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「感謝」の論理と政治主義的「戦後」像

 声明「戦後70年総理談話について」の「戦後史」像の最大の特徴は、日本の「復興と繁栄」を、反省する「日本国民」と寛大な「諸外国」の支援の幸福な合作によりなりたったものとして描き出すところにある。だが結論からいえば、この歴史像は事実に基づいたものとは到底いえず、むしろ日本政府のみならず、現代の日本人たちの「願望」に阿った極めて政治主義的な「戦後」史像といわざるをえない。ここでは改めて「戦後」史の「原点」に立ち返り、声明の歴史認識について検証したい。

 「声明」は、次のように「日本国民」の反省の存在を指摘し、あわせて「諸外国」への感謝の気持ちを示すべきことを安倍首相に説く。再度引用しよう(強調は引用者)。

「(2)戦後日本の復興と繁栄は日本国民の努力のみによるものでなく、講和と国交正常化に際して賠償を放棄するなど、戦後日本の再出発のために寛大な態度を示し、その後も日本の安全と経済的繁栄をさまざまな形で支え、助けてくれた諸外国の日本への理解と期待、そして支援によるものでもありました。このことは、さまざまな研究を通して今日よく知られております。こうした海外の諸国民への深い感謝の気持ちもまた示されるべきものと考えます。

(3)さらに、戦後の復興と繁栄をもたらした日本国民の一貫した努力は、台湾、朝鮮の植民地化に加えて、1931-45年の戦争が大きな誤りであり、この戦争によって三百万人以上の日本国民とそれに数倍する中国その他の諸外国民の犠牲を出したことへの痛切な反省に基づき、そうした過ちを二度と犯さないという決意に基づくものでありました。戦争で犠牲となった人々への強い贖罪感と悔恨の念が、戦後日本の平和と経済発展を支えた原動力だったのです。戦後70年、80年、90年と時が経てば、こうした思いが薄れていくことはやむを得ないことかもしれません。しかしながら、実にこの思いこそ、戦後の日本の平和と繁栄を支えた原点、文字どおりの初心であり、決して忘れ去られてはならないものでありましょう。」

 声明ははっきりと「台湾、朝鮮の植民地化に加えて」「中国その他の諸外国民の犠牲を出したこと」への反省が「原点」「初心」だった、つまりアジアへの加害責任の自覚が存在した、と指摘する。本当に、植民地化と十五年戦争への反省が、戦後日本の「原点」「初心」だったのか。これを証明することは私には至難の業であるように思える。そうした事実は存在しなかったからだ。むしろこの反証となる「研究」ならば、容易に見つけられる。

 例えば、東京裁判前後の日本人の戦争責任意識について、粟屋憲太郎は次のように指摘する。

「「天皇が軍事的補佐者にだまされたのだという愚劣な神話」は、のちにマッカーサーやアメリカ政府が好んで口にした表現であった。この政治神話は、九月一八日の東久邇首相の外国人記者会見での回答でもしめされ、国民の間に根づよく浸透することになった。国民の間での戦争指導者への批判と東京裁判でしめされた「指導者責任観」の受容は、天皇を除外したかたちでしだいに強まったことが特徴である。
 もちろん、この国民の「指導者責任観」の受けとめかたは、その多くが受動的であり、被害者意識が優先して、アジアの民衆に害をおよぼした加害者としての責任意識は、多くの場合みられなかった。侵略戦争に巻き込まれ、支持したみずからの責任と反省の視点をふくんだ積極的な戦争責任究明への動きへとは、十分に発展しなかったのである。ここに「過去の克服」をみずからの課題としえなかった多くの国民の戦争責任意識の原点があったといえよう。」(粟屋憲太郎『東京裁判への道』講談社学術文庫、2013年、p.484-485)

 粟屋がここで指摘する理解は、声明とはおよそ相容れない認識であることは説明を要しないであろう。末尾の文にいたっては、ただちに声明への直接的な批判として機能する。

 また、吉田裕は80年代に入り、加害性への認識が生まれているとはいえ、一方で戦争観の「あやうさ」(例えばゲーム「提督の決断」が「強制連行」や「慰安婦」を「基地の耐久度」や「兵士の士気」向上のツールとして扱った事件)や、「他国民の痛みに対する傲慢なまでの無神経さ」は維持されているとみる。そしてこの傾向に拍車をかけたのは「本格的な戦後処理がなされないままに、長い間、戦争責任の問題が事実上のタブーとなってきたために、戦争の時代の正確な歴史的事実すら、若い世代に伝えられていないという現実が存在するからだ」(『日本人の戦争観』、p.253)と指摘する。『日本人の戦争観』はそもそも「戦後の日本社会の中で戦争の侵略性や加害性がなぜ充分意識されてこなかったのかという問題」(岩波現代文庫版、p.260)を考察するために、書かれたものであるから、声明のような認識にはなりようもないのである。

 両者とも声明への「賛同人」であるが、これらの解釈や問いを根本から覆すに足る「国民の戦争責任意識の原点」(粟屋)についての新事実が見出されたならばまだしも、諸氏の研究は微妙な力点の移動こそあれ(*1)、私の知る限り基本的な事実認識の変更は示されていない。「賛同」するにたる論拠を示す義務があるのではないだろうか。

 次に、「諸外国」への感謝について、戦争責任への「反省」の問題とも関連するので改めて触れておこう。確かに声明のいうように、連合国の賠償放棄が日本の「復興と繁栄」の重要な条件となったことは事実であろう。だがそこでの賠償放棄や戦後補償の未済が、「諸外国の日本への理解と期待、そして支援」によるものであった、とするのは成り立たない。ここでは賠償放棄が「諸外国」の自発的な行為として位置づけられ、賠償や補償の支払いを否定し続けた日本外交の能動的側面が隠蔽されている。そして、本来必要であるはずの未済の「戦後責任」への謝罪が、「復興と繁栄」を助けた「寛大な態度」への感謝にすりかえられている。戦争責任を反省することなく、賠償や補償をせず申し訳ないという言葉が求められているのに、助けてくれてありがとう、という言葉を発せよと安倍に促しているのである。

 実は声明が行った「謝罪」から「感謝」へのすりかえは、日本敗戦後の戦争責任論議において度々あらわれた典型的な責任回避のレトリックである。例えば、降伏文書調印後の9月4日に開かれた第88臨時議会において衆議院は、「帝國陸海軍は廣袤數萬里の陸海空に勇戰奮鬪國民勤勞戰士亦千辛に耐へ萬苦を忍ひ克く奉公の至誠を效せり是れ全國民の齊しく感謝感激措く能はさる所なり」とする、「皇軍将兵並国民勤労戦士に対する感謝敬弔決議案」を可決した。よく戦い、死んでくれてありがとう、というわけだ。決議案は大日本政治会(日政会)が提案したものであったが、敗戦責任の追及を回避し、降伏後における「國體護持」を進めるために日政会が最後に採った論理が将兵・戦士への「感謝」であった、という事実は示唆的である(*2)。

 「感謝」の強調は、朝鮮人強制連行・強制労働についての言及にもあらわれる。松村謙三厚生大臣は9月、朝鮮人労働者の帰還に際し「親愛なる妻子家族を残して酷寒、酷暑を凌ぎよく乏しきに耐へ敢闘された諸君の挺身協力については私は感謝と感激の念をいよいよ深く心に銘ずるものであります」との談話を発表した(「朝鮮労働者に感謝を表す 厚相談話発表」『読売報知』1945年9月20日付)。朝鮮人労働者に「感謝」した事実を意外に思われるかもしれない。だがこれは決して日本政府の「良心」を示すものではなかった。8月の無条件降伏を前後して、各地で朝鮮人・中国人労働者たちは蜂起し、労働争議を起こした。政府は繰り返しこれらの戦いを「誤れる戦勝国民意識」によるものと非難し弾圧を試みた。松村厚生大臣の発言は、侵略戦争に協力させた責任を問う朝鮮人・中国人労働者の争議に、「戦争に協力してくれてありがとう」という言葉を放ったものであり、その戦争責任認識において真っ向から対立するものといえる(*3)。いわば責任回避のために「感謝」が行なわれているのである。

 朝鮮人強制連行の責任回避のため「感謝」を用いたのは政府や議会だけではない。『朝日新聞』は、1946年7月の社説で「日本の統治下にあった朝鮮が、戦争中わが戦力増強のため、いくたの犠牲を払ったをや、内地在留のかれらが、軍需生産部門に厖大な労働力を提供したことについて、われらは感謝するものである。」と述べたうえで、「しかし終戦後の生活振りについては、率直にいって日本人の感情を不必要に刺激したものも少くなかった」と、朝鮮人の振る舞いを非難し、「これら朝鮮人の行動が、戦争中融和してきた日鮮人間の感情を[二字不明]することの生ずるのを悲しむものである。われらは残留朝鮮人が日本の[二字不明]途上の困難を理解し、これに協力することを期待してやまないものである」と結んだ(『朝日新聞』1946年7月13日付)。戦争協力への犠牲には「感謝」するが、「戦後」の振る舞いは戦時期の「融和」を台無しにする不必要なものだ、日本の「復興」に協力せよ。こう朝日の社説は説いたのである。

 この社説にはただちに朝鮮人からの反論がなされた。朝鮮建国促進青年同盟の徐鐘実は、こうした「感謝」の論理に対し、「いかにも我々が自ら日本の侵略戦争に対して犠牲を払い労力を提供し進んで戦争に協力したと彼等は称讃せんと言うのか?無反省も甚だしい見方で、全くその反対である。/我々はこれに対して日本から少しも感謝される理由を持たないと同時に次にある反面に感謝して貰いたいのである。つまり朝鮮人はかかる甚大なる犠牲を払はせられた過去をも忘却してなお日本の法律と社会秩序維持に協力し」ているのだ、と反論した(『朝日新聞』1946年7月14日付)。そして次のように『朝日』に問いかけた。

「朝鮮人がみながみな善良なりとはいわないが、終戦後日本人諸君は、我々に対して温い言葉一つ言ったか、解放された祝いの言葉一つ言ったか、政府ですら償いの言葉一つ聞かないのである。それぱかり、生活の活路一つ与えず、救済の一策たりともほどこしたであろうか? 却って既成事実の一、二を誇大に宣伝し,依然として弾圧のみであったと僕は断言する。平和日本の民主主義を代表する貴杜の意見とするならば両国の将来を憂える真の民主主義、世界平和を冀求する時、唯々寒心に堪えず、一層の理解と反省を要求する。」

 この『朝日』と徐鐘実のやりとりは、早くから山田昭次が「八・一五」後の朝鮮人・日本人の意識の落差の事例として紹介したものだが(*4)、ここではっきりしていることは『朝日』には日本の戦争を侵略戦争を認めそれを否定的に評価する認識が欠落していることである。ゆえに「大日本帝国」の戦争遂行の論理そのままに朝鮮人に「感謝」をし、同じように「融和」を壊したとして非難するのである。徐鐘実の反論はその点を突いたものだった。

 ここにみた「感謝」の論理に基づく朝鮮人への要求の封殺の事例もまた、声明のいうところの植民地化と戦争の「犠牲」を出したことへの「反省」が「原点」「初心」であったという認識の反証となるものといえる。徐が「却って既成事実の一、二を誇大に宣伝し,依然として弾圧のみであった」と指摘したとおり、むしろ「反省」どころか、それを封じるための様々な弾圧こそが「戦後」の「原点」だったのではないか。在日朝鮮人史にてらしても、以後、1947年には外国人登録令を制定し、48年から49年にかけて朝鮮学校と朝鮮人連盟をを暴力により閉鎖・解散するなど、「依然として弾圧のみ」の「戦後」こそが継続することになる。

 1950年代以降の「講和」による賠償放棄や植民地出身者への戦後補償の否定は、こうした「戦後」の「原点」から引き続く、「反省」の回避のうえに、いやそれどころか、「反省」をもとめる人々の動きを率先して叩き潰すところに成り立ったものである。声明のいうように、「反省」をした日本国民の姿に心打たれた「諸外国」の人々が、自発的に訴えを放棄し、助けた結果ではない。率先して戦犯の復権を進め、朝鮮人・台湾人を戦後補償から排除し、公然と侵略戦争と植民地支配の賛美を行った。賠償をめぐる交渉の場でも、例えば日本・フィリピン賠償交渉でも度々日本政府代表は賠償を値切ろうとして相手方を激怒させ、日韓交渉に至っては植民地近代化論を臆面もなく展開した。これらは何も極秘のことではなく、むしろ周知の事実といえよう。日本を助けたのではなく、日本に抑えこまれたのである。

 以前にも紹介したことがあるが、かつて日本史研究者の松浦玲は日中国交回復に際して次のように主張した。

「私は、いま騒がれている日中国交回復とか日中友好とかに、あまり賛成でない。それには、いろいろ理由があるのだが、それはさておき、ここで一つの提案をしておこう。もし本当に日中友好とか国交回復とか言うのであれば、日本はまず、中国を侵略した戦争の”功労”に対する叙勲をすべて取り消せ。また、中国を侵略した”功労”を含む旧軍人の階級に対して与えられている軍人恩給をとりやめろ。中国から要求されて(そんな要求はしてこないだろうが)取り消すのではなくて、自発的に取り消せ。それをやることがどんなにつらく、どんなに大変かを身にしみてわかって、はじめて、日本人の対中国観およびそれと裏腹の関係にある自国についての国家観は、幾分でも是正され、本当の意味での国交、日中友好が、少しはできるだろう。」(『日本人にとって天皇とは何であったか』辺境社、161頁)

 本当に「反省」が「原点」にあったならば、松浦のいうような行動とそれをめぐる社会的な対立は不可避であっただろう。だがその本来必要であった対立を避けておきながら、「反省」したという偽りの果実だけは手にしようとするのは、あまりに不誠実というほかない。声明はこうした「戦後」の事実を隠蔽し、国民の「反省」をたたえ、さらには、再び「諸外国」に「感謝」の言葉を発するよう促している。声明の人々は、仮にもし本当に発せられた場合、その「感謝」は誰に向かうのかを真剣に考えたほうがよいのではないか。その宛先は誰なのか、ということだ。日韓関係を例にとれば、補償を求めないでありがとう、という「感謝」の宛先は、当然ながら朝鮮民衆になりようはない。軍事力を動員して民衆の反対運動を封じ込め、日韓条約を強硬に締結した、朴正煕政権こそがその「感謝」の宛先となる。以前にも書いたように、それは要求を封じ込められた人々の神経を逆なでするものとなろう。

 先にあげた「感謝」の論理は、いずれも侵略戦争の責任を認めず、かつ責任追及を回避するためになされたものだった。「声明」が採用した「感謝」の論理もまた、これと同じ問題をはらんでいないだろうか。徐鐘実にならえば、「いかにも我々が自ら日本の侵略戦争に対する追及をやめ、進んで復興に協力したと彼等は称讃せんと言うのか?無反省も甚だしい見方で、全くその反対である。」とでもいえようか。「感謝」の論理が「戦後」の歴史において果たし続けきた否定的な役割にこそ、いま改めて注目する必要があるのではないだろうか。政治主義的な「戦後」史像を許すべきではない。


*1 吉田裕『日本人の戦争観』(岩波現代文庫、2005年)の「文庫版のためのあとがき」は、1995年版について「日本対アジアというごく一般的な枠組みの中でしか、戦争観をめぐるせめぎあいを分析できなかった」ことを反省し、日中韓で「相互のナショナリズムの衝突がみられることを考えるならば、東アジアという場を設定し、その中で、日本・中国・韓国の戦争観や「戦争の記憶」の相互連関を分析するような手法が必要となるだろう。最近出版された谷口誠『東アジア共同体』(岩波新書、2004年)は、EU(欧州連合)やNAFTA(北米自由貿易協定)とならぶ地域統合として、東アジア共同体の構築を提唱しているが、そうした構想を現実化してゆくためにも、東アジアという場の中で問題を考えるべきだと思う」(p.285-286)と記す。吉田の認識の変化は、「日本問題」としての歴史認識問題が、1990年代後半から2000年にかけて「東アジア問題」あるいは「ナショナリズム問題」へと変化していくプロセスと軌を一にするものと考えられる。この問題については、『新しい東アジアの近現代史(上・下)』(日本評論社、2012年)への批判的分析を通して論じたことがあるので(拙稿「「国境を越える歴史認識」とは何か 『新しい東アジアの近現代史』を読む」、『歴史学研究』910号、2013年10月)、参照していただきたい。

*2 敗戦直後の帝国議会における「戦争責任」論議については、粟屋憲太郎『昭和の歴史6 昭和の政党』(小学館、1988年)の「戦中から戦後へ」を参照。ここでも粟屋は次のように議会人の戦争責任問題への対応を厳しく批判している。

「議会人のなかには、敗戦責任の立場からではあるが、戦時中の議員の政治責任を理由に辞職願を提出した少数の代議士がいた(11月26日召集の第89臨時議会で、18名の辞職願が認められた。)しかし他の多くの議員たちは、議会は政党人の戦争責任の問題はうち捨てて、いち早く新党運動にとびついた。一般の国民の多くが突然の「終戦」によって虚脱状態となり、茫然自失におちいっていたのにくらべて、議会人の「戦後」への対応は驚くほど早い。しかしこの対応の早さは、議会人の政治的無節操にほかならない。かつて新体制運動で、「バスに乗り遅れるな」の合言葉とともに政党解消を競いあった政党人の状況追認・機会便乗主義が、今また再現したのである。」(p.401-402)

*3 日本敗戦直後における「感謝」の論理と、それと並行して進んだ朝鮮人運動への取締の関係については、拙著『朝鮮独立への隘路 在日朝鮮人の解放五年史』(法政大学出版局、2013年)の第一章で検討したので参照していただきたい。

*4 山田昭次「八・一五をめぐる日本人と朝鮮人の断絶」『植民地支配・戦争・戦後の責任―朝鮮・中国への視点の模索』(創史社、2005年)

(鄭栄桓)


by kscykscy | 2015-08-02 00:00 | 歴史と人民の屑箱