論壇予報:「『帝国の慰安婦』実は大したことないと思ってた」現象の始まり

 おそらく2016年は、本当は前から『帝国の慰安婦』は大したことないと思っていた、と語り始める「知識人」が増えるであろう。『帝国の慰安婦』の欠陥を理解したからではなく(それは最初から歴然としている)、昨年12月に日韓「合意」が成立して朴裕河がその政治的役割を終えようとしているからである。論壇人としては、そろそろ『帝国の慰安婦』を切り離して脱出する準備をせねばなるまい。これから徹底的に『帝国の慰安婦』の問題点を批判されることになる朴裕河と心中するわけにはいかないからだ。さていかなる理屈が用いられるであろうか。いずれにしても2015年まで何を語っていたかが決定的に重要である。ポスト「合意」の処世術に騙されてはならない。
# by kscykscy | 2016-01-27 00:00 | 歴史と人民の屑箱

「愚かな約束」を前提にすべきではない――日本軍「慰安婦」問題解決全国行動声明に寄せて

 日本軍「慰安婦」問題に関する日本の責任追及をいかになすべきか。現時点であえて分けるならば、昨年12月28日の日韓外相三項目「合意」をうけて大きく二つの路線があらわれているといえる。第一は「合意」を前提に、「責任」の具体化を日本政府に求める路線、第二は、「合意」を前提とせず、この破棄・無効化も視野に日本政府に法的責任の承認を求める路線である。第一の路線は主として日本の言論人や被害者支援団体にみられ、第二の路線は被害当事者たちや挺対協の示したものといえる。

 第一の路線の特徴は、繰り返しになるが、「合意」を前提にすることである。この路線を代表する和田春樹のコメントを引こう。

「日本政府が謝罪の意味を込めて10億円の公金を支出し、財団が作られることは前進と言える。問題は、日本の謝罪が元慰安婦たちの心に届き、納得して受け取ってもらえるかどうかだ。私は1990年代から問題解決に当たってきたが、元慰安婦の約3分の2が償い金の受け取りを拒んだ。元慰安婦たちは今回の岸田外相の記者会見では、日本側の謝罪のトーンをくみ取ることはできなかったのではないか。今後、安倍首相が謝罪の気持ちを分かりやすく示さないと、彼女たちにまで気持ちが届かない可能性がある。高齢で入院している人もおり、お金ではなく人生を狂わされたことへの謝罪を求めている。韓国で活動する支援団体がどう反応するのか、韓国の世論がどう動くのか見通しはつかず、問題が収束するかどうか現段階では分からない。」

 すなわち、「合意」を「前進」と評価し、今後の「解決」の大前提としながらも、日本側の「謝罪のトーン」が被害者たちに理解されていない、「気持ち」を届ける努力をすべき、というのが和田の主張である。この立場からみると、残された問題は日本側の「謝罪の気持ち」の示し方、そして、被害当事者たちの受け取り方だということになる。こうした和田の立場は日本政府を補完するものといえよう。

 だが、私はこうした第一の路線は「合意」についての過大評価に基いており、採用すべきではないと考える。二つの路線は一見似通っているが、三項目「合意」後の運動、とりわけ韓国における被害当事者たちとその支援者の闘いを考えるうえで、看過しがたい違いがあると考える。そして、この路線は和田春樹以外にも、とりわけ日本の支援団体にみられる立場である。以下に日韓外相会談に対する日本軍「慰安婦」問題解決全国行動の声明「被害者不在の「妥結」は「解決」ではない」(以下、全国行動声明)をとりあげ、その理由を示したい。

 第一の問題は、日本側声明にある「責任」の解釈である。全国行動声明は日本政府の責任について次のように指摘する。

「2, 日本政府は、ようやく国家の責任を認めた。安倍政権がこれを認めたことは、四半世紀もの間、屈することなくたたかって来た日本軍「慰安婦」被害者と市民運動が勝ち取った成果である。しかし、責任を認めるには、どのような事実を認定しているのかが重要である。それは即ち「提言」に示した①軍が『慰安所』制度を立案、設置、管理、統制した主体であること、②女性たちが意に反して「慰安婦」にされ、慰安所で強制的な状況におかれたこと、③当時の国際法・国内法に違反した重大な人権侵害であったことを認めなければならないということだ。「軍の関与」を認めるにとどまった今回の発表では、被害者を納得させることはできないであろう。」

 果たして今回の日本側声明は、「国家の責任を認めた」と評価できるものなのだろうか。全国行動声明が問題にしたのは、今回の「合意」のうち岸田外相発表の(ア)「慰安婦問題は,当時の軍の関与の下に,多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり,かかる観点から,日本政府は責任を痛感している」である。だが、すでに多くの指摘がある通り、日本側声明の文言は河野談話を継承したものである。河野談話に「責任」の語はないが、今回の日本側声明の文言は日本軍「慰安婦」制度が日本による戦争犯罪であることを認めたうえでの法的責任を意味しない。

 この問題を考えるにあたり、今回の日本側声明の「責任」の意味を理解する助けになるのは、『世界』2016年1月号に掲載された和田春樹の論文「問われる慰安婦問題解決案 : 日韓首脳会談以後を展望する」である。和田は「法的責任」をめぐる対立をふまえ、次のように提案した。

「第一条件[朴槿恵大統領の提示した「被害者が受け入れ、韓国国民が納得できる」案という条件:引用者注]はまさに問題の核心である。これに対して日本政府が出している条件は三つであるように思われる。第一は、日韓条約時の協定で請求権問題は「解決済み」となっているので、法的責任という論理を使うことはできないということである。それなら「法的」な措置をとると言わなければいいのである。」(238頁)

 外務省が和田の提案を受け容れて「責任を痛感」の文言を採用したかどうかはわからない。ただ、すでに和田論文が紹介するように、2012年には日韓両政府の間で従来の「道義的責任を痛感」という文言を避け、「責任を痛感」とする謝罪文を作成することで「合意」していた。和田論文が2012年の「合意」を外務省に想起させる目的で書かれたことは明らかである。「法的責任」とも「道義的責任」とも明記しない「責任を痛感」という表現を採用することで、日韓双方が国内向けには自らに都合のいい説明をできるような文書を作成したのである。

 はっきりしていることは、「責任を痛感」という文言には、日本政府が法的責任を認めたという含意はない、ということである。むしろ法的責任の認定を回避するために挿入された文言と解釈するのが妥当である。この点で1995年の国民基金以来の日本政府の立場は本質的には変わっていないと考えるべきであろう。

 このようにみた時、全国行動声明の「日本政府は、ようやく国家の責任を認めた」という評価は、被害当事者や支援団体の運動の成果を謳う文脈で記されたものであることを差し引いても、日本側声明における「責任」の語の、それこそ責任回避的な文脈を看過させるものといわざるを得ない。確かに日本政府の事実認定は全く曖昧であることは間違いない。そしてそれは「責任」という曖昧な語の使用の必然的な帰結なのである。日本政府が10億円を「賠償」ではないと明言するのは当然といえば当然のことである。

 同様の問題は「女たちの戦争と平和資料館」(wam)の「日韓外相の政治的妥結に対するwamからの提言」にもいえる。「提言」は、「最終的かつ不可逆的に合意」を「愚かな約束」と評するにも拘らず、「政治的「妥結」を、被害者が受け入れ可能な「解決」につなげる道を、時間がかかっても丁寧に探っていきたい」として、「合意」を前提とした「解決」という路線に立ってしまっている。その上で、「日本政府は、責任に「道義的」といった限定をつける報道に反駁し、それ以上でもそれ以下でもない「責任」を痛感していることを繰り返し表明しなければならない」と提言をする。

 だが問題は「道義的」をつけるかどうかではない。「責任」という語は、上の和田論文で明確に指摘されているように、手垢のついた「道義的責任」を用いることにより生じる反発を回避するために作られた用語なのである。「責任」の語の不明瞭さを衝き、「合意」の前提そのものを問い直す作業こそが必要なのではないか。

 「責任」に関するこうした過大評価と密接に関連する全国行動声明の第二の問題が、以下の第六項である。

「6, 日本政府は、被害者不在の政府間の妥結では問題が解決しないことを認識し、以下のような措置をとらなければならない。
① 総理大臣のお詫びと反省は、外相が代読、あるいは大統領に電話でお詫びするといった形ではなく、被害者が謝罪と受け止めることができる形で、改めて首相自身が公式に表明すること。
② 日本国の責任や河野談話で認めた事実に反する発言を公人がした場合に、これに断固として反駁し、ヘイトスピーチに対しても断固とした態度をとること。
③ 名誉と尊厳の回復、心の傷を癒やすための事業には、被害者が何よりも求めている日本政府保有資料の全面公開、国内外でのさらなる資料調査、国内外の被害者および関係者へのヒヤリングを含む真相究明、および義務教育課程の教科書への記述を含む学校及び一般での教育を含めること。
④ アジア・太平洋各地の被害者に対しても、国家の責任を認めて同様の措置をとること。」

 私が全国行動声明を第一の路線、すなわち「合意」を前提に、「責任」の具体化を日本政府に求める路線であると考えるのは、この第六項ゆえである。果たして問題は首相がお詫びをする形式の問題であろうか。外相に代読させたことは確かに破廉恥である。だがそれは今回の「合意」の本質をむしろ日本政府が率先して示してくれた行為なのではあるまいか。安倍が来てひざまずこうが、今回の「合意」の欺瞞性は変わらない。むしろ「合意」を前提にするならば、安倍の破廉恥な行為ゆえに明確になった本質を糊塗することになりかねない。かかる行動の要求は、「合意」の撤回とセットでなければ意味がない。

 「合意」を前提にすることは、少女像を撤去し、財団を作り10億円を受け取ることを意味する。「今回の発表により,この問題が最終的かつ不可逆的に解決されることを確認する」ことが発表されているのである。「wamからの提案」のいうとおり、これは「愚かな約束」である。そして「愚かな約束」であるならば、これを前提にすべきではない。「合意」を前提にして、いかなる義務を日本政府に課すことができるだろうか。残念ながら、日本の市民運動にそのような力はないし、そもそも「合意」の論理的帰結として、そのようなことは不可能である。さらに、④に至っては今回のような法的責任回避の「責任」論を、他のアジア諸国の被害者にも適用することにつながることになろう。「wamからの提言」も全く同様の問題を含んでいる。

 最大の問題はこれらの日本側の支援団体の「合意」を前提にした声明が、現在「合意」を前提とせず、その破棄をふまえて少女像の前で闘おうとしている被害当事者や挺対協をはじめとする韓国の人びとの運動、すなわち第二の路線にとって、大きな制約になる可能性が高いことにある。声明の「合意」を前提にする立場は、極めて困難な韓国の政治状況のなかでより普遍的な視野に立ち原則的な抵抗を試みている人びとを、韓国内の運動に孤立させることになりかねない。これらの声明はこうした意味で、単に不十分なのではなく、被害当事者や挺対協の運動の障害になりかねないのである。

 「政府の間違った拙速な合意を受け入れないならば、政府として被害者が生きているうちにこれ以上どうにかする余地がないという言葉は、説得ではなく脅迫に近いものだ」という、挺対協の論評の一節は、直接には朴槿恵大統領を対象としたものだが、日本人たちにも向けられていることを忘れてはならない。日本のマスメディアがくり返す「対話」は、ここでいうところの「脅迫」である。「合意」を前提とすることは、こうした「脅迫」の列に加わることになりかねない。仮に挺対協が第一の路線をとるようになれば、いかに日韓の両政府に対して批判的であったとしても、被害当事者に納得してもらう役割を引き受けること、つまり「合意」の路線を補完する役割を担うこととなる。当事者たちの運動に支援運動が制約をかけるということは、絶対にあってはならないのではないか。

 何ら支援運動に貢献したことのない私がこうしたことを書くことの僭越さは承知している。ただそれを承知で、以下に二つのことを求めたい。

 第一は、「全国行動」及びwamはこれらの声明・提言を再検討し、「合意」を前提とした箇所を撤回すべきである。見直した上で仮に新たな提言を出すならば、挺対協等の韓国の支援団体と協議のうえで、明確に「合意」を拒絶したうえでの、日本政府の戦争犯罪の責任追及のための提言を出すべきである。これは、現になされている被害当事者や支援団体の要求を阻害しないために、最低限必要な行動であると考える。

 第二は、「被害当事者が受け入れられる解決」という言葉に代わる目標を掲げることである。もちろん被害当事者を無視せよ、と言いたいわけではない。むしろ「被害当事者」を押し出すことが、現状においては逆に当事者たちを苦境に追い込みかねない構図が生まれていることを危惧してのことだ。日韓両政府の政治的「合意」がなされた今日、「被害当事者が受け入れられる解決」という言葉の下で、日韓両政府の攻略(日本のマスメディアが「対話」と呼ぶもの)の矛先が、個々の被害当事者に向かうことは必至である。朴裕河がやろうとして失敗したこと――当事者と支援団体の分断――を、今度は韓国政府がやろうとするだろう。日本と韓国という二つの国家に対し、このレトリックは被害当事者たちを矢面に立たせる逆効果を生み出してしまうのである。

 必要なのはどのような言葉なのであろうか。この局面において、問われているのは被害当事者のみならず、「私たち」、とりわけ日本にいる者たちが日本軍「慰安婦」制度を、普遍的な規範に基づき自らの問題として考え、いかなる責任を日本に追及するのかではあるまいか。「被害当事者が受け入れられる解決」という言葉は、被害当事者や挺対協の極めて原則的な姿勢に支えられていたがゆえに、日本の戦争犯罪の責任を追及することと同義でありえた。だがもう一歩進んで、日本人たちが自らの言葉で、日本軍「慰安婦」制度は戦争犯罪であり、日本は「不可逆的」にその責任を認めよ、と主張することが、他ならぬいま求められているように私には思う。これは極めて喫緊の課題である。

 今回の「合意」は、国民基金失敗の「教訓」を表面的にのみ学び、「被害当事者が受け入れられる解決」という言葉を逆手に取って、新たなマジックワード(「責任」)で本質的な対立を覆い隠そうとしたものであり、いわば〈安倍晋三=和田春樹路線〉の帰結と考える。〈安倍晋三=和田春樹路線〉の「愚かな約束」を前提にせず、原点に立ち返ることが求められているのではないだろうか。

(鄭栄桓)

# by kscykscy | 2016-01-02 00:00 | 日朝関係

日韓三項目「合意」と異論封じ込め「外注」の構造

 朴裕河のfacebookに昨日の日韓両政府の三項目「合意」についての感想が記されていた。以下は全文の日本語訳である。

「嘘のように、慰安婦問題が妥結された。政府同士も始まる前から喧しかったため、まさかと予想もできなかった。
 ただ社会的合意という意味での「解決」へと行くまでは、もう少し時間がかかりそうだ。すでに支援団体と当事者間の異見すらみえる。あまりに急いだ感がある。
 こういうことがないよう、私は対立する者たちが一箇所に集まる協議体を作り、いくつかの論点について討論し、その論議を言論と関係者らに公開して当事者と両国国民が「認識における合意」を見つけ出せることを願った。その結果に基づき解決策を探れるように。
(「国会決議」があることを望んだが、それは慰安婦問題のみならず植民地支配全般に対するものであるため、できることをしながら待たねばなるまい。)
 いずれにしても決定した以上、もはや残ったことはこうした決定がどれほど正当なのかについて検討し、遅くなったとはいえ納得に基盤した国民的合意に至ることであろう。慰安婦のハルモニたち「当事者」の考えと選択とは別に。
 日本の場合は今日の決定に反対する人々は新たな謝罪/補償に否定的だった一部右翼と支援者たちの一部であるようだ。言わば大多数の日本国民たちは日本政府の謝罪と補償に共感する。
 よって今後重要になることは、韓国の言論と世論だろう。政治的立場を離れ、この問題について考えて判断することが必要だ。左右に分かれるのではなく、ただ合理的でありながら倫理的な判断に到達できればよいだろう。
 慰安婦問題のみならず、他の国内問題でもこういうことが可能になれば、分裂と対立で消耗しない共同体作りも可能ではないだろうか。そういう日を私は依然として夢見る。
 慰安婦問題が突然妥結した日に。」

 私は、朴裕河のこうした評価は、今回の「合意」のはらむ問題を隠ぺいするものであると考える。

 第一に、朴裕河は今回の10億円拠出を「補償」と位置づけているが(「大多数の日本国民たちは日本政府の謝罪と補償に共感する」)、誤りである。すでに報道されているように、日本政府関係者は今回の「合意」における「責任」は法的責任を意味しないと語っている。もちろん三項目の「合意」でも補償などという言葉は使われていない。『帝国の慰安婦』において、朴裕河は「補償」「賠償」という語を、極めて不正確かつ恣意的に用いていることにより、あたかも戦後の日本政府が「補償」「賠償」を支払ってきたかのような誤解を拡散させたが、今回も同様の過ちをくり返している。

 そもそも、日本軍「慰安婦」問題の解決を訴えて被害当事者たちが名乗り出たとき、彼女たちが求めたものは何であったか。日本が戦争犯罪であることを認めて謝罪・補償し、被害者たちの回復に努め、真相を究明し、歴史教育の場で未来の世代にその過ちを語り継ぎ、二度と同じことを繰り返さないと誓い続けることではなかったか。

 だが被害者たちの訴えの後に起きたことは真逆の事態であった。責任ある立場の者たちが「大日本帝国」の過ちを認めずに臆面もなく開き直り、それどころか被害者たちを侮辱し続けた。驚くべきことに、2015年現在においても公文書を焼却した人物が全国紙でそれを誇る記事が載るのである。かつて罪を犯したのみならずその罪を上塗りしようとする日本に、そのような振る舞いをやめさせ、反省させること。この「日本問題」こそが、「解決」すべき事柄であったはずだ。

 昨日の日韓両政府の「合意」はこうした「日本問題」の解決とはほど遠いものであった。確かに河野談話を継承する文言は「合意」に入った。だが河野談話が存在しようが、日本の政治家たちは幾度と無く妄言を繰り返してきた。それは、かつて吉見義明が指摘したように、そもそも河野談話の文言自体に、慰安婦の徴集、軍慰安所制度の運用主体が業者であったかのように読める余地が残されており、国際法違反・戦争犯罪との認識が示されていないからではなかったのか(吉見義明『従軍慰安婦』岩波新書、1995年)。国民基金が被害者たちから拒否されたのも、河野談話と同じく、国家責任と戦争犯罪との認識を曖昧にした「解決」案だったからである。

 だが、朴裕河は『帝国の慰安婦』において、むしろ経済協力や「償い金」を「補償」と呼ぶことで1990年代の過ちを日本社会が直視する責任を解除する役割を果たした。「合意」において、日本政府は日本軍「慰安婦」制度が戦争犯罪であることを認めてはいない。「責任を痛感」云々についても法的責任とは認めておらず、加害責任を前提とした賠償を支払うことも明記されていない。歴史教育への言及に至っては一切ない。にもかかわらず、名目の不明な財団への10億円の予算拠出により、この問題が「最終的かつ不可逆的」に解決したと韓国政府に確認させた。原点において問われていたことは、何も解決していないのである。朴裕河は今回の10億円拠出案を「補償」などと不正確に呼ぶべきではない。

 なお、当然のことであるが、当事者たちや挺対協をはじめとする支援団体からは早速「合意」への批判の声があがっている。挺対協ほか114団体の声明は真っ当にも以下のように指摘した。私はこの声明に全面的に賛同する。

「やっと日本政府が責任を痛感したと明らかにはしたが、日本軍「慰安婦」犯罪が日本政府および軍によって組織的に行われた犯罪だという点を、今回の合意から見出すことは難しい。関与レベルではなく日本政府が犯罪の主体だという事実と、「慰安婦」犯罪の不法性を明白にしなかった。また、安倍首相が日本政府を代表し内閣総理大臣として直に謝罪しなければならないにもかかわらず、「代読お詫び」に留まり、お詫びの対象もあまりにあいまいで「誠意のこもった謝罪」だとは受け入れ難い。

 また今回の発表では、日本政府が加害者として日本軍「慰安婦」犯罪に対する責任認定と賠償などの後続措置事業を積極的に履行しなければならないにもかかわらず、財団を設立することでその義務を被害国政府に放り投げて手を引こうという意図が見える。そして、今回の合意は日本内ですべき日本軍「慰安婦」犯罪に対する真相究明と歴史教育などの再発防止措置に対しては全く言及しなかった。

 何よりこのあいまいで不完全な合意を得るため韓国政府が交わした約束は衝撃的である。韓国政府は、日本政府が表明した措置を着実に実施するということを前提に、今回の発表を通じて日本政府とともにこの問題が最終的および不可逆的に解決することを確認し、在韓日本大使館前の平和の碑について公館の安寧/威厳の維持のため解決方法を探り、互いに国際社会で非難/批判を控えるというものだ。小を得るため大を渡してしまった韓国政府の外交は、あまりにも屈辱的である。」

 ところが、朴裕河はこうした「合意」への異論を、プロセスの拙速さの問題にすり替えている。「もはや残ったことはこうした決定がどれほど正当なのかについて検討し、遅くなったとはいえ納得に基盤した国民的合意に至ることであろう。」という極めて朴裕河的なセンテンスにおいて、前段では決定の正当性自体を再検討する可能性を朴裕河が認めているかのように記しているが、もちろん決定を覆すことなど想定していないだろう。決定を前提に、「遅くなったとはいえ納得に基盤した国民的合意に至る」ことを促しており、当然こちらにこそ朴裕河の意思が示されている。とにかく「合意」内容を前提に、様々な方法を用いて当事者や挺対協を「合意」させていこう、というわけだ。

 おそらく「合意」がもたらす最大の問題はここにある。今回の「合意」において韓国政府は当事者の説得と少女像の日本大使館前からの撤去も含めた交渉の担当、という役割を引き受けた。いわば日本政府は、異論の封じ込めを韓国政府に「外注」したのである。もはや日本政府には、自ら交渉する手間すら存在しない。韓国政府と当事者たちが揉めるのを高みの見物していればよいのである。日本政府は問題を韓国の国内問題にすり替えてしまった。「合意」に異論のある者たちは、今後は日本政府のみならず、その前に立ちはだかる韓国政府をまずは相手にせねばならない。朴裕河的「和解」がもたらした異論封じ込め「外注」の構造である。

 予想通りというべきか、日本の大手メディアの論調は基本的には問題「解決」への歓迎一色である。「外注」の旨みをよくわかっているのだろう、韓国政府に対し、少女像移転も含めた合意事項を「支援団体」に受け容れさせよ、と口をそろえて注文をつけている。『毎日』『朝日』の社説を引いておこう。

「ただし、画期的な合意であっても不満を持つ人々は残る。そうした時に大局的見地から国内をまとめていくのが政治指導者の役割だ。/韓国政府は、日本が強く問題視する在韓日本大使館前に建つ少女像の撤去にも前向きな姿勢を見せた。韓国で慰安婦問題の象徴になっているだけに簡単ではなかろう。真の和解につながる歴史的合意とするためには、まだ多くの作業が残っている。日韓両国が互いを信頼し、協力していかねばならない。」(『毎日新聞』2015/12/29社説)

「両政府とともに、元慰安婦たちの支援者ら市民団体、メディアも含めて、当時の教訓を考えたい。/新たに設けられる財団の運営のあり方については今後、詰められる。何より優先すべきは、存命者が50人を切ってしまった元慰安婦たちのそれぞれの気持ちをくむことだろう。/韓国の支援団体は合意について「被害者や国民を裏切る外交的談合」と非難している。日本側からもナショナリズムにかられた不満の声がでかねない。/だが今回の合意は、新たな日韓関係を築くうえで貴重な土台の一つとなる。日本政府は誠実に合意を履行し、韓国政府は真剣に国内での対話を強める以外に道はない。」(『朝日新聞』2015/12/29社説)

 「外注万歳!」というところだろうか。「対話」云々と耳障りのいい表現は使っているが、両紙とも日韓の「合意」を覆す選択肢などはなから想定していないのであるから、結局のところ「合意」事項の押しつけに他ならない。ただ、日本の識者や報道の論調は多かれ少なかれこの調子だ。対協を韓国政府がしっかり黙らせてくれるのを期待しているのであろう。

 もちろん言うまでもないことだが、このような日本の「世論」づくりに最も貢献したのは朴裕河自身である。『和解のために』『帝国の慰安婦』で日本を批判する被害当事者たちや挺対協、そして何より少女像を批判し、「和解」の障害扱いをし続けたのは、他ならぬ朴裕河であった。『帝国の慰安婦』が日本軍「慰安婦」問題の認識の深まりに貢献したことは何一つなかったが、挺対協が「和解」の障害であるという予断を日本社会、とりわけ報道・出版関係者に刷り込ませることには成功したのである。グロテスクな異論封殺の「外注」を日本の(自称リベラルも含めた)言論人たちが、「対話」の名で容認できるのは、朴裕河の「和解」言説に負うところが大きいといえよう。あまりに罪深い。

 2016年は、少女像撤去をめぐる韓国内の葛藤で幕を開けよう。「外注」の構造のなかで、ますます被害者の声は日本に届きづらくなるだろう。だが、問われているのは「日本問題」である、という事実は変わらない。本当にこのような「解決」でよいのか。改めて「大多数の日本国民たち」は自らに問いかけるべきではないだろうか。

(鄭栄桓)

# by kscykscy | 2015-12-30 00:00 | 歴史と人民の屑箱

声明「日本軍「慰安婦」問題、早まった「談合」を警戒する」を支持する

 明日12月28日、日韓外相会談が開かれる。詳述する余裕はないが、会談をめぐる報道は改めて日本社会の「慰安婦」問題認識の歪みを曝け出している。当事者たちを無視した水面下の交渉が是とされ、さらには「蒸し返し」を禁じることが獲得すべき外交的目標であるかのように語られる。恥ずかしげもなく「口封じ」を「解決」とみなす主張が横行している。結局のところ、1965年以来、この社会は何ら本質的には変化していないのである。

 ただ1965年よりも悪いといえるかもしれない。歪んだ「和解」観は日本政府が独力でつくりあげたわけではない。日本政府はこれまで度々日本軍「慰安婦」問題についての日本の責任を否定する発言を繰り返してきた。明らかに、問題を「蒸し返し」続けてきたのは日本政府である。にもかかわらず、日本式の問題解決案(国民基金)を受け容れなかったこと、少女像を設置し抗議したことがあたかも問題「解決」の障害であるかのような報道が、日本においては繰り返されている。

 そして、このような問題の捉え方は、大沼保昭、和田春樹をはじめとした国民基金推進派の諸氏が繰り返し日本の言論界に宣伝し続けてきたものである。言うまでもなく、朴裕河『和解のために』『帝国の慰安婦』は、そうした「和解」観の伝播に、極めて重要な役割を担った。「口封じ」を最終的な解決であると考える歪んだ「和解」観は、いわばこの間の日本の政界・言論界が挙国一致で作り上げてきたものといえよう。

 この問題に関連して、本日12月27日、韓国の「日本軍「慰安婦」研究会設立準備会」(*)が、下記の声明「日本軍「慰安婦」問題、早まった「談合」を警戒する」を発表した。私は同準備会の声明を支持する。ぜひ多くの方々、とりわけ日本の人びとに下記の声明の熟読を願う。

 *同準備会は、朴裕河の起訴に抗議する声明への批判として声明「『帝国の慰安婦』事態に対する立場 」を発表した人びとを中心とした集まりである。

(鄭栄桓)

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日本軍「慰安婦」問題、早まった「談合」を警戒する

 日韓国交正常化50周年である2015年の暮れに、日本軍「慰安婦」問題をめぐる日韓両国政府の慌ただしい動きがメディアの報道を埋め尽くしています。

 日本の安倍晋三総理が岸田文雄外相に訪韓を指示し、日韓両国は12月28日に外相会談を開催し協議することにしたと伝えられています。また、この背後には李丙琪青瓦台秘書室長と谷内正太郎国家安全保障局長による水面下の交渉があったといいます。

 すでに高齢である被害者たちが存命中に問題を解決することが最善であるという点については異議を差し挟む余地はありません。しかし時間を理由として早まった「談合」をするのならば、それは「最悪」になるでしょう。

 1990年代初めに日本軍「慰安婦」問題が本格的に提起されてからすでに四半世紀が過ぎました。この長い月日に渡って、被害者たちと、彼女たちの切なる訴えに共感する全世界の市民たちが問題解決のための方法を共に悩み、それによって明確な方向が定まってきました。「事実の認定、謝罪、賠償、真相究明、歴史教育、追慕事業、責任者処罰」がそれです。このことこそが、これまで四半世紀をかけて国際社会が議論を重ねてきた末に確立された「法的常識」です。

 日本軍「慰安婦」問題の「正義の解決」のために、日本政府は「日本の犯罪」であったという事実を認めなければなりません。この犯罪に対し国家的次元で謝罪し賠償しなければなりません。関連資料を余すところなく公開し、現在と未来の世代に歴史の教育をし、被害者たちのための追慕事業をしなければなりません。そして責任者を探し出し処罰しなければなりません。

 そうすることではじめて、日本の「法的責任」が終わることになるのです。

 私たちは日本軍「慰安婦」問題に対する韓国政府の公式的な立場が「日本政府に法的責任が残っている」というものであることを再び確認します。韓国政府は2005年8月26日「韓日会談文書公開後続対策関連民官共同委員会」の決定を通じ「日本軍慰安婦問題など、日本政府・軍等の国家権力が関与した反人道的不法行為については請求権協定によって解決されたものと考えることはできず、日本政府の法的責任が残っている」という立場をはっきりと表明しました。

 また、これは2011年8月30日の憲法裁判所の決定と、2012年5月24日の大法院判決でも韓国政府の公式的な立場として重ねて確認されました。

 私たちは1995年に始まった日本の「女性のためのアジア平和国民基金」が失敗したことは「日本の責任」を曖昧な形でごまかそうとしたためであることをもう一度確認します。国民基金は日本国民から集めた募金で「償い金」を支給し、日本政府の資金で医療・福祉支援を行い、内閣総理大臣名義の「お詫びの手紙」を渡す事業でした。しかし日本政府が「道義的責任は負うが、法的責任は決して負えない」と何度も強調し、まさにその曖昧さのせいで多くの被害者たちから拒否されたのです。

 今、日韓両国政府がどのような議論をしているのかは明らかではありませんが、メディアによって報道されている内容は上述のような国際社会の法的常識と日本軍「慰安婦」問題の歴史はもちろん、韓国政府の公式的な立場とも明らかに相容れないものです。1995年の国民基金の水準さえも2015年の解決策とはなりえません。それ以下であるのならば、さらに言うまでもありません。何よりもそれはこれまでの四半世紀の間、「正義の解決」を訴えてきた被害者たちの願いをないがしろにするものです。

 今から50年前、日韓両国政府は「経済」と「安保」という現実の論理を打ち立て、過去清算問題に蓋をすることを「談合」しました。まさにそのために今も被害者たちは冷たい街頭で「正義の解決」を訴えざるをえなくなりました。50年前と同じ「談合」をまたしても繰り返すのであれば、これは日韓関係の歴史に大きな誤りをまたひとつ追加する不幸な事態になってしまうでしょう。

2015.12.27.
日本軍「慰安婦」研究会設立準備会


# by kscykscy | 2015-12-27 00:00 | 日朝関係

「その後ろには在日の知識人がいる」(朴裕河)とはどういうことか

 なぜこのような語り方しかできないのであろうか。本当に腹立たしく思う。『毎日新聞』に載った朴裕河へのインタビューのことである。

「韓国で私を告訴している形になっているが、その後ろには在日の知識人がいるし、告訴の後も日本の研究者の研究を基に私の本は「うそ」だと原告側が言い続けたという点では、日本ともつながっている。」

 今回の告訴の「後ろには在日の知識人がいる」とはどういうことか。これは一体、誰のことを指すのか。断っておくが私は「ナヌムの家」の女性たちの行った告訴には何ら関係していない。女性たちや「ナヌムの家」関係者と面識もない(そもそも私は韓国に入国できない)。それとも別の誰かを指しているのか。何を根拠にこんなでまかせを朴裕河は言うのか。朴裕河は、いい加減「ナヌムの家」の女性たちが誰かに操られているかのような印象操作をするのはやめるべきだ。
 
 度々指摘したことだが、朴裕河は「反論」する際、批判に答えるのではなく、批判者の属性や悪意(「誤読」「歪曲」)を問題にする悪癖がある。「後ろには在日の知識人がいる」という根拠なき決め付けにも、自分を「在日(男)」が批判している、という構図を作り出したい欲望が透けて見える。もちろん『和解のために』や『帝国の慰安婦』を批判しているのは在日朝鮮人だけではない。早くから朴を批判していたのは西野瑠美子であったし、中野敏男、前田朗ほか様々な批判がある(「朴裕河『和解のために』をめぐる「論争」をふりかえる(1)」の文献リストを参照)。

 同じ記事には次のような発言も載っている。

「問題点を指摘する際には、自分の解釈が入っている。「売春婦であってはいけない」とか「自発的であってはいけない」という観念がある。/もちろん、私は「自発的な売春」という言葉は使っていない。全体としてそういうふうに受け止められてしまう書き方だったのかもしれない。しかし、私はそこが重要なポイントではないと言っているつもりだ。/全ては読解、解釈の問題だ。私は専門が文学なので、テキストを読むことをずっとやってきた。その分、読むのに忍耐が必要な書き方をしているのかもしれない。「A」と書いて、いや同時に「Aダッシュでもある」というように。日本と韓国の両方、支援者と批判する人の両方に向けて書いているからだ。(問題点を)分析した人は、そこを耐えて読むことをしなかったということだろう。」

 「全ては読解、解釈の問題」のわけがないだろう。事実の問題に決まっているではないか。朴は明らかに「自発的」な「売春」であったことを、朝鮮人「慰安婦」の重要な特徴と主張している。これは事実の問題である。そのうえで「解釈」のレベルで右派を「批判」しているにすぎない。だから朴裕河の事実の理解が批判されているのだ。「A」と「Aダッシュ」云々も全く馬鹿げている。『帝国の慰安婦』には明らかに両立し得ない「A」と「B」が平気で並んでいるから読み手が混乱する、といっているのである。読み手の「忍耐」力のなさに責任を転嫁すべきでない。朴はしばしば言い逃れに「文学」研究を利用するが、本来ならば「文学」研究者こそこうした悪用を批判すべきであろう(小森陽一は内容を評価しているようだが)。朴裕河は自らの著作が批判される原因を、批判する側の属性や能力のせいにするような姑息な「反論」をいい加減やめるべきだ。

(鄭栄桓)

# by kscykscy | 2015-12-06 00:00 | 歴史と人民の屑箱