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続・自民党憲法草案批判にみる「護憲派」の朝鮮侮蔑意識

 自民党憲法草案は確かに憲法改悪案である。だが「甲賀志」@hiroujinのいう「「公益及び公の秩序に反する」と判断されれば簡単に剥奪される。一体これはどこの北朝鮮の憲法なのだ? この憲法を制定させたら最後、日本国民一億人は全員、自民党の奴隷と化すのは確実だ」という感想には、底抜けのおめでたさと悪質さを感じる。

 「甲賀志」@hiroujinはこの憲法草案が通れば、「日本国民一億人は全員、自民党の奴隷と化す」と煽る。つまり、この憲法草案施行後と現憲法体制下の現状との間には著しい断絶があると見ているようだ。だが本当にそうだろうか。

 事態はむしろ逆である。実際に自民党憲法草案を読めばわかるが、草案に記されていることの大部分は、いずれもすでに日本で実現している。

 立法府は国旗・国歌法や元号法を成立させ、行政は現場でこれを強制し、司法はこれを追認している。自衛隊は現憲法体制下に一貫して存在し続け、個別的自衛権についても政府は否定していない。海外派兵も現実のものとなった。選挙権が日本国籍者以外に認められたこともない。天皇の元首化にしても、天皇外交は戦後日本外交の柱の一つだった。それどころか、韓国併合百年の際の和田春樹の天皇訪韓提案に見られるように、むしろリベラル・左派の側も天皇外交の違憲をいうどころか、それを積極的に政治利用しようとしてきたではないか。

 つまり、自民党憲法草案は、こうして戦後日本が営々と現憲法体制下で積み重ねてきた「現実」を基盤に、最終的に憲法そのものをその「現実」に合致させようとするものである。確かにこの憲法草案が通れば、現在わずかながら存在している、憲法を楯にした現状への異議申立すら困難になるだろう。しかし、それはこの憲法草案が提示する規範が、現在の日本社会とは全くかけ離れたものであることを意味しない。繰り返しになるが、自民党は自らが既成事実化してきた「現実」を、憲法に持ち込もうとしているだけなのである。

 私が自民党憲法草案を揶揄する護憲派に底抜けのおめでたさを感じるのはこのためだ。自民党憲法草案を批判するならば、それが基盤にしている現状を撃たねばならない。架空の「未来」にではなく、自民党憲法草案がなかば実現している現在にこそ、驚愕すべきなのだ。

 それを言うに事欠いて「自民党のいうとおりにすると北朝鮮や中国のようになる」というスローガンを掲げるなど、言語道断である。朝鮮・中国への侮蔑意識に訴えかけるこうした論法は、それと対比されるところの戦後日本への優越感・肯定感を満足させ、上に述べたような、本来「護憲派」を名乗るならば撃たねばならない現状の問題点を隠蔽する効果を生み出す。即刻取り消すべきだ。
by kscykscy | 2012-04-30 00:00 | 日朝関係

自民党憲法草案批判にみる「護憲派」の朝鮮侮蔑意識

 先日、自民党が憲法改正草案を発表したが、これに対するネット上の「護憲派」による批判のレトリックがあまりに醜い。例えば、「甲賀志」@hiroujinによる『「国民の基本的人権は国家が自由に剥奪できます」という自民党改憲案のトンデモ内容まとめ』である。

 ここで@hiroujinは、冒頭から「自民党の改憲草案が北朝鮮じみていて、失笑すらわいてこなかった」「基本的人権や財産権にしても「公益及び公の秩序に反する」と判断されれば簡単に剥奪される。一体これはどこの北朝鮮の憲法なのだ? この憲法を制定させたら最後、日本国民一億人は全員、自民党の奴隷と化すのは確実だ。」などと、繰り返し自民党の憲法草案が「北朝鮮じみてい」る、「北朝鮮の憲法」のようだ、というレトリックを用いて自民党の憲法草案を批判する。

 また、このまとめへのコメントも「こんな憲法案を出す様な自民党員なる方々は、少なくとも建前上は自由で民主的な国では生き辛かろう。北朝鮮にでも亡命されては、いかがだろうか??」「国家がどこまで公共の福祉のために個人の権利を抑制出来るか、その限界を定めるのが民主主義国の憲法。政府が勝手に個人の権利を定義していいのは中国や北朝鮮。政府に個人の行動を制約する権利を無制限に与えるのがこの改憲案。」など、中国や朝鮮を引き合いにだしながら、自民党の憲法草案を罵倒するものが続く。

 他にも関連するツイートとしては「反原発芸人」を自称する「モン=モジモジ」@mojimoji_xの「自民党の憲法草案関連のTWを最初に見たとき、ほとんど憲法停止みたいな話だったから、アフリカかどっかの国の話かと思ったよ。よもや自民党だったとは。この国、すごすぎ。」というものもある。この「モン=モジモジ」に至っては「アフリカかどっかの国」などと、もはや具体的な国名すら挙げずに自民党批判のレトリックに援用している。

 こうしたレトリックは「左派」政党にまで浸透している。例えば、日本共産党の機関紙『赤旗』の政治部記者は次のようにつぶやいた。

「「国防軍」に「秘密保全」から「軍法会議」まで、まるで最近、例の「打ち上げ」に失敗したどこかの国のよう…。そんな自民党「憲法改正草案」の現物はコチラ→ http://www.jimin.jp/policy/policy_topics/pdf/seisaku-109.pdf (J)」
https://twitter.com/#!/akahataseiji/status/195830409240641536


 この「「打ち上げ」に失敗したどこかの国」は、明らかに朝鮮民主主義人民共和国を指している。そもそも朝鮮の正規軍は「国防軍」という名称ではなく、憲法にも「秘密保全」「軍法会議」に関する条文は存在しない。逆に、世界的にみればこれらにあてはまる朝鮮以外の国が存在する可能性は大いにあるにもかかわらず、あえて自民党の憲法草案が「例の「打ち上げ」に失敗したどこかの国」のようだと語る。つまり、この『赤旗』記者は、日本の反朝鮮情緒に訴えかけるかたちで、これを自民党批判に転用しようとしているのである。自民党の憲法改正草案に対し、決して論理のみによらず、日本人読者のなかにある反・朝鮮情緒を自らの側へと動員して批判しようとする野卑な心性が垣間見える。

 一方では「北朝鮮のミサイルに備えよ」「中国の脅威に備えよ」と改憲を主張し、他方では「お前こそ日本を北朝鮮や中国のようにする気か」と護憲を語る。これが2012年の日本の寒々しい憲法論議の光景である。

 とりわけ護憲派の自国の憲法をめぐる現状に対する陶酔ともいえる優越感と、それと裏腹の中国・朝鮮への侮蔑感は見ていてうんざりする。もし一片の良識があるならば、一度として政府に憲法をまともに守らせることのできなかった自らの非力と、「平和憲法」を自称しながら周辺諸国の脅威であり続けてきた「戦後」の歴史を恥じこそすれ、上から目線で朝鮮や中国をダシにして「護憲」を唱えるなどできないはずである。

 この憲法論議が恐ろしいのは、「護憲派」は主観的には改憲派に対抗しているつもりかもしれないが、結局は改憲論者と朝鮮・中国への侮蔑意識を共有している点にある。いやそれどころか、護憲派と改憲派は、日本人の中の「北朝鮮」に対するネガティブな感情を、互いに奪い合っているとすらいえる。もはや護憲派にとっても、他国に対する偏見や排外主義的情緒は、克服すべき対象ではなく、取り込み、動員すべき資源なのであろう。「護憲派」は劣情の動員競争で右翼やファシストに敗北することは間違いないが、「護憲派」たちは負けながらも朝鮮侮蔑意識の固定化にだけは寄与することになるだろう。

 早くから金光翔氏が「〈佐藤優現象〉批判」などで繰り返し指摘したところであるが、「朝鮮脅威論」「中国脅威論」と共存しうる護憲論(例えば「超左翼おじさん」こと松竹伸幸などはその典型だが)は、この間、日本のリベラル及び左派勢力が一貫して追求したことであった。今回の自民党憲法草案への「批判」には、そうしたリベラル・左派の病理が端的に現れているといえる。総保守体制下の憲法論議にふさわしい光景といえよう。

*参考
閑話休題 戦後日本と憲法九条の教訓 
http://kscykscy.exblog.jp/10830734/
筑紫哲也の反テロ戦争的「情」について
http://kscykscy.exblog.jp/10338360/

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追記

 ブログ「スーパーゲームズワークショップエンターテイメント 」で重要な指摘がなされていた。「本当に平和を望んでいるんだ、9条護憲だ、と言うならば、「北朝鮮のロケットが国民6年分の食料費などというのは嘘だ! 北朝鮮は日本にとって脅威ではない!」と断固主張してみるが良い。絶対に無理だろうが。彼らにとってはそんな事よりも、口先だけ平和主義・護憲派を自称して自分が「良識派」であるかのように装う事の方がずっと大事なのだ。」という指摘は全くその通りであると思う。

「こういう「良識派」ぶった日本人学者の方がタチ悪い 」
http://sgwse.dou-jin.com/Entry/405/
by kscykscy | 2012-04-29 00:00 | 日朝関係

続々・金明秀「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」批判

1.はじめに

 金明秀氏(以下、敬称略)が私の「抗議」に接し、一連のツイートを投稿した。しかし、ツイートは抗議への弁明や訂正ではなく、私の批判に対する反批判である。抗議に対する弁解は無い。本来ならば、これらの非難の撤回を前提とすべきだが、この度の金の反批判にも数多くの誤りが含まれているため、問題点に即して逐次検討したい。

*参考
金明秀「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」批判
続・金明秀「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」批判(以下、続編記事)
金明秀氏の筆者に対する不当な非難への抗議(以下、抗議記事)


2.「朝鮮大学校あたりの人」について

「ぼくがふと別件で書くことを思い立って、たまたまアクセスしなければ、半年だろうが一年だろうが読まれずに放置されていたわけでね。「緊急で…抗議する」というなら、こちらのツイートを読んだその場で@を付けて反論してくればいいものを。疲れるなぁこの人。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/195858336275632129

「別件というのは、(1)かつての記事からこの人を「朝鮮大学校あたりの人」と思い込んでいたが、続編の書きぶりは研究者の思考様式とは異なるので、おそらく見当外れの見立てだった、(2)同業者なら同じ土俵で論じることができるだろうにと書いたが、1を前提とするなら的外れだった、ということ。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/195859509506355200


 これは明らかにおかしい。抗議記事を読めば明らかなように、金が私を「朝鮮大学校あたりの人」だと推定したツイートは、続編記事についての感想としてつぶやかれたものだ。当然ながら、最初の記事への感想ではない。にもかかわらず、「かつての記事からこの人を「朝鮮大学校あたりの人」と思い込んでいたが、続編の書きぶりは研究者の思考様式とは異なるので、おそらく見当外れの見立てだった」とはどういうことだろうか。もし続編を読んで「見当はずれの見立てだった」と思ったのならば、なぜ続編記事に対し「朝鮮大学校あたりの人」と推測したのか。これは全く成り立たない弁解である。なぜこのような明らかに虚偽の弁明をするのか、私には理解しかねる。

 なお、念のため断っておくが、私は自らが「朝鮮大学校あたりの人」ではない、そのような推定は誤りだ、と弁明しているわけではない。前回の抗議記事でも書いたように、金のふるまいは、批判対象の属性を無根拠に推定し、かつ、その推定に基づき批判対象を不当に印象操作することによって、批判内容そのものの信頼性に打撃を加えようとする悪質な「人格攻撃」である、と主張しているのである。


3.「人格攻撃」について

「しかも、ぼくのツイート群をつまみ食いして印象操作かw それでよくも人格攻撃じゃないなどと言い張れたもんだな。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/195860662243700737


 私はつまみ食いではなく、関連するツイートを全文掲示し、私の批判が「人格攻撃」ではなく内容への批判であることの証明を試みた。確かに私の口調は激しいが、それは金の人格攻撃に向けられたわけではない。「つまみ食い」とは具体的にどの部分を指すのであろうか。金は根拠を提示すべきである。


4.「反日教育をしている朝鮮学校に日本国民の税金を支出するなど国益につながらない」との主張に対しては、「朝鮮学校は日本の国益につながっている」と反論するのが「有効な打撃を与える」リスク・コミュニケーションだ、という金の主張は誤っている、という私の批判について

「愛読者になっていただいたらしいから、あなたが設定したアジェンダに沿って答えてあげましょう。論点1はエビデンスがない。つまりはあなたの思い込みです。一方のぼくはといえば、傍証ぐらいはあります。一応はプロの研究者なのでね。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/195861654112698368


 これは反論というより、最大限好意的に解釈しても反論の予告である。私としては新たな反論をする必要を感じないため、初めの批判記事の該当箇所を再掲するに留める。

 「「リスク社会」云々は一種のハッタリと考えられるので無視して構わないだろう。ここでの核心は、高校「無償化」除外に対し在日朝鮮人は「朝鮮学校は日本の国益につながっている」と反論するのが有効だ、という部分にある。さて、在日朝鮮人は高校「無償化」除外に際し、「朝鮮学校は日本の国益につながっている」と反論するべきだろうか。また、そうした反論は果たして有効だろうか。
 現状をみるに、確かに朝鮮高校や在日朝鮮人団体のうち、「朝鮮学校は日本の国益につながっている」という理屈で「無償化」除外反対を訴えるものはいない。理由は明白であろう。そもそも事実に反するからである。朝鮮学校は在日朝鮮人の民族教育のために存在しているのであり、「日本の国益」とは無関係である。市民社会に訴えるために「日本の多文化共生に役立っている」くらいは言っている朝鮮人団体もあるかもしれないが(それ自体大変危うい主張であると思うが)、さすがに「朝鮮学校は日本の国益につながっている」はない。
 何より、「日本の国益につながっている」などという理屈は事実に反する上、これまで日本政府の弾圧政策にも屈せず民族教育を継続し、担ってきた在日朝鮮人一人ひとりの歴史と尊厳を毀損するものである。金明秀氏のいうように「朝鮮学校は日本の国益につながっている」という理屈を用いて仮に「無償化」適用となったとしても、私は、その後永久に朝鮮学校は「日本の国益」という鎖につながれ、また、数多くの在日朝鮮人の尊厳を傷つけることにより、金銭ではあがないきれないほどの大きな「損害」を蒙ることになるのではないかと考える。」(「金明秀「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」批判」



5.「反日教育をしている朝鮮学校に日本国民の税金を支出するなど国益につながらない」との主張に対しては、「朝鮮学校は日本の国益につながっている」と反論するのが「有効な打撃を与える」リスク・コミュニケーションだ、という金の主張には有効性が無い、という私の批判について

「論点2もあなたの思い込み。『人権と生活』にも書いたとおり、この点に関するぼくの主張は多数のエビデンスを前提としている。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/195862078123278336


 これも同様であるため、私の批判を再掲する。

 「ただ、「朝鮮学校は日本の国益につながっている」というレトリックはおそらく「有効」ですらない。金明秀氏は「有効な打撃」を与えうると主張しているが、実際にはむしろ逆の効果しか生まないことは明らかだ。そもそも、「日本の国益」という言葉は、その性質上日本政府あるいは日本人マジョリティに独占的な解釈権がある。一度「朝鮮学校は日本の国益につながっている」などというレトリックを用いたが最後、今般の情勢をみればわかるように、政府や自治体、マスコミ、右翼、ネットイナゴが朝鮮学校に押し寄せて「日本の国益」に反する「事実」を無限に挙げ続けるだろう。これに反論するのは困難である。何より金明秀氏自身が認めているように、「この種のデマは事実に基づいて形成されるのでなく、情動的側面が強いため、反証する事実を示すだけでは修正されにくい。しかも、「反日教育」というあいまいで都合のよいマジックワードが、あらゆる反論を無効化してしまう」からである。よって有効ですらない。」(「金明秀「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」批判」


6.金は自らの主張は「ネトウヨ」の「認識フレーム」を転換させるものだ、と主張したが、金の主張はむしろその「認識フレーム」にとどまることを積極的に主張したものである、という私の批判について

「論点3。ぼくは「ネトウヨ」の「フレーム」を転換するということは論じていないつもりなのだけどね。いま自分の原稿を確認してみたが、やはり書いていない。藁人形を勝手にこしらえてぼくの名前を張り付けられても、それはぼくじゃないよ。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/195863162929688576


 これはあまりに明白な言いがかりである。金は2012年1月9日、私の批判への弁解として、次のようにつぶやいた。

「ぼくが試行錯誤して見つけた中では、「朝鮮学校は日本の国益になる」というレトリックがネトウヨの認識フレームを揺るがす効果を持っているというだけの話。手段として有効な別のレトリックがあるなら、それを使えばいい。 @gurugurian @mujigedari」
https://twitter.com/#!/han_org/status/156291332254613504


 このように、金は明確に「「朝鮮学校は日本の国益になる」というレトリックがネトウヨの認識フレームを揺るがす効果を持っているというだけの話」と自らのエッセイについて補足説明をした。私は決して揚げ足をとっているわけではない。そもそもこのツイートがあったからこそ、私は「ネトウヨ」の「認識フレーム」云々に言及したのである。しかも、私は続編記事でわざわざこのツイートを引用し、次のように批判した。

「しかし、一方で金は、私の批判への弁明として「あのエッセイで最も重要な論点は、認識のフレームを転換するような運動が必要だということ」「「朝鮮学校は日本の国益になる」というレトリックがネトウヨの認識フレームを揺るがす効果を持っているというだけ」とも述べている。しかし、「朝鮮学校は日本の国益になる」というレトリックは、「国益になるなら無償化してやる」という「認識フレーム」を前提にしている。「国益にならない」と思ってる「ネトウヨ」に、いや国益になるよ、と言い返すことが「認識フレームを揺るがす」ものではないことは明らかである。金は「国家の敵」云々の箇所でも「その不正義を許容できるのか」と結論をぼかして書いているが、これはおそらく「その不正義を許容して、それを前提に戦うべきだ」と書いてしまうとあからさまに卑屈であるため言いづらいが(実際には金の主張は卑屈なのだが)、「その不正義を許容すべきではない」と書くと自らのエッセイと矛盾することになるからだろう。」(「続・金明秀「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」批判」)

 以上の事実から、私に対する「藁人形を勝手にこしらえてぼくの名前を張り付けられても、それはぼくじゃないよ」という批判はあたらない。金への批判としては上に掲げた主張に付け加えるものは無い。


7.金は「歴史的、現在的日本の加害を問わない、日本国民国家の枠組みの中での「多文化共生論」や「在日論」などは、抑圧者の論理と支配に加担する犯罪行為だとさえいえる」との徐勝の主張を好意的に引用し賞賛しているが、むしろ金の主張こそが「日本国民国家の枠組みの中での「多文化共生論」や「在日論」」である、という私の批判について

「論点4。あなたがまったく理解できていない重要な論点が少なくとも2つあり、その一つがここだ。ナショナリズムと一口に言っても、多様なスタイルが実践され、提案され続けている。あなたが70年代的なナショナリズムしか想定できないからといって、ぼくもそうだと決めつけられては困る。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/195864159123021827


 確かに私には、金のこのツイートも含めて、なぜ金が徐勝氏の批判を肯定的に引用するのか理解できない。

 むしろ金のエッセイの趣旨からすれば、徐勝の主張は批判の対象になるのではないだろうか。なぜなら、金は短期的に見た場合、マジョリティの認識フレームを転換させるのは困難であるから、その枠内での主張を行うべきだ、と主張しているからである。これはあてこすりではなく、単純に論理の問題として徐勝の指摘は金のエッセイの主張とは全く異なるものであり、むしろ金の主張は徐勝の批判対象であると思う。もちろん、私は金の主張と徐勝のそれが異なること自体が非難の対象になるとは思わない。率直に言って、単純に論理のレベルでなぜ金が徐勝氏のあの指摘を賞賛するのか私には理解できない。ただ、その要因は、私の理解力の不足ではなく、金の自説に対する理解力の貧しさにあると考える。


8.金は、宮台との論争についての私の記事が「誤解」であると主張するが、誤解ではない、という私の主張について

「論点5。ぼくは宮台氏に粘着しているわけではないので、彼がその後どういう主張を展開しているか知る由もない。が、あの議論の場面で彼は自説の誤りを明確に撤回し、その後は少なくともぼくが知るかぎり、ぼくが批判した内容の発言はしていない。あなたはリアルタイムで見てたわけじゃないんでしょ?」
https://twitter.com/#!/han_org/status/195865270777167872


 ここにも問題のすりかえがある。私は以前、金と宮台のやり取りについて次のように記した。

「つまり、宮台によれば日本政府は「『在日=強制連行』図式」を前提に在日朝鮮人の法的地位に関する政策を採ってきたのであるが、その「図式」は虚偽であるため「在日政策」も変更すべきである、ということになる。よって特別永住外国人が日本国籍を取得しないまま地方参政権を取得することには反対だ、というわけだ。
 宮台の議論については金明秀がこれを批判して、両者の間に若干の論争があったようだが、この部分については全く触れられぬまま終息を迎えたようである。私は宮台の議論は「『帰化すればいい』という傲慢」ともいえるものであり、ヘイト・スピーチであるという金明秀の結論に賛同するのであるが、なぜ金がこの点に触れず、また、宮台がこの説を維持しているのにも関わらず矛をおさめて和解したのか理解しかねる。
 問題点は極めて単純である。宮台のいうところの「『在日=強制連行』図式」に則って日本政府が「在日政策」を立てたことなどあるのか、ということである。私の知る限りそんなことは一度も無かった。もしあるというなら宮台は論拠を示すべきだろう(まさか小学校時代の教師の言が証拠とでもいうのだろうか)。」(「戦後日本政府の在日朝鮮人「政策」と強制連行問題」)


 また、続編記事で私は次のように記した。

 「実はこのブログで金に言及したのは今回が初めてではなく、以前にも一度宮台真司の問題と関連して触れたことがある(戦後日本政府の在日朝鮮人「政策」と強制連行問題)。
 その時私は、宮台が、日本政府がこれまで現存する在日朝鮮人の大多数は強制連行による被連行者及びその子孫であるという「図式」に基き「在日政策」を立ててきた、という驚愕の新説を主張したことに触れ、金がなぜ宮台がこの主張を取り下げていないにもかかわらず和解したのだろうか、と書いた。これに対し、金は「ありゃ、kscykscy氏に誤解されておる。ちょっと凹むなぁ。その「驚愕の新説」を取り下げたので「矛をおさめて和解した」のだけど…。」とあたかも私が「誤解」したかのようにつぶやいた。
しかし、少なくともネット上にある文章を見た限りでは、宮台は、日本政府がこれまで現存する在日朝鮮人の大多数は強制連行による被連行者及びその子孫であるという「図式」に基き「在日政策」を立ててきた、という認識を誤りとは認めておらず、私は誤解だとは思っていない。もし誤解というなら証拠を示すべきだろう。」(「続・金明秀「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」批判」)


 ここからもわかるように、私は論争の「その後」の宮台の主張を問題にしたわけではない。

 私は論争を「リアルタイム」で読んでいたが、なぜ宮台が、日本政府がこれまで現存する在日朝鮮人の大多数は強制連行による被連行者及びその子孫であるという「図式」に基き「在日政策」を立ててきた、という主張を修正していないにもかかわらず、金が批判の矛を収めたのか純粋に疑問に思ったのである。金も日本政府がこのような認識を前提に在日朝鮮人への政策を立てたとは思っていないであろうから、不思議に思い、それを指摘したのである。しかしこれに対し、上に挙げたように、金はその指摘は私の「誤解」であるとツイートした。

 確かに宮台は自説の一部を修正した。しかし、当時の宮台のツイートをみる限りでは(私も「その後」の宮台のツイートは見ていない)、上記の点についての自説修正は無かった。このため、金による「誤解」との指摘は大変意外であった。私としてもそれなりに探索したが、現時点では金による私の主張が「誤解」だとする指摘は妥当性を欠くものであると考えている。


9.「リスク社会」というハッタリについて

 「さて、あなたが自分で設定したアジェンダは以上の5点だったみたいだけど、大事な論点が一つ抜けてるんだよね。「金のいう「リスク社会」云々はハッタリである」というあなたの認識の妥当性だ。先ほど書いた、あなたが理解できていないことの一つがそれ。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/195865754778865664

 「なるほど、「ハッタリ」だという指摘は完全な誤りというわけでもない。震災直後、リスク論に世間の注目が集まっていたので、いい機会だと思って名前を借りたという側面は確かにある。また、本来の論点は「再帰的近代における他者論」なので、ベックよりもさらに適切な研究者はいる。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/195866565894356993

 「でもね、「再帰的近代(あるいはリスク社会あるいは排除型社会)における他者」という問題設定そのものはハッタリじゃないんだよ。あなたの言うとおり、ベックはそういう趣旨では書いてないんだけど、この分野ではむしろオーソドックスな問題設定なんだ。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/195867108020723712


 この金の弁明に、私は正直困惑せざるを得ない。エッセイを読めば誰しも理解できると思うが、金は明らかに「リスク社会における「他者」」を論じると表明し、ベックを参照した。しかし、ここに至ってエッセイの「本来の論点は「再帰的近代における他者論」」である、論点を理解しろという。後出しジャンケンそのものである。率直に言って、あのエッセイから「「再帰的近代における他者論」という「本来の論点」」を見抜くことなど不可能である。また、「再帰的近代」と「リスク社会」そして「排除型社会」は明らかに異なる概念である。これを安易に並列して、付け足し的に言い逃れようとする姿勢には「社会学者」としての誠実さを疑わざるを得ない。

 また、私は「「リスク社会における「他者」」という問題設定そのもの」がハッタリであると述べているのではない。私は続編記事で次のように記した。

 「ちなみに、前回の記事で私は金のいう「リスク社会」云々はハッタリであると書いた。理由は金のベックからの引用はほとんど意味がないからだ。確かにベックは「危険社会」がスケープゴート社会への内在的な傾向を含んでいると指摘しているが、その際に、「他者」の側が「リスク・コミュニケーション」をする必要があるなどとは一言も書いてない。金のベックからの引用はすべて『危険社会』からのものだが、そもそも「リスク・コミュニケーション」なる語自体が『危険社会』には登場しない。よって私はベックへの言及はその社会科学的分析を前提にするためではなく、自らの主張を粉飾するためのハッタリと判断した。エッセイは金の地の文章として読めばそれで十分である。」。」(「続・金明秀「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」批判」)
 

 ここからもわかるように、私は金によるベックの引用そのものがハッタリである、と述べた。エッセイにおける金の主張の根幹をなす部分はベックとは何ら関係ないため、あくまで金の地の文章としてエッセイを読めば十分だ、と指摘したのである。

 なお、誤解を避けるために断っておくが、私はハッタリとしてのベックの引用自体を非難するつもりもない。短いエッセイであるから、引用が断片的になることは十分ありうる。しかし、あのエッセイには、「リスク・コミュニケーション」云々についてもベックが主張しているかのように読めてしまう不親切さがある。このため、ベックとは無関係に、金の地の文として読めば十分であると釘を刺したのである。もちろん、ベックと無関係な金の地の文であることが、それ自体として文章の妥当性を損なうものでもない。

 「日本(と朝鮮籍在日)に固有の問題ももちろんある。歴史性を度外視しては何も語れない。でもその一方で、これは世界的に同時に進行している現象の一部という側面もある。その両者を視野に入れることで、この困難な状況を生き抜く活路を見出そうというのが『人権と生活』のエッセイの趣旨だった。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/195868220891217920

 「ぼくは何度も何度もそのことを指摘したはずだが、あなたは一貫してその論点をスルーした。それこそ、この問題を認識するフレームを持ち合わせていないか、あるいは意図的にぼくの論点を矮小化しようとしているかのいずれかでしょうね。いずれにせよ、議論が成立する状況じゃない。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/195868864616214528


 「~という側面もある」までの箇所は、「日本(と朝鮮籍在日)」と並列する意味が不明なのを除けば、一般論としては同意する。しかし、金のエッセイは、日本の固有性と、世界的な同時進行現象であるという側面「を視野に入れることで、この困難な状況を生き抜く活路を見出そうという趣旨」に留まるものではない。これについてはすでに再三述べたので、繰り返す必要はないと思う。また、金は「何度も何度もそのことを指摘したはずだが、あなたは一貫してその論点をスルーした」と述べているが、私は金のベックを援用した「リスク社会」及び「リスク・コミュニケーション」論はベックとは関係の無いハッタリである、とすでに述べた。「ハッタリ」については、上に挙げたツイートで明らかなように金自身も認めている。私は決して論点をスルーしていない。


10.結び

「批判自体は歓迎です。それが適切な論点であれば、なおありがたい。でも、あなたの続編以降のそれは、批判という形式をかたった攻撃感情の発露でしかない。自分の正義に酔っぱらっていると、落とし穴に落ちますよ。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/195870277870161921


 以上からもわかるように、私の批判は金に対する「攻撃感情の発露」ではなく、金の主張への批判である。私は金の人格に問題があると言っているのではなく、また、金を攻撃することそのものを目的にしているのでもなく、金の主張が誤っている、と述べているのである。

 また、前回の抗議の繰り返しとなるが、金に対し、私の主張が「陰で人格攻撃」「卑劣な対応」「言いがかり」「主張の内容ではなく人格を攻撃する愚論」であるという非難を撤回することを求めて、この記事の結びとしたい。
by kscykscy | 2012-04-28 00:00 | 朝鮮学校「無償化」排除問題

金明秀氏の筆者に対する不当な非難への抗議

1.はじめに

 私が以前書いた記事「続・金明秀「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」批判」(以下、続編記事とする)に対し、金明秀氏(以下敬称略)がツイッター上で次のようにつぶやいた。

「あ、続編が投稿されてたのか…。前回は言い足りないところをうまく補足してくれているとも思ったが、今回のは単なる言いがかりだな。「正面から反論」しろというなら、あなたこそ名前を名乗って正面から来なさいよ。はぁ、うざっ。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/193904397560987649


 この後に金が連投したツイッター上のつぶやきは、筆者を不当に非難するものであり見過ごすことはできない。緊急であるが、以下に問題点を指摘し、抗議する。(なお、関連するつぶやきは文末に掲載したため、引用に際してアドレスは記載しない。)

*参考:「金明秀「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」批判」 http://kscykscy.exblog.jp/17567948/

 その前提として匿名批判の問題に触れておきたい。続編記事に対し、金は「「正面から反論」しろというなら、あなたこそ名前を名乗って正面から来なさいよ」と記した。しかし、私が「金は問いに対して正面から答えようとせず」と書いた際の「正面から」は、一読してわかるように、批判に対し、批判の内容に即して反論しないという意味である。当然ながら「実名で」という意味ではない。そもそも金は実名で文章を公表しているのであるから、私が「正面から」を実名で、という意味で用いていないことは明らかである。

 もちろん、名指しで批判するなら名を名乗れ、という主張は成り立ちうる。匿名による批判は卑怯でありそうした批判には答えない、と公言するweb上の書き手もおり、これは一つの見識であろう。だが金は次に述べるようにそうは書いていない。また、私は金のエッセイを批判した一度目の記事も匿名で執筆し、これに対して金は公開されたツイッター上で弁解した。なぜ二度目の批判だけ「名前を名乗」れと主張するのか理解に苦しむ。

 そもそも金は自らは匿名批判をしたわけではないと言っている。しかし「ひとに「正面から」云々するなら、自分も堂々と矢面に立つべきでしょう」 とも書いている。冒頭に引用したつぶやきは明らかに匿名批判だが、それを撤回した上での「自分も堂々と矢面に立つべきでしょう」という提案は、具体的に筆者にどのような行動を求めているのであろうか。理解に苦しむ。

2.「陰で人格攻撃」「卑劣な対応」「言いがかり」「主張の内容ではなく人格を攻撃する愚論」という非難について

 金の言明は、好意的に解釈するならば、今回の記事は人格攻撃で卑劣な愚論なので、それならば記名で行え、という主張でもあると考えられないこともない。しかし、そもそも続編記事についての金の非難――「陰で人格攻撃」「卑劣な対応」「言いがかり」「主張の内容ではなく人格を攻撃する愚論」――はいずれも根拠を欠くものであり、いずれもが極めて不当な非難である。以下にその理由を述べたい。

a. 私の批判は「言いがかり」であり、「主張の内容ではなく人格を攻撃する愚論」である、とする主張

 「言いがかり」とは、根拠の無い言明である。しかし、私は可能な限り、金の文章を引用し、またツイッターであっても可能な限り関連するものは探索し、かつ本文中に引用した。また、批判に際しては可能な限り根拠を示した。強いて言うならば、一度目の批判記事における「「リスク社会」云々は一種のハッタリと考えられるので無視して構わないだろう」の箇所が根拠を示していない断定といえる。しかし、これについても、本論とは関係のない箇所でありながら、念のため続編記事でその根拠を示した。よって、金の主張は不当な非難である。

 また、人格攻撃とは、相手の提示した主張や論理ではなく、相手個人の性格や動機、属性(とされるもの)への非難を行い、それによって主張そのものの信頼性に打撃を与えようとする行為である。しかし、私の批判は、全て金のエッセイとつぶやきにおいてなされた「主張の内容」に向けられている。決して長い記事ではないので再読すれば明らかであるが、念のため要点を摘記しよう。

1. 金の「反日教育をしている朝鮮学校に日本国民の税金を支出するなど国益につながらない」との主張に対しては、「朝鮮学校は日本の国益につながっている」と反論するのが「有効な打撃を与える」リスク・コミュニケーションだ、という主張は誤っている。

2 .金の「反日教育をしている朝鮮学校に日本国民の税金を支出するなど国益につながらない」との主張に対しては、「朝鮮学校は日本の国益につながっている」と反論するのが「有効な打撃を与える」リスク・コミュニケーションだ、という主張には有効性が無い。

3.金は自らの主張は「ネトウヨ」の「認識フレーム」を転換させるものだ、と主張したが、金の主張はむしろその「認識フレーム」にとどまることを積極的に主張したものである。

4.金は「歴史的、現在的日本の加害を問わない、日本国民国家の枠組みの中での「多文化共生論」や「在日論」などは、抑圧者の論理と支配に加担する犯罪行為だとさえいえる」との徐勝の主張を好意的に引用し賞賛しているが、むしろ金の主張こそが「日本国民国家の枠組みの中での「多文化共生論」や「在日論」」である。

5.金は、宮台との論争についての私の記事が「誤解」であると主張するが、誤解ではない。


 このように、私の記事は金がエッセイやその後のつぶやきで提示した「主張の内容」を批判したものである。私は金の人格への非難によって、主張の信頼性に打撃を与えようとしておらず、金の「主張の内容」そのものを批判した。よって、金の主張は極めて不当な非難である。

b. 私が「陰で人格攻撃」している、という主張

 「陰で人格攻撃」とは、批判対象のあずかり知らぬところで人格攻撃をしている、という意味であると考えられる。しかし、私のブログは公開設定にしており、誰もが読むことができる。一度目の批判の記事に対し、金はツイッター上で反応しており、私は続編記事も金に読まれることを前提に掲載した。あるいは、ここでいう「陰で」は「匿名で」という意味かもしれないが、そうだとするならば、自らは匿名批判をしたわけではない、という主張と矛盾する。よって「批判対象のあずかり知らぬところで」という意味以外考えられず、金の主張は、極めて不当な非難である。

c. 私の記事が「その種の卑劣な対応を代表するかのような記事」である、という主張

 金は「いまの総連系知識人はあまりにも内向きすぎる。例えば朝鮮学校擁護の論陣を張っているのはいずれもメインストリームを外れた人ばかり。そういう人たちに反論を任せておきながら、いざ気に食わない主張があれば陰で人格攻撃をしたりする。」「そんな中、あのブログは数少ない正論のメディアだと期待していただけに、その種の卑劣な対応を代表するかのような記事には、心底がっかりしました。おそらく朝鮮大学校あたりの人でしょう。ひとに「正面から」云々するなら、自分も堂々と矢面に立つべきでしょう」 と書いた。

 普通に読めば、私の批判が「卑劣な対応」である根拠は、日常的には「メインストリームを外れた人」に「反論を任せておきながら、いざ気に食わない主張があれば陰で人格攻撃をしたりする」「総連系知識人」「おそらく朝鮮大学校あたりの人」による非難だからだ、ということになる。
 

 しかし、匿名にもかかわらず、金に私が「朝鮮大学校あたりの人」であるとわかるはずがない。しかも、数多くの「朝鮮大学校あたりの人」のなかでも、「メインストリームを外れた人」に「反論を任せておきながら、いざ気に食わない主張があれば陰で人格攻撃をしたりする」「総連系知識人」の「朝鮮大学校あたりの人」であることがわかるはずなどない。よってこれは根拠の無い推定である。

 あるいは、主張から推定した、と弁明するかもしれない。しかし、そもそも主張に問題があるならば、主張そのものを批判すればよい。金が行ったのは、無根拠に書き手の属性を推定し、それを批判への弁明として提示したことである。これは批判対象の属性を無根拠に推定し、かつ、その推定に基づき批判対象を不当に印象操作することによって、批判内容そのものの信頼性に打撃を加えようとする悪質な「人格攻撃」そのものである。

3.結

 これまでの記事とは異なり、以上は、金による「陰で人格攻撃」「卑劣な対応」「言いがかり」「主張の内容ではなく人格を攻撃する愚論」などの筆者への不当な非難への抗議である。金が抗議を受け入れ、自らの発言を訂正することを求める。

 また、これは金のつぶやきを読んだ第三者に向けた筆者の抗弁でもある。金による「陰で人格攻撃」「卑劣な対応」「言いがかり」「主張の内容ではなく人格を攻撃する愚論」という筆者への非難が無根拠であることを、公正な読者が認識することを期待する。


*参考

「あ、続編が投稿されてたのか…。前回は言い足りないところをうまく補足してくれているとも思ったが、今回のは単なる言いがかりだな。「正面から反論」しろというなら、あなたこそ名前を名乗って正面から来なさいよ。はぁ、うざっ。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/193904397560987649

「@unspiritualized ネットの匿名性に関する一般的な議論の中で解釈されると心外ですね。ぼくは匿名そのものを詰ったことなど一度もありません。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/194008631413448704

「@unspiritualized ぼくは所属もメールアドレスもツイッターでも批判を受ける準備をして、実際にヘイトスピーチとも向き合っているのに対して、自分は捨てアドすら示さずにいながら「正面から正面から反論するわけでもなく」などというのは単純にナンセンスな話です。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/194011879906099200

「@unspiritualized あの論点だと総連と朝鮮学校の運営を批判する形にならざるをえません。ブログで反論するとなれば、日本語で読める総連と朝鮮学校への批判が数万人の読者の目に触れることになります。ネトウヨ界隈は「金明秀ですら朝鮮学校を批判した」と大騒ぎになるでしょう。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/194013298050609152

「@unspiritualized 朝鮮学校の支援者だって無条件に支援しているわけでなく、不満や言いたいことはあっても今はそれをあえて争点化せずにサポートする時期だと判断して黙って支援しているということもあるわけですが、それをつぶやいたら「恫喝」だとか呆れて二の句が継げない。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/194014278305591296

「@unspiritualized 続編の記事に関していえば、主張の内容ではなく人格を攻撃する愚論という意味で、ヘイトスピーチの類と大差ありませんね。筋の通った論者だと思っていただけに、たいへん残念です。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/194015821318729728

「@unspiritualized 迷いましたが、もう一つ書いておくと、ぼくに対する反論であればべつに名前を名乗る必要などありません。「名前を名乗って」と書いた理由は、矢面に立って主張を開示してみなさいという意味です。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/194017791802736643

「@unspiritualized いまの総連系知識人はあまりにも内向きすぎる。例えば朝鮮学校擁護の論陣を張っているのはいずれもメインストリームを外れた人ばかり。そういう人たちに反論を任せておきながら、いざ気に食わない主張があれば陰で人格攻撃をしたりする。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/194017791802736643

「@unspiritualized そんな中、あのブログは数少ない正論のメディアだと期待していただけに、その種の卑劣な対応を代表するかのような記事には、心底がっかりしました。おそらく朝鮮大学校あたりの人でしょう。ひとに「正面から」云々するなら、自分も堂々と矢面に立つべきでしょう。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/194018701014601728

by kscykscy | 2012-04-23 00:00 | 抗議

福島は「植民地」なのか――高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』について

 高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』(集英社新書、2012)を読んだ。ここで高橋は繰り返し沖縄と福島をはじめとした原発立地地域は戦後日本の「植民地」である、と述べている。以前、徐京植のドキュメンタリーやコラムに触れた際、原発労働や原発被災を安易に植民地支配のアナロジーで語ることの問題に言及したが、この本で高橋は「植民地としての沖縄・福島」論を相当な紙数を割いて展開している。以前に批判した徐京植のそれと同様、そこでの論理展開は大変に問題があるため以下に指摘したい。

 *以下の記事も参照
  「フクシマを歩いて 徐京植:私にとっての"3.11"」批判
  http://kscykscy.exblog.jp/16234278/
  徐京植を読み直す――「反動的局面」と現在(1)
  http://kscykscy.exblog.jp/17810683/

 この本の趣旨は戦後日本の根幹には戦前より引き継いだ「犠牲のシステム」があり、沖縄の米軍基地と福島は原発は戦後日本の「犠牲のシステム」そのものである、というところにある。そして高橋は、原発が「犠牲のシステム」であることに触れた後、「植民地主義」という節で次のようにいう。

 「ここで立てなければならないのは、次の問いである。すなわち、戦後日本の「国体」ともいうべき日米安保体制もまた犠牲のシステムであり、そこで犠牲とされたのはまさに沖縄ではなかったか。〔中略〕もちろん、両者〔福島と沖縄:引用者注〕の違いを軽視することもできない。「銃剣とブルドーザー」で建設され、そのまま居座り続ける米軍基地と、立地自治体からの誘致を前提とする原発とは同じではありえない。だが、その他もろもろある違いを踏まえたうえで、両者の類似点を考えていくと、そこに浮かび上がってくるのはやはり一種の植民地主義ではないか、という思いを禁じえない。戦後日本国家は、一つには米軍基地の沖縄への押しつけというかたちで、もう一つには原発の地方への集中立地というかたちで、中心と周縁とのあいだに植民地主義的支配・被支配の関係を構築してきたのではないだろうか。」(73-74頁)

 つまり高橋は沖縄への米軍基地押しつけ、原発の地方への集中立地は「植民地主義的支配・被支配の関係」であるというのである。当然ながら、原発の地方への集中立地は朝鮮や台湾支配と同じということか、という疑問が浮かぶが、これに対して高橋は次のように述べる。

 「「植民地主義」という同じ言葉を使うことによって、私は、戦後日本における東京と福島、ヤマトと沖縄、旧日本帝国における日本と朝鮮・台湾といった諸関係を、同一視しようというのではまったくない。/福島は沖縄に対してヤマトの一部として、朝鮮・台湾に対しては日本の一部として、植民地支配する側にあったのであり、沖縄でさえ朝鮮・台湾に対しては、日本の一部として植民地支配する側に位置づけられてしまう。このように「植民地主義」といっても、質的な違いがあることは言うまでもないのだが、にもかかわらず私があえてその言葉を使おうと思うのは、日本国家の植民地主義的性格がいかに根深いかを強調するためにほかならない。戦後日本においても植民地主義は、沖縄を犠牲とする日米安保体制というシステムとして、また原発という犠牲のシステムを国策とするというかたちで、今日まで生き残ってきたと言わざるをえないと思う」(74)

 一方で朝鮮・台湾への植民地主義とは「質的な違いがある」と言いながら、しかし「日本国家の植民地主義的性格がいかに根深いかを強調するため」に、あえてそれを植民地主義と名指すというのである。この「あえて強調する」という姿勢には非常に本質的な問題が含まれていると思うが、これについては後述する。こうした議論からは、質的な違いがあるならば、それは植民地主義とはいえないのではないかという疑問が浮かぶが高橋は他の箇所でも、確かに朝鮮・台湾とは違う、でも植民地といえる、という論法を繰り返す。例えば次の記述。

「〔原発をめぐる:引用者注〕首都圏(中央)をはじめとする都市部と地方とのあいだに、一種の植民地支配関係があることを示してはいないだろうか。つまり、そこには法的・制度的な意味での植民地は存在しないが、沖縄の場合と似た意味で、事実上の植民地主義が作用しているのではないか。原発の場合でも、その利益を享受している植民者側の人々は、それが植民地主義であることをふだん意識することはない。ということは、ここにもまた無意識の植民地主義が存在するのではないだろうか。〔中略〕

 
 もちろん、沖縄と福島の「植民地」としての位置は同じものではない(「福島」という名前は、ここでは福島県を指すと同時に、全国の原発立地地域の象徴でもあるような名前として使いたい)。/植民地支配は、かつての日本でいえば典型的には朝鮮や台湾などで行われていたものであり、そこには法制度上も明白な差別が存在した。〔中略〕旧日本帝国において沖縄は、朝鮮や台湾とは区別された内国植民地であって、沖縄の人々も朝鮮や台湾に対しては、「日本人」として植民地支配者の位置にあったということができるだろう。/だから、日本がかつて朝鮮や台湾を植民地支配したことと、戦後日本において沖縄が一種の植民地であったことを同じ意味で語ることができないし、ましてや福島や原発立地地域が中央や都市部の一種の植民地であるということを同じ意味で語ることはできない。朝鮮や台湾が日本の植民地であったという場合の「植民地」、戦後日本において沖縄がヤマトの一種の植民地であったという場合の「植民地」、さらに、福島や原発立地地域が中央・都市部の一種の植民地であるという場合の「植民地」、これらそれぞれにおける「植民地」の意味は決して同じではない。

 
 さらに、ここで比較の対象としている沖縄と福島の違いについていえば、沖縄の米軍基地は沖縄県民が誘致して存在しているわけではないという明白な事実がある。〔中略〕それに対して、福島などの原発立地地域では、当該の原発立地自治体が誘致してはじめて原発は立地できる。そこでは一応、地方自治という建前のもとで議会が誘致決議をし、首長がそれを誘致するかたちをとっている。この違いを無視することはできない。/沖縄と福島には、このような無視できない違いがいくつも存在する。にもかかわらず、やはりそこには一種の類似した植民地支配関係が見てとれるし、そのように見ることによって浮かび上がってくる重要な面も存在するはずだと私は考える。」(195-198)


 朝鮮・台湾の「植民地」、沖縄の「植民地」、福島の「植民地」のそれぞれの意味は「決して同じではない」とまで言いながら、それでも「植民地」と規定する理由は何か。ここで高橋は沖縄と福島に共通する「植民地支配関係」の類似点として以下の三点を挙げる。

「まず第一に、いずれの場合にも、そこには構造的な差別がある」(196-198)
「第二の類似点として、経済的な利益によって、そのリスクや負担、すなわち犠牲が補償されるかたちをとっていることが挙げられる。沖縄あるいは福島は経済的に困っているので、そこに米軍基地を置くこと、あるいは原発を立地とすることと引き換えに、中央政府から経済的な利益を提供する、という構図である」(199)
「沖縄と福島の第三の類似点として、このような構造的差別、意識的・無意識的な植民地主義を隠蔽するために、「神話」が必要とされてきたということが挙げられる」(205)


 なお、第三の類似点は具体的には沖縄の場合は「抑止力の神話」であり福島の場合は「安全性の神話」、そしていずれも国民の総意により選択されたという「民主主義の神話」がこれを支えているという。

 率直に言って、これは全く「「植民地」としての福島」の説明になっていない。これらの類似点をもって「植民地」であるといえるならば、もはや「植民地」という概念にはほとんど意味が無くなってしまう。これは「何世代にもわたり健康と生活に決定的な損傷を与える」ことをもって原発事故と植民地支配は類似していると記した徐京植も同様である。そもそも高橋は沖縄の米軍基地と福島の原発の類似点を挙げているが、これらと朝鮮・台湾への植民地支配との類似点を挙げていない。沖縄と福島にはこれだけ類似点がある、沖縄は植民地である、だから福島も植民地である、という理屈になっている。朝鮮・台湾への植民地支配とは「質的に違う」ことを認めるにもかかわらず、それでもなお「植民地」だといえるのはいかなる理由からなのか。これに対する高橋の答えは無い。

 私はこうした安易な「植民地」概念の濫用は、植民地支配への正確な認識を妨げる結果を生むと思う。例えば、上の「類似点」をみても、第二の点は明らかに朝鮮植民地支配にはあてはまらない。基地や原発の設置と引き換えに「経済振興」が与えられるという構造は、高度成長期における開発主義国家の利益誘導ではあっても、植民地主義のそれではない。朝鮮植民地支配において物的・人的な収奪を可能にしたのは、見返りとしての「経済振興」ではなく、暴力である。高橋は植民地主義の問題を国内における地域間の差別と格差の問題に矮小化していると言わざるを得ない。

 このように、高橋において「植民地」は概念というよりも地域間格差の比喩として用いられているのであるが、問題はそうまでしてなぜ福島=「植民地」という比喩を用いる必要があるのかである。これについて高橋は「私があえてその言葉を使おうと思うのは、日本国家の植民地主義的性格がいかに根深いかを強調するためにほかならない」と述べている。一種の戦略として「植民地」という言葉を用いているというのである。つまり、原発被害の延長線上に沖縄の米軍基地を展望し、そして他方で朝鮮・台湾への支配の歴史へと遡行しうるようなものとしての、「福島=植民地」規定とでもいえるだろうか。

 だが私はこうした論理構成は、高橋自身の「戦後責任」論の論理自体を覆す可能性すらある危うい議論だと思う。例えば沖縄の米軍基地の問題は、確かにそれを押し付けられた地域住民への被害の問題でもあるが、より本質的にはその銃口を向けられた相手に対する加害の問題――「他者」との関係の問題であるはずだ。歴史的にみるなら、沖縄の米軍が朝鮮、ベトナム、そして中国に対する脅威になり続けてきたこと、そしてそれを「復帰」後も日本政府と国民が支持し続けてきたことであろう。この点を外してしまうと、基地問題は他のいわゆる迷惑施設の問題と変わりが無くなってしまう。しかし、福島―沖縄―朝鮮・台湾を「植民地」で結ぶ、という発想は、「福島=植民地」というアクロバットな規定で「植民地」という本来「他者」であったものを日本という「自己」の内に取り込み、そこから「他者」無き沖縄、「他者」性を排除された朝鮮・台湾への共感を紡ごうとするものである。これはまさしく90年代における加藤典洋の論理ではないだろうか。

 「福島=植民地」規定はこのように考えると、高橋にとって極めて危険な跳躍になりうる。この本のなかで徐京植と共に福島を訪ねたとの記述もあるため、徐の「「奪われた野」=福島」という議論と、高橋の「福島=植民地」規定には関連があるのだろう。また、以前の「奪われた野」についての記事で触れたように、その周りには韓国の進歩系の知識人たちがこれを積極的に受容する空気があるようだ。こうした空気のなかで、90年代に日本の戦争責任・植民地支配責任の問題に鋭い感受性と批判意識を発揮してきた人々が理論的な混沌へと陥っている。危機的な状況である。
by kscykscy | 2012-04-11 00:00 | 「福島=植民地」論批判

続・金明秀「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」批判

 ZED氏の記事「金明秀という男について」には教えられるところが多かった。なかでも、金明秀氏(以下、敬称略)の議論ではネット右翼や極右政治家は批判できても「より巧妙で悪質な差別主義者や抑圧者」への反撃になりえないという指摘は、正鵠を射たものだと思う。例えば少し前の『朝日』の社説は次のように書いた(「朝鮮学校―無償化の結論だすとき」『朝日』2012.3.3)

「在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)と結びついた学校のあり方にも疑念の声がある。文科省はそうした点にも踏み込み、調査を続けてきた。/その間の議論を通じ、学校側は開かれた教育への姿勢を示しつつある。教科書の記述も改める動きが出てきた。父母の間にも、祖国の「3代世襲」に違和感を持つ人はいる。教室に肖像画を掲げることも考え直す時期だろう。そして、自国の負の部分も教えるべきだ。/多様な学びの場の一つとして認めた上で、自主的改善を見守る。そんな関係を築けばよい。/歴史を思えば、私たちは在日の人たちとその社会をもっと知る努力をすべきだ。/韓流ドラマの翻訳を支えるのは民族の言葉を学んだ在日だ。年末の全国高校ラグビーには、大阪朝鮮高校がホームタウンの代表として3年連続で出た。彼らは北朝鮮だけを背負っているわけではない。生まれ育った国と祖国の間で悩み、揺れながら生きる若者がいる。/なぜ自分たちがハンディを負わされるのか――。政治の動きに巻き込まれ、生徒たちは苦しんできた。アウェーの寒風をいつまでも浴びせてはならない。」 

 『朝日』は「その間の議論を通じ、学校側は開かれた教育への姿勢を示しつつある」と書いているが、事実の問題として、この間あったことは「議論」ではない。就学支援金と補助金をダシにした政府、国会議員、知事、都道府県議会議員とマスコミによる恫喝である。朝鮮学校と文科省が対等の立場で「議論」する場が設けられたことは一度も無いにもかかわらず、『朝日』はこの間の恫喝を「議論」と強弁して、そろそろ「無償化」を適用したらどうか、と主張している。しかも「自主的改善を見守る」と、以後の教育内容の監視まで宣言している。

 繰り返しになるが、この二年間の朝鮮学校への教育干渉に責任を負っているのは『産経』や極右政治家だけではない。『朝日』も、朝鮮学校の教育内容の修正をもって無償化の条件とする点では極右と同一の立場に立っている。問題は、文科省は各種学校の外国人学校も就学支援金の対象とすると言っておきながら、なぜ朝鮮学校だけ「学校のあり方」を調査するのか、であり、問われるべきは文科省の行為の違法性である。にもかかわらず、朝鮮学校の「法令違反」が云々されている。

 この点を一切問わず、暴力的な恫喝を「議論」と言い換え、教育内容への干渉を実質的に肯定しながら、上から目線で「無償化」が適用を促す(それも「北風と太陽」を連想させる比ゆを用いて)。『朝日』は朝鮮高校生への「無償化」適用が争点となった当初から、このラインで主張を展開し続けた。『朝日』はZED氏のいうところの「より巧妙で悪質な差別主義者」の典型といえよう。自らの立場の脆さをそれなりに自覚している文科省は、朝鮮高校生を全面的に排除する理屈が容易に見つからないため、知事が「法令違反」を探し出すのを待ちながら「審査中」という方便を繰り返している。よって、右派が騒ぐことにより朝鮮学校の教育内容や朝鮮総連との関係という虚偽の争点が注目されるのは、文科省にとっては大変都合がよい。

 こうした状況を踏まえるならば、金明秀の主張の問題は明らかである。金は『朝日』の論理を朝鮮人側から語りなおすことを促しているのである。むしろ、『朝日』ですら使っていない「朝鮮学校は日本の国益につながっている」というレトリックを用いており、金のほうがより踏み込んでいるともいえる。金の議論は全く新しいものではなく、むしろ『朝日』のような「より巧妙で悪質な差別主義者」の議論に沿うものである。これは文科省にとっては大変都合がいいため、運動戦略という観点からも全く有効でない。

 ちなみに、前回の記事で私は金のいう「リスク社会」云々はハッタリであると書いた。理由は金のベックからの引用はほとんど意味がないからだ。確かにベックは「危険社会」がスケープゴート社会への内在的な傾向を含んでいると指摘しているが、その際に、「他者」の側が「リスク・コミュニケーション」をする必要があるなどとは一言も書いてない。金のベックからの引用はすべて『危険社会』からのものだが、そもそも「リスク・コミュニケーション」なる語自体が『危険社会』には登場しない。よって私はベックへの言及はその社会科学的分析を前提にするためではなく、自らの主張を粉飾するためのハッタリと判断した。エッセイは金の地の文章として読めばそれで十分である。

 さて一方の金はというと正面から反論するわけでもなく、ツイッターで断片的な弁明を続けている。自分を批判したら朝鮮学校の子どもたちにとばっちりがいくぞ、と言わんばかりの恫喝つぶやきには、率直に言って嫌悪感しか抱かないが、それでも反論らしきものが書いてあるのは、あるフォロワーが金に「お気持ちはよく分かるのですが、在日が「国益」になる/ならないという判断の下に置かれるということは、いつでも恣意的に”ならない”に振り捨てられるということでもあり、「認識フレームを転換する」ことにはならないのでは」というまっとうな質問をしてからだ。この質問は基本的に私の金への批判と同じ理屈である。以下はその問いへの金の反応である。

https://twitter.com/#!/han_org/status/156351008631554048
「3つの観点からお答えします。一つは、外国籍住民はつねに/すでに「国益になる/ならない」という判断にされされてきたということ。在日の場合、恣意的に「国益にならない」と規定されてきたのはデフォルトです。ならば、それを前提に戦略を立てるべきだという話。 @unspiritualized」

https://twitter.com/#!/han_org/status/156352461119045632
「もう一つは、短期的な運動課題と中長期的な運動課題とを弁別すべきだということ。ナショナリズムを超克する制度の創出によって問題を根本的に解消するという理想も数十年スパンの課題として考えるべきでしょう。でも、現状でやれることも推進すべきです。 @unspiritualized」

https://twitter.com/#!/han_org/status/156354131387367425
「最後に、運動のターゲットの問題。「フレームを転換する」というとき、国家による外国人政策のフレームも問題となりますが、個々のマジョリティの認識フレームも同様に重要です。前者は法律を盾に改善を迫ることもできますが、後者は理詰めだけでは動きません。 @unspiritualized」

https://twitter.com/#!/han_org/status/156369577893298177
「もともと、日本人読者のうち、「国益」レトリックの適用自体に違和感を覚えるような方や、損得抜きに同じ住民だという実感を持っている方は、あのエッセイの直接の想定読者ではありませんでした。 @unspiritualized」

https://twitter.com/#!/han_org/status/156370926978605058
「ただし、「国益」レトリックに次のようなメタメッセージは込めました。(1)朝鮮学校の生徒たちは《国家の敵》として人権侵害にあっている。(2)在日は《国家の敵》でないことを主張せざるをえないところに追い込まれている。その不正義を許容できるのか。 @unspiritualized」

https://twitter.com/#!/han_org/status/156373673744400384
「エッセイにも書いたとおり、「その移民集団が当該社会の利益になっている」という理解は、多くの国で排外意識を引き下げているという証拠があります。また(続く) @unspiritualized」

https://twitter.com/#!/han_org/status/156374397270237185
「ぼくがあのエッセイに込めたメタメッセージの一つは、「マジョリティである自覚を持て」というものでした。根拠のない不安によってスケープゴートを不法に排除したり、踏み絵を踏ませたりする特権を持つ立場だと。(続く) @unspiritualized」

https://twitter.com/#!/han_org/status/156375254405627905
「そのために、使用する用語も、分析視角も、意図的にマジョリティ目線をたどったつもりです。日本人の特権性をマジョリティ目線で可視化するという拙い意図が成功したかどうか、まあ怪しいところではありますが。 @unspiritualized」

https://twitter.com/#!/han_org/status/156377721595891713
「結局、あれかな。あのエッセイもメタメッセージを込めすぎた失敗例だろうか。意外と文脈が共有されないな。」

https://twitter.com/#!/han_org/status/156380318302093312
「「国益」レトリックは、国家の犠牲になっている現実を可視化するためのカウンターとして用いたものですが、「国益につながらなければ排除してよい」という反応は別途、問題化されなければなりません。 @unspiritualized」


 大変わかりづらい「つぶやき」である。おそらく大意は、①在日は「国益になる/ならない」という判断にさらされてきた。よってそれを前提に戦うべきである、②「ナショナリズムを超克する制度の創出によって問題を根本的に解消する」のみならず、短期的には「現状でやれることも推進すべき」である、③国家による外国人政策のフレームは「法律を盾に改善を迫ることもでき」るが、「個々のマジョリティの認識フレーム」は「理詰めだけでは動」かない、の三点ということになるだろう。

 これは基本的にエッセイで金が書いたことの繰り返しである。すなわち、在日朝鮮人は「国益になる/ならない」という「認識フレーム」を前提に戦うべきであり、それが有効だ、というものだ。よって、フォロワーの「在日が「国益」になる/ならないという判断の下に置かれるということは、いつでも恣意的に”ならない”に振り捨てられるということでもあり、「認識フレームを転換する」ことにはならないのでは」との疑問に対しては、「認識フレームを転換する」必要はありませんし、そもそもすぐにはできません、というのが金の回答になるはずである。

 しかし、一方で金は、私の批判への弁明として「あのエッセイで最も重要な論点は、認識のフレームを転換するような運動が必要だということ」「「朝鮮学校は日本の国益になる」というレトリックがネトウヨの認識フレームを揺るがす効果を持っているというだけ」とも述べている。しかし、「朝鮮学校は日本の国益になる」というレトリックは、「国益になるなら無償化してやる」という「認識フレーム」を前提にしている。「国益にならない」と思ってる「ネトウヨ」に、いや国益になるよ、と言い返すことが「認識フレームを揺るがす」ものではないことは明らかである。金は「国家の敵」云々の箇所でも「その不正義を許容できるのか」と結論をぼかして書いているが、これはおそらく「その不正義を許容して、それを前提に戦うべきだ」と書いてしまうとあからさまに卑屈であるため言いづらいが(実際には金の主張は卑屈なのだが)、「その不正義を許容すべきではない」と書くと自らのエッセイと矛盾することになるからだろう。

 こうした明らかに矛盾したメッセージを読者に示しているにもかかわらず、金は「あのエッセイもメタメッセージを込めすぎた失敗例だろうか。意外と文脈が共有されないな」と読者に責任転嫁する。だが、以上みたように金のエッセイとその後の弁明が「理解」されないのは、読み手の責任ではない。金の主張が支離滅裂だからである。真面目に金のエッセイと「つぶやき」に付き合っている読者に失礼である。

 
 ちなみに金は、徐勝氏の「東アジアの諸民族や朝鮮民族の奪われた諸権利の回復こそが、われわれの「正義」であるので、歴史的、現在的日本の加害を問わない、日本国民国家の枠組みの中での「多文化共生論」や「在日論」などは、抑圧者の論理と支配に加担する犯罪行為だとさえいえる」という指摘に対し、「そう、これぞまさに正論。たとえ同種の言説に聞こえようとも、左翼ナショナリズムの枠内から発せられるそれとは根本的に異なる。」「民族的マイノリティにとっての左翼ナショナリズムって麻薬のようなものだね。安定的な貴族の物語に酔っぱらい、実態とのかい離を冷静に見つめる視座をマヒさせる。しかも、祖国ナショナリズムに準拠しながら居住国ナショナリズムを撃つという矛盾にも気づかなくなる。」 とつぶやいているが、金のエッセイは「日本国民国家の枠組みの中での「多文化共生論」や「在日論」」の典型である。自らの主張が「犯罪行為」と名指されているのにそれに気づかないのは喜劇である。

 今回の件もそうだが、金は問いに対して正面から答えようとせず、批判者にレッテルを貼ることで批判の陳腐化を図る傾向がある。実はこのブログで金に言及したのは今回が初めてではなく、以前にも一度宮台真司の問題と関連して触れたことがある(戦後日本政府の在日朝鮮人「政策」と強制連行問題)。

 その時私は、宮台が、日本政府がこれまで現存する在日朝鮮人の大多数は強制連行による被連行者及びその子孫であるという「図式」に基き「在日政策」を立ててきた、という驚愕の新説を主張したことに触れ、金がなぜ宮台がこの主張を取り下げていないにもかかわらず和解したのだろうか、と書いた。これに対し、金は「ありゃ、kscykscy氏に誤解されておる。ちょっと凹むなぁ。その「驚愕の新説」を取り下げたので「矛をおさめて和解した」のだけど…。」とあたかも私が「誤解」したかのようにつぶやいた。

 しかし、少なくともネット上にある文章を見た限りでは、宮台は、日本政府がこれまで現存する在日朝鮮人の大多数は強制連行による被連行者及びその子孫であるという「図式」に基き「在日政策」を立ててきた、という認識を誤りとは認めておらず、私は誤解だとは思っていない。もし誤解というなら証拠を示すべきだろう。以前は面倒だったのでわざわざ書かなかったが、いい機会なのでこの場を借りて付言しておく。
by kscykscy | 2012-04-01 00:00 | 朝鮮学校「無償化」排除問題