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植民地支配の清算こそ国益、という発想の危険性

 ずいぶん古い文章になるが、2001年6月付で掲載されている日本の戦争責任資料センター代表・荒井信一氏の「戦争責任・植民地支配の清算こそ国益」という文章を読んで驚いた。荒井は比較的早くから日本の戦争責任問題を歴史研究の対象に据えてきた歴史学者である。韓国併合については不法論の立場に立つため、植民地支配責任の問題を考える際に、私もその仕事から多くを学んでいたつもりだった。

 だがこの文章には少し驚いた。サイト運営者がつけたタイトルかとも思ったのだが、本文を読んでみると確かに「直接的には日朝交渉、国交正常化とかかわりますが、植民地支配の責任を清算することが、日本の国益にとって非常に重要だということをもっと強調していく必要があります」と書いてある。私はこういったレトリック、つまり責任を取った方が日本の得になる、という論法には、相当深刻な問題があると思う。

 荒井氏は続く文章でこの点をさらに展開しており、ここでの論理にも相当な問題があるのだがそれは後述する。まずは基本的認識のレベルを問題にしたい。私は、植民地支配責任に応じることと、「日本の国益」の増大云々をリンクさせて論じるべきではないと考えている。植民地支配責任に応じることは、「日本の国益」の増大云々とは無関係に考慮されなければいけないことだからだ。仮にそれが「日本の国益」を著しく損なうことになるとしても、植民地支配責任を果たさねばならない。

 なお、ここでいう「国益」には、国家の利益、現政権の利益のみならず、国民の利益も含まれていると考えるべきだ(荒井氏も後者の用法を含めていると思う)。つまり、仮に「植民地支配の責任を清算することが、日本国民の利益にとって非常に重要」と記していたとしても、同様に私は問題があると考える。

 というよりもむしろ、植民地支配責任に応じるということは、進んで「日本の国益」を損なうということなのではないのだろうか。こう書くと右翼と同じことを言っているようだが、多分私は事実認識に関しては同じことを言っているのだと思う。

 例えば日本が第二次大戦に敗北を前後して連合国が構想し、一部実施された賠償案では、日本の生産水準を日本に侵略された他の東アジア諸国以下に引き下げることが目的とされていた。具体的には工場施設などを日本からそれら諸国に移転するというもので、確か朝鮮にも機関車何台かが運ばれたと記憶している。

 結局、中国革命に対応するために米国が日本の経済復興と基地化を急いだため、ほとんどこの賠償案は骨抜きになったのだが、私はこの賠償は徹底されるべきだったと考えている。日本敗戦直後の一般国民の窮乏は相当に深刻であったし、在日朝鮮人の状況はそれに輪をかけてひどい状態だった。だがそうであったとしても、日本の生産水準を他の東アジア諸国以下に引き下げるという発想は、非常に重要かつ絶対に実行されるべき最低限の賠償だったと思う(もちろん、それだけでは不十分だが)。

 だがこれは日本の支配層のみならず、窮乏状態にあった国民からも相当な反発を受けただろう。ある意味当然である。少なくともこの賠償方法は、「日本の国益」増大云々とは無関係であったし、むしろそれを封じ込めるためのものだったからだ。だから、責任を取った方が日本の得になる、という論法はそもそも誤っているし、こうした論法は必ずや広範な国民的な責任回避願望の前に、自らの修正を余儀なくされる。日韓条約をめぐる論議のなかで、革新勢力が「朴(ボク)にやるなら僕(ボク)にくれ」という醜悪極まりないスローガンを作り出したのは有名な話だが、こういった平等主義的な分配要求を偽装した排外的責任回避論に、責任を取った方が日本の得になる、という論法は絶対に勝ち得ない。なぜなら、得にならないからだ。

 現在の格差社会論の趨勢を見ていると、日朝交渉が進み始めたとき、左派が「あんな独裁国家に金をやるなら貧困救済しろ」と言い出すのではないかという危惧を禁じえない。もしかしたら「朴にやるなら僕にくれ」以上の最低なスローガンすら作り出すかもしれない。そうした人々を前に、荒井氏のような論法はいかほどの力を持てるだろうか。はなはだ心もとない。
by kscykscy | 2009-02-05 07:33
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