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案の定の『朝日新聞』社説――朝鮮学校と高校「無償化」問題③

 在日朝鮮人をめぐる現代日本の擬似対立の構図が見事に出揃った観がある。『朝日新聞』2月24日付社説「高校無償化―朝鮮学校除外はおかしい」の論法はこのブログで引き続き批判してきた『朝日』的擁護論の問題を反復したものとなっている。私は以前の記事で、『産経』的批判論に対し、「他のメディアは傍観するか、お茶を濁すだけだろう。せいぜい「最近は韓国籍の人も通っている」とか「朝鮮学校も変わっている」云々というだけ」と推測も込めて記したが(「『産経新聞』は何を「明らかに」したのか――朝鮮学校と高校「無償化」問題」参照)、その通りになった。

 タイトルからわかるように『朝日』社説の趣旨は、高校「無償化」から朝鮮学校を除外することに対する批判である。朝鮮学校を除外するために『産経』及び中井拉致相が持ち出した論拠に疑問を呈している。問題はその論法である。

 「北朝鮮という国家に日本が厳しい姿勢をとり、必要な外交圧力を加えるのは当然だ。しかしそれと、在日朝鮮人子弟の教育をめぐる問題を同一の線上でとらえていいのだろうか。
 朝鮮学校は日本の敗戦後、在日朝鮮人たちが、母国語を取り戻そうと各地で自発的に始めた学校が起源だ。1955年に結成された朝鮮総連のもとで北朝鮮の影響を強く受け、厳格な思想教育が強いられた時期もある。
 だが在日の世代交代が進む中、教育内容は大きく変わった。大半の授業は朝鮮語で行われるが、朝鮮史といった科目以外は、日本の学習指導要領に準じたカリキュラムが組まれている。
 北朝鮮の体制は支持しないが、民族の言葉や文化を大事にしたいとの思いで通わせる家庭も増えている。
 かつては全校の教室に金日成、金正日父子の肖像画があったが、親たちの要望で小・中課程の教室からは外されている。そうした流れは、これからも強まっていくだろう。」


 『朝日』ならこの問題をどう論じるか、の模範解答のような論理展開である。一読して明らかなように、『朝日』は外国人参政権からの朝鮮籍排除論に留保をした際と全く同様に、北朝鮮は問題だ、だが在日朝鮮人は変わった、昔とは違う、北朝鮮を支持しない者もいる、だから『産経』的排除論はおかしい、という論法を採用している(「『朝日』社説「外国人選挙権―まちづくりを共に担う」の問題」参照)。

 何度でも繰り返すが、こうした在日朝鮮人の思想・信条あるいは行動が日本社会が許容可能な程度のものになったことを根拠に「権利」付与を擁護するような論法は、長期的にみればむしろ在日朝鮮人を追い詰める結果を確実に招来する。「在日の世代交代が進む中、教育内容は大きく変わった」という表現は、「変わった」という事実を記しているのではなく、「変わった」ならば擁護しよう、という一種の圧力として機能するからである。

 高校課程相当の各種学校から朝鮮学校だけをあえて排除するという場合、説明責任を求められているのは排除する側の日本政府なのであって、朝鮮学校が排除されなくてもよい理由を列挙するというのは倒錯した議論なのである(「「多民族社会」日本の構想」参照)。朝鮮学校が高校課程相当の各種学校であることが確認されさえすれば、高校「無償化」の枠内に含むのが当然なのであって、「在日の世代交代が進む中、教育内容は大きく変わった」「北朝鮮の体制は支持しないが、民族の言葉や文化を大事にしたいとの思いで通わせる家庭も増えている」云々という言い草は、日本の反朝鮮感情におもねったものであって非常にたちが悪い。

 川端文科相は「外交上の配慮や教育の中身に関してのことが判断材料になるものではない」と語ったとのことであるから、「教育の中身」の変化を持ち出して排除反対の論理を組み立てた『朝日』の社説は、文科相と比べても遥かに問題含みであることがわかる。

 なお誤解を避けるために言っておくが、私は、朝鮮学校側はこうした主張をしていないとか、こうした主張を望んではいないと言っているわけではない。むしろ学校関係者からすれば、こんな社説でもありがたいと思うのは当然であろうし、また、学校側は自らが当事者であるがゆえに『朝日』社説と同内容の弁明をせざるを得ない状況に置かれている。問題は当事者がほとんど発言の選択肢の無い状況でなさざるを得ない理不尽な弁明を、何ら自省することなくマスメディアが反復することにある。

 こうした意味では「中井担当相は一度、川端文科相とともに朝鮮学校を視察してみてはどうだろう。/そこで学んでいるのは、大学を目指したり、スポーツに汗を流したり、将来を悩んだりする、日本の学校と変わらない若者たちのはずである」というこの社説の結びは、こうした当事者の苦渋を無視した、能天気の極みといわざるを得ない。

 これまでも朝鮮学校は繰り返し公開授業を行い、各種の文化行事を開いて「地域社会」に自らの姿をさらしてきた。なぜ学校に通う/通わせる可能性のある在日朝鮮人を主たる対象としてではなく、「地域社会」を対象に公開授業を行わなければならないのか。それは言い換えれば朝鮮学校が「地域社会」に包囲されているからではないのか。これは体験的なことであるが、以前参加した「在特会」批判の集会で、良心的な支援者が「朝鮮学校側ももっと地域社会に自らを開いてください」と要望するのを聞いたことがある。ただでさえ在特会の件で腹が立っているのに、この発言には本当に失望させられた。朝鮮学校が「地域社会に開」く負担を負わされている状況と、在特会が跋扈する状況は地続きではないのか、という問いが決定的に欠落しているのである。
 

 こうした文脈で『朝日』が記す「朝鮮学校に通う生徒も、いうまでもなく日本社会の一員である」という一文は、なかば脅迫に近い。案の上の『朝日』の社説であった。
by kscykscy | 2010-02-24 18:08
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