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批判と解剖――金明秀「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」とその後の「弁明」について(終)

 はじめに記しておくが、金明秀のツイッターでの「反論」を扱うのは、ひとまずこの記事をもって最後としたい。

 そもそも私が金のエッセイを批判したのは、「朝鮮学校の存在が日本のためになる」ことを周知させる努力をすべきだ、という在日朝鮮人運動への「提言」が、極めて危険なものであると考え、その危険性について広く警鐘を鳴らしたかったからだ。現在に至っても執筆時のこの考えは変わっていない。むしろ朝鮮学校が日本にとって「リスク」ではなく「メリット」であると主張せよ、という「提言」への批判の必要性はさらに高まったとすらいえる(関連する記事にタグ付けしてまとめておいたので、参照していただきたい)。

 しかし、金明秀の「反論」はほとんどの場合、正面からの反批判というよりもただの言い逃れに過ぎず、その多くは支離滅裂で著しく明晰さを欠き、無闇に術語を濫用するため自ら制御不能に陥っている。弁明それ自体が互いに矛盾することすらある。何より、エッセイの「趣旨」「核心」「本来の論点」の名のもとに、明らかにエッセイそれ自体から読み取れない「新説」を展開して糊塗しようとするため、エッセイをめぐる筆者本人との論争が成り立たない。

 前回の記事で、「術語のマキビシ的使用」により批判を撹乱する手法について指摘したが、無限に「趣旨」や「意図」を後出しし続けるこうした手法も撹乱術としてよくみられるものである。あるサイトでまとめられている與那覇潤の論法(「與那覇潤先生の隠されたモチーフ一覧」)などはその典型といえる。これらは「研究者」を称する者たちのツイッター遊泳術を知るうえでは興味深いともいえるが、主張の検討に先立って、不誠実な弁明の欺瞞性や「反論」それ自体の矛盾を解剖し、暴かねばならないのは端的にいって徒労である。できれば、今回をもって金のツイッターでの弁明に直接応じることは最後としたい。

 まず基本的なことを確認しておきたい。私の批判は金明秀が2011年に書いた下記のエッセイに向けられている。

金明秀「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」

 金はこのエッセイの「趣旨」について、先日下記のように再説した(強調は引用者。以下同)。

「件のエッセイの趣旨は、(1)後期近代における排除型社会では、マイノリティの存在がリスク視され、リスクを嫌う人々から何重にも排除されることがある(=前近代的な差別がリバイバルしているように見えることがある)、」

「(2)したがって、排除型社会におけるマイノリティは、差別を禁じた近代的規範を呑気に信用していては危険であり、後期近代的な状況に対応して自らリスク回避の努力をする必要がある。」

「(3)その種の生存戦略は、近代的規範に照らせば屈辱的だと映るかもしれない。だが、近代的規範の普及期には、在日一世たちは実際にその種の生存戦略をとってきたことを想起すべき。そして一世たちにならって、まずは生き延びることを重視すべき。」

「(4)その種の生存戦略において重要なことは、マイノリティの存在そのものをリスク視するような認識フレームを転換することだ。事実、各種の調査研究を参照すると、リスク視されないマイノリティはどこの国でも(差別にはさらされていても)多重排除にはさらされていない。」

「(5)例えば、「朝鮮学校は日本のためになっている」という認識が日本には(そして総連コミュニティにも)存在しないため、そこを強調することで認識フレームを転換することができるかもしれない。」

「(5')試しにブログやツイッターで「朝鮮学校は日本のためになっている」という言説を投げかけてみたところ、思想的には左右両側面から《驚いた》という反応を受ける。認識のフレームをある程度揺るがすことはできているということだ。実践する価値はある。」

「…というものだ。このエッセイの中でぼくがもっとも主張したかったことは、他でもなく(1)である。社会学を学ぶ者にとっては自明の時代認識といえるこの知見が、しかし、一般にはあまりにも共有されていない。その危機感が書かせたエッセイだといってもいい。」

 まず金のいう「もっとも主張したかったこと」の奇妙さに触れておこう。金は「エッセイの中でぼくがもっとも主張したかったことは、他でもなく(1)」だという。つまり、「後期近代における排除型社会では、マイノリティの存在がリスク視され、リスクを嫌う人々から何重にも排除されることがある(=前近代的な差別がリバイバルしているように見えることがある)」ということをあのエッセイで言いたかった、というのだ。

 だが、冒頭に掲げた金のエッセイを読んで、この弁明を信じるものなどいるだろうか。金は現代は「リスク社会」(「再帰的近代」あるいは「後期近代における排除型社会」でもよい)という認識を前提に、だからこそ、「他者」が金の推奨するような「リスク・コミュニケーション」をせねばならない、と「提言」した。前段は明らかに後段を議論するための前提である。もし金のエッセイの「もっとも主張したかったこと」が前段であるならば、普通あのような書き方はしない。エッセイを読むと、前段(前提)と後段(提言)がベックの「リスク社会」論によってつながっているように読めるが、実際には前段からただちに後段の「提言」が導かれるわけではない。だから、後段の提言だけを金の地の文として読み、それ自体を検討の俎上に載せれば充分なのである。

 ちなみに、エッセイでベックの「リスク社会」という用語がキーワードとなっているにも拘らず、今回の弁解で「後期近代における排除型社会」へと変化しているのは、ベックの誤用を指摘されたからと考えられる。

 私はかつて、そもそもベックは、いまはリスク社会だから「他者」とされた側がリスク・コミュニケーションせよ、などとは一言も書いてない、ベックはハッタリで使われているだけだから無視して構わない、と指摘した。これをうけて金は「なるほど、「ハッタリ」だという指摘は完全な誤りというわけでもない。震災直後、リスク論に世間の注目が集まっていたので、いい機会だと思って名前を借りたという側面は確かにある。また、本来の論点は「再帰的近代における他者論」なので、ベックよりもさらに適切な研究者はいる。」「でもね、「再帰的近代(あるいはリスク社会あるいは排除型社会)における他者」という問題設定そのものはハッタリじゃないんだよ。あなたの言うとおり、ベックはそういう趣旨では書いてないんだけど、この分野ではむしろオーソドックスな問題設定なんだ。」と弁解した。

 この「本来の論点」云々の弁明がなされた時点で、やりとりを打ち切るべきだったと今では思っている。私は金明秀流の「リスク・コミュニケーション」を促す提言に、関係のないベックを使って飾り立てたことを「ハッタリ」だと指摘した。しかし、金は、私があたかも「再帰的近代(あるいはリスク社会あるいは排除型社会)における他者」という問題設定」を「ハッタリ」だといっているかのように歪曲し(「なるほど、「ハッタリ」だという指摘は完全な誤りというわけでもない」としているにも拘らず)、しかも自らがキーワードとして用いた「リスク社会」をさっさと捨ててしまった。こうした議論のすりかえが行われる時点で、もはや議論は成立することは困難であると気付くべきだった。いずれにしても、これ以降金は、私への反論にあたって、エッセイでキーワードとして用いた「リスク社会」という用語を避けるようになる。

 さらに驚くべきことに、今回金は次のように「反批判」するに至った。

「二つ目の論点は、後期近代における排除型社会の問題について。鄭栄桓は「再三説明した」と主張しているが、論拠はいつもベックを頼りにした薄弱なもの。しかもリスク社会における「他者」という問題設定そのものがハッタリであると述べているのではない、などと後出しじゃんけん並みの言い訳が苦しい。」

「後期近代において、マイノリティが多重に排除される傾向があるということについては、多数の論者が指摘していることであって、むしろベックは例外的にそれを認めない学者だ。ぼくがそれを引き合いに出したことを責められるならば仕方がないが、問題の重要性自体を等閑視されては困る。」

「件のエッセイの核心は、次の二つのツイート(とりわけ1)にある。
(1) http://twitter.com/han_org/status/487014320794923008 …
(2) http://twitter.com/han_org/status/487015286424338432 …
にもかかわらず、鄭栄桓は一貫してその論点を理解しそこなっている。反論するなら、この2点について反論すべき。」

 ついにベックは「マイノリティが多重に排除される傾向」を「例外的に」「認めない学者」になってしまった。

 しつこいようだがもう一度確認しておく。金はエッセイでベックの「リスク社会」という概念を一つの手がかりに自説を展開した。これに対し私はベックの誤用であると批判した。すると金は、エッセイで本当に依拠したのはベックではないと弁解し、しかも今回、私が「マイノリティが多重に排除される傾向」を「例外的に」「認めない」ベックを頼りにした「薄弱な」批判を金に向けていると言い出したのである(ちなみに、私がなぜ金のベックの援用が「ハッタリ」だと考えたかは批判の初期の段階から説明している)。

 さらに、金は次のようにも書いている。

「おそらく、現時点で鄭栄桓はこの論点に反論できるほどの材料を持ち合わせていないのであろう。専門性からいって、それもしかたなかろう。だが、もしそうであれば、学者としてとるべき態度は、批判よりも前に質問をすることだとぼくは思う。」

 ベックを論拠にしたエッセイへのベックに即した批判に対し、お前はベックしか頼りにしてないではないかと「反論」されては、もうお手上げである。しかも、それが私の無知の責任であるとされている。他にも近代的規範の普及期には、在日一世たちは実際にその種の生存戦略をとってきたことを想起すべき」などと指摘しており(もちろんその論拠はあげられていない)、もはや当初の現代社会固有の特質に合わせた(新しい)リスク戦略の提唱とは全く関係のない話になってしまっている。全く支離滅裂というほかない。

 次に移ろう。今回の投稿で、金はエッセイの「核心」が上の「趣旨」の(1)と(2)である、と書いている。「もっとも主張したかったこと」は(1)だったと思うのだが、まあよい。(2)を再掲しよう。

「(2)したがって、排除型社会におけるマイノリティは、差別を禁じた近代的規範を呑気に信用していては危険であり、後期近代的な状況に対応して自らリスク回避の努力をする必要がある。」

 これがエッセイの「核心」だというのだ。だが、もしエッセイにこの通りのことが書かれていたならば、私はわざわざ批判などは書かなかっただろう。気になる点がないわけではないが(権利を要求する運動を展開することと「差別を禁じた近代的規範を呑気に信用」することは全く別のことだ)、特に気にかけずに読み捨てたと思う。

 だが、エッセイには、これよりもはるかに多くのことが書かれているのだ(もちろん量的に多いという意味ではない)。金は単に「リスク回避の努力をする必要がある」というに留まらず、その具体的な「リスク・コミュニケーション」の提言として、朝鮮学校が日本社会にとって「メリット」であると積極的に主張せよ、と書いた。しかも、場合によっては「朝鮮学校は日本の国益につながっている」とも「反論」せよと主張したのである。単に「リスク回避の努力をする必要がある」と述べただけではない。

 このように、金のあげた(1)も(2)も、エッセイからは遠く離れた全くの「新説」である。しかも金は、この(2)について改めて以下のよう主張を展開した。

「三点目の論点。鄭栄桓はたった一度であっても「朝鮮学校は日本の国益につながっている」などというレトリックを用いるべきではない、という。ところが、現在の朝鮮学校は(「日本の国益」という言葉は使わないまでも)日本社会に寄与することを教育理念にすえている。」

「鄭栄桓は「マジョリティに独占的な解釈権がある」ことを上述の主張の理由に挙げているが、マイノリティは多かれ少なかれあらゆる主張の解釈権をマジョリティに握られている以上、何も主張すべきでないと言っているも同然である。あまりにもナンセンスな根拠で、朝鮮学校の実践を貶めていることになる。」

「だが、鄭栄桓からは現状維持以外の主張が何一つ聞かれない。それどころか、実際に採用されている生存戦略のひとつを「一度であっても…用いるべきでない」という。いったい、どうしろというのか。座して死を待てというつもりか。」

 この弁明に至ってはもう呆れるほかない。まさしくただの詭弁である。朝鮮学校は「日本社会に寄与することを教育理念にすえている」、それなのに鄭は「朝鮮学校は日本の国益につながっている」というレトリックを用いるなという、鄭は「実際に採用されている」生存戦略を否定し、「朝鮮学校の実践を貶めている」……これで何がしかの反論になりうると本気で考えているのだろうか。

 朝鮮学校が本当に「日本社会に寄与することを教育理念にすえている」かどうかはひとまずここでは措こう。「日本社会に寄与することを教育理念にすえている」と「日本の国益につながっている」ことは、全く同じではないからだ。金はこれらを置き換え可能なものであるかのように書いているが、両者を近しいものと考えているのだろうか。だとすれば、驚くべきことである。「あまりにもナンセンスな根拠で、朝鮮学校の実践を貶めている」のは金の方である。

 そもそも金は「「朝鮮学校は日本のためになっている」という認識が日本には(そして総連コミュニティにも)存在しないため、そこを強調することで認識フレームを転換することができるかもしれない」と考えてエッセイを書いたのではなかったのか。それが「実際に採用されている」なら、なぜ金はあのようなエッセイを書いたのだろうか。

 また、「日本社会に寄与することを教育理念にすえている」ことと、無償化除外を批判する際に、「朝鮮学校は日本の国益につながっている」と「反論」することは、全く異なる次元に属する別の問題である。もし仮に、朝鮮学校が文科省や自治体への「反論」としてではなく、自らの教育理念として「朝鮮学校は日本の国益につながっている」などということを据えているならば、なおさら私としては批判の声を高めなければならないと考える(流石に現状はそんな馬鹿げたことを「教育理念」にしている学校は存在しない)。そもそも金のエッセイへの批判を書いたのは、そのような事態を避けるためだったからだ。

 「朝鮮学校の存在が日本社会のメリットとなる」とか、「朝鮮学校は日本の国益につながっている」といった主張をした場合、いうまでもなく、朝鮮学校が「メリット」かどうか、「日本の国益につなっている」かどうかを判断するのは、「日本社会」あるいは「日本」の側にいる者である。マジョリティに「独占的解釈権」がある、と書いたのはそのような文脈においてである。実際に圧倒的に非対称な力関係のもとにいるにもかかわらず、わざわざマイノリティの側がマジョリティの土俵に乗って勝負をすることが馬鹿げていることは自明であろう。金の「提言」こそが、こうした非対称な力関係を前提とした、ただの現状維持の要求なのである。在日朝鮮人は常日頃そのような馬鹿げた土俵に乗ることを強要されている。だからこそ、権利や歴史的責任といった普遍的理念に依拠することが、重要なのだ。

(追記 7/14)

 金明秀がまた新しいエッセイの「趣旨」と「メッセージ」を開陳しているので以下に記録しておく。ちなみに「最後っ屁」というのは上の記事、「人格攻撃を繰り返す輩」は私を指す。「目標を達成するのに「この道じゃなきゃダメだ」と強弁する輩」も私を指すと思われるが、私は、金明秀の道がだめだ、といってるだけであって、「この道じゃなきゃダメだ」などとは書いていない。いずれにしても、金は「みんな」に読んでもらいたいようなので、ご一読いただいたうえで各自がその是非を判断していただきたい。それにしても「建国時のゲリラ戦を思い出せ」といわれても、私たちは日本にとってのメリットです!とか、私たちは日本の国益とつながっています!と主張して「ゲリラ戦」を闘った朝鮮人などどこにいたのだろうか。「建国大学の親日派を思い出せ」の間違いではないのか。

「この最後っ屁の中にはいくつも突っ込みどころがあるけど、とりあえず一番最後のところね、「わざわざマイノリティの側がマジョリティの土俵に乗って勝負をすることが馬鹿げていることは自明であろう」という部分。そんなの当たり前の話だ。ぼくはハナからそんな主張はしていない。」

「マジョリティの偏見のゲームに乗っかってしまうのは、マイノリティの抵抗の戦略としてはけっして最善ではない。 http://togetter.com/li/141916 そんな次元の話だと思い込んで人格攻撃を繰り返す輩を生じさせてしまったのは、まあぼくの書き方にも足りないところがあったんだろう。」

あえていうなら、「土俵に乗っかるフリして引っ掻き回すぐらいのゲリラ的戦略が必要」というのがあのエッセイの趣旨だった。繰り返しになるが、特定のイデオロギーに毒されていない人たちからは、おおむね正確に理解していただいていると理解している。」

「逆に言うと、あのエッセイは全般的に好意的に受け止めていただいたが、ごく一部に非常に強硬に反発する人がいた。そろって、伝統的なナショナリストだ。後期近代の議論を理解できる素地がないうえ、ナショナリズムを重視する立場に対して重大な挑戦を受けたとでも感じられるのだろう。」

あのエッセイには、ナショナリズムに固執する者たちに対して、「建国時のゲリラ戦を思い出せ」と示唆するメッセージをこめた。今はそれだけ厳しい時代だと。国家に依存してやっていける時代ではなくなったぞと。それを理解できないのは、ナショナリストとしても問題があるんじゃないのかな。」

「何かを実現するためにはたくさんの道がある。みんなが使っているけど古くなってほころびが出ている道もあれば、険しくて誰もが通れるわけじゃないけど最短距離で近づけるような道もある。どれかひとつの道が優れているわけではなく、道の数が多ければ多いほど、トータルとしてゴールの実現は近くなる。」

目標を達成するのに「この道じゃなきゃダメだ」と強弁する輩がいる。それは、目標を達成することそのものよりも、目標への到達手段のほうを重視するイデオローグだ。目標よりも手段を重視するイデオローグは、そのとき耳に心地よい正義を語ろうとも、いつかきっとみんなの前に立ちはだかることになる。」

(鄭栄桓)

by kscykscy | 2014-07-13 00:00 | 歴史と人民の屑箱

金明秀の「術語のマキビシ的使用」について

 金明秀のツイッターに私への「反論」が掲載された。今回の金の批判の趣旨は、私の批判は詭弁である、というところにあるようだ。金の人柄がとてもよくあらわれた「反論」なので、以下に検討してみたい(強調は引用者。以下同)。

「天邪鬼みたいな輩に都合よく切り出されて利用されるようだと、やっぱり鄭栄桓にもちゃんと反論する必要があるのかな。でも、あれは批判もずれているうえに、自分が書いた文章に自分で解説するような作業を伴うので、どうもやる気が出ないんだよね。ブログに書くと大手サイトに転載されるのも面倒だし。」

「このエッセイは、いくつかの朝鮮学校で好意的に読んでいただいているとの話を伺っている。たいへんありがたいことだ。 / リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題 http://han.org/blog/2011/07/post-154.html …」

「ただし、ロジックの一部に、「朝鮮学校は日本のためになっている」という命題を含んでいるので、「日本の役に立たないなら朝鮮学校は存在してはならないということか!」と怒鳴り込んでくる人がいる。それについて、反論を書いておきたい。」

かりに「AはBである」が真でも、その裏「AでないならBでない」が真だとはかぎらない。中学生でも知っていることだけど、しばしば人はこうした発想にとらわれる。「前件否定の虚偽」といって、よく知られた論理の誤りだ。詭弁の手法の一つでもある。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A9%AD%E5%BC%81#.E5.89.8D.E4.BB.B6.E5.90.A6.E5.AE.9A.E3.81.AE.E8.99.9A.E5.81.BD_.28denying_the_antecedent.29 …」

「裏の命題「AでないならBでない」が常に偽だというわけではないので、もし裏の命題がなんらかのリスクを含んでいるなら批判の対象にはなりうる。だが、それはあくまで、「『AならばB』という命題が『AでないならBでない』という誤解を生じるようだといけない」という趣旨でなければならない。」

「言い換えると、「朝鮮学校は日本のためになっている」(AはBである)という命題に対して、「日本の役に立たないなら朝鮮学校は存在してはならないということか!」(AでないならBでないというのか!)と反論するのは、典型的な前件否定の虚偽ないし詭弁だということだ。

「何の話かというと、これのことだ。 http://kscykscy.exblog.jp/18212443/
あまりにも自明の誤謬なので、武士の情けというか、なんとなくバカバカしくてこれまで前向きに反論する気にならなかったのだけど、名誉毀損として作用することがあるようなので、書き留めておく。」

「鄭栄桓に対する反論終了。以下は、落穂ひろい的に前述のエッセイをめぐる論点を列挙していこう。」

 まず内容以前の問題として、金は「前件否定」を誤って用いている。確かに「かりに「AはBである」が真でも、その裏「AでないならBでない」が真だとはかぎらない」。だが、少なくともこれだけでは「前件否定の誤謬」にはあたらない(金が貼り付けているwikipediaの解説を見よ)。ただ「逆は必ずしも真ならず」というだけである。

 しかも、金が持ち出す具体例は「AでないならBでない」にすらなっていない。「朝鮮学校は日本のためになっている[日本のためになる学校である]」(AはBである)という命題の裏は、「朝鮮学校でないなら、日本のためにならない[日本のためになる学校ではない]」(AでないならBでない)である。どうこねくりまわしても、「「日本の役に立たないなら朝鮮学校は存在してはならないということか!」(AでないならBでないというのか!)」にはならない。そもそも「朝鮮学校は存在してはならない」は当為の言明なのであるから、「AでないならBでない」という命題の具体例になるはずがない。しかもAとBの対応関係すら合っていない。詭弁だと主張したいのならば、せめて自説の説明くらいはまともにしたらどうだろうか。

 また、金は私が「日本の役に立たないなら朝鮮学校は存在してはならないということか!」と批判したかのように書いているが、私はこのような文を書いていない。つまりこれは金の「要約」であるが、具体的にどの箇所を指しているのかすら明らかではない。大して長い文章ではないのだから、正確に引用して適宜反批判すればよいだろう。これでは議論になどなりようがない。

 「詭弁」について、もう一つあげておこう。

「「AにはBが含まれる」とか、「Aには例えばBがある」のように、「あるBはAである」と叙述する文章を「特称命題」という。それに対して、「AとはBのことだ」とか、「Aは常にBだ」のように、「すべてのBはAである」と叙述する文章を「全称命題」という。」

「特称命題(ある犬は逆立ちをする)から、全称命題(すべての犬は逆立ちをする)へと飛躍することを、「早まった一般化」という。これはとてもよく知られた論理の誤りであり、また、詭弁の作法の一つでもある。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A9%AD%E5%BC%81#.E6.97.A9.E3.81.BE.E3.81.A3.E3.81.9F.E4.B8.80.E8.88.AC.E5.8C.96_.28hasty_generalization.29 …」

「ぼくはエッセイの中で、認識のフレームを転換するような運動の一つとしてある提案を行った。例示したものである以上、特称命題だ。「認識のフレームを転換する運動(A)に、ある提案(B)は含まれる」。よって、そこから「金明秀はある提案(B)がすべてだと主張している」と読み取れば誤り。」

「ここで「ある提案(B)」といっているのは、前述の(5)のこと。ぼくは(4)を主張するために、その具体例として(5)を提案したわけだ。言い換えると、(5)の他にも(4)を実践するための手法は無数にありうる。ぼくが提案したのはあくまで一例だ。」

「ただ、エッセイの中では、「あくまで一例にすぎない」とまではハッキリ断ってはいなかったので、鄭栄桓から最初に批判を受けたときはむしろありがたいとすら思った。特称命題を全称命題だと誤読させる危険性を減らしてくれた、と考えたからだ。」

「しかし、当の鄭栄桓が、ぼくが全称命題を述べたと勘違いをして、執拗に人格攻撃を繰り返すに至っては、正直げんなりしている。以上、二つ目の落穂ひろい的論点。」

「なんかもう、本当にくだらない。ぼくはなんでこんなことを書いてるんだろう。」

 おそらく必要だから書いているのであろう。さて、ここでの全称命題/特称命題云々は無視してよい。金の主張を「翻訳」すると以下のようになる。

 エッセイで自分は「「認識のフレームを転換する」「リスク・コミュニケーション」の一例として「朝鮮学校は日本の国益につながっている」と主張してみるとよい、といっただけである。「朝鮮学校は日本の国益につながっている」という主張だけが有効だなどとはいっていない。それなのに鄭は自分がそう主張したと解釈し非難する。詭弁による人格攻撃だ。

 ただこれだけの主張である。わざわざ全称命題/特称命題などという術語を用いる必要は全くない。

 もちろん私はこのようなことを主張してはない。私は金が「リスク・コミュニケーション」の一例として、「反日教育をしている朝鮮学校に日本国民の税金を支出するなど国益につながらない」と主張するものに対し、「朝鮮学校は日本の国益につながっている」と反論をしてみよ、と提案したことを批判したのである。前者のような主張に対し、「朝鮮学校は日本の国益につながっている」と常に反論せよ、と金が主張したとは考えていない。以下に引用しよう。

「ただ、「朝鮮学校は日本の国益につながっている」というレトリックはおそらく「有効」ですらない。金明秀氏は「有効な打撃」を与えうると主張しているが、実際にはむしろ逆の効果しか生まないことは明らかだ。そもそも、「日本の国益」という言葉は、その性質上日本政府あるいは日本人マジョリティに独占的な解釈権がある。一度「朝鮮学校は日本の国益につながっている」などというレトリックを用いたが最後、今般の情勢をみればわかるように、政府や自治体、マスコミ、右翼、ネットイナゴが朝鮮学校に押し寄せて「日本の国益」に反する「事実」を無限に挙げ続けるだろう。これに反論するのは困難である。何より金明秀氏自身が認めているように、「この種のデマは事実に基づいて形成されるのでなく、情動的側面が強いため、反証する事実を示すだけでは修正されにくい。しかも、「反日教育」というあいまいで都合のよいマジックワードが、あらゆる反論を無効化してしまう」からである。よって有効ですらない。」(金明秀「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」批判

 ここに明確に記しているように、私は当初より、たった一度であっても「朝鮮学校は日本の国益につながっている」などというレトリックを用いるべきではない、それが及ぼす損害の大きさは計り知れない、と書いている。「一例」であってもダメだ、というのが私の批判の要点である。そもそも、仮に金の要約したとおりに私が批判したとして、なぜそれが「人格批判」になるのだろうか。全く理解できない。

 これで、私が詭弁により非難しているという金の主張が全く成り立たないことは明らかになったと思う。他に金は「リスク社会」云々についてもつぶやいているが、これについては再三説明したので、さしあたりは以下の文章を読んで欲しい(*1)。気が向けば追加の反論をする。

*参考
「問題は「学問分野が異なる」(金明秀)ことなどではない」

 以前の記事でも書いたことだが、この間の無償化及び補助金問題の推移は、金の推奨するような「リスク・コミュニケーション」(朝鮮学校が日本のリスクではなくメリットだと主張せよ)がほとんど何の役にも立たなかったことを証明したと思う。大阪朝高ラグビー部を描いたドキュメンタリー映画『60万回のトライ』には、橋下府知事(当時)が、大阪代表となった選手たちを褒め称えながら、同時に補助金カットをあけすけに肯定する場面があるが、これは非常に象徴的なシーンだった。ラグビーで全国大会にでようが、それとこれとは別、なのである。むしろ橋下ならば、大阪朝高ラグビー部の「メリット」をより伸ばすために、「不法な国家」との関係を断ち切らせて補助金をカットするとすら平然と言い放つであろう。繰返し書いてきたことだが、金の方こそ現状認識が甘いのである。

 ブログ「lmnopqrstuの日記」の「金明秀「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」について」という記事は、金のこうした「リスク認識」の甘さについて、次のように的確に指摘している。

「ここからが本題である。引用文中の非合理的な言表を「ひとまず引き受け」という点に注目しよう。「ひとまず引き受け」ようということは<ひとまず肯定しよう>ということに等しい。だが当該言表を肯定するということは、行為遂行的には、被害をうける者自身がわざわざ、当該言表行為を遂行する主体に対して、(その行為遂行主体が)当該言表行為遂行の権利を所有していることを肯定(=承認)することを意味する。

だから「「あなたたちの役に立っているのでいじめないでください」とでもいわんばかりのリスク・コミュニケーション戦略」は、戦略としてのいわばメタ論理性が押しつぶされて、実態としては、次のようなコミュニケーションに帰結すると考えられる。

<あなたたちに一方的にいじめられるという役割の他にも役に立っている面があるんです。だからあまりいじめ過ぎないでください。他の役割がこなせなくなりますから。>

非合理な言表を行う権利が(被害をうける者自身からわざわざ)相手に付与されていて、かつ(被害をうける者が)「ひとまず引き受け」た役割の解除が客観的に保障されていない以上、このようなコミュニケーションになるのは目に見えている。「あなたたちの役に立っているのでいじめないでください。」「ほんとだ。役に立ってるんだね。もういじめるのやめるね❤」となるわけないだろう。

要するに金明秀氏は、実際のコミュニケーションにおいては、相手の言表内容に対する肯定と相手の言表行為に対する肯定の区別を都合よく維持しうるような、メタ論理(=戦略)的肯定の立場など保障されていないということ自体がわかっていない(あるいはこの問題のリスクを著しく過小評価している)。大学の講義では壇上(メタ論理)から学生の理性(論理)に訴えて「多数派を説得」できるかもしれない。だが社会はそういう風にできていない。<それは間違っている>と言わないで「ひとまず引き受け」てどうするのか。「ひとまず引き受け」たら最後二度とおりられないのがいじめの現実だと認識する方が、はるかに合理的なリスク認識というべきである。

 金の「反論」を読むと、その議論の杜撰さもさることながら、議論の文脈上全く用いる必要がない「前件否定」「全称命題/特称命題」などの術語をあえて用いて、ことさらに私が「馬鹿」であるかのように印象付けようとする(「中学生でも知っていることだけど」!)その「手法」の幼稚さに脱力せざるをえない。こうした手法、すなわち、概念や術語を煙幕やマキビシのように利用し、議論を混乱させて批判者を煙に巻き、自らの退路を確保する手法(ツイッターに棲息する「学者」「研究者」に多く見られるようだ)を、さしあたり「術語のマキビシ的使用」と呼んでおこう。「研究者」である以上、こうした振る舞いは絶対に避けるべきであると私は考えるが、金の今回の「反論」は、この「マキビシ的使用」の典型であった。しかも、その術語すらまともに使いこなせていないのであるから議論になりようがない。

(追記 7/12)

 上に書いた、金の「詭弁」批判の誤りについては、ツイッター上でも指摘があったようだ。

「@han_org 「朝鮮学校は日本のためになっている」を(AはBである)として、「日本の役に立たないなら朝鮮学校は存在してはならないということか!」は(AでないならBでない)ではなく(BでないならAでない)に対応するのではないでしょうか…?」

「.@chol_0725 あっ、本当だ。指摘すべきは前件否定の虚偽じゃなくて、必要条件と十分条件の取り違えのほうだった。うわー、これはかっこわるい。」

「このツイート http://twitter.com/han_org/status/487010626057670656 … に対して、前件否認の虚偽には当たらないのでは、というご指摘をいただいた。ご指摘の通りでした。恥じ入るばかり。訂正の上、書き直しておきたい。」

 ここで指摘されていることは、AとBの対応関係が逆になっているのではないか、ということであり、「前件否認の虚偽には当たらないのでは」などとは一言もいわれていないのだが、いずれにしても金は自らのあげた例が「前件否定の虚偽」とは異なることに気づいたようだ。以下は指摘を受けての金の訂正である。

「正しくは、前件否認の虚偽ではなく、「AはBの部分集合である(BはAを含む)」という命題が真のとき、「AでなければBでない」という結論を得るのは誤り、という問題でした。」

「「人間は男を含む」という命題から「男でなければ人間でない」という結論を導くのは誤り。同様に、「朝鮮学校は日本のためになっている」を「日本のためにならないなら朝鮮学校ではない」と読むのは誤り。以上。」

 またもや対応関係を取り違えているため、命題の真偽まで誤っている。

 仮に「朝鮮学校は、日本のためになる学校の部分集合である」(AはBの部分集合である)という命題が成り立つとして、「AでなければBでない」に対応する具体例は、金のあげた例ではなく、「朝鮮学校でなければ、日本のためになる学校ではない」(AでなければBでない)となる。この命題の真偽は、AがBの真部分集合であるかによるので、金のいうように直ちに誤りとはいえないが、それはひとまず措こう。

 問題は、金のあげる具体例がそもそも「AでなければBでない」ではないということだ。金があげた「日本のためにならないなら[日本のためにならない学校は]朝鮮学校ではない」は、「BでなければAでない」の具体例である。そして、もしAがBの部分集合であるならば、この命題は真である。部分集合とは、ここでの例に即していえば「集合 A の要素がすべて集合 Bの要素になっている」ことを指す。朝鮮学校(A)が、日本のためになる学校(B)の部分集合である、という命題が成り立つならば、当然に、日本のためにならない学校は、朝鮮学校ではない(BでなければAでない)という命題も成り立つ。曖昧な理解のままで術語を濫用するためこうした混乱が起きるのである。

 ただ、金の主張の問題点を考えるうえで、この誤りは色々と示唆に富む。それについては機会があれば記したい。

*1 ただ、ひとつだけ発見があったので注記しておきたい。かつて金は、私の批判(「朝鮮学校は日本の国益につながっている」と反論することは誤っており有効ではない)に対し、自分の主張には「傍証ぐらいはあります」とか、「多数のエビデンスを前提としている」と反論したことがある。その「エビデンス」なるものは結局示されなかったが、今回のつぶやきで、どうやらその「エビデンス」なるものは、「試しにブログやツイッターで「朝鮮学校は日本のためになっている」という言説を投げかけてみたところ、思想的には左右両側面から《驚いた》という反応を受け」た、というものだったことがわかった。全く馬鹿げている。

(鄭栄桓)

by kscykscy | 2014-07-11 00:00 | 歴史と人民の屑箱