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和田春樹の天皇訪韓提案と「東アジア共同体」

 前回書いたように、和田春樹は『世界』2009年4月号に寄稿した「韓国併合100年と日本 何をなすべきか」(以下、和田論文)と題した論文で、韓国併合100年に際して「当然実現されていい懸案」として、「天皇皇后のソウル訪問」(168頁)を挙げている。天皇が大統領主催の晩餐会で村山談話の表現を取り入れた挨拶をすれば「日本国民の心を伝えるものになるはず」で、しかも天皇皇后が高宗、純宗の廟を訪れ、「花輪を捧げ、頭を垂れれば、植民地支配への反省を象徴的に表わすという意味で、意義深いことであろう」(169頁)というのである。

 和田春樹が天皇のソウル訪問を主張したのはこの論文が初めてではない。むしろ90年代からの一貫した主張といっていいが、来年の「併合100年」にあわせて和田は改めて天皇訪韓の意義を強調しているといえる。韓国内のメディアでも同様の提案を行っている。

 結論から言おう。私はいかなる形、いかなる時期であっても、「天皇」が「天皇」として朝鮮半島を訪れることには反対である。和田は「天皇がソウルを訪れて、高宗の廟に花を捧げるだけでは意味がない、謝罪と償いの新たな行為を伴わなければ意味がないという考えがあるかもしれない」と、自らへの反論を予め天皇訪韓をめぐる条件論へと限定し、論点を意図的に「天皇がソウルで何をなすべきか」へと誘導しているが、問題はそんなことではない。

 日本政府は、併合条約は当時としては合法に締結された、と主張している。一方、村山談話は「遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」と植民地期を規定する。つまり、併合そのものに問題は無いが、統治の過程で「多大の損害と苦痛を与えました」というのが、政府の立場である。

 併合条約によれば、「韓国皇帝陛下ハ韓国全部ニ関スル一切ノ統治権ヲ完全且永久ニ」天皇に「譲与」し(「韓国併合ニ関スル条約」第一条)、かつ天皇はそれを「承諾」している(第二条)。だがこれ自体は問題ではなく、あくまで「統治」の過程での「損害と苦痛」だけが問題になる。つまり「譲与」を「承認」した明治天皇の行為は全く問題にされず、あくまで問題は「君側の奸」にあるというわけだ。

 だが問題は天皇制そのものにある。日本敗戦直後に被侵略地域から天皇制廃止の声が起こったのは、45年以前のあらゆる侵略が天皇の名において行われたからであり、最低限天皇制が廃止されない限り、日本に対して講和は行わないという意思の現れだった。しかし天皇制はこうした要求をかいくぐり、封殺しながら巧みに生き延びた。その天皇が、天皇の地位にあるままで、ソウルを訪れることは、植民地支配を反省する意思表示なのではなく、むしろその逆、天皇制が植民地支配及び侵略責任を回避しきったということを意味するに過ぎない。

 しかも和田はこれを高宗の廟の前でやれといっている。高宗はハーグ密使事件によって退位に追い込まれ、1919年の死は三一運動の引き金にもなった。しかも毒殺説が有力な説として未だに主張されており、日本政府はその真相究明すら行おうとしない。そういった状態で、天皇が高宗の廟に頭を下げるということは、植民地支配を反省するどころか、いまだに天皇なるものが平穏無事に存在し続けていることを象徴的に示す行為であるといえよう。つまり、天皇のソウル訪問及び高宗の廟への献花は、単なる天皇の「勝利宣言」なのである。

(※ちなみに私は天皇が朝鮮の土を踏んでもよい場合は二つあると考えている。一つは天皇制が廃止され完全な私人になった場合、もう一つは日本の植民地支配・戦争責任を裁く国際法廷が朝鮮のどこかの都市で開かれ、そこに被告あるいは証人として出廷を要求された場合である。いずれも現時点では実現可能性は低いので、どちらにしても天皇の朝鮮訪問には反対である。)

 おそらくこうした意見はそう突飛なものではないと思う。少なくとも韓国内でもこうした世論は存在するはずだ。だが、おそらく和田は、だからこそ天皇の訪韓を主張しているのではないだろうか。
 
 和田論文では92年に明仁天皇が中国を訪問し、中国国民への「苦難を与えた不幸な一時期」について「悲しみ」を示し、「我が国民は、このような戦争を再び繰り返してはならないとの反省にたち、平和国家としての道を歩むことを固く決意して、国の再建に取り組みました」との発言したことが「中国政府に好意的に受け取られた」と肯定的に評価している。訪韓にしてもこれと同様の効果を狙っていることは歴然としており、つまり、和田が意図しているのは、韓国政府の、あるいは韓国政府による対日批判の押さえ込みであるといえる。

 言うまでも無く、中国政府に対する天皇発言は事実に反している。明らかに日米安保条約は中国を仮想敵国の一つに据えていたし、サンフランシスコ講和条約後の米軍駐留の根拠の一つとなった「国連軍地位協定」(1954年2月19日署名)は、朝鮮民主主義人民共和国及び中華人民共和国を侵略者と規定した国連安保理及び総会決議に準拠している。1972年の国交回復後もそれは変わらない。これら諸協定の修正あるいは撤廃のために日本政府が能動的に行動したことは無く、またその意思も無い。中国に対し、日本が「平和国家」どころか明確に敵対姿勢を示していたのは歴然たる事実である。これは和田が多大な影響を受けたと公言している竹内好『現代中国論』の認識とも全く背馳するものといえる(私自身は竹内の中国論に賛同しているわけではないが)。

 だが逆に考えてみると、これは「提言」でも強調されている「戦後日本礼賛」の主張と軌を一にするものであるともいえる。あくまで日本の侵略の問題については、1945年8月15日以前に限定させ、「戦後」日本については平和国家としてアジアとの協調を望んできたのだというラインで押し通す。しかも、45年以前についても法的責任は絶対に承認せず、天皇のあいさつで「手打ち」をする。天皇訪韓についても同様の意図があるといえるだろう。

 また一方で和田は天皇訪韓によって、日本の右翼勢力を黙らせる効果も期待しているのではないか。天皇訪韓主張については右翼から「陛下の政治利用」として猛烈な批判がある。だが、実際に天皇が行けば、ごく一部の右翼勢力以外は言うことを聞くだろう。そしてこの「手打ち」によって、日本・韓国・中国の協力関係――「東北アジア共同の家」を実現する。こうした構想を和田は持っていると思われる。

 政府は戦後一貫して責任を果たそうとしなかったし、その結果国民も別にアジアに対する侵略責任があるとは大して考えていない。被侵略地域の人々はこうした日本のあり方に不満を持っている。当然である。だがこうした不満に対し、日本の政府関係者や国民はこれまた不当だと感じる。戦後日本では侵略責任を果たすための苦痛に満ちた戦いが全く行われなかったのだから、こうした反応は当然起こるだろう。だがこれでは東アジア共同体なんてできようにもない。そこで天皇の登場、というわけだ。

 つまり、和田は今後東アジアにおける何らかの「共同体」的なものを作っていく際に、天皇にその調停役としての機能を担わせるつもりなのではないか。だとするならば、今回の天皇の訪韓要求は、明らかにその第一歩である。そして、朝鮮民主主義人民共和国との国交「正常化」の際には、和田は天皇の平壌訪問を語りだすだろう。東アジアの至るところで天皇の「勝利宣言」がこだますることになる。和田の提案する薄気味悪い東アジアの「未来」を、私は絶対に拒否する。
by kscykscy | 2009-03-17 05:13
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