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軽蔑すべき「ある在日の歴史家」とは誰か

 金明秀氏のツイッターに、以下のような投稿があった。

「ある在日の歴史家が、「下からのレイシズムなどどうでもよい。それより、国家による上からのレイシズムこそが重要だ」という主張を繰り返している。ぼくは「両方が重大に決まってるだろう。頭でっかちにもほどがある」と軽蔑していたのだけど、昨日、尊敬する大先輩から同じセリフを聞いたのだった。」

 この「ある在日の歴史家」とは誰であろうか。「下からのレイシズムなどどうでもよい。それより、国家による上からのレイシズムこそが重要だ」と主張している、「頭でっかち」で「軽蔑」すべき者とのことだ。私はこの間、「上からの排外主義」への危機意識を喚起すべく、いくつか文章を書いた。一応「在日の歴史家」のはしくれである(「下からのレイシズムなどどうでもよい。」などとは書いていないが)。これらの事実から推測するに、軽蔑すべき「ある在日の歴史家」とは私を指すものと考えられる。特に、私がかつて金明秀氏と「論争」(まともな議論にならなかったので「」を付す。本当に不毛な経験であった)をしたことを知る者ならば、すぐに私を思い浮かべるであろう。

 仮に私の主張を指すならば、朴裕河氏のように名指しで批判をすればよいであろう。批判に応じる必要があると私が判断すれば応答するし、くだらないと考えれば無視する。いずれにしても、あてこすりのような真似をする必要はあるまい。それとも、かつての「論争」の意趣返しのため、あえて名を伏してあてこすりをしたのであろうか。さすがにそこまで臆病ではないと信じたい。

 ただし、ひとつだけ確認しておかねばならない。上にも書いたように、私は「下からのレイシズムなどどうでもよい」などという馬鹿げた主張はしていない、ということだ。あるいは、そのような「軽蔑すべき」「頭でっかち」な主張をしている「在日の歴史家」が他にいるということであろうか。少くとも私の知る限りでは、そうした主張を公の場で書いている者はいないが、仮に私ではないとするならば、迷惑なのでその点をはっきりさせるべきであろう。ツイッターといえども公共の場である。言論には責任を持つべきである。

(鄭栄桓)


by kscykscy | 2015-11-16 00:00

批判と解剖――金明秀「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」とその後の「弁明」について(終)

 はじめに記しておくが、金明秀のツイッターでの「反論」を扱うのは、ひとまずこの記事をもって最後としたい。

 そもそも私が金のエッセイを批判したのは、「朝鮮学校の存在が日本のためになる」ことを周知させる努力をすべきだ、という在日朝鮮人運動への「提言」が、極めて危険なものであると考え、その危険性について広く警鐘を鳴らしたかったからだ。現在に至っても執筆時のこの考えは変わっていない。むしろ朝鮮学校が日本にとって「リスク」ではなく「メリット」であると主張せよ、という「提言」への批判の必要性はさらに高まったとすらいえる(関連する記事にタグ付けしてまとめておいたので、参照していただきたい)。

 しかし、金明秀の「反論」はほとんどの場合、正面からの反批判というよりもただの言い逃れに過ぎず、その多くは支離滅裂で著しく明晰さを欠き、無闇に術語を濫用するため自ら制御不能に陥っている。弁明それ自体が互いに矛盾することすらある。何より、エッセイの「趣旨」「核心」「本来の論点」の名のもとに、明らかにエッセイそれ自体から読み取れない「新説」を展開して糊塗しようとするため、エッセイをめぐる筆者本人との論争が成り立たない。

 前回の記事で、「術語のマキビシ的使用」により批判を撹乱する手法について指摘したが、無限に「趣旨」や「意図」を後出しし続けるこうした手法も撹乱術としてよくみられるものである。あるサイトでまとめられている與那覇潤の論法(「與那覇潤先生の隠されたモチーフ一覧」)などはその典型といえる。これらは「研究者」を称する者たちのツイッター遊泳術を知るうえでは興味深いともいえるが、主張の検討に先立って、不誠実な弁明の欺瞞性や「反論」それ自体の矛盾を解剖し、暴かねばならないのは端的にいって徒労である。できれば、今回をもって金のツイッターでの弁明に直接応じることは最後としたい。

 まず基本的なことを確認しておきたい。私の批判は金明秀が2011年に書いた下記のエッセイに向けられている。

金明秀「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」

 金はこのエッセイの「趣旨」について、先日下記のように再説した(強調は引用者。以下同)。

「件のエッセイの趣旨は、(1)後期近代における排除型社会では、マイノリティの存在がリスク視され、リスクを嫌う人々から何重にも排除されることがある(=前近代的な差別がリバイバルしているように見えることがある)、」

「(2)したがって、排除型社会におけるマイノリティは、差別を禁じた近代的規範を呑気に信用していては危険であり、後期近代的な状況に対応して自らリスク回避の努力をする必要がある。」

「(3)その種の生存戦略は、近代的規範に照らせば屈辱的だと映るかもしれない。だが、近代的規範の普及期には、在日一世たちは実際にその種の生存戦略をとってきたことを想起すべき。そして一世たちにならって、まずは生き延びることを重視すべき。」

「(4)その種の生存戦略において重要なことは、マイノリティの存在そのものをリスク視するような認識フレームを転換することだ。事実、各種の調査研究を参照すると、リスク視されないマイノリティはどこの国でも(差別にはさらされていても)多重排除にはさらされていない。」

「(5)例えば、「朝鮮学校は日本のためになっている」という認識が日本には(そして総連コミュニティにも)存在しないため、そこを強調することで認識フレームを転換することができるかもしれない。」

「(5')試しにブログやツイッターで「朝鮮学校は日本のためになっている」という言説を投げかけてみたところ、思想的には左右両側面から《驚いた》という反応を受ける。認識のフレームをある程度揺るがすことはできているということだ。実践する価値はある。」

「…というものだ。このエッセイの中でぼくがもっとも主張したかったことは、他でもなく(1)である。社会学を学ぶ者にとっては自明の時代認識といえるこの知見が、しかし、一般にはあまりにも共有されていない。その危機感が書かせたエッセイだといってもいい。」

 まず金のいう「もっとも主張したかったこと」の奇妙さに触れておこう。金は「エッセイの中でぼくがもっとも主張したかったことは、他でもなく(1)」だという。つまり、「後期近代における排除型社会では、マイノリティの存在がリスク視され、リスクを嫌う人々から何重にも排除されることがある(=前近代的な差別がリバイバルしているように見えることがある)」ということをあのエッセイで言いたかった、というのだ。

 だが、冒頭に掲げた金のエッセイを読んで、この弁明を信じるものなどいるだろうか。金は現代は「リスク社会」(「再帰的近代」あるいは「後期近代における排除型社会」でもよい)という認識を前提に、だからこそ、「他者」が金の推奨するような「リスク・コミュニケーション」をせねばならない、と「提言」した。前段は明らかに後段を議論するための前提である。もし金のエッセイの「もっとも主張したかったこと」が前段であるならば、普通あのような書き方はしない。エッセイを読むと、前段(前提)と後段(提言)がベックの「リスク社会」論によってつながっているように読めるが、実際には前段からただちに後段の「提言」が導かれるわけではない。だから、後段の提言だけを金の地の文として読み、それ自体を検討の俎上に載せれば充分なのである。

 ちなみに、エッセイでベックの「リスク社会」という用語がキーワードとなっているにも拘らず、今回の弁解で「後期近代における排除型社会」へと変化しているのは、ベックの誤用を指摘されたからと考えられる。

 私はかつて、そもそもベックは、いまはリスク社会だから「他者」とされた側がリスク・コミュニケーションせよ、などとは一言も書いてない、ベックはハッタリで使われているだけだから無視して構わない、と指摘した。これをうけて金は「なるほど、「ハッタリ」だという指摘は完全な誤りというわけでもない。震災直後、リスク論に世間の注目が集まっていたので、いい機会だと思って名前を借りたという側面は確かにある。また、本来の論点は「再帰的近代における他者論」なので、ベックよりもさらに適切な研究者はいる。」「でもね、「再帰的近代(あるいはリスク社会あるいは排除型社会)における他者」という問題設定そのものはハッタリじゃないんだよ。あなたの言うとおり、ベックはそういう趣旨では書いてないんだけど、この分野ではむしろオーソドックスな問題設定なんだ。」と弁解した。

 この「本来の論点」云々の弁明がなされた時点で、やりとりを打ち切るべきだったと今では思っている。私は金明秀流の「リスク・コミュニケーション」を促す提言に、関係のないベックを使って飾り立てたことを「ハッタリ」だと指摘した。しかし、金は、私があたかも「再帰的近代(あるいはリスク社会あるいは排除型社会)における他者」という問題設定」を「ハッタリ」だといっているかのように歪曲し(「なるほど、「ハッタリ」だという指摘は完全な誤りというわけでもない」としているにも拘らず)、しかも自らがキーワードとして用いた「リスク社会」をさっさと捨ててしまった。こうした議論のすりかえが行われる時点で、もはや議論は成立することは困難であると気付くべきだった。いずれにしても、これ以降金は、私への反論にあたって、エッセイでキーワードとして用いた「リスク社会」という用語を避けるようになる。

 さらに驚くべきことに、今回金は次のように「反批判」するに至った。

「二つ目の論点は、後期近代における排除型社会の問題について。鄭栄桓は「再三説明した」と主張しているが、論拠はいつもベックを頼りにした薄弱なもの。しかもリスク社会における「他者」という問題設定そのものがハッタリであると述べているのではない、などと後出しじゃんけん並みの言い訳が苦しい。」

「後期近代において、マイノリティが多重に排除される傾向があるということについては、多数の論者が指摘していることであって、むしろベックは例外的にそれを認めない学者だ。ぼくがそれを引き合いに出したことを責められるならば仕方がないが、問題の重要性自体を等閑視されては困る。」

「件のエッセイの核心は、次の二つのツイート(とりわけ1)にある。
(1) http://twitter.com/han_org/status/487014320794923008 …
(2) http://twitter.com/han_org/status/487015286424338432 …
にもかかわらず、鄭栄桓は一貫してその論点を理解しそこなっている。反論するなら、この2点について反論すべき。」

 ついにベックは「マイノリティが多重に排除される傾向」を「例外的に」「認めない学者」になってしまった。

 しつこいようだがもう一度確認しておく。金はエッセイでベックの「リスク社会」という概念を一つの手がかりに自説を展開した。これに対し私はベックの誤用であると批判した。すると金は、エッセイで本当に依拠したのはベックではないと弁解し、しかも今回、私が「マイノリティが多重に排除される傾向」を「例外的に」「認めない」ベックを頼りにした「薄弱な」批判を金に向けていると言い出したのである(ちなみに、私がなぜ金のベックの援用が「ハッタリ」だと考えたかは批判の初期の段階から説明している)。

 さらに、金は次のようにも書いている。

「おそらく、現時点で鄭栄桓はこの論点に反論できるほどの材料を持ち合わせていないのであろう。専門性からいって、それもしかたなかろう。だが、もしそうであれば、学者としてとるべき態度は、批判よりも前に質問をすることだとぼくは思う。」

 ベックを論拠にしたエッセイへのベックに即した批判に対し、お前はベックしか頼りにしてないではないかと「反論」されては、もうお手上げである。しかも、それが私の無知の責任であるとされている。他にも近代的規範の普及期には、在日一世たちは実際にその種の生存戦略をとってきたことを想起すべき」などと指摘しており(もちろんその論拠はあげられていない)、もはや当初の現代社会固有の特質に合わせた(新しい)リスク戦略の提唱とは全く関係のない話になってしまっている。全く支離滅裂というほかない。

 次に移ろう。今回の投稿で、金はエッセイの「核心」が上の「趣旨」の(1)と(2)である、と書いている。「もっとも主張したかったこと」は(1)だったと思うのだが、まあよい。(2)を再掲しよう。

「(2)したがって、排除型社会におけるマイノリティは、差別を禁じた近代的規範を呑気に信用していては危険であり、後期近代的な状況に対応して自らリスク回避の努力をする必要がある。」

 これがエッセイの「核心」だというのだ。だが、もしエッセイにこの通りのことが書かれていたならば、私はわざわざ批判などは書かなかっただろう。気になる点がないわけではないが(権利を要求する運動を展開することと「差別を禁じた近代的規範を呑気に信用」することは全く別のことだ)、特に気にかけずに読み捨てたと思う。

 だが、エッセイには、これよりもはるかに多くのことが書かれているのだ(もちろん量的に多いという意味ではない)。金は単に「リスク回避の努力をする必要がある」というに留まらず、その具体的な「リスク・コミュニケーション」の提言として、朝鮮学校が日本社会にとって「メリット」であると積極的に主張せよ、と書いた。しかも、場合によっては「朝鮮学校は日本の国益につながっている」とも「反論」せよと主張したのである。単に「リスク回避の努力をする必要がある」と述べただけではない。

 このように、金のあげた(1)も(2)も、エッセイからは遠く離れた全くの「新説」である。しかも金は、この(2)について改めて以下のよう主張を展開した。

「三点目の論点。鄭栄桓はたった一度であっても「朝鮮学校は日本の国益につながっている」などというレトリックを用いるべきではない、という。ところが、現在の朝鮮学校は(「日本の国益」という言葉は使わないまでも)日本社会に寄与することを教育理念にすえている。」

「鄭栄桓は「マジョリティに独占的な解釈権がある」ことを上述の主張の理由に挙げているが、マイノリティは多かれ少なかれあらゆる主張の解釈権をマジョリティに握られている以上、何も主張すべきでないと言っているも同然である。あまりにもナンセンスな根拠で、朝鮮学校の実践を貶めていることになる。」

「だが、鄭栄桓からは現状維持以外の主張が何一つ聞かれない。それどころか、実際に採用されている生存戦略のひとつを「一度であっても…用いるべきでない」という。いったい、どうしろというのか。座して死を待てというつもりか。」

 この弁明に至ってはもう呆れるほかない。まさしくただの詭弁である。朝鮮学校は「日本社会に寄与することを教育理念にすえている」、それなのに鄭は「朝鮮学校は日本の国益につながっている」というレトリックを用いるなという、鄭は「実際に採用されている」生存戦略を否定し、「朝鮮学校の実践を貶めている」……これで何がしかの反論になりうると本気で考えているのだろうか。

 朝鮮学校が本当に「日本社会に寄与することを教育理念にすえている」かどうかはひとまずここでは措こう。「日本社会に寄与することを教育理念にすえている」と「日本の国益につながっている」ことは、全く同じではないからだ。金はこれらを置き換え可能なものであるかのように書いているが、両者を近しいものと考えているのだろうか。だとすれば、驚くべきことである。「あまりにもナンセンスな根拠で、朝鮮学校の実践を貶めている」のは金の方である。

 そもそも金は「「朝鮮学校は日本のためになっている」という認識が日本には(そして総連コミュニティにも)存在しないため、そこを強調することで認識フレームを転換することができるかもしれない」と考えてエッセイを書いたのではなかったのか。それが「実際に採用されている」なら、なぜ金はあのようなエッセイを書いたのだろうか。

 また、「日本社会に寄与することを教育理念にすえている」ことと、無償化除外を批判する際に、「朝鮮学校は日本の国益につながっている」と「反論」することは、全く異なる次元に属する別の問題である。もし仮に、朝鮮学校が文科省や自治体への「反論」としてではなく、自らの教育理念として「朝鮮学校は日本の国益につながっている」などということを据えているならば、なおさら私としては批判の声を高めなければならないと考える(流石に現状はそんな馬鹿げたことを「教育理念」にしている学校は存在しない)。そもそも金のエッセイへの批判を書いたのは、そのような事態を避けるためだったからだ。

 「朝鮮学校の存在が日本社会のメリットとなる」とか、「朝鮮学校は日本の国益につながっている」といった主張をした場合、いうまでもなく、朝鮮学校が「メリット」かどうか、「日本の国益につなっている」かどうかを判断するのは、「日本社会」あるいは「日本」の側にいる者である。マジョリティに「独占的解釈権」がある、と書いたのはそのような文脈においてである。実際に圧倒的に非対称な力関係のもとにいるにもかかわらず、わざわざマイノリティの側がマジョリティの土俵に乗って勝負をすることが馬鹿げていることは自明であろう。金の「提言」こそが、こうした非対称な力関係を前提とした、ただの現状維持の要求なのである。在日朝鮮人は常日頃そのような馬鹿げた土俵に乗ることを強要されている。だからこそ、権利や歴史的責任といった普遍的理念に依拠することが、重要なのだ。

(追記 7/14)

 金明秀がまた新しいエッセイの「趣旨」と「メッセージ」を開陳しているので以下に記録しておく。ちなみに「最後っ屁」というのは上の記事、「人格攻撃を繰り返す輩」は私を指す。「目標を達成するのに「この道じゃなきゃダメだ」と強弁する輩」も私を指すと思われるが、私は、金明秀の道がだめだ、といってるだけであって、「この道じゃなきゃダメだ」などとは書いていない。いずれにしても、金は「みんな」に読んでもらいたいようなので、ご一読いただいたうえで各自がその是非を判断していただきたい。それにしても「建国時のゲリラ戦を思い出せ」といわれても、私たちは日本にとってのメリットです!とか、私たちは日本の国益とつながっています!と主張して「ゲリラ戦」を闘った朝鮮人などどこにいたのだろうか。「建国大学の親日派を思い出せ」の間違いではないのか。

「この最後っ屁の中にはいくつも突っ込みどころがあるけど、とりあえず一番最後のところね、「わざわざマイノリティの側がマジョリティの土俵に乗って勝負をすることが馬鹿げていることは自明であろう」という部分。そんなの当たり前の話だ。ぼくはハナからそんな主張はしていない。」

「マジョリティの偏見のゲームに乗っかってしまうのは、マイノリティの抵抗の戦略としてはけっして最善ではない。 http://togetter.com/li/141916 そんな次元の話だと思い込んで人格攻撃を繰り返す輩を生じさせてしまったのは、まあぼくの書き方にも足りないところがあったんだろう。」

あえていうなら、「土俵に乗っかるフリして引っ掻き回すぐらいのゲリラ的戦略が必要」というのがあのエッセイの趣旨だった。繰り返しになるが、特定のイデオロギーに毒されていない人たちからは、おおむね正確に理解していただいていると理解している。」

「逆に言うと、あのエッセイは全般的に好意的に受け止めていただいたが、ごく一部に非常に強硬に反発する人がいた。そろって、伝統的なナショナリストだ。後期近代の議論を理解できる素地がないうえ、ナショナリズムを重視する立場に対して重大な挑戦を受けたとでも感じられるのだろう。」

あのエッセイには、ナショナリズムに固執する者たちに対して、「建国時のゲリラ戦を思い出せ」と示唆するメッセージをこめた。今はそれだけ厳しい時代だと。国家に依存してやっていける時代ではなくなったぞと。それを理解できないのは、ナショナリストとしても問題があるんじゃないのかな。」

「何かを実現するためにはたくさんの道がある。みんなが使っているけど古くなってほころびが出ている道もあれば、険しくて誰もが通れるわけじゃないけど最短距離で近づけるような道もある。どれかひとつの道が優れているわけではなく、道の数が多ければ多いほど、トータルとしてゴールの実現は近くなる。」

目標を達成するのに「この道じゃなきゃダメだ」と強弁する輩がいる。それは、目標を達成することそのものよりも、目標への到達手段のほうを重視するイデオローグだ。目標よりも手段を重視するイデオローグは、そのとき耳に心地よい正義を語ろうとも、いつかきっとみんなの前に立ちはだかることになる。」

(鄭栄桓)

by kscykscy | 2014-07-13 00:00 | 歴史と人民の屑箱

金明秀の「術語のマキビシ的使用」について

 金明秀のツイッターに私への「反論」が掲載された。今回の金の批判の趣旨は、私の批判は詭弁である、というところにあるようだ。金の人柄がとてもよくあらわれた「反論」なので、以下に検討してみたい(強調は引用者。以下同)。

「天邪鬼みたいな輩に都合よく切り出されて利用されるようだと、やっぱり鄭栄桓にもちゃんと反論する必要があるのかな。でも、あれは批判もずれているうえに、自分が書いた文章に自分で解説するような作業を伴うので、どうもやる気が出ないんだよね。ブログに書くと大手サイトに転載されるのも面倒だし。」

「このエッセイは、いくつかの朝鮮学校で好意的に読んでいただいているとの話を伺っている。たいへんありがたいことだ。 / リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題 http://han.org/blog/2011/07/post-154.html …」

「ただし、ロジックの一部に、「朝鮮学校は日本のためになっている」という命題を含んでいるので、「日本の役に立たないなら朝鮮学校は存在してはならないということか!」と怒鳴り込んでくる人がいる。それについて、反論を書いておきたい。」

かりに「AはBである」が真でも、その裏「AでないならBでない」が真だとはかぎらない。中学生でも知っていることだけど、しばしば人はこうした発想にとらわれる。「前件否定の虚偽」といって、よく知られた論理の誤りだ。詭弁の手法の一つでもある。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A9%AD%E5%BC%81#.E5.89.8D.E4.BB.B6.E5.90.A6.E5.AE.9A.E3.81.AE.E8.99.9A.E5.81.BD_.28denying_the_antecedent.29 …」

「裏の命題「AでないならBでない」が常に偽だというわけではないので、もし裏の命題がなんらかのリスクを含んでいるなら批判の対象にはなりうる。だが、それはあくまで、「『AならばB』という命題が『AでないならBでない』という誤解を生じるようだといけない」という趣旨でなければならない。」

「言い換えると、「朝鮮学校は日本のためになっている」(AはBである)という命題に対して、「日本の役に立たないなら朝鮮学校は存在してはならないということか!」(AでないならBでないというのか!)と反論するのは、典型的な前件否定の虚偽ないし詭弁だということだ。

「何の話かというと、これのことだ。 http://kscykscy.exblog.jp/18212443/
あまりにも自明の誤謬なので、武士の情けというか、なんとなくバカバカしくてこれまで前向きに反論する気にならなかったのだけど、名誉毀損として作用することがあるようなので、書き留めておく。」

「鄭栄桓に対する反論終了。以下は、落穂ひろい的に前述のエッセイをめぐる論点を列挙していこう。」

 まず内容以前の問題として、金は「前件否定」を誤って用いている。確かに「かりに「AはBである」が真でも、その裏「AでないならBでない」が真だとはかぎらない」。だが、少なくともこれだけでは「前件否定の誤謬」にはあたらない(金が貼り付けているwikipediaの解説を見よ)。ただ「逆は必ずしも真ならず」というだけである。

 しかも、金が持ち出す具体例は「AでないならBでない」にすらなっていない。「朝鮮学校は日本のためになっている[日本のためになる学校である]」(AはBである)という命題の裏は、「朝鮮学校でないなら、日本のためにならない[日本のためになる学校ではない]」(AでないならBでない)である。どうこねくりまわしても、「「日本の役に立たないなら朝鮮学校は存在してはならないということか!」(AでないならBでないというのか!)」にはならない。そもそも「朝鮮学校は存在してはならない」は当為の言明なのであるから、「AでないならBでない」という命題の具体例になるはずがない。しかもAとBの対応関係すら合っていない。詭弁だと主張したいのならば、せめて自説の説明くらいはまともにしたらどうだろうか。

 また、金は私が「日本の役に立たないなら朝鮮学校は存在してはならないということか!」と批判したかのように書いているが、私はこのような文を書いていない。つまりこれは金の「要約」であるが、具体的にどの箇所を指しているのかすら明らかではない。大して長い文章ではないのだから、正確に引用して適宜反批判すればよいだろう。これでは議論になどなりようがない。

 「詭弁」について、もう一つあげておこう。

「「AにはBが含まれる」とか、「Aには例えばBがある」のように、「あるBはAである」と叙述する文章を「特称命題」という。それに対して、「AとはBのことだ」とか、「Aは常にBだ」のように、「すべてのBはAである」と叙述する文章を「全称命題」という。」

「特称命題(ある犬は逆立ちをする)から、全称命題(すべての犬は逆立ちをする)へと飛躍することを、「早まった一般化」という。これはとてもよく知られた論理の誤りであり、また、詭弁の作法の一つでもある。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A9%AD%E5%BC%81#.E6.97.A9.E3.81.BE.E3.81.A3.E3.81.9F.E4.B8.80.E8.88.AC.E5.8C.96_.28hasty_generalization.29 …」

「ぼくはエッセイの中で、認識のフレームを転換するような運動の一つとしてある提案を行った。例示したものである以上、特称命題だ。「認識のフレームを転換する運動(A)に、ある提案(B)は含まれる」。よって、そこから「金明秀はある提案(B)がすべてだと主張している」と読み取れば誤り。」

「ここで「ある提案(B)」といっているのは、前述の(5)のこと。ぼくは(4)を主張するために、その具体例として(5)を提案したわけだ。言い換えると、(5)の他にも(4)を実践するための手法は無数にありうる。ぼくが提案したのはあくまで一例だ。」

「ただ、エッセイの中では、「あくまで一例にすぎない」とまではハッキリ断ってはいなかったので、鄭栄桓から最初に批判を受けたときはむしろありがたいとすら思った。特称命題を全称命題だと誤読させる危険性を減らしてくれた、と考えたからだ。」

「しかし、当の鄭栄桓が、ぼくが全称命題を述べたと勘違いをして、執拗に人格攻撃を繰り返すに至っては、正直げんなりしている。以上、二つ目の落穂ひろい的論点。」

「なんかもう、本当にくだらない。ぼくはなんでこんなことを書いてるんだろう。」

 おそらく必要だから書いているのであろう。さて、ここでの全称命題/特称命題云々は無視してよい。金の主張を「翻訳」すると以下のようになる。

 エッセイで自分は「「認識のフレームを転換する」「リスク・コミュニケーション」の一例として「朝鮮学校は日本の国益につながっている」と主張してみるとよい、といっただけである。「朝鮮学校は日本の国益につながっている」という主張だけが有効だなどとはいっていない。それなのに鄭は自分がそう主張したと解釈し非難する。詭弁による人格攻撃だ。

 ただこれだけの主張である。わざわざ全称命題/特称命題などという術語を用いる必要は全くない。

 もちろん私はこのようなことを主張してはない。私は金が「リスク・コミュニケーション」の一例として、「反日教育をしている朝鮮学校に日本国民の税金を支出するなど国益につながらない」と主張するものに対し、「朝鮮学校は日本の国益につながっている」と反論をしてみよ、と提案したことを批判したのである。前者のような主張に対し、「朝鮮学校は日本の国益につながっている」と常に反論せよ、と金が主張したとは考えていない。以下に引用しよう。

「ただ、「朝鮮学校は日本の国益につながっている」というレトリックはおそらく「有効」ですらない。金明秀氏は「有効な打撃」を与えうると主張しているが、実際にはむしろ逆の効果しか生まないことは明らかだ。そもそも、「日本の国益」という言葉は、その性質上日本政府あるいは日本人マジョリティに独占的な解釈権がある。一度「朝鮮学校は日本の国益につながっている」などというレトリックを用いたが最後、今般の情勢をみればわかるように、政府や自治体、マスコミ、右翼、ネットイナゴが朝鮮学校に押し寄せて「日本の国益」に反する「事実」を無限に挙げ続けるだろう。これに反論するのは困難である。何より金明秀氏自身が認めているように、「この種のデマは事実に基づいて形成されるのでなく、情動的側面が強いため、反証する事実を示すだけでは修正されにくい。しかも、「反日教育」というあいまいで都合のよいマジックワードが、あらゆる反論を無効化してしまう」からである。よって有効ですらない。」(金明秀「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」批判

 ここに明確に記しているように、私は当初より、たった一度であっても「朝鮮学校は日本の国益につながっている」などというレトリックを用いるべきではない、それが及ぼす損害の大きさは計り知れない、と書いている。「一例」であってもダメだ、というのが私の批判の要点である。そもそも、仮に金の要約したとおりに私が批判したとして、なぜそれが「人格批判」になるのだろうか。全く理解できない。

 これで、私が詭弁により非難しているという金の主張が全く成り立たないことは明らかになったと思う。他に金は「リスク社会」云々についてもつぶやいているが、これについては再三説明したので、さしあたりは以下の文章を読んで欲しい(*1)。気が向けば追加の反論をする。

*参考
「問題は「学問分野が異なる」(金明秀)ことなどではない」

 以前の記事でも書いたことだが、この間の無償化及び補助金問題の推移は、金の推奨するような「リスク・コミュニケーション」(朝鮮学校が日本のリスクではなくメリットだと主張せよ)がほとんど何の役にも立たなかったことを証明したと思う。大阪朝高ラグビー部を描いたドキュメンタリー映画『60万回のトライ』には、橋下府知事(当時)が、大阪代表となった選手たちを褒め称えながら、同時に補助金カットをあけすけに肯定する場面があるが、これは非常に象徴的なシーンだった。ラグビーで全国大会にでようが、それとこれとは別、なのである。むしろ橋下ならば、大阪朝高ラグビー部の「メリット」をより伸ばすために、「不法な国家」との関係を断ち切らせて補助金をカットするとすら平然と言い放つであろう。繰返し書いてきたことだが、金の方こそ現状認識が甘いのである。

 ブログ「lmnopqrstuの日記」の「金明秀「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」について」という記事は、金のこうした「リスク認識」の甘さについて、次のように的確に指摘している。

「ここからが本題である。引用文中の非合理的な言表を「ひとまず引き受け」という点に注目しよう。「ひとまず引き受け」ようということは<ひとまず肯定しよう>ということに等しい。だが当該言表を肯定するということは、行為遂行的には、被害をうける者自身がわざわざ、当該言表行為を遂行する主体に対して、(その行為遂行主体が)当該言表行為遂行の権利を所有していることを肯定(=承認)することを意味する。

だから「「あなたたちの役に立っているのでいじめないでください」とでもいわんばかりのリスク・コミュニケーション戦略」は、戦略としてのいわばメタ論理性が押しつぶされて、実態としては、次のようなコミュニケーションに帰結すると考えられる。

<あなたたちに一方的にいじめられるという役割の他にも役に立っている面があるんです。だからあまりいじめ過ぎないでください。他の役割がこなせなくなりますから。>

非合理な言表を行う権利が(被害をうける者自身からわざわざ)相手に付与されていて、かつ(被害をうける者が)「ひとまず引き受け」た役割の解除が客観的に保障されていない以上、このようなコミュニケーションになるのは目に見えている。「あなたたちの役に立っているのでいじめないでください。」「ほんとだ。役に立ってるんだね。もういじめるのやめるね❤」となるわけないだろう。

要するに金明秀氏は、実際のコミュニケーションにおいては、相手の言表内容に対する肯定と相手の言表行為に対する肯定の区別を都合よく維持しうるような、メタ論理(=戦略)的肯定の立場など保障されていないということ自体がわかっていない(あるいはこの問題のリスクを著しく過小評価している)。大学の講義では壇上(メタ論理)から学生の理性(論理)に訴えて「多数派を説得」できるかもしれない。だが社会はそういう風にできていない。<それは間違っている>と言わないで「ひとまず引き受け」てどうするのか。「ひとまず引き受け」たら最後二度とおりられないのがいじめの現実だと認識する方が、はるかに合理的なリスク認識というべきである。

 金の「反論」を読むと、その議論の杜撰さもさることながら、議論の文脈上全く用いる必要がない「前件否定」「全称命題/特称命題」などの術語をあえて用いて、ことさらに私が「馬鹿」であるかのように印象付けようとする(「中学生でも知っていることだけど」!)その「手法」の幼稚さに脱力せざるをえない。こうした手法、すなわち、概念や術語を煙幕やマキビシのように利用し、議論を混乱させて批判者を煙に巻き、自らの退路を確保する手法(ツイッターに棲息する「学者」「研究者」に多く見られるようだ)を、さしあたり「術語のマキビシ的使用」と呼んでおこう。「研究者」である以上、こうした振る舞いは絶対に避けるべきであると私は考えるが、金の今回の「反論」は、この「マキビシ的使用」の典型であった。しかも、その術語すらまともに使いこなせていないのであるから議論になりようがない。

(追記 7/12)

 上に書いた、金の「詭弁」批判の誤りについては、ツイッター上でも指摘があったようだ。

「@han_org 「朝鮮学校は日本のためになっている」を(AはBである)として、「日本の役に立たないなら朝鮮学校は存在してはならないということか!」は(AでないならBでない)ではなく(BでないならAでない)に対応するのではないでしょうか…?」

「.@chol_0725 あっ、本当だ。指摘すべきは前件否定の虚偽じゃなくて、必要条件と十分条件の取り違えのほうだった。うわー、これはかっこわるい。」

「このツイート http://twitter.com/han_org/status/487010626057670656 … に対して、前件否認の虚偽には当たらないのでは、というご指摘をいただいた。ご指摘の通りでした。恥じ入るばかり。訂正の上、書き直しておきたい。」

 ここで指摘されていることは、AとBの対応関係が逆になっているのではないか、ということであり、「前件否認の虚偽には当たらないのでは」などとは一言もいわれていないのだが、いずれにしても金は自らのあげた例が「前件否定の虚偽」とは異なることに気づいたようだ。以下は指摘を受けての金の訂正である。

「正しくは、前件否認の虚偽ではなく、「AはBの部分集合である(BはAを含む)」という命題が真のとき、「AでなければBでない」という結論を得るのは誤り、という問題でした。」

「「人間は男を含む」という命題から「男でなければ人間でない」という結論を導くのは誤り。同様に、「朝鮮学校は日本のためになっている」を「日本のためにならないなら朝鮮学校ではない」と読むのは誤り。以上。」

 またもや対応関係を取り違えているため、命題の真偽まで誤っている。

 仮に「朝鮮学校は、日本のためになる学校の部分集合である」(AはBの部分集合である)という命題が成り立つとして、「AでなければBでない」に対応する具体例は、金のあげた例ではなく、「朝鮮学校でなければ、日本のためになる学校ではない」(AでなければBでない)となる。この命題の真偽は、AがBの真部分集合であるかによるので、金のいうように直ちに誤りとはいえないが、それはひとまず措こう。

 問題は、金のあげる具体例がそもそも「AでなければBでない」ではないということだ。金があげた「日本のためにならないなら[日本のためにならない学校は]朝鮮学校ではない」は、「BでなければAでない」の具体例である。そして、もしAがBの部分集合であるならば、この命題は真である。部分集合とは、ここでの例に即していえば「集合 A の要素がすべて集合 Bの要素になっている」ことを指す。朝鮮学校(A)が、日本のためになる学校(B)の部分集合である、という命題が成り立つならば、当然に、日本のためにならない学校は、朝鮮学校ではない(BでなければAでない)という命題も成り立つ。曖昧な理解のままで術語を濫用するためこうした混乱が起きるのである。

 ただ、金の主張の問題点を考えるうえで、この誤りは色々と示唆に富む。それについては機会があれば記したい。

*1 ただ、ひとつだけ発見があったので注記しておきたい。かつて金は、私の批判(「朝鮮学校は日本の国益につながっている」と反論することは誤っており有効ではない)に対し、自分の主張には「傍証ぐらいはあります」とか、「多数のエビデンスを前提としている」と反論したことがある。その「エビデンス」なるものは結局示されなかったが、今回のつぶやきで、どうやらその「エビデンス」なるものは、「試しにブログやツイッターで「朝鮮学校は日本のためになっている」という言説を投げかけてみたところ、思想的には左右両側面から《驚いた》という反応を受け」た、というものだったことがわかった。全く馬鹿げている。

(鄭栄桓)

by kscykscy | 2014-07-11 00:00 | 歴史と人民の屑箱

問題は「学問分野が異なる」(金明秀)ことなどではない

 ちょうど二年ほど前のことになるが、このブログで金明秀氏(以下、敬称略)の「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」というエッセイを批判したことがある。これに対しては、ツイッターを通じて金からの「反論」があったが、金が論点をずらし続けたため全く議論にならなかった。私としては金との議論そのものにはあまり価値を見出していないので、それはよいのだが、最終的に金がレッテル貼りで「告発を無力化」しようとしたため、これについては「抗議」を掲載した。いずれにしても非常に不毛な体験だった(その後の金のツイッターでの対応をみると、他の「論争」においても似たようなスタイルで応じているようだ)。

 そんな金のツイッターに一月前、以下の投稿がなされた。

「あっ、kscykscyは本名を開示したのか。だったら反論してもいいなあ。」

「と思って読み直してみたけど、反論する意欲が立ち上がってこない。「「リスク社会」云々は一種のハッタリと考えられるので無視して構わないだろう」と何度も主張しているあたりに、時代状況への深刻な鈍感さが伺われて、(対立的であっても)正面から対話する価値を見出しにくい。」

 以前の記事を読んでいただければわかるが、すでに匿名の時代から金は私への「反論」を行っており、「本名を開示した」から「反論してもいいなあ」という金の主張は奇妙なのだが、それは措こう。わざわざ反論の予告があったので待っていたのだが、結局今に至るまで「反論」はない。「反論する意欲が立ち上がってこない」といったきりである。

 あるいは金は、そもそも反論する価値がない、という「反論」をしているのかもしれないが、だとすれば非常に困ったものである。この投稿だけを読んだ者は、論点を現代を「リスク社会」かどうかをめぐるものであると考え、私が現代は「リスク社会」ではないとみなして金を批判しているかのように誤解するであろう。もちろん私はそんなことは言っていない。金が意図的に議論を誤導し、私の批判が検討にすら値しない無価値なものだという印象を読者に与えようとしていると思いたくはないが、私としてはこれを放置するわけにもいかないので以下に再論したい。

 金は上の投稿に続けて、次のように書いている。

「学問分野が異なると、世界を認識するフレームが違うため、《見えている世界》そのものが異なるという場合がある。でもそれぞれに学問的信念に根ざした社会洞察であることが、(たとえ自分の専門と異なる対象であっても)自分こそが正しいと思い込ませてしまうのかもしれないなあ。」

「だからこそ、かと。 RT @aminah2500: それなのに「学際的学部で学際的教育をせよ」というむちゃくちゃな要求をするのが文科省。RT @han_org: 学問分野が異なると、世界を認識するフレームが違うため、《見えている世界》そのものが異なるという場合がある。(以下略)」

「そうそう、研究対象が同じであればディシプリンが違ってもだいたい話は通じますからね。 RT @modi_operandi: @han_org 見えているもの以外にも、疑わない(疑えない)前提が大きく異なりそうですね。」

「相手方がディシプリンの大前提にしてしまっていることを、こちらが問題化せざるをえないようなとき、しばしばディシプリン間の衝突は生じますね。」

 直接的に明示しているわけではないが、上の投稿に続くものなので、私の批判を想定したものだと考えてよいだろう。つまり私が金の主張を理解できないのは「学問分野」が異なり、「世界を認識するフレームが違うため」だというわけだ。二年前の批判を「学問分野」の違いということで落着させたいのであろうか。そのようなことにいかほどの意味があるのか私には理解しがたい。

 もちろん問題は「学問分野」の違いなどではない。金の最初のエッセイの要旨は、現代はリスク社会であるからマイノリティーからの反論としては、人権や平等などの近代の市民的規範に沿った主張ではなく、「リスク・コミュニケーション」が有効だ、具体的には在日朝鮮人や朝鮮学校がいかに日本の「リスク」ではないかを証明することが必要であり有効だ、というものだった。そして「反日教育をしている朝鮮学校に日本国民の税金を支出するなど国益につながらない」という批判がなされた場合、金は「私の経験から具体的にいうと、「朝鮮学校は日本の国益につながっている」と反論すれば、デマに対して有効な打撃を与えるようだ」と主張したのである。

 私はそんな反論はむしろ在日朝鮮人が歴史的に行ってきた民族教育の意義を貶めるものであり、そもそも「有効」ですらない、と批判した。実際あれから二年が経ちながらも朝鮮高校生は無償化から除外されたままであり、それどころか補助金の全国的な削減が進んでいる。遺憾ながら、朝鮮学校が日本の多文化共生にとって役立っている云々の主張(だけ)を語る人は後を絶たないが(そうした意味では金明秀式の論法は「勝利」している。ただ、さすがに「朝鮮学校は日本の国益につながっている」と「反論」する人物はみたことがないが)それがどの程度の「有効性」を持ちえていたかは大いに疑問である。

 さて、上の投稿で金がこだわっている「リスク社会」をめぐる主張については、これもかつて「続々・金明秀「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」批判」の「9.「リスク社会」というハッタリについて」で批判した。関連箇所を再掲する。

「また、私は「「リスク社会における「他者」」という問題設定そのもの」がハッタリであると述べているのではない。私は続編記事で次のように記した。

「ちなみに、前回の記事で私は金のいう「リスク社会」云々はハッタリであると書いた。理由は金のベックからの引用はほとんど意味がないからだ。確かにベックは「危険社会」がスケープゴート社会への内在的な傾向を含んでいると指摘しているが、その際に、「他者」の側が「リスク・コミュニケーション」をする必要があるなどとは一言も書いてない。金のベックからの引用はすべて『危険社会』からのものだが、そもそも「リスク・コミュニケーション」なる語自体が『危険社会』には登場しない。よって私はベックへの言及はその社会科学的分析を前提にするためではなく、自らの主張を粉飾するためのハッタリと判断した。エッセイは金の地の文章として読めばそれで十分である。」。」(「続・金明秀「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」批判」)
 
 ここからもわかるように、私は金によるベックの引用そのものがハッタリである、と述べた。エッセイにおける金の主張の根幹をなす部分はベックとは何ら関係ないため、あくまで金の地の文章としてエッセイを読めば十分だ、と指摘したのである。

 なお、誤解を避けるために断っておくが、私はハッタリとしてのベックの引用自体を非難するつもりもない。短いエッセイであるから、引用が断片的になることは十分ありうる。しかし、あのエッセイには、「リスク・コミュニケーション」云々についてもベックが主張しているかのように読めてしまう不親切さがある。このため、ベックとは無関係に、金の地の文として読めば十分であると釘を刺したのである。もちろん、ベックと無関係な金の地の文であることが、それ自体として文章の妥当性を損なうものでもない。」

 少なくともベックは『危険社会』において、今はリスク社会だからマイノリティーは「リスク・コミュニケーション」が必要だ、などとはは言っていないのである。私はもしベックがそのようなことを主張しているならば、それに即して金を批判しようと思い探したのだが見つからなかった。金自身もそれは認めている。つまりベックとは関係ない金自身の主張なのである。よって「ハッタリ」だと書いた。金のエッセイを検討するものはベック云々を考慮する必要はさしあたりはない、また、金も自らの言葉で反論すればよいではないか、と。もちろん、「学問分野」の問題などでもない。

 いずれにしても、民族的・歴史的な権利性を前面に押し出さない歪んだ言説は日本の「反レイシズム」を極めて問題の多いものにしている。「反差別」「反レイシズム」を自称する言論人のなかにも、在日朝鮮人の歴史についての歪んだ認識を持つ者は少なくない。例えば安田浩一『ネットと愛国』は、「終戦直後に一部の在日コリアンがアウトロー化したのは事実」(p.219)として「愚連隊と化した一部の朝鮮人・台湾人」などという表現を使い、解放直後の在日朝鮮人の生活権擁護闘争や民族教育擁護闘争についても「暴動」「騒擾事件」と位置づけている。驚くべき認識である。また、平気で朝鮮人に対し差別発言を用いて罵倒している野間易通のような人物が、「反レイシズム」運動の首領のような扱いを受けている現状にはめまいすら覚える。特に野間の「糞チョソン人」という発言は、本来ならばこれだけであらゆる反差別運動から追放されてもおかしくない種類の罵倒・差別発言である。罵倒語としてあえて朝鮮語を利用するこの人物の振る舞いを見過ごすことができるならば、在特会すらも許容できるのではないだろうか。野間『「在日特権」の虚構』の問題については別に詳しく扱いたい。

(鄭栄桓)

by kscykscy | 2014-06-03 00:00 | 朝鮮学校「無償化」排除問題

金明秀「朝鮮学校「無償化」除外問題Q&A」について――朝鮮学校と高校「無償化」問題⑬

 “SYNODOS JOURNAL”に金明秀「朝鮮学校「無償化」除外問題Q&A」が掲載された。
  http://webronza.asahi.com/synodos/2012051100001.html

  このQ&Aは、このブログで幾度か批判した、金のいうところの「リスク社会」における「新たな運動戦略」の実践篇とでもいうべき内容となっている。すでに朝鮮学校が再三述べてきた主張を取り入れている部分を除けば、金のオリジナルの部分の論理は前にも指摘したように『朝日新聞』のラインの無償化適用論であるといえる。さまざまな問題点があるが、ここではさしあたり重要な問題点に絞って指摘したい。

 *参考 
  朝鮮学校「無償化」排除問題 http://kscykscy.exblog.jp/i6
  抗議 http://kscykscy.exblog.jp/18212443/

  第一に、このQ&Aは朝鮮学校の教育「内容」に踏み込み、無償化排除問題を論じてしまっている。

 具体的に、金は朝鮮学校は「反日教育」をしておらず、朝鮮民主主義人民共和国とは異なる「教育制度」の「在日コリアンの学校」である、と主張する。しかし、無償化排除問題の焦点は朝鮮学校の教育「内容」ではない。こうした「反論」に有効性は無く、むしろ論点を朝鮮学校の教育「内容」へと固定する効果を生む。

 例えば「【Q9】反日教育をしている朝鮮学校に公金を支出するのは抵抗がある。」という問い。この問いへの正しい答えは、具体的な教育内容は就学支援金の支給とは関係がない、である。

 しかし、これに対し金明秀は、朝鮮学校では反日教育をしていない、と誤った答えを与える。しかも、その論証の方法は、20年近く前に実施された調査における、朝鮮学校に通ったことのある人間の各国への愛着度の提示、というものである。そもそも卒業生の意識は朝鮮学校で反日教育がなされていないことの直接的な「論拠」にはなりえない。もし、本当にこうした反論をするためには、当然ながら、朝鮮学校の教育「内容」の検討に踏み込まざるを得なくなる。そして実際、『産経』や極右知事はそうした方法を採っている。つまり、金の解答はそれ自体が不適切である上に、反論にすらなっていない。

 これでは「教育内容は変わったから適用しろ」(『朝日』)→「じゃあ見せてみろ」(『産経』・知事)→「見たんだから許してやれよ」(『朝日』)→「当日だけそうしたのではないか、もっと見せろ」(『産経』・知事)⇒「〔一緒に〕もっと見せろ」(『朝日』『産経』)の無限ループを止めることはできない。それどころか拍車をかけることになる。朝鮮学校の教育「内容」が論点であるという前提自体を許している限り、この状況を脱することはできない。

 そして、特に強調しておきたい重要なポイントだが、そもそも、現在の朝鮮高校無償化排除をめぐって知事や極右メディアが問題としているのは「反日教育」云々ではない。朝鮮民主主義人民共和国及び朝鮮総連との関係である。というよりも、おそらく排除派は現時点では「反日教育」問題を論点とすることを意識的に避けている。

 なぜか。もし「反日教育」問題として論を立てると、当然ながら韓国学校・中華学校の教育「内容」の問題にも飛び火することになり、アジア系の外国人学校全体を批判せざるを得なくなる。逆に言えば朝鮮学校と韓国・中華学校を連帯させかねない。おそらく排除派からすれば、民団が朝鮮学校の無償化排除に賛成して在日朝鮮人団体が分断している現状は大変好ましいものであり、わざわざ「反日教育」問題という新たな論点を立てるような真似はしないだろう。よって注意深くこの論点を避け、「拉致を行い不法なテロ国家である朝鮮民主主義人民共和国・朝鮮総連との関係」という問題から一点突破しようとしているものと思われる。しかも、この議論ならば、民団が極右に成り代わって主張しているように、民族的マイノリティの教育を否定しているわけではなく、朝鮮総連と関係を有する朝鮮学校を否定しているだけだ、という弁解が成り立つ。

 金は『人権と生活』のエッセイ以来、一貫して朝鮮学校の「反日教育」という論点を重視しているが、これはこうした現状を全く理解していないものといわざるを得ない。

 第二に、第一の問題と関連するが、このQ&Aは朝鮮学校を「民族的マイノリティの学校」としてのみ規定してしまっている。

 例えば、「【Q2】北朝鮮とは国交がなく朝鮮学校の教育内容を確認できないので、「高校無償化」の対象から外されているのではないか」という問いへの金の答えにそれは典型的に現れている。

 金は文科省令の以下の三類型、
(イ)高等学校に対応する外国の学校の課程と同等の課程を有するものとして当該外国の学校教育制度において位置付けられたもの
(ロ) その教育活動等について、文部科学大臣が指定する団体(国際的に実績のある評価機関)の認定を受けたもの
(ハ) 文部科学大臣が定めるところにより、高等学校の課程に類する課程を置くものと認められるもの
 のうち、朝鮮学校が(イ)には該当しないことを前提としている。しかし、常識的に考えれば朝鮮学校は明らかに(イ)に該当するはずであり、だからこそ、文科省は(イ)に該当させないための詭弁を弄したのである。そして、文科省は(ハ)にあたるかどうかというレベルへと問題を自らの都合のいいように後退させたのである。

 しかし金はこの点を理解せず、(イ)に該当しないことを大前提としてしまう。ここで金は「第二に、そもそも朝鮮学校は「北朝鮮の高校に相当する」学校ではありません。というのも、北朝鮮の学校と朝鮮学校とでは教育制度が異なるからです。北朝鮮では、幼稚園が1年、小学校4年、中学校6年の計11年が義務教育です。一方、朝鮮学校は日本の教育制度に合わせて6-3制をとっています。したがって、たとえ北朝鮮政府と外交関係があったとしても、「朝鮮学校が北朝鮮の高校に相当する」ことを証明できるかどうか極めて微妙です。」と述べる。

 これは韓国学校や中華学校と同じ適用ルートから朝鮮学校を外すことを、在日朝鮮人の側から主張してくれたわけであるから、文科省にとっては大変好ましいものといえる。文科省の詭弁の矛盾をつくことができない。

 しかも、ここでいう「外国の学校の課程と同等の課程を有する」とは、金のいうような朝鮮学校が「北朝鮮の高校に相当する」という意味ではない。(イ)ならば、その判断は朝鮮民主主義人民共和国側によるものとなるが、(ハ)のみ該当となると当然、文科大臣のみとなる。もちろん、だとしても文科省の除外措置は違法であるが、(イ)の可能性を除外してしまうのは大問題である。

 これは金がこのQ&Aにおいて、朝鮮学校は「北朝鮮の高校」ではなく、「民族的マイノリティの学校」として押し出す戦略を採ったことから帰結したものといえる。しかし、この結果、無償化排除後に現在地方自治体が行っている補助金削除における教育「内容」への干渉への有効な批判をなしえていない。

 また、金は「【Q8】閉鎖的な朝鮮学校の側にも問題がある。お互いに理解に向けて努力すべきでは」と問いを立て、「日本の新聞各社は朝鮮学校の「無償化」除外を批判しながら、一方で朝鮮学校も閉鎖性を改善すべきだと社説に書いています。どうやら、朝鮮学校が閉鎖的であるというイメージはずいぶん強固なようです」と答えて、朝鮮学校が閉鎖的でないことの説明を試みる。

 しかしこれは「反日教育」と同じく、問いの設定自体が極めて不正確である。金は「新聞各社」の具体名を挙げていないが、無償化適用賛成論の『朝日新聞』の場合、朝鮮学校が閉鎖的で問題があることの指摘は、さして重要なポイントではない。『朝日』らが重視しているのは、朝鮮学校の教育「内容」の変化と朝鮮総連との関係である。以前にも言及したが、例えば以下の二つの社説を見てみよう。
「だが在日の世代交代が進む中、教育内容は大きく変わった。大半の授業は朝鮮語で行われるが、朝鮮史といった科目以外は、日本の学習指導要領に準じたカリキュラムが組まれている。/北朝鮮の体制は支持しないが、民族の言葉や文化を大事にしたいとの思いで通わせる家庭も増えている。/かつては全校の教室に金日成、金正日父子の肖像画があったが、親たちの要望で小・中課程の教室からは外されている。そうした流れは、これからも強まっていくだろう。」(『朝日』社説、2010.2.24)

「在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)と結びついた学校のあり方にも疑念の声がある。文科省はそうした点にも踏み込み、調査を続けてきた。/その間の議論を通じ、学校側は開かれた教育への姿勢を示しつつある。教科書の記述も改める動きが出てきた。父母の間にも、祖国の「3代世襲」に違和感を持つ人はいる。教室に肖像画を掲げることも考え直す時期だろう。そして、自国の負の部分も教えるべきだ。/多様な学びの場の一つとして認めた上で、自主的改善を見守る。そんな関係を築けばよい。」(『朝日』社説、2012.3.3) 
  つまり、朝鮮学校の教育「内容」は、朝鮮民主主義人民共和国とは距離をとるものになっている、だから、適用すべきだ、と主張している。前提となっているのは、あくまで朝鮮民主主義人民共和国及び朝鮮総連との関係である。

 すでに述べたように、同じく、現在自治体や右翼メディアが問題としているのは「マイノリティの教育」の実践ではなく、また、「反日教育」の有無でもない。それは朝鮮民主主義人民共和国並びに朝鮮総連との関係であり、具体的に各知事は拉致問題を知事の指示通りに教授せよと干渉している。よって「民族的マイノリティの教育」を擁護することは、現行の無償化排除問題における有効な批判になりえず、むしろ『朝日』を初めとする朝鮮学校の教育「内容」修正=無償化適用論と相補的といえる。

 このように、金は排除派の主張に正面から反論しない。金は、在日朝鮮人の自主的な民族教育権(もちろんそこには朝鮮民主主義人民共和国の公民教育を行う権利も包含される)の擁護ではなく、むしろ朝鮮学校が「民族的マイノリティの教育」であると表象することによって迂回的にこれを「擁護」しようとするため、結果的には現在問題となっている排除継続への有効な反論となっていない。それどころか、むしろ論点を誤った方向へと誘導しかねない。

 これは、金が「【Q10】そもそもなぜ日本生まれの四世、五世にもなって民族教育を行う必要があるのか。日本の公立学校に通えばいいのでは。」という問いに対し、日本の公立学校の教育内容が日本人に限定された民族教育だからだ、と誤った答えを与えるところにも現れている。これでは民族教育の存在意義は、日本の公立学校の教育内容の改善問題と関連付けられることになってしまう。そもそも日本の公立学校における教育を「民族教育」と捉えるべきか疑わしいが、それはおくとしても、この理屈だと日本の公立教育が十分に多民族・多文化を尊重するものへと転換し生徒の「自尊心」が満たされるならば、朝鮮学校の存在意義は消滅する。しかし、朝鮮学校の存在意義は差別的な日本の学校の代替のみにあるわけではない。

 また、金は「移民の子孫は「国家と国家の懸け橋」にたとえられることがありますが、朝鮮学校出身者は日韓朝3か国の懸け橋になれる可能性を持った貴重な人材です。「反日教育をしている」といった根拠のない偏見によってその価値を否定するのは、とても残念なことです」と述べているが、こうしたこれまでウンザリするほど繰り返されてきたレトリックは、権利としての民族教育という視点を欠いた、在日朝鮮人を道具視するものであり、一部のマスコミ業界内在日朝鮮人を除けば、実態にすら合っていない。

 以上のみたようにこのQ&Aは、(1)朝鮮学校の教育「内容」という排除論者の土俵に乗ってしまっている、(2)排除論や巷間の「誤解」の焦点を「反日教育」問題であると誤解している、(3)朝鮮民主主義人民共和国との関係という排除論の主論点に関わることを回避し、「民族的マイノリティの学校」論へと逃げている、という問題を抱えている。これらはこれまで繰り返し指摘した金のエッセイ以来の問題点を継承したものといえる。しかし、同じく繰り返し述べてきたように、必要かつ有効なのは日本社会にとって受け容れられやすいものへと変化したことのアピールではなく、もちろん、在日朝鮮人の「懸け橋」アピールでもなく、在日朝鮮人の民族教育権の擁護/日本政府の不法性の徹底的な追及である。
by kscykscy | 2012-05-13 16:33 | 朝鮮学校「無償化」排除問題

ある「良心的」日本人の救いがたい鈍感さについて

 「nos」@unspiritualized(以下、nos)という人物が私の金明秀論考への批判に関連して、金光翔氏による「続・金明秀の弁明について(1)」という記事を批判した。私としては、金光翔氏によるnosへの批判に付け加えるものはなく、また、金明秀の弁明への批判も的確なものであると考える。nosの、私が金明秀の記事を誤読している、という指摘も著しく説得力を欠くものであるため、付け加えて反論することはない。

 ただ、私は、このnosという人物の一見「良心的」でありながら、決して問題を自らのことと受け止めようとしない姿勢、そして平然と朝鮮人の主体性を横領しておきながらそれに気づかない鈍感さには、憤りを禁じえない。おそらくnosにとって、こうした断定は不本意であろう。何より、nos自身が「ほんらい僕らが考えねばならない」と繰り返しているのであるから。しかしその「僕らが考えねばならない」が問題なのだ。

 nosは、金明秀と私の主張は「どちらも正しい」という。しかし、私と金の主張は相互に排他的である。もし金の主張が正しいならば、私の主張は誤っている。例えば、金の「反日教育をしている朝鮮学校に日本国民の税金を支出するなど国益につながらない」との主張に対しては、「朝鮮学校は日本の国益につながっている」と反論するのが「有効な打撃を与える」リスク・コミュニケーションだ、という主張は誤っている、朝鮮学校側はこうした主張(戦略?)を採用すべきでない、と私は主張した。もし金が私の批判を正しいと考え受け容れるならば自説を修正せざるを得ないし、逆ならば私の批判が誤っていることになる。つまり、両者が「どちらも正しい」ということはありえない。そもそも私はそのような中途半端な形で問題を提出していない。

 また、nosは「原理的な正しさでそれをなくせるのか。短期的かつ即効的に苦しみを取り除く手段が是でないと言えるのか。悩んだ。」と書き、私と金の対立構図を「原理的な正しさ / 短期的・即効的に苦しみを取り除く手段を是とすること」として描く。そもそも「原理的な」とわざわざ限定をつけるところに違和感を抱くが、それは措こう。私の記事を読めばわかるように、私は金の主張は有効性すらない、と書いた。つまり金の主張は誤っているだけでなく、「短期的かつ即効的に苦しみを取り除く手段」、すなわち、朝鮮高校生への即時無償化を勝ち取るための有効な手段ですらない、と主張したのである。これは私にとって非常に重要なポイントである。つまり私は金の主張のすべてが間違っている、と主張したのである。

*金明秀の「戦略」の問題点についてはブログ「lmnopqrstuの日記」の記事「金明秀「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」について」がさらに精緻な批判を加えている。

 にもかかわらず、nosは私と金の対立を「原理的な正しさ/短期的・即効的に苦しみを取り除く手段を是とすること」として捉えた。これは、金の主張には有効性すらない、という私の批判が妥当しないことを前提にしなければ成り立たない構図である。この点を理解せず、nosは私と金の「どちらも正しい」という。しかし、以上見たとおり、私と金が「どちらも正しい」ことはありえない。よって、nosは金光翔氏のいうように、「公共的な議論に必要な最低限の論理性」を欠いていると思う。実際には、nosは金の主張が「正しい」ことを前提に議論しているにもかかわらず、それに気づいていないからだ。

 そもそもnosは、私も引用したように、当初金に「お気持ちはよく分かるのですが、在日が「国益」になる/ならないという判断の下に置かれるということは、いつでも恣意的に”ならない”に振り捨てられるということでもあり、「認識フレームを転換する」ことにはならないのでは」というまっとうな問いを投げかけた。これに対する金の返答は、著しく論理性を欠くものであり、端から見ていても私にはnosが何に納得しているのか全く理解できなかったが、nosによれば、納得した理由は「マジョリティー(日本人)として、かくあるべきという理念を優先させるべきだという考えは、いままさに被害を受けているマイノリティー(「現実に犠牲となっている人々」)からすればおかしいものではないか、という点に気付かされたからだ」という。しかし、もしこの言明どおりだとするならば、nosは主張の妥当性の問題を、マジョリティー/マイノリティーという立場性の問題にすりかえていると言わざるを得ない。

 ここで問題となっているのは、マイノリティ一般ではなく、金明秀個人の主張である。言うまでも無く、金の主張の責任を負うのはマイノリティ全体ではなく、金明秀個人である。nosによる疑問は、「マジョリティー(日本人)」の立場からは言うのをはばかられるような性質のものでもない。また、nosは勝手に金に「いままさに被害を受けているマイノリティー(「現実に犠牲となっている人々」)」を代理させているが、これもおかしい。こういった一見相手の立場性を尊重しているような態度をとり、また、自らがマジョリティであるという立場性を理解していることを装いながら、その実相手の主張そのものにまともに向き合おうとしない姿勢というのは、極めて問題である。本来なら、こうした「納得」の仕方は金明秀に対しても失礼なのであるが、金自身はむしろnosの失礼さ・鈍感さに救われているため、その問題点は決して暴かれることはない。nosは金光翔氏による「金明秀と日本人馬鹿左翼の馴れ合い」という批判にいたく立腹しているようだが、こうした関係性は「馴れ合い」以外の何者でもない。

 何より私は、nosのこうした一見立場性を尊重しているように見せかけながら、その実、朝鮮人の主体性を横領していることに全く気づかない鈍感さに、心底憤りを感じる。nosは私と金の「分断と衝突の責任は、日本人にある。ほんらい僕らが考えねばならない」「そして、これら二つの「正しさ」に分断を強いているのは、他ならぬマジョリティーの自分自身である。」と述べているが、冗談ではない。確かに朝鮮学校「無償化」排除問題の責任は日本政府とそれを許容する日本人にある。しかし、私の金への批判の責任を負うのは私である。そして、金は金の責任において反批判を避け、支離滅裂な弁明を繰り返し、私を不当にも罵倒しているのである。それともnosはこうした論争は、何らかの抑圧が存在すれば「マイノリティ」のなかで自然発生的に起こるものだとでも思っているのか?

 そもそもnosは「外からえらそうに、青い意見だとわれながら思うが、両者の交点が見いだされることを願わずにはおられない。」などと述べているが、この間一度もまともに「意見」を述べていない。私は、nosが「青い意見」を言っていることに憤っているのではない。「考えなければならない」ばかりを連呼して、「考えている私」アピールに終始し、その実まともな「意見」を一度も表明しておらず、責任を負おうとしていない。にもかかわらず、勝手に対立構図を作り上げて仲裁者ぶった振る舞いを繰り返していることに憤っているのである。

 なぜ「交点」など見出さなければいけないのか?上にも書いたが「交点」など存在しない。問題は明瞭に提出してこそ意味がある。私は金が自らの誤りを認め自説を取り下げたとしても、それをもって直ちに金の全人格が否定されるとも、全言論活動が誤っているとも、その研究内容が信用できないものとなるとも思わない。逆もまた然りである。当たり前のことではないか。ただでさえ今般のやり取りは、金の対応のために「論争」の体をなしていないというのに、nosの仲裁者気取りの振る舞いは迷惑以外の何者でもない。仲裁者などいらないので、やめていただきたい。
by kscykscy | 2012-05-04 00:00 | 抗議

続々・金明秀「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」批判

1.はじめに

 金明秀氏(以下、敬称略)が私の「抗議」に接し、一連のツイートを投稿した。しかし、ツイートは抗議への弁明や訂正ではなく、私の批判に対する反批判である。抗議に対する弁解は無い。本来ならば、これらの非難の撤回を前提とすべきだが、この度の金の反批判にも数多くの誤りが含まれているため、問題点に即して逐次検討したい。

*参考
金明秀「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」批判
続・金明秀「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」批判(以下、続編記事)
金明秀氏の筆者に対する不当な非難への抗議(以下、抗議記事)


2.「朝鮮大学校あたりの人」について

「ぼくがふと別件で書くことを思い立って、たまたまアクセスしなければ、半年だろうが一年だろうが読まれずに放置されていたわけでね。「緊急で…抗議する」というなら、こちらのツイートを読んだその場で@を付けて反論してくればいいものを。疲れるなぁこの人。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/195858336275632129

「別件というのは、(1)かつての記事からこの人を「朝鮮大学校あたりの人」と思い込んでいたが、続編の書きぶりは研究者の思考様式とは異なるので、おそらく見当外れの見立てだった、(2)同業者なら同じ土俵で論じることができるだろうにと書いたが、1を前提とするなら的外れだった、ということ。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/195859509506355200


 これは明らかにおかしい。抗議記事を読めば明らかなように、金が私を「朝鮮大学校あたりの人」だと推定したツイートは、続編記事についての感想としてつぶやかれたものだ。当然ながら、最初の記事への感想ではない。にもかかわらず、「かつての記事からこの人を「朝鮮大学校あたりの人」と思い込んでいたが、続編の書きぶりは研究者の思考様式とは異なるので、おそらく見当外れの見立てだった」とはどういうことだろうか。もし続編を読んで「見当はずれの見立てだった」と思ったのならば、なぜ続編記事に対し「朝鮮大学校あたりの人」と推測したのか。これは全く成り立たない弁解である。なぜこのような明らかに虚偽の弁明をするのか、私には理解しかねる。

 なお、念のため断っておくが、私は自らが「朝鮮大学校あたりの人」ではない、そのような推定は誤りだ、と弁明しているわけではない。前回の抗議記事でも書いたように、金のふるまいは、批判対象の属性を無根拠に推定し、かつ、その推定に基づき批判対象を不当に印象操作することによって、批判内容そのものの信頼性に打撃を加えようとする悪質な「人格攻撃」である、と主張しているのである。


3.「人格攻撃」について

「しかも、ぼくのツイート群をつまみ食いして印象操作かw それでよくも人格攻撃じゃないなどと言い張れたもんだな。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/195860662243700737


 私はつまみ食いではなく、関連するツイートを全文掲示し、私の批判が「人格攻撃」ではなく内容への批判であることの証明を試みた。確かに私の口調は激しいが、それは金の人格攻撃に向けられたわけではない。「つまみ食い」とは具体的にどの部分を指すのであろうか。金は根拠を提示すべきである。


4.「反日教育をしている朝鮮学校に日本国民の税金を支出するなど国益につながらない」との主張に対しては、「朝鮮学校は日本の国益につながっている」と反論するのが「有効な打撃を与える」リスク・コミュニケーションだ、という金の主張は誤っている、という私の批判について

「愛読者になっていただいたらしいから、あなたが設定したアジェンダに沿って答えてあげましょう。論点1はエビデンスがない。つまりはあなたの思い込みです。一方のぼくはといえば、傍証ぐらいはあります。一応はプロの研究者なのでね。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/195861654112698368


 これは反論というより、最大限好意的に解釈しても反論の予告である。私としては新たな反論をする必要を感じないため、初めの批判記事の該当箇所を再掲するに留める。

 「「リスク社会」云々は一種のハッタリと考えられるので無視して構わないだろう。ここでの核心は、高校「無償化」除外に対し在日朝鮮人は「朝鮮学校は日本の国益につながっている」と反論するのが有効だ、という部分にある。さて、在日朝鮮人は高校「無償化」除外に際し、「朝鮮学校は日本の国益につながっている」と反論するべきだろうか。また、そうした反論は果たして有効だろうか。
 現状をみるに、確かに朝鮮高校や在日朝鮮人団体のうち、「朝鮮学校は日本の国益につながっている」という理屈で「無償化」除外反対を訴えるものはいない。理由は明白であろう。そもそも事実に反するからである。朝鮮学校は在日朝鮮人の民族教育のために存在しているのであり、「日本の国益」とは無関係である。市民社会に訴えるために「日本の多文化共生に役立っている」くらいは言っている朝鮮人団体もあるかもしれないが(それ自体大変危うい主張であると思うが)、さすがに「朝鮮学校は日本の国益につながっている」はない。
 何より、「日本の国益につながっている」などという理屈は事実に反する上、これまで日本政府の弾圧政策にも屈せず民族教育を継続し、担ってきた在日朝鮮人一人ひとりの歴史と尊厳を毀損するものである。金明秀氏のいうように「朝鮮学校は日本の国益につながっている」という理屈を用いて仮に「無償化」適用となったとしても、私は、その後永久に朝鮮学校は「日本の国益」という鎖につながれ、また、数多くの在日朝鮮人の尊厳を傷つけることにより、金銭ではあがないきれないほどの大きな「損害」を蒙ることになるのではないかと考える。」(「金明秀「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」批判」



5.「反日教育をしている朝鮮学校に日本国民の税金を支出するなど国益につながらない」との主張に対しては、「朝鮮学校は日本の国益につながっている」と反論するのが「有効な打撃を与える」リスク・コミュニケーションだ、という金の主張には有効性が無い、という私の批判について

「論点2もあなたの思い込み。『人権と生活』にも書いたとおり、この点に関するぼくの主張は多数のエビデンスを前提としている。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/195862078123278336


 これも同様であるため、私の批判を再掲する。

 「ただ、「朝鮮学校は日本の国益につながっている」というレトリックはおそらく「有効」ですらない。金明秀氏は「有効な打撃」を与えうると主張しているが、実際にはむしろ逆の効果しか生まないことは明らかだ。そもそも、「日本の国益」という言葉は、その性質上日本政府あるいは日本人マジョリティに独占的な解釈権がある。一度「朝鮮学校は日本の国益につながっている」などというレトリックを用いたが最後、今般の情勢をみればわかるように、政府や自治体、マスコミ、右翼、ネットイナゴが朝鮮学校に押し寄せて「日本の国益」に反する「事実」を無限に挙げ続けるだろう。これに反論するのは困難である。何より金明秀氏自身が認めているように、「この種のデマは事実に基づいて形成されるのでなく、情動的側面が強いため、反証する事実を示すだけでは修正されにくい。しかも、「反日教育」というあいまいで都合のよいマジックワードが、あらゆる反論を無効化してしまう」からである。よって有効ですらない。」(「金明秀「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」批判」


6.金は自らの主張は「ネトウヨ」の「認識フレーム」を転換させるものだ、と主張したが、金の主張はむしろその「認識フレーム」にとどまることを積極的に主張したものである、という私の批判について

「論点3。ぼくは「ネトウヨ」の「フレーム」を転換するということは論じていないつもりなのだけどね。いま自分の原稿を確認してみたが、やはり書いていない。藁人形を勝手にこしらえてぼくの名前を張り付けられても、それはぼくじゃないよ。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/195863162929688576


 これはあまりに明白な言いがかりである。金は2012年1月9日、私の批判への弁解として、次のようにつぶやいた。

「ぼくが試行錯誤して見つけた中では、「朝鮮学校は日本の国益になる」というレトリックがネトウヨの認識フレームを揺るがす効果を持っているというだけの話。手段として有効な別のレトリックがあるなら、それを使えばいい。 @gurugurian @mujigedari」
https://twitter.com/#!/han_org/status/156291332254613504


 このように、金は明確に「「朝鮮学校は日本の国益になる」というレトリックがネトウヨの認識フレームを揺るがす効果を持っているというだけの話」と自らのエッセイについて補足説明をした。私は決して揚げ足をとっているわけではない。そもそもこのツイートがあったからこそ、私は「ネトウヨ」の「認識フレーム」云々に言及したのである。しかも、私は続編記事でわざわざこのツイートを引用し、次のように批判した。

「しかし、一方で金は、私の批判への弁明として「あのエッセイで最も重要な論点は、認識のフレームを転換するような運動が必要だということ」「「朝鮮学校は日本の国益になる」というレトリックがネトウヨの認識フレームを揺るがす効果を持っているというだけ」とも述べている。しかし、「朝鮮学校は日本の国益になる」というレトリックは、「国益になるなら無償化してやる」という「認識フレーム」を前提にしている。「国益にならない」と思ってる「ネトウヨ」に、いや国益になるよ、と言い返すことが「認識フレームを揺るがす」ものではないことは明らかである。金は「国家の敵」云々の箇所でも「その不正義を許容できるのか」と結論をぼかして書いているが、これはおそらく「その不正義を許容して、それを前提に戦うべきだ」と書いてしまうとあからさまに卑屈であるため言いづらいが(実際には金の主張は卑屈なのだが)、「その不正義を許容すべきではない」と書くと自らのエッセイと矛盾することになるからだろう。」(「続・金明秀「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」批判」)

 以上の事実から、私に対する「藁人形を勝手にこしらえてぼくの名前を張り付けられても、それはぼくじゃないよ」という批判はあたらない。金への批判としては上に掲げた主張に付け加えるものは無い。


7.金は「歴史的、現在的日本の加害を問わない、日本国民国家の枠組みの中での「多文化共生論」や「在日論」などは、抑圧者の論理と支配に加担する犯罪行為だとさえいえる」との徐勝の主張を好意的に引用し賞賛しているが、むしろ金の主張こそが「日本国民国家の枠組みの中での「多文化共生論」や「在日論」」である、という私の批判について

「論点4。あなたがまったく理解できていない重要な論点が少なくとも2つあり、その一つがここだ。ナショナリズムと一口に言っても、多様なスタイルが実践され、提案され続けている。あなたが70年代的なナショナリズムしか想定できないからといって、ぼくもそうだと決めつけられては困る。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/195864159123021827


 確かに私には、金のこのツイートも含めて、なぜ金が徐勝氏の批判を肯定的に引用するのか理解できない。

 むしろ金のエッセイの趣旨からすれば、徐勝の主張は批判の対象になるのではないだろうか。なぜなら、金は短期的に見た場合、マジョリティの認識フレームを転換させるのは困難であるから、その枠内での主張を行うべきだ、と主張しているからである。これはあてこすりではなく、単純に論理の問題として徐勝の指摘は金のエッセイの主張とは全く異なるものであり、むしろ金の主張は徐勝の批判対象であると思う。もちろん、私は金の主張と徐勝のそれが異なること自体が非難の対象になるとは思わない。率直に言って、単純に論理のレベルでなぜ金が徐勝氏のあの指摘を賞賛するのか私には理解できない。ただ、その要因は、私の理解力の不足ではなく、金の自説に対する理解力の貧しさにあると考える。


8.金は、宮台との論争についての私の記事が「誤解」であると主張するが、誤解ではない、という私の主張について

「論点5。ぼくは宮台氏に粘着しているわけではないので、彼がその後どういう主張を展開しているか知る由もない。が、あの議論の場面で彼は自説の誤りを明確に撤回し、その後は少なくともぼくが知るかぎり、ぼくが批判した内容の発言はしていない。あなたはリアルタイムで見てたわけじゃないんでしょ?」
https://twitter.com/#!/han_org/status/195865270777167872


 ここにも問題のすりかえがある。私は以前、金と宮台のやり取りについて次のように記した。

「つまり、宮台によれば日本政府は「『在日=強制連行』図式」を前提に在日朝鮮人の法的地位に関する政策を採ってきたのであるが、その「図式」は虚偽であるため「在日政策」も変更すべきである、ということになる。よって特別永住外国人が日本国籍を取得しないまま地方参政権を取得することには反対だ、というわけだ。
 宮台の議論については金明秀がこれを批判して、両者の間に若干の論争があったようだが、この部分については全く触れられぬまま終息を迎えたようである。私は宮台の議論は「『帰化すればいい』という傲慢」ともいえるものであり、ヘイト・スピーチであるという金明秀の結論に賛同するのであるが、なぜ金がこの点に触れず、また、宮台がこの説を維持しているのにも関わらず矛をおさめて和解したのか理解しかねる。
 問題点は極めて単純である。宮台のいうところの「『在日=強制連行』図式」に則って日本政府が「在日政策」を立てたことなどあるのか、ということである。私の知る限りそんなことは一度も無かった。もしあるというなら宮台は論拠を示すべきだろう(まさか小学校時代の教師の言が証拠とでもいうのだろうか)。」(「戦後日本政府の在日朝鮮人「政策」と強制連行問題」)


 また、続編記事で私は次のように記した。

 「実はこのブログで金に言及したのは今回が初めてではなく、以前にも一度宮台真司の問題と関連して触れたことがある(戦後日本政府の在日朝鮮人「政策」と強制連行問題)。
 その時私は、宮台が、日本政府がこれまで現存する在日朝鮮人の大多数は強制連行による被連行者及びその子孫であるという「図式」に基き「在日政策」を立ててきた、という驚愕の新説を主張したことに触れ、金がなぜ宮台がこの主張を取り下げていないにもかかわらず和解したのだろうか、と書いた。これに対し、金は「ありゃ、kscykscy氏に誤解されておる。ちょっと凹むなぁ。その「驚愕の新説」を取り下げたので「矛をおさめて和解した」のだけど…。」とあたかも私が「誤解」したかのようにつぶやいた。
しかし、少なくともネット上にある文章を見た限りでは、宮台は、日本政府がこれまで現存する在日朝鮮人の大多数は強制連行による被連行者及びその子孫であるという「図式」に基き「在日政策」を立ててきた、という認識を誤りとは認めておらず、私は誤解だとは思っていない。もし誤解というなら証拠を示すべきだろう。」(「続・金明秀「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」批判」)


 ここからもわかるように、私は論争の「その後」の宮台の主張を問題にしたわけではない。

 私は論争を「リアルタイム」で読んでいたが、なぜ宮台が、日本政府がこれまで現存する在日朝鮮人の大多数は強制連行による被連行者及びその子孫であるという「図式」に基き「在日政策」を立ててきた、という主張を修正していないにもかかわらず、金が批判の矛を収めたのか純粋に疑問に思ったのである。金も日本政府がこのような認識を前提に在日朝鮮人への政策を立てたとは思っていないであろうから、不思議に思い、それを指摘したのである。しかしこれに対し、上に挙げたように、金はその指摘は私の「誤解」であるとツイートした。

 確かに宮台は自説の一部を修正した。しかし、当時の宮台のツイートをみる限りでは(私も「その後」の宮台のツイートは見ていない)、上記の点についての自説修正は無かった。このため、金による「誤解」との指摘は大変意外であった。私としてもそれなりに探索したが、現時点では金による私の主張が「誤解」だとする指摘は妥当性を欠くものであると考えている。


9.「リスク社会」というハッタリについて

 「さて、あなたが自分で設定したアジェンダは以上の5点だったみたいだけど、大事な論点が一つ抜けてるんだよね。「金のいう「リスク社会」云々はハッタリである」というあなたの認識の妥当性だ。先ほど書いた、あなたが理解できていないことの一つがそれ。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/195865754778865664

 「なるほど、「ハッタリ」だという指摘は完全な誤りというわけでもない。震災直後、リスク論に世間の注目が集まっていたので、いい機会だと思って名前を借りたという側面は確かにある。また、本来の論点は「再帰的近代における他者論」なので、ベックよりもさらに適切な研究者はいる。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/195866565894356993

 「でもね、「再帰的近代(あるいはリスク社会あるいは排除型社会)における他者」という問題設定そのものはハッタリじゃないんだよ。あなたの言うとおり、ベックはそういう趣旨では書いてないんだけど、この分野ではむしろオーソドックスな問題設定なんだ。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/195867108020723712


 この金の弁明に、私は正直困惑せざるを得ない。エッセイを読めば誰しも理解できると思うが、金は明らかに「リスク社会における「他者」」を論じると表明し、ベックを参照した。しかし、ここに至ってエッセイの「本来の論点は「再帰的近代における他者論」」である、論点を理解しろという。後出しジャンケンそのものである。率直に言って、あのエッセイから「「再帰的近代における他者論」という「本来の論点」」を見抜くことなど不可能である。また、「再帰的近代」と「リスク社会」そして「排除型社会」は明らかに異なる概念である。これを安易に並列して、付け足し的に言い逃れようとする姿勢には「社会学者」としての誠実さを疑わざるを得ない。

 また、私は「「リスク社会における「他者」」という問題設定そのもの」がハッタリであると述べているのではない。私は続編記事で次のように記した。

 「ちなみに、前回の記事で私は金のいう「リスク社会」云々はハッタリであると書いた。理由は金のベックからの引用はほとんど意味がないからだ。確かにベックは「危険社会」がスケープゴート社会への内在的な傾向を含んでいると指摘しているが、その際に、「他者」の側が「リスク・コミュニケーション」をする必要があるなどとは一言も書いてない。金のベックからの引用はすべて『危険社会』からのものだが、そもそも「リスク・コミュニケーション」なる語自体が『危険社会』には登場しない。よって私はベックへの言及はその社会科学的分析を前提にするためではなく、自らの主張を粉飾するためのハッタリと判断した。エッセイは金の地の文章として読めばそれで十分である。」。」(「続・金明秀「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」批判」)
 

 ここからもわかるように、私は金によるベックの引用そのものがハッタリである、と述べた。エッセイにおける金の主張の根幹をなす部分はベックとは何ら関係ないため、あくまで金の地の文章としてエッセイを読めば十分だ、と指摘したのである。

 なお、誤解を避けるために断っておくが、私はハッタリとしてのベックの引用自体を非難するつもりもない。短いエッセイであるから、引用が断片的になることは十分ありうる。しかし、あのエッセイには、「リスク・コミュニケーション」云々についてもベックが主張しているかのように読めてしまう不親切さがある。このため、ベックとは無関係に、金の地の文として読めば十分であると釘を刺したのである。もちろん、ベックと無関係な金の地の文であることが、それ自体として文章の妥当性を損なうものでもない。

 「日本(と朝鮮籍在日)に固有の問題ももちろんある。歴史性を度外視しては何も語れない。でもその一方で、これは世界的に同時に進行している現象の一部という側面もある。その両者を視野に入れることで、この困難な状況を生き抜く活路を見出そうというのが『人権と生活』のエッセイの趣旨だった。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/195868220891217920

 「ぼくは何度も何度もそのことを指摘したはずだが、あなたは一貫してその論点をスルーした。それこそ、この問題を認識するフレームを持ち合わせていないか、あるいは意図的にぼくの論点を矮小化しようとしているかのいずれかでしょうね。いずれにせよ、議論が成立する状況じゃない。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/195868864616214528


 「~という側面もある」までの箇所は、「日本(と朝鮮籍在日)」と並列する意味が不明なのを除けば、一般論としては同意する。しかし、金のエッセイは、日本の固有性と、世界的な同時進行現象であるという側面「を視野に入れることで、この困難な状況を生き抜く活路を見出そうという趣旨」に留まるものではない。これについてはすでに再三述べたので、繰り返す必要はないと思う。また、金は「何度も何度もそのことを指摘したはずだが、あなたは一貫してその論点をスルーした」と述べているが、私は金のベックを援用した「リスク社会」及び「リスク・コミュニケーション」論はベックとは関係の無いハッタリである、とすでに述べた。「ハッタリ」については、上に挙げたツイートで明らかなように金自身も認めている。私は決して論点をスルーしていない。


10.結び

「批判自体は歓迎です。それが適切な論点であれば、なおありがたい。でも、あなたの続編以降のそれは、批判という形式をかたった攻撃感情の発露でしかない。自分の正義に酔っぱらっていると、落とし穴に落ちますよ。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/195870277870161921


 以上からもわかるように、私の批判は金に対する「攻撃感情の発露」ではなく、金の主張への批判である。私は金の人格に問題があると言っているのではなく、また、金を攻撃することそのものを目的にしているのでもなく、金の主張が誤っている、と述べているのである。

 また、前回の抗議の繰り返しとなるが、金に対し、私の主張が「陰で人格攻撃」「卑劣な対応」「言いがかり」「主張の内容ではなく人格を攻撃する愚論」であるという非難を撤回することを求めて、この記事の結びとしたい。
by kscykscy | 2012-04-28 00:00 | 朝鮮学校「無償化」排除問題

金明秀氏の筆者に対する不当な非難への抗議

1.はじめに

 私が以前書いた記事「続・金明秀「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」批判」(以下、続編記事とする)に対し、金明秀氏(以下敬称略)がツイッター上で次のようにつぶやいた。

「あ、続編が投稿されてたのか…。前回は言い足りないところをうまく補足してくれているとも思ったが、今回のは単なる言いがかりだな。「正面から反論」しろというなら、あなたこそ名前を名乗って正面から来なさいよ。はぁ、うざっ。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/193904397560987649


 この後に金が連投したツイッター上のつぶやきは、筆者を不当に非難するものであり見過ごすことはできない。緊急であるが、以下に問題点を指摘し、抗議する。(なお、関連するつぶやきは文末に掲載したため、引用に際してアドレスは記載しない。)

*参考:「金明秀「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」批判」 http://kscykscy.exblog.jp/17567948/

 その前提として匿名批判の問題に触れておきたい。続編記事に対し、金は「「正面から反論」しろというなら、あなたこそ名前を名乗って正面から来なさいよ」と記した。しかし、私が「金は問いに対して正面から答えようとせず」と書いた際の「正面から」は、一読してわかるように、批判に対し、批判の内容に即して反論しないという意味である。当然ながら「実名で」という意味ではない。そもそも金は実名で文章を公表しているのであるから、私が「正面から」を実名で、という意味で用いていないことは明らかである。

 もちろん、名指しで批判するなら名を名乗れ、という主張は成り立ちうる。匿名による批判は卑怯でありそうした批判には答えない、と公言するweb上の書き手もおり、これは一つの見識であろう。だが金は次に述べるようにそうは書いていない。また、私は金のエッセイを批判した一度目の記事も匿名で執筆し、これに対して金は公開されたツイッター上で弁解した。なぜ二度目の批判だけ「名前を名乗」れと主張するのか理解に苦しむ。

 そもそも金は自らは匿名批判をしたわけではないと言っている。しかし「ひとに「正面から」云々するなら、自分も堂々と矢面に立つべきでしょう」 とも書いている。冒頭に引用したつぶやきは明らかに匿名批判だが、それを撤回した上での「自分も堂々と矢面に立つべきでしょう」という提案は、具体的に筆者にどのような行動を求めているのであろうか。理解に苦しむ。

2.「陰で人格攻撃」「卑劣な対応」「言いがかり」「主張の内容ではなく人格を攻撃する愚論」という非難について

 金の言明は、好意的に解釈するならば、今回の記事は人格攻撃で卑劣な愚論なので、それならば記名で行え、という主張でもあると考えられないこともない。しかし、そもそも続編記事についての金の非難――「陰で人格攻撃」「卑劣な対応」「言いがかり」「主張の内容ではなく人格を攻撃する愚論」――はいずれも根拠を欠くものであり、いずれもが極めて不当な非難である。以下にその理由を述べたい。

a. 私の批判は「言いがかり」であり、「主張の内容ではなく人格を攻撃する愚論」である、とする主張

 「言いがかり」とは、根拠の無い言明である。しかし、私は可能な限り、金の文章を引用し、またツイッターであっても可能な限り関連するものは探索し、かつ本文中に引用した。また、批判に際しては可能な限り根拠を示した。強いて言うならば、一度目の批判記事における「「リスク社会」云々は一種のハッタリと考えられるので無視して構わないだろう」の箇所が根拠を示していない断定といえる。しかし、これについても、本論とは関係のない箇所でありながら、念のため続編記事でその根拠を示した。よって、金の主張は不当な非難である。

 また、人格攻撃とは、相手の提示した主張や論理ではなく、相手個人の性格や動機、属性(とされるもの)への非難を行い、それによって主張そのものの信頼性に打撃を与えようとする行為である。しかし、私の批判は、全て金のエッセイとつぶやきにおいてなされた「主張の内容」に向けられている。決して長い記事ではないので再読すれば明らかであるが、念のため要点を摘記しよう。

1. 金の「反日教育をしている朝鮮学校に日本国民の税金を支出するなど国益につながらない」との主張に対しては、「朝鮮学校は日本の国益につながっている」と反論するのが「有効な打撃を与える」リスク・コミュニケーションだ、という主張は誤っている。

2 .金の「反日教育をしている朝鮮学校に日本国民の税金を支出するなど国益につながらない」との主張に対しては、「朝鮮学校は日本の国益につながっている」と反論するのが「有効な打撃を与える」リスク・コミュニケーションだ、という主張には有効性が無い。

3.金は自らの主張は「ネトウヨ」の「認識フレーム」を転換させるものだ、と主張したが、金の主張はむしろその「認識フレーム」にとどまることを積極的に主張したものである。

4.金は「歴史的、現在的日本の加害を問わない、日本国民国家の枠組みの中での「多文化共生論」や「在日論」などは、抑圧者の論理と支配に加担する犯罪行為だとさえいえる」との徐勝の主張を好意的に引用し賞賛しているが、むしろ金の主張こそが「日本国民国家の枠組みの中での「多文化共生論」や「在日論」」である。

5.金は、宮台との論争についての私の記事が「誤解」であると主張するが、誤解ではない。


 このように、私の記事は金がエッセイやその後のつぶやきで提示した「主張の内容」を批判したものである。私は金の人格への非難によって、主張の信頼性に打撃を与えようとしておらず、金の「主張の内容」そのものを批判した。よって、金の主張は極めて不当な非難である。

b. 私が「陰で人格攻撃」している、という主張

 「陰で人格攻撃」とは、批判対象のあずかり知らぬところで人格攻撃をしている、という意味であると考えられる。しかし、私のブログは公開設定にしており、誰もが読むことができる。一度目の批判の記事に対し、金はツイッター上で反応しており、私は続編記事も金に読まれることを前提に掲載した。あるいは、ここでいう「陰で」は「匿名で」という意味かもしれないが、そうだとするならば、自らは匿名批判をしたわけではない、という主張と矛盾する。よって「批判対象のあずかり知らぬところで」という意味以外考えられず、金の主張は、極めて不当な非難である。

c. 私の記事が「その種の卑劣な対応を代表するかのような記事」である、という主張

 金は「いまの総連系知識人はあまりにも内向きすぎる。例えば朝鮮学校擁護の論陣を張っているのはいずれもメインストリームを外れた人ばかり。そういう人たちに反論を任せておきながら、いざ気に食わない主張があれば陰で人格攻撃をしたりする。」「そんな中、あのブログは数少ない正論のメディアだと期待していただけに、その種の卑劣な対応を代表するかのような記事には、心底がっかりしました。おそらく朝鮮大学校あたりの人でしょう。ひとに「正面から」云々するなら、自分も堂々と矢面に立つべきでしょう」 と書いた。

 普通に読めば、私の批判が「卑劣な対応」である根拠は、日常的には「メインストリームを外れた人」に「反論を任せておきながら、いざ気に食わない主張があれば陰で人格攻撃をしたりする」「総連系知識人」「おそらく朝鮮大学校あたりの人」による非難だからだ、ということになる。
 

 しかし、匿名にもかかわらず、金に私が「朝鮮大学校あたりの人」であるとわかるはずがない。しかも、数多くの「朝鮮大学校あたりの人」のなかでも、「メインストリームを外れた人」に「反論を任せておきながら、いざ気に食わない主張があれば陰で人格攻撃をしたりする」「総連系知識人」の「朝鮮大学校あたりの人」であることがわかるはずなどない。よってこれは根拠の無い推定である。

 あるいは、主張から推定した、と弁明するかもしれない。しかし、そもそも主張に問題があるならば、主張そのものを批判すればよい。金が行ったのは、無根拠に書き手の属性を推定し、それを批判への弁明として提示したことである。これは批判対象の属性を無根拠に推定し、かつ、その推定に基づき批判対象を不当に印象操作することによって、批判内容そのものの信頼性に打撃を加えようとする悪質な「人格攻撃」そのものである。

3.結

 これまでの記事とは異なり、以上は、金による「陰で人格攻撃」「卑劣な対応」「言いがかり」「主張の内容ではなく人格を攻撃する愚論」などの筆者への不当な非難への抗議である。金が抗議を受け入れ、自らの発言を訂正することを求める。

 また、これは金のつぶやきを読んだ第三者に向けた筆者の抗弁でもある。金による「陰で人格攻撃」「卑劣な対応」「言いがかり」「主張の内容ではなく人格を攻撃する愚論」という筆者への非難が無根拠であることを、公正な読者が認識することを期待する。


*参考

「あ、続編が投稿されてたのか…。前回は言い足りないところをうまく補足してくれているとも思ったが、今回のは単なる言いがかりだな。「正面から反論」しろというなら、あなたこそ名前を名乗って正面から来なさいよ。はぁ、うざっ。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/193904397560987649

「@unspiritualized ネットの匿名性に関する一般的な議論の中で解釈されると心外ですね。ぼくは匿名そのものを詰ったことなど一度もありません。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/194008631413448704

「@unspiritualized ぼくは所属もメールアドレスもツイッターでも批判を受ける準備をして、実際にヘイトスピーチとも向き合っているのに対して、自分は捨てアドすら示さずにいながら「正面から正面から反論するわけでもなく」などというのは単純にナンセンスな話です。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/194011879906099200

「@unspiritualized あの論点だと総連と朝鮮学校の運営を批判する形にならざるをえません。ブログで反論するとなれば、日本語で読める総連と朝鮮学校への批判が数万人の読者の目に触れることになります。ネトウヨ界隈は「金明秀ですら朝鮮学校を批判した」と大騒ぎになるでしょう。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/194013298050609152

「@unspiritualized 朝鮮学校の支援者だって無条件に支援しているわけでなく、不満や言いたいことはあっても今はそれをあえて争点化せずにサポートする時期だと判断して黙って支援しているということもあるわけですが、それをつぶやいたら「恫喝」だとか呆れて二の句が継げない。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/194014278305591296

「@unspiritualized 続編の記事に関していえば、主張の内容ではなく人格を攻撃する愚論という意味で、ヘイトスピーチの類と大差ありませんね。筋の通った論者だと思っていただけに、たいへん残念です。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/194015821318729728

「@unspiritualized 迷いましたが、もう一つ書いておくと、ぼくに対する反論であればべつに名前を名乗る必要などありません。「名前を名乗って」と書いた理由は、矢面に立って主張を開示してみなさいという意味です。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/194017791802736643

「@unspiritualized いまの総連系知識人はあまりにも内向きすぎる。例えば朝鮮学校擁護の論陣を張っているのはいずれもメインストリームを外れた人ばかり。そういう人たちに反論を任せておきながら、いざ気に食わない主張があれば陰で人格攻撃をしたりする。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/194017791802736643

「@unspiritualized そんな中、あのブログは数少ない正論のメディアだと期待していただけに、その種の卑劣な対応を代表するかのような記事には、心底がっかりしました。おそらく朝鮮大学校あたりの人でしょう。ひとに「正面から」云々するなら、自分も堂々と矢面に立つべきでしょう。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/194018701014601728

by kscykscy | 2012-04-23 00:00 | 抗議

続・金明秀「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」批判

 ZED氏の記事「金明秀という男について」には教えられるところが多かった。なかでも、金明秀氏(以下、敬称略)の議論ではネット右翼や極右政治家は批判できても「より巧妙で悪質な差別主義者や抑圧者」への反撃になりえないという指摘は、正鵠を射たものだと思う。例えば少し前の『朝日』の社説は次のように書いた(「朝鮮学校―無償化の結論だすとき」『朝日』2012.3.3)

「在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)と結びついた学校のあり方にも疑念の声がある。文科省はそうした点にも踏み込み、調査を続けてきた。/その間の議論を通じ、学校側は開かれた教育への姿勢を示しつつある。教科書の記述も改める動きが出てきた。父母の間にも、祖国の「3代世襲」に違和感を持つ人はいる。教室に肖像画を掲げることも考え直す時期だろう。そして、自国の負の部分も教えるべきだ。/多様な学びの場の一つとして認めた上で、自主的改善を見守る。そんな関係を築けばよい。/歴史を思えば、私たちは在日の人たちとその社会をもっと知る努力をすべきだ。/韓流ドラマの翻訳を支えるのは民族の言葉を学んだ在日だ。年末の全国高校ラグビーには、大阪朝鮮高校がホームタウンの代表として3年連続で出た。彼らは北朝鮮だけを背負っているわけではない。生まれ育った国と祖国の間で悩み、揺れながら生きる若者がいる。/なぜ自分たちがハンディを負わされるのか――。政治の動きに巻き込まれ、生徒たちは苦しんできた。アウェーの寒風をいつまでも浴びせてはならない。」 

 『朝日』は「その間の議論を通じ、学校側は開かれた教育への姿勢を示しつつある」と書いているが、事実の問題として、この間あったことは「議論」ではない。就学支援金と補助金をダシにした政府、国会議員、知事、都道府県議会議員とマスコミによる恫喝である。朝鮮学校と文科省が対等の立場で「議論」する場が設けられたことは一度も無いにもかかわらず、『朝日』はこの間の恫喝を「議論」と強弁して、そろそろ「無償化」を適用したらどうか、と主張している。しかも「自主的改善を見守る」と、以後の教育内容の監視まで宣言している。

 繰り返しになるが、この二年間の朝鮮学校への教育干渉に責任を負っているのは『産経』や極右政治家だけではない。『朝日』も、朝鮮学校の教育内容の修正をもって無償化の条件とする点では極右と同一の立場に立っている。問題は、文科省は各種学校の外国人学校も就学支援金の対象とすると言っておきながら、なぜ朝鮮学校だけ「学校のあり方」を調査するのか、であり、問われるべきは文科省の行為の違法性である。にもかかわらず、朝鮮学校の「法令違反」が云々されている。

 この点を一切問わず、暴力的な恫喝を「議論」と言い換え、教育内容への干渉を実質的に肯定しながら、上から目線で「無償化」が適用を促す(それも「北風と太陽」を連想させる比ゆを用いて)。『朝日』は朝鮮高校生への「無償化」適用が争点となった当初から、このラインで主張を展開し続けた。『朝日』はZED氏のいうところの「より巧妙で悪質な差別主義者」の典型といえよう。自らの立場の脆さをそれなりに自覚している文科省は、朝鮮高校生を全面的に排除する理屈が容易に見つからないため、知事が「法令違反」を探し出すのを待ちながら「審査中」という方便を繰り返している。よって、右派が騒ぐことにより朝鮮学校の教育内容や朝鮮総連との関係という虚偽の争点が注目されるのは、文科省にとっては大変都合がよい。

 こうした状況を踏まえるならば、金明秀の主張の問題は明らかである。金は『朝日』の論理を朝鮮人側から語りなおすことを促しているのである。むしろ、『朝日』ですら使っていない「朝鮮学校は日本の国益につながっている」というレトリックを用いており、金のほうがより踏み込んでいるともいえる。金の議論は全く新しいものではなく、むしろ『朝日』のような「より巧妙で悪質な差別主義者」の議論に沿うものである。これは文科省にとっては大変都合がいいため、運動戦略という観点からも全く有効でない。

 ちなみに、前回の記事で私は金のいう「リスク社会」云々はハッタリであると書いた。理由は金のベックからの引用はほとんど意味がないからだ。確かにベックは「危険社会」がスケープゴート社会への内在的な傾向を含んでいると指摘しているが、その際に、「他者」の側が「リスク・コミュニケーション」をする必要があるなどとは一言も書いてない。金のベックからの引用はすべて『危険社会』からのものだが、そもそも「リスク・コミュニケーション」なる語自体が『危険社会』には登場しない。よって私はベックへの言及はその社会科学的分析を前提にするためではなく、自らの主張を粉飾するためのハッタリと判断した。エッセイは金の地の文章として読めばそれで十分である。

 さて一方の金はというと正面から反論するわけでもなく、ツイッターで断片的な弁明を続けている。自分を批判したら朝鮮学校の子どもたちにとばっちりがいくぞ、と言わんばかりの恫喝つぶやきには、率直に言って嫌悪感しか抱かないが、それでも反論らしきものが書いてあるのは、あるフォロワーが金に「お気持ちはよく分かるのですが、在日が「国益」になる/ならないという判断の下に置かれるということは、いつでも恣意的に”ならない”に振り捨てられるということでもあり、「認識フレームを転換する」ことにはならないのでは」というまっとうな質問をしてからだ。この質問は基本的に私の金への批判と同じ理屈である。以下はその問いへの金の反応である。

https://twitter.com/#!/han_org/status/156351008631554048
「3つの観点からお答えします。一つは、外国籍住民はつねに/すでに「国益になる/ならない」という判断にされされてきたということ。在日の場合、恣意的に「国益にならない」と規定されてきたのはデフォルトです。ならば、それを前提に戦略を立てるべきだという話。 @unspiritualized」

https://twitter.com/#!/han_org/status/156352461119045632
「もう一つは、短期的な運動課題と中長期的な運動課題とを弁別すべきだということ。ナショナリズムを超克する制度の創出によって問題を根本的に解消するという理想も数十年スパンの課題として考えるべきでしょう。でも、現状でやれることも推進すべきです。 @unspiritualized」

https://twitter.com/#!/han_org/status/156354131387367425
「最後に、運動のターゲットの問題。「フレームを転換する」というとき、国家による外国人政策のフレームも問題となりますが、個々のマジョリティの認識フレームも同様に重要です。前者は法律を盾に改善を迫ることもできますが、後者は理詰めだけでは動きません。 @unspiritualized」

https://twitter.com/#!/han_org/status/156369577893298177
「もともと、日本人読者のうち、「国益」レトリックの適用自体に違和感を覚えるような方や、損得抜きに同じ住民だという実感を持っている方は、あのエッセイの直接の想定読者ではありませんでした。 @unspiritualized」

https://twitter.com/#!/han_org/status/156370926978605058
「ただし、「国益」レトリックに次のようなメタメッセージは込めました。(1)朝鮮学校の生徒たちは《国家の敵》として人権侵害にあっている。(2)在日は《国家の敵》でないことを主張せざるをえないところに追い込まれている。その不正義を許容できるのか。 @unspiritualized」

https://twitter.com/#!/han_org/status/156373673744400384
「エッセイにも書いたとおり、「その移民集団が当該社会の利益になっている」という理解は、多くの国で排外意識を引き下げているという証拠があります。また(続く) @unspiritualized」

https://twitter.com/#!/han_org/status/156374397270237185
「ぼくがあのエッセイに込めたメタメッセージの一つは、「マジョリティである自覚を持て」というものでした。根拠のない不安によってスケープゴートを不法に排除したり、踏み絵を踏ませたりする特権を持つ立場だと。(続く) @unspiritualized」

https://twitter.com/#!/han_org/status/156375254405627905
「そのために、使用する用語も、分析視角も、意図的にマジョリティ目線をたどったつもりです。日本人の特権性をマジョリティ目線で可視化するという拙い意図が成功したかどうか、まあ怪しいところではありますが。 @unspiritualized」

https://twitter.com/#!/han_org/status/156377721595891713
「結局、あれかな。あのエッセイもメタメッセージを込めすぎた失敗例だろうか。意外と文脈が共有されないな。」

https://twitter.com/#!/han_org/status/156380318302093312
「「国益」レトリックは、国家の犠牲になっている現実を可視化するためのカウンターとして用いたものですが、「国益につながらなければ排除してよい」という反応は別途、問題化されなければなりません。 @unspiritualized」


 大変わかりづらい「つぶやき」である。おそらく大意は、①在日は「国益になる/ならない」という判断にさらされてきた。よってそれを前提に戦うべきである、②「ナショナリズムを超克する制度の創出によって問題を根本的に解消する」のみならず、短期的には「現状でやれることも推進すべき」である、③国家による外国人政策のフレームは「法律を盾に改善を迫ることもでき」るが、「個々のマジョリティの認識フレーム」は「理詰めだけでは動」かない、の三点ということになるだろう。

 これは基本的にエッセイで金が書いたことの繰り返しである。すなわち、在日朝鮮人は「国益になる/ならない」という「認識フレーム」を前提に戦うべきであり、それが有効だ、というものだ。よって、フォロワーの「在日が「国益」になる/ならないという判断の下に置かれるということは、いつでも恣意的に”ならない”に振り捨てられるということでもあり、「認識フレームを転換する」ことにはならないのでは」との疑問に対しては、「認識フレームを転換する」必要はありませんし、そもそもすぐにはできません、というのが金の回答になるはずである。

 しかし、一方で金は、私の批判への弁明として「あのエッセイで最も重要な論点は、認識のフレームを転換するような運動が必要だということ」「「朝鮮学校は日本の国益になる」というレトリックがネトウヨの認識フレームを揺るがす効果を持っているというだけ」とも述べている。しかし、「朝鮮学校は日本の国益になる」というレトリックは、「国益になるなら無償化してやる」という「認識フレーム」を前提にしている。「国益にならない」と思ってる「ネトウヨ」に、いや国益になるよ、と言い返すことが「認識フレームを揺るがす」ものではないことは明らかである。金は「国家の敵」云々の箇所でも「その不正義を許容できるのか」と結論をぼかして書いているが、これはおそらく「その不正義を許容して、それを前提に戦うべきだ」と書いてしまうとあからさまに卑屈であるため言いづらいが(実際には金の主張は卑屈なのだが)、「その不正義を許容すべきではない」と書くと自らのエッセイと矛盾することになるからだろう。

 こうした明らかに矛盾したメッセージを読者に示しているにもかかわらず、金は「あのエッセイもメタメッセージを込めすぎた失敗例だろうか。意外と文脈が共有されないな」と読者に責任転嫁する。だが、以上みたように金のエッセイとその後の弁明が「理解」されないのは、読み手の責任ではない。金の主張が支離滅裂だからである。真面目に金のエッセイと「つぶやき」に付き合っている読者に失礼である。

 
 ちなみに金は、徐勝氏の「東アジアの諸民族や朝鮮民族の奪われた諸権利の回復こそが、われわれの「正義」であるので、歴史的、現在的日本の加害を問わない、日本国民国家の枠組みの中での「多文化共生論」や「在日論」などは、抑圧者の論理と支配に加担する犯罪行為だとさえいえる」という指摘に対し、「そう、これぞまさに正論。たとえ同種の言説に聞こえようとも、左翼ナショナリズムの枠内から発せられるそれとは根本的に異なる。」「民族的マイノリティにとっての左翼ナショナリズムって麻薬のようなものだね。安定的な貴族の物語に酔っぱらい、実態とのかい離を冷静に見つめる視座をマヒさせる。しかも、祖国ナショナリズムに準拠しながら居住国ナショナリズムを撃つという矛盾にも気づかなくなる。」 とつぶやいているが、金のエッセイは「日本国民国家の枠組みの中での「多文化共生論」や「在日論」」の典型である。自らの主張が「犯罪行為」と名指されているのにそれに気づかないのは喜劇である。

 今回の件もそうだが、金は問いに対して正面から答えようとせず、批判者にレッテルを貼ることで批判の陳腐化を図る傾向がある。実はこのブログで金に言及したのは今回が初めてではなく、以前にも一度宮台真司の問題と関連して触れたことがある(戦後日本政府の在日朝鮮人「政策」と強制連行問題)。

 その時私は、宮台が、日本政府がこれまで現存する在日朝鮮人の大多数は強制連行による被連行者及びその子孫であるという「図式」に基き「在日政策」を立ててきた、という驚愕の新説を主張したことに触れ、金がなぜ宮台がこの主張を取り下げていないにもかかわらず和解したのだろうか、と書いた。これに対し、金は「ありゃ、kscykscy氏に誤解されておる。ちょっと凹むなぁ。その「驚愕の新説」を取り下げたので「矛をおさめて和解した」のだけど…。」とあたかも私が「誤解」したかのようにつぶやいた。

 しかし、少なくともネット上にある文章を見た限りでは、宮台は、日本政府がこれまで現存する在日朝鮮人の大多数は強制連行による被連行者及びその子孫であるという「図式」に基き「在日政策」を立ててきた、という認識を誤りとは認めておらず、私は誤解だとは思っていない。もし誤解というなら証拠を示すべきだろう。以前は面倒だったのでわざわざ書かなかったが、いい機会なのでこの場を借りて付言しておく。
by kscykscy | 2012-04-01 00:00 | 朝鮮学校「無償化」排除問題

金明秀「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」批判

 前回と同様発表から若干時間が経っているが、社会学者の金明秀氏が昨年書いた「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」という文章がある。はじめ在日本朝鮮人人権協会発行の『人権と生活』に掲載され、現在は加筆・修正の上、金明秀氏自らが管理するサイトにアップされている。これは在日朝鮮人の「民族運動」に対する一種の「提言」であるが、その内容は大変危うい。少し日が経ってしまったが、まかり間違えてこの提言が受け入れられることのないよう、ここに批判を記す次第である。

  金明秀氏の主張は次のように要約できる。現代日本は「リスク社会」になったのだから、在日朝鮮人も「人権」「平等」などの「近代の市民的規範」を訴えるばかりではだめだ、リスク・コミュニケーションが必要だ。そして、「反日教育をしている朝鮮学校に日本国民の税金を支出するなど国益につながらない」との主張に対しては、「朝鮮学校は日本の国益につながっている」と反論するのが「有効な打撃を与える」リスク・コミュニケーションだ、と述べている。

  「リスク社会」云々は一種のハッタリと考えられるので無視して構わないだろう。ここでの核心は、高校「無償化」除外に対し在日朝鮮人は「朝鮮学校は日本の国益につながっている」と反論するのが有効だ、という部分にある。さて、在日朝鮮人は高校「無償化」除外に際し、「朝鮮学校は日本の国益につながっている」と反論するべきだろうか。また、そうした反論は果たして有効だろうか。

 現状をみるに、確かに朝鮮高校や在日朝鮮人団体のうち、「朝鮮学校は日本の国益につながっている」という理屈で「無償化」除外反対を訴えるものはいない。理由は明白であろう。そもそも事実に反するからである。朝鮮学校は在日朝鮮人の民族教育のために存在しているのであり、「日本の国益」とは無関係である。市民社会に訴えるために「日本の多文化共生に役立っている」くらいは言っている朝鮮人団体もあるかもしれないが(それ自体大変危うい主張であると思うが)、さすがに「朝鮮学校は日本の国益につながっている」はない。

 何より、「日本の国益につながっている」などという理屈は事実に反する上、これまで日本政府の弾圧政策にも屈せず民族教育を継続し、担ってきた在日朝鮮人一人ひとりの歴史と尊厳を毀損するものである。金明秀氏のいうように「朝鮮学校は日本の国益につながっている」という理屈を用いて仮に「無償化」適用となったとしても、私は、その後永久に朝鮮学校は「日本の国益」という鎖につながれ、また、数多くの在日朝鮮人の尊厳を傷つけることにより、金銭ではあがないきれないほどの大きな「損害」を蒙ることになるのではないかと考える。

 ただ、「朝鮮学校は日本の国益につながっている」というレトリックはおそらく「有効」ですらない。金明秀氏は「有効な打撃」を与えうると主張しているが、実際にはむしろ逆の効果しか生まないことは明らかだ。そもそも、「日本の国益」という言葉は、その性質上日本政府あるいは日本人マジョリティに独占的な解釈権がある。一度「朝鮮学校は日本の国益につながっている」などというレトリックを用いたが最後、今般の情勢をみればわかるように、政府や自治体、マスコミ、右翼、ネットイナゴが朝鮮学校に押し寄せて「日本の国益」に反する「事実」を無限に挙げ続けるだろう。これに反論するのは困難である。何より金明秀氏自身が認めているように、「この種のデマは事実に基づいて形成されるのでなく、情動的側面が強いため、反証する事実を示すだけでは修正されにくい。しかも、「反日教育」というあいまいで都合のよいマジックワードが、あらゆる反論を無効化してしまう」からである。よって有効ですらない。

 さて、金明秀氏は結びの部分で、こうした批判を想定していたとでもいわんばかりの調子で、次のように記している。

 「祖国志向の強い在日コリアンであれば、「朝鮮学校の存在が日本のためになる」という発想そのものを嫌悪するかもしれない。また、「あなたたちの役に立っているのでいじめないでください」とでもいわんばかりのリスク・コミュニケーション戦略に、強い屈辱を感じる人も少なくはないだろう。
 しかし、そういう人に考えてもらいたいことが二つある。
 一つは、「移民はこの国の役に立つ」と信じている人ほど移民に悪感情を持たない(逆にいえば、「移民はこの国の厄介者だ」と信じている人ほど移民の排斥に賛成する)ということだ。この命題は、世界各国の調査で手堅く支持されている。
 たしかに、在日コリアンがこの国の厄介者だという信念は、まことに馬鹿げたものである。世界の民族状況を知れば、在日コリアンはむしろ「モデル・マイノリティ」と呼べる理想的な隣人であることがわかるはずだ。とはいえ、いかにナンセンスであろうとも、実際にそういう誤解と偏見が流布してしまっているなら、それを払しょくするために合理的な努力をせざるをえまい。
 もう一つは、朝連解散以降、在日コリアンは、実際に日本社会において「リスク」とみなされないように努力してきたという歴史だ。前述した通り、在日コリアンは、差別と不平等にあえぎながら、それを克服して日本人と相同の社会的地位を形成してきた。
 世界中の国家が民族的マイノリティにそれを望んで膨大な予算を支出しているというのに、在日コリアンは日本政府からそのための補助など受けることなく、独力で不利益を跳ね返してきたのだ。この地で立派に市民生活を営んできたということ自体、いくらでも誇ってよい民族集団の歴史なのである。」


 確かに、私は金明秀氏の主張を嫌悪する。何より、予想される反論に「祖国志向の強い」という限定をかける金明秀氏の手法にも嫌悪感を抱く。福岡安則氏が用いて人口に膾炙して以来、心ある在日朝鮮人を苛立たせ続けている「祖国志向」云々のレッテル貼りを、金明秀氏はなぜ立論とは直接関係が無いにもかかわらず持ち出したのだろうか。そこには論敵を陳腐化する「戦略」があるのではないか、と勘ぐりたくなる。また、「朝鮮学校は日本の国益につながっている」という主張は、実は「あなたたちの役に立っているのでいじめないでください」よりも多くのことを述べている。正確には金明秀氏は「あなたたちの国の国益になっているのでいじめないでください」といえと勧めている。これは容易に「あなたたちの国の国益になりますのでいじめないでください」に変わりうる。これは嫌悪せざるをえない。

 何より、私は金明秀氏がその「リスク社会」なる像をすでに到来し受け入れざるをえないものとして提示するところに嫌悪感を抱く。在日朝鮮人が進んで自らが「日本の国益につながっている」と主張し、日本政府と日本人がそれをうけて「在日朝鮮人はこの国の役に立つ」と信じ、在日朝鮮人を「モデル・マイノリティ」(この言葉をここまで肯定的に用いる在日朝鮮人を私は始めて知った)として位置づける社会。「移民」がマジョリティにとって「役に立つ」限りで「悪感情を持たない」社会。マイノリティに「役に立つ」競争を求める社会。確かにこれは日本社会そのものだろう。しかし、ベックという「権威」を用いてそうした社会が到来したのだと宿命論的に説き、在日朝鮮人に対し、これに抵抗するのではなく、順応すべしと説く金明秀氏の主張には、どうあっても嫌悪感を抱かざるをえない。朝鮮学校側がこの「提言」を採用しないことを願うばかりである。
by kscykscy | 2012-01-08 23:20 | 朝鮮学校「無償化」排除問題