<   2014年 03月 ( 2 )   > この月の画像一覧

「今日の朝鮮人民は半世紀前の朝鮮人民と同じではない」――ある韓日条約批判からの抜粋

 『売国的「韓日条約」は無効である』という冊子がある。1965年12月に朝鮮大学校の「朝鮮にかんする研究資料」第13集として出版されたもので、編集兼発行人は李珍珪である。韓日条約・諸協定の締結直後に出版されたこの冊子は、この条約のもつ問題点を網羅的に批判した解説と、朝鮮民主主義人民共和国の声明、韓国の知識人の宣言書や学生運動の闘争スローガンなどの資料をおさめた附録によって構成されている。

 この冊子の基本的立場は、韓日条約を批判し、この条約で扱われた諸問題は本来ならば統一朝鮮と交渉すべきことであり、それが現在困難であるならば日韓両政府に朝鮮政府も加えた三者で協議すべきであるというものだ。だが、こうした一般的な立場にとどまらず、この冊子は個別の論点に踏み込んだ批判を展開しており、その内容には「現代的」なものも少なくない。原則とする立場も極めて明瞭である。もちろん今日の立場からみて不十分な点はあるが、いま再読する意義はあると考える。

 「今日の朝鮮人民は半世紀前の朝鮮人民と同じではない」――半世紀前=1910年代の、つまり支配された朝鮮人と、今日=1965年の解放された朝鮮人は違うのだという立場から発せられたこの冊子の提起する論点は、2014年を生きる「今日の朝鮮人民」にとっても示唆を与えるところが大きい。果たしていまから「半世紀前の朝鮮人民」と、「今日の朝鮮人民」が同じでありえているのか。日朝交渉の再開や「第二の日韓協定」もささやかれるなか、再びこの問いについて考えなおす必要があるのではないだろうか。以下にテーマごとの抜粋を掲載する(下線はすべて引用者による)。

(鄭栄桓)

*参考
カテゴリ:「日朝平壌宣言」批判
http://kscykscy.exblog.jp/i4/
カテゴリ:世界「共同提言」批判
http://kscykscy.exblog.jp/i3/
「「不幸」と「不正義」――「日朝平壌宣言」批判」
http://gskim.blog102.fc2.com/blog-entry-4.html



1.「請求権」「経済協力協定」と朝鮮人民の賠償請求の権利について

「朝鮮人民は、日本帝国主義者が朝鮮人民にあたえたすべての人的、物的被害にたいして賠償を要求すべき当然の権利をもっており、日本政府にはこれを履行すべき法的義務がある。したがって、「対日請求権の解決および経済協力の協定」を通じて、日本当局と朴正煕一味間にやりとりするのは私的な金銭の取引きにすぎず、決して賠償金の支払いではない朝鮮民主主義人民共和国政府は、対日賠償請求権を保有するということを日本政府に重ねて警告する。」(「「韓日条約」と諸「協定」は無効である――朝鮮民主主義人民共和国政府の声明」[1965.6.23]、p.110)

「ほんらい、請求権にかんする問題は、日本帝国主義の約半世紀にわたる植民地支配の結果、朝鮮民族にもたらされた被害にたいする賠償でなければならない。
 それにもかかわらず、この協定ではその性格をあいまいにし、「請求権」が「韓国」と日本国双方にあるかのように表現し、ついには賠償問題が「経済協力」の問題にすりかえられてしまったのである。[中略]このように、「請求権」が双方にあることを明記し、かっての侵略政策が合法化される結果となった。すなわち、問題の本質をいんぺいし、転倒させたのである。
 そればかりか、賠償問題は半世紀間に朝鮮人民が受けた莫大な物的、人的被害にたいする日本政府の公正な賠償問題であり、全朝鮮人民の利益にかかわる問題である。したがって、全朝鮮人民を代表する統一政府が対象でなければならないし、それが今日の情勢で困難であるならば、朝鮮民主主義人民共和国政府と「韓国政府」および日本国政府の三者が協議のうえで解決しなければならない性質のものである。それにもかかわらず、日本政府は朝鮮人民の意思と利益を代表しない朴正煕「政権」を相手にして問題を「解決した」と記している。[中略]これは朝鮮人民にたいする冒瀆であり、挑戦である。朝鮮人民はこのような「協定」が完全に無効であることを宣言するとともに、賠償にたいするいっさいの権利を保留するものである。」(「「韓日経済協力」と日本独占資本の南朝鮮への再進出」、p.35-36)

「「請求権」が両国双方にあるかのように描き出した前文にかわって、ここではもはや、すべてが「経済協力」の名のもとに統一されてしまったのである。しかも、その金額の算定が全く不明瞭なものである。日本帝国主義の三十六年にわたる朝鮮の支配によって、多数の朝鮮人民が虐殺され、太平洋戦争に数多くの朝鮮人が動員され犠牲になった。朝鮮人民の土地と財産は奪われ、貴重な地下資源と朝鮮民族がのこした誇るべき文化財が略奪された。これらの人的・物的損害は、初歩的な資料によるだけでも数兆円にたっするといわれている。それにもかかわらず、「韓日特別委員会」で明らかになったように具体的な資料にもとづかず、政治的目的のためにこの問題が利用されてしまったのである。
[中略]
 これは、かっての植民地政策による罪過を清算し「真の友好と善隣」関係を樹立するものではけっしてないことを証明している。すなわち、日本は罪の清算ではなしに、お恵みをほどこす主導的立場に立って、商品と技術の援助をヒモつきでおこなうというのである。」(同上、p.36-37)

「文化財問題をはじめ、朝・日両民族によこたわる未解決の諸問題は、朝鮮にたいする日本帝国主義の植民地支配の結果生じたものであり、問題解決の第一歩は、日本側がかって日本帝国主義の朝鮮人民にくわえた犯罪行為・略奪について深く反省し、それを正しく解決する姿勢をとることである。そして、朝・日両国人民の利益にともに合致するように解決しなければならない。そのためには、とうぜん統一された朝鮮の政府との間でこれらの問題を処理するのが原則である。[中略]
 したがって、アメリカ帝国主義によってでっちあげられ、朝鮮人民の誰をも代表しえない朴正煕売国徒一味との間でとりきめられたいかなる「条約」や「協定」も、朝鮮人民を拘束することはできない。それらは何らの法的根拠もなく、すべて無効である。
 朝鮮人民は不法、不当に略奪された文化財の返還をはじめ、各種の賠償を日本政府に要求する権利を放棄していないのである。
 今日の朝鮮人民は半世紀前の朝鮮人民と同じではない。」(「欺瞞的「文化財協定」について」、p.91-92)

2.法的地位協定批判

「もともと在日朝鮮人は、すき好んで日本にきたのではない。在日朝鮮人は、過去日本帝国主義が朝鮮を植民地として支配していた時、土地をうばわれ、職をうばわれ、とくに侵略戦争のための徴兵、徴用などで強制的につれてこられ、酷使と虐待のなかでどうにか生きのびてきた人びとであるか、その子孫たちである。
 したがって、在日朝鮮人は、八・一五解放と同時にその奴隷的状態がただちに改善され、国際法ならびに人道主義的な諸原則にもとづいて、何らの迫害と差別もなく公正にとりあつかわれなければならなかった。
 にもかかわらず日本当局は、在日朝鮮公民を法的保護の外におき、朝鮮国籍取得の権利、就業の権利、民族教育の権利、祖国往来の自由などをふくむ民主主義的民族権利をはなはだしく侵害してきた。」(「いわゆる「法的地位協定」と在日朝鮮人の基本的人権」、p.61)

「在日朝鮮人は、独立国家の公民として、外国人として日本にすんでいる。在日朝鮮人は、朝鮮民主主義人民共和国の国籍法によって、共和国公民としての法的地位が保障されており、共和国の政治的ならびに法的保護をしっかりうけている。[中略]
 今日、国際法に公認されている原則は、誰が自国民であり、誰が自国民でないかの決定権を、その国の国内法、すなわち国籍法に任せている。[中略]このように、国籍の決定権は各国の国内法に一任されているので、各国の国内法の内容に相違が生じ、たとえば、血統主義と出生地主義の相違から、一個人に二つ以上の国籍があったり、またいかなる国の国籍ももたない場合ば生ずることもありうる。この何れも、人権を保護する見地からみた場合不利益となるので、今日の国際条約はこのような事態が生じないように考慮している。[中略]一方、個人が国籍をもつことは、世界人権宣言にも公認されている基本的人権であり、個人の意志に反して国籍をうばうことはできない。また、個人は国籍を選択する自由をもっている。[中略]
 さらに、現代の国際法は、外国人の法的地位を規定するにあたって、民族的蔑視と迫害を加えたり、かれらの人権をふみにじるような国家のいかなる行為をも禁止しており、また一般的に外国人に自国民が享有している同等の権利をみとめるか、または最恵国待遇をあたえている。[中略]共和国の憲法第87条には、民族的不和をかもしだすような宣伝せん動すら厳重な犯罪行為として刑罰で制裁することを規定している。
 日本政府にはこのような国際法上の諸原則や国際慣例にもとづいて、在日朝鮮公民に外国人としてのすべての合法的権利と待遇を保障すべき法的な義務がある。在日朝鮮公民から朝鮮民主主義人民共和国の国籍をうばい「国籍のない朝鮮人」をでっちあげたり、朝鮮国籍への変更の権利をうばい「韓国国籍」を強要したり、在日朝鮮人を差別し迫害するようなことは、国際法上絶対にゆるされない。
 さらにそればかりでなく、日本政府は、過去日本帝国主義が朝鮮人民のまえにおかした罪過にてらし、在日朝鮮公民に民主主義的民族権利を保障すべき歴史的道義的責任がある。元来、在日朝鮮人にかんする問題は、日本帝国主義の朝鮮占領とその植民地支配がのこした産物であり、日本政府はその歴史的、道義的責任を回避することはできない。」(同上、p.61-63)

「もともと居住の自由は、国籍をとわず何人にも保障されるべき基本的人権の一つであり(世界人権宣言第13条、日本国憲法第22条)、それに在日朝鮮人はすき好んで日本にきたのでもない。にもかかわらず、「法的地位協定」は、在日朝鮮人から居住の既得権すら奪おうとしており、「韓国国籍」をもつ者にいわゆる「永住権」なるものを付与すると規定して「韓国国籍」を強要し、かれらをアメリカの手先朴正煕一味のファッショ的統制の下におく一方、在日朝鮮公民から朝鮮民主主義人民共和国の国籍をうばおうとしている。これが全く不当であることは、すでにのべたとおりである。
 しかも「永住権」の範囲は制限され、かえって日本政府に「治安対策」推進の武器を与えている。「ひきつづき」日本に居住しているという条件をつけ、たとえば戦時中に夫が徴用されて妻子が本籍地に疎開したとか、学童疎開で子どもたちを故郷にあずけたとか、徴兵、徴用で家族を故郷に残したまま強制連行されてきた人たちや、一度でも解放後朝鮮にかえったことのある人や八・一五解放後日本にわたった朝鮮人はその範囲から除外され、家族離散のうき目をみることになっており、「協定永住権者」の子孫についても何らの確定的な保障はない。それに、許可要件審査に「家族関係及び日本国における居住経歴にかんする陳述書」が要求されており、強固に把握され、また退去強制事由が拡大され、日本当局の「自由裁量」によって勝手に追放されるようになっている。このように結果的には、空虚な在留権にすぎなくなるのもならず、在日朝鮮人にたいする治安維持的な規制を強化しようとたくらんでいる。」(同上、p.67)

「在日朝鮮人は初歩的な基本的人権である祖国への往来の自由さえみとめられず、解放後20年もたった今日まで、日本国内にかんきんされた状態におかれている。[中略]のみならず、反朝鮮、反総聯宣伝と民族教育にたいするデマと中傷をくりかえし、民族離間と民族排外主義をしきりに鼓吹している。岡山、京都などでは、在日朝鮮人を大量的に追放し虐殺せよ、とせん動するビラが白昼公然とばらまかれ、朝鮮総聯中央の名前をいつわった悪質な文書を散布したり、名古屋でみられたように武装スパイを朝鮮総聯に侵入させるという卑劣な謀略までおこなわれている。一方、あらゆる宣伝手段を利用し、在日朝鮮人が「抗日パルチザンを結成しようとしている」とか、「反日教育をやっている」とか、朝鮮大学校で「軍事訓練をしている」とか、全く根も葉もない中傷をくりかえしている。こうして日本国民に在日朝鮮人と民族教育にたいする不信感をいだかせ、在日朝鮮人と朝鮮総聯および民族教育にたいする非友好的な迫害、弾圧政策をつよめるとともに、奴隷的な「同化」を強要しようとしている。」(同上、p.70-71)

3.民族教育の保障と「同化」教育批判

「在日朝鮮人は過去日本の植民地統治と侵略戦争の犠牲者として日本にきた人びとであり、その子孫である。[中略]日本政府は、以上のような民族教育の国際的慣例からしても自国の教育方針にてらしてみても在日朝鮮人の民族教育を当然認めるべきである。
 とくに、日本政府は不幸な過去の歴史的事実からみても、在日朝鮮人の民族教育の権利を保障すべき歴史的、法的、道義的責任がある
 それにもかかわらず、日本当局は、侵略と戦争につながる「韓日条約・協定」の批准発効をたくらみながら、在日朝鮮人の民主主義的民族教育をみとめないで、不当にも弾圧を加えるために、最近ふたたび民族教育にたいするいわれのない中傷、ひぼうをみだりにしている。[中略]
 もともと各種学校の設置認可は自治体の首長の権限に属することである。ところが、日本の文部省は1950年3月14日次官通達をだして事実上朝鮮人学校にたいする設置認可を不当にも拒否させている。[中略]ひとり教育に必要ないっさいの権限と条件をととのえた朝鮮人学校にたいしては、認可もあたえず、免税などの措置を講じないばかりではなく、初級学校の児童たちにまで普通定期券を買わせている。これは不当な民族差別であるというべきである。」(「民族教育の正当性と「同化」教育の不当性」、p.77-78)

「日本当局は、民族教育にたいする弾圧を企図する一方、独立国家の在外公民である在日朝鮮人の子弟に屈辱的な「同化」教育を強要しようとしている。
 文部省が出している「文部時報」(1965年8月号)は「韓国人」が「わが国社会に調和した存在となるかいなかの基礎は教育によって培かわれるので、彼らとしては進んでわが国の学校に入るように」しなければならないといっているし、上記「調査月報」も「これらの人達にたいする同化政策が強調されるゆえんである」とおくめんもなくのべている。
 「同化」政策なるものは、侵略を合理化するために、帝国主義国家が植民地人民の言語、歴史、文化、風習などを抹殺して自己のそれを強要する植民地政策である
 在日朝鮮人は、日本の植民地統治時代に朝鮮人民の民族性を抹殺するための奴隷的「同化」教育を強要されたことを忘れてはならない。[中略]われわれはここで、つねに侵略と戦争と結びついて、朝鮮人民の民族教育が弾圧され、「同化」教育が強要されて来た歴史的事実を指摘しないわけにはいかない。[中略]
日本当局は在日朝鮮人の子弟が、日本の「社会によく適応した調和的存在」になり、「彼我双方の安定と幸福」のために「同化」教育をする、というが果たしてどうであろうか。」(「民族教育の正当性と「同化」教育の不当性」、p.78-80)

4.「東北アジア軍事同盟」批判

「「韓日条約」の侵略的、売国的性格はまた、この「条約」がアメリカ帝国主義のあやつりのもとに日本軍国主義者と朴正煕一味を結託させて「東北アジア軍事同盟」をしあげるためのものであるということにある。軍事的、侵略的な性格こそは、この「条約」のもっとも大きな特質である。
 このことと関連して注目をひくのは、「国連協力」をうたった前文と第四条である。すなわち、前文では「国際連合憲章の原則に適合して緊密に協力すること」と「サンフランシスコ講和条約」を「想起」することがうたわれており、第四条ではa項とb項で「相互の関係において国際連合憲章を指針とする」こと、「国際連合憲章に適合して緊密に協力する」とと二度も「国連協力」が強調されている。
 これは、この「条約」の軍事的、侵略的性格をもっとも集中的に表現したものである。
 周知のように、国連は一貫してアメリカ帝国主義の侵略政策の道具として利用されてきた。とくに朝鮮についていえば、国連は完全にアメリカの侵略の道具としての役割をはたしてきたし、いまもはたしている。
[中略]
 したがって、「国連協力」というのは、つまるところ軍事作戦行動を含むアメリカの南朝鮮におけるこのような侵略行動に全面的に協力するということである。これはとりもなおさず、日本の自衛隊が「国連軍」に協力するという名目で南朝鮮に進出することを意味する
 このことは、この「条約」が「国連協力」と「サンフランシスコ講和条約の想起」という規定にみられるように、アメリカの極東侵略政策の重要なかなめである「日米安保条約」と緊密にむすびつけられているという事実によっていっそう明瞭である。周知のようにいままでアメリカ帝国主義が「東北アジア軍事同盟」を実現するうえで大きな障害となったのは、日本と南朝鮮かいらい「政権」とのあいだに正式の「国交」がなかったことである。だが「韓日条約」の締結によってこの障害はとりはらわれた。「韓日条約」が「日米安保条約」にむすびつけられたことによって、日本と南朝鮮かいらいはアメリカの指揮のもとに1つに統合され「東北アジア軍事同盟」は事実上完成したことになる。よくしられているように「日米安保条約」は「サンフランシスコ講和条約」の産物であり、その精髄である。「日米安保条約」も「国連原則の尊重」をかかげ「個別的、集団的自衛権」にもとづく「相互防衛」をうたっている。ところで、日本政府の公式見解によれば、「安保条約」にいう「自衛権」の範囲は朝鮮をふくむ東北アジア全部となっている。
 このことと関連して注目すべきことは、旧「安保条約」締結のさいにとりかわされ、現在もなお効力をもっている「アチソン-吉田交換公文」である。この文書で日本は、「国際連合がその憲章にしたがってとるいかなる行動についてもあらゆる援助をあたえること」、「国際連合の行動に従事する軍隊を日本国内およびその附近において支持すること」を約束しているのである。
 これは、「韓日条約」によって、日本の自衛隊が「国連軍協力」という名目で海外派兵を禁じた日本国憲法や自衛隊法をも排除し、南朝鮮に出動することが可能になるということを意味する。なぜなら、日本政府の見解によれば「日米安保条約」とその附属文書は、日本国憲法より優先するからである。すでに1961年に当時の池田首相は、「いまの国連憲章あるいは国連警察軍として出ることは憲法違反ではない場合もある」とのべているのである。
 以上であきらかなことは、「韓日条約」が「東北アジア軍事同盟」を完成させ、日本の自衛隊を南朝鮮にひきいれるための事実上の軍事条約であるということである。」(「売国的「韓日条約」の本質」、p.19-21)

by kscykscy | 2014-03-30 00:00 | 日朝平壌宣言批判

民族教育介入の「神奈川モデル」

 民族教育介入の「神奈川モデル」とでも呼ぶべきものが成立しつつある。3月19日、神奈川県の黒岩知事は、朝鮮学校の児童生徒への学費補助を「拉致問題に関する独自教科書を作って授業を行うことが条件で、それまでは執行停止する」と述べた。前日に県議会が可決した新年度予算案が、「拉致問題に関する独自の教科書を作成し授業で使用する」ことを支給条件としたことをうけたものである。

 この間、大阪や埼玉と並び、神奈川県は補助金支給をダシにした朝鮮学校の教育内容への干渉の先頭にいた。散々恫喝だけして補助金を停止した大阪に比べれば、神奈川は補助金を出すといっているだけマシではないか、と思う人もいるかもしれない。だが、教育内容への干渉というレベルで考えるならば、数年間にわたって徐々に、しかし確実に内容への干渉を実現させてきた神奈川の黒岩県政は、ある意味ではより悪質であり、むしろ教育干渉の最先端にいるともいえる。

*参考
教科書干渉と「多文化共生社会」の始まり――朝鮮学校と高校「無償化」問題⑪
http://kscykscy.exblog.jp/15700342/

 『神奈川新聞』の3月26日付社説「当初の理念を忘れるな」は、今回の条件付き補助金交付について、以下のようにその問題点を指摘している。

「議案の可決と引き換えに、朝鮮学校に対して拉致問題の独自教科書の作成などがあたかも条件のように課された点は問題を残した。/ 県議会には朝鮮学校に対する厳しい見方もある。制度創設という実を取るため、やむを得なかった事情は分かる。しかし、「国際政治・情勢に左右されずに外国人学校の子どもたちが教育を受ける機会を安定的に確保する」という、新制度の理念は薄らいでしまった。/ さらに黒岩祐治知事の発言も危うさをはらむ。会見で「条件と言っているわけではない」とする一方、「中身を見て判断する。日本人が見て拉致に真っ正面から向き合っていると思うかも問われる」と教科書の記述内容にまで踏み込んだ。/ 「私学の自主性の尊重」がうたわれている教育基本法や私立学校法を持ち出すまでもなく、補助金を口実に私立の各種学校である朝鮮学校の教育内容に介入するような言動は厳に慎まなければならない。」

 教育内容への介入に疑義を呈した点に限れば妥当な批判であるが、だからこそ、社説がこれに続けて「神奈川朝鮮学園が拉致問題をすでに授業で扱っている事実もくむべきだ。同学園側から「教科書改訂までの暫定措置で拉致問題を明確にした独自教科書を作成する」と伝えてきている以上、斜に構えず信頼して待つという姿勢で十分ではないか」と提案したのは、蛇足といわざるをえない。上のような視点があるならば、むしろこうした朝鮮学校側の対応を引き出すにいたったこれまでの県の教育介入を改めて問題にするべきであって、それ自体を努力や成果のように位置づけるのは矛盾である。「補助金を口実に[…]朝鮮学校の教育内容に介入するような言動は厳に慎まなければならない」という立場をより徹底すべきだろう。

 しかし、教育内容への介入問題については、この『神奈川新聞』社説のような立場ですらも例外的であるのが実情だ。朝鮮学校の教育内容への介入は、あまりにも安易に主張されている。一例として『毎日新聞』地方版(広島)の黄在龍記者による「揺れる朝鮮学校」(1~4、3/13~3/16付)の最終回に掲載された「識者」のコメントをみよう。

 ここでは、「北朝鮮による核実験や進展がない拉致問題を背景に、国の朝鮮学校への高校授業料無償化不指定や、県と広島市の広島朝鮮学園への補助金交付の停止は続く。政治的事情と教育支援の関係をどう考えればいいのだろうか」という問いに、木村幹(神戸大学)、佐野通夫(こども教育宝仙大)、西岡力(「救う会」)の三人が答えている。佐野は「(認めない理由として)朝鮮総連とのつながりや歴史への価値観が異なるためという主張もあるが、それらは「高校無償化」対象外とする理由にはならない」と除外に反対し、西岡は「独裁体制を賛美するような教育が今でも公然と行われている。公的扶助を受けるには、まったくふさわしくない教育内容」と除外を肯定する。

 ここで重要なのは木村の「高校無償化の対象外や補助金交付の停止といった政策は、対外的には日本の印象を損なう効果しか持たない。朝鮮学校がある一定、北朝鮮のイデオロギーに沿った教育を行っているのは事実だが、その責任を子供たちに押しつけるのは筋違いだ。教育内容は行政指導などで対応すべきだ」というコメントである。「教育内容は行政指導などで対応すべき」と、内容への干渉を肯定しているのである。そもそも補助金停止反対の理由も、日本の印象を悪くするからという理由のもので、ある意味では現在の「反差別」言説のスタンダードといえる。教育内容への「行政指導」が、具体的に何を指すのか明らかではないが、ここで強調しておきたいのは、冒頭で述べた「神奈川モデル」の形成に一役買ってきたのは、無償化反対論のみならず、木村の主張に典型的にあらわれているような、教育内容への干渉を前提とした無償化/補助金交付擁護論であったということである。

 この連載には「揺れる朝鮮学校」という無責任なタイトルが付されているが、もちろん朝鮮学校は勝手に揺れているわけではなく、それどこから激しく揺さぶられてきた。揺さぶっているのは、無償化排除論者のみならず、無償化に賛成しながら教育内容への干渉を是とする論調でもある。高校無償化法ができてからというもの、マスコミはあたかも朝鮮学校の「教育内容」が適用の争点であるかのような報道を続け、誤った認識を拡散し続けてきた。今回の記事のように、報道は文科省や政府への追及をせず、あたかもそこだけが「現場」であるかのように、朝鮮学校に殺到した。そして、このようなニセの争点を作り上げ、朝鮮学校を揺さぶった責任は、『毎日新聞』にもある。

 これまで度々『朝日新聞』の論説――朝鮮学校の教育内容はかつてのようなものから変化したので排除するのはおかしいという主張――を俎上に載せてきたが、この機会に『毎日新聞』の社説の変遷から、この種の無償化擁護論の問題点をふりかえっておきたい。

 まず、中井洽拉致問題担当大臣が除外を要請した(2010/2下旬)直後、3月11日の社説をみよう。

「この生徒たちは、日本に生まれ育った社会の構成員であり、将来もそうだ。高校無償化は「子ども手当」とともに、社会全体で子供の成長を支えるという基本理念に立つ。その意味で子供自身に責任のないことで支援有無の区別、選別をするのは筋が通るまい。/ 北朝鮮の姿勢を理由に除外を押し通すなら、見せしめの措置と国際社会では受け止められかねない。子供たちに疎外感を持たせて何の益もない。〔…〕各種学校については、無償化法成立後、文部科学省令で高校課程に類する教育をしていることを判断基準に対象を定める。川端達夫文科相が「外交上の配慮などが判断の材料にならない」としているのは適切だ。〔…〕今回の論議を機に、朝鮮学校をはじめ外国人学校の実態に関心が高まり、地域社会との交流活発化などにつながることも期待したい。」(「社説:朝鮮学校 無償化除外、筋が通らぬ」2010.03.11・朝刊) 

 この社説の「期待」どおり、これ以後朝鮮学校の「実態に関心が高まり」、教育現場は報道をはじめ日本社会からの好奇の目にさらされ続けた。「外交上の配慮などが判断の材料にならない」ことに賛意を示しておきながら、民族教育権や外国人の教育権への関心の高まりではなく、「実態」への関心の高まりに期待を寄せるのはなぜなのか。すでにこの時点で全くもっておかしいのだが、後の論調に比べればまだ穏やかである。

 無償化法が施行され朝鮮高校生が事実上排除されてからの『毎日』の社説は、坂道を転がり落ちるようにひどくなっていく。以下は文科省が朝鮮高校生への「審査基準」を決定した直後の社説だが、まずは前半部の抜粋を読んでいただきたい。

「無償化は学校への支援制度ではなく、高校段階の生徒たちに国全体が学びの機会を支援するものだ。その理念から、基準をクリアしているならば、支給は当然といえよう。/ただ、朝鮮学校を対象とすることへの異論や反対意見は多く、政権内でも批判、疑問の声がある。歴史教科で、独善的な金父子独裁体制礼賛や反日的な内容があったり、朝鮮戦争は米・韓国側から起こされたと主張するなど国際的な共通認識や教育姿勢とは相いれないものがある。/拉致事件など重大問題で、北朝鮮側に誠実な対応が見られない状況も続く。そうした国につながる学校を認知するかのような支援に、割り切れない思いの人も少なくない。/審査基準は、他の私立学校同様に「教育内容の是非」を項目にしていない。しかし、適用反対意見も踏まえ、文科省は今後教育内容に「懸念される実態」があれば、自主的な改善を強く促し、どう対応したか報告を求めることを表明した。日本の高校の政治・経済の教科書を使う案も提示している。支援金が授業料に充当されているかもチェックする。」(「社説:朝鮮学校無償化 開かれた教育へ脱皮を」2010.11.06・朝刊)

 なぜ他の私立学校とは別に、朝鮮学校だけが教育内容に「懸念される実態」があるかどうかを審査されなければならないのか。「無償化は生徒たちに国全体が学びの機会を支援するもの」「基準をクリアしているならば、支給は当然」という認識に立つなら、文科省のあからさまな差別的「審査基準」に異を唱えてしかるべきだろう。だが、この社説はそのような方向へと議論を進めることなく、むしろ次のように朝鮮学校に提案する。

「一方、朝鮮学校側にとっては、注目される今こそ、自ら改革する好機と考えてはどうだろうか。多くの生徒は日本に生まれ、その文化、風習になじんでいる。学校以外では地域社会に根差している納税者の子供たちだ。開かれた学校として脱皮することに違和感はあるまい。〔…〕自主的で地域に開かれた改革を進めることによって、朝鮮学校もまた多様な学校の一つとして大事な位置を得るだろう。強く期待したい。」(同上)

 この社説が結論で「開かれた教育へ脱皮を」求める対象は、何と文科省ではなく、朝鮮学校なのである。このような包囲状況でなされる「改革」を「自主的」といえる感覚は到底理解できない。前半部で朝鮮学校の教育内容への不信を「国際的な共通認識や教育姿勢とは相いれない」と第三者的に紹介しているが、この論説委員はこうした「不信」自体を問いなおすことを考えようともしない。むしろ、「歴史教科で、独善的な金父子独裁体制礼賛や反日的な内容があったり、朝鮮戦争は米・韓国側から起こされたと主張する」ならば、無償化から外されても仕方ないという心情に理解を示しているとすら読める。だが表だっていうのははばかられる。だから世間が(そして論説委員である「私」が)、気持よく賛成できるように「自主的」に「改革」してくれ、というわけだ。倒錯というほかない。

 第二次安倍政権が成立し、正式に無償化から排除された直後の社説でも、この点は変らない。

「教育内容でも、北朝鮮の独裁体制の礼賛や独善的な見方がみられ、問題があるとこれまでも指摘されてきた。こうした状況では無償化の対象にすることへの違和感や反対する意見も多く出よう。/だが、朝鮮学校に学ぶ生徒の大半は日本に生まれ育ち、将来も日本社会に生きる。教科学習も日本の高校に相当し、多くの大学は朝鮮学校卒業生に受験資格を認めてきた。高校のスポーツ競技でも交流は活発だ。/生徒それぞれの学びの機会を経済的に支える、という制度の理念に、朝鮮学校の生徒を一律に除外するのはそぐわない。/社会に根差した生徒たちを、単に排除的に扱うだけでは解決にはなるまい。他方、朝鮮学校や総連側も問題指摘には応えるべきで、社会の無理解があるというのならば、積極的な情報公開が必要である。」(「社説:無償化見送り 排除にとどまらず」2012.12.30)

 この社説は文科省に対して「前政権や文科省がこの問題についてどう審査し、判断していたか詳しく検証し、公開することも必要ではないか」と注文をつけてはいるが、根拠があいまいな「社会」の「無理解」をあげて、朝鮮学校に「情報公開」を求めていることは変らない。生徒たちは「日本社会」に根差している、だから排除してはいけない。しかし、「日本社会」はまだまだ朝鮮学校や総連を「理解」しきれていない、だから情報公開が必要だ、という理屈である。この論説委員のいうような意味で「日本社会」が朝鮮学校を「理解」する日が来るとすれば、それは朝鮮学校の教育内容を「日本社会」が完全な管理下に置いた日であろう。神奈川での「県民感情」の名の下での教育介入は、その第一歩といえる。

 このように、中井洽による排除工作が始まってから、「審査」を口実に民主党が事実上排除した段階を経て、安倍政権が正式に排除を確定するまで、『毎日』の社説は一度も在日朝鮮人の歴史性や民族教育の権利という視点を採らず、むしろ朝鮮学校の教育内容への日本社会の無理解に共感を寄せ、その無理解に朝鮮学校が対応してこなかったことが問題であるかのような主張を繰り返した。「神奈川モデル」の成り立ちに『朝日』『毎日』などの擁護論が一役買ったと考えるゆえんである。

 神奈川で冒頭に紹介したような要求が議会で通ったということは、これからも「県民感情」の名の下に、朝鮮学校のあらゆる教育内容への干渉がありうるということだ。「神奈川県の朝鮮人は県民ではないのか」という反論など、ほとんど意味をなさないだろう。それどころか、県民であるところの朝鮮人児童生徒が朝鮮学校から異常な教育をうけているのだから、この児童生徒のためにも、県がしっかりと監視し指導しなければいけない、というさらなる干渉のレトリックが襲ってくるだけだ。実際、大阪で橋下はそのように断言した。小手先の理屈でどうにかなる段階ではない(もちろん、そんな「段階」は日本に一度も成立したことなどないが)。

(鄭栄桓)
by kscykscy | 2014-03-27 00:00 | 朝鮮学校「無償化」排除問題