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再掲・天皇訪韓について

 天皇訪韓問題について三年前に書いた文章を再掲する。

  和田春樹の天皇訪韓提案と「東アジア共同体」
  http://kscykscy.exblog.jp/10524714/

  再び天皇訪韓と和田春樹、そして「鳩山談話」について
  http://kscykscy.exblog.jp/11949746/

 李明博の発言が天皇への謝罪要求とまでいえるかは疑問である。確かに天皇は自らの父・祖父・曽祖父が犯した朝鮮支配の罪を謝罪し、その償いを実行に移す責任を負っている。だが現実をみれば、もし天皇が訪韓するにしても、日本政府の公式見解--つまり併合合法論の枠から出ることはありえない。この発言も朴槿恵あたりが自分は李明博とは違う、という材料として最大限利用してうまいこと親日をカモフラージュするのがオチだろう。

 警戒すべきは天皇の訪韓が日本の排外主義とは異なる、平和主義的な何かのようなイメージが作られてまやかしの「和解」が演出されることである。一方で狂乱した日本人たちが在日朝鮮人に襲いかかり、その後に残るのは天皇が訪韓したのにまだ過去のことを騒ぐのか、といった抑圧的空気だろう。植民地支配追求にとって百害あって一利なしである。
by kscykscy | 2012-08-19 14:07 | 日朝関係

独島問題と日本の朝鮮支配

 「Arisanのノート」というブログに「なされるべきであった事」という文章が載っている。

 Arisanは独島問題に関連して次のように書く。
「「グレーゾーン」にしておくというような方策が、真に知恵として意味を持ちうるのは、いまただちに国家対国家という近代的枠組み(「領土問題」)で事柄を突き詰めず、いったん平和的な状態を作ることによって、植民地支配や侵略という歴史のなかの暴力にきちんと向き合えるようにしようというメッセージとして発せられ、また受けとられた場合だけだ。
 それは、かつて日本がこの地域に行使したそのような暴力が、国家という枠組みを越えた、いわば普遍的な悪だからである。ゆえに、この悪と真摯に向き合うことは、日本のみならず、また全ての国家自身の、過去と現在の独善や暴力性をも自覚・反省させることにつながるのである。
 逆に、この日本が行った巨大な暴力が反省されず、それが現在の国家体制においても温存されたままであるなら、国家主義と暴力の根は、いつまでもこの地域から取り除かれないままである。
 だから問題の根本は、やはり歴史の不正義が問われなかった、とりわけ、自問されなかったことにある。
 周囲の国々にも、国家の強大化への志向や、少数民族への圧迫や、ひたすらな経済的利益の追求といった悪が存在するにしても、だからこそなおさら、日本には日本自身としてなすべきことがあったのである。
 日本の民衆が日本の権力者たちにそのことを強いるという正義が、遂行されなかったことこそ、われわれが恥じるべき第一のことなのだ。
 「尖閣」や「竹島」の問題にしても、植民地支配という事柄を忘却するなら、そこにはただ領土の争いがあるとしか見えなくなる。
 実際にあるのは、誰が植民地支配を行ったのかという一事である。そしてこれは、ナショナルな問題ではなく、より根本的な、ナショナリティ以前の不正義の問題である。
 我々が他国の拡張主義や自国中心主義を隣人として諌めうるのも、われわれ自身が自分たちの行使してきたこの暴力性と真摯に向き合う限りでのことなのである。」

 「日本がこの地域に行使したそのような暴力が、国家という枠組みを越えた、いわば普遍的な悪」とは、どういうことだろうか。日本が朝鮮に暴力を行使した際、国家という枠組みを超えたことなどない。日本国家が朝鮮民族に暴力を行使したのである。よって、「この悪と真摯に向き合うことは、日本のみならず、また全ての国家自身の、過去と現在の独善や暴力性をも自覚・反省させることにつながる」という断定は全く誤っている。日本の朝鮮への暴力と向き合うことは、日本国家が歴史的に行使してきた暴力に関連している。問題をむやみに「全ての国家自身」の「暴力性」に、そして国家主義一般の問題に拡大するべきではない。

 「実際にあるのは、誰が植民地支配を行ったのかという一事である」といっておきながら、なぜ「これは、ナショナルな問題ではなく、より根本的な、ナショナリティ以前の不正義の問題である」ということになるのか。なぜ日本国家による朝鮮植民地支配が「ナショナリティ以前」の問題なのか。植民地支配を行ったのは誰か、「ナショナリティ以前」の誰かが行ったのか。そうではない。日本国家であり、そこに属する日本国民が行ったのである。「ナショナリティ以前」の問題ではなく、ナショナリティの問題である。極めて非論理的な断定であり、馬鹿げている。

 おそらくArisanという人物は独島の領有権問題についての明言を避けたいのであろう。Arisanは「植民地支配という事柄を忘却する」ことを戒めている。しかし、「植民地支配という事柄を忘却」しないで独島問題を論じるならば、次のような理屈になるはずだ。

 日本の朝鮮支配は不法で不当な異民族に対する暴力的支配であった。独島の島根県「編入」は日本の朝鮮支配の一貫としてなされた。よってこれもまた同様に不法で不当な支配であった。いうまでもなく、現在の日本国家の独島に対する領有権もまた正当化されえない。独島は朝鮮の領土である。シンプルな理屈である。

 しかしArisanはそうはいわない。これは「ナショナルな問題」ではないという。おそらく独島が韓国領であるという主張は、Arisanからすれば「他国の拡張主義や自国中心主義」として諫める対象となるのだろう。しかし、「われわれ自身が自分たちの行使してきたこの暴力性と真摯に向き合」っていないから、いまは言えない。そういうことなのだろう。誤っているばかりでなく、傲慢な姿勢である。

 そもそも日本の植民地支配が「ナショナルな問題ではなく、より根本的な、ナショナリティ以前の不正義の問題」だというならば、「われわれ自身が自分たちの行使してきたこの暴力性」というときの「われわれ」とは一体誰を指すのか。日本人以外該当しようのないこの「われわれ」に、Arisanは一体誰を含めようというのだろうか。

 独島の領有権問題は、朝鮮植民地支配の問題の一貫である。Arisanはこの事実を認めるにもかかわらず、独島が韓国領であるという明言を避けようとする。それどころか韓国領であるという主張への批判をほのめかす。「ナショナリティ以前の不正義」などという言葉遊びの道具にしようとする。そうした非論理性と傲慢な姿勢を問いなおすことこそ、本来「なされるべきであった事」なのである。
by kscykscy | 2012-08-18 00:00 | 日朝関係