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悪い朝鮮人だけ殺せ?――民族差別・民族教育弾圧批判

 在特会が2013年2月に掲げて有名になった「良い韓国人も悪い韓国人もどちらも殺せ」というプラカードがある。言うまでもなくこのプラカードは朝鮮民族全体の殺害を煽動する最悪のレイシズムの表現であり、反対するのは当然である。だが、これに憤る人びとは一体この文句のどの箇所を問題だと考えているのだろうかについて、ある疑念があった。もしかしたらこの人びとは「良い韓国人」まで「殺せ」と言ったことに対し、激しく憤っているのではないか、「悪い朝鮮人だけ殺せ!」こそが正しいのだと考えているのではないか、という疑念である。

 このプラカードは意識的に書かれていたように思う。「良い韓国人/悪い韓国人」を分けて後者への差別を肯定しながら、自らだけは救われようとする哀れな「戦略」を採る人びと――「北朝鮮」が差別されるのは当然だが、自分たちは違う、「北朝鮮」に制裁を加えるのは賛成だが、民族差別はいけないと弁明する人びとを嘲笑するようなメッセージだ。もちろん在特会は完全なるレイシストであるから、そんな弁明などはお構いなしである。こうした「戦略」をあえてあざ笑うために「良い韓国人も悪い韓国人もどちらも殺せ」というプラカードを掲げたのではないかと私は考えていた。

 いうまでもなく、こうした「戦略」を採った民族団体の典型は民団である。以前に『民団新聞』の論説を取り上げたこと があったが、ここであらためて民団自体が無償化問題にどのような態度を採ってきたかを振り返っておく必要がある。

 民団はこれまで二度、朝鮮高校生への「無償化」適用に事実上反対する意思を日本政府に伝えている。一度目は2010年9月の「朝鮮高校に対する授業料無償化についての意見書」 である。この意見書は、無償化は「原則的に適用されるべき」と主張しながらも、「そのためには、次の点について朝鮮学校の検証と改善がなされなければならない」として三つの条件をつけた。(1)朝鮮学校の「人事権及び学校経営権」から朝鮮総連を分離すること、(2)「金日成、金正日父子の崇拝教育」をはじめとする「思想教育」をやめること、(3)朝鮮戦争やラングーン事件、大韓航空機事件と拉致問題に関する教育内容を是正すること、である。

 意見書は無償化について「原則的に適用されるべき」としているため、一見すると民団は条件付き賛成の立場のようにみえる。だが問題はそう単純ではない。実はこの意見書が提出される直前の2010年8月31日には、文科省の「高等学校等就学支援金の支給に関する検討会議」(5月26日設置)が、「高等学校の課程に類する課程を置く外国人学校の指定に関する基準」を発表していた。検討会議は、無償化の基準を客観的に専修学校と同等の教育条件を備えているかで判断するとし、「外国人学校の指定については、外交上の配慮などにより判断すべきものではなく、教育上の観点から客観的に判断すべきものである」とする政府統一見解を明記した。つまり教育内容にかかわらず無償化の適用について判断する、という基準が示されたのである。

 民団の意見書は明らかにこの指定基準を修正させるために出されたものだ。検討会議が個別教育内容の判断によらないという方向へ傾いたのを押し戻し、教育内容を問題化させて無償化の適用から排除させようとしたのである。無償化に「事実上反対する意見書」だと評したのはこのためである。さらにこの意見書は末尾で「大阪府をはじめとして幾つかの自治体でも、朝鮮学校の内部の透明化を求める動きが出ております。各都道府県としても、同様な取り組みがあってしかるべきと考えます」とも述べて、当時橋下知事のもとで進んでいた朝鮮学校への介入を高く評価したうえで、「総連をはじめ一部人士の「無償化は民族教育の保障」という主張はあてはまらないことは明白であり、個人崇拝、思想教育はやめさせなければなりません」と、現行のままでの無償化排除は決して民族差別ではない、と主張したのである。

 二度目は2012年2月13日の民団団長による文科大臣への申し入れ である。この申し入れでは、無償化適用に「慎重を期する必要がある」として先の意見書よりもさらに排除のトーンを強め、その理由として「朝鮮高校は運営面においても教科内容の面においても、また教育全般面においても朝鮮総連の指導を通じ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の完全なコントロール下にあり、日本社会一般の常識をはるかに越えるような教育、指導が現在も変わらず行われてい」ることをあげた。また、念入りに「仮に就学支援金の支給対象に含めることになる場合には、教育内容と運営の全般的において文部科学省から特段の指導を講じることを条件に付するべきであると考えます」と、とにかく教育内容と運営に行政が介入するよう求めている。

 結局これらの要望がかない無償化については依然として朝鮮高校生は排除されたままであるが、民団の徹底した朝鮮学校の教育内容や運営への介入要求についても、神奈川などの自治体レベルでの教科書記述の修正要求(「神奈川モデル」 )にみられるように、全国的に実現しつつあると言ってよい。こうした経過をみれば、大阪などの極右首長の自治体や執拗に補助金の削減を訴えてきた「救う会」や在特会に加え、民団もまた教育内容への介入という形態の弾圧の推進者であったことは明白である。

 しかも民団は、もし文科省が朝鮮高校生を無償化適用から外したとしてもそれは民族差別にはあたらないと繰返し主張した。他でもない在日朝鮮人から「民族差別ではない」とのお墨付きが得られるのだから、文科省としてはこれ以上の援軍はない。こればかりは極右首長や救う会、在特会がいくら頑張ってもできない。「当事者」ではないからである。そうした意味では、民団の果たした負の役割は極めて大きく、朝鮮学校のみならず在日外国人全般の権利状況を引き下げるのに大いに貢献したといえる。

 こうした民団の「戦略」は弾圧を正当化し民族分断を加速させる悪質なものであると同時に、極めて愚かな振る舞いでもある。いま各地でなされている朝鮮学校の教育内容への干渉は決して朝鮮民主主義人民共和国に関連するものに限られてはいない。民主党政権下においては無償化適用を阻止するためもあり、自民党や橋下なども総連との関係に焦点を絞って攻撃していた。だが自治体によっては朝鮮近代史教育全般に干渉するケースがあらわれており、安倍政権が成立してからはこうした動きはさらに拡がりを見せている。

 二つの事例をあげよう。埼玉県の上田知事は2012年6月22日の県議会で、朝鮮学校の教科書について「日本が日韓併合条約を捏造したとか、戦後、在日朝鮮人の帰国について必要な対策を講じなかったとあるが、いずれも事実に反する。拉致問題も記載していない」と発言した(『産経新聞』2012年6月22日付web版、強調引用者)。上田知事は「全部断ち切ると、子供たちが反日教育だけを受ける可能性がある」「在日の人が日本社会で共生できるように、きちっとした教育をしてもらいたい。それを見極めるために要請、指導をして判断をする」とも述べている(同上)。ここで問題とされている「教育内容」は、決して拉致問題にとどまることなく、「併合条約」の不法性や朝鮮人の帰国に関する記述にまで及んでいるのである。

 また、今年3月25日、四日市市議会が四日市朝鮮初中級学校への補助金を可決した際、議会は同校が拉致問題や領土問題についての教育内容を改善したことを確認することを条件とした(『朝日』2014年03 月26日・朝刊、3社会)。ここでの「領土問題」とは、「竹島」について日本政府が領有権を主張している事実を教えることを指す。実はこれでも相当にトーンが弱まっており、この日の議会では、1.拉致の首謀者が誰か、国家ぐるみの犯罪であったこと、2.竹島は日本固有の領土であること、3.正しい歴史教育をきちんと教育内容として実践をしていること、を確認したうえでないと補助金は出すべきではない旨の修正動議が出されていた(否決)。(四日市市議会中継の「再生リスト2」を参照)。

 そもそも2013年度の四日市市による補助金は、民主党の諸岡覚議員の修正動議が可決されて全額削減されていたのだが、その際の諸岡の排除の理由付けも「本来、母国北朝鮮が賄うべき民族教育の予算を本市が肩がわりすることは間接的な経済支援であり、これは国連決議の本来趣旨からも逸脱するものである」ことに加えて、朝鮮学校の「学習の中身は、日本国政府の見解とは大きく異なる反日教育であり、我々の先人の歴史をおとしめる内容が含まれております」というものだった(四日市市議会会議録中の諸岡発言を参照)。

 これらの埼玉県や四日市市の事例からもわかるように、現在の各自治体による教育内容への干渉のレベルは朝鮮民主主義人民共和国との関係に加えて、歴史教育にまで及んでいる。いまのところは威嚇の段階で留まっているものの、韓国併合条約は合法である、「竹島」は日本の領土であるといった内容を教えることを補助金支給の条件にするというレベルまで要求の水準は上がっている。これが朝鮮学校が直面している現実なのである。これらの干渉が、東京韓国学園の教育内容にまで及ぶ可能性がないと言い切れるだろうか。「日本社会一般の常識をはるかに越えるような教育、指導が現在も変わらず行われてい」ることをもって朝鮮学校の教育内容への干渉を正当化した民団は、その時批判しうるのだろうか。民団の弾圧正当化が愚かな振る舞いであり、在日外国人全体の権利状況を引き下げるものだと考えるゆえんである。

 こうしてみると、民団が「良い韓国人も悪い韓国人もどちらも殺せ」というスローガンのどこに反発したのかがわかるだろう。2013年2月に掲げられたこのスローガンは、上に見た民団の無償化排除正当化論の展開をあざ笑うかのようなものだった。いうまでもなく民団は「良い韓国人」として振舞っていたにもかかわらず、「殺せ」といわれたのだから。冒頭で「もしかしたらこの人びとは「良い韓国人」まで「殺せ」と言ったことに対し、激しく憤っているのではないか」との疑念を持ったのは、こうした民団の振る舞いを見ていたからでもある。明らかに民団は「悪い朝鮮人だけ殺せ!」の論理に立っていた。

 自治体の極右首長や救う会、在特会は今後も朝鮮学校補助金に狙いを定めて教育内容への干渉を強めることは間違いないだろう。これらの攻撃が民族教育権への深刻な侵害であるという事実を繰り返し主張していく必要がある。民団や救う会の枠組みのなかでの「反差別」や「反ヘイトスピーチ」では、この点が全く問題化されないどころか、むしろ侵害はより一層強まっていくだろう。偶然元しばき隊の清義明という人物のツイッターを目にしたが、朝鮮学校への教育内容への干渉や補助金削減、歴史修正主義を肯定しているようであり、非常に象徴的だと感じた。おそらく朝鮮学校の関係者が最も頻繁に接触せざるをえないのはこの種の主観的には善意でありながらも、平気で「監視者」として教育内容に口出しする人間たちであろうから、繰り返しになるが、こうした言説こそが最大の問題であると強調しておきたい(この人物のツイッターは非常に典型的なのである意味いい教材になる)。こうした「反差別」界隈の体質こそがむしろ問題化されなければならないのである。

 本質的な問題は、いま行われている朝鮮学校の無償化排除がすでに明白な民族差別であるという点にある。行政による排除が韓国学園にまで及んでいるかどうかは関係ない。だがこの点は充分に理解されていないようだ。2014年4月号の『現代思想』に掲載の金泰植「朝鮮学校の現在」に次のような一文があった。

「現在の状況は「民族教育への弾圧」というよりも「朝鮮学校への弾圧」というほうが正しい。何故なら同じ「民族」である韓国学校は無償化の適用対象であり、ヘイト・スピーチの対象にはなっても、行政による差別は行われていないからだ。」(167頁)

 この記述は非常に危ういものである。金の立論によれば、韓国学校も含むあらゆる在日朝鮮人の民族教育が排除されない限り、「民族教育への弾圧」とは言い得ないことになってしまう。仮に一校だけを対象としたものであったとしても、それが民族教育を狙った弾圧なのであれば、「民族教育への弾圧」であることは明白であろう。もちろん今ある民族教育のなかで圧倒的多数を占める朝鮮学校が閉鎖に追い込まれれば、日本における朝鮮民族の学校教育は事実上壊滅するだろう。そういう意味でも朝鮮学校への攻撃は事実上民族教育全体への攻撃に等しい性格を持っている。だが重要なのはそうした比重の問題ではなく、朝鮮学校が「無償化」から排除されているという一点で、すでに民族差別であり「民族教育への弾圧」だということだ。しかも、上に述べたように現在行われている干渉は、明白に民族教育そのものに向けられているのである。こうした論法は、上述の民団や補助金停止派の「民族差別ではない」という弁明を正当化する危険性がある。

 以前に紹介した朝鮮大学校の冊子で正しく指摘されているように、「在日朝鮮人は過去日本の植民地統治と侵略戦争の犠牲者として日本にきた人びとであり、その子孫である。[中略]日本政府は、以上のような民族教育の国際的慣例からしても自国の教育方針にてらしてみても在日朝鮮人の民族教育を当然認めるべきである。/とくに、日本政府は不幸な過去の歴史的事実からみても、在日朝鮮人の民族教育の権利を保障すべき歴史的、法的、道義的責任がある」。こうした民族教育の権利は、朝鮮民主主義人民共和国の公民としての教育を受ける権利と矛盾するものではない。エスニックな教育だけが民族教育として認められるわけではなく、そこには当然ネーションとして自己を形成する教育の権利も包含されている。とりわけ、植民地支配を行い、朝鮮民族の自決権を否定してきた日本政府は、より手厚く自決権を認め、ネーションの形成のための教育を保障する義務を負っているともいえる。朝鮮民族、とりわけ在日朝鮮人の歴史的経験に即してみるならば、民族的マイノリティの権利であると同時に、民族の自決の権利という二重の権利性という次元で、民族教育権をとらえる視点が求められるのではないだろうか。

 「悪い朝鮮人だけ殺せ!」という言説を許さない実践と思想こそが必要なのだ。

(鄭栄桓)

by kscykscy | 2014-04-21 00:00 | 朝鮮学校「無償化」排除問題

「国民基金」の再来

 『聯合ニュース』の和田春樹へのインタビューに、次のようなやりとりがあった(強調は引用者)

――日本軍慰安婦に関する一般の日本人の認識はどんな状態だとみるか。
「ここにきてそれ(教育不足)が問題だ。(右翼性向の雑誌を指して)このようにいち早く週刊誌がこの問題を扱ったことは無かった。全体的に、韓国を嫌い朴大統領を憎むよう毎回朴槿恵大統領の写真を載せ、ああだこうだと攻撃している。こうした異常な状態になった。[中略]
――一般人の意識すら危険な状態になったということか。
「(右翼勢力が)そのようなキャンペーンをした一つ(の根拠)は、日本政府がアジア女性基金で謝罪し、贖罪しようと申請したのに韓国が拒絶したのが日本人としては痛いということだ。日本人はそうしたことをみな知っている。それで日本が謝罪をし、何かをしようとするとき、その成功は韓国人と日本人が互いに助け合わなければ可能ではない。日本がしようとすることがすべていいことではないから批判も必要だが、頭を下げてすまないと言おうとするときには、韓国人も日本を助けてくれねばならない。ベトナムと韓国の間にも問題があるではないか。同じことだ。これはやはり(日本が)謝罪をしなければ始まらない。

 せっかくアジア女性基金(以下、「国民基金」)をつくったのに韓国が拒否したから右翼が大量に跋扈することになった、今度日本が「何かをしようとするとき」、「韓国人も日本を助けてくれねばならない」と、和田は韓国に向かって呼びかけているのである。日本の右傾化をタテに韓国に「和解」の受け入れを迫るもので、脅しにも似た驚くべき発言といえる。ただこうした「物語」の流布は、日本軍「慰安婦」問題をめぐる「国民基金」型の「和解」モデルの再来に備えて、あらかじめ批判を無力化しておくための発言とも考えられる。

 こうした「和解」のねらいについて、最もあけすけに発言してきたのは、同じく「国民基金」を推進した大沼保昭であろう。最近、『朝日新聞』に掲載された「日本の愛国心」と題されたインタビュー(2014年4月16日付朝刊)でも、次のように語っている。

「集団的自衛権の行使について、朝日は反対、読売は賛成という論調に終始していますが、10年、50年後の日本の安全保障という共通の課題を両氏で議論してほしい。中国の軍事的暴走を抑止するため、短期的に見て日米安保体制の充実は確かに必要でしょう。しかしそれは日本が過去の戦争を反省していることを、中韓を含む世界の国々に分かってもらったうえでの話ではないか。靖国神社に参拝し、修正的な歴史観をぎらつかせながら集団的自衛権の行使を容認するのが、日本国民の安全保障に本当に資するのか。そういうことを論じ合うことが、批判合戦よりもずっと建設的ではないでしょうか」

 中韓との「和解」と「日米安保体制の充実」はセットというわけだ。大沼は「戦後日本は過去を反省し、世界の国々から高く評価される豊かで平和で安全な社会をつくり上げた。それを私たちの誇りとして描き出さず、戦前・戦中の日本に焦点を当てて、愛国か反省かの二者択一の極論を見せ続けた。その結果、いびつな愛国心が市民に広がった」とも述べており、日本のメディアが反省ばかり求めたから戦後日本への「誇り」を持てずに右傾化が進んだのだ、という認識を示している。いずれにしても、日本をなだめるためには戦後日本を認めてやることが必要だ、ということである。

 他方、中国の日本批判については「百年国恥の屈辱感の裏返しである現在の中国の攻撃的な路線が永久に続くわけではない。対立するより、諸国と共に中国の過剰な被害者意識をなだめ、卒業してもらう工夫を日本はするべき」とし、具体的には日本の「ソフトパワー」、すなわち「製造業やサービス業、医療のシステム、アニメやファッション、さらには秩序だった市民生活のルール」を使って「中国の懐に入り込み、ウインウインの関係をつくり出すべき」と説いている。ここまであからさまにパターナリスティックな姿勢を示されて受け容れる者がいるとは思えないが、大沼自身の中国認識は非常によく伝わってくる。

 和田と大沼はそれぞれ別の対象に向かって似たようなことを言っているのだが、こうした右傾化の原因を日本批判に求める言説は、昨年韓国で出版された朴裕河『帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘争』(根と葉っぱ、ソウル、2013年)にもみられる。

「90年代以降、日本と韓国の進歩が日本政府を信頼しなかったことも、自身と異なる思考を無条件「右傾化」の証拠とみようとした冷戦的思考によるものである。この間、日本も韓国も一貫して「日本の右傾化」を叫んできたが、以後の日本ではむしろ敗戦後最初の進歩政権がはじまり、こうした批判が必ずしも正しい批判ではなかったことが証明されもした。そしてそれから三年後に再び保守政権がはじまったことには、2011年8月の大統領の独島訪問をはじめ韓国との葛藤が影響を与えた面も無くはない。いわば韓日間の連帯は政治においても効果的ではなかった。むしろこの過程で進歩左派の連帯運動は結果的には20年前よりもより多くの慰安婦問題に反発する人びとを作り出した。慰安婦問題解決運動を通して「日本社会を改革」しようとする左派運動方式が決して効果的ではなかったことが証明されたわけである。」(305頁)

 日本と韓国の「進歩」が「国民基金」を提案した日本政府を信頼せずに「右傾化」とばかり批判し続けた結果、「慰安婦」問題に反発する人びとを大量に生み出したというわけだ。この『帝国の慰安婦』は前著の『和解のために』よりもさらに踏み込んだ叙述のオンパレードで、読んでいて驚かされることしきりである。例えば、ある元「慰安婦」が一人の日本兵のことを忘れられないと語った証言を引用した後に、次のような解釈を提示する。

「もちろんこうした記憶たちはどこまでも付随的な記憶であるほかない。仮に世話をされ、愛し、心を許した存在がいたとしても、慰安婦たちにとって慰安所とは抜け出したい場所であるほかないから。だとしても、そこでこういった愛と平和が可能であったことは事実であり、それは朝鮮人慰安婦と日本軍の関係が基本的には同志的な関係だったからである。問題は彼女たちにとっては大事だった記憶の痕跡を、彼女たち自身が「すべて捨て去」ったことである。「それを置いておけば問題になるかもしれない」という言葉は、そうした事実を隠蔽しようとしたのが、彼女たち自身であったことを示す言葉でもある。そしてわれわれは解放以後ずっと、そのように「記憶」を消去させて生きてきた」(67頁)

 これは決して例外的な記述ではなく、むしろ「同志的な関係」という言葉はこの本のキーワードの一つである。『帝国の慰安婦』の「後記」には「批判者たちは日本で私の本が高く評価されたこと(朝日新聞社が主催する「大佛次郎論壇賞」受賞)を指して日本が右傾化したためだと語り、私があたかも日本の右翼と似た主張をしたかのように扱った」(317頁)と自らが不当にも右翼扱いされたと、暗に徐京植や尹健次による批判を示唆しながら反発しているが、こうした記述を読むと「日本の右翼と似た主張」といわれても仕方がないだろう。この本は日本語に翻訳されるそうだ。「国民基金」の再来とあわせて、出版後にどういった「評価」がなされるのか、注視する必要がある。
  
(鄭栄桓)

by kscykscy | 2014-04-19 00:00 | 日朝関係

ある「実証主義」者の警告

「[…]職業的な解説者は、二、三の最初の特殊研究を読み、急いでその要約を縫い合わせ、寄せ集めて、そのごったまぜをより魅力的なものにするために、それに「全体的な解説」と口あたりの良さをかぶせて、できるだけ飾り立てたいという誘惑にかられやすくなる。この誘惑は、大方の専門家が大衆化という仕事に興味を示さないときや、この仕事が一般に金もうけにつながるとき、あるいは、大衆が誠実な解説と見かけだけの解説との明確な区別ができない状態におかれるときには、それだけ大きなものとなる。要するに、自分で苦労して学ばなかったことを他人に要約してみせたり、自分の知らないことを他人に教えたりすることに、なんのとまどいもみせない非常識な人間がいる、ということである。」

C. セニョボス、C.V. ラングロア[八本木浄訳]『歴史学研究入門』校倉書房、1989年

by kscykscy | 2014-04-16 00:00 | 歴史と人民の屑箱

歴史系「論壇」における知的頽廃――與那覇潤『中国化する日本』について(6・終)

 いまから二年ほど前、このブログで與那覇潤『中国化する日本』について批判したことがある。最後の(5)が(続)で終わっているように、当初はもう少し続けるつもりであったが、結局今日に至った。十分書くべきことは書いたと思っているが、当時書く予定だったものが若干残っており、また、近年の新著のなかにも相変わらず問題が散見されるので、これまでの記事を再掲すると同時に以下に補足をしてひとまず完結としたい。
*参考
 
 さて、かつて書いた一連の批判について與那覇は一年前、以下のようにコメントしている。
 
@aiharatakuya 「どうせ右翼の與那覇だから捻じ曲げて引用しているだろう、と思って原典に当たったら本当だった。歴史学界全体が右傾化しているのか!」とかいうお笑いブログのPV稼ぎに貢献なんかしないよ。「敵の敵は味方」で低レベルな味方を増やして、損をするのは君たちの「運動」
2013年4月12日 - 19:11
@aiharatakuya 「君が」中身のないレッテル張りをしてるんだよ。お笑いブログの著者が、最初から相手をこき下ろしてやると決めつけて、しかし自分では学問的な反論ができないから、せいぜいが(準)専門書と一般書の違いでしかないものを「歪めた引用」とか称しているようにね。ブロック
2013年4月12日 - 19:35
 
 ここでいわれている「お笑いブログ」とは、他でもない私のブログである(やりとりの相手は私ではない)。断っておくが私は與那覇という人物を右翼だとは思っていない。この人物に「思想」などは無いと理解している。「歴史学界全体が右傾化している」とは確かに考えており、それについては改めて書きたいが、上の一連の文章で書きたかったのはもう少し別の次元のこと、すなわちタイトルにも掲げた「知的頽廃」である。
 
 このタイトルは藤田省三の1965年のエッセイ「「論壇」における知的頽廃」から借用したものである。藤田はこのエッセイの冒頭で次のように書いている。
 
「現代の日本には奇妙な「専門家」がいる。彼は、いついかなる時でもあらゆる問題についてたちどころに「解説」を加え「意見」を発表する。まるで神様のような存在である。あるいは神様以上の存在だ、というべきかもしれない。何故ならば、神はいくらこちらが要求しても、時と次第によっては答えを「保留」して発表しない場合がままあったからである。
〔中略〕
 ところが、わが奇妙なる「専門家」はどうだろう。彼は、どんな問いであろうと需要(おもとめ)に応じて、たちどころに答えるばかりであって「答えない場合」などはおよそないから、神以上の存在となってしまい、したがってこれに対していくら対決しても、論理的演繹力も解釈学も弁証法も何も生れようがない。生身のままで高々と昇天して神のいる天国をも通り越し「新しい境地」を「切り開いた」のが、この方々である。
〔中略〕
 こうした奇妙な「専門家」は、いまや日本社会の狭い表層に満ち溢れて奇妙な「レヴュー」を見せながら、歴史と人民によって屑箱に放り込まれるまで、何としてでも浮き流れようとしているかに見える。彼は「論壇」なる架空の壇をあたかも実在であるかのように追い求め、現実に対する何等の緊張もない言葉の山を蒐集し、相互に手を取り合って、ちょっとした数量の勢力が出て来るとその前に真心込めた風をして叩頭する。そのくせ社会主義国の官僚主義や個人崇拝のこととなるとロクロク知りもしないで多言を弄する。また日本のデモクラットの抵抗を見てはセセラ笑う。「数」さえそろえば頭を下げることにしているものにどうしてそういう資格があるのか。事実に対する緊張を欠いた「言葉の集合」のことを、ある人は、「だからそれは無いものだ」と言ったことがある。現実に対して何らの積極的(方法的)機能をも持たないが故にそれは非存在なのである。だがこの「有識者」は彼の言論が非存在であることによってのみ生の現実の上に浮流することが出来ている」(藤田省三「「論壇」における知的頽廃」、飯田泰三・宮村治雄編『藤田省三小論集 戦後精神の経験Ⅰ 1954-1975』影書房、1996年、p.182-185)
 
 半世紀以上前の文章だが、與那覇と彼をとりまく環境の問題を過不足なく表現していると思う。『中国化する日本』や彼がtwitterなどで繰り出す「言葉の集合」、そしてそれを受容する出版業界の質は、まさに藤田がここで批判した「知的頽廃」という名にふさわしい。あるいはこの批判すらも過大評価かもしれない。
 
 すでに上の文章でも書いたが、そもそもこの本で用いられる「中国化」という言葉は、概念としての最低限の条件を満たしていない。以前に引用しなかったもののなかから、以下の文章を挙げよう。
 
「なんでわざわざ「明治維新は中国化である」という、ことさらに煽情的なものいいをするかというと、「どうして中国や朝鮮は近代化に失敗したのに、日本だけが明治維新に成功したのか?」という学問的に不毛なだけでなく、政治的にもしばしば有害な(しかしなぜか日本史上の最重要課題だと誤って信じられている)問題設定にいい加減、終止符を打ちたいからです。
 こんなものは、一言で答えられる。日本にとっての「近代化」や「明治維新」は要するに「中国化」の別名に過ぎないのだから、「どうして中国や朝鮮は中国化に失敗したのに、日本だけが中国化に成功したのか?」などという問いは文字通りナンセンスです。だって、中国は「中国化」するまでもなく最初から(厳密には、宋代から。朝鮮は本当はもっと複雑ですが、おおむね李朝から)中国なんですから。
 この、「西洋化」の大部分は内容的に「中国化」と重なるので、中国や朝鮮では「西洋化」を必要とする度合いがそもそも低かったという視点を忘れて、「なぜ中国や朝鮮でなく、日本だけが」という形でばっかり考えていれば、誰だって「中国人や朝鮮人と違って、日本人は偉いからだ。賢いからだ」式の答えしか出せないのは当然です。あとは、大和魂だ武士道だ万世一系だ富士山だと、「日本にしかなさそうなもの」をとりあえず列挙して「ほれみろ、日本は中国よりすごい、朝鮮よりすごい」と連呼するだけの「危険なナショナリズム」しか残りません〔中略〕
 そうすると、「明治維新を語るのは、すなわち中国・朝鮮を貶めることだ。アジア侵略の『いつか来た道』を繰り返すことだ」とか騒ぎ立てて、NHKが『坂の上の雲』をドラマ化するのにもいちいちイチャモンをつける「面倒な左翼のオジサン・オバサン」が出てきて、「どうして日本人が自国の歴史を語ることがイカンのだ。中韓ごときにこれ以上ペコペコするな!」という「厄介な右翼のオジサン・オバサン」が反論し……という、あの見ていてどっと疲れるマンネリの構図から、いつまでも出られなくなってしまいます。
すなわち、日本人は、待ちに待たせてきた「中国化」をいよいよ敢行する際に生じる巨大な変化に紛れ込ませて、その際いっしょくたに「西洋化」もなし遂げてしまうことができたけれども、中国人や朝鮮人は早々と「中国化」を達成してしまっていた分、「西洋化」のタイミングを逸する格好になったというのが、東洋/西洋の別にも、日中韓のいずれにも偏らない、真にフェアな歴史認識というものです(宮嶋博史「日本史認識のパラダイム転換のために」)。」(『中国化する日本』、p.132-135)
 
 これを一読して、その意味を理解できる読者が存在するだろうか。與那覇は、中国/朝鮮はすでに11世紀/15世紀頃に「中国化≒西洋化」していたから、19世紀に「中国化≒西洋化」する必要が無かった、日本は「江戸時代化」していたので「中国化≒西洋化」する必要があった、と述べている。しかしだとすると、「中国人や朝鮮人は早々と「中国化≒西洋化」を達成してしまっていた分、「西洋化」のタイミングを逸する格好になった」という評価の意味が全くわからない。そもそも中国・朝鮮は「中国化≒西洋化」していたから「西洋化」する必要が無かった、だから「なぜ日本だけが西洋化したのか」という問いはおかしい、と言っておきながら、一方では、中国・朝鮮は「西洋化」していたから「西洋化」するタイミングを逸した、ともいう。全く破綻しているというほかない。

 ただし、単につじつまが合わないとか荒唐無稽であるという以上の問題が、この本にはある。それが與那覇の朝鮮侵略についての認識である。

 そもそも、東アジアの近代化をめぐる国際環境、特に「外圧」の質をめぐる議論においては、日本が進んだ発展段階に達していたことのみをもって説明しようとする傾向に対し、これを世界史的な連関のなかで解く視点の必要性が提起されてきたのは周知の通りである。ほかならぬ日本自体が「外圧」そのものとなることへの注意を喚起することによって、国際関係分析を抜きにした安易な比較論が批判されたのである。こうした研究蓄積がどれほど社会的な歴史意識に反映しているかは大いに疑問であるが、この論点をめぐる議論がそれなりに生産的な研究蓄積を生んだことは評価できるだろう。しかし與那覇はこの論点自体を不毛であると一蹴して、中国/朝鮮はすでに11世紀/15世紀頃に「中国化≒西洋化」していたから、19世紀に「中国化≒西洋化」する必要が無かった、と「一言で答えられる」と断定する。しかし、だとすると朝鮮や中国でこの頃みられた近代的諸改革への動きを、與那覇はどのように説明するのであろうか。また、こうした諸改革の動きが、それこそ「外圧」によって封殺されるプロセスを、與那覇はどのように理解しているのだろうか。あまりに乱暴な説明であるといえる(*1)。
 
 また、上の引用文にもあるように、日本特殊論を批判した返す刀で、與那覇は『坂の上の雲』批判を揶揄する。ここでいう「NHKが『坂の上の雲』をドラマ化するのにもいちいちイチャモンをつける「面倒な左翼のオジサン・オバサン」」とは一体誰を指すのか不明であるが、歴史学者だとすれば中塚明氏や安川寿之輔氏であろうか(中塚明・安川寿之輔・醍醐聰の三氏には『NHKドラマ「坂の上の雲」の歴史認識を問う 日清戦争の虚構と真実』(高文研、2010年)  という著作がある)。
 
 中塚らの日清・日露戦争賛美論批判は、それこそ「歴史学の成果」の上に立ち、日本の近代史認識をめぐる重要な問題点を提起したものだと私は理解している。だが與那覇は、こうした『坂の上の雲』批判の出典すらあげず、歴史修正主義と同レベルのものとして揶揄する。與那覇は他の箇所で「日本で『嫌韓流』の鎖国主義者たちが衛正斥邪派(李朝末期の排外的超保守派)よろしくその排除を騒ぎ出した」(238-293)とも書いており、衛正斥邪派を『嫌韓流』と同一視している。驚くべき「歴史学者」である。
 
 もう一箇所だけ引用しよう。在日朝鮮人の参政権に関する文章である。
 
「まず、江戸時代的な日本社会の欠点はどこにあるか。おそらく、それは正しい意味での「封建遺制」、すなわち自給自足的な思考によって社会のあり方を捉え、他人の得は自分の損と思い込んでしまう百姓根性ではないでしょうか。
たとえば外国人参政権というのは、私はそう安易にほいほいあげていいものとは思いませんが、しかし反対のロジックとして「今ある家産は盗まれる」式の発想でものをいわれる方が多いのには辟易します。参政権ってのは定額の財産じゃないんだから、そういうゼロサム・ゲームで考えるべきものじゃないでしょう。「他の奴らに取られて減る」という性格のものではなくて、あげたらバーターになにを得られるかで判断すべきものでしょう。――これはふたつの文脈から考えることができます。
 ひとつは、いわゆる歴史問題としての文脈で、そもそも戦前には普通選挙法施行以降、内地の朝鮮・台湾人男性が享受していた参政権を、戦後になってとりあげてしまったことへの補償をどうするか、という問題です。しかもこのとりあげ方がまずくて、韓国や北朝鮮の独立(1948)すら待たずに、国籍法上彼らはまだ日本人である状態のままで参政権だけ先にとり上げて(1945)、後から国籍も召し上げる(1952)という形にしてしまった。「国籍喪失と同時に参政権も消滅」だったら一応筋は通るわけですが、そうではなかったわけで、これはやっぱり問題があるでしょう。
 ただ、私はこちらに関しては、謝罪決議なりなんなりで解決のしようがあろうと思います。「また謝罪か」と文句をいう方が出そうですが、そういう人は謝罪と参政権付与とどっちがいいんですか。政治的な謝罪というのもまた、「やったら減るもの」じゃなくて、本来そのことによって何か(たとえば道徳的な名声)を得るためになされる一種のバーターなわけですから、植民地を失う際にこちらに手落ちがあった以上、そこのところを考えていただきたいなと思います。
 在日参政権への反対は主として右派に目立ちますが、大帝国を築いた戦前の日本を本当に誇らしく思うなら、内地移住者の参政権を容認していた伝統も誇りに思ってほしいし、逆に付与賛成の左派の人は、「なんでもかんでも戦前の悪口」をちょっとは改めて、議論の前提となる史実をきちんと教えてほしい(ちなみに、私は大学の教養科目で教えています)。(284-286)
 
 改めて説明するまでもないが、ここには在日外国人の政治的権利という視点は一切ない。朝鮮人や台湾人の参政権行使という問題を真摯に考えようとする姿勢もない。むしろその権利を他の目的のために利用しうる手段とみなす発想によって貫かれている。「ほいほいあげていいものとは思いませんが」という文に示されているように、與那覇はあくまで自ら(つまり日本人)が、在日外国人の政治的権利を操作しうる位置にいることを自明視している。
 
 このように、朝鮮の近現代史に関わるこの本の歴史認識はあまりにひどい。特に「北朝鮮」に関する與那覇の嘲弄はますますタガが外れてきている。『中国化する日本』についてはすでに書いたが、昨年出版された東島誠・與那覇潤『日本の起源』太田出版、2013年から関連する箇所を抜き出してみよう(強調は引用者)。
 
「與那覇 都の壮麗さによって人々を帰依させるというのは、王権のあり方としては普遍的ですよね。しかし、実力がともなっていないから虚勢になってしまうというのが、日本の個性なのかもしれない。いまだと、北朝鮮でも平壌に凱旋門を持っているような感じでしょうか(笑)。」(42-43)
「與那覇 [中略]父親が全権力を独占して、バタッと死んで、後継者の息子が全権力をまた独占するというのは危ないわけですよね。両者の継受の瞬間が権力の空白状態になって、すべてがひっくり返る恐れがあるから。そこで、いわばバッファー(緩衝帯)として、やがてこの世を去る人と、これから家督を握る人とが半々くらいで権力を持ち合う期間が必要とされる。近年の北朝鮮などを思い出しても、それ自体はわかりやすい。」(68)
「與那覇 非常に重要ですよね。そもそも古代でも、唐朝成立(618年)の衝撃があったからこそ大化の改新(645年)が起きて、最後は朝鮮半島をめぐって白村江の戦い(663年)にまで至るように、中国大陸と日本列島の動乱はいつもリンクしていたと見るべきではないか。近現代に入っても同様で、たとえば朝鮮戦争が起きると、日本でも共産党が暴力路線に走って革命しようとするわけです。勝ち目があるわけないじゃない、とあとから見たら絶対思うのですが、それでも半島で金日成同志が民族統一のために戦っているのであれば、日本でも米帝に対する革命を起こして支援しなくては、という話になる。」(132)
「與那覇 [中略]むしろ東照宮をわざわざ造って家康を神格化したり、こじつけめいた理屈で家綱にもオーラをまとわせようとしたり、相当いろいろな工夫をして継承に正当性を賦与する必要があった。何度も例に出して恐縮ですが、北朝鮮でも代替わりごとにがんばって、「指導者たるにふさわしいエピソード」を創作しないといけないようなものですよね(笑)。」(139)
 
 與那覇がここで(笑)いながら援用する「北朝鮮」の事例には、全く何の意味もない。不必要にもかかわらず、ウケを狙って援用しているのである。なぜこれほどまで「北朝鮮」を(笑)うことができるのか、つまり、なぜそれほど無邪気に近年の「北朝鮮」言説を内面化できるのか。「ごく普通の日本人」であるとしかいいようがない。
 
 ちなみに、彼は日常的に以下の様に「北朝鮮」「北朝鮮化」という言葉を使っている。
 
 確か與那覇は「北朝鮮化」したくなければ「中国化」するしかないと言っていたと思うのだが、「日本を「中国化・北朝鮮化」させないために、現法案に反対します。」とはどういうことだろうか。もう首尾一貫性などどうでもよいのだろう。ここでは宋代の中国などはもはや関係なく、単に現に存在する朝鮮・中国へのネガティヴなイメージが利用されているにすぎない。ネット右翼と大差ない。
 
 かつての批判の記事を再掲して結びとしたい。
 
「與那覇に限らず、現在の朝鮮は戦前の日本である、あれは天皇制である、とするレトリックは、現代日本ではむしろリベラルや左派に好まれる傾向がある。かつて大西巨人は、戦時期には沈黙・翼賛していたにもかかわらず、敗戦後突如として軍部や軍隊の非合理・暴力性を「暴露」し始めた知識人たちの姿勢を「過去への叛逆」と揶揄した。しかし、このレトリックは、ここでの「過去」に朝鮮を代入することにより、わずかながらあった「叛逆」のリスクすら欠落させた、極めて自己愛的で攻撃的なものといえる。大日本帝国という過去に批判的であるようなポーズを装いながら、その問題点は朝鮮のみに継承されたとして大日本帝国の過去そのものに向き合うことを回避し、同時に、元「帝国」の人間として、その遺産=朝鮮を何とかしなければいけない、というこれまたナルシスティックな「使命感」「義務感」に燃えることすらできる。そして、それから切り離されたところの平和で民主的な戦後日本への歪んだ自己愛を満たしつつ、右派の朝鮮脅威論に直接対峙せずに、むしろそれと癒着しながら「お前こそ日本を北朝鮮にする気か」と「反論」することも可能になる。
 こうしたレトリックは、現在の朝鮮への「制裁」をリベラル・左派が容認することを正当化するばかりか、場合によっては「人道的介入」すら後押しすることになるだろう。和田の意図はそこには無いとしても、安易に戦時期日本と朝鮮の現状を似ているとするのは、こうしたレトリックを誘いこむ危険なものだ。私は與那覇のこの杜撰な本に、そうした頽廃的な日本のイデオロギー状況の反映を見る。」(歴史系「論壇」における知的頽廃――與那覇潤『中国化する日本』について(5)

(鄭栄桓)


*1
 ただ、この「乱暴さ」は実は與那覇だけのものではない。ここで典拠となっている宮嶋博史「日本史認識のパラダイム転換のために」(『「韓国併合」100年を問う 『思想』特集・関係資料』岩波書店、2011)において、宮嶋は西川長夫の「日本型国民国家」論を批判しながら、次のように書いている。

「引用文中で太字でしめした諸改革〔西川が列挙した1870年代の日本の諸改革〕は、中国や朝鮮ではもともと実施する必要がないものであった。すなわち、戸籍制度や徴兵制度はすでに存在しており、土地売買や職業移住の自由も認められていた。郡県制も古くから実施されていたものであり、支配層の帯刀や宗教調査のための宗門人別制度などは、廃止するまでもなく、もともと存在しないものであった。すなわち、国民国家の諸要素をモジュールとして移入しようとする際に、日本では必要であった改革のかなりの部分が中国や朝鮮では必要のないものであったわけである。こうした現象が生じた最大の原因は、中国・朝鮮においては集権的な官僚制国家体制がすでに存在していたところに求められるが、それこそは儒教モデル受容の産物にほかならなかった。
 したがって問われるべき問題は、国民国家を形成するために必要な諸要素のかなりの部分をすでに実現していた中国や朝鮮の「旧社会」の内実をどう理解するのか、それと比較した場合の日本の位置をどう考えるのか、ということである。しかし、西川の議論ではこうした部分がまったく捨象されているのである。西欧化を「文明化」ととらえた場合、今述べたように、西欧や日本で近代になってはじめて実現されたものの相当部分は中国・朝鮮でははるか以前に実現されていたのであり、こうした条件は中国や朝鮮の近代的変革に独特の性格を与えることになった。すなわち、一方では、近代的変革を行うためには何が課題であるのかが不分明になり、西欧モデルの受容という課題を切実なものと認識することを困難にするとともに、他方では、自己の伝統を文明と認識し、西欧文明を相対化しようとする動きが必然的に登場することになったのである」(p.18-19)
「西川の国民国家論と関連させていえば、中国や朝鮮では日本よりも国民国家を形成することが困難だったのであり、そのもっとも大きな要因として儒教的な文明主義の存在があったということができる。これまで日本の歴史学界では、こうした儒教的文明主義の存在を否定的にとらえてきたのであるが、二一世紀の今日の時点に立ったとき、こうした理解は根本的に再検討されなければならないと考える。西川の国民国家論が国民国家に対する批判にとどまっていて、出口が見えないように感じられるだけに、国民国家を日本のように速やかに形成することがきわめて困難であった中国・朝鮮の近現代史を、その困難さのゆえに日本とは別の道を歩んだものとして見直すことが、大きな意味をもちうるであろう」(p.20)

 與那覇と宮嶋の記述を比較すると、宮嶋が一般的に理解可能な概念を用いていることや、論理の粗雑さの違いはあるとはいえ、ほとんど似た主張をしていることがわかる。つまり、この論点に関しては與那覇は確かに、出典表示した論文に即して、自らの議論を組み立てていると言っていいだろう。ただし、宮嶋は近代日本国家の侵略的性格を重視するべきであると説いており(p.14-15)、この点は與那覇とは全く異なるが、大筋においてはその理屈は同様である。

 ここで宮嶋は西川長夫を批判しているのだが、実際には批判というよりも補完といったほうが適切である。宮嶋は西川が「東アジアにおいては日本だけがこうした条件〔国民国家の諸装置を受容する〕を備えていたという認識」を前提にしている、と批判する(p.17-18)。しかし、上の主張をみると、日本だけが国民国家に適合的な条件を有していた、という点については宮嶋は西川と同一の立場に立つ。しかし、西川はなぜ中国・朝鮮は国民国家形成が困難だったのか、という問題に答えていない、というのが宮嶋の批判なのである。そして、その答えは宮嶋によれば「儒教的な文明主義の存在」のため、ということになる。

 この論理には與那覇に通じる、あるいはそれ以上の問題性が含まれている。時務論として宮嶋の「史論」をみた場合は、その論理は国民国家の形成が困難だった朝鮮の内在的要因こそが、人々の未来にとって何らかの意味を持ちうる、というものといえる。これは乱暴にいえば朝鮮停滞性史観を裏返したものである。

 宮嶋は在日朝鮮人の「アイデンティティ」について次のようにも書いている。

「このように中国・日本と比較してみると、朝鮮の中間団体の特徴としてあげられるのは、統一的なアイデンティティの欠如ということになろう。中国における気、日本における天皇制に匹敵する存在を欠く朝鮮では、さまざまな中間団体を貫く共通の原理が存在しないのである。非漢族、反日という民族主義の言説が今日においても強調されるのは、統一的なアイデンティティの創出のための努力と見られるのである。
 しかし私が注目したいのは、統一的なアイデンティティの不在がもつ積極的な面である。今日海外に定住する韓国人・朝鮮人の数は、本国内居住人口との比率で見れば、世界最大の移民国と言われる中国を、はるかにうわまわっている。その逞しい定着力は、彼らのアイデンティティの柔軟性ゆえではないだろうか。今日まで営々と続けられてきた在日韓国人・朝鮮人による日本社会との「共生」のための営みは、彼らの柔軟なアイデンティティの確立の努力であるとともに、日本人の狭隘なアイデンティティに対する問題提起でありつづけている。」(岸本美緒・宮嶋博史『世界の歴史12 明清と李朝の時代』中央公論社、1998年、427-428頁)

 つまり、(在日)朝鮮人は日本人や中国人のように統一的なアイデンティティを持ちえない歴史的な「原理」のもとで生きてきた。だからこそそれを求める(「反日」)。しかしその不在こそが積極的である、という理屈である。あとがきであるとはいえ、こうした植民地支配下での民族分裂政策や、解放後の朝鮮分断の暴力、そして在日朝鮮人の経験を軽視した「超歴史的」な「評価」の仕方は歴史学的な検証に耐えるものではないばかりか、こうした暴力を免罪することにもなりかねないと私は考える。朝鮮民族に未来永劫統一するなと言っているに等しい。與那覇の言説がこうしたある種の歴史学者の仕事の「結果」であるということを、強調しておきたい。

by kscykscy | 2014-04-09 00:00 | 歴史と人民の屑箱

閣議決定すらない4月――制裁翼賛国会を支える「護憲派」政党

 今年の4月は例年ならば行われる朝鮮民主主義人民共和国に対する経済制裁延長の閣議決定がなされない。もちろん、安倍政権が制裁を止めるからではなく、昨年4月に制裁の期間が1年から2年に延長されたからだ。日本社会でこのことに気付く人はほとんどいないのではないか。そのくらい制裁は自然なものになってしまっている。

 後述するように、いま発動されている制裁は事実上の有事立法にもとづくものだ。それが8年にわたって継続している。しかしこの状況をほとんどの人びとは有事法が発動した状態であるとは認識していない。朝鮮学校の無償化排除や補助金停止などの教育に関する弾圧も、これらの有事法の発動によって形づくられた大状況に規定されていることが明らかにもかかわらず、である。これは朝鮮やそれに関わる在日朝鮮人の立場からすれば、極めて非対称的で異様な「戦時」が続いていることを意味する。

 2002年以降の「狂乱」 のなかで、「護憲派」も含むほとんどすべての人びとは、制裁が対朝鮮外交の「カード」であるという発想に完全に思考を侵されきった。「護憲派」の論理に立つならば、これらの有事法の制定と発動はかれらのいうところの「平和主義」と矛盾すると考えてしかるべきであるにもかかわらず、である。

 日本国憲法前文には「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」という文言があるが、いま日本によって「恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利」をもっとも脅かされている「全世界の国民」は、明らかに朝鮮の国民である。この前文は近年の判例では裁判規範性を認められているようだから、例えば、日本政府の制裁によって「再入国許可」の発給を停止されている最高人民会議代議員や、朝鮮に物資を輸出した「罪」(外為法違反)を着せられた在日朝鮮人が、上述の制裁措置自体を、憲法前文の定める「全世界の国民」の平和的生存権に反するとして訴訟を起こす、という可能性もありうるはずだ。

 しかし、実際には「護憲派」を含め制裁への反対はほとんど聞こえてこない。それどころか議会内の「護憲派」政党は朝鮮への経済制裁を黙認するに留まらず、積極的に支持している。そもそも社民党は外為法の改悪に賛成しており(参議院のみ棄権)、外為法改悪と入港禁止法制定に反対した日本共産党も、驚くべきことにそれらの法律に基づいた制裁の発動には賛成しているのである。この間の経緯を検証してみよう。

 現在日本政府は朝鮮にさまざまな「制裁」を加えているが、その柱となる法律は「外国為替及び外国貿易法 」(04.2.26改定、施行。以下、外為法)と「特定船舶の入港の禁止に関する特別措置法 」(04.6.18施行。以下、入港禁止法)である。ほかにも、鳩山内閣が成立させた臨検特措法の問題などがあるが、さしあたり今回はこの二つの法律にしぼって検討したい。政府は下記の条文を「日本独自の制裁」の道具として使い、日本政府は朝鮮へ/からのあらゆる輸出入と、すべての船舶の入港を禁止している(下線は引用者)。

・外為法  
第十条  我が国の平和及び安全の維持のため特に必要があるときは、閣議において、対応措置[中略]を講ずべきことを決定することができる。
2  政府は、前項の閣議決定に基づき同項の対応措置を講じた場合には、当該対応措置を講じた日から二十日以内に国会に付議して、当該対応措置を講じたことについて国会の承認を求めなければならない。[後略]

・入港禁止法
第三条  我が国の平和及び安全の維持のため特に必要があると認めるときは、閣議において、期間を定めて、特定船舶について、本邦の港への入港を禁止することを決定することができる。
第五条  政府は、前条の規定による告示があったときは、当該告示の日から二十日以内に国会に付議して、第三条第一項又は第三項の閣議決定に基づく入港禁止の実施につき国会の承認を求めなければならない。[後略]

 自由法曹団が当時批判したように、これらの法律は有事立法(戦時法)としての性格を有している。「「我が国の平和および安全の維持のために特に必要があるとき」には経済制裁を発動できるとするものであり、外為法を、我が国の安全保障の手段として活用とするものである。これは外為法本来の性格を根本から変え、いわば通商経済法を有事法(戦時法)に変容させるもの」だからである(「声明 対北朝鮮「経済制裁法案」-外為法「改正」に抗議し、特定船舶入港禁止法の制定に反対する」 )。入港禁止法も同様である。なお、当時は民主党も入港禁止法案を提出しており、そこでも「わが国の平和及び安全の維持のため特に必要があると認めるとき」に、閣議決定で特定国の船や特定国に寄港した船の入港を禁止することができる、とされている(『朝日新聞』2004.4.1)。

 日本共産党は当初、外為法改悪と入港禁止法制定に反対した。当時の『赤旗』は以下のように報じている。

「参院本会議で[2月:引用者、以下同]九日、北朝鮮に対する日本単独での経済制裁を可能にする外国為替及び外国貿易法(外為法)「改正」が賛成多数で可決され、成立しました。日本共産党は反対しました。/同案は自民、民主、公明三党が提案したもの。衆院では、三党に加え社民党も賛成しました。/参院の採決では、島袋宗康(無所属の会)、高橋紀世子、中村敦夫(みどりの会議)の三氏が反対。社民党は五人全員が棄権しました。/日本共産党は「この法案は『六者会合の参加者は、平和的解決のプロセスの中で、状況を悪化させる行動をとらないこと』という(六カ国協議での合意の)第四項に反するものであり、成立させてはならない」(五日の参院財政金融委、池田幹幸議員)として反対しました。」(「6カ国合意に反する/「改正」外為法が成立/共産党と3氏反対/社民は棄権」『しんぶん赤旗』2004.2.10

「[6月]一日の衆院国土交通委員会で、北朝鮮に対する制裁・圧力を目的にした特定船舶入港禁止法案を「委員会提出法案」とすることが自民、公明、民主の賛成多数で可決されました。日本共産党は反対しました。[…]また、法律の発動が「わが国の平和・安全の維持のために特に必要があると認めるとき」としているが、これは政府の恣意(しい)的判断で発動を可能とするものだと厳しく批判しました。」(「入港禁止法案を可決/衆院国交委共産党反対 6カ国協議に反する」『しんぶん赤旗』2004.6.2

 一読してわかるように、有事立法としての側面を批判したわけではなく、あくまで六者協議の合意に反するというに留まる。しかし共産党はすぐにこの立場すらも放棄する。

 同年12月14日、共産党を含む参議院の全会派は「改正外為法や特定船舶入港禁止法等現行の国内法制上とり得る効果的制裁措置の積極的発動を検討すること」を含む「北朝鮮による日本人拉致問題の解決促進に関する決議 」を全会一致で可決した(『しんぶん赤旗』2004.12.14 )「反対」から1年も経たないうちに、共産党は制裁発動賛成に転じたのである。

 これは横田めぐみさんの「遺骨」が別人であるとの鑑定をうけて、制裁の発動を求めたたものだ。緒方靖夫議員は「北朝鮮の出した『資料』が意図的な虚偽を疑わせるものであり、そこに拉致の実行にか かわった『特殊機関』が介在しているという重大問題があることが判明した新しい局面のもとでは、交渉による解決を成功させるためにも、今後の交渉の推移 と、北朝鮮側の態度いかんによっては、経済制裁もとるべき選択肢の一つとなることがありえる」と賛成したという(同上)。当初の外為法改悪反対の根拠が、六者協議の合意に反するというものだけだったところにすでに弱さがあったが、その根拠すら維持せずに制裁賛成に転じたのである。

 2006年以後の制裁をめぐる動向をまとめたものが、文末の表「年表:朝鮮に対する「制裁」の展開過程(2006-2013)」である。2006年から2013年までの制裁をめぐる動向からわかることは、ほとんどの制裁とその延長措置が衆参の「全会一致」で承認されていることである。すでに法制定直後から上述のような翼賛状態ができあがっていたのであるから、ある意味では当然といえる。

 わずかに福田内閣の二度の延長と、麻生内閣の最初の延長のみ、共産党と社民党は反対した。この際の『赤旗』の報道は次のとおりだ。

「志位氏は、日本共産党が、制裁措置に対し、昨年十月の実施時、今年四月の延長時にともに賛成したが、それは北朝鮮による核実験という重大事態のもと、制裁の合理的理由があったからだと説明しました。
 しかしその後、北朝鮮が今年十月の六カ国協議で、年末までに核施設の無能力化と核計画の完全申告を柱とする「次の段階の措置」をおこなうことで合意するなど、制裁継続の合理的理由がなくなっていることを指摘。「核兵器問題の情勢が前向きに進展したにもかかわらず、制裁措置を継続することは、日本政府が核問題の解決で、積極的な役割を果たすうえでの障害になりかねない」と強調しました。」(「北朝鮮制裁措置の延長/日本共産党は反対」『しんぶん赤旗』2007.11.3

 しかし、2009年の朝鮮が人工衛星「光明星-2」を発射すると、共産党と社民党は再び態度を賛成に転じ、麻生内閣による輸出入全面禁止にも賛成票を投じることになる。以後、今日にいたるまで社民党、共産党ともに制裁に賛成し続けている(社民党は自らが与党だった時代に制裁を閣議決定した)。

 ここで注目すべき点が二つある。第一は制裁の対象を拡大する閣議決定が、「全会一致」で承認されていることである。2006年以来、制裁の対象は、万景峰92号の入港禁止から全船舶の入港禁止へ、輸入禁止から「ぜいたく品」輸出禁止、そして輸出入全面禁止へと拡大していった。その拡大のタイミングのいずれにおいても国会では何らの異議申立てがなされていない。制裁の対象の拡大とは、それまで「犯罪」ではなかったことを「犯罪」にするということである。事実、全面禁輸以前の軍事転用可能なものの輸出禁止の制裁のもとでは、「弾道ミサイルの移動式発射台などに転用可能な大型タンクローリーを不正に北朝鮮に輸出した」などという「罪」=外為法違反で逮捕されるという事件が起こっており、全面禁輸以後はピアノ、タイル、パソコンなどの輸出という「罪」で逮捕者がでている。こうした「犯罪」の領域の拡大に、賛同しているのである。

 第二は、制裁の期間を延長する閣議決定が、同じく「全会一致」で承認されていることである。2009年4月に麻生内閣が制裁期間を6ヶ月から1年に延長したことや、昨年4月に安倍内閣が1年から2年に延長したことが「全会一致」で承認されている。外為法・入港禁止法のいずれも、国会の承認を得なければただちに終了せざるをえない。いまのところ制裁は「期間を定めて」発動しなければならないことになっているのであるから、この「期間」は少なくとも立法府にとっては短ければ短いほどよいはずだ。しかし共産党は「政府の恣意的判断で発動を可能とするものだ」と入港禁止法を批判したにもかかわらず、より長い猶予期間を政府に与えるこうした措置に賛同した。対朝鮮制裁については完全に安倍内閣と同一の立場であると考えるほかない。今後、もしかしたら安倍内閣は制裁措置の「期間の定め」自体を法改悪によって撤廃するかもしれないが、おそらくそれも「全会一致」で承認されるだろう。

 これは全くの翼賛国会である。「護憲派」政党がこうした「制裁翼賛国会」とでもいうべき状態を支えていることがほとんど問題にされないなか、「護憲」運動がむしろ盛り上がりをみせている現状はあまりに異常である。制裁の展開過程とそれに対する共産党や社民党の対応をみると、「護憲派」政党はそもそも朝鮮を日本国憲法の「平和主義」の対象に含めていないといわざるをえない。「護憲派」政党は彼ら自身の論理においてもすでに完全に破綻しているのである。朝鮮民主主義人民共和国の人びとは憲法前文にいう「全世界の国民」には含まれないとの解釈を採らない限り、制裁の推進と「平和主義」は両立し得ないからだ。『赤旗』の記事にみられるように、制裁に反対した際もその理由もあくまで「継続の合理性消失」であり、これらが有事法の運用であるという視点がそもそも無い。

 こうした翼賛と、「護憲派」が自民党を批判するために「北朝鮮」に対するネガティヴイメージを最大限動員しようと奮闘していることは対応しているといってよいだろう。「「護憲派」は主観的には改憲派に対抗しているつもりかもしれないが、結局は改憲論者と朝鮮・中国への侮蔑意識を共有している点にある。いやそれどころか、護憲派と改憲派は、日本人の中の「北朝鮮」に対するネガティブな感情を、互いに奪い合っているとすらいえる。もはや護憲派にとっても、他国に対する偏見や排外主義的情緒は、克服すべき対象ではなく、取り込み、動員すべき資源なのであろう。「護憲派」は劣情の動員競争で右翼やファシストに敗北することは間違いないが、「護憲派」たちは負けながらも朝鮮侮蔑意識の固定化にだけは寄与することになるだろう。」(「自民党憲法草案批判にみる「護憲派」の朝鮮侮蔑意識」

 閣議決定すらない4月の「戦争」に気付くべきである。

(鄭栄桓)



年表:朝鮮に対する「制裁」の展開過程(2006-2013)

2006年
7.5 朝鮮、ミサイル発射実験
7.5 小泉内閣、万景峰92号の入港六ヶ月禁止を閣議決定  ・
  10.19 衆議院承認(全会一致)
  11.8 参議院承認(全会一致

9.26 第一次安倍晋三内閣発足
10.9 朝鮮、核実験
10.13 安倍内閣、万景峰92号のみならず共和国船舶全ての入港禁止を閣議決定(06.10.14-07.4.13)
  12.8 衆議院承認(全会一致)
  12.15 参議院承認(全会一致

10.13 安倍内閣、朝鮮からのすべての貨物の輸入を禁止する等の措置を閣議決定(06.10.14-07.4.13)
  12.5 衆議院承認(全会一致)
  12.13 参議院承認(全会一致)

11.14 安倍内閣、「ぜいたく品」の輸出禁止の制裁を閣議決定

2007年
4.10 安倍内閣、入港/輸入禁止延長を閣議決定(07.4.14-07.10.13)
  5.29  衆議院承認(入港禁止、全会一致)
  6.1  参議院承認(輸入禁止、全会一致
  5.24 衆議院承認(入港禁止、全会一致)

9.26 福田内閣発足
10.9 福田内閣、入港/輸入禁止延長閣議決定(07.10.14-08.4.13)
  11.2 衆議院承認(入港/輸入禁止。賛成多数*)
  11.14 参議院承認(入港禁止。賛成多数 *)
     *共産党、社民党などは反対

2008年
4.11 福田内閣、制裁延長を閣議決定(08.4.14-08.10.13)
  6.3 衆議院承認(入港/輸入禁止、賛成多数*)
  6.11 参議院承認(同、賛成多数*[入港禁止 、輸入禁止])

9.24 麻生太郎内閣発足
10.10 麻生内閣、制裁延長を閣議決定(08.10.14-2009.4.13)
  11.14 衆議院承認(入港/輸入禁止、賛成多数*)
  11.21 参議院承認(同、賛成多数*[入港禁止輸入禁止 ])

2009年
4.5 朝鮮、人工衛星「光明星-2」発射
4.10 麻生内閣、制裁延長を閣議決定(09.4.14-10.4.13、6ヶ月から1年へ)
  6.25 衆議院承認(全会一致)
  7.1  参議院承認(全会一致

5.25 朝鮮、二度目の核実験
6.16 麻生内閣、対朝鮮全面禁輸の制裁措置を閣議決定(09.6.18-2010.4.13)
・対朝鮮輸出全面禁止。北朝鮮渡航時に届け出が必要な携帯基準額(30万円超)に関して虚偽申告した在日外国人の再入国禁止。輸出入や送金制限など北朝鮮に対する貿易・金融措置違反で刑が確定した外国人が北朝鮮に渡航する場合、再入国を原則として認めないなど。
  2010.3.23  衆議院承認(全会一致)
  2010.3.26  参議院承認(全会一致[輸入禁止輸出禁止 ])

7.6 麻生内閣、朝鮮の核開発や大量破壊兵器関連計画に関係した資産移転を防止する追加措置を閣議了解
9.16 鳩山由紀夫内閣発足(民主党・社民党・国民新党)

2010年
4.9 鳩山内閣、制裁延長を閣議決定(10.4.14-11.4.13)
  5.20 衆議院承認(入港禁止、全会一致)
  5.28 参議院承認(同、全会一致
  11.16 輸出入禁止、衆議院承認(全会一致)
6.4 「国際連合安全保障理事会決議第千八百七十四号等を踏まえ我が国が実施する貨物検査等に関する特別措置法」(臨検特措法)成立
6.8 菅直人内閣発足

2011年
4.5 菅内閣、制裁延長を閣議決定(11.4.14-12.4.13)
  6.9 衆議院承認(入港禁止、全会一致)
  6.17 参議院承認(同、全会一致
  7.15 衆議院承認(輸出入禁止、全会一致)
  7.25 参議院承認(同、全会一致
9.2 野田佳彦内閣発足

2012年
4.3 野田内閣、制裁延長を閣議決定(12.4.14-13.4.13)
  2013.3.22 衆議院承認(入港/輸出入禁止、全会一致)
  2013.3.29 参議院承認(同、全会一致[入港禁止輸出入禁止 ])
12.26 第二次安倍内閣発足

2013年
2.12 朝鮮民主主義人民共和国、核実験(三度目)
日本政府、朝鮮への追加制裁を決定。朝鮮総連副議長5人を新たに北朝鮮への渡航制限対象に加える。

4.5 安倍内閣、対朝鮮制裁措置の2年間延長を閣議決定(-2015.4.13)
  11.21 衆議院承認(入港禁止、全会一致)
  11.27 参議院承認(同、全会一致

*参考
国会会議録検索システム http://kokkai.ndl.go.jp/

by kscykscy | 2014-04-01 00:00 | 日朝関係