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伊藤真は日本国憲法の価値を知っているのか

 前回の末尾で私は、伊藤真の外国人参政権論を「あからさまな事実誤認」「論理的思考力の無さ」「外国人参政権をつぶすための謀略なのではないか」と決めつけたが、罵りっぱなしはよくないので、改めてその問題点について詳述しておきたい。

 まず「あからさまな事実誤認」だが、これは大きく二点ある。第一は以下の部分。

 「明治憲法の時代、日本は多くの植民地を持っていました。朝鮮半島、台湾などを占領し、そこに住んでいた人々を大日本帝国の臣民つまり日本国民にしてしまいました。そして、帝国臣民として日本民族に同化させるため、日本名や日本語の強要、天皇崇拝などの皇民化政策がとられます。日本国籍を持つことになるわけですから、制限はあるものの参政権(選挙権、被選挙権)が保障されていました。

 前回にも書いたが、植民地期を通して大多数の朝鮮人には帝国議会の参政権は無かった。衆議院議員選挙法が朝鮮に施行されなかったからである。あったのは一定の条件を満たした在「内地」の朝鮮人成人男性だけである。よって「日本国籍を持つことになるわけですから、制限はあるものの参政権(選挙権、被選挙権)が保障されていました」と、あたかも「臣民」になったことにより直ちに参政権が保障されたかのように記すのは事実誤認である。

 第二点は以下の段落。

 「戦後、日本はポツダム宣言を受諾し、台湾、朝鮮などの旧植民地に関する主権(統治権)を放棄します。その結果、旧植民地の人々は日本国籍を失い、外国人として生活することを余儀なくされます。これにより日本国内における生活実態は何も変わらないにもかかわらず、参政権は奪われました。

 これも歴史的事実に反している。確かにポツダム宣言の第八項には「「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルヘク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ」とある。これを受諾したのだから当然日本は朝鮮などの主権を放棄したことになる。だが日本政府は、これがただちに在日朝鮮人の法的地位の変動――つまり独立に結びつくことを全力で阻止した。具体的には在日朝鮮人は1945年9月3日以降も、引き続き「帝国臣民」であるとの立場を堅持したのである。連合国側もおおむねこれを黙認した。よって、ポツダム宣言受諾の結果、「旧植民地の人々は日本国籍を失い、外国人として生活することを余儀なくされます」という理解も誤りである。日本政府は在日朝鮮人が「日本国籍を失」うことを認めなかったのである。

 だが確かに、在「内地」朝鮮人成年男子の参政権は「奪われた」。1945年12月の衆議院議員選挙法改正の際、戸籍法適用対象者以外の者について参政権を「停止」したからである。ここでわざわざ戸籍を持ち出したのは、日本政府としては在日朝鮮人が「帝国臣民」でなくなり、独立国民として帝国の支配の枠から脱してしまうのを容認したくない、だからといってそれまでのように参政権を持ったままでは、来る1946年の総選挙で何を主張されるかわからない、もしかしたら国体変革の有力な勢力になってしまうかもしれない。こうした二つの憂慮を同時に無くすために、日本政府は戸籍を持ち出したのである。

 つまり、日本政府はポツダム宣言受諾によって在日朝鮮人が即時「外国人」になったとの解釈を採用しないために、「戸籍」という基準で朝鮮戸籍令適用対象者の参政権を「停止」したのである。

 伊藤は「臣民」になればただちに参政権が付与されると誤解しているので、ポツダム宣言受諾と同時に朝鮮人は「臣民」でなくなり、よって参政権も無くなったと考えたようである。

 この間違いは「大日本帝国」という存在についての根本的な考え違いに由来するものと思われる。伊藤は、大日本帝国が、そもそも不平等を悪いこととみなしていない体制であるという事実を忘れているのである。比較的巷間に流布しているものとして、大日本帝国の頃は朝鮮人も同じ「国民」だった、だからまがりなりにも平等だった、的な物言いがあるが、これは大きな間違いである。私は「平等をうたっていたのに差別があった」と言いたいのではなくて、そもそも大日本帝国は「平等」などはなからうたっていないのである。

 まず、帝国憲法にはそもそも主権者(天皇)が臣民を差別してはいけないなど一言も書いていない。それどころか朝鮮には帝国憲法すら施行されていない。あんまり弾圧しすぎて「統治」がうまくいかなくなったとか、兵隊や労働者が足りなくなってつれてくる必要がある、とかいうときに「一視同仁」みたいなことを言ってみるだけである。大日本帝国に「平等」の文字など無いのだ。だから別に朝鮮に衆議院議員選挙法を施行しなくても平気なのである。伊藤はここのところが理解できていない。なんとなく、無自覚に日本国憲法的なシステムが戦前にもあったかのように考えているのである。そうした意味では、伊藤はある意味で日本国憲法の「ありがたさ」を本当には理解していないのである。

 さて、次は「論理的思考力の無さ」である。この植民地期の話をマクラに、伊藤は現代の外国人参政権の話に持っていく。

 「そもそも、選挙権のような参政権は、民主主義を実現するための人権です。そして民主主義とは、治者と被治者の自同性という言葉で表されますが、その国で支配される者が支配する側に廻ることができる、つまり一国の政治のあり方はそれに関心を持たざるを得ないすべての人々の意思に基づいて決定されるべきだということを意味します。
 とするなら、日本で生活し、日本の権力の行使を受ける者であれば、その政治に関心を持たざるを得ないのですから、たとえ外国人であっても、それらの者の意思に基づいて政治のあり方が決定されるべきだということになります。
 つまり外国人であっても生活の本拠が日本にあるのであれば、選挙権が保障されるべきだということになります。このことは民主主義原理からはむしろ当然の要請なのです。」


 非常に単純明快である。だがそもそもこの話をするのに前段の「明治憲法」の話は必要なのだろうか。伊藤も言っているように植民地期には日本政府は朝鮮人を「臣民」とみていたわけだから、在「内地」朝鮮人の参政権は「外国人参政権」ではない。もちろん、帝国憲法下において外国人に参政権など無い。植民地期の参政権の話は「外国人であっても生活の本拠が日本にあるのであれば、選挙権が保障されるべきだ」という主張を何ら補強することにはならないのである。だから私は「論理的思考力の無さ」をあげつらい、どこからでも批判できるから「外国人参政権をつぶすための謀略なのではないか」と罵ったのである。

 そもそも小沢一郎や舛添要一のような人物が植民地の在「内地」朝鮮人の参政権をことさらに持ち出すのは、彼らが自覚的な右派だからである。彼らは日本政府と在日朝鮮人の関係性について、植民地期の帝国政府と在「内地」朝鮮人の関係性を参照しつつ、参政権と帰化の両方を念頭に置きながら語っている。そもそも大日本帝国が否定されるべき対象だと思っていない(つまり右派)からこそ、『嫌韓流』がそうだったように植民地期を日本と朝鮮の理想時代と捉え、そこから何かを汲み取ろうとする(もちろん米国と戦争して負けたことは「反省」している)。その限りで彼らは一貫している。

 だがまがりなりにも日本国憲法を「護る」と言っている立場の人間が、大日本帝国期の異民族支配のあり方についてこれほど無知でいいのだろうか。日本国憲法の理念(そんなものがあるのならばだが)を擁護するものが外国人参政権を語るなら、間違っても在「内地」朝鮮人の参政権など参照してはいけないのである。「リベラル」は本当に大日本帝国を忌むべき対象と思っているのか。はなはだ疑問だ。
by kscykscy | 2009-12-11 22:43
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