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再び「併合無効宣言」と在日朝鮮人の「日本国籍」について――kokogiko氏の批判に応える 

 前々回の記事に対し、kokogiko氏より「「併合無効宣言」と在日朝鮮人の「日本国籍」に関して」と題した批判を頂いた。拙文を読んでいただいたことにお礼申上げつつ、この場を借りて批判に応えることにしたい。

 kokogiko氏は色々と書いているが、論点を拡散させないためにも、差当り私の議論に直接触れているものに限定して反論しよう。
 まず、kokogiko氏は次のように記している。

 間違った手順によって行われた施策が無効だったことを認めるのと、しかしその間違った施策が実効的に行われたことについて、それに翻弄された結果としての現実を生きている生身の一個人に対し、筋を通した便宜を図ることは、別に考えるべきことじゃないんですかね。

 その通りである、と書きたいところだが、一点だけ違う。両者は「別に考えるべきこと」ではない。むしろ、併合が無効だからこそ「それに翻弄された結果としての現実を生きている生身の一個人に対し、筋を通した便宜」はより図られることになる。併合が無効ならば、その併合が有効であることを前提に行われた諸施策は法的正当性を失い、再審に付される。例えば、併合=無効なのであれば、治安維持法による朝鮮独立運動者の逮捕や、独立運動への「国体変革」条項の適用はその前提となる「朝鮮=日本領、日本領からの朝鮮分離=国体変革」という前提を失うことになる。よって、これらの逮捕、拘禁、刑の宣告、収監、あるいは殺傷は全て違法な国家の行為であり、謝罪と賠償、名誉回復、関連史料の公開の責任を日本国家は負うことになる(もちろん、これは一例に過ぎない)。

 逆にいえばこれらの効果を生まない「併合無効宣言」には政治的儀式以外の何の意味もない。以前記したように、私が和田春樹の「併合無効宣言」を警戒するのは、併合無効宣言を「和解」のセレモニーとすることを危惧しているからである。

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 何より、確立協をはじめとする「権利としての日本国籍」論は初めからこうした理論構成を取ろうとはしていない。確立協にしても、大沼保昭の議論にしても、併合条約が有効であったことが立論の根拠になっおり、「間違った手順によって行われた施策が無効だった」と認めているわけではない。よって、私は「権利としての日本国籍」論は併合無効宣言に反対するのが筋であるし、反対せざるを得ないであろう、と記したのである。

 kokogiko氏の批判に戻ろう。氏は続けて以下のように記している。

 そもそもその理屈だと、日本国民として合法的に日本領内に移住したはずの多くの現在日朝鮮人の祖先たちは、その時点に遡って日本国籍が無効だった、という話になるのであれば、不法入国者として罪人扱いになると思うのですが、それでOKなんでしょうか。

 なぜこういう「理屈」になるのか私には全く理解できない。kokogiko氏の脳内ではそうなるのかもしれないが、私の結論は全く逆である。前述したように、併合条約が不法・無効ということになれば、日本による朝鮮植民地支配そのものの再審が始まる。当然植民地支配に伴って生じた様々な国家暴力の被害に対する謝罪、補償をしなければならない。kokogiko氏は、私の理屈だと、併合が無効となれば在日朝鮮人は「不法入国者として罪人扱いになる」、と記しているが、これは私の議論の悪質な曲解というほかない。私の立論からは、日本による不法な植民地支配により生じた朝鮮人渡日者を日本の官憲が取締ったことに対する再審、植民地期の渡航管理や強制送還措置に対する謝罪、という結論が出てくることはあっても、朝鮮人の渡航の再不法化という結論が導き出される余地は無い。

 私は以上の立場から、「併合=有効」認識を前提にした「権利としての日本国籍」論に基く帰化要件緩和ではなく、「併合=不法」認識を前提とした在日朝鮮人の諸権利(例えば在留権/帰還権(*1))承認とその保護こそが、日本国家のなすべきことであると考えている。帰化要件緩和の議論は植民地支配とは無関係に国籍法一般の議論としてやれば充分である。帰化要件緩和云々を植民地支配とリンクさせ、特別永住者に限定してしまうと、どうしても「併合=有効」を前提にせざるを得ない。だが、国籍法一般の議論ならば、例えば「居住」要件を重視するなどすれば、昔「日本臣民だったから」という理由を用いなくても充分に緩和が可能である。参政権問題についても同様の形で議論するべきだと思う。(ただ、もし上述の諸権利承認と、「居住」を要件とした外国人参政権が実現すれば、日本国籍取得すること自体の意味が減少するだろう。)

 以上である。率直に言って、kokogiko氏は私の書いていることを理解した上で批判しているというよりも、氏の誤解に基いて作りだされた虚像を揶揄している過ぎないが、kokogiko氏の解釈が私の見解であるかのように流布されることは避けたいので、この場を借りて反批判の記事を書かせていただいた。
 
 ただ、kokogiko氏の併合無効宣言と「権利としての日本国籍」は、「別に考えるべきこと」との一語はなかなかに興味深い。両者を「別に考え」ることは、植民地支配責任は取りたくないが、日本が反省しているというポーズを取りたい人々にとっては、ぜひとも採用したい立場だろう。この点において和田春樹的「併合無効宣言」は確立協的「権利としての日本国籍」論と手を携える可能性が、全くないわけではない。前者は所詮「和解」のセレモニーに過ぎない(つまり何ら実質的効果を生まない)のであるから、後者と野合するのはそう難しくないだろう。kokogiko氏のような方を納得させることもできる。なかなか「現実」的な代案ではないか(もちろん皮肉である)。


*1 「在留権/帰還権」とセットで書いたことには理由がある。「帰還権」というと、在日朝鮮人が帰国すれば「問題」が解決すると思っているんだろう、と邪推されることが多いが、そうではない。私は帰還を援助してくれ、といっているのではなく「帰還の権利」を承認せよ、といっているのである。帰還が「権利」たりうるためには、当然「帰らないでもいい権利」が保障されていなくてはならない。このため、常に「帰還権」と「在留権」は一体でしかありえないのである。
by kscykscy | 2009-09-28 00:10
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