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菅談話と日韓条約について

 8月10日に発表された韓国併合100年に関する首相談話(以下、菅談話)に際し、日本の主要紙は揃ってうんざりな社説を掲載した。以下にタイトルを列挙しておこう。

  朝日「併合100年談話―新しい日韓協働の礎に」 
  毎日「併合100年談話 未来へ向け日韓の礎に」 
  読売「日韓併合談話 未来志向の両国関係に弾みを」 
  日経「未来志向の日韓関係へ行動を」 
  東京「日韓併合談話 歴史を胸に刻み未来へ」 

 五紙の社説の関心はほぼ一点、菅談話と日韓条約の関係に絞られている。とりわけ個人請求権・文化財問題は解決済みという日本政府の公式見解から菅談話は逸脱するものではない、ということをいずれの社説も強調している。該当部分を抜け出せば以下のようになる。

 「談話は補償問題につながるような記述は避けた。現実的な対応として理解できる」(『毎日』)
 「今回の首相談話により、韓国国内で元「従軍慰安婦」などに対する補償を要求する声が再燃する可能性もある。しかし、新たな請求権は認めないとする日本政府の立場は堅持すべきだ」、文化財は「日本側に引き渡す義務はないが、韓国側から要望のあった文化財を譲渡することで、和解を進める狙いがあると見られる」(『読売』)
 「もちろん首相談話や朝鮮半島由来の史料の引き渡しが、65年の日韓基本条約で法的に決着済みの請求権問題などをめぐる議論を再燃させないよう努める必要がある」(『日経』)
 「国交が正常化した六五年の「日韓基本条約」では、両国は韓国国民に対する植民地時代の個人補償も含めた請求権は決着したと確認した。菅首相も会見でこの点を強調した。」「請求権問題を見直すのではなく、日韓双方が未解決だと判断した場合にだけ限定的に取り組むべきだ」(『東京』)


 絶対に補償したくない、文化財を略奪したことにしたくないという各紙の熱い思いがよく伝わってくる。『朝日』だけは明示的に書いていないが「日本政府が保管する朝鮮王朝の文書を韓国に渡すようにしたのは良いことだ」と、政府と同じく「渡す」という表現をあえて選択していることから、まあ同じだろう。五紙のうち四紙が「未来」という言葉を使っているのがまた気味が悪い。

 また、五紙ともに今回の談話が対象を韓国に限定して出されたことのおかしさに一切触れていないのも理解に苦しむ。言うまでも無く「韓国併合」の「韓国」は別に現在の大韓民国を意味するわけではない。植民地支配は全朝鮮に対してなされたのである。もし謝罪するなら朝鮮民族全体、南北両政府に対して行うのが当然である。

 これに関して一番ひどいのは『朝日』である。『朝日』は唯一朝鮮民主主義人民共和国について触れたが、それは「談話に北朝鮮問題についての言及はなかったが、不安定な北朝鮮情勢に対応し打開していくためにも、日韓の協調がさらに求められる」という文脈で、である。「談話に北朝鮮問題についての言及はなかった」とはどういうことか理解しがたい。各紙は朝鮮植民地支配がどういった事象だったのかを理解しているのだろうか。ちなみに朝鮮民主主義人民共和国の宋日昊大使は菅談話を辛らつに批判している(『共同通信』2010/08/13 16:56)。制裁の問題も含めて至極まっとうな(そして日本で読める唯一まともな)批判である。

 さて、このように各紙とも気味が悪いほどに足並みをそろえている中で、唯一『産経』だけは「日韓併合100年 「自虐」談話は歴史歪める」 というタイトルを掲げ暴れまわっている。『産経』は菅談話が村山談話以上に植民地支配への謝罪に踏み込んだと見て、「菅談話は明治以降の日本の先人たちの努力をほぼ全否定し、韓国の立場だけを述べている。どこの国の首相か疑ってしまう」と怒り心頭である。また「35年間に及ぶ日本の朝鮮統治には、反省すべき点もあるが、鉄道建設や教育の普及など近代化に果たした役割は大きい。朝鮮名を日本式の姓名に変える創氏改名や日本語教育も行ったが、それらは強制されたものではない」と相変わらず植民地近代化論を繰返している。

 私は菅談話の評価としては『産経』以外の五紙の評価が的確だと思う。つまり、菅談話は歴代政権からそう逸脱していないし、そんなに大したものではないのである。

 ただ、興味深いことに韓国政府や日本の進歩派の人々の菅談話理解は、むしろ『産経』に近い。『中央日報』によれば、青瓦台のスポークスマンは「過去の談話に比べて、韓国を特定して併合に強制性があった点を認めた」と語ったという(『中央日報』2010.08.11 02:07)。つまり村山談話以上のものだという理解である。和田春樹氏も韓国の新聞のインタビューに答えて「全体的な文脈からみて韓日併合が強制的だったという事実を認定した。併合条約が無効との内容が含まれなかったのは惜しいが、過去の談話に比べて一歩前進と評価できる」と菅談話について語っている(『毎日経済』2010.08.12 17:33:02)。戦後補償運動の界隈でも菅談話を好意的に読もうとする意見に接することがある。

 韓国のメディアを見る限りでは菅談話は「併合無効宣言」とはほど遠いごまかしだという意見も少なからずあるようだ。私も同じ意見である。普通に菅談話を読めば五紙が礼賛したとおり、これが日韓条約で全部解決論を前提にしたものであることがわかるはずである。成果欲しさに願望でものを語るべきではないだろう。金光翔氏は「民主党政権に左翼が強い影響力を与えうると考えているのは、左派(メディア)とネット右翼だけだ」と的確な指摘をされているが(「佐藤優のいない<佐藤優現象>(下)」)、菅談話をめぐっても同じく愚かな構図が出来上がったようだ。
by kscykscy | 2010-08-15 02:45 | 日朝関係

再び「併合無効宣言」と在日朝鮮人の「日本国籍」について――kokogiko氏の批判に応える 

 前々回の記事に対し、kokogiko氏より「「併合無効宣言」と在日朝鮮人の「日本国籍」に関して」と題した批判を頂いた。拙文を読んでいただいたことにお礼申上げつつ、この場を借りて批判に応えることにしたい。

 kokogiko氏は色々と書いているが、論点を拡散させないためにも、差当り私の議論に直接触れているものに限定して反論しよう。
 まず、kokogiko氏は次のように記している。

 間違った手順によって行われた施策が無効だったことを認めるのと、しかしその間違った施策が実効的に行われたことについて、それに翻弄された結果としての現実を生きている生身の一個人に対し、筋を通した便宜を図ることは、別に考えるべきことじゃないんですかね。

 その通りである、と書きたいところだが、一点だけ違う。両者は「別に考えるべきこと」ではない。むしろ、併合が無効だからこそ「それに翻弄された結果としての現実を生きている生身の一個人に対し、筋を通した便宜」はより図られることになる。併合が無効ならば、その併合が有効であることを前提に行われた諸施策は法的正当性を失い、再審に付される。例えば、併合=無効なのであれば、治安維持法による朝鮮独立運動者の逮捕や、独立運動への「国体変革」条項の適用はその前提となる「朝鮮=日本領、日本領からの朝鮮分離=国体変革」という前提を失うことになる。よって、これらの逮捕、拘禁、刑の宣告、収監、あるいは殺傷は全て違法な国家の行為であり、謝罪と賠償、名誉回復、関連史料の公開の責任を日本国家は負うことになる(もちろん、これは一例に過ぎない)。

 逆にいえばこれらの効果を生まない「併合無効宣言」には政治的儀式以外の何の意味もない。以前記したように、私が和田春樹の「併合無効宣言」を警戒するのは、併合無効宣言を「和解」のセレモニーとすることを危惧しているからである。

再び天皇訪韓と和田春樹、そして「鳩山談話」について
和田春樹の天皇訪韓提案と「東アジア共同体」

 何より、確立協をはじめとする「権利としての日本国籍」論は初めからこうした理論構成を取ろうとはしていない。確立協にしても、大沼保昭の議論にしても、併合条約が有効であったことが立論の根拠になっおり、「間違った手順によって行われた施策が無効だった」と認めているわけではない。よって、私は「権利としての日本国籍」論は併合無効宣言に反対するのが筋であるし、反対せざるを得ないであろう、と記したのである。

 kokogiko氏の批判に戻ろう。氏は続けて以下のように記している。

 そもそもその理屈だと、日本国民として合法的に日本領内に移住したはずの多くの現在日朝鮮人の祖先たちは、その時点に遡って日本国籍が無効だった、という話になるのであれば、不法入国者として罪人扱いになると思うのですが、それでOKなんでしょうか。

 なぜこういう「理屈」になるのか私には全く理解できない。kokogiko氏の脳内ではそうなるのかもしれないが、私の結論は全く逆である。前述したように、併合条約が不法・無効ということになれば、日本による朝鮮植民地支配そのものの再審が始まる。当然植民地支配に伴って生じた様々な国家暴力の被害に対する謝罪、補償をしなければならない。kokogiko氏は、私の理屈だと、併合が無効となれば在日朝鮮人は「不法入国者として罪人扱いになる」、と記しているが、これは私の議論の悪質な曲解というほかない。私の立論からは、日本による不法な植民地支配により生じた朝鮮人渡日者を日本の官憲が取締ったことに対する再審、植民地期の渡航管理や強制送還措置に対する謝罪、という結論が出てくることはあっても、朝鮮人の渡航の再不法化という結論が導き出される余地は無い。

 私は以上の立場から、「併合=有効」認識を前提にした「権利としての日本国籍」論に基く帰化要件緩和ではなく、「併合=不法」認識を前提とした在日朝鮮人の諸権利(例えば在留権/帰還権(*1))承認とその保護こそが、日本国家のなすべきことであると考えている。帰化要件緩和の議論は植民地支配とは無関係に国籍法一般の議論としてやれば充分である。帰化要件緩和云々を植民地支配とリンクさせ、特別永住者に限定してしまうと、どうしても「併合=有効」を前提にせざるを得ない。だが、国籍法一般の議論ならば、例えば「居住」要件を重視するなどすれば、昔「日本臣民だったから」という理由を用いなくても充分に緩和が可能である。参政権問題についても同様の形で議論するべきだと思う。(ただ、もし上述の諸権利承認と、「居住」を要件とした外国人参政権が実現すれば、日本国籍取得すること自体の意味が減少するだろう。)

 以上である。率直に言って、kokogiko氏は私の書いていることを理解した上で批判しているというよりも、氏の誤解に基いて作りだされた虚像を揶揄している過ぎないが、kokogiko氏の解釈が私の見解であるかのように流布されることは避けたいので、この場を借りて反批判の記事を書かせていただいた。
 
 ただ、kokogiko氏の併合無効宣言と「権利としての日本国籍」は、「別に考えるべきこと」との一語はなかなかに興味深い。両者を「別に考え」ることは、植民地支配責任は取りたくないが、日本が反省しているというポーズを取りたい人々にとっては、ぜひとも採用したい立場だろう。この点において和田春樹的「併合無効宣言」は確立協的「権利としての日本国籍」論と手を携える可能性が、全くないわけではない。前者は所詮「和解」のセレモニーに過ぎない(つまり何ら実質的効果を生まない)のであるから、後者と野合するのはそう難しくないだろう。kokogiko氏のような方を納得させることもできる。なかなか「現実」的な代案ではないか(もちろん皮肉である)。


*1 「在留権/帰還権」とセットで書いたことには理由がある。「帰還権」というと、在日朝鮮人が帰国すれば「問題」が解決すると思っているんだろう、と邪推されることが多いが、そうではない。私は帰還を援助してくれ、といっているのではなく「帰還の権利」を承認せよ、といっているのである。帰還が「権利」たりうるためには、当然「帰らないでもいい権利」が保障されていなくてはならない。このため、常に「帰還権」と「在留権」は一体でしかありえないのである。
by kscykscy | 2009-09-28 00:10 | 日朝関係

「併合無効宣言」と在日朝鮮人の「日本国籍」

 前回の記事で、和田春樹が2010年を期に「鳩山談話」で韓国併合の「無効宣言」を出せと提案していることに触れた。併合無効については前回記さなかったので、私の立場を書いておこうと思う。

 私は併合条約の前提となる1905年条約は君主に対する脅迫があったため成立していない、という説は説得的なものであると考えるので、日本政府は併合無効を承認するべきだと思う。ただ、和田のいう「鳩山談話」は、無効宣言とバーターで日韓間の「歴史問題の完全解決」を図る、つまり一種の「終結」のセレモニーとなる可能性が非常に高い。私は、無効宣言は一つの「始まり」であると考えており、そうした観点から和田の提言に危惧しているのである。「併合無効」なんか宣言したら次は何を要求されるかわからないという右翼の危惧に、「いやいやそんなことありませんよ」と宥めるのが、和田流である。だが私は右翼が恐れるとおりにしなければいけないと思う。あんなことも、こんなことも、真相究明をさせ、責任追及を続けるべきなのである。

 さて、この「併合無効宣言」と関連して前々から気になっていたのが、在日朝鮮人の国籍、具体的には「権利としての日本国籍取得論」と「併合無効宣言」の関係である。

 「権利としての日本国籍取得論」とは現行の帰化制度を特別永住者に限定して緩和せよ、という主張である。「在日コリアンの日本国籍取得権確立協議会」(確立協)が代表的な運動団体で、自民党の国籍問題プロジェクトチーム(河野太郎座長)が「特別永住者等の国籍取得特例法案」というものも作成している。

 最近は、運動としてはあまり見る影が無いが、この主張は、確立協以外の在日朝鮮人や日本人にも支持者がそれなりに多いと思う。少なくとも特別永住者の日本国籍取得要件を緩和すべきだ、という主張に限定するならば、これを否定する人は実は非常に少ないのではないだろうか。民団をはじめ地方参政権獲得論が批判するのも、国籍取得特例法案は参政権法案つぶしだ、という一種の戦術論的(陰謀論的?)批判なのであって、原理的にこれに反対しているわけではない。今後それなりに盛り返してくる可能性は高いだろう。

 この議論の骨格は次のようなものだ。日本の植民地支配により在日朝鮮人は日本国籍に編入されたが、サンフランシスコ講和条約発効直前の1952年4月19日に「平和条約に伴う朝鮮人台湾人等に関する国籍及び戸籍事務の処理について」(通達438号)という法務省通達によって、在日朝鮮人は「日本の国籍を喪失」することになった。だがこの措置は不当であり、在日朝鮮人には日本国籍を認めるべきだ、というものである。

 実はなぜこの措置が不当なのか、という点については意見が分かれるところであって、例えば大沼保昭の場合はこの通達自体が違憲無効だということになるので、立法論ではなく解釈論として在日朝鮮人は自らの日本国籍を争えることになる(大沼保昭『在日韓国・朝鮮人の国籍と人権』東信堂、2004年)。つまり厳密にいえば大沼説の場合は、「特別永住者等の国籍取得特例法案」自体がいらないということになるのだが、差当りここでは踏み込まないことにしよう。重要なのは「権利としての日本国籍論」が、植民地期の朝鮮人の日本国籍を前提にしているということである。

 さて、ここで考えてみたいのは、植民地期の在日朝鮮人の「日本国籍」の根拠法は何か、という問題である。日本人の日本国籍の根拠法は、国籍法である(ただし1899年以前は国籍法が無いので戸籍ということになるだろう)。だが、よく知られているように朝鮮には植民地期に国籍法が施行されなかった。これは中国東北部に移住した朝鮮人に日本国籍を離脱させず、「帝国臣民」の「保護」の名の下に同地域に影響力を行使しようとしたためであった。「関東州」(後の「満洲国」)や南洋群島も施行されていない。

 では何が朝鮮人が「日本臣民」である根拠になるかというと、「韓国併合ニ関スル条約」である、というのが教科書的見解である。「日本国と韓国との双方の意思にもとづき、韓国が、その対人主権、すなわち韓国民に対する統治権を日本国に譲与し、したがって韓国民が日本国民となることを認めたものということができる」のだそうだ(江川英文・山田鐐一『法律学全集59 国籍法』有斐閣、1973年、98頁)。もちろん、その前提には「韓国の併合は条約によるものであって、平和的手段による併合ということができる」という理解がある(同上)。

 だがもしこの条約が無効だということになると、形式的には「権利としての日本国籍取得論」が前提にしている植民地期の日本国籍自体の法的根拠が失われることになる。なので私がとても気になっているのは、「権利としての日本国籍取得論」の人々が、この「併合無効宣言」という提案に対し、どういう立場を採るのかということである。

 論理的にいえば、「無効宣言」に反対するのが筋だと思う。少なくとも、特別永住者に限定した国籍取得要件緩和論を主張するならば、絶対に「併合無効」など宣言させてはならない。もちろん、帰化要件一般の緩和を目指す国籍法改正論ならば別である。だが、特別永住者に限った緩和論は、その「歴史的経緯」なるものを論拠にしているのであり、突き詰めて云えばその「歴史的経緯」なるものは植民地期の朝鮮人の「日本国籍」の存在と、当事者の意思を無視したその「喪失」措置という一点に集約されざるを得ない。繰返すが、外国人一般の帰化要件緩和論ならば話は別である。

 「無効宣言」に反対するのが筋だ、と書いたが、私はおそらく反対せざるを得なくなってくると思う。「無効宣言」と「権利としての日本国籍取得論」は両立しえないのである。よって、私の立場は併合無効、「権利としての日本国籍取得論」反対である。ただ「歴史的経緯」を語ればいいというわけではない。確立協の母体である「高槻むくげの会」だって、「帝国主義」という言葉を用いて日本の植民地支配を批判していたが、「権利としての日本国籍取得論」を維持している限り、この批判は必然的に退潮していくだろう。確立協が極めて同化主義的な傾向を見せているのも特段不思議ではない(*1)。

 逆に言えば、和田春樹はちゃんと「権利としての日本国籍取得論」を批判すべきだということだ。

(*1) 確立協系の人々は、日本国籍取得は同化であると批判されることをとても喜ぶのであまり言いたくないのだが、やはりあなたがたは同化論者である。なぜか。確立協の常套句の一つに、「民族と国籍は別」というのがある。既存の日本国籍取得反対論者は「民族=国籍」に囚われている、という例のアレである。
 だが、実際には「民族=国籍」という図式を強く持っているのは確立協系の論客に多い。例えば李敬宰の次の文章。

 例えば、すぐ「同化」だと言う人たちが、家に帰れば朝鮮の伝統的な家屋に住んでいるのかと言えば、絶対にそうではないと思います。そんな家屋は日本にほとんどないと思います。普通の日本式の家に住んでいるでしょうし、生活様式もほとんど日本式でしょう。日常的に出てくる民族的なものと言えば食卓にキムチがあったり、朝鮮料理があるという程度じゃないかなと思います。こうした生活様式は「同化」していないのだろうか。教育についても、日本語で教育を受けたら「同化」でした。今はもう一世を除いては、韓国語で教育を受けている人というのはほとんどいないのではないですか。ここでも、「同化」しています。ところで、総連系の民族学校を出た若い人たちが使う朝鮮語は、はっきり言って本当に朝鮮語なのかと思ってしまいます。日本訛り、日本語混じりの朝鮮語ですね。昔、在日一世の人が日本語を話すときは朝鮮訛りの日本語だったのですけれども、今総連系の若い人たちがしゃべっている朝鮮語は日本訛り、日本語混じりの「朝鮮語」(?)なんです。これは「同化」の極みになるのではないかと思います。(「在日韓国・朝鮮人と国籍」、佐々木てる編『在日コリアンに権利としての日本国籍を』明石書店、2006年、58-59頁。)

 その狭隘な民族文化観にはため息が出るが、この後李は、だから「同化」してるかどうかは「民族的素養」があるかどうかではなくて、民族差別を告発していけるかどうかにあるんだ、という話を続ける。だが、結局落としどころは、

 実のところ、子どもになぜ自分は韓国人なのかと問われたときに、私は答えられないのです。日本人の子が「なぜ私は日本人なの?」と聞いたときに、仮に「日本で生まれたから」と答えたとして、今度は在日韓国・朝鮮人の子に「なぜ私は日本人じゃないの?」と聞かれたら、どう答えたらいいのでしょうか。まさか、韓国人の血と日本人の血を識別する方法なんてないのですから、血の話では説明できません。子どもにちゃんと答えられない理屈なんて、どこか間違っていると思いませんか。〔中略〕もはや、こうした状況を、いつまでも放置しておけないのではないかなと思って、私は最近積極的に日本国籍の議論を進めているのです。(同上、71,72頁)

ということになる。つまり、在日朝鮮人のほとんどは「民族的素養」の点で「同化」している。そうではない「(反)同化」論に取り組んでみたけど、「民族的素養」の点で「同化」している子どもに説明できない、やっぱりこれは「どこか間違っている」、だから「日本国籍の議論を進めている」という論法である。

 つまり、李敬宰は在日朝鮮人は「民族」が日本に「同化」しているから日本国籍を取得すべしといっているのである。「民族=国籍」という等式に囚われているのは李の方だ。
by kscykscy | 2009-09-20 05:08 | 日朝関係