「Arisanのノート」というブログに「なされるべきであった事」という文章が載っている。
Arisanは独島問題に関連して次のように書く。 「「グレーゾーン」にしておくというような方策が、真に知恵として意味を持ちうるのは、いまただちに国家対国家という近代的枠組み(「領土問題」)で事柄を突き詰めず、いったん平和的な状態を作ることによって、植民地支配や侵略という歴史のなかの暴力にきちんと向き合えるようにしようというメッセージとして発せられ、また受けとられた場合だけだ。 「日本がこの地域に行使したそのような暴力が、国家という枠組みを越えた、いわば普遍的な悪」とは、どういうことだろうか。日本が朝鮮に暴力を行使した際、国家という枠組みを超えたことなどない。日本国家が朝鮮民族に暴力を行使したのである。よって、「この悪と真摯に向き合うことは、日本のみならず、また全ての国家自身の、過去と現在の独善や暴力性をも自覚・反省させることにつながる」という断定は全く誤っている。日本の朝鮮への暴力と向き合うことは、日本国家が歴史的に行使してきた暴力に関連している。問題をむやみに「全ての国家自身」の「暴力性」に、そして国家主義一般の問題に拡大するべきではない。 「実際にあるのは、誰が植民地支配を行ったのかという一事である」といっておきながら、なぜ「これは、ナショナルな問題ではなく、より根本的な、ナショナリティ以前の不正義の問題である」ということになるのか。なぜ日本国家による朝鮮植民地支配が「ナショナリティ以前」の問題なのか。植民地支配を行ったのは誰か、「ナショナリティ以前」の誰かが行ったのか。そうではない。日本国家であり、そこに属する日本国民が行ったのである。「ナショナリティ以前」の問題ではなく、ナショナリティの問題である。極めて非論理的な断定であり、馬鹿げている。 おそらくArisanという人物は独島の領有権問題についての明言を避けたいのであろう。Arisanは「植民地支配という事柄を忘却する」ことを戒めている。しかし、「植民地支配という事柄を忘却」しないで独島問題を論じるならば、次のような理屈になるはずだ。 日本の朝鮮支配は不法で不当な異民族に対する暴力的支配であった。独島の島根県「編入」は日本の朝鮮支配の一貫としてなされた。よってこれもまた同様に不法で不当な支配であった。いうまでもなく、現在の日本国家の独島に対する領有権もまた正当化されえない。独島は朝鮮の領土である。シンプルな理屈である。 しかしArisanはそうはいわない。これは「ナショナルな問題」ではないという。おそらく独島が韓国領であるという主張は、Arisanからすれば「他国の拡張主義や自国中心主義」として諫める対象となるのだろう。しかし、「われわれ自身が自分たちの行使してきたこの暴力性と真摯に向き合」っていないから、いまは言えない。そういうことなのだろう。誤っているばかりでなく、傲慢な姿勢である。 そもそも日本の植民地支配が「ナショナルな問題ではなく、より根本的な、ナショナリティ以前の不正義の問題」だというならば、「われわれ自身が自分たちの行使してきたこの暴力性」というときの「われわれ」とは一体誰を指すのか。日本人以外該当しようのないこの「われわれ」に、Arisanは一体誰を含めようというのだろうか。 独島の領有権問題は、朝鮮植民地支配の問題の一貫である。Arisanはこの事実を認めるにもかかわらず、独島が韓国領であるという明言を避けようとする。それどころか韓国領であるという主張への批判をほのめかす。「ナショナリティ以前の不正義」などという言葉遊びの道具にしようとする。そうした非論理性と傲慢な姿勢を問いなおすことこそ、本来「なされるべきであった事」なのである。
by kscykscy
| 2012-08-18 00:00
|
ファン申請 |
||