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「屁理屈型」歴史修正主義の脅威――工藤美代子『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』批判

 昨今の排外主義的な民族差別・迫害の教唆煽動の横行に伴い、改めて関東大震災時の朝鮮人虐殺が注目を集めている。だがその「注目」には、虐殺の事実を知り、反省的に歴史と現代を見つめようというものばかりでなく、むしろ「虐殺」を否定しさろうという歴史修正主義者によるものも含まれる。1923年9月に起こされた朝鮮人虐殺については、各地でのねばり強い史料発掘や証言の調査などにより、今ではもはや軍隊や警察による虐殺を否定することは不可能となった。このため歴史修正主義者たちは虐殺したのは自警団だけだという、いわば歴史修正主義の第一段階にあたる主張を放棄しつつある。代わりに現れているのが、軍・警・自警団による朝鮮人殺害は「虐殺」ではなかった、という主張である。

 工藤美代子『関東大震災 「朝鮮人虐殺」の真実』(産経新聞出版、2009)はこうした理屈で朝鮮人虐殺否定論を展開した問題作であり、ネット上に無数にある虐殺否定論の情報源でもある。この本の問題点についてはすでに山田昭次氏の批判があり(「関東大震災・朝鮮人虐殺は「正当防衛」ではない 工藤美代子著『関東大震災-「朝鮮人虐殺」の真実』への批判」『世界』2010年10月号)、ネット上でもいくつかのブログで批判がなされている。ただ、その虐殺否定論の驚くべきレトリックについてはいまだ批判的言及がなされていないようである。工藤の主張は後述するように、かつて触れた「悪い朝鮮人だけ殺せ」の論理そのものであり、またその主張は到底許容しがたい恣意的な史料の操作に支えられたものであり、現代の排外主義の特質を考えるうえでも避けては通れない著作であるため、以下に若干の検討を行いたい。

 「あれは本当に「虐殺」だったのか?」という帯の文句にもあるように、工藤は関東大震災の際、朝鮮人に対する「虐殺はなかった」と主張する。だがこれは、軍や警察、自警団による朝鮮人殺害がなかったという意味ではない。工藤は次のように書いている。

「大正時代の苦難といったが、そこに象徴される事象は、摂政宮となった皇太子裕仁殿下にのしかかってくる連続した事件としてたち現れる。それらの一つ一つが、関東大震災の問題を一層複雑にさせ、国家の基盤に根本的に関わる重大事でもあったのだ。/摂政宮を暗殺しようとまで画策したテロ集団の凶行と大震災は機を一にし日本を襲う。/そうした国難を回避するための戒厳令であってみれば、「朝鮮人虐殺」などといわれる筋合いは微塵もない。/その意味では「虐殺はなかった」し、あったとすればそれは「虐殺」ではなく、国家の自衛権行使だといっていい。」(工藤美代子『関東大震災 「朝鮮人虐殺」の真実』産経新聞出版、2009年、270頁。強調は引用者。以下同。特に注記がない限り、以下引用は同書より。)

「試算の結果、二千七百七十人からこの千九百人余を引いて、残る八百人前後が殺害の対象となったものと推定される。(東京近県を含む)/その殺害された者はいわずもがな「義烈団」一派と、それに付和雷同したテロリストである。テロリストを「虐殺された」とはいわないのが戒厳令下での国際常識だ。」(同上、304-305頁)

 すなわち、殺された朝鮮人のほとんどは皇太子(後の昭和天皇)暗殺を狙った「テロリスト」であった、「テロリスト」を殺すのは「虐殺」ではない、よって「虐殺はなかった」――これが工藤の理屈である。つまりこの本で工藤が試みたのは、虐殺の事実そのものを否定することに加えて、「虐殺」という言葉の意味を改造することで日本軍・警察・自警団の朝鮮人虐殺を正当化することである、といえる。

 震災時の虐殺をめぐる争点は長らく流言発生と流布、そして殺害への日本軍や警察などの公権力の関与にあった。政府や警察は虐殺発生直後よりその責任を自警団に転嫁し続けたが、ねばり強い調査と研究の蓄積により、流言の流布と公認、そして虐殺に警察や軍が関わっており、それどころか戒厳令下での公権力による虐殺正当化は、この大虐殺の核心的な要素であることが明らかになった。だが、もはや工藤は自警団に責任転嫁すらせず、いわば堂々と殺害行為を認め、かつそれを正当化したのである。

 こうした、事実ではなく言葉の解釈を争うことにより加害の事実を否定したかのように装う手法は、関東大震災下の朝鮮人虐殺に関するものとしては新しい言説ではあるが、広く歴史修正主義という次元でみれば決して工藤独自のものではない。むしろ歴史修正主義者がしばしば使う詐術の一つといってよい。

 例えば南京大虐殺をめぐる「論争」において、加害の事実が様々な史料により立証され「虐殺無かった論」が維持できなくなると、歴史修正主義者たちは「指揮官不在の投降兵や便衣兵は戦時国際法の適用外であり、これを殺すことは虐殺ではない」と主張し始めた。確かに日本軍は中国人を殺害したが、その殺害は合法であり「虐殺」とは呼べない、だから南京「虐殺」は無かった、という論法で虐殺を否定しようとしたのである。

 この手法は加害の事実を正面から否定することが不可能になったときにしばしば用いられる。近年特に多用される傾向にあり、戦時期には朝鮮人・日本人問わず「徴用」により強制的に動員されたのだから、(日本人と区別されるところの)「朝鮮人強制連行」は存在しない、といった理屈も同種のレトリックといえる。日本軍「慰安婦」の強制連行を「広義」と「狭義」に分けて、後者については「証拠」がない、だから「強制連行」は存在しない、と強弁する安倍晋三の論法をここに含めてもよいだろう。

 事実を否定できないため、屁理屈をこねて言葉の解釈を変えることで否定しようというわけである。いわば「屁理屈型」歴史修正主義といえる。

 一見これは馬鹿げた論法にみえるが、この「屁理屈型」歴史修正主義の影響は決して無視できるものではない。彼らのねらいは教科書記述に代表される公の言論空間から「虐殺」や「強制連行」の文字を消し去ることにあるのだから、こうした屁理屈を誰かが打ち上げて、あとは全力で教育委員会なり何なりを攻撃すればよいのである。実際、昨年1月に東京都教育委員会が都独自の高校日本史副読本「江戸から東京へ」の「数多くの朝鮮人が虐殺された」という記述を「碑には、大震災の混乱のなかで、『朝鮮人の尊い命が奪われました』と記されている」という無責任な記述へと差し替えた際、都教委の担当者は「いろいろな説があり、殺害方法がすべて虐殺と我々には判断できない。(虐殺の)言葉から残虐なイメージも喚起する」と弁明したという(『朝日新聞』2013年1月25日・朝刊)。工藤の虐殺否定論が影響を与えているものと思われる。

 しかし、工藤の虐殺否定論は、他の歴史修正主義言説と同様、そもそも歴史学的な検討に堪えるような代物ではなく、またその論理自体にも破綻が見られる。例えば、工藤の著作は、「虐殺」を否定するものと宣伝されているが、少なくとも工藤は内務省の認めた233人については「誤認、過剰防衛、巻き添え」による殺害が行われたと認めており、「幾人であろうと誤認殺害は虐殺だ」と書いているのである(305頁)。工藤の理屈をもってしてさえ、「虐殺はなかった」などという主張は成り立たないのである。にもかかわらず工藤の主張は「「流言蜚語」による「虐殺」だったのか」といった見出しと共に紹介され、あたかも一切の虐殺を否定した「研究」であるかのように報じられる。『産経新聞』や『読売新聞』は近年、日本の侵略についての中国や朝鮮からの批判を、すべて「宣伝」「謀略」「情報戦」と片付ける手法を多用しているが、これこそが誇大な宣伝であると言わざるをえない。こうした著作と宣伝が歴史教育の内容に多大な影響を及ぼしている現在の日本の状況なのである。

 何より重大な問題として、工藤がそもそもその主張の中核にある皇太子暗殺計画すら自らの著作で論証していないことをあげておくべきだろう。工藤は殺害された朝鮮人のうち800人前後は、「いわずもがな」皇太子暗殺を企てた「テロリスト」であったという。しかし、本書を一読すればわかるがその証明は試みられてすらいない。わずかに工藤の挙げる史料も、恣意的で極めて問題の多い史料操作に基づいたもので、800人どころか1人の「暗殺計画犯」すら立証できていないのである。

 以下に工藤がその「実例」としてあげる事例を検討してみよう。工藤は越中島の陸軍糧秣本廠を「爆破」し「逮捕」された朝鮮人の「証言」なるものを根拠に、「朝鮮人テロリスト」が1923年11月27日の皇太子の結婚式に狙いを定めて暗殺計画を企てていたと主張する。関連箇所を引用しよう。

「二百十日には必ず暴風雨が襲来するから、それを待ち構えていて爆弾を炸裂させれば要職にあるもの多数を殺害できる、と捕えられた朝鮮人は現場で告白したという。その朝鮮人は越中島にある糧秣廠を爆破し、膨大な数の避難民を殺害した犯人である。朝鮮人は続いて次のように喋ったのち、自警団と在郷軍人などに身柄を拘束されたという。

 『暴風雨襲来すべければその機に乗じて一旗挙げる陰謀を廻らし機の到来を待ち構えていた折柄大強震ありこれで御大典もどうなることか判らないからこの地震こそは好機逸すべからずとなし此処に決行したのである』[中略]

 この証言によれば、要するにこの朝鮮人テロリストの目標はそもそもこの秋、十一月二十七日に予定されていた御大典だった。」(271頁)

 この「越中島の朝鮮人テロリスト」の話を工藤は他の媒体でも用いている。

「本所深川あたりから避難してきた罹災者約三千人が集まっていた越中島の糧秣廠を爆破し、多くの避難民を殺害して逮捕された朝鮮人テロリストの証言によれば、目標は十一月二十七日の御大典だったが、大震災が起こって予定どおり行われるかどうかわからなくなったので、大地震という好機を逸すべからずと決断したとのことでした。同じように「目標は御大典だったが、大地震に乗じてことを起こした」と自白したテロリストはずいぶん多かったようです」(工藤美代子「流言蜚語ではなく実話!関東大震災朝鮮人暴動は「皇太子暗殺」を狙ったテロだった」『歴史通』2012年1月号、47-48頁)

 工藤の多用するこの「越中島の朝鮮人テロリスト」の話の問題点は、朝鮮人の「証言」なるものが記録された状況を、工藤が極めて歪めたかたちで整理していることにある(他に、そもそも「御大典」は天皇の即位の礼を指す言葉で婚礼には用いないのだが、工藤は二度も記事を鵜呑みにして「御大典」としているなど、この本にはこうした杜撰な記述が目立つ)。この記事は『河北新報』に掲載されたもので、月島で被災した人物の見聞を基にしている。工藤はこの記事を基に、「身柄を拘束された」「逮捕された」朝鮮人が「証言」したと記しているが、根拠である『河北新報』の記事をみると引用された「証言」の前後は次のようになっている。

「それだけこの三千人を丸焼きにした実見者が多かった。而も鮮人の仕業であることが早くも悟られた、そして仕事師連中とか在郷軍人団とか青年団とかいふ側において不逞鮮人の物色捜査に着手した。やがて爆弾を携帯せる鮮人を引捕へた。恐らく首魁者の一人であろうといふので厳重に詰問した揚句遂に彼は次の如く白状した。[中略:ここに工藤の引用部分が入る]と聞いた一同の憤懣遣る方なくさてこそ風向きと反対の方向に火の手が上ったり意外の所から燃え出したりパチパチ異様のがしたりしたのは正に彼等鮮人が爆弾を投下したためであった事が判然したので恨みは骨髄に徹し評議忽ち一決してこの鮮人の首は直に一刀の下に刎ね飛ばされた」(「土管で生きた三万人/鮮人の恐るべき自白/逃れて来た被災者の話」『河北新報』1923年9月6日付、姜徳相・琴秉洞編『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』みすず書房、1963年、171-172頁)

 つまり、月島でこの「被災者」がみたのは、越中島の糧秣本廠が燃えたことを朝鮮人の仕業であると考えた「在郷軍人団」「青年団」の捜査により捕まったある朝鮮人が「厳重」な「詰問」をされた末に犯行を「白状」させられ、その結果、衆人環視のもとで斬首された、という光景なのである。この「被災者」がどの時点からこの現場をみたのかもわからない。仮にこの「被災者」の見聞が正確なものであったとしても、これは「逮捕」や「身柄を拘束された」朝鮮人の「証言」の記事ではなく、ある朝鮮人が拷問され虐殺された事件の記事なのである。斬首されてしまった以上、本当にこの朝鮮人がそう「証言」したかすらわからない。

 しかも、この記事はさらに以下のように続く。

「かく捕へられた鮮人二十四人は十三人一塊と十一人一塊と二塊りにして針金で縛し上げ鳶口で撲り殺して海へ投げ込んでしまったけれどもまだ息のあるものもあったので海中へ投入してから更に鳶口で頭を突き刺し突き刺ししたが余り深く突き刺さって幾人もの鳶口がなかなか抜けなかった〔。〕また外に三人の鮮人は三号地にある石炭コークスの置場の石炭コークスが盛んに燃えている中へ生きてゐるまま一緒に引き縛って投げ込んで焼き殺してしまった」(同上)

 こうした凄惨な殺戮の描写を一切捨象し、工藤はあたかも何らかの捜査によって「逮捕」された朝鮮人の「証言」「自白」であるかのように、この記事を扱い「越中島の朝鮮人テロリスト」の話をつくり上げる。糧秣本廠の火災が本当に爆破によるものであったのかといった問いなど考慮せず、まさにいきり立って朝鮮人を拷問し、虐殺した在郷軍人会と同じ認識の水準において、この虐殺された朝鮮人は「テロリスト」であったと断定するのである。

 工藤は他にも、自警団が朝鮮人を「竹槍で責めて訊問」して「自白」させた事例、あるいは「死ぬ程責めても到頭吐かなかった」記事などをあげて、皇太子暗殺計画があった「証拠」としている(274-275頁)。しかしこれらの事例はむしろ、自警団や在郷軍人会が、朝鮮人が皇太子暗殺のために爆弾を投げたというストーリーのもと、朝鮮人を捕らえて拷問して殺しまわったことを示す証拠なのではないだろうか。しかもその「事例」なるものも新聞記事としてはわずか三例にすぎない。これをもって800人の朝鮮人テロリスト団が震災に乗じて皇太子暗殺を図った、と主張しているのである。

 もう一つ、工藤の恣意的な史料の省略の例をあげよう。工藤が「朝鮮人テロリストが「目標は御大典〔ママ〕だった」と自白していた例は枚挙にいとまがないが、その具体例をもう少し紹介しておこう」(274頁)としてあげる「具体例」のなかに、次のような新聞記事がある。

「此頃、小石川辺では鮮人が団体を組んで来るとか爆弾を投て、焼き払ふ計画を立ててゐるとか、(略)生きてゐる心持がありませんでした。私共も一所になって捜索の結果、私の家の而も附近の宮様の原で爆弾一個を発見しました。私の乗った汽車は途中で列車の下より爆弾を抱いた三人の鮮人を見出して殺しましたが、(略)鮮人は何れも多大の金を持ってをり」(275頁)

 だが、この記事の原文は次のようなものである。少々長いが重要な箇所なので引用する。

「此頃小石川辺では鮮人が団体を組んで来るとか爆弾を投て焼き払ふ計画を立ててゐるとか又は罹災者などは寄ってたかって九月一日は露西亜の革命記念日で前から爆弾を投げる計画があったなどの流言が行はれ生きてゐる心持がありませんでしたが私共も一所になって捜索の結果私の家の而も附近の宮様の原で爆弾一個を発見しました、そして丸山町丈で鮮人も三名捕へました、それから警戒は甚しいもので私の附近などでも町内で切符を持たぬものは何人と雖も交通を禁止しました、東京にゐても東京の事情が何も分からなくなりました、自動車が唯一の交通機関で運転手の談に依ると本所深川で生き残ったものは一割もあるまいと言はれてをります、本所の兵器廠などは一万五千程の人が避難してゐたのが旋風が起り直に火に囲まれ大半焼死したと言はれております、三日横浜から逃れた私の叔父は横浜は山の手が一部残ったのだが夫が爆弾や放火の為丸焼けになったと泣いておりました、一番凄かったのは罹災民が我々の敵〔かたき〕不逞鮮人と叫ぶ声の悲愴なことで夫も浅草方面より来る罹災民に多かったやうです、何処の避難民でも今では知らぬ人の食物、水は決して貰って飲みません、夫に付いても私が四日田端より乗った汽車中一人の男が配って呉る芋を貰へませんでした、其時誰かが朝鮮人は芋を喰はぬと言ったら汽車の中の罹災民は其者が次の列車に乗って逃ぐるのを打つやら叩くやらして殺して快を叫んでゐるのです、私の乗った汽車は尚途中で列車の下より爆弾を抱いた三人の鮮人を見出し殺しましたが白川の少し手前でも同様な鮮人を見出し列車の中で殴り殺しました〔。〕実に無惨です、四日私の立つ頃は稍平穏に復しましたが鮮人は何れも多大の金を持ってをり三越で殺されたものは千五百円持っていたと言はれてをりましたが大概のことなら此節上京せぬ方か宜いと当時を追想して語る」(「凄惨なる其日の光景/汽車中で不逞鮮人を寄ってたかって殴殺す/北大予科二年生杉山又雄談」『北海タイムス』1923年9月8日付、山田昭次編『朝鮮人虐殺関連新聞報道史料3』緑陰書房、2004年、35-36頁)

 青太字は工藤の引用で(略)となっている部分、緑太字は省略記号無しに省略されている部分である。見出しからもわかるように、そもそもこの記事は朝鮮人の虐殺を報じたものであるが、工藤はこれらの記事から三箇所を省略することにより、爆弾投下の計画とそのための資金を運んでいた朝鮮人集団がいたかのような記事に編集しているのである。

 詳しくみよう。まず「小石川辺」での朝鮮人の襲撃や爆弾投下などの説が「流言」であったことを伝える箇所を省略し、あたかもこれらが事実であるかのように資料をつなぎあわせている。罹災者のあいだでロシア革命記念日と関連付ける「流言」が広まっていたことは、前述のように在郷軍人会や自警団が朝鮮人を拷問にかける際にいかなる予断を持っていたかを探るうえで極めて重要な情報であるにもかかわらず、これが省略されてしまっているのである。

 次に、記事中の緑太字の箇所を省略記号無しに省略し、浅草から来た罹災民を中心に「我々の敵不逞鮮人」と叫ぶ声が多かったこと、汽車中で配られた芋を受け取らなかった男が、その事実のみをもって集団により虐殺されたことが省かれている。これは、杉山の乗った汽車の乗客が、三人の「爆弾を抱いた」朝鮮人を見つけて殺した際の、パニック状況を伝える極めて重要な事実であるにもかかわらず省かれている。

 そして、最後の朝鮮人が「多大の金を持って」いたという箇所は、伝聞情報であるにもかかわらず、この箇所が省略されているため、あたかも「爆弾を抱いた」朝鮮人がいずれも「多大の金を持って」いたかのように資料が操作されている。わざわざ「多大の金を持ってをり」云々を引用しているのは、朝鮮人が大韓民国上海臨時政府や社会主義者から多大な資金を得て暗殺計画を練った、という工藤のストーリーを強調したいためであるが、実際にこの記事で書かれていることは虐殺された朝鮮人が千五百円をもっていた、という伝聞情報だけである。

 こうして工藤は流言と拷問、そして虐殺の事実を捨象し、「朝鮮人テロリスト」の「証拠」としてしまう。そしてこれらに黒竜会の内田良平の「分析」を付け足して、「いずれにせよ、大集団がいくつかの分派に別れ、それぞれが我先に功名を競っていた」(277頁)と断じるのである。

 以上みたように、工藤が「あらゆる史料を再検証してその真相を探」(前掲『歴史通』43頁)ったと豪語するこの著作で展開される「分析」と「論証」なるものは、不適切な引用というレベルをはるかに越えた史料の恣意的な接合によって作り出されたフィクションというほかない。そして、こうした恣意的な史料の切り貼りによって作り出された虚像にもとづいてなされる工藤の主張は、まさしく典型的な「悪い朝鮮人だけ殺せ」の論理なのである。

 工藤が朝鮮人「テロリスト」殺害が「国家の自衛権行使」だと主張するとき、そもそもいかなる「法」に依拠して判断しているのだろうか。当時の日本政府ですら、極一部であるにしろ、戒厳令下の自警団による朝鮮人殺害を違法なものとして裁いているのである。軍隊による殺害はいずれも衛戍勤務令により正当化され全く処罰されなかったが、工藤はこれら約800人を殺害した者はいずれも軍隊であった、と主張したいのであろうか。もちろん、衛戍勤務令による正当化自体を批判的検討の対象とすべきであるが、これらがいずれも軍隊による殺害であったことを証明しなければ、当時の「大日本帝国」の論理に従って虐殺行為を正当化することすらできない。工藤の主張は、それ自体が極めて杜撰な論理による南京大虐殺正当化論のレベルにすら達しておらず、ただひたすら「国家の自衛権行使」「国際常識」と繰り返すだけである。

 ただ、この本の恐ろしさはむしろそこにあるといえるかもしれない。工藤は「テロリスト」という現代の用語を多用して、虐殺を正当化する。過去の行為は過去の法によって判断すべきだという理屈にすら立っておらず、いま現在の工藤の法規範のレベルで「テロリスト」と国家が認定すれば虐殺しても「自衛権」の行使であると判断している。つまり工藤は歴史の話をしているのでなく、現在の話をしているのである。こうした公然と大量殺人を正当化する本が、当たり前のように流通し、かつ歴史教育から「虐殺」の二字を葬りさるのに少なくない力を発揮している現状にいまさらながら慄然とせざるをえない。

(鄭栄桓)

by kscykscy | 2014-06-10 00:00
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