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教科書干渉と「多文化共生社会」の始まり――朝鮮学校と高校「無償化」問題⑪

 イタリアのリビア植民地支配をめぐる問題を書く、といっておきながら果せず、それどころか放置している間にNATOの多国籍軍によるリビア空爆が始まった。前述のベンガジ条約はリビア-イタリアの相互不可侵を定めており、今般のイタリアの空爆参加は明白にベンガジ条約に違反するものである。日朝ピョンヤン宣言をめぐって、少なくない人々が「平和」の大義名分のもと植民地支配責任の棚上げに口をつぐんだ。安易な類推は禁物だが、リビア空爆へのイタリアの参加はこのような「平和」がいかにもろいものかを私たちに示唆しているとはいえないだろうか。

 朝鮮学校に対する日本政府・地方自治体の干渉は日を追って激しくなっている。相変わらず「無償化」からは排除されたままだ。それどころか地方自治体はこれを機に朝鮮学校への補助金の打ち切りをちらつかせ、教育「内容」への干渉を実行した。昨年大阪の橋下知事が朝鮮学校を恫喝したのに続き、神奈川でも黒岩知事が教科書の記述に口を出した。

 そもそも自治体からの補助金は、朝鮮学校への中央からの私学助成が全く行われないなか、学校や父母、支援者らの運動によりようやく勝ち取られたものだ。その額もわずかで私学助成には到底及ばない(私学助成と自治体による補助金の関係については、少し古いがこの記事を参照)。しかし、そのわずかな補助金を自治体は朝鮮学校の教育内容を改造するためのツールとして使い始めた。これが高校「無償化」政策と、その後のマスメディアのストーカー報道が生み出した「成果」である。

 そして、朝鮮学校側は圧力に屈し、教科書の記述を変更した。この屈服の意味するところは極めて大である。これまでも朝鮮学校の教育内容を日本政府が問題視したことはあった。しかしそれに屈し、具体的に記述変更を強いられたことは無かったのではなかろうか。

 在日朝鮮人の民族教育史において「教科書」の持つ意味は決して小さいものではない。「解放」直後、いちはやく在日朝鮮人は自前の教科書を作った。総督府の発行した教科書を墨塗りしたわけでもなく、朝鮮で発行されたものを利用したわけでも無かった。むしろ朝鮮よりも早く、在日朝鮮人は自前の教科書を編纂した。「解放」後の新たな民族教育史の第一歩を、誰よりも早く踏み出した。それはささやかな誇りであった。阪神教育闘争の前後、米軍が南朝鮮米軍政庁発行の教科書を使うよう圧力をかけたことがあった。しかし朝鮮学校はそれに応じることは無かった。ついには学校ごと閉鎖に追い込まれた。

 その後もたびたび朝鮮学校への政治介入の危機はあった。実際、警察や機動隊といった具体的な暴力装置の介入は繰返された。だが、教科書には一行たりとも日本の圧力で記された行は無かった。その歴史がいま終ろうとしている。「多文化共生社会」(黒岩神奈川県知事)の始まりである。

 「同胞」たる民団は、引き続き日本政府、そして韓国の世論へ朝鮮学校の「無償化」排除がいかに正当かを訴え続けた。

<民論団論>大韓仏教曹渓宗の朝鮮学校支援に思う 仇になる安易な《民族愛》
<布帳馬車>朝鮮学校への支援? その前に…

 民団は自らもまた民族教育の担い手であるという事実を忘れたのだろうか。「無償化」排除に喝采を送り、教科書干渉を礼賛しながら、この人々はあるいは自らの運営する教育機関の内容にも同種の干渉があるやもしれないとの思いに、至らなかったのであろうか。ここで朝鮮学校をきっちり叩いて日本に恩を売っておいたのだから、まさか自分に火の粉は飛んでくるまいと高をくくっているのであろうか。自分たちもまた、日本から見ればただの朝鮮人にすぎない(あえてこう書く)という単純な事実に、この人々はいつになったら気づくのだろうか。

 韓国の保守系メディアもまた、今般の教科書干渉に喝采を送った。

取材日記】朝鮮総連の歴史歪曲…お金が正した
조총련 학교, 8억원 때문에 납치,KAL폭파 인정
돈이 급해서… 진실을 말하게 된 조총련 교과서

 朝鮮学校の財政窮乏を揶揄し教科書への干渉にもろ手を挙げて賛成する『朝鮮日報』、日本人の「歴史教科書闘争」に好意を示しながら(横浜市の母親たちの「歴史教科書闘争」)、朝鮮学校の教科書への干渉にはコメント無しの『東亜日報』、嬉々として「朝鮮総連の歴史歪曲…お金が正した」と日本語版に記事を流す『中央日報』。大韓民国よ、あなたがたに助けを求めようなどとは思わないが、せめて邪魔するのだけはやめてくれないか。
by kscykscy | 2011-06-06 00:23 | 朝鮮学校「無償化」排除問題

やはり橋下府知事を朝鮮学校に入れるべきではなかった――朝鮮学校と高校「無償化」問題⑦

 橋下は予定通り朝鮮学校を「視察」し、高校「無償化」と何の関係もない肖像画問題等で朝鮮学校を恫喝した。テレビに映し出されたのは、強要された「歓迎」のなか、敢然と「不法国家」との関係をただす橋下知事と、話さなくてもいいことまで話し、しなくてもいい「約束」までしてしまった大阪朝高側関係者の哀れな姿だった。

 私は橋下の「視察」そして恫喝は日本のおおよそのメディアの支持のもとに行われたものとみるべきだと思う。何より橋下の行動は新聞各紙の論調とそうずれているわけではない。『朝日』は、今後肖像画は無くなっていくだろう、だから無償化から除外するな、と主張していた(「案の定の『朝日新聞』社説――朝鮮学校と高校「無償化」問題③」参照)。他紙も似たようなものである。テレビも嬉々として橋下の「視察」を報道したように見える。橋下=『産経』と見るのは誤りであって、むしろ『産経』の本音からすれば中井拉致担当相の「橋下知事は甘い」という意見に近いだろう。条件を満たせば「無償化」に入れてやるなんてこといってないで、さっさとつぶしてしまえというのが中井=『産経』の主張だからだ。

 不当な橋下の「視察」を朝鮮学校側が受け入れざるを得なかったのは、こうしたメディア全体の圧力があったからと見るべきだ。もし『産経』だけが跳ねて、『朝日』や『毎日』が「高校課程相当なのだから朝鮮学校だけ改めて調査するのはおかしい」というまっとうな論陣を張っていれば、こんなことにはならなかったはずである。こうした惨状を惹起した責任は各紙とも等しい。

 しかも、現政権は結局「政治主導」どころか朝鮮学校の判断を文科省及び「第三者機関」なるものに丸投げしてしまったため、大学受験資格の例で見るならば、判断そのものが今後都道府県知事に丸投げされることすら考えうる。大学受験資格問題の際、文科省は結局自らが朝鮮学校を承認することを放棄し、各大学に判断を丸投げしてしまった。つまり現在は各大学が朝鮮学校生徒・卒業生個々人の受験資格を認めているのであって、日本政府が朝鮮学校の大学受験資格を認めているわけではないのである。このパターンでいくならば、都道府県知事に受給権者の受給資格の認定が丸投げされるのも、あながち杞憂ともいえない。

 あくまで重要なことは「高等学校等」に朝鮮学校を即時含めることであって、「第三者機関」とやらに別の抜け道を作らせてはならない。ここでは、現行の法律案における都道府県知事の権限について、「公立高等学校に係る授業料の不徴収及び高等学校等就学支援金の支給に関する法律案」(以下、法律案)をもとに確認しておこう(法律案は文部科学省のHPで読むことができる)。

 まずは今般の議論に関わる条文を確認しておこう。関連する条文は法律案の第二条にあり、ここではこの法律における「高等学校等」の定義を列挙しているが、今回の件に関わる部分はそのうちの第五項である。

「五 専修学校及び各種学校(これらのうち高等学校の課程に類する課程を置くものとして文部科学省令で定めるものに限り、学校教育法(昭和二十二年法律第二十六号)第一条に規定する学校以外の教育施設で学校教育に類する教育を行うもののうち当該教育を行うにつき同法以外の法律に特別の規定があるものであって、高等学校の課程に類する課程を置くものとして文部科学省令で定めるものを含む。)」

 この条文は非常に読みづらいが、大きく二つのことが述べられている。第一は専修・各種学校のうち「高等学校の課程に類する課程を置くものとして文部科学省令で定めるもの」については就学支援金支給対象とするということ。第二は学校教育法第一二四条及び第一三四条で専修学校・各種学校の定義から除外されている「当該教育を行うにつき他の法律に特別な規定のあるもの」でも、「高等学校の課程に類する課程を置くものとして文部科学省令で定めるもの」については就学支援金の支給対象に含めるということである。ちなみに「当該教育を行うにつき他の法律に特別な規定のあるもの」とは、職業安定法に基く職業補導所、児童福祉法に基く保育所等である。

 もし国会での議論の焦点となるとすれば、この第二条第五項に定められた各種学校のうち「高等学校の課程に類する課程を置くものとして文部科学省令で定めるもの」の範囲に朝鮮学校が含まれるのかどうか、「高等学校の課程に類する課程を置くもの」かどうかをどのように確認するのか、である。しかし実際には朝鮮学校が「高等学校の課程に類する課程を置く」かどうかは脇においやられ、法案の内容と何ら関係のない教育「内容」や朝鮮民主主義人民共和国からの教育援助費、果ては「肖像画」といった学校施設に関する事項にまで議論が飛び火したのはすでに記したとおりである。

 次に、仮に朝鮮学校が「高等学校等」に含まれた場合の都道府県知事の権限について見てみよう。法律案は第五条で以下のように定めている。 

「第五条 前条第一項に規定する者(同条第二項各号のいずれかに該当する者を除く。)は、就学支援金の支給を受けようとするときは、文部科学省令で定めるところにより、その在学する私立高等学校等(その者が同時に二以上の私立高等学校等の課程に在学するときは、その選択した一の私立高等学校等の課程)の設置者を通じて、当該私立高等学校等の所在地の都道府県知事(当該私立高等学校等が地方公共団体の設置するものである場合(当該私立高等学校等が特定教育施設である場合を除く。)にあっては、都道府県教育委員会)に対し、当該私立高等学校等における就学について就学支援金の支給を受ける資格を有することについての認定を申請し、その認定を受けなければならない。

  つまり、就学支援金の支給を受けるには、受給権者は高等学校等の設置者を通じて所在地の都道府県知事に対し受給資格を有することについての認定を申請し、都道府県知事はそれを認定する、と記されている。大阪の例でいえば、大阪朝高に就学する者は、大阪朝高の設置者を通じて橋下府知事に受給資格を有することについての認定を申請するということである。

 ここで注意すべきは、都道府県知事が認定できるのは、受給資格そのものではなく、「受給資格を有すること」の認定であるということである。若干ややこしいが重要なポイントなので、就学支援金の受給資格について定めた法律案の第四条を見てみよう。

「第四条 高等学校等就学支援金(以下「就学支援金」という。)は、私立高等学校等に在学する生徒又は学生で日本国内に住所を有する者に対し、当該私立高等学校等(その者が同時に二以上の私立高等学校等の課程に在学するときは、これらのうちいずれか一の私立高等学校等の課程)における就学について支給する。
2 就学支援金は、前項に規定する者が次の各号のいずれかに該当するときは、支給しない。
 一 高等学校等(修業年限が三年未満のものを除く。)を卒業し又は修了した者
 二 前号に掲げる者のほか、私立高等学校等に在学した期間が通算して三十六月を超える者
3 〔略〕」


 法律案はこのように「受給資格」の範囲をあらかじめ定めている。よって、都道府県知事はここに列挙された「私立高等学校等に在学する生徒又は学生」かどうか、「日本国内に住所を有する者」かどうか、あるいは「高等学校等(修業年限が三年未満のものを除く。)を卒業し又は修了した者」ではないか、「私立高等学校等に在学した期間が通算して三十六月を超える者」ではないかなどの基準に照らし、受給権者が「受給資格を有すること」を認定することになる。

つまり、少なくとも現行の法律案では、都道府県知事がその学校が「不法国家」の指導者の「肖像画」を掲げているかどうか、「朝鮮総連と一線を画している」かどうか、などの「独自の基準」に照らして受給資格を認定する権限はない。都道府県知事はあくまで法の規定に照らして「受給資格を有すること」の認定を出すことができるだけであって、独自に「受給資格」を与えたり、奪ったりする権限は無い。

 ただ、この法律案が都道府県知事に認めているのは、「この法律の施行に必要な限度において、受給権者、その保護者等若しくは支給対象高等学校等の設置者(国及び都道府県を除く。)若しくはその役員若しくは職員又はこれらの者であった者に対し、報告若しくは文書その他の物件の提出若しくは提示を命じ、又は当該職員に質問させること」(第十七条第一項)に過ぎない。「法律の施行に必要な限度」という文言も、あくまで第四条の「受給資格を有すること」を認定する際に必要な情報の提示に限られると読むべきである。これは、第十七条第三項が「第一項の規定による権限は、犯罪捜査のために認められたものと解釈してはならない」と念を押していることからもわかる。

 今般の橋下府知事の朝鮮学校「視察」は、国からの就学支援金に上乗せする大阪府独自の支援補助金の拠出に関する「視察」だったわけだが、少なくとも政府レベルの認定基準と照らしても、肖像画や「誓約書」云々といった大阪府「独自」の判断基準は、明らかに「高等学校の課程に類する課程を置くもの」という基準を大幅に踏み外したものである。現行の法律案では都道府県知事には朝鮮学校の教育「内容」を独自に調査するなどして受給資格の付与を判断する権限は与えられていないが、今後こうした「大阪モデル」が就学支援金の方向へと拡張していく可能性もないわけではなく、その際、都道府県知事がこれらの認定・調査権限を濫用する可能性は否定できない。最も恐れるべきは橋下の恫喝が、日本全体の高校「無償化」の標準になっていくことである。

※なお3月15日18時付で掲載した記事は一部事実の誤りがあったため、修正の上差し替えた。
by kscykscy | 2010-03-15 23:28 | 朝鮮学校「無償化」排除問題

橋下府知事を朝鮮学校に入れるべきではない――朝鮮学校と高校「無償化」問題⑥

 標題はあおりや冗談ではない。至って真剣である。

 報道されているように、3月10日に橋下は朝鮮学校を「視察」する際、「政治と教育が区分けされているか確認する」「朝鮮総連との今後のかかわりについて宣誓書をとるのかもポイント」「不法な国家体制とつきあいがあるなら、僕は子どもたちを取り戻し、ちゃんと正常な学校で学ばせる。そうしないと朝鮮の皆さんに対する根深い差別意識が大阪府からなくならない」云々と語ったという(『朝日』web版、3月10日付)。

 橋下の発言はもはや高校「無償化」云々の話をとっくに通り越している。朝鮮総連との関係を絶つと「宣誓書」を出すならば「無償化」してやる、とは、もはや朝鮮学校が高校課程相当かどうかはもちろんのこと、教育「内容」をすらも踏み越えて、特定の民族団体との関係を持つことそのものを自治体の長が禁止するものであって、公然たる民族自決権の侵害である。
 
 この橋下の発言に私は心底寒気を覚える。なぜならこの橋下の「論理」は、朝鮮解放直後に各地に叢生した数百の朝鮮学校を閉鎖に追い込んだ1948-49年の日本政府による民族教育弾圧と、全く同様の理屈に基づいているからである。単純に民族教育を認めないという点が似ているのではない、基本的な発想から論理の展開にいたるまで、一切合財がうり二つなのである。

 この間いくつかの新聞が報じているように、現在の朝鮮学校は朝鮮解放後に各地で在日朝鮮人が建設した諸種の民族教育機関をその起源にしている。だが、現存する多くの朝鮮学校の直接の起源は、1945-1947年の間に建てられた民族教育機関ではない。なぜならば、日本政府とGHQは1948-49年に当時500校以上を数えたこれらの民族教育機関に一斉に閉鎖命令を出し、ことごとくそれを粉砕してしまったからである。多くの朝鮮学校は、この大弾圧をくぐりぬけ、1950年代中盤以降に再び再建された学校に直接の起源を置いている(もちろん、これらは解放直後の民族教育との連続関係が強いので、解放直後の朝鮮学校が「起源」であるとする説明が間違いと言いたいわけではない)。

 問題は1948-49年の学校閉鎖命令の論理である。弾圧の波は大きく二度あった。一度目は1948年である。発端となったのは、教育基本法・学校教育法制定後に文部省学校教育長が1948年1月24日に出した通達「朝鮮人学校の取扱について」である。ここで文部省は、①在日朝鮮人は日本の法令に服さねばならない、②学令児童は日本人同様市町村立・私立の小学校又は中学校に就学させなければならない、③私立小学校・中学校は学校教育法により都道府県監督庁の認可を受けねばならない、④学令児童・生徒の教育について各種学校の設置は認めない、⑤私立小学校・中学校には教育基本法第八条が適用され、教科書・教科内容については学校教育法が適用される、⑥朝鮮語等の教育を課外で行うことは差支えない、の六点を指示する。また、直後の48年1月26日には「朝鮮人の学校の教職員の資格審査について」という通達を出して、朝鮮学校の教職員の資格審査を命じた。教員の資格審査はそもそも軍国主義教員のパージのためのものだったが、文部省はそれを朝鮮学校弾圧に転用したのである。

 ポイントは①と②である。この時点で日本政府は朝鮮はいまだ独立しておらず、朝鮮人児童は「日本人」であるとの建前に立っていた。文部省はこの建前に立ち、日本学校に「日本人」=朝鮮人学令児童を収容せよ、と命じ、一方では朝鮮学校の設置を認めず、その閉鎖を各自治体に命じたのである。当時の在日朝鮮人は閉鎖命令に抵抗したが、日本は強硬手段にでて、神戸では米軍が非常事態宣言を発令して約二千人(!!!)もの朝鮮人を検束し、軍・警動員のもとで閉鎖を強行した。また、大阪での学校閉鎖反対デモに当局は放水と射撃で応じ、朝鮮人青年一名が射殺されている。

 それでも、この第一波の時は朝鮮学校側は何とか粘った。教育基本法・学校教育法に従うこと、私立学校としての自主性が認められる範囲内で朝鮮人独自の教育を行うことを前提に私立学校の申請をする、というラインで文部省と当時朝鮮学校を運営していた在日本朝鮮人連盟(朝連)は覚書を交わし、多くの学校が閉鎖され、教育内容についても大幅な後退を余儀なくされつつも、それでも朝鮮学校の全滅は回避したのである。

 だがまもなく第二波がやってくる。1949年9月8日に日本政府は朝鮮学校の運営母体であった朝連に団体等規正令(後の破防法)を適用して解散指定し、全役員の公職追放と団体財産の接収を行った。詳細に書いていると長くなるので割愛するが、この朝連解散というのは今で言えば総連と民団、それとその他の在日朝鮮人団体を全部解散指定した上に不動産・動産・預貯金など財産の一切を奪い取るようなもので、本当に恐るべき朝鮮民族パージであった。そして文部省と法務省は直後の10月19日に「朝鮮人学校に対する処置について」という通達を出し、この解散指定を根拠に全朝鮮学校の閉鎖と改組を命じたのである。運営母体が団体等規正令で解散指定され消滅したのだから、朝鮮学校も閉鎖しろ、という話である。この後の一斉閉鎖強行により、朝鮮学校は48年の妥協の末の認可すらも全て取消され、ほぼ完全に粉砕されるに至ったのである。なお、このとき閉鎖されたのは朝連系学校に留まらない。

 長々と記したが、私が特に注意を喚起したいのは、第一に今回橋下が言い放った「子どもたちを取り戻し、ちゃんと正常な学校で学ばせる」という論法が、48年の文部省通達と全く同様の論理であるということである。つまり、朝鮮人児童はそもそも「日本側の子ども」なのであり、朝鮮人の教育ではなく「正常な学校」で学ばせねばならない、という理屈である。これは橋下が「朝鮮学校に通っている子どもたちの学習権を侵害するつもりはない。府立高校でも私立高校でもきちんと受け入れをする」と、暗に朝鮮学校から朝鮮人児童を日本の高校に改めて「収容」させることを示唆する発言をしていることとも符合する(「47ニュース」3月10日付、*1)。

 また、第二に橋下は朝鮮総連との関係を徹底的に断ち切らせる(「宣誓書」を出させる)とぶちあげているが、これは第二波の教育弾圧、すなわち1949年10月の学校閉鎖の論理と同型である。団体等規正令という治安法令(そもそもこれは軍国主義団体をパージするためのものだった)を根拠に、教育機関を閉鎖に追い込むという剥き出しの治安政策的発想に基いているからである。しかも現状では朝鮮総連との関係を断ち切った場合、朝鮮学校の運営は一気に困難に陥ることは確実である。それは別に朝鮮民主主義人民共和国から支援を受けているから云々ではない。教員の養成、生徒の募集、運営資金集め、教科書編纂、その他諸々の諸事務の一切合財を遂行することができなくなるからである。橋下の構想を実現することは、事実上の朝鮮学校の閉鎖・縮小につながるのである。

 走り書きになってしまったが、結論から言って橋下発言はこうした歴史的経緯を知っている者にとっては、石原「三国人」発言に匹敵する、あるいはそれ以上の堂々たる妄言なのである。橋下はすべて朝鮮学校を強制閉鎖する際に過去の日本政府が使った論法をそのまま踏襲しているのである。このような人物に朝鮮学校を「視察」させては絶対にいけない。良心ある人々は橋下発言を徹底的に問題化するべきである。


*1 実は朝鮮学校排除の論理はこの「朝鮮人児童=日本人」という論法で今日に至っているわけではない。1952年のサンフランシスコ講和条約発効直前に、日本政府は在日朝鮮人の「日本国籍喪失措置」なるものを勝手に取ったため、以後は「朝鮮人児童≠日本人」であり、よって日本学校への「収容」もあくまで恩恵であるとの立場に転換した。いわば1948年の日本政府のむきだしの植民地主義の論理は1952年に若干の変容を遂げるわけだが、今般橋下がむしろこの1948年の論理に則って「子どもたちを取り戻し、ちゃんと正常な学校で学ばせる」と言い放ったことは、現代日本の在日朝鮮人認識の所在を示唆しているといえる。
by kscykscy | 2010-03-11 00:14 | 朝鮮学校「無償化」排除問題

再び『産経新聞』を批判する――朝鮮学校と高校「無償化」問題⑤

 『産経』が再び「【主張】高校無償化 朝鮮学校の説明は不十分」で朝鮮学校を排除せよと絶叫している。内容を要約する必要は無いだろう。『産経』の主張の要点は、①政府に朝鮮学校の教育内容精査を要求していること、②その際、教育内容が新教育基本法(「我が国と郷土を愛する」)に合致するかどうかをチェックすることの二つに絞られる。

 ①について、「単なるカリキュラムの調査だけでなく、同胞教育の中身の精査が必要である」と息まいていることからも、他の報道機関とは異なり、教育「課程」と教育「内容」の違いを十分に『産経』がわかった上で、意識的に教育「内容」の調査へと政府を踏み込ませようとしていることがわかる。『朝日』的擁護論(必ずしも『朝日』だけではない)は教育「内容」の変化をもって、朝鮮学校を高校「無償化」から排除するなと言っているわけだから、恐るべきことに現在のマスメディアのレベルでは①についてはほぼ反対意見はない(いわば擁護論者が教育「内容」に「問題」が無いことを勝手に保証しているだけだ)

 ②については、『産経』が新教育基本法を持ち出しているところがミソである。おそらく『産経』は拉致問題そのものにはさして関心がない。いわば教育「内容」への干渉のための口実のようなものだ。本当に注目すべきところは、①で行うことを主張する教育「内容」へのチェック基準に新教育基本法を持ち出していることである。すなわち、朝鮮学校が「我が国と郷土を愛する」教育内容を持つことが確認できなければ、高校無償化にいれることはできない、と言っているのである。もちろん「我が国」とは日本である。新教育基本法に即応した朝鮮学校など、矛盾でしかない。

 『産経』は①と②のチェックをクリアすれば高校「無償化」に包含しても良い、と言っているわけではない。おそらく『産経』が最良のものとして描いているシナリオは次のようなものであろう。政府が朝鮮学校の教育「内容」精査に踏み込み、かつそれを「事業仕分け」的な形で公衆の面前にさらし(ここまでは『朝日』も認めている)、しかもその「内容」が新教育基本法の基準にあてはまるかどうかを延々とストーカー的に追い回した(『産経』だけでなく各紙共やるはずである)上で、結論として高校「無償化」から排除する、というものである。

 このように見ると、実は『産経』にとって非常に重要なのは①の政府による教育「内容」の精査だということがわかる。②の新教育基本法によるチェックという土俵まで引きずりだせば、朝鮮学校は新学期早々、政府や報道機関によってめちゃくちゃにされることは目に見えている。とにかく教育「内容」をチェックせよ、というところまで政府を動かせば極右にとって極めて有利な土俵ができる。

 だからこそ、絶対に政府による教育「内容」精査を認めてはならないのである。もう少し具体的にいえば、拉致問題と人権問題を混同するな、とか、肖像画は他の学校でも飾っているなどといった次元での「反論」は、むしろ教育「内容」精査への動きを加速化させるだけであって、百害あって一利無しだ。再三主張しているが、そもそも高校課程相当の各種学校は高校「無償化」の対象とすると閣議決定したにもかかわらず、「高校課程相当」かどうかの判断を超えて、朝鮮学校のみ教育「内容」の精査をすることは明白な差別であり、教育内容への干渉である。ここが最重要ポイントなのである。

 再度強調するが、①を全く問題にしない『朝日』的擁護論は逆に朝鮮学校を追い詰めることになるだろう。しかも『産経』のみならず、『朝日』的擁護論も暗に政府が「内容」を精査したほうがいいと思っている節がある。『朝日』が無知でセンスが無いから全く使い物にならない論陣を張ったと考えるのは、おそらく実態を反映していない。『朝日』は積極的に、朝鮮学校が日本社会の好ましいように改造されることを望んでいる。こうした意味で『朝日』と『産経』の対立はほとんど無い。また、この点ではすでに新教育基本法を手に入れた『産経』のほうに分があるといえる。露骨な排除論と同時に、猫なで声の擁護論にも注意すべきだろう。
by kscykscy | 2010-03-01 18:57 | 朝鮮学校「無償化」排除問題

鳩山「国交」発言にみる狎れあいの構図――朝鮮学校と高校「無償化」問題④

 鳩山首相がおそろしく不用意な発言をした。鳩山は26日夜の記者会見で「国交がないから、教科内容を調べようがない。国交のある国を優先するのは無理のない話だ」と話していたが(時事ドットコム、2月26日付)、これは重大な発言である。高校「無償化」から朝鮮学校が排除される理由が「国交がないから、教科内容を調べようがない」ことなら、同じく「国交がない」中華民国系の中華学校も、同様に排除されることになるからだ。だが、断言してもよいが、この鳩山発言は早晩修正されるだろう。「国交がない」ことで外国人学校を区切ってしまっては大学入学資格の排除基準と齟齬が生じることになり、文科省から注文がつくことは必至だからである。早ければ明日27日にでも修正するかもしれない。修正後の排除基準はすでに文科省内で検討されている伝えられている「授業内容と本国の教育課程が日本の学習指導要領におおむね合致していると確認できること」に近いものになるはずである。つまり「公的確認」の論理である。

 しかも鳩山は言ったそばから墓穴を掘っている。鳩山は朝鮮学校排除と拉致問題との関連を否定したそうだが、すでに記したように、「公的確認」の論理は9.17後、拉致問題がイシュー化されるなかで大学受験資格から朝鮮学校を排除するために文科省が作り出した理屈である。多くの報道は拉致問題を理由に排除することと、教育制度上の理由によって排除することが別のことであるかのように歪めて伝えているが(上記の時事ドットコムなど)、繰り返しになるが、「公的確認」の論理自体が拉致問題を契機に作られたものなのである。逆に言えば、拉致問題を直接的理由として朝鮮学校を排除するような省令を作るほうがよっぽど難しいのである。メディアは拉致問題を理由に排除することと、教育制度上の理由によって排除することを対比的に描くことによって、むしろ鳩山政権に加担しているとさえいえる。

 より腹立たしいのは、鳩山がするであろう「国交」から「公的確認」への修正が、特に説明もなく、しれっとなされるだろうことが眼に見えていることである。そこで、なぜ26日夜の時点では「国交がないから」といっていたのを、別の基準に修正したのかと突っ込む記者は、皆無であろう。政府のみならず、報道機関もまた、所詮は政府のいうことは朝鮮学校を排除するための方便にすぎないことを熟知しており、あからさまな方便をただし、疑おうとする一片の良識も持っていないことは明らかだ。朝鮮学校排除のために「知恵を絞れ」とアジった『産経』は確かに下劣であるが、実際に政府が「知恵を絞る」姿を無批判に垂れ流す他の報道機関も、同様に下劣である。こういうのを「狎れあい」というのだ。
by kscykscy | 2010-02-27 02:00 | 朝鮮学校「無償化」排除問題

案の定の『朝日新聞』社説――朝鮮学校と高校「無償化」問題③

 在日朝鮮人をめぐる現代日本の擬似対立の構図が見事に出揃った観がある。『朝日新聞』2月24日付社説「高校無償化―朝鮮学校除外はおかしい」の論法はこのブログで引き続き批判してきた『朝日』的擁護論の問題を反復したものとなっている。私は以前の記事で、『産経』的批判論に対し、「他のメディアは傍観するか、お茶を濁すだけだろう。せいぜい「最近は韓国籍の人も通っている」とか「朝鮮学校も変わっている」云々というだけ」と推測も込めて記したが(「『産経新聞』は何を「明らかに」したのか――朝鮮学校と高校「無償化」問題」参照)、その通りになった。

 タイトルからわかるように『朝日』社説の趣旨は、高校「無償化」から朝鮮学校を除外することに対する批判である。朝鮮学校を除外するために『産経』及び中井拉致相が持ち出した論拠に疑問を呈している。問題はその論法である。

 「北朝鮮という国家に日本が厳しい姿勢をとり、必要な外交圧力を加えるのは当然だ。しかしそれと、在日朝鮮人子弟の教育をめぐる問題を同一の線上でとらえていいのだろうか。
 朝鮮学校は日本の敗戦後、在日朝鮮人たちが、母国語を取り戻そうと各地で自発的に始めた学校が起源だ。1955年に結成された朝鮮総連のもとで北朝鮮の影響を強く受け、厳格な思想教育が強いられた時期もある。
 だが在日の世代交代が進む中、教育内容は大きく変わった。大半の授業は朝鮮語で行われるが、朝鮮史といった科目以外は、日本の学習指導要領に準じたカリキュラムが組まれている。
 北朝鮮の体制は支持しないが、民族の言葉や文化を大事にしたいとの思いで通わせる家庭も増えている。
 かつては全校の教室に金日成、金正日父子の肖像画があったが、親たちの要望で小・中課程の教室からは外されている。そうした流れは、これからも強まっていくだろう。」


 『朝日』ならこの問題をどう論じるか、の模範解答のような論理展開である。一読して明らかなように、『朝日』は外国人参政権からの朝鮮籍排除論に留保をした際と全く同様に、北朝鮮は問題だ、だが在日朝鮮人は変わった、昔とは違う、北朝鮮を支持しない者もいる、だから『産経』的排除論はおかしい、という論法を採用している(「『朝日』社説「外国人選挙権―まちづくりを共に担う」の問題」参照)。

 何度でも繰り返すが、こうした在日朝鮮人の思想・信条あるいは行動が日本社会が許容可能な程度のものになったことを根拠に「権利」付与を擁護するような論法は、長期的にみればむしろ在日朝鮮人を追い詰める結果を確実に招来する。「在日の世代交代が進む中、教育内容は大きく変わった」という表現は、「変わった」という事実を記しているのではなく、「変わった」ならば擁護しよう、という一種の圧力として機能するからである。

 高校課程相当の各種学校から朝鮮学校だけをあえて排除するという場合、説明責任を求められているのは排除する側の日本政府なのであって、朝鮮学校が排除されなくてもよい理由を列挙するというのは倒錯した議論なのである(「「多民族社会」日本の構想」参照)。朝鮮学校が高校課程相当の各種学校であることが確認されさえすれば、高校「無償化」の枠内に含むのが当然なのであって、「在日の世代交代が進む中、教育内容は大きく変わった」「北朝鮮の体制は支持しないが、民族の言葉や文化を大事にしたいとの思いで通わせる家庭も増えている」云々という言い草は、日本の反朝鮮感情におもねったものであって非常にたちが悪い。

 川端文科相は「外交上の配慮や教育の中身に関してのことが判断材料になるものではない」と語ったとのことであるから、「教育の中身」の変化を持ち出して排除反対の論理を組み立てた『朝日』の社説は、文科相と比べても遥かに問題含みであることがわかる。

 なお誤解を避けるために言っておくが、私は、朝鮮学校側はこうした主張をしていないとか、こうした主張を望んではいないと言っているわけではない。むしろ学校関係者からすれば、こんな社説でもありがたいと思うのは当然であろうし、また、学校側は自らが当事者であるがゆえに『朝日』社説と同内容の弁明をせざるを得ない状況に置かれている。問題は当事者がほとんど発言の選択肢の無い状況でなさざるを得ない理不尽な弁明を、何ら自省することなくマスメディアが反復することにある。

 こうした意味では「中井担当相は一度、川端文科相とともに朝鮮学校を視察してみてはどうだろう。/そこで学んでいるのは、大学を目指したり、スポーツに汗を流したり、将来を悩んだりする、日本の学校と変わらない若者たちのはずである」というこの社説の結びは、こうした当事者の苦渋を無視した、能天気の極みといわざるを得ない。

 これまでも朝鮮学校は繰り返し公開授業を行い、各種の文化行事を開いて「地域社会」に自らの姿をさらしてきた。なぜ学校に通う/通わせる可能性のある在日朝鮮人を主たる対象としてではなく、「地域社会」を対象に公開授業を行わなければならないのか。それは言い換えれば朝鮮学校が「地域社会」に包囲されているからではないのか。これは体験的なことであるが、以前参加した「在特会」批判の集会で、良心的な支援者が「朝鮮学校側ももっと地域社会に自らを開いてください」と要望するのを聞いたことがある。ただでさえ在特会の件で腹が立っているのに、この発言には本当に失望させられた。朝鮮学校が「地域社会に開」く負担を負わされている状況と、在特会が跋扈する状況は地続きではないのか、という問いが決定的に欠落しているのである。
 

 こうした文脈で『朝日』が記す「朝鮮学校に通う生徒も、いうまでもなく日本社会の一員である」という一文は、なかば脅迫に近い。案の上の『朝日』の社説であった。
by kscykscy | 2010-02-24 18:08 | 朝鮮学校「無償化」排除問題

「公的確認」の論理と教育「内容」の問題――朝鮮学校と高校「無償化」問題②

 朝鮮学校の高校「無償化」をめぐって、排除派からの突き上げをうけて文科省内では「授業内容と本国の教育課程が日本の学習指導要領におおむね合致していると確認できること」を「無償化」の条件とする案が浮上しているとのことである。

 この問題をめぐっては複数のメディアが似たような内容の報道をしているが、文科省の朝鮮学校処遇をめぐる最低限の事実経過が抑えられておらず、しかも非常に不正確な表現が使われているため、これが新たな問題を引き起こしかねない。以下に文科省の論法の背景と教育「内容」のチェックという言葉の問題点について指摘しておきたい。

 まず今回の排除派からの突き上げに伴い、文科省内で「授業内容と本国の教育課程が日本の学習指導要領におおむね合致していると確認できること」が排除の条件として検討されているというものだが、仮に事実とすれば、これは文科省が2003年に外国人学校に対する大学入学資格の「弾力化」を行った際に朝鮮学校を排除するために用いたものと全く同じ論法である。

 2003年、文科省は規制緩和の観点からインターナショナルスクール等の大学受験資格制限の「弾力化」を試み、当初は国際バカロレア、アビトゥア、バカロレアなどの資格保有者及び国際的な評価団体の認定を受けた外国人学校(事実上欧米系学校を意味する)にのみこれを行おうとした。だがこのあからさまな差別的措置への反対が高まったため、文科省は制限基準を修正した。その際に用いた論法が、外国の正規の高等課程と位置づけられているかにつき「公的確認」が可能な学校には大学入学試験を認める、というものだったのである。

 文科省がこうした紛らわしい論法を用いたのは、端的に言って朝鮮学校を排除するためである(実際、朝鮮学校以外のほとんどの外国人学校には受験資格が認められている)。ただ、単に国交がある国の学校というだけでは台湾系の中華学校まで排除してしまうため、「公的確認」なる恣意的な概念を導入したのである。この結果、文科省は最大の外国人学校である朝鮮学校の生徒・卒業生にのみ入学資格を認めず、個別審査により入学資格が判定されることになった。つまり、他の外国人学校については卒業を根拠に大学入学資格が認められるにも関わらず、朝鮮学校の生徒・卒業生は各大学と個々に大学資格審査判定の手続をしなければならなくなったのである。

 2003年に文科省がこうしたあからさまな差別的取扱いをしたことにより、事実上朝鮮学校の生徒・卒業生に対しては、「弾力化」以前とほとんど変わらない負担が残ることになった。ここで主として問題となっていたのは一律受験資格を認めていなかった国立大学であるが、私立の場合も独自の判断で認めていない大学は数多く存在した。もし卒業資格をもって大学入学資格を承認すると文科省が方針を打ち出せば、国公立・私立共に全大学が横並びに資格を承認したはずである。だが文科省は個別審査とするというかたちで各大学に丸投げしてしまったため、結局学生たちは受験前にいちいち受験資格を認めているかどうかを大学・専門学校に確認し、各種資料を提出して「審査」を受ける負担を引続き負うことになったのである。しかも「弾力化」以後、逆に独自判断で資格を認めなくなった大学も現れた。学生の立場になればわかることだが、受験シーズンになっていちいち志望校に問い合わせ審査を受けるようなリスクを負うならば、はじめから高卒認定試験を受ける方が安全である。このため、今でも朝鮮学校の学生たちの多くは高卒認定試験を受けているのが実情なのだ。これでは大検を受けていた2003年以前と何ら状況は変わらないのである。

 いずれにしても、今回の文科省の高校「無償化」排除の論法は、こうした9.17以後につくり出した理屈ならぬ理屈をそのまま引っ張り出してきたものなのである。しかもその理屈は上述のように教育政策とはおよそ無関係な、極めて浅薄な外交的「配慮」のためにひねりだされたものだった。少なくとも文科省の今回の対応を報道するならば、最低限このくらいの経過をおさえておかなければ、なぜ「授業内容と本国の教育課程が日本の学習指導要領におおむね合致していると確認できること」などという文句が突然出てきたのかさっぱり理解できない。
 
 ネット上では朝鮮学校にはそもそも大学受験資格すら無いのに高校「無償化」に含めるなどもってのほか、との意見が散見されるが、こうした議論はそもそも大学受験資格から排除された経緯と今般のそれが全く軌を一にしていることを無視した、全くもって倒錯したものと言わざるを得ない。また、朝鮮学校には受験資格を認めている大学もあるのだから高校「無償化」に含めてもいいじゃない、という善意の反論も同様に不正確である。厳密にいえば朝鮮学校はいまでも大学受験資格を認められていないのである。あくまで生徒・卒業生が個別審査によって認められたに過ぎない。大学によっては審査を基に以後同校生徒・卒業生については審査を免除する措置を採っているところもあるが、それはあくまで善意でそうしているに過ぎない。いつひっくり返ってもおかしくないのである。

 こうした経緯を一切すっ飛ばした報道も去ることながら、そこでの語彙の選択があまりに恣意的に行われていることは一層問題である。各紙は平野官房長官の2月22日の記者会見での発言について、「教育の中身をチェック」(日経web版、2月22日付)、「朝鮮学校の教育内容で判断」(共同通信web版、同日付)「無償化にふさわしいカリキュラム(教育課程)かも含め、文部科学省がチェックしなければならない」(産経web版、同日付)などの見出しをつけて報道した。

 ここで注意しなければならないのは「教育の中身」「内容」という用語である。記事を読む限りでは少なくとも平野が言ったのはカリキュラム、すなわち教育「課程」をみて判断するということなのであって、これは教育の「中身」「内容」をチェックするということとは全く意味が違う(そうした意味では三つの中では『産経』が最も正確である)。教育課程とは教科、カリキュラム、授業時間数などの形式的・外形的なものであって、これらの教科で具体的にいかなる教育が行われているかの「中身」「内容」とは全く異なる。だが報道は極めて恣意的に「教育の中身」「内容」をチェックすると平野官房長官が言ったかのような見出しをつけており、案の定「反日教育をやっているから駄目だ」的な反論を呼び起こしている。

 そもそも高校の課程相当の各種学校は「無償化」の対象に含めるといっておきながら、改めて朝鮮学校に限定して教育課程の資料提出を要求するということ自体、どうあっても正当化しようのないものであるが、百歩譲って教育課程ならば、この間の受験資格問題の経験により各校共に資料の準備はできているだろう(これ自体悲しいことであるが)。だが上に見たような無定見な報道は、教育課程の審査を越えて、教育「内容」の審査にまで文科省に踏み込ませる方向へ世論を誘導する可能性がある。朝鮮学校が各教科でいかなる「内容」の教育をしているのかをつまびらかにしなければ「無償化」の対象に含めない(あるいは判断すら開始しない)ような状況は、言うまでも無く政府による教育内容への差別的干渉である。各紙が無知でそうしているのか、狙ってやっているのかは私には判断できないが、こうした「事実」報道がスクラムを組んで在日朝鮮人の民族教育の立地を日々がけっぷちに追い込んでいるのである。
by kscykscy | 2010-02-23 03:40 | 朝鮮学校「無償化」排除問題

『産経新聞』は何を「明らかに」したのか――朝鮮学校と高校「無償化」問題

 国庫からの就学支援金助成を内容とする、いわゆる高校「無償化」法案が1月29日に閣議決定されたが、この法案では各種学校も助成の対象に含まれているため、すかさず『産経新聞』が騒ぎ始めた。各種学校には朝鮮学校も入っていることを問題にしているのである。しかもいかにも『産経』らしい姑息なやり口で。

 とりわけ『産経』2月11日付web版の「北、朝鮮学校に460億円送金 昨年も2億…高校無償化に影響」という記事は度を越している。この記事は「北朝鮮が過去半世紀以上にわたり、在日朝鮮人に民族教育を行う各種学校「朝鮮学校」に対して総計約460億円の資金提供を実施し、昨年も約2億円の「教育援助金」を送金していたことが10日、明らかになった」(太字は引用者、以下同じ)という驚きの一節から始まる。

 さて、「明らかになった」とは、どういうことだろうか。この文章前段のどの部分にかかっているのだろうか。そもそも朝鮮総連は繰り返し朝鮮民主主義人民共和国が在日朝鮮人に教育援助費を送ってきていることを明らかにしている。「昨年」についても、『朝鮮新報』はきちんと金額まで明記して記事にしている。『産経』の記事は「北朝鮮の政治的影響下にある上に、資金提供が発覚したことで、無償化の是非について議論を呼びそうだ」(太字は引用者)と結んでいるが、そもそも当人たちが隠しもせず、むしろ積極的に公表している情報をそのまま載せて何が「発覚」なのか。
 
 仮に『産経』がこの事実を知らなかったとすれば、こんな基本的な事実も知らずに記事を書かせるような新聞社の「北朝鮮報道」とは一体何なのか。だが、『産経』が知っていたとすれば、ここで扇情的に用いている「明らかになった」とか「発覚」とかいういかにも「スクープ」であるかのような表現の利用は、語句の使用というレベルで全く正確さを欠いているだけではなく、事実報道の形を借りた印象操作というほかない。周知のことながら、『産経』が報道としての最低限の倫理を自ら完全に放棄し、むしろ積極的に印象操作することによって糊口をしのぐ排外主義的プロパガンダメディアだということをここに記しておく。

 もちろん、『産経』は一度としてまともなメディアであったことなど無いのだろうが、MSNを通じて大量に配信されている現状では、ハエ叩きのように各々のイシューに即して繰り返し指摘するほかない。今回の記事は高校「無償化」の枠に各種学校が入り、これまでのように「各種学校だから」という口実で排除することができないため、「「教育援助金」を送金していたことが10日、明らかになった」とか、「資金提供が発覚したことで、無償化の是非について議論を呼びそうだ」とかいって、排除の「空気」を作ろうとしていることは一目瞭然である。

 はっきりと書いておくが、朝鮮民主主義人民共和国から教育援助費をもらうことを理由に、各種学校が対象になっているにもかかわらず、朝鮮学校を高校「無償化」から排除することは、何ら合理的根拠の無い差別である。韓国学校であれ、ブラジル人学校であれ、財政状況が苦しいなか本国から金銭的支援を受けているケースは朝鮮学校に限らず存在する。何が悪いというのか。

 以前、朝鮮籍者は必ずしも「北朝鮮」を「支持」しているわけではないという『朝日』的擁護論は、必ずや朝鮮籍者が「北朝鮮支持者」であることを論証しようとする『産経』的反対論を呼び起こす、と書いたことがある(『朝日』社説「外国人選挙権―まちづくりを共に担う」の問題)。『産経』はこういう「空気」をつくれば排除できるとわかっていて、さんざん煽っている。しかし他のメディアは傍観するか、お茶を濁すだけだろう。せいぜい「最近は韓国籍の人も通っている」とか「朝鮮学校も変わっている」云々というだけ。

 だが教育援助費をもらっているのは事実なのだ。もちろん朝鮮籍の子供も通っている。だがそれは各種学校の中でとりわけ朝鮮学校だけを高校「無償化」の対象から排除する根拠にはなりえないし、してはいけない。この最も初歩的な事実をこそ指摘すべきである。繰り返しになるが、私には『産経』的論調と『朝日』的論調はタッグを組んでいるようにしか見えない。『産経』が理不尽に朝鮮人にレッテルを貼ってぶっ叩き、そのあとに『朝日』が現れてかばうふりをしながら後ろ足で思いっきりこづく。『産経』的排外主義もさることながら「朝鮮学校が変化した」ことを理由に、施しを与えようとする議論にも警戒すべきだろう。
by kscykscy | 2010-02-17 19:36 | 朝鮮学校「無償化」排除問題