命的な問題があるにもかかわらず、なぜ『帝国の慰安婦』はこれほどまでに絶賛されたのかについて考察し、日本の言論界の知的頽落について警鐘を鳴らしています。
今回、同書の出版を記念して、著者とともに『帝国の慰安婦』事態の歴史的・思想的背景を探り、日本軍「慰安婦」問題の真の解決とは何かを考えるセミナーを開催いたします。評者には、日本の歴史修正主義言説への批判的検討を続けてきた能川元一さん、近代日本の公娼制の研究者であり、近年は日本人「慰安婦」についての先駆的な研究を発表されている小野沢あかねさん、朝鮮近代社会史研究の立場から植民地支配責任の問題について積極的に発言している板垣竜太さんをお招きしました。
『帝国の慰安婦』のみならず、広く日本の歴史修正主義や戦争責任・植民地支配責任の問題を考える有益な議論が展開されるものと思われます。ぜひご参加ください
。
●登壇者:鄭栄桓、能川元一、小野沢あかね、板垣竜太
日 時:2016年4月17日(日)13:30開場~、14:00開始~
場 所:立教大学池袋キャンパス(東京都豊島区池袋) タッカーホール講堂8号館
8201教室
資料代:1000円(一般)、700円(学生・非正規)
主催者:忘却のための「和解」書評会実行委員会
連絡先:mail:sd132005@g.hit-u.ac.jp
世織書房のページ
http://bit.ly/1SHNzDA
著者;鄭 栄桓 明治学院大学准教授 歴史学、朝鮮近現代史、在日朝鮮人史
一橋大学社会学研究科博士課程修了(社会学博士、2010年3月)。青山学院大学非常勤講師、立命館大学コリア研究センター専任研究員を経て現職。著書に『朝鮮独立への隘路 在日朝鮮人の解放五年史』(法政大学出版局、2013年)、共訳書に金東椿『朝鮮戦争の社会史 避難・占領・虐殺』 (平凡社、2008年)など。
●書評者
*能川元一:大学非常勤講師(哲学)
<主要研究業績> 共著『憎悪の広告―右派オピニオン誌「愛国」「嫌中・嫌韓」 の系譜』合同出版、2015年、「千田夏光『従軍慰安婦』は『帝国の慰安婦』においてどのように援用されたか」、『季刊 戦争責任研究』 第85号(2015年冬季号)「右派のイデオロギーにおけるネット右翼の位置づけ-道徳概念システム論による分析の試み」、『レイシズ ムと外国人嫌悪』(駒井洋監修・ 小林真生編著、明石書店、 2013年)所収など
*小野沢あかね:立教大学文学部教授 日本近現代史
<主要研究業績> 『近代日本社会と公娼制度―民衆史と国際関係史の視点から
―』 吉川弘文館、2010年。共編著「戦争と女性への暴力」リサーチ・アク ションセンター編『「慰安婦」 バッシングを越えて―「河野談 話」と日本の責任―』大月書店、 2013年。第5回女性学研究国際奨励賞受賞(2000年)第6回女性史学賞受賞 (女性史学賞選考委員会)(2012年)
*板垣竜太:同志社大学社会学部教授 朝鮮近現代社会史文化人類学
<主要研究業績> 『朝鮮近代の歴史民族誌』 (明石書店)、共著『東アジアの記憶の場』(河出書房新社)『日韓新たな始まりのための20章』(岩波書店)、 『Q&A朝鮮人「慰安婦」と植民地支配責任: あなたの疑問に答えます (FFJブックレット)
●関連記事
・日朝国交「正常化」と植民地支配責任 : 【宣伝】『忘却のための「和解」 『帝国の慰安婦』と日本の責任』(世織書房、2016年)
http://kscykscy.exblog.jp/25512248/
・『朝鮮新報』:【講演】「『帝国の慰安婦』事態と日本の知識人」/鄭栄桓
http://chosonsinbo.com/jp/2016/03/03suk-3/
・『ハンギョレ』:日本のリベラル陣営でも「帝国の慰安婦」めぐり激論
http://japan.hani.co.kr/arti/international/23733.html
・アマゾン購入ページ
http://amzn.to/1SHDd6P
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『帝国の慰安婦』すら「忘却」する朴裕河
http://kscykscy.exblog.jp/25593849/
2016-03-30T00:00:00+09:00
2016-03-30T22:40:57+09:00
2016-03-30T01:57:24+09:00
kscykscy
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ところでこの討論会の開催に先立ち、朴裕河が自身のfacebookに私の批判への反論を掲載した。これまでに輪をかけて滑稽な「反論」を展開しているので、紹介して簡単にコメントしておきたい。
朴は私が『帝国の慰安婦』を「不正確に要約し、批判するケースが多すぎる」とし、その具体例として泥憲和による以下の指摘を引く(読みやすさを考慮して適宜改行した)。
<私は韓国語版を読めないので日本語版にもとづいて語るしかないのですが、その限りにおいて、鄭栄桓氏の批判手法は、あらかじめ『帝国の慰安婦』を全否定されるべきものと措定したうえで、その結論に合わせてあれこれの断片をつなぎ合わせており、しかも不正確な引用がされているとの印象を持ちました。
引用の一例をあげれば、
鄭栄桓氏「だとしても、愛と平和が可能であったことは事実であり、それは朝鮮人慰安婦と日本軍の関係が基本的には同志的な関係だったからである。」
『帝国の慰安婦』日本語版原文「だとしても、愛と想いの存在を否定することはできない。そしてこのようなことがめずらしくなかったのは、朝鮮人慰安婦と日本軍の関係が構造的には<同志的関係>だったからである。そのような外見を裏切る差別を内包しながらも。」
「構造的」が「基本的」に、そしてカッコつきの「<同志的関係>」が平文の「同志的関係」に、さらに一センテンスがカットされています。これでは全体の論旨がまるで異なったものになります。そして鄭栄桓氏は歪められた『帝国の慰安婦』を批判しておられる。>
泥憲和はこのように、私が『帝国の慰安婦』の原文を改ざんした、と主張する。だがこれは、泥が私の『帝国の慰安婦』朝鮮語版からの引用を、日本語版からの引用と誤解したがために生じた誤りである。おそらく「朴裕河『帝国の慰安婦』の「方法」について」を読んだものと思われるが、この記事を書いた時点ではまだ日本語版が出版されていなかったため当然ながら朝鮮語版から引用した。泥の手元にある本と記述が違うのは当然である。
つまり、「「構造的」が「基本的」に、そしてカッコつきの「<同志的関係>」が平文の「同志的関係」に、さらに一センテンスがカットされ」たのは、ほかならぬ朴裕河自身が日本語版の出版に際してそのように書き換えたからである。「全体の論旨がまるで異なった」ものになったと泥が感じるのならば、その批判は朴自身に向けるべきであろう。
だが驚くべきことに、朴裕河は私が『帝国の慰安婦』を「不正確に要約し、批判するケース」の唯一の例として、この泥の非難を自ら紹介する。泥の「全体の論旨がまるで異なった」ものになったとの非難が実際には自分に向けられていることに朴は気づいていないのである。滑稽というほかない。
これまでも朴は『帝国の慰安婦』からは明らかに導き出せない主張を自著の「要約」として示し、批判者の「誤読」を非難するという驚くべき「反論」法をくりかえしてきたが、今回は度を越している。自らが日本語版に際してどのような修正を加えたのかすら「忘却」してしまっているのである。一種の「才能」というべきであろうか。
追記
以前にも書いたが、韓国では、教授の職位に無くても専任職の大学教員を「教授」と呼ぶ変な慣習がある(もしかしたら非専任職にも使うのかもしれないが、経験上、非常勤講師だった頃に「教授」と呼ばれたことはない)。『ハンギョレ』などの新聞で私の肩書(准教授)が「教授」となっているのはこのためである。韓国のこうした慣習自体いかがなものかと思うが、少なくとも日本語版の翻訳記事でどうしても職位を載せる必要があるときには正確に掲載していただきたい。
(鄭栄桓)
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【宣伝】『忘却のための「和解」 『帝国の慰安婦』と日本の責任』(世織書房、2016年)
http://kscykscy.exblog.jp/25512248/
2016-03-15T00:00:00+09:00
2016-03-30T00:48:45+09:00
2016-03-15T14:03:12+09:00
kscykscy
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この一年半にわたりブログや論文で書いてきた『帝国の慰安婦』批判の論考を大幅に加筆・修正したものですが、半分以上は新たに書き下ろしました。
この本では、『帝国の慰安婦』と礼賛論の主張をそれぞれ検証し、本書には日本軍「慰安婦」制度についての日本軍の責任の矮小化、被害者たちの「声」の恣意的な利用、日本の「戦後補償」への誤った根拠に基づく高い評価などの致命的な問題があることを指摘しました(詳しくは末尾に目次を添付しますので参照してください)。著者の朴裕河氏や擁護者たちは『帝国の慰安婦』への批判はいずれも誤読によるものであると反論していますが、こうした主張こそが本書を「誤読」しており、被害者たちの怒りには相応の根拠があるというのが私の結論です。
むしろ問われねばならないのは、これほどまでに問題の多い本書を「良心的」な本としてもてはやした、日本の言論界の知的頽廃です。なぜほとんどの日本のメディアは、日本軍「慰安婦」問題に関する日韓外相「合意」を歓迎し、違和感を示すことすらせず、むしろ嬉々として少女像の「撤去」を韓国政府に求めるのか。その思想的な背景を探るためにも、『帝国の慰安婦』の登場と日本の言論界における礼賛現象の意味を考えることは重要であると私は考えます。この本が、『帝国の慰安婦』がもたらした混乱と安易な「和解」論をただし、日本軍「慰安婦」問題のまっとうな解決とは何かを考える一助となれば幸いです。ぜひ手にとってお読みください。
3月19日のFight for Justice主催のシンポジウム「「慰安婦」問題と現代韓国 ――日韓「合意」の何が問題か 」にて販売を開始します。書店には遅くとも月末には並ぶはずです。価格や注文方法など、詳しくは添付のちらしを御覧ください。
(鄭栄桓)
『忘却のための「和解」 『帝国の慰安婦』と日本の責任』(世織書房、2016年)
目次
1 『帝国の慰安婦』、何が問題か
1.「平和の少女像」は何を待つか
2.『帝国の慰安婦』とは何か
3.『帝国の慰安婦』事態と日本の知識人
4.『帝国の慰安婦』批判の方法と課題
2 日本軍「慰安婦」制度と日本の責任
1.『帝国の慰安婦』は日本の責任を問うたか?
2.『帝国の慰安婦』の歴史修正主義「批判」の特徴
3.『帝国の慰安婦』の日本軍責任否定の「論理」
(1)「需要・黙認」責任論・業者主犯説
(2)「需要・黙認」責任論の誤り
(3)軍の「よい関与」論
(4)「国民動員」論と「自発的な売春婦」論の共存
(5)「性奴隷」説批判の問題点
(6)未成年者徴集の軽視とフェミニズム言説の借用
(7)日本の法的責任と軍の犯罪
4.挺身隊理解の混乱
(1)秦郁彦「女子挺身隊勤労令不適用」説の需要と無理解
(2)「挺身隊=自発的志願」説と「民族の〈嘘〉」論
3 歪められた被害者たちの「声」
1.『帝国の慰安婦』は「女性たちの声」に耳を澄ませたか?
2.千田夏光『従軍慰安婦』の誤読による「愛国」の彫琢
(1)「愛国」的存在論
(2)日本人「慰安婦」=朝鮮人「慰安婦」?
3.「兵士たちの声」の復権と「同志的関係」論
(1)古山高麗雄と「兵士たちの声」
(2)否定論者の言説と「同志的関係」論
4.「女性たちの声」の歪曲と簒奪
(1)証言の歪曲
(2)証言の簒奪
4 日韓会談と根拠なき「補償・賠償」論
1.被害者たちが補償を受ける機会を奪ったのは韓国政府だった?
2.〈一九六五年体制〉と『帝国の慰安婦』
(1)〈一九六五年体制〉の動揺
(2)憲法裁判理解の誤りと藍谷論文の誤読
3.日韓会談と請求権問題
(1)「慰安婦」被害者の請求権を「抹消」したのは韓国政府?
(2)「経済協力」は「戦後補償」であった?
(3)在朝鮮日本財産と個人請求権
5 河野談話・国民基金と植民地支配責任
1.『帝国の慰安婦』は植民地主義を批判したか?
2.河野談話・国民基金は「植民地支配問題」に応答したか?
(1)河野談話と植民地問題
(2)国民基金の「償い金」は実質的補償だった?
(3)クマラスワミが日本政府の「説明を受け入れた」?
3.植民地主義としての「帝国の慰安婦」論
(1)植民地支配の問題を戦争の問題に矮小化?
(2)植民地主義としての「帝国の慰安婦」論
(3)「責任者処罰」の否定と天皇の戦争責任
4.『帝国の慰安婦』と「二つの歴史修正主義」
6 終わりに=忘却のための「和解」に抗して
註
参考文献
資料1 日韓外相共同記者発表(2015年12月28日)
資料2 『帝国の慰安婦』朝鮮語・日本語目次対照表
資料3 『帝国の慰安婦』出版禁止箇所(34ヶ所)と日本語版の表現
資料4 朴裕河氏の起訴に対する抗議声明
資料5 『帝国の慰安婦』事態に対する立場
資料6 慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話
資料7 アジア女性基金事業実施に際しての総理の手紙
あとがき
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「朝鮮籍=法律上の無国籍」論の陥穽
http://kscykscy.exblog.jp/25493880/
2016-03-12T00:00:00+09:00
2016-03-12T02:02:44+09:00
2016-03-12T00:15:22+09:00
kscykscy
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この記事は総じて非常にわかりづらいが、以下の二つの主張をしていると考えられる。
(A)政府・法務省は「朝鮮籍≠北朝鮮国籍」と解するにもかかわらず、「朝鮮籍=北朝鮮国籍」との誤解に基づく自民党議員の分離集計の要望を受け容れた。これは誤解を広めることになりかねず問題である。
(B)近年の朝鮮籍者や朝鮮学校への差別を勘案すると、法務省による分離集計の開始は「朝鮮籍=北朝鮮国籍」とする「誤解」を公式見解とし、「制裁」として特別永住資格を剥奪する布石であると考えられる。
(A)についてはひとまずよいとして、(B)は根拠がなくまた筆者が何を主張しているのか判然としない(入管特例法の改悪と、朝鮮籍に関する国籍解釈の変更がどういう関係にあるのかわからない)。だが、何よりも大きなこの記事の問題は(B)のような弾圧を批判するにもかかわらず、実際にはかような弾圧を容易にしかねない「朝鮮籍」解釈を提示していることにある。
順を追って説明しよう。まず、韓は在日朝鮮人の国籍を論じる前提として、「ある人に「国籍」を付与することができるのは、当然ながら「その当該国だけ」だという基本中の基本」を確認する。おそらく外国人登録上の「国籍」欄と、実際の国籍をめぐる「誤解」を解きたいと考えたのであろうが、これでは何も言ったことにならない。
正確に書くならば次のような説明になる。当該国民の国籍の決定は、当該国の国内法による。よって、日本法を根拠とする旧外国人登録証明書や在留カード・特別永住者証明書の「国籍」表示が、ただちに当該外国人の「国籍」を意味するわけではない。誰が朝鮮民主主義人民共和国/大韓民国の国民かは、朝鮮/韓国の国内法によって決まるため、これらの書類上の「朝鮮」表示は、ただちに朝鮮民主主義人民共和国の国籍を意味するものではない。よって、「朝鮮籍=北朝鮮国籍」は誤解である。こう書くべきであろう。
ただし、「朝鮮籍=北朝鮮国籍」は誤解である、という主張にはそれこそ「誤解」を招く余地があり、補足の説明が必要である。確かに、在留カード/特別永住者証明書「国籍」欄の「朝鮮」表示は、朝鮮民主主義人民共和国を意味するものではない。だが、これは「朝鮮」籍者を含む在日朝鮮人に朝鮮民主主義人民共和国国籍者がいないことを意味するわけではない。つまり、「朝鮮籍≠北朝鮮国籍」は正しいが、だからといって朝鮮籍者≠朝鮮民主主義人民共和国国民である、となるわけではない。両者を混同してはいけない(*1)。
いずれにしても、朝鮮籍者の法的地位をめぐる最大の問題は、その「当該国」とはどこか、であるといってよいだろう。朝鮮は分断国家であるため、朝鮮民主主義人民共和国・大韓民国の国籍法によれば、少くとも実体法上は朝鮮籍者はいずれの国民でもあり、朝鮮・韓国の双方が「当該国」である可能性がある。
問題となるのは当事者たちの意思である。世界人権宣言には「すべて人は、国籍を持つ権利を有する。」「何人も、ほしいままにその国籍を奪われ、又はその国籍を変更する権利を否認されることはない。」との規定がある(第十五条)。これを「国籍への権利」と呼ぶならば、いかなる「国籍への権利」を朝鮮籍者たちが求めているのかが重視されねばなるまい。朝鮮籍の当事者たちの意思を基準に考えた場合、「国籍への権利」の対象となる「当該国」はどこかについて、おそらく三つの考え方が存在するものと思われる。
第一は当該国=朝鮮民主主義人民共和国であるという立場である。韓の記事が指摘するように、この立場の人々に対し、朝鮮政府は旅券を発給し国籍を認めている。だが、日本政府は分断国家のうち大韓民国政府とその国籍のみを承認し、朝鮮政府と国籍を認めないため、朝鮮を「当該国」と考える在日朝鮮人の当事者たちの「国籍への権利」は阻害されている状況にある。
第二は当該国=朝鮮民主主義人民共和国+大韓民国であるという立場である。だが韓国政府は「朝鮮」籍のままでの韓国国籍(旅券)取得を手続上は認めないため、朝鮮籍でありかつ南北朝鮮の旅券を有する、ということは事実上不可能である。
第三は、分断国家の過渡的状況ゆえに、現状のままでは両政府のいずれも「当該国」と認めない立場である。両政府が協議し、統一を念頭に(かつ分断を前提としないかたちで)在外同胞の国籍と法的地位問題を解決しようとする動きはいまのところまったく存在しないため、この人々の「国籍への権利」の実現も、実際には極めて困難な状況下にある。
これら三つの立場はおそらく截然と分かれているわけではなく、個人のなかに複数の立場や考え方が折り重なっているのが現実であろう。だが間違いなくいえることは、「国籍への権利」という視点から整理した場合、わずかに旅券を発給される朝鮮民主主義人民共和国の国籍への権利にしても日本政府がその実現を実質的に阻害しているため、いずれの立場であろうとも朝鮮籍者の場合は「国籍への権利」の実現が困難であるということである。
だが韓東賢は、これらいずれの立場でもないようである。韓は朝鮮籍者の「旅券」問題について、次のように主張する(下線は引用者。以下同じ)。
「日本における「朝鮮籍」は北朝鮮国籍ではないが、無国籍同然のいわばある種のブラックボックスであることが、韓国、北朝鮮、そして日本の各国政府が、いずれも「都合よく」事実上の「北朝鮮」籍とみなせる余地となっている。韓国政府は入国に制限を加え(2000年の南北共同宣言から2008年の政権交代までは一時的に緩和)、北朝鮮政府は自国の海外公民とみなしている(朝鮮総連を通じて旅券の発給も行っている)。
とくに韓国側のスタンスは南北分断による悲劇だと言えるが、この件でもっとも責任が重いのは日本政府だろう。物理的にも制度的にも「朝鮮籍」の人が存在するという事態をもたらしたその張本人が、事実上の無国籍扱いで放置していることだけでそもそも不当なのだ。朝鮮籍者が自由に国外を移動できる旅券を発給すべきだとしたら、それは日本政府だろう。」
ここからもわかるように、韓は日本政府こそが朝鮮籍者に旅券を発給すべきである、と主張する。この立場を敷衍すれば、朝鮮籍者の「当該国」は日本である、という主張を展開していることになる。前述のいずれとも異なる、第四の立場である。
なぜこのような解釈になるのか。韓の主張する「無国籍」論の特徴を明確化するためにも、ここで、そもそも「無国籍」とはいかなる状態なのかを確認しておこう。一般に、無国籍には(1)法律上の無国籍と(2)事実上の無国籍という二つの範疇があるといわれる。阿部浩己の整理を引こう(『無国籍の情景 国際法の視座、日本の課題』8頁。リンク先はpdf)。
「国際法における最も一般的な無国籍者の定義は、1954 年の「無国籍者の地位に関する条約」(無国籍者条約)第 1 条 1 項に、次のように簡明に記されている。「『無国籍者』とは、その国の法律の適用によりいずれの国によっても国民と認められないものをいう」。この定義は、1961 年の「無国籍の削減に関する条約」(無国籍削減条約)にもそのまま引き継がれている。
人は、出生の時点において、出生地国または父/母の国籍国の法令(憲法、国籍法、行政命令など)の適用により、自動的にその国の国民と認められるのが原則であるが、なかには、いずれかの事情のため、出生時にいずれの国籍も取得できない者がいる。また、自らの国籍を、事後になんらかの事情によって喪失し、新たな国籍を取得できないままの者もいる。こうした人々は、無国籍条約の想定する典型的な無国籍者にほかならず、法律上の無国籍者 ( de jure stateless person/s) と称されるのが一般的である。
これに対して、法形式的にはいずれかの国籍を有しており、したがって法律上の無国籍者とはいえないものの、国民として享受しうるはずの保護・援助を国籍国から受けられない状態におかれている者もいる。こうした人々は実効的な国籍 (effective nationality) を欠く者として、事実上の無国籍者 (de facto stateless person/s) と称される。同様の問題は、国籍を有する国に入国や滞在を許されない場合にも起こり得る。」
阿部の整理をふまえれば、第一~第三の立場は、朝鮮籍の在日朝鮮人は(2)事実上の無国籍者であると解釈する主張ということになろう(ただし、阿部自身は朝鮮籍者は無国籍者ではないとの立場である)。実体法上は南北双方の「国民」であるため「法律上の無国籍者とはいえないものの」、結果として「国民として享受しうるはずの保護・援助を国籍国から受けられない状態におかれている」からである。実体としては朝鮮・韓国国籍であるが、日本・韓国政府の政策の結果、その権利を享受できない。それゆえ「無国籍状態」だという理解である。
だが韓の立場は、朝鮮籍を(1)法律上の無国籍とみなすものといえよう。韓は次のように記す。
「「朝鮮籍」は北朝鮮の国籍ではない。植民地時代の朝鮮半島というエリアにルーツがあることを示す、「記号」である。そして単に、1948年[ママ]の外国人登録令以来変更しなかった人とその子孫が、今も「朝鮮籍」なわけだ。理由は様々であろう。その内心を知る由はない。」
韓の主張は朝鮮籍がただちに「北朝鮮国籍」を意味しない、という主張にとどまらない。それをふみこえて、そもそも朝鮮籍者は「無国籍」であり、かつこの人々はあらゆる意味において「北朝鮮国籍」ではないと主張しているように読める。「事実上の無国籍」という表現を使っていながらも、実際には「出生時にいずれの国籍も取得できない」「自らの国籍を、事後になんらかの事情によって喪失し、新たな国籍を取得できないままの者」、すなわち「法律上の無国籍者」と朝鮮籍者をみなしているのである。
こうした「朝鮮籍=法律上の無国籍」論の解釈を、韓がくり返す「ある人に「国籍」を付与することができるのは、当然ながら「その当該国だけ」」という「基本中の基本」にあてはめるとどうなるか。朝鮮籍は法律上の無国籍者であり、日本政府が旅券を発給すべきとの解釈を採るわけであるから、少くとも理屈のうえでは、朝鮮籍の在日朝鮮人に「「国籍」を付与することができるのは、当然ながら日本だけ」ということになってしまう。つまり結果として、朝鮮籍在日朝鮮人の国籍問題は、日本政府の専権事項であると主張していることになるのである。
冒頭で(B)のような弾圧を批判しながら、実際にはかような弾圧を容易にする「朝鮮籍」解釈を提示しているとしたのは、この点に関わる。朝鮮籍在日朝鮮人の国籍問題を日本政府の専権事項とする解釈は、前述した「様々」な「国籍への権利」を主張する基盤を覆すことになる。むしろ「法律上の無国籍者」とみなすことで、日本政府に朝鮮籍者の法的地位を委ねる結果を招来しかねない。建前としては朝鮮籍者の「国籍への権利」を認めないにもかかわらず、実体としては朝鮮民主主義人民共和国への「制裁」の対象として諸権利を制約・侵害する法運用を制約する法理論にもなりえず、むしろさらなる弾圧の道を開くであろう。そのうえ、日本政府が朝鮮の「国民として享受しうるはずの保護・援助を国籍国から受けられない状態」に置いている責任も無化してしまう。
おそらくこうした批判は韓にとって予想外のものであろう。「理由は様々であろう。その内心を知る由はない」とあえて記したのは、朝鮮籍者の心情の多様性に留意してのことであろうし、朝鮮籍者の法的地位の悪化を容易にするような法解釈を意図的に示したとも思わない。だが韓が示した解釈は、それこそ「様々」な立場から「国籍への権利」を希求する朝鮮籍者の実践を、極めて狭隘かつ当事者たちの意に反する立場へと押し込め、さらには分離集計を推し進める自民党議員らが望む「制裁」を容易にしかねない危うさがあると私は考える。不用意ゆえとしても到底看過できるものではないと考え、批判を記した次第である。
*1 この論点については、下記の記事もあわせて参照されたい。
「在日朝鮮人に北朝鮮国民は一人もいない」のか――共産党の在日朝鮮人認識の問題
http://kscykscy.exblog.jp/13229858/
狭まる土俵――排外主義運動と「日本国籍剥奪」論について
http://kscykscy.exblog.jp/23548416/
(鄭栄桓)
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【紹介】朴裕河「法的責任のドグマから抜け出ねば」(『ハンギョレ』2016年2月5日付)
http://kscykscy.exblog.jp/25342508/
2016-02-09T00:00:00+09:00
2016-02-13T00:33:37+09:00
2016-02-09T22:25:37+09:00
kscykscy
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基本的には『帝国の慰安婦』で展開したのと同様の、(1)業者主犯論(=「戦地公娼施設論」)、(2)軍の「よい関与」論、(3)自発的売春婦論、(4)未成年徴集例外論に基づく日本軍の責任否定論である。これらの責任否定論を、自分は多様性を明らかにしただけだ、自分への批判者が売春の前歴がない未成年徴集を強調するのは売春差別意識があるからだ、といった論点のすりかえと、「法」云々の詭弁によってカモフラージュしているのが、以下の「反論」である。
新しさがあるとすれば、「業者=軍属」論という、自説を根底から覆す主張(事実ならば、軍が直接関与した証拠である)が強調されていることくらいであろう。これは日韓会談で「慰安婦」被害者の個人請求権を韓国政府が放棄した、という主張への私の批判に「反論」するために、朴が最近言い出したことである。(「朴裕河の「反論」を検証する――再論・『帝国の慰安婦』の「方法」について(4)」参照)。この主張を採用することが、従来の自らの主張と矛盾することに朴は気づいていないのだろう。なお「学界」云々の朴の研究史理解は基本的に間違っているので気をつけて読まれたい。
余裕があれば論評するが、問題点を見抜くのはそう難しくないはずである。結局のところ「慰安所」制度が戦争犯罪だという認識が皆無なのである。ただ、永井の主張が「強制連行」否定論の「論拠」にされてしまっているのはあまりに気の毒である。おそらく本人が読んだら仰天するのではないだろうか。朴裕河の仕事は一事が万事この調子だから、引用された者はいい迷惑である。なお、史料引用らしき「」内の文言は、いずれも不正確であるため[ママ]とした。読みやすさを考えて適宜改行してある。
追記(2/12)
『ハンギョレ』日本語版に記事が掲載されたので、翻訳は削除した。引用などの際は下記を参照されたい。
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/23303.html
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論壇予報:「『帝国の慰安婦』実は大したことないと思ってた」現象の始まり
http://kscykscy.exblog.jp/25304035/
2016-01-27T00:00:00+09:00
2016-01-27T15:10:30+09:00
2016-01-27T14:44:12+09:00
kscykscy
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「愚かな約束」を前提にすべきではない――日本軍「慰安婦」問題解決全国行動声明に寄せて
http://kscykscy.exblog.jp/25231666/
2016-01-02T00:00:00+09:00
2016-01-02T17:53:49+09:00
2016-01-02T03:58:39+09:00
kscykscy
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第一の路線の特徴は、繰り返しになるが、「合意」を前提にすることである。この路線を代表する和田春樹のコメントを引こう。
「日本政府が謝罪の意味を込めて10億円の公金を支出し、財団が作られることは前進と言える。問題は、日本の謝罪が元慰安婦たちの心に届き、納得して受け取ってもらえるかどうかだ。私は1990年代から問題解決に当たってきたが、元慰安婦の約3分の2が償い金の受け取りを拒んだ。元慰安婦たちは今回の岸田外相の記者会見では、日本側の謝罪のトーンをくみ取ることはできなかったのではないか。今後、安倍首相が謝罪の気持ちを分かりやすく示さないと、彼女たちにまで気持ちが届かない可能性がある。高齢で入院している人もおり、お金ではなく人生を狂わされたことへの謝罪を求めている。韓国で活動する支援団体がどう反応するのか、韓国の世論がどう動くのか見通しはつかず、問題が収束するかどうか現段階では分からない。」
すなわち、「合意」を「前進」と評価し、今後の「解決」の大前提としながらも、日本側の「謝罪のトーン」が被害者たちに理解されていない、「気持ち」を届ける努力をすべき、というのが和田の主張である。この立場からみると、残された問題は日本側の「謝罪の気持ち」の示し方、そして、被害当事者たちの受け取り方だということになる。こうした和田の立場は日本政府を補完するものといえよう。
だが、私はこうした第一の路線は「合意」についての過大評価に基いており、採用すべきではないと考える。二つの路線は一見似通っているが、三項目「合意」後の運動、とりわけ韓国における被害当事者たちとその支援者の闘いを考えるうえで、看過しがたい違いがあると考える。そして、この路線は和田春樹以外にも、とりわけ日本の支援団体にみられる立場である。以下に日韓外相会談に対する日本軍「慰安婦」問題解決全国行動の声明「被害者不在の「妥結」は「解決」ではない」(以下、全国行動声明)をとりあげ、その理由を示したい。
第一の問題は、日本側声明にある「責任」の解釈である。全国行動声明は日本政府の責任について次のように指摘する。
「2, 日本政府は、ようやく国家の責任を認めた。安倍政権がこれを認めたことは、四半世紀もの間、屈することなくたたかって来た日本軍「慰安婦」被害者と市民運動が勝ち取った成果である。しかし、責任を認めるには、どのような事実を認定しているのかが重要である。それは即ち「提言」に示した①軍が『慰安所』制度を立案、設置、管理、統制した主体であること、②女性たちが意に反して「慰安婦」にされ、慰安所で強制的な状況におかれたこと、③当時の国際法・国内法に違反した重大な人権侵害であったことを認めなければならないということだ。「軍の関与」を認めるにとどまった今回の発表では、被害者を納得させることはできないであろう。」
果たして今回の日本側声明は、「国家の責任を認めた」と評価できるものなのだろうか。全国行動声明が問題にしたのは、今回の「合意」のうち岸田外相発表の(ア)「慰安婦問題は,当時の軍の関与の下に,多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり,かかる観点から,日本政府は責任を痛感している」である。だが、すでに多くの指摘がある通り、日本側声明の文言は河野談話を継承したものである。河野談話に「責任」の語はないが、今回の日本側声明の文言は日本軍「慰安婦」制度が日本による戦争犯罪であることを認めたうえでの法的責任を意味しない。
この問題を考えるにあたり、今回の日本側声明の「責任」の意味を理解する助けになるのは、『世界』2016年1月号に掲載された和田春樹の論文「問われる慰安婦問題解決案 : 日韓首脳会談以後を展望する」である。和田は「法的責任」をめぐる対立をふまえ、次のように提案した。
「第一条件[朴槿恵大統領の提示した「被害者が受け入れ、韓国国民が納得できる」案という条件:引用者注]はまさに問題の核心である。これに対して日本政府が出している条件は三つであるように思われる。第一は、日韓条約時の協定で請求権問題は「解決済み」となっているので、法的責任という論理を使うことはできないということである。それなら「法的」な措置をとると言わなければいいのである。」(238頁)
外務省が和田の提案を受け容れて「責任を痛感」の文言を採用したかどうかはわからない。ただ、すでに和田論文が紹介するように、2012年には日韓両政府の間で従来の「道義的責任を痛感」という文言を避け、「責任を痛感」とする謝罪文を作成することで「合意」していた。和田論文が2012年の「合意」を外務省に想起させる目的で書かれたことは明らかである。「法的責任」とも「道義的責任」とも明記しない「責任を痛感」という表現を採用することで、日韓双方が国内向けには自らに都合のいい説明をできるような文書を作成したのである。
はっきりしていることは、「責任を痛感」という文言には、日本政府が法的責任を認めたという含意はない、ということである。むしろ法的責任の認定を回避するために挿入された文言と解釈するのが妥当である。この点で1995年の国民基金以来の日本政府の立場は本質的には変わっていないと考えるべきであろう。
このようにみた時、全国行動声明の「日本政府は、ようやく国家の責任を認めた」という評価は、被害当事者や支援団体の運動の成果を謳う文脈で記されたものであることを差し引いても、日本側声明における「責任」の語の、それこそ責任回避的な文脈を看過させるものといわざるを得ない。確かに日本政府の事実認定は全く曖昧であることは間違いない。そしてそれは「責任」という曖昧な語の使用の必然的な帰結なのである。日本政府が10億円を「賠償」ではないと明言するのは当然といえば当然のことである。
同様の問題は「女たちの戦争と平和資料館」(wam)の「日韓外相の政治的妥結に対するwamからの提言」にもいえる。「提言」は、「最終的かつ不可逆的に合意」を「愚かな約束」と評するにも拘らず、「政治的「妥結」を、被害者が受け入れ可能な「解決」につなげる道を、時間がかかっても丁寧に探っていきたい」として、「合意」を前提とした「解決」という路線に立ってしまっている。その上で、「日本政府は、責任に「道義的」といった限定をつける報道に反駁し、それ以上でもそれ以下でもない「責任」を痛感していることを繰り返し表明しなければならない」と提言をする。
だが問題は「道義的」をつけるかどうかではない。「責任」という語は、上の和田論文で明確に指摘されているように、手垢のついた「道義的責任」を用いることにより生じる反発を回避するために作られた用語なのである。「責任」の語の不明瞭さを衝き、「合意」の前提そのものを問い直す作業こそが必要なのではないか。
「責任」に関するこうした過大評価と密接に関連する全国行動声明の第二の問題が、以下の第六項である。
「6, 日本政府は、被害者不在の政府間の妥結では問題が解決しないことを認識し、以下のような措置をとらなければならない。
① 総理大臣のお詫びと反省は、外相が代読、あるいは大統領に電話でお詫びするといった形ではなく、被害者が謝罪と受け止めることができる形で、改めて首相自身が公式に表明すること。
② 日本国の責任や河野談話で認めた事実に反する発言を公人がした場合に、これに断固として反駁し、ヘイトスピーチに対しても断固とした態度をとること。
③ 名誉と尊厳の回復、心の傷を癒やすための事業には、被害者が何よりも求めている日本政府保有資料の全面公開、国内外でのさらなる資料調査、国内外の被害者および関係者へのヒヤリングを含む真相究明、および義務教育課程の教科書への記述を含む学校及び一般での教育を含めること。
④ アジア・太平洋各地の被害者に対しても、国家の責任を認めて同様の措置をとること。」
私が全国行動声明を第一の路線、すなわち「合意」を前提に、「責任」の具体化を日本政府に求める路線であると考えるのは、この第六項ゆえである。果たして問題は首相がお詫びをする形式の問題であろうか。外相に代読させたことは確かに破廉恥である。だがそれは今回の「合意」の本質をむしろ日本政府が率先して示してくれた行為なのではあるまいか。安倍が来てひざまずこうが、今回の「合意」の欺瞞性は変わらない。むしろ「合意」を前提にするならば、安倍の破廉恥な行為ゆえに明確になった本質を糊塗することになりかねない。かかる行動の要求は、「合意」の撤回とセットでなければ意味がない。
「合意」を前提にすることは、少女像を撤去し、財団を作り10億円を受け取ることを意味する。「今回の発表により,この問題が最終的かつ不可逆的に解決されることを確認する」ことが発表されているのである。「wamからの提案」のいうとおり、これは「愚かな約束」である。そして「愚かな約束」であるならば、これを前提にすべきではない。「合意」を前提にして、いかなる義務を日本政府に課すことができるだろうか。残念ながら、日本の市民運動にそのような力はないし、そもそも「合意」の論理的帰結として、そのようなことは不可能である。さらに、④に至っては今回のような法的責任回避の「責任」論を、他のアジア諸国の被害者にも適用することにつながることになろう。「wamからの提言」も全く同様の問題を含んでいる。
最大の問題はこれらの日本側の支援団体の「合意」を前提にした声明が、現在「合意」を前提とせず、その破棄をふまえて少女像の前で闘おうとしている被害当事者や挺対協をはじめとする韓国の人びとの運動、すなわち第二の路線にとって、大きな制約になる可能性が高いことにある。声明の「合意」を前提にする立場は、極めて困難な韓国の政治状況のなかでより普遍的な視野に立ち原則的な抵抗を試みている人びとを、韓国内の運動に孤立させることになりかねない。これらの声明はこうした意味で、単に不十分なのではなく、被害当事者や挺対協の運動の障害になりかねないのである。
「政府の間違った拙速な合意を受け入れないならば、政府として被害者が生きているうちにこれ以上どうにかする余地がないという言葉は、説得ではなく脅迫に近いものだ」という、挺対協の論評の一節は、直接には朴槿恵大統領を対象としたものだが、日本人たちにも向けられていることを忘れてはならない。日本のマスメディアがくり返す「対話」は、ここでいうところの「脅迫」である。「合意」を前提とすることは、こうした「脅迫」の列に加わることになりかねない。仮に挺対協が第一の路線をとるようになれば、いかに日韓の両政府に対して批判的であったとしても、被害当事者に納得してもらう役割を引き受けること、つまり「合意」の路線を補完する役割を担うこととなる。当事者たちの運動に支援運動が制約をかけるということは、絶対にあってはならないのではないか。
何ら支援運動に貢献したことのない私がこうしたことを書くことの僭越さは承知している。ただそれを承知で、以下に二つのことを求めたい。
第一は、「全国行動」及びwamはこれらの声明・提言を再検討し、「合意」を前提とした箇所を撤回すべきである。見直した上で仮に新たな提言を出すならば、挺対協等の韓国の支援団体と協議のうえで、明確に「合意」を拒絶したうえでの、日本政府の戦争犯罪の責任追及のための提言を出すべきである。これは、現になされている被害当事者や支援団体の要求を阻害しないために、最低限必要な行動であると考える。
第二は、「被害当事者が受け入れられる解決」という言葉に代わる目標を掲げることである。もちろん被害当事者を無視せよ、と言いたいわけではない。むしろ「被害当事者」を押し出すことが、現状においては逆に当事者たちを苦境に追い込みかねない構図が生まれていることを危惧してのことだ。日韓両政府の政治的「合意」がなされた今日、「被害当事者が受け入れられる解決」という言葉の下で、日韓両政府の攻略(日本のマスメディアが「対話」と呼ぶもの)の矛先が、個々の被害当事者に向かうことは必至である。朴裕河がやろうとして失敗したこと――当事者と支援団体の分断――を、今度は韓国政府がやろうとするだろう。日本と韓国という二つの国家に対し、このレトリックは被害当事者たちを矢面に立たせる逆効果を生み出してしまうのである。
必要なのはどのような言葉なのであろうか。この局面において、問われているのは被害当事者のみならず、「私たち」、とりわけ日本にいる者たちが日本軍「慰安婦」制度を、普遍的な規範に基づき自らの問題として考え、いかなる責任を日本に追及するのかではあるまいか。「被害当事者が受け入れられる解決」という言葉は、被害当事者や挺対協の極めて原則的な姿勢に支えられていたがゆえに、日本の戦争犯罪の責任を追及することと同義でありえた。だがもう一歩進んで、日本人たちが自らの言葉で、日本軍「慰安婦」制度は戦争犯罪であり、日本は「不可逆的」にその責任を認めよ、と主張することが、他ならぬいま求められているように私には思う。これは極めて喫緊の課題である。
今回の「合意」は、国民基金失敗の「教訓」を表面的にのみ学び、「被害当事者が受け入れられる解決」という言葉を逆手に取って、新たなマジックワード(「責任」)で本質的な対立を覆い隠そうとしたものであり、いわば〈安倍晋三=和田春樹路線〉の帰結と考える。〈安倍晋三=和田春樹路線〉の「愚かな約束」を前提にせず、原点に立ち返ることが求められているのではないだろうか。
(鄭栄桓)
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日韓三項目「合意」と異論封じ込め「外注」の構造
http://kscykscy.exblog.jp/25222513/
2015-12-30T00:00:00+09:00
2015-12-30T13:19:35+09:00
2015-12-30T03:52:05+09:00
kscykscy
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「嘘のように、慰安婦問題が妥結された。政府同士も始まる前から喧しかったため、まさかと予想もできなかった。
ただ社会的合意という意味での「解決」へと行くまでは、もう少し時間がかかりそうだ。すでに支援団体と当事者間の異見すらみえる。あまりに急いだ感がある。
こういうことがないよう、私は対立する者たちが一箇所に集まる協議体を作り、いくつかの論点について討論し、その論議を言論と関係者らに公開して当事者と両国国民が「認識における合意」を見つけ出せることを願った。その結果に基づき解決策を探れるように。
(「国会決議」があることを望んだが、それは慰安婦問題のみならず植民地支配全般に対するものであるため、できることをしながら待たねばなるまい。)
いずれにしても決定した以上、もはや残ったことはこうした決定がどれほど正当なのかについて検討し、遅くなったとはいえ納得に基盤した国民的合意に至ることであろう。慰安婦のハルモニたち「当事者」の考えと選択とは別に。
日本の場合は今日の決定に反対する人々は新たな謝罪/補償に否定的だった一部右翼と支援者たちの一部であるようだ。言わば大多数の日本国民たちは日本政府の謝罪と補償に共感する。
よって今後重要になることは、韓国の言論と世論だろう。政治的立場を離れ、この問題について考えて判断することが必要だ。左右に分かれるのではなく、ただ合理的でありながら倫理的な判断に到達できればよいだろう。
慰安婦問題のみならず、他の国内問題でもこういうことが可能になれば、分裂と対立で消耗しない共同体作りも可能ではないだろうか。そういう日を私は依然として夢見る。
慰安婦問題が突然妥結した日に。」
私は、朴裕河のこうした評価は、今回の「合意」のはらむ問題を隠ぺいするものであると考える。
第一に、朴裕河は今回の10億円拠出を「補償」と位置づけているが(「大多数の日本国民たちは日本政府の謝罪と補償に共感する」)、誤りである。すでに報道されているように、日本政府関係者は今回の「合意」における「責任」は法的責任を意味しないと語っている。もちろん三項目の「合意」でも補償などという言葉は使われていない。『帝国の慰安婦』において、朴裕河は「補償」「賠償」という語を、極めて不正確かつ恣意的に用いていることにより、あたかも戦後の日本政府が「補償」「賠償」を支払ってきたかのような誤解を拡散させたが、今回も同様の過ちをくり返している。
そもそも、日本軍「慰安婦」問題の解決を訴えて被害当事者たちが名乗り出たとき、彼女たちが求めたものは何であったか。日本が戦争犯罪であることを認めて謝罪・補償し、被害者たちの回復に努め、真相を究明し、歴史教育の場で未来の世代にその過ちを語り継ぎ、二度と同じことを繰り返さないと誓い続けることではなかったか。
だが被害者たちの訴えの後に起きたことは真逆の事態であった。責任ある立場の者たちが「大日本帝国」の過ちを認めずに臆面もなく開き直り、それどころか被害者たちを侮辱し続けた。驚くべきことに、2015年現在においても公文書を焼却した人物が全国紙でそれを誇る記事が載るのである。かつて罪を犯したのみならずその罪を上塗りしようとする日本に、そのような振る舞いをやめさせ、反省させること。この「日本問題」こそが、「解決」すべき事柄であったはずだ。
昨日の日韓両政府の「合意」はこうした「日本問題」の解決とはほど遠いものであった。確かに河野談話を継承する文言は「合意」に入った。だが河野談話が存在しようが、日本の政治家たちは幾度と無く妄言を繰り返してきた。それは、かつて吉見義明が指摘したように、そもそも河野談話の文言自体に、慰安婦の徴集、軍慰安所制度の運用主体が業者であったかのように読める余地が残されており、国際法違反・戦争犯罪との認識が示されていないからではなかったのか(吉見義明『従軍慰安婦』岩波新書、1995年)。国民基金が被害者たちから拒否されたのも、河野談話と同じく、国家責任と戦争犯罪との認識を曖昧にした「解決」案だったからである。
だが、朴裕河は『帝国の慰安婦』において、むしろ経済協力や「償い金」を「補償」と呼ぶことで1990年代の過ちを日本社会が直視する責任を解除する役割を果たした。「合意」において、日本政府は日本軍「慰安婦」制度が戦争犯罪であることを認めてはいない。「責任を痛感」云々についても法的責任とは認めておらず、加害責任を前提とした賠償を支払うことも明記されていない。歴史教育への言及に至っては一切ない。にもかかわらず、名目の不明な財団への10億円の予算拠出により、この問題が「最終的かつ不可逆的」に解決したと韓国政府に確認させた。原点において問われていたことは、何も解決していないのである。朴裕河は今回の10億円拠出案を「補償」などと不正確に呼ぶべきではない。
なお、当然のことであるが、当事者たちや挺対協をはじめとする支援団体からは早速「合意」への批判の声があがっている。挺対協ほか114団体の声明は真っ当にも以下のように指摘した。私はこの声明に全面的に賛同する。
「やっと日本政府が責任を痛感したと明らかにはしたが、日本軍「慰安婦」犯罪が日本政府および軍によって組織的に行われた犯罪だという点を、今回の合意から見出すことは難しい。関与レベルではなく日本政府が犯罪の主体だという事実と、「慰安婦」犯罪の不法性を明白にしなかった。また、安倍首相が日本政府を代表し内閣総理大臣として直に謝罪しなければならないにもかかわらず、「代読お詫び」に留まり、お詫びの対象もあまりにあいまいで「誠意のこもった謝罪」だとは受け入れ難い。
また今回の発表では、日本政府が加害者として日本軍「慰安婦」犯罪に対する責任認定と賠償などの後続措置事業を積極的に履行しなければならないにもかかわらず、財団を設立することでその義務を被害国政府に放り投げて手を引こうという意図が見える。そして、今回の合意は日本内ですべき日本軍「慰安婦」犯罪に対する真相究明と歴史教育などの再発防止措置に対しては全く言及しなかった。
何よりこのあいまいで不完全な合意を得るため韓国政府が交わした約束は衝撃的である。韓国政府は、日本政府が表明した措置を着実に実施するということを前提に、今回の発表を通じて日本政府とともにこの問題が最終的および不可逆的に解決することを確認し、在韓日本大使館前の平和の碑について公館の安寧/威厳の維持のため解決方法を探り、互いに国際社会で非難/批判を控えるというものだ。小を得るため大を渡してしまった韓国政府の外交は、あまりにも屈辱的である。」
ところが、朴裕河はこうした「合意」への異論を、プロセスの拙速さの問題にすり替えている。「もはや残ったことはこうした決定がどれほど正当なのかについて検討し、遅くなったとはいえ納得に基盤した国民的合意に至ることであろう。」という極めて朴裕河的なセンテンスにおいて、前段では決定の正当性自体を再検討する可能性を朴裕河が認めているかのように記しているが、もちろん決定を覆すことなど想定していないだろう。決定を前提に、「遅くなったとはいえ納得に基盤した国民的合意に至る」ことを促しており、当然こちらにこそ朴裕河の意思が示されている。とにかく「合意」内容を前提に、様々な方法を用いて当事者や挺対協を「合意」させていこう、というわけだ。
おそらく「合意」がもたらす最大の問題はここにある。今回の「合意」において韓国政府は当事者の説得と少女像の日本大使館前からの撤去も含めた交渉の担当、という役割を引き受けた。いわば日本政府は、異論の封じ込めを韓国政府に「外注」したのである。もはや日本政府には、自ら交渉する手間すら存在しない。韓国政府と当事者たちが揉めるのを高みの見物していればよいのである。日本政府は問題を韓国の国内問題にすり替えてしまった。「合意」に異論のある者たちは、今後は日本政府のみならず、その前に立ちはだかる韓国政府をまずは相手にせねばならない。朴裕河的「和解」がもたらした異論封じ込め「外注」の構造である。
予想通りというべきか、日本の大手メディアの論調は基本的には問題「解決」への歓迎一色である。「外注」の旨みをよくわかっているのだろう、韓国政府に対し、少女像移転も含めた合意事項を「支援団体」に受け容れさせよ、と口をそろえて注文をつけている。『毎日』『朝日』の社説を引いておこう。
「ただし、画期的な合意であっても不満を持つ人々は残る。そうした時に大局的見地から国内をまとめていくのが政治指導者の役割だ。/韓国政府は、日本が強く問題視する在韓日本大使館前に建つ少女像の撤去にも前向きな姿勢を見せた。韓国で慰安婦問題の象徴になっているだけに簡単ではなかろう。真の和解につながる歴史的合意とするためには、まだ多くの作業が残っている。日韓両国が互いを信頼し、協力していかねばならない。」(『毎日新聞』2015/12/29社説)
「両政府とともに、元慰安婦たちの支援者ら市民団体、メディアも含めて、当時の教訓を考えたい。/新たに設けられる財団の運営のあり方については今後、詰められる。何より優先すべきは、存命者が50人を切ってしまった元慰安婦たちのそれぞれの気持ちをくむことだろう。/韓国の支援団体は合意について「被害者や国民を裏切る外交的談合」と非難している。日本側からもナショナリズムにかられた不満の声がでかねない。/だが今回の合意は、新たな日韓関係を築くうえで貴重な土台の一つとなる。日本政府は誠実に合意を履行し、韓国政府は真剣に国内での対話を強める以外に道はない。」(『朝日新聞』2015/12/29社説)
「外注万歳!」というところだろうか。「対話」云々と耳障りのいい表現は使っているが、両紙とも日韓の「合意」を覆す選択肢などはなから想定していないのであるから、結局のところ「合意」事項の押しつけに他ならない。ただ、日本の識者や報道の論調は多かれ少なかれこの調子だ。対協を韓国政府がしっかり黙らせてくれるのを期待しているのであろう。
もちろん言うまでもないことだが、このような日本の「世論」づくりに最も貢献したのは朴裕河自身である。『和解のために』『帝国の慰安婦』で日本を批判する被害当事者たちや挺対協、そして何より少女像を批判し、「和解」の障害扱いをし続けたのは、他ならぬ朴裕河であった。『帝国の慰安婦』が日本軍「慰安婦」問題の認識の深まりに貢献したことは何一つなかったが、挺対協が「和解」の障害であるという予断を日本社会、とりわけ報道・出版関係者に刷り込ませることには成功したのである。グロテスクな異論封殺の「外注」を日本の(自称リベラルも含めた)言論人たちが、「対話」の名で容認できるのは、朴裕河の「和解」言説に負うところが大きいといえよう。あまりに罪深い。
2016年は、少女像撤去をめぐる韓国内の葛藤で幕を開けよう。「外注」の構造のなかで、ますます被害者の声は日本に届きづらくなるだろう。だが、問われているのは「日本問題」である、という事実は変わらない。本当にこのような「解決」でよいのか。改めて「大多数の日本国民たち」は自らに問いかけるべきではないだろうか。
(鄭栄桓)
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声明「日本軍「慰安婦」問題、早まった「談合」を警戒する」を支持する
http://kscykscy.exblog.jp/25215582/
2015-12-27T00:00:00+09:00
2015-12-28T00:17:43+09:00
2015-12-27T18:43:47+09:00
kscykscy
未分類
ただ1965年よりも悪いといえるかもしれない。歪んだ「和解」観は日本政府が独力でつくりあげたわけではない。日本政府はこれまで度々日本軍「慰安婦」問題についての日本の責任を否定する発言を繰り返してきた。明らかに、問題を「蒸し返し」続けてきたのは日本政府である。にもかかわらず、日本式の問題解決案(国民基金)を受け容れなかったこと、少女像を設置し抗議したことがあたかも問題「解決」の障害であるかのような報道が、日本においては繰り返されている。
そして、このような問題の捉え方は、大沼保昭、和田春樹をはじめとした国民基金推進派の諸氏が繰り返し日本の言論界に宣伝し続けてきたものである。言うまでもなく、朴裕河『和解のために』『帝国の慰安婦』は、そうした「和解」観の伝播に、極めて重要な役割を担った。「口封じ」を最終的な解決であると考える歪んだ「和解」観は、いわばこの間の日本の政界・言論界が挙国一致で作り上げてきたものといえよう。
この問題に関連して、本日12月27日、韓国の「日本軍「慰安婦」研究会設立準備会」(*)が、下記の声明「日本軍「慰安婦」問題、早まった「談合」を警戒する」を発表した。私は同準備会の声明を支持する。ぜひ多くの方々、とりわけ日本の人びとに下記の声明の熟読を願う。
*同準備会は、朴裕河の起訴に抗議する声明への批判として声明「『帝国の慰安婦』事態に対する立場 」を発表した人びとを中心とした集まりである。
(鄭栄桓)
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日本軍「慰安婦」問題、早まった「談合」を警戒する
日韓国交正常化50周年である2015年の暮れに、日本軍「慰安婦」問題をめぐる日韓両国政府の慌ただしい動きがメディアの報道を埋め尽くしています。
日本の安倍晋三総理が岸田文雄外相に訪韓を指示し、日韓両国は12月28日に外相会談を開催し協議することにしたと伝えられています。また、この背後には李丙琪青瓦台秘書室長と谷内正太郎国家安全保障局長による水面下の交渉があったといいます。
すでに高齢である被害者たちが存命中に問題を解決することが最善であるという点については異議を差し挟む余地はありません。しかし時間を理由として早まった「談合」をするのならば、それは「最悪」になるでしょう。
1990年代初めに日本軍「慰安婦」問題が本格的に提起されてからすでに四半世紀が過ぎました。この長い月日に渡って、被害者たちと、彼女たちの切なる訴えに共感する全世界の市民たちが問題解決のための方法を共に悩み、それによって明確な方向が定まってきました。「事実の認定、謝罪、賠償、真相究明、歴史教育、追慕事業、責任者処罰」がそれです。このことこそが、これまで四半世紀をかけて国際社会が議論を重ねてきた末に確立された「法的常識」です。
日本軍「慰安婦」問題の「正義の解決」のために、日本政府は「日本の犯罪」であったという事実を認めなければなりません。この犯罪に対し国家的次元で謝罪し賠償しなければなりません。関連資料を余すところなく公開し、現在と未来の世代に歴史の教育をし、被害者たちのための追慕事業をしなければなりません。そして責任者を探し出し処罰しなければなりません。
そうすることではじめて、日本の「法的責任」が終わることになるのです。
私たちは日本軍「慰安婦」問題に対する韓国政府の公式的な立場が「日本政府に法的責任が残っている」というものであることを再び確認します。韓国政府は2005年8月26日「韓日会談文書公開後続対策関連民官共同委員会」の決定を通じ「日本軍慰安婦問題など、日本政府・軍等の国家権力が関与した反人道的不法行為については請求権協定によって解決されたものと考えることはできず、日本政府の法的責任が残っている」という立場をはっきりと表明しました。
また、これは2011年8月30日の憲法裁判所の決定と、2012年5月24日の大法院判決でも韓国政府の公式的な立場として重ねて確認されました。
私たちは1995年に始まった日本の「女性のためのアジア平和国民基金」が失敗したことは「日本の責任」を曖昧な形でごまかそうとしたためであることをもう一度確認します。国民基金は日本国民から集めた募金で「償い金」を支給し、日本政府の資金で医療・福祉支援を行い、内閣総理大臣名義の「お詫びの手紙」を渡す事業でした。しかし日本政府が「道義的責任は負うが、法的責任は決して負えない」と何度も強調し、まさにその曖昧さのせいで多くの被害者たちから拒否されたのです。
今、日韓両国政府がどのような議論をしているのかは明らかではありませんが、メディアによって報道されている内容は上述のような国際社会の法的常識と日本軍「慰安婦」問題の歴史はもちろん、韓国政府の公式的な立場とも明らかに相容れないものです。1995年の国民基金の水準さえも2015年の解決策とはなりえません。それ以下であるのならば、さらに言うまでもありません。何よりもそれはこれまでの四半世紀の間、「正義の解決」を訴えてきた被害者たちの願いをないがしろにするものです。
今から50年前、日韓両国政府は「経済」と「安保」という現実の論理を打ち立て、過去清算問題に蓋をすることを「談合」しました。まさにそのために今も被害者たちは冷たい街頭で「正義の解決」を訴えざるをえなくなりました。50年前と同じ「談合」をまたしても繰り返すのであれば、これは日韓関係の歴史に大きな誤りをまたひとつ追加する不幸な事態になってしまうでしょう。
2015.12.27.
日本軍「慰安婦」研究会設立準備会
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「その後ろには在日の知識人がいる」(朴裕河)とはどういうことか
http://kscykscy.exblog.jp/25154044/
2015-12-06T00:00:00+09:00
2015-12-06T04:15:07+09:00
2015-12-06T04:01:31+09:00
kscykscy
未分類
「韓国で私を告訴している形になっているが、その後ろには在日の知識人がいるし、告訴の後も日本の研究者の研究を基に私の本は「うそ」だと原告側が言い続けたという点では、日本ともつながっている。」
今回の告訴の「後ろには在日の知識人がいる」とはどういうことか。これは一体、誰のことを指すのか。断っておくが私は「ナヌムの家」の女性たちの行った告訴には何ら関係していない。女性たちや「ナヌムの家」関係者と面識もない(そもそも私は韓国に入国できない)。それとも別の誰かを指しているのか。何を根拠にこんなでまかせを朴裕河は言うのか。朴裕河は、いい加減「ナヌムの家」の女性たちが誰かに操られているかのような印象操作をするのはやめるべきだ。
度々指摘したことだが、朴裕河は「反論」する際、批判に答えるのではなく、批判者の属性や悪意(「誤読」「歪曲」)を問題にする悪癖がある。「後ろには在日の知識人がいる」という根拠なき決め付けにも、自分を「在日(男)」が批判している、という構図を作り出したい欲望が透けて見える。もちろん『和解のために』や『帝国の慰安婦』を批判しているのは在日朝鮮人だけではない。早くから朴を批判していたのは西野瑠美子であったし、中野敏男、前田朗ほか様々な批判がある(「朴裕河『和解のために』をめぐる「論争」をふりかえる(1)」の文献リストを参照)。
同じ記事には次のような発言も載っている。
「問題点を指摘する際には、自分の解釈が入っている。「売春婦であってはいけない」とか「自発的であってはいけない」という観念がある。/もちろん、私は「自発的な売春」という言葉は使っていない。全体としてそういうふうに受け止められてしまう書き方だったのかもしれない。しかし、私はそこが重要なポイントではないと言っているつもりだ。/全ては読解、解釈の問題だ。私は専門が文学なので、テキストを読むことをずっとやってきた。その分、読むのに忍耐が必要な書き方をしているのかもしれない。「A」と書いて、いや同時に「Aダッシュでもある」というように。日本と韓国の両方、支援者と批判する人の両方に向けて書いているからだ。(問題点を)分析した人は、そこを耐えて読むことをしなかったということだろう。」
「全ては読解、解釈の問題」のわけがないだろう。事実の問題に決まっているではないか。朴は明らかに「自発的」な「売春」であったことを、朝鮮人「慰安婦」の重要な特徴と主張している。これは事実の問題である。そのうえで「解釈」のレベルで右派を「批判」しているにすぎない。だから朴裕河の事実の理解が批判されているのだ。「A」と「Aダッシュ」云々も全く馬鹿げている。『帝国の慰安婦』には明らかに両立し得ない「A」と「B」が平気で並んでいるから読み手が混乱する、といっているのである。読み手の「忍耐」力のなさに責任を転嫁すべきでない。朴はしばしば言い逃れに「文学」研究を利用するが、本来ならば「文学」研究者こそこうした悪用を批判すべきであろう(小森陽一は内容を評価しているようだが)。朴裕河は自らの著作が批判される原因を、批判する側の属性や能力のせいにするような姑息な「反論」をいい加減やめるべきだ。
(鄭栄桓)
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