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日韓三項目「合意」と異論封じ込め「外注」の構造

 朴裕河のfacebookに昨日の日韓両政府の三項目「合意」についての感想が記されていた。以下は全文の日本語訳である。

「嘘のように、慰安婦問題が妥結された。政府同士も始まる前から喧しかったため、まさかと予想もできなかった。
 ただ社会的合意という意味での「解決」へと行くまでは、もう少し時間がかかりそうだ。すでに支援団体と当事者間の異見すらみえる。あまりに急いだ感がある。
 こういうことがないよう、私は対立する者たちが一箇所に集まる協議体を作り、いくつかの論点について討論し、その論議を言論と関係者らに公開して当事者と両国国民が「認識における合意」を見つけ出せることを願った。その結果に基づき解決策を探れるように。
(「国会決議」があることを望んだが、それは慰安婦問題のみならず植民地支配全般に対するものであるため、できることをしながら待たねばなるまい。)
 いずれにしても決定した以上、もはや残ったことはこうした決定がどれほど正当なのかについて検討し、遅くなったとはいえ納得に基盤した国民的合意に至ることであろう。慰安婦のハルモニたち「当事者」の考えと選択とは別に。
 日本の場合は今日の決定に反対する人々は新たな謝罪/補償に否定的だった一部右翼と支援者たちの一部であるようだ。言わば大多数の日本国民たちは日本政府の謝罪と補償に共感する。
 よって今後重要になることは、韓国の言論と世論だろう。政治的立場を離れ、この問題について考えて判断することが必要だ。左右に分かれるのではなく、ただ合理的でありながら倫理的な判断に到達できればよいだろう。
 慰安婦問題のみならず、他の国内問題でもこういうことが可能になれば、分裂と対立で消耗しない共同体作りも可能ではないだろうか。そういう日を私は依然として夢見る。
 慰安婦問題が突然妥結した日に。」

 私は、朴裕河のこうした評価は、今回の「合意」のはらむ問題を隠ぺいするものであると考える。

 第一に、朴裕河は今回の10億円拠出を「補償」と位置づけているが(「大多数の日本国民たちは日本政府の謝罪と補償に共感する」)、誤りである。すでに報道されているように、日本政府関係者は今回の「合意」における「責任」は法的責任を意味しないと語っている。もちろん三項目の「合意」でも補償などという言葉は使われていない。『帝国の慰安婦』において、朴裕河は「補償」「賠償」という語を、極めて不正確かつ恣意的に用いていることにより、あたかも戦後の日本政府が「補償」「賠償」を支払ってきたかのような誤解を拡散させたが、今回も同様の過ちをくり返している。

 そもそも、日本軍「慰安婦」問題の解決を訴えて被害当事者たちが名乗り出たとき、彼女たちが求めたものは何であったか。日本が戦争犯罪であることを認めて謝罪・補償し、被害者たちの回復に努め、真相を究明し、歴史教育の場で未来の世代にその過ちを語り継ぎ、二度と同じことを繰り返さないと誓い続けることではなかったか。

 だが被害者たちの訴えの後に起きたことは真逆の事態であった。責任ある立場の者たちが「大日本帝国」の過ちを認めずに臆面もなく開き直り、それどころか被害者たちを侮辱し続けた。驚くべきことに、2015年現在においても公文書を焼却した人物が全国紙でそれを誇る記事が載るのである。かつて罪を犯したのみならずその罪を上塗りしようとする日本に、そのような振る舞いをやめさせ、反省させること。この「日本問題」こそが、「解決」すべき事柄であったはずだ。

 昨日の日韓両政府の「合意」はこうした「日本問題」の解決とはほど遠いものであった。確かに河野談話を継承する文言は「合意」に入った。だが河野談話が存在しようが、日本の政治家たちは幾度と無く妄言を繰り返してきた。それは、かつて吉見義明が指摘したように、そもそも河野談話の文言自体に、慰安婦の徴集、軍慰安所制度の運用主体が業者であったかのように読める余地が残されており、国際法違反・戦争犯罪との認識が示されていないからではなかったのか(吉見義明『従軍慰安婦』岩波新書、1995年)。国民基金が被害者たちから拒否されたのも、河野談話と同じく、国家責任と戦争犯罪との認識を曖昧にした「解決」案だったからである。

 だが、朴裕河は『帝国の慰安婦』において、むしろ経済協力や「償い金」を「補償」と呼ぶことで1990年代の過ちを日本社会が直視する責任を解除する役割を果たした。「合意」において、日本政府は日本軍「慰安婦」制度が戦争犯罪であることを認めてはいない。「責任を痛感」云々についても法的責任とは認めておらず、加害責任を前提とした賠償を支払うことも明記されていない。歴史教育への言及に至っては一切ない。にもかかわらず、名目の不明な財団への10億円の予算拠出により、この問題が「最終的かつ不可逆的」に解決したと韓国政府に確認させた。原点において問われていたことは、何も解決していないのである。朴裕河は今回の10億円拠出案を「補償」などと不正確に呼ぶべきではない。

 なお、当然のことであるが、当事者たちや挺対協をはじめとする支援団体からは早速「合意」への批判の声があがっている。挺対協ほか114団体の声明は真っ当にも以下のように指摘した。私はこの声明に全面的に賛同する。

「やっと日本政府が責任を痛感したと明らかにはしたが、日本軍「慰安婦」犯罪が日本政府および軍によって組織的に行われた犯罪だという点を、今回の合意から見出すことは難しい。関与レベルではなく日本政府が犯罪の主体だという事実と、「慰安婦」犯罪の不法性を明白にしなかった。また、安倍首相が日本政府を代表し内閣総理大臣として直に謝罪しなければならないにもかかわらず、「代読お詫び」に留まり、お詫びの対象もあまりにあいまいで「誠意のこもった謝罪」だとは受け入れ難い。

 また今回の発表では、日本政府が加害者として日本軍「慰安婦」犯罪に対する責任認定と賠償などの後続措置事業を積極的に履行しなければならないにもかかわらず、財団を設立することでその義務を被害国政府に放り投げて手を引こうという意図が見える。そして、今回の合意は日本内ですべき日本軍「慰安婦」犯罪に対する真相究明と歴史教育などの再発防止措置に対しては全く言及しなかった。

 何よりこのあいまいで不完全な合意を得るため韓国政府が交わした約束は衝撃的である。韓国政府は、日本政府が表明した措置を着実に実施するということを前提に、今回の発表を通じて日本政府とともにこの問題が最終的および不可逆的に解決することを確認し、在韓日本大使館前の平和の碑について公館の安寧/威厳の維持のため解決方法を探り、互いに国際社会で非難/批判を控えるというものだ。小を得るため大を渡してしまった韓国政府の外交は、あまりにも屈辱的である。」

 ところが、朴裕河はこうした「合意」への異論を、プロセスの拙速さの問題にすり替えている。「もはや残ったことはこうした決定がどれほど正当なのかについて検討し、遅くなったとはいえ納得に基盤した国民的合意に至ることであろう。」という極めて朴裕河的なセンテンスにおいて、前段では決定の正当性自体を再検討する可能性を朴裕河が認めているかのように記しているが、もちろん決定を覆すことなど想定していないだろう。決定を前提に、「遅くなったとはいえ納得に基盤した国民的合意に至る」ことを促しており、当然こちらにこそ朴裕河の意思が示されている。とにかく「合意」内容を前提に、様々な方法を用いて当事者や挺対協を「合意」させていこう、というわけだ。

 おそらく「合意」がもたらす最大の問題はここにある。今回の「合意」において韓国政府は当事者の説得と少女像の日本大使館前からの撤去も含めた交渉の担当、という役割を引き受けた。いわば日本政府は、異論の封じ込めを韓国政府に「外注」したのである。もはや日本政府には、自ら交渉する手間すら存在しない。韓国政府と当事者たちが揉めるのを高みの見物していればよいのである。日本政府は問題を韓国の国内問題にすり替えてしまった。「合意」に異論のある者たちは、今後は日本政府のみならず、その前に立ちはだかる韓国政府をまずは相手にせねばならない。朴裕河的「和解」がもたらした異論封じ込め「外注」の構造である。

 予想通りというべきか、日本の大手メディアの論調は基本的には問題「解決」への歓迎一色である。「外注」の旨みをよくわかっているのだろう、韓国政府に対し、少女像移転も含めた合意事項を「支援団体」に受け容れさせよ、と口をそろえて注文をつけている。『毎日』『朝日』の社説を引いておこう。

「ただし、画期的な合意であっても不満を持つ人々は残る。そうした時に大局的見地から国内をまとめていくのが政治指導者の役割だ。/韓国政府は、日本が強く問題視する在韓日本大使館前に建つ少女像の撤去にも前向きな姿勢を見せた。韓国で慰安婦問題の象徴になっているだけに簡単ではなかろう。真の和解につながる歴史的合意とするためには、まだ多くの作業が残っている。日韓両国が互いを信頼し、協力していかねばならない。」(『毎日新聞』2015/12/29社説)

「両政府とともに、元慰安婦たちの支援者ら市民団体、メディアも含めて、当時の教訓を考えたい。/新たに設けられる財団の運営のあり方については今後、詰められる。何より優先すべきは、存命者が50人を切ってしまった元慰安婦たちのそれぞれの気持ちをくむことだろう。/韓国の支援団体は合意について「被害者や国民を裏切る外交的談合」と非難している。日本側からもナショナリズムにかられた不満の声がでかねない。/だが今回の合意は、新たな日韓関係を築くうえで貴重な土台の一つとなる。日本政府は誠実に合意を履行し、韓国政府は真剣に国内での対話を強める以外に道はない。」(『朝日新聞』2015/12/29社説)

 「外注万歳!」というところだろうか。「対話」云々と耳障りのいい表現は使っているが、両紙とも日韓の「合意」を覆す選択肢などはなから想定していないのであるから、結局のところ「合意」事項の押しつけに他ならない。ただ、日本の識者や報道の論調は多かれ少なかれこの調子だ。対協を韓国政府がしっかり黙らせてくれるのを期待しているのであろう。

 もちろん言うまでもないことだが、このような日本の「世論」づくりに最も貢献したのは朴裕河自身である。『和解のために』『帝国の慰安婦』で日本を批判する被害当事者たちや挺対協、そして何より少女像を批判し、「和解」の障害扱いをし続けたのは、他ならぬ朴裕河であった。『帝国の慰安婦』が日本軍「慰安婦」問題の認識の深まりに貢献したことは何一つなかったが、挺対協が「和解」の障害であるという予断を日本社会、とりわけ報道・出版関係者に刷り込ませることには成功したのである。グロテスクな異論封殺の「外注」を日本の(自称リベラルも含めた)言論人たちが、「対話」の名で容認できるのは、朴裕河の「和解」言説に負うところが大きいといえよう。あまりに罪深い。

 2016年は、少女像撤去をめぐる韓国内の葛藤で幕を開けよう。「外注」の構造のなかで、ますます被害者の声は日本に届きづらくなるだろう。だが、問われているのは「日本問題」である、という事実は変わらない。本当にこのような「解決」でよいのか。改めて「大多数の日本国民たち」は自らに問いかけるべきではないだろうか。

(鄭栄桓)

by kscykscy | 2015-12-30 00:00 | 歴史と人民の屑箱

声明「日本軍「慰安婦」問題、早まった「談合」を警戒する」を支持する

 明日12月28日、日韓外相会談が開かれる。詳述する余裕はないが、会談をめぐる報道は改めて日本社会の「慰安婦」問題認識の歪みを曝け出している。当事者たちを無視した水面下の交渉が是とされ、さらには「蒸し返し」を禁じることが獲得すべき外交的目標であるかのように語られる。恥ずかしげもなく「口封じ」を「解決」とみなす主張が横行している。結局のところ、1965年以来、この社会は何ら本質的には変化していないのである。

 ただ1965年よりも悪いといえるかもしれない。歪んだ「和解」観は日本政府が独力でつくりあげたわけではない。日本政府はこれまで度々日本軍「慰安婦」問題についての日本の責任を否定する発言を繰り返してきた。明らかに、問題を「蒸し返し」続けてきたのは日本政府である。にもかかわらず、日本式の問題解決案(国民基金)を受け容れなかったこと、少女像を設置し抗議したことがあたかも問題「解決」の障害であるかのような報道が、日本においては繰り返されている。

 そして、このような問題の捉え方は、大沼保昭、和田春樹をはじめとした国民基金推進派の諸氏が繰り返し日本の言論界に宣伝し続けてきたものである。言うまでもなく、朴裕河『和解のために』『帝国の慰安婦』は、そうした「和解」観の伝播に、極めて重要な役割を担った。「口封じ」を最終的な解決であると考える歪んだ「和解」観は、いわばこの間の日本の政界・言論界が挙国一致で作り上げてきたものといえよう。

 この問題に関連して、本日12月27日、韓国の「日本軍「慰安婦」研究会設立準備会」(*)が、下記の声明「日本軍「慰安婦」問題、早まった「談合」を警戒する」を発表した。私は同準備会の声明を支持する。ぜひ多くの方々、とりわけ日本の人びとに下記の声明の熟読を願う。

 *同準備会は、朴裕河の起訴に抗議する声明への批判として声明「『帝国の慰安婦』事態に対する立場 」を発表した人びとを中心とした集まりである。

(鄭栄桓)

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日本軍「慰安婦」問題、早まった「談合」を警戒する

 日韓国交正常化50周年である2015年の暮れに、日本軍「慰安婦」問題をめぐる日韓両国政府の慌ただしい動きがメディアの報道を埋め尽くしています。

 日本の安倍晋三総理が岸田文雄外相に訪韓を指示し、日韓両国は12月28日に外相会談を開催し協議することにしたと伝えられています。また、この背後には李丙琪青瓦台秘書室長と谷内正太郎国家安全保障局長による水面下の交渉があったといいます。

 すでに高齢である被害者たちが存命中に問題を解決することが最善であるという点については異議を差し挟む余地はありません。しかし時間を理由として早まった「談合」をするのならば、それは「最悪」になるでしょう。

 1990年代初めに日本軍「慰安婦」問題が本格的に提起されてからすでに四半世紀が過ぎました。この長い月日に渡って、被害者たちと、彼女たちの切なる訴えに共感する全世界の市民たちが問題解決のための方法を共に悩み、それによって明確な方向が定まってきました。「事実の認定、謝罪、賠償、真相究明、歴史教育、追慕事業、責任者処罰」がそれです。このことこそが、これまで四半世紀をかけて国際社会が議論を重ねてきた末に確立された「法的常識」です。

 日本軍「慰安婦」問題の「正義の解決」のために、日本政府は「日本の犯罪」であったという事実を認めなければなりません。この犯罪に対し国家的次元で謝罪し賠償しなければなりません。関連資料を余すところなく公開し、現在と未来の世代に歴史の教育をし、被害者たちのための追慕事業をしなければなりません。そして責任者を探し出し処罰しなければなりません。

 そうすることではじめて、日本の「法的責任」が終わることになるのです。

 私たちは日本軍「慰安婦」問題に対する韓国政府の公式的な立場が「日本政府に法的責任が残っている」というものであることを再び確認します。韓国政府は2005年8月26日「韓日会談文書公開後続対策関連民官共同委員会」の決定を通じ「日本軍慰安婦問題など、日本政府・軍等の国家権力が関与した反人道的不法行為については請求権協定によって解決されたものと考えることはできず、日本政府の法的責任が残っている」という立場をはっきりと表明しました。

 また、これは2011年8月30日の憲法裁判所の決定と、2012年5月24日の大法院判決でも韓国政府の公式的な立場として重ねて確認されました。

 私たちは1995年に始まった日本の「女性のためのアジア平和国民基金」が失敗したことは「日本の責任」を曖昧な形でごまかそうとしたためであることをもう一度確認します。国民基金は日本国民から集めた募金で「償い金」を支給し、日本政府の資金で医療・福祉支援を行い、内閣総理大臣名義の「お詫びの手紙」を渡す事業でした。しかし日本政府が「道義的責任は負うが、法的責任は決して負えない」と何度も強調し、まさにその曖昧さのせいで多くの被害者たちから拒否されたのです。

 今、日韓両国政府がどのような議論をしているのかは明らかではありませんが、メディアによって報道されている内容は上述のような国際社会の法的常識と日本軍「慰安婦」問題の歴史はもちろん、韓国政府の公式的な立場とも明らかに相容れないものです。1995年の国民基金の水準さえも2015年の解決策とはなりえません。それ以下であるのならば、さらに言うまでもありません。何よりもそれはこれまでの四半世紀の間、「正義の解決」を訴えてきた被害者たちの願いをないがしろにするものです。

 今から50年前、日韓両国政府は「経済」と「安保」という現実の論理を打ち立て、過去清算問題に蓋をすることを「談合」しました。まさにそのために今も被害者たちは冷たい街頭で「正義の解決」を訴えざるをえなくなりました。50年前と同じ「談合」をまたしても繰り返すのであれば、これは日韓関係の歴史に大きな誤りをまたひとつ追加する不幸な事態になってしまうでしょう。

2015.12.27.
日本軍「慰安婦」研究会設立準備会


by kscykscy | 2015-12-27 00:00 | 日朝関係

「その後ろには在日の知識人がいる」(朴裕河)とはどういうことか

 なぜこのような語り方しかできないのであろうか。本当に腹立たしく思う。『毎日新聞』に載った朴裕河へのインタビューのことである。

「韓国で私を告訴している形になっているが、その後ろには在日の知識人がいるし、告訴の後も日本の研究者の研究を基に私の本は「うそ」だと原告側が言い続けたという点では、日本ともつながっている。」

 今回の告訴の「後ろには在日の知識人がいる」とはどういうことか。これは一体、誰のことを指すのか。断っておくが私は「ナヌムの家」の女性たちの行った告訴には何ら関係していない。女性たちや「ナヌムの家」関係者と面識もない(そもそも私は韓国に入国できない)。それとも別の誰かを指しているのか。何を根拠にこんなでまかせを朴裕河は言うのか。朴裕河は、いい加減「ナヌムの家」の女性たちが誰かに操られているかのような印象操作をするのはやめるべきだ。
 
 度々指摘したことだが、朴裕河は「反論」する際、批判に答えるのではなく、批判者の属性や悪意(「誤読」「歪曲」)を問題にする悪癖がある。「後ろには在日の知識人がいる」という根拠なき決め付けにも、自分を「在日(男)」が批判している、という構図を作り出したい欲望が透けて見える。もちろん『和解のために』や『帝国の慰安婦』を批判しているのは在日朝鮮人だけではない。早くから朴を批判していたのは西野瑠美子であったし、中野敏男、前田朗ほか様々な批判がある(「朴裕河『和解のために』をめぐる「論争」をふりかえる(1)」の文献リストを参照)。

 同じ記事には次のような発言も載っている。

「問題点を指摘する際には、自分の解釈が入っている。「売春婦であってはいけない」とか「自発的であってはいけない」という観念がある。/もちろん、私は「自発的な売春」という言葉は使っていない。全体としてそういうふうに受け止められてしまう書き方だったのかもしれない。しかし、私はそこが重要なポイントではないと言っているつもりだ。/全ては読解、解釈の問題だ。私は専門が文学なので、テキストを読むことをずっとやってきた。その分、読むのに忍耐が必要な書き方をしているのかもしれない。「A」と書いて、いや同時に「Aダッシュでもある」というように。日本と韓国の両方、支援者と批判する人の両方に向けて書いているからだ。(問題点を)分析した人は、そこを耐えて読むことをしなかったということだろう。」

 「全ては読解、解釈の問題」のわけがないだろう。事実の問題に決まっているではないか。朴は明らかに「自発的」な「売春」であったことを、朝鮮人「慰安婦」の重要な特徴と主張している。これは事実の問題である。そのうえで「解釈」のレベルで右派を「批判」しているにすぎない。だから朴裕河の事実の理解が批判されているのだ。「A」と「Aダッシュ」云々も全く馬鹿げている。『帝国の慰安婦』には明らかに両立し得ない「A」と「B」が平気で並んでいるから読み手が混乱する、といっているのである。読み手の「忍耐」力のなさに責任を転嫁すべきでない。朴はしばしば言い逃れに「文学」研究を利用するが、本来ならば「文学」研究者こそこうした悪用を批判すべきであろう(小森陽一は内容を評価しているようだが)。朴裕河は自らの著作が批判される原因を、批判する側の属性や能力のせいにするような姑息な「反論」をいい加減やめるべきだ。

(鄭栄桓)

by kscykscy | 2015-12-06 00:00 | 歴史と人民の屑箱

朴裕河の記者会見における「反論」について

1.日本の「学者」問題

 朴裕河が12月2日、ソウルプレスセンターで在宅起訴に反論する記者会見を開いた。在宅起訴自体に抗議するのは、一方の当事者であるから理解はできる。それを論評するつもりはない。だが、そこでの『帝国の慰安婦』の内容に関連する「反論」はあまりに問題だらけの内容であった。以下に具体的にその問題点をするが、それに先立ち一つだけ今回の事件について記しておきたい。

 もし刑事裁判で決着をつける以外にこの問題の「解決」への道があるとすれば、朴裕河が民事裁判後の刑事調停で女性たちが求めた条件を容れて謝罪し、34ヶ所伏せ字版の修正と日本語版の当該箇所を削除することで赦しを乞い、女性たちに告訴取り下げを求める以外の方法はないと思う。「ナヌムの家」の発表をみても、刑事調停が成立すれば、女性たちは民事も含めたあらゆる訴えを取り下げるつもりだったという。女性たちにしても刑事罰を課すことが目的ではないのだ。民事裁判の資料を見る限り判決はそれでも抑制的であり絶版にせよとまでは命じていない。あくまで該当箇所の削除である。朴裕河の対応如何で別の展開もありえたことは明白である。

 だが前回書いたとおり、朴裕河と出版社の判決後の対応はあまりに挑発的であり、これでは判決の意味がないと考えても無理はない。この点も含めて朴裕河は女性たちに謝罪し、赦しを乞うべきなのではないか。少くとも私からみて、『帝国の慰安婦』における朴裕河の主張が当事者女性たちに著しい二次加害を与えていることは否定しがたいと思う。もちろん、朴裕河にその「意図」はなかったかもしれない。だが、現に出版されているテキストには、明らかに女性たちの名誉を侵害する内容が含まれている。女性たちの主張には相応の根拠があるのだ。「ナヌムの家」の女性たちに無用な裁判の負担を負わせないためにも、朴裕河は上のような対応をただちに採るべきではないだろうか。もちろん、「ナヌムの家」の女性たちが受け入れるかどうかまでは保証できない(一度あった機会を壊してしまったのだから、拒否されても文句はいえないと思う)。もう手遅れかもしれないが、一応申し添えておく。

 私はこれまで韓国の歴史学研究誌やSNS上で朴裕河と『帝国の慰安婦』の内容をめぐりいくどか「論争」をしてきた。その際、常に頭の片隅にあったのは、なぜこんな簡単な話が伝わらないのだろうか、もしかしたら朴裕河は本当に何も問題を理解していないのではないか、という疑念であった。今回の記者会見をみても、同様の疑念は晴れなかった。本当に自分はなぜ善意なのに批判されるのだろう、誤解されるのだろう、と信じきっている可能性がある。「意図」「真意」を語れば理解してもらえると考えているかもしれない。『帝国の慰安婦』のような本を書きながら、なおかつこのように信じられるのは、確かに研究者としては完全に失格であると思う。ただこのような人間はざらにいる。だからこそ、朴裕河の知人・友人たちは「確かにあなたは善意なのだが、この文章は表現上明らかにこれこれのことを書いている。客観的にこういう意味になる」という批判を本人に伝えるべきだと思う。

 なぜこのような事を書くかというと、日本の「学者」たちの支持声明に心底腹が立っているからである。私は本当に朴裕河を小馬鹿にしているのは、この「学者」たちであると思う。私には朴裕河を政治利用しているようにしか見えない。上野千鶴子にしろ、大沼保昭にしろ、自分が責任をとる必要のない安全圏で事態を煽っている。歴史修正主義的な内容を含む本書の問題(秦郁彦は吉見義明の裁判において「外出の自由」があった根拠として『帝国の慰安婦』の記述をあげている)を隠蔽し、「和解」のために自分たちが言いたいことを「韓国人女性」に言わせて、反論が起こると言論弾圧だと騒ぎ出す。朴裕河もまた、自分には日本の「リベラル」知識人がついているという自信があるから、絶対に反省もせず、強硬姿勢を貫く。朴裕河の強硬姿勢の背景には、明らかに日本の知識人が自分にはついているという自信があると思う。

 だが、どう考えてもこの「学者」たちが『帝国の慰安婦』の内容のもつ問題点を理解していないとは思えない。もちろんその可能性もあるが、「河野談話」の事実上の修正に帰着するであろう本書の叙述の問題点を理解したうえで、あくまで政治的観点から賛同しているのではないか。大沼保昭が朴裕河の国際法理解に賛同しているとは到底思えず、浅野豊美にしてもそうだ。ほかの「学者」たちも同様であろう。和田春樹はより酷薄である。日本への紹介者の一人であったにもかかわらず、いま朴裕河と関わるのは「和解」の関係上まずいと判断したのであろう、声明に名を載せていない。もちろん、紹介を反省してのことならばよい。ならば公に批判すべきであろう。わかりづらい『帝国の慰安婦』「批判」をするのも、酷薄な政治的リアリズムのためと考えるほかない。かつて鈴木裕子が日本の朴裕河礼賛の風潮を「朴裕河現象」と呼んだことがあるが、私がこの呼称に抵抗があるのは、日本軍「慰安婦」問題をめぐる国民基金路線での「和解」運動において、朴裕河は明らかに従であり、和田春樹や大沼保昭が主だからだ。朴裕河問題として矮小化すべきではない。これは和田春樹問題であり、大沼保昭問題であり、上野千鶴子問題なのである。

 おそらく現実にはこのような「解決」の方向には向かわないと思う。朴裕河は徹底抗戦の構えである。日本リベラルの飛び道具の役割を演じ続けることになろう。そして、当分『帝国の慰安婦』をめぐる不毛な「論争」が続くことになる。だが、これは「朴裕河問題」ではない、ということだけは強調しておきたい。とりわけ日本にいる私たちはこの点を忘れてはならないと思う。

2.記者会見での「反論」について

 前置きが長くなった。記者会見での「反論」の検討にうつろう。この記者会見での論法には、批判に反論する際朴がしばしば用いた論点のすりかえ術が用いられている(一年近く朴裕河の著作と反論に付き合い続けたので、流石にその「クセ」がわかってきた)。『帝国の慰安婦』を正確に読解するうえでも(そして、あらゆる詭弁にだまされないためにも)、こうしたすりかえへの批判が重要であると考えるため、以下に要点のみを指摘したい。

 『帝国の慰安婦』の叙述には、ある規則性が存在する。まず、韓国で流布している「慰安婦」に関するイメージ(なるもの)を提示する(A)。次に、この枠に収まりきらない事実を紹介し(B)、Bの事実こそが「本質」であると主張する(C)。これを図式化すると以下のようになる。

 通説提示(A)
通説におさまらない個別的事例の提示(B)
個別的事例の一般化(C)

 そもそも朴裕河の示す通説(A)や事実(B)自体が、著者に都合よく加工されているという問題があるが、ひとまずそれは措こう。一見してわかるように、ここで重要な問題はBからCへの一般化に妥当性があるかどうかである。例えば、ある兵士に恋をしたと語る元「慰安婦」の証言があるとする。日本兵がつねに慰安婦たちをモノあつかいし乱暴にあつかった、というイメージを持っている者がいるとすれば、この証言は確かにそうしたイメージとは異なるものであろう。だが、だからといって日本軍「慰安婦」の多くが兵士に恋をした、という話にはならないことは明白である。Cと主張するためには、さらに検討すべき問題が山ほどあるからだ。

 だが朴裕河は『帝国の慰安婦』において、何らの論証手続を経ずにBを一般化する誤謬をしばしば犯している。「愛国」的な証言(B)を提示したのち、これこそが日本軍「慰安婦」の「本質」であるという(C)。なぜ「本質」といえるのか。それは朝鮮人「慰安婦」は「帝国の慰安婦」だからだ、と。本来、朝鮮人=日本人「慰安婦」=「帝国の慰安婦」という主張は、朴が本書で証明すべき仮説だったはずだ。だが本書ではしばしばその仮説を根拠に、Bの一般化が「説明」される。ここに本書の極めて深刻な方法上の問題がある。

 『帝国の慰安婦』への批判の核心は、Cへの批判であった。日本軍「慰安婦」制度の本質は朴裕河のいうように規定できないのではないか、という疑問である。これに対する朴の批判は、普通ならばCが本質的であるという証明に費やされねばならない。だが朴はそうはしない。朴は驚くべきことに、批判者たちはBという事実を認めようとしない、なぜならそれは批判者たちにとって都合が悪いからだ、と「反論」するのである。確かに朴のAやBの理解そのものが間違っている場合もあるため、本書の事実理解そのものへの批判があることは事実だ。だが、本書への最も本質的な批判は、なぜそのような一般化が可能なのか、それは妥当なのか、というところにある。朴はこれに答えず、自分はBという異なる「事実」を指摘し、問題の多様な側面を示したかっただけだ、と「反論」する。Cへの批判を、あたかもBという事実の提示そのものへのであるかのようにすりかえ、批判者たちが利害関係からAの通説に固執する極めて偏狭な頑固者のように印象操作をするのである。

 朴裕河のこうした論点のすりかえ術をふまえて、今回の記者会見を読み解いてみよう。

 第一に「業者」をめぐる弁明をみよう。最も端的にこのすりかえがあらわれている箇所である。

「この本で論争の対象となったもうひとつの概念〈業者〉の問題を語ったのも、まずは国家政策を口実に協力し、利得を得る経済主体の問題としてみたかったためですが、実際はそうした〈協力と抵抗〉の問題を語りたかったためでもあります。[…]しかし、こうしたあらゆる指摘は研究者と支援団体にとって不都合なものです。彼らは他の状況をみることは、ただ〈日本を免罪〉することだと考えます。そして〈日本〉という政治共同体だけを罪と責任の対象とみなします。私はこの本で日本に責任があることを語りました。[…]」

 これだけをみると、「研究者と支援団体」が朝鮮人業者の問題を語ること自体を、日本を免罪するものだと批判しているように読める。だが朴裕河は業者「にも」責任を問うべきだと主張したわけではない。以下のように、日本国家には法的責任を問えず、それは業者「に」問うべきだと主張した。そこが批判されているのだ。

「慰安婦たちを連れていった(「強制連行」との言葉が、公権力による物理的力の行使を意味する限り、少なくとも朝鮮人慰安婦問題においては、軍の方針としては成立しない)ことの「法的」責任は、直接には業者たちに問われるべきである。それも、あきらかな「だまし」や誘拐の場合に限る。需要を生み出した日本という国家の行為は、批判はできても「法的責任」を問うのは難しいことになるのである。」(日本語版46頁)

 問題となっているのは、業者の責任を指摘したこと(B)ではなく、業者の責任を語ることを通じて、日本軍の法的責任一般を否定したこと(C)なのであるが、朴裕河は論点をすりかえている。しかも、厄介なことに、本書には「慰安婦となる民間人募集を発想した国家や帝国としての日本にその〈罪〉はあっても、法律を犯したその〈犯罪性〉は、そのような構造を固め、その維持に加担し、協力した民間人にも問われるべきであろう。」(34頁)などという叙述もあり、後者は一見すると軍「にも」「法律を犯したその〈犯罪性〉」を問えると主張しているかのように読めてしまう。矛盾する叙述が平気で並存しているのである(明らかに著者の主張は前者にある)。私は本書を学問的論争以前の欠陥品であると考えるゆえんである。

 朴裕河はこうして本来問われていることに答えず、批判者たちは朝鮮人の加担を認めるのは都合が悪いから自分を否定しているのだ、という誤った説明を流布する。こうした「説明」は、韓国は反日ナショナリズムに囚われて歴史認識を歪めている、という日本の(リベラル含む)韓国認識=予断と極めて相性がいい。むしろ日本の韓国認識を念頭において、わざとこのような「説明」を放っているのかもしれない。そして一部の、主観的には「大衆」のナショナリズムを「憂慮」している韓国知識人もこれに飛びつく。結果、朴裕河の誤った「説明」は、あたかも「研究者や支援団体」の実態であるかのような認識が拡大する。『帝国の慰安婦』が行ったことと全く同じすりかえ術が繰り返されるのである。極めて不誠実なやり口であると言わねばならない。

 「反論」の第二の問題は、「売春」「同志的関係」に関する論点のすりかえである。まずは「売春」に関する説明をみよう。

「原告側は特に〈売春〉と〈同志的関係〉という単語を問題にしました。/しかし彼らの考えは売春婦ならば被害者ではないという考えに基づいたものです。こうした職種に幼い少女たちが動員され易いのは今日でも同様ですが、年齢/売春の如何に拘らず、この苦痛は奴隷の苦痛と異なるところがありません。いわば慰安婦を単純な売春婦だとして責任を否定する者たちや、売春婦ではないといって「少女」イメージに執着する者たちは、売春に対する激しい嫌悪と差別感情を持っているのです。「虚偽」だと否定する心理もまた同様であるといえます。重要なことは、女性たちが国家の利益のため故郷から遠く離れた場所に移動させられたなかで身体を毀損されたという事実のみである。」

 驚くべき「反論」である。日本軍「慰安婦」制度は性奴隷制度であった、あるいは「強制売春」であった、という批判に対し、「売春を差別するな」と朴裕河は反論しているのである。流石にこれは誰がみてもわかる論点のすりかえだと思う。なぜ「売春」が本質的側面であるのかを説明すべきところで、批判者たちが「売春」であることを否定するのは「売春」を差別しているからだ、とレッテル貼りをして切り抜けようとしているのである。ちなみに以前にも触れたことがあるが、本書は明らかに日本軍「慰安婦」制度を、女性たちが「自発的」に行った「売春」制度という枠組みで理解するよう促している(自発的に行くような意識を作り出した社会の問題を指摘しているが、自発的に行ったこと自体は否定していない)。

 朴裕河の手法は「業者」の説明の際と全く同じである。本来ならなぜ「売春」が本質であるといえるのかと問われているのに、批判者たちは「売春」を差別しているから自分を批判するのだ、と問題をすりかえる。それを聞いた朴裕河支持者たちが「挺対協はナショナリズムから少女イメージにこだわって売春を差別するのか」と一緒になって責め立てる。あまりに理不尽であるが、現実に起こっているのはこういうことである。

 そして、朴裕河は「反論」の際に、意味不明なことを述べて聴衆を煙に巻くことも忘れない。

「このような私の本が慰安婦のお婆さんたちを批判したり貶める理由がありません。検察が〈名誉毀損〉と指摘した部分は、大部分〈売春婦扱い〉をしたと彼らが断定した叙述です。しかし〈売春〉という単語を用いたといっても、それがただちに〈売春婦扱い〉をしたことにはなりません。ひいては売春婦だという者たちを批判するために用いた部分すら、原告と仮処分裁判部と検察は確認もせずにそれを私が書いた言葉であると置換させました。もちろん言論は大部分そのまま報道しました。しかしやはり一次的な責任は原告と仮処分裁判部と検察にあるといわざるをえません。」

 「しかし〈売春〉という単語を用いたといっても、それがただちに〈売春婦扱い〉をしたことにはなりません」とはどういう意味なのか。何の意味もないのだろう。ただ矛盾したことを、本当に「なんとなく」言ってみただけだと思う。だが一応大学教授であるから、普通はこれがどういう意味なのかを考えてみたり、朴裕河の意図を推し量ったりしてしまう。本当はそのような作業は全くの無駄なのだが、少くとも朴裕河はこれで時間は稼げる。このような時間稼ぎを許さないためにも、わからないことは「意味がわかりません」と表明することが必要である。

 最後に「同志的関係」についての朴裕河の説明をみよう。

「また、〈同志的関係〉という単語を用いた第一の理由は、朝鮮は他の国とは違い、日本人の植民地支配をうけ〈日本帝国〉の一員として動員されたという意味です。また、そうした枠組みのなかでありえた日本軍と朝鮮人女性のもうひとつの異なる関係を書いたのは、まずは総体的な姿を示すためのことであり、同時にこうした姿すらみてこそ表面的な平和のなかに存在した差別意識、帝国の支配者の差別意識もみることができるためです。
 
 第二の理由は、朝鮮人慰安婦を徴兵された朝鮮人たちと同じ枠組みでみなすことになれば、すなわち〈帝国〉に性と身体を動員された個人としてみなすようになれば、日本に対する謝罪と補償の要求がより明確になるからです。前に述べたとおり、彼ら[徴兵された朝鮮人]ですら補償された法の保護がなかったことを、日本に向かって言うためでした。つまり、彼らのいう単純な〈売春婦〉ではないということを言おうとしたのです。」

 これらの反論を読む際に気をつけねばならないことが二つある。第一に、朴裕河は「動員」「補償」「謝罪」という言葉を、一般的な用法とは相当に異なる意味で使っているということである(これについても以前にも説明した)。「動員された」と言っているが、これは国家権力による直接的な徴集を意味しているわけではない。それではどういう意味なのだろうか。それは誰にもわからない。私も何度も読んでいるが、朴裕河のいう「動員」の意味は全く理解できない。おそらく本人もよくわかっていないのではないだろうか。これらの大事な用語を朴裕河は「なんとなく」使っていると考えるほかない。

 第二に、本書出版後に朴裕河が公表した「要約」や説明は、多くの場合、本書の内容とは異なっていることである。引用した反論のはじめの段落でも、「同志的関係」とは「〈日本帝国〉の一員として動員されたという意味」と説明しているが、本書の理解としてこうした説明は誤りである。本書は日本が外的な力で「同志的関係」に組み込んだことのみを問題にしているのではなく、女性たちと日本人兵士のあいだに「同志的関係」があったとし、女性の内面においても「同志意識」があったことを、日本軍「慰安婦」制度を理解するうえでの核心的要素であると主張している。とりわけ女性たちにとっては酷い記述だと思うのは、本書はこうした「記憶」を女性たち自らが解放後の韓国で生きるために抑圧し隠蔽した、と一般化して記していることだ。このような本書の主張が一般的に受け入れられるならば、女性たちのあらゆる異議申し立ては「ウソ」とみなされ、無化されてしまうだろう。いずれにしても、本書が上記のような主張をしていることは明白なのであるから、本書の内容とは異なる「意図」を示して論点をすりかえるべきではない。

 次の段落も同様である。本書は朝鮮人慰安婦と朝鮮人日本兵を同じ枠組みでみることを主張したわけではない。「同志的関係」はあくまで日本人日本兵との関係を指す概念である。そもそも「彼ら[徴兵された朝鮮人]ですら補償された法の保護」とは何を指すのか。恩給法や遺族等援護法から朝鮮人元軍人・軍属が排除されたことは周知の事実であるが、近年支払われた一時金・弔慰金を指しているのだろうか。最近朴裕河は日本軍「慰安婦」は軍属であった、と主張し始めているが(日韓会談理解に関する私の批判に反論するため)、つまり軍属として一時金・弔慰金を支払え、と主張しているのであろうか。軍属であるという主張と、朴の業者責任論は矛盾しないのだろうか。朴裕河の意図を詮索する暇はないので、この問題はひとまず措くが、いずれにしてもここで朴が新しい論点を持出して『帝国の慰安婦』とは関係のない話をしていることだけは確かだ。

 もちろん反論するのは結構だが、問題となっているのは『帝国の慰安婦』における著者の主張なのであるから、それに即して反論を行うべきであろう。批判の内容を歪曲してレッテル貼りし陳腐化しようとしたり、本書とは関係のない論点を絶え間なく繰り出して煙に巻こうとする態度は、私の批判を封じ込めたり、周囲の知人たちに弁明するうえでは「有効」だったかもしれないが、問題はもはや個別的な論争の次元を超えているのである。何より、自身の主張により名誉を傷つけられたと主張する人びとが現に存在するという事実に、真摯に向き合うべきではないだろうか。

 朴裕河や韓国・日本の「学者」声明の支持者たちは、おそらく今後、本書への批判は些細な誤りの揚げ足取りをしている、全体をみていない、といった類の反論をくり返すことになるだろう。だが少くとも私としては、あまたある本書の些細な事実関係の誤りはひとまずおき、本書の核心的テーゼとその方法に絞って批判を展開したつもりだ。金富子や能川元一による批判も同様である。本当ならば、「徴兵自体は国民として国家総動員法に基づいて行なわれたものなので、「日本国民」でなくなった韓国人はいまや日本による補償の対象ではないことになる。」(184頁)といった呆れた叙述(徴兵の根拠法は兵役法)は山ほどあり、揚げ足をとろうと思えばいくらでもできる。だが些末なものには目をつむり、朴裕河が最も重要であるとみなす主張に多くの批判者たちはあえて付き合っているのである。繰り返しになるが、現実に名誉を傷つけられたと主張する人びとのいる問題なのだから、もう少し真面目に考えて欲しい。まずは自ら著作を改めて読みなおすところからスタートすべきだ。

(鄭栄桓)

by kscykscy | 2015-12-04 00:00 | 歴史と人民の屑箱

朴裕河氏の在宅起訴問題について――『ハンギョレ』インタビューの補足

 先月18日、ソウル東部地方検察庁刑事第1部は、名誉毀損の罪で朴裕河を在宅起訴したと発表した。この事件を朝日・読売・毎日・産経など在京の全国紙はこぞって社説でとりあげ、韓国の検察による言論弾圧だとして批判した(朴裕河は全国紙を「和解」させた)。11月26日には日米の学者ら54人(*1)が「朴裕河氏の起訴に対する抗議声明」を発表し「検察庁という公権力が特定の歴史観をもとに学問や言論の自由を封圧する挙」に出たことに抗議した。さらに、12月2日、韓国の学者ら191人が起訴に反対する声明を出した。朴裕河が「言論弾圧の被害者」であるとの主張で、日韓のマスコミが塗りつぶされている。

 だが私は問題をそのように捉えるべきではないと考える。具体的には韓国の日刊紙『ハンギョレ』のインタビューで説明したので参照していただきたいが、事件に直接関係する主張を要約すれば、(1)日本の「学者」声明は「言論弾圧」のフレームで理解しているが、これは問題の単純化である、(2)声明は「この本によって元慰安婦の方々の名誉が傷ついたとは思えず」と断定しているが、到底そのようには判断できないことを説明した。後者についてはこのブログでも繰り返し書いてきたので再論は避けるが、前者については紙幅の都合上説明しきれなかったことがあるため、急ぎ指摘すべきことを以下に記しておきたい。

 「発表によって苦痛をこうむる人間の異議申し立てが、あくまでも尊重されねばなりません。それなしでは、言論の自由、出版の自由の人間的な基盤がゆらぐことになりかねません」――これは柳美里「石に泳ぐ魚」の出版禁止事件に際しての大江健三郎のコメントである(『朝日新聞』2002年9月25日付・朝刊)。大江もまた呼びかけ人となっている今般の日本の「学者」たちの声明に決定的に欠落しているのは、この認識、すなわち、今回の在宅起訴が「発表によって苦痛をこうむる人間の異議申し立て」から始まっているという認識である。

 声明は、今回の問題を韓国検察による言論弾圧事件とみている。だがそれはあまりに事態を単純化している。繰り返しになるが、そもそもこの事件は「ナヌムの家」に暮らす元日本軍「慰安婦」女性らの告訴から始まったものだ。国家保安法違反事件のように国家権力が国家的/社会的法益保護の観点から特定の歴史観や主張を取り締まろうとしたものではなく、あくまで被害者女性たちの名誉、すなわち個人的法益が侵害されたとの訴えを出発点としている。各紙の社説や学者らの声明はこの点を全く看過しているばかりか、あたかも国家権力が率先して朴裕河の「歴史観」を取り締まろうとしたかのように書き、争点を誤導している。『帝国の慰安婦』が被害者女性たちの名誉を毀損したかどうか、これが問題となっているのである。

 確かに現在韓国の市民的自由は危機的な状況にあるといってよい。統合進歩党解散問題に代表されるように集会・結社の自由の根幹が揺らいでいる。民事・刑事を問わず名誉毀損法制が権力者による言論弾圧の道具として用いられているのも事実である(産経新聞の事件は確かに「言論弾圧」の側面がある)。そうした意味で、今回の事件が「言論弾圧」のフレームで語られてしまう一因を作り出したのは、政権の手先となり検察への不信感を生み続けている韓国検察にあることは間違いない。実際、今般の在宅起訴という判断に何らかの政治的・外交的意図(巷間で語られているような単純なものではなく)があっても不思議ではない。

 だが以上の状況は、今回の在宅起訴をただちに検察による「特定の歴史観」への弾圧だとみなす根拠にはならない。繰り返しになるが、今回の事件の出発点はあくまで女性たちの告訴から出発していることを忘れてはならない。「ナヌムの家」の女性たちは適法的な手続きを経て告訴したにもかかわらず、論点を(おそらくはあえて)誤導する日本のメディアや学者と、正義を果たさない検察のために「言論弾圧」への加担者の汚名を着せられているのである。女性たちは二重の被害にあっているといえよう。

 そもそも女性たちはなぜ刑事告訴したのだろうか。もちろん『帝国の慰安婦』により名誉を傷つけられたと考えたからであるが、既報の通り、今年2月17日、ソウル東部地方裁判所民事21部(裁判長コ・チュンジョン)は名誉毀損に関する民事上の責任を認め「著書内容のうち34カ所を削除しなければ出版、販売、配布、広告などをできない」との判決を下している。この段階で刑事告訴を取り下げる可能性はなかったのだろうか。

 朴裕河の説明によれば、刑事告訴取り下げの可能性はゼロではなかったようである。検察の報道資料によれば、民事の判決が出た後の4月から10月にかけて「刑事調停」が行われた。この制度は日本にはない韓国独特の制度で、民事上の争いの性質を持つ刑事事件について、告訴人と被告訴人が和解に至るよう各分野の専門家らが検察庁に設置されている「刑事調停委員会」で調停を行う制度である。調停が成立すれば不起訴処分または軽い処罰を受けるようになる。

 だが調停による「和解」は成立しなかった。「ナヌムの家」側の資料を私は知らないので、ひとまず朴裕河の説明によれば、「和解」のために女性たちが求めたのは下記の三つであったという(「渦中日記 10/22-2」)。

1.謝罪
2.削除要求部分を○○○と表示した韓国語削除版を他の形態で出すこと(○○○表示が削除された内容を「間接的に」表現している、というのが彼らの主張だった)
3.第三国で出す本も韓国で削除された部分を削除すること

 だが、1と2はともかく3は受け入れがたいということで朴は拒否し、結果として調停は不成立となった。「日本語版は翻訳でもなく、独自に出した本であるから権利もないのみならず、こうした要求を私が受容し日本側出版社に要求すれば笑いものになるだけだと考えたため」拒否したとのことである。「第三国で出す本」とは、いうまでもなく日本語版を指す。女性たちが告訴したのは2014年6月、日本語版の出版は同年11月である。朝日新聞出版が名誉毀損で訴えられている本を、それと知りながら日本で出版してしまったがために問題は複雑化したのである。このような意味でも、今回の事件における朝日新聞出版の責任は大きいと考える。

 また、当事者たちが納得しなかった背景には、34ヶ所伏せ字版の問題も関わっていると思われる(2の要求)。私は伏せ字版が出版された直後に韓国から同書を取り寄せたが、本の帯をみて少なからぬ衝撃を受けた。削除指定箇所を「○○○」と日帝時代を連想させる伏せ字にしており、帯には「21世紀の禁書!」「私は、心から○○○○○○○○○○○○を望む!」(この表現は本文にはない。帯のみの宣伝文句である)と書かれてあったからだ。朴裕河を言論弾圧(禁書!)の被害者とみなし、あえて帯に挑発的な惹句を記している。韓国の書店の様子を知人に聞いたところ、伏せ字版は平積みであったという。これでは民事で勝訴したといえども、被害者たちの気持ちが晴れることはないのではないか。それどころか、言論弾圧の加害者扱いをされている。民事で終わっては名誉毀損状態が終わらないと考えたとしても仕方がない状況と考える。

 国家権力による「歴史観」の取締事件として単純化できないことは、以上からも明らかであろう。刑事調停の和解が成立せず、かつ被害者たちが刑事告訴を取り下げなかった背景として、最低限以上のような民事の判決後の状況は共有されるべきであると考える。もちろん、『帝国の慰安婦』による名誉毀損が刑事罰をもって制裁すべき程度のものかどうかという論点は残っており、この点についてはその他の争点も含めて韓国の司法が判断するであろう。本日の記者会見での朴裕河の自著についての「説明」や各紙の社説の問題点など、まだまだ指摘すべきことはあるが、これらについては日を改めて論じることにする。

 最後に一点だけ指摘しておきたい。『帝国の慰安婦』が出版されて以降、内心は問題があると考えていたであろう研究者たちも含めて、この本への適切な論評は極めて少なかった。日本の「知識人」たちが褒め続けたのは、彼らの政治的欲望ゆえであるから、ある意味理解できる。問題は韓国である。『和解のために』以来、徐京植や金富子らがまさに孤軍奮闘して朴裕河の問題点を指摘し続けてきたにもかかわらず、韓国の研究者たちの反応は極めて冷淡だった。だからこそ朴裕河は、私を批判するのは在日朝鮮人だけだ、という愚劣なレッテル貼りをくり返すことができたのだ。もちろん朴裕河を批判した韓国の研究者がいないわけではないが本当に少数だった。こうした事態に至った責任の一端は『帝国の慰安婦』のようなエセ学問を許す韓国の学術界にあるといわねばならない。

 もちろん、今般の事態の最大の責任は、日本軍慰安婦制度を戦争犯罪と認めない日本政府と、こうした政府の姿勢を前提に「解決」しようとする虫のいい「リベラル」たちを褒める役割を期待して朴裕河を持ち上げ続けた日本の学術・言論界にある。これは何度でもくり返し主張すべきであろう。だが、韓国で出版された際に『帝国の慰安婦』が学問的論争以前の著作であることを適確に識者たちが指摘し、公の言論の場から退けていれば、私も含めた研究者たちがまっとうな社会的責任を果たしていれば、元「慰安婦」女性たちが自ら立ち上がり訴訟を起こす必要などなかったのではないか。この点を度外視して、いざ起訴に至ると突如として踊り出て「言論の場で議論すべき」などと言い出すのは、私にはあまりに破廉恥かつ傲慢な態度であるように思える。女性たちの告訴を云々する前に、韓国の学術界全体の反省をすべきではないだろうか(もちろん日本もである)。

*1 賛同人の氏名は以下の通りである。

浅野豊美、蘭信三、石川好、入江昭、岩崎稔、上野千鶴子、大河原昭夫、大沼保昭、大江健三郎、ウイリアム・グライムス、小倉紀蔵、小此木政夫、アンドルー・ゴードン、加藤千香子、加納実紀代、川村湊、木宮正史、栗栖薫子、グレゴリー・クラーク、河野洋平、古城佳子、小針進、小森陽一、酒井直樹、島田雅彦、千田有紀、添谷芳秀、高橋源一郎、竹内栄美子、田中明彦、茅野裕城子、津島佑子、東郷和彦、中川成美、中沢けい、中島岳志、成田龍一、西成彦、西川祐子、トマス・バーガー、波多野澄雄、馬場公彦、平井久志、藤井貞和、藤原帰一、星野智幸、村山富市、マイク・モチズキ、本橋哲也、安尾芳典、山田孝男、四方田犬彦、李相哲、若宮啓文(計54名、五十音順)

(鄭栄桓)


by kscykscy | 2015-12-03 00:00 | 歴史と人民の屑箱