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ベンガジ条約について――イタリア-リビア「友好」条約は日朝条約のモデルとなるか?

 ちょうど二年前の2008年8月30日、イタリアとリビアの間である条約が締結された。日本語での定訳が無いようなので、さしあたり「イタリア-リビアの友好・協力・提携に関する条約(Treaty on Friendship, Partnership and Cooperation between Italy and Libya)」としておくが、締結された都市の名前から、以下「ベンガジ条約」で統一する。翌年の2009年3月2日に発効した。

 ベンガジ条約はイタリアによるリビア植民地支配に対する「謝罪」と経済支援、安全保障、そして北アフリカからイタリアに向けた移民の規制など、いくつかの極めて重要な問題を取扱っている。私はベンガジ条約は今後の日朝国交「正常化」交渉を考える上でも非常に重要な意味を持つのではないかと考えているが、日本では条約締結の事実を伝えるもの以外、論評などは皆無に等しい。韓国併合百年云々と植民地支配の問題に注目が集まっているようだが、こうした重要な問題が全く注目されていないのは不思議ですらある。

 ただ、今後日朝国交「正常化」交渉が再開するなかで、このベンガジ条約によるイタリア-リビアの植民地支配「清算」の方式は、何らかのかたちで注目されることになるだろう。そしてその際、ベンガジ条約が日朝条約の一つのモデルとして称揚されることになる可能性がある。だが果してベンガジ条約によるイタリア-リビア関係「正常化」は、植民地支配責任を果すことを核とした日朝関係の「正常化」の良きモデルたりうるのだろうか?以下このブログでは、そもそもベンガジ条約はどのような内容の条約であり、それをどのように見るべきなのかについて考えてみたい。

 今回はその前提としてイタリアの植民地主義をめぐる諸問題について簡単に概観しておこう。そもそも日本とイタリアを植民地主義という視点から比較する試みは、日本ではそう一般的ではない。戦後の戦争責任論を念頭においた社会科学・人文科学的分析のなかで圧倒的に優勢だったのは、丸山真男の戦後直後の仕事に代表されるように日本をドイツと比較する手法であったといえる。だが周知の通りドイツは第一次世界大戦の敗北によりそれ以前の植民地をすべて「喪失」しており、一貫して植民地を支配し続けた大日本帝国と大きな違いがある。自然、ドイツとの比較では植民地という対象が抜け落ちてしまうことになる(もちろん、ドイツとの比較が盛んだったから植民地主義の問題が考えられなかったというよりも、元から関心が無かったというほうが事実に近いのだろう)。

 戦後日本において枢軸国のもう一方の極であるイタリアへの関心は決して無いわけではなかったが、どちらかといえばレジスタンスや戦後のユーロ・コミュニズムへの羨望からの関心に留まり、そもそもイタリアが植民地支配をしてきたこと自体が日本社会ではほとんど意識されることが無いのが現実だったのではないだろうか。実際、「イタリア植民地主義」という言葉自体、日本語ではほとんど聞くことがない。ただ、どうやらこうした事情はイタリアでも同様らしく、イタリアの歴史学者アンジェロ・デル・ボカは「植民地期はイタリアのナショナルヒストリーにおいて、おそらく最も知られておらず、最も霧に包まれた時代である」と指摘する(Angelo Del Boca, ”The Obligations of Italy toward Libya”, Italian Colonialism, Palgrave Macmillan,2002.)。近年、イタリアではレジスタンスの評価をめぐって修正主義派が力を得ているようだが(セルジョ・ルッツァット、堤康徳訳『反ファシズムの危機―現代イタリアの修正主義』岩波書店、2006年参照)、植民地主義の問題はさらにその深層にあるということだろうか。

 だがイタリアと植民地主義の問題は、世界的な過去清算の問題を考える上でも注目されるべきケースである。そもそも第二次大戦後における植民地主義的国際秩序の再編は、イタリアとの講和からスタートした。イタリアは旧枢軸国のなかではもっともはじめに連合国との講和条約を調印したが、対伊講和交渉の過程で、エチオピアをはじめ、植民地化された国々は植民地支配の賠償を強く訴えていた。しかし、イタリアと直接交渉をしていたフランスは当時対ドイツ戦争の重要な拠点であった自らの植民地の問題にはねかえってくることを恐れ、判断を回避して、国連に問題を丸投げしたのである。結果、イタリアに関して植民地賠償はせず、それどころか旧植民地たるソマリランドの信託統治をイタリアに認めることにしたのである(佐々木隆爾「いまこそ日韓条約の見直しを」『世界』1993年4月号参照)。日本は旧枢軸国のなかでは最後に講和条約を締結したが、植民地の問題に関しては対伊講和で一定のレールが敷かれたといえるだろう。

 リビア植民地支配が終わった1943年から60年以上が過ぎた2008年にようやくベンガジ条約が締結されるに至った背景には、以上みたような戦後国際秩序が形成される過程での植民地支配責任追及の封じ込めという構造的要因がある。つまり、日本の朝鮮植民地支配責任追及が遅れていることと、イタリアのリビア植民地支配をめぐる条約締結が2008年にまでずれこんだことの根は同じなのである。

 ここでイタリアのリビア植民地化過程を簡単に振り返っておこう。イタリアのアフリカへの軍事的侵略は、1885年のエチオピア北方のマッサゥワ港への派兵に始まる。その後、エチオピアの保護国化を試み、1908年にはソマリアを公式に植民地とするが、ここでイタリアが目をつけたのがリビアだった。イタリアは当時オスマン帝国の一州だったリビア獲得のため1911年にオスマン帝国に戦争を仕掛け(伊土戦争)、結果、1912年のローザンヌ条約によりイタリアはリビアを併合する。こうして始まったイタリアのリビア植民地支配は、1943年まで継続した(イタリア植民地主義の展開については、マルコ・ズバラグリ「本書を読む人のために」、『ムッソリーニの毒ガス 植民地戦争におけるイタリアの化学戦』大月書店、2000年が簡潔にまとめているので参照されたい)。

 ちなみに、イタリアはエチオピア保護国化のため、メネリク皇帝とのあいだに1889年、ウッチャッリ条約を締結するが、マルコ・ズバラグリによれば「その手法は、けっして見事とはいえない、しかも詐欺的なものであった。なぜなら、1889年にメネリク皇帝とのあいだで結ばれたウッチャッリ条約では、イタリア語訳においてのみ明確に保護領という規定がなされており、メネリク皇帝との話し合いに用いられ、皇帝によって署名されたアムハラ語の正文には、そのような仮定へのあらゆる言及が故意に省略されていた」という(同上、xii-xiii)。この事実をとっても、以前に言及した「超左翼おじさん」=松竹伸幸の、ヨーロッパはアフリカを植民地化する際、日本と違って条約を結ばなかった、という主張がデタラメであることがわかる
「超左翼おじさん」=松竹伸幸氏の植民地認識批判)。ウッチャッリ条約のケースは、1905年の保護条約の瑕疵と同次元(あるいはそれ以下)の問題を含んでいるといえよう。

 後述するように、実際にはイタリアの初期のリビア支配はその領土の一部にしか及んでいなかったのであるが、1880年代のアフリカ侵略開始から1911-1943年のリビア植民地支配へ、というイタリア-リビア関係の推移は、1870年代の朝鮮への干渉開始から対東学戦争、対義兵戦争を経て、1910-1945年の植民地支配へ、という日本-朝鮮関係の推移と同時代的に起こっていることがわかる。今回のベンガジ条約では、直接的にこのリビア植民地支配の問題が扱われており、そのような意味でも今後の日朝条約を考える上での重要な比較対象となろう。

 また、1969年のカダフィによる革命後、とりわけ1980年代に入ってから、リビアはテロ支援の名目で国連から制裁を受け、1986年には米国がカダフィ暗殺のためにリビアを空爆している。このようにリビアが東西冷戦の枠組みにおさまらない「敵」として名指され、「反テロ」の文脈で米国及び西側諸国と対立関係にあったこともまた、朝鮮民主主義人民共和国をとりまく環境と類似性があるといえる(何より西側メディアのカダフィを表象するやり方(「狂犬」など)は、90年代以降の日本の金正日表象に酷似している)。

 次回からは、いよいよベンガジ条約の内容について検討したい。
by kscykscy | 2010-09-01 22:27 | 日朝関係

民主党の植民地主義的再入国許可制度再編案

 前回触れた民主党の「在日朝鮮人に対する再入国許可禁止」という「制裁」案について、もう少し詳しく検討したい。植民地支配責任という観点からも、これは相当深刻な問題だからだ。

 現在の入管法、入管特例法は永住・特別永住資格を持つ外国人に対し、日本国外への一時渡航に際して再入国許可を得ることを義務づけている。この「再入国許可制度」については、大きく二つの立場からの批判がある。一つは在日朝鮮人団体が繰り返し主張してきたもので、人権論の見地からの批判。そしてもう一つは、いわゆる「規制緩和」の立場から、商用の外国人にとってこの制度は不合理で非効率であるという批判である。前者について政府はほとんど聞く耳を持ってこなかったが、後者の批判があるため、一時は新たな在留管理制度のもとで撤廃かとの観測もあった。

 だが一方で日本政府は、例えば朝鮮のミサイル発射実験以後の措置の一つに「在日の北朝鮮当局の職員による北朝鮮を渡航先とした再入国は原則として認めない」という項目を入れており、この再入国許可制度を対朝鮮制裁の手段として最大限活用している。

 しかし、今回報道されている民主党案は、渡航先や渡航主体の限定無しの「在日朝鮮人に対する再入国許可禁止」をうたっており、どう考えてもその適用範囲は政府の「制裁」措置よりもはるかに広い。ただ、こうした広範囲な再入国許可禁止案は決して新しいものではなく、2004年にいわゆる「西村眞吾私案」として拉致議連内で議論されたことがある。この「西村私案」は、一言でいえば入管特例法の改悪案なのだが、その内容は以下の通りだ。

 法務大臣は、特別永住者で次の各号のいずれかに該当するものに対しては、入管法第
二十六条第一項の規定による再入国の許可を与えない。

一 日本国憲法又はその下に成立した政府を暴力で破壊することを企て、若しくは主
張し、又はこれを企て若しくは主張する団体を結成し、若しくはこれに加入している者
二 前号に規定する団体の目的を達するため、印刷物、映画その他の文書図画を作成
し、頒布し、又は展示することを企てる者
三 前二号に掲げる者を除くほか、法務大臣において日本国の利益又は公安を害する
行為を行うおそれがあると認めるに足りる相当の理由がある者


 以上の項目を、入管特例法の第十条(再入国の許可の有効期間の特例等)に付け加えるとしている。ここに挙げられた三項目は、いずれも入管法第五条に定められた上陸拒否事由(十一号、十三号、十四号)で、それをそのまま再入国許可にあてはめようというのが、この「西村私案」の狙いである。現在、入管特例法は上陸審査の特例を設けているが、入国時の上陸拒否事由の審査から除外しているが、それを特別永住者にも適用しようというのである。

  西村自身はすでに民主党ではないが、過去のものを見る限りおそらく民主党案の「在日朝鮮人に対する再入国許可禁止」というのは、この「西村私案」と同様のものと推測される。つまり、入管特例法改悪を通じた特別永住許可者の再入国許可制限、あるいはそれに準じた措置を政府が「追加制裁」として取る、というやり方である。これならば「規制緩和」論者(海外含む)から評判の悪い再入国許可制度そのものは緩和するとしても、その多くが在日朝鮮人である特別永住者に対し在留規制をかけることができる。

 現行の再入国許可制度は、法の形式としては米国式の入管法に基づいているが、その実態においては、明らかに「一時帰鮮証明書」制度などの植民地期における在「内地」朝鮮人渡航規制との連続があると思われる。そう考えるならば、「西村私案」そして民主党案は、植民地民渡航規制という「本来の」あり方に、再入国許可制度を戻すものともいえるだろう。植民地時代の統治技術を今も日本政府が捨てきれないからこそ、再入国許可制度は維持されるのだ。

 昨今の在日朝鮮人団体に対する弾圧といい、この植民地主義的再入国許可制度の再編案といい、国交正常化交渉を前に、国内における朝鮮人支配体制の強化を平行してやっていくというのが、「侵略責任継承国」日本のやり方なのである。
by kscykscy | 2008-11-08 01:06 | 出入国/在留管理