日韓請求権協定による「経済協力」は実質的な補償・賠償であった、日本軍「慰安婦」の請求権は韓国政府により放棄されたため、元「慰安婦」女性たちに日本政府に損害賠償を求める請求権はない。本書『帝国の慰安婦』において、朴がこう主張することはこれまで見たとおりである。 ここで一つの疑問が生じる。朴の理解に従えば、「慰安婦問題」はとうに「解決」したことになりはしないか、という疑問である。だが、これに対する本書の答えは否である。朴は繰返し「慰安婦問題」を「解決」しなければいけない、と主張する。そして日本政府に何らかの行動を「期待」している。それは一体何か。「第五章 ふたたび、日本政府に期待する」の「一九六五年の日韓協定の限界」について、朝鮮語版の記述も参照しつつ引き続き読み進めてみよう。 その前に、本書を「読む」上で、筆者の主張の再構成や矛盾の指摘、そして日本語版と朝鮮語版を比較対照することがいかに重要かについて記しておきたい。言うまでもないことだが、日本語版の刊行に際して加筆や修正を加えることは当然ありうることだ。修正を行ったこと自体を批判するつもりは全くない。これまでの作業は、あるいは悪意をもって朴の主張を歪曲するためにあえて重箱の隅をつついているにうけとられるかもしれないが、私からすれば筆者の主張の再構成という作業抜きに本書を「読む」ことが出来てしまう方が不思議である。 論旨の再構成と矛盾の指摘という作業が重要な意味を持つのは、本来これらの前後矛盾や不整合、自家撞着は本書の欠陥を示すものにすぎないにもかかわらず、ある局面においては、本書への批判を無効化する機能を果たすからである。AとBという相対立する叙述が同居することは、普通に考えれば単なる欠陥である。だが雑多な情報が不整理のまま盛り込まれ、明瞭さが著しく欠如している場合、A批判に対しては「Bとも書いている」と言い返し、B批判に対しては「Aとも書いている」と言い返すことであたかも反批判をしているかのような外観を取り繕うことが可能になることがある。本書はまさにその典型例といえる。 本書が植民地支配責任を問う本であると「誤解」されているのも、こうした欠陥に起因する。個別のセンテンスやパラグラフ単位でみれば、確かに植民地支配責任を問うかのような記述は存在する。しかしそれは前後の脈絡とは明らかに矛盾する形で存在するのである。なかでも日本語版ははじめからこれらの弁明を意図して挿入されたと思われる記述が多く、とりわけこうした作業が求められるのである。そうした意味では、本書は読み手に法外な負担を強いる――にもかかわらず得られるものは極端に少ない――驚くべき書物といえる。 朝鮮語版との比較対照が必要なのも、この点に関わっている。日本語版の刊行に際しての加筆・修正により、ただでさえ明晰さを欠く本書の混乱に一層の拍車がかかっているのである。日本語版には明らかに矛盾する記述が散見され、著者の主張への賛同以前に、論旨を読み解くこと自体に困難をおぼえることがままある。その原因の一つは日本語版刊行に際しての加筆・修正のためである。この加筆・修正には行論上必然性のない弁明的性格を持つものが多いため、結果的に本書の論旨自体を崩壊させてしまっている。ただ、そうであるがゆえに、日本語版加筆部分が筆者の意図を曝け出す機能を果しており、そうした意味においても、両者の比較対照は重要な意味を持つのである。 本題に入ろう。そもそも、朴のいう「日韓協定の限界」とは何か。それは、日韓交渉は植民地支配を「公式には問題にしなかった」会談であったため、条約に「「植民地支配」や「謝罪」や「補償」の文言」がなく、このため「名目は補償とはかかわりのないようなことになっていた」こと(247頁)である。だから、「経済協力」は「〈戦後〉補償」ではあったが、「〈帝国後〉補償」にならなかった。こうした理解の前提に潜む問題点については以前の記事で指摘したが、日韓会談が植民地支配責任を充分に追求する場にならず、日韓諸協定が日本の植民地支配責任を認めたものではないことは事実である(以前に触れたようにそもそも「〈戦後〉補償」ですらないが)。 それでは朴は、具体的に何を「日本政府に期待する」のか。ここからは段落番号を付して可能な限り朴の主張を再構成してみたい。 「経済協力」があくまで「〈戦後〉補償でしかなった」(誤りなのだが)という批判に、以下の段落が続く(以下、強調はいずれも引用者)。
「両国の首脳が会うたびに謝罪をしてきたし、そのことはもっと韓国に知られるべき」という主張が具体的に何を指すのか明確ではなく、朴の論理を知るものからすると「併合」100年に際しての菅直人談話への言及が無いのは若干奇妙な気もするが――「植民地支配がもたらした多大の損害と苦痛に対し、ここに改めて痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明いたします。」という表現は、朴からすれば「韓国に公式に謝罪したこと」になると思う――まともに謝罪していない、という意味では異論はない。だがすぐさま次の段落があらわれ、議論の筋が霧散する。
この「同じような境遇」なるものは、【1】の「帝国日本の方針に従わないという理由だけで監獄に入れられ、過酷な拷問の末に命を落とした人々」を指すようだ。だが【1】の趣旨は、植民地支配への謝罪と補償がないことであり、その具体例として民族独立運動への弾圧が語られているはずだ。にもかかわらず【2】は突然この具体例の部分を拾いあげ、「同じような境遇」の日本人の話題へと分岐するため、読者は混乱に叩き込まれる。植民地支配責任の話をしているのか、日本人も含めた治安維持法による人権侵害の話をしているのかがわからなくなるのだ。しかも、ここからさらに話題は韓国へと移る。
本書の内容からすれば、極めて異質な段落である。本書における朴の主張との整合性が疑われる箇所でもある。だが次の段落で、ようやく本題である「日本政府に期待する」ことを論じる段になると突如としてトーンダウンし、それまでの論旨へと復帰する。
「どのような言葉ででも応えるべき」が具体的にいかなる行動を指す(指さないのか)のかを検討する前に、ここで朝鮮語版の記述を確認しておこう。この箇所は次のように記されている。
日本語版【1】~【4】は、この朝鮮語版の一段落を引き伸ばしたものである。一読してわかるように朝鮮語版の叙述は極めてシンプルである。もちろん、なぜ東学軍への弾圧や関東大震災時の朝鮮人虐殺などが「帝国の維持のための動員の犠牲者」なのかはよくわからないなど、不明瞭さや杜撰さはある。ただ、植民地支配の「犠牲」の話であることはひとまず維持されている。 だが、日本語版では東学への言及は削除され、代わりに「同じような境遇に処された日本人」や、韓国・アメリカにおける補償の話題が挿入される。これに伴い謝罪や補償をめぐる主体間の関係性も、【1:国際】→【2:国内】→【3:国内から国際】→【4:国際】とめまぐるしく遷移する。行論の都合から考えても、明らかに【1】→【4】で話は通じる。【2】【3】は不要なのである。 しかも厄介なことに、【3】で記されていることは明らかに本書の論旨と矛盾する。【3】で朴は、行為がなされた時点で合法であったとしても、それらの国家の過去の行為の責任を問うことは可能である、と主張する。そして具体例として、韓国での「過去事」清算や米国での日系人強制収容への謝罪と補償をあげる。言うまでもなく、韓国政府や米国政府の行った補償は、民間からの募金ではない。もし【3】のケースのような例が、元「慰安婦」女性たちへの日本政府の補償のモデルだとするならば、国民基金を拒否した当事者たちや挺対協を批判する必要はないはずだ。 だが本書で朴は、国家補償と責任追及を求める「支援団体」を繰返し批判する。裁く法がない、という論理で日本の法的責任を否定し、行為がなされた時点で合法であるということを重視する。【2】は【3】に否定されるために呼び出された主張なのだが、本書で朴が主張するのはまさに【2】の論理なのである。冒頭の危惧はこの箇所を想定したものだ。論旨は明らかに【2】なのだが、「私は【3】のようなことも書いている」とも「反論」することで、批判者を煙に巻くことができるのだ。はっきりさせておかねばならないが、日本語版で挿入された【3】は明らかに本書の論旨と矛盾する。実際、【3】のケースや論理は顧みられることはなく、日本語版は次のように議論を展開する。
つまり日韓協定を改定してはならない、と朴は主張するのだ。理由としてはほとんど「ダメだからダメ」といっているに等しいため、もう少し具体的な論拠を提示している朝鮮語版の記述もみておこう。
本書で日韓交渉を論じる際の朴の力点は、いかに韓国政府が植民地支配全体の補償を求めなかったか、にあった。普通に考えれば、ならばいまこそ韓国政府は植民地支配全体への補償を求めよ、となるはずだ(読み手もそのような展開を予想するだろう)。だが朴はあまりにもあっさりとそうした主張を捨て去る。しかも「問題が複雑になる」「国家としての信頼が壊れてしまう」からという理由で。直前の記述で「「国家がやったこと」に対して責任を問うことは不可能ではない」として韓国の「過去事」清算の例をあげた人物が、である。そして、朴はこう主張するのである。
「当時の時代的限界を見ること」とは何だろうか。注意深く読まねばならない。【7】は一見すると、植民地支配に対する法的責任を日本が果たすべきだ、と主張しているようにも読める。「それ」は明らかに「個人に対する「法的責任」を果たしたこと」を指すため、植民地支配に対する法的責任を日本政府は果たしていない、と朴が書いていることは明白だからだ。しかしここでも「植民地支配に対する法的責任を果たせ」という主張へと展開するのではなく、「時代的限界」という語を持ちだして問うこと自体をやめてしまう。朝鮮語版もみてみよう。
珍しく朝鮮語版の方がひどい。周知の通り、交渉に際し、日本政府は全力で植民地支配責任を否定した。誰かに強いられたわけではなく、主体的に否定したのである。そもそもこの文には、「植民地支配に対し徹底して問いなおす機会」を与えなかった者が誰かが明示されていない。アメリカのせいで日本が植民地支配責任を果たせなかったかのようにも読めるが、厳密にいえばアメリカの責任であるとすら書いていない。強いていえば「冷戦体制」が与えなかった、ということになろうか。前回の記事で本書では「構造」といった言葉が主体を免責する文脈でのみ用いられる、と指摘したが、ここでの「冷戦体制」という語も同様の機能を担っている。 まだ朴が「日本政府に期待する」ことはわからない。続く段落をみよう。
だから日本政府もそうせよ、と「期待する」かと思いきや、そうはならない。
日本政府のやってきたことはむしろ世界で一番進んでいる、というわけだ(【1】で「日本は一九四五年の大日本帝国崩壊後、植民地化に関して実際には韓国に公式に謝罪したことはない」と書いていたはずだが)。では一体何を「期待する」のか。
国民基金の意義付けを明確にすることを求めているものと、ひとまずは理解できる。だが、国民基金は本当に「実質的には〈植民地支配後処理〉の意味を持つものだった」のか。ならばなぜ「〈植民地支配後処理〉の意味を持つものであることを明確にしなかった」のか。そもそも「意識もしていなければ、意味づけもしなかった」ものが、なぜ「実質的には〈植民地支配後処理〉の意味を持つ」といえるのか。重要な問いにもかかわらず、「実質的に」という語をマジックワードとして用いることにより、議論を展開するにあたって必ず論証しなければならないプロセスを省略している。ワープ航法とでも呼ぶべき、このマジックワードを用いた論証省略の「方法」は、以前に「経済協力」の箇所でもみたようにしばしば本書で朴が用いるものであるため、本書を読む際には注意しなければならない。 さて、本題に戻ろう。この章「ふたたび、日本政府に期待する」は次のような言葉で結ばれる。
結局、「日韓協定の限界」に関連して朴が日本政府に何を「期待する」のかははっきりしなかった。「当時の時代的限界を見ること」、「時代的限界を検証し補うこと」、「冷戦体制」のもと「植民地支配に対し徹底して問いなおす機会を韓日双方に与えなかったことを認識すること」といった曖昧なレトリックが並べられるだけだ。 ただ、朴が日本政府に求めないことだけは明確である。元「慰安婦」女性たちは損害賠償を請求できない、植民地支配の当時には責任を問う〈法〉はなかったし、日韓協定により〈法〉はなくなったからだ(矛盾だが)。日韓協定に従った紛争解決もすべきではない(憲法裁判所決定批判)、「日韓関係を悪化させただけ」だからだ。問題が明るみに出た現在の立場からも〈法〉をつくるべきではない(日韓協定再協商批判)、「問題が複雑になる」、「国家としての信頼が壊れてしまう」からだ。朴によれば、なすべきは、これら以外のことである。 (鄭栄桓)
by kscykscy
| 2015-01-17 00:00
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