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「『無償化』適用=植民地支配への反省」なのか――朝鮮学校と高校「無償化」問題⑨

 共産党の山下芳生参議院議員のブログに、朝鮮学校「無償化」をめぐる参議院決算委員会における川端文科相、千葉法務相とのやりとりが掲載されている。(「川端文科相、千葉法務相に歴史問題、朝鮮学校無償化問題を質問」

 以前の『朝日』の件もそうだが、朝鮮学校を高校「無償化」に入れろと主張している側に文句を言うのは何ともやりきれない。ただ、あまりにもなってないのだ。人権感覚というと陳腐な言い方かもしれないが、ものを考える姿勢がなってないのである。

 ブログの記事には次のようにある。
「そのうえで、鳩山首相が昨年10月の日韓首脳会談後の記者会見で「新政権は、歴史をまっすぐ正しく見つめる勇気を持った政権」と述べたことを取り上げて、「朝鮮学校の無償化は、植民地支配の反省に立ち、将来にわたり隣国との友好関係を築く上でも重要な政策となるのではないか」と〔山下議員が:引用者注〕質問。

 川端文科相は、「拉致問題を抱えている国の関与する学校に出していいのかという論も、逆に、戦前、植民地時代を含めていろいろ日韓、朝鮮半島間にはあったからという、いずれの外交的観点も一切排して、純粋に、高校の課程に類するものに学んでいるかどうかを判断する立場だ」と答弁。拉致問題は判断の基準にしないと担当相が明言したのは重要です。」
 一体この人は何を言っているのか。「朝鮮学校の無償化は、植民地支配の反省に立ち、将来にわたり隣国との友好関係を築く上でも重要な政策となるのではないか」とはあまりに頓珍漢な質問ではないか。そもそも朝鮮学校を「無償化」から排除した3月の施策は明らかな差別なのだ。仮に夏以降に「無償化」適用となったからといって、民社国連立政権が朝鮮学校「無償化」排除という差別政策を採ったという事実は消えない。ましてや排除撤回はマイナスがゼロに戻っただけのことだ(4月から適用までに支給されなかった分が遡及的に支給されないならばゼロに戻ってすらいない)。それは「植民地支配の反省に立ち、将来にわたり隣国との友好関係を築く上でも重要な政策」でもなんでもない。差別をやめたらそれが「植民地支配の反省」ということなのか?

 もし山下のいうように「無償化」適用が「植民地支配の反省に立ち、将来にわたり隣国との友好関係を築く上でも重要な政策」と評価されるならば、日本政府としてはむしろもっと在日朝鮮人を差別し弾圧したほうがよいということになる。そうやって最初に基準を下げられるだけ下げておけば、その後のちょっとした譲歩が日本政府の「反省」を示す好材料としていきてくるからだ。山下は自らの不用意な発言がそういう土壌を準備していることをわかっているのだろうか。

 ブログの末尾に出てくる「朝鮮籍というのは、北朝鮮国籍とは違うということを皆にわかってほしい」という朝鮮学校生徒の母の声というものも、それ自体は本当に言ったのだろうが、こういう「声」を嬉々として使うのを見ると、何とも暗澹たる気持ちになる。散々これまでも書いたのでもう繰り返さないが、朝鮮民主主義人民共和国の国民は日本で民族教育を受けてはいけないのだろうか。いいに決まっているだろう。
by kscykscy | 2010-05-19 13:50 | 朝鮮学校「無償化」排除問題

三たび1948年の民族教育弾圧について

 前田年昭氏が再反論を掲載している(「歴史の止揚とは二重性を噛みしめ続けることである」参照)。

 批判の意味を理解していただいてないようなので、しつこいようだがもう一度説明する。私は、前田氏の書いた「敗戦直後の1948年,アメリカ占領軍と吉田政府による朝鮮学校閉鎖令に反対して日本人と在日朝鮮人は肩を組んで阪神教育闘争を闘い,撤回させた歴史があります」という記述には誤りがある、と指摘した。

 1948年4月24日の学校閉鎖令撤回は軍事的弾圧によって「5.5覚書」に後退させられてしまった。また、1948年4月24日の学校閉鎖令撤回は、「日本人と在日朝鮮人は肩を組んで」なされたものと言い得るほどの日本人側の闘争を伴うものではなく、むしろ「撤回」は圧倒的多数の朝鮮人大衆の孤立した闘争によって勝ち取られたものである。日本人の充分な擁護闘争が無かったため、朝鮮人側は「5.5覚書」を受けいれざるを得なかった。よって、「敗戦直後の1948年,アメリカ占領軍と吉田政府による朝鮮学校閉鎖令に反対して日本人と在日朝鮮人は肩を組んで阪神教育闘争を闘い,撤回させた歴史があります」という記述は、日本人の運動を過大評価するものである。これが私の批判の要旨である。

 この批判に前田氏は正面から答えていない。前回のエントリーで前田氏は1949年のエピソードを持ち出し、また、今回のエントリーで「1948-49年の在日朝鮮人の民族教育に対するアメリカ占領軍と日本政府による非道な弾圧とこれに対する闘い,阪神教育闘争を今に生きる私たちがどう捉え,そこから何を学ぶのか」〔強調引用者〕と記している。だが当初の記述は明らかに1948年の「阪神教育闘争」を指している。これは論点を逸らすもので誠実な対応とはいえない。私は、前田氏が「敗戦直後の1948年,アメリカ占領軍と吉田政府による朝鮮学校閉鎖令に反対して日本人と在日朝鮮人は肩を組んで阪神教育闘争を闘い,撤回させた歴史があります」と書いたことに対し、その理解は間違っていると言っているのである。

 そもそも前田氏は、自身の「日本人と在日朝鮮人は肩を組んで」という記述に対する私の批判の意味を理解しているのだろうか。例えば以下の記述を見よう。
 「kscykscyさんは,一度撤回させても結局は後退した,つまり,結果がアウトなら途中経過もアウトと強調します(そういう言葉は使っていませんが,そういうことになります)。私は,ここがどうしても納得できません。1968年9月30日,日大全共闘一万人は古田重二良会頭との翌朝に及ぶ大衆団交で要求を呑ませ,会頭以下出席理事は,学生自治弾圧への自己批判,使途不明金の全容公開,大衆団交再開の確約書に署名しました。翌10月1日,佐藤栄作首相は「政治問題としての対処」を表明,3日,古田重二良会頭=日大当局は緊急理事会を開き,大衆団交は数の威力による強要だとして確約書を破棄しました。kscykscyさんの手にかかればこれも,この時点での成果は9・30確約書でなく10・3破棄であり,ありうべき呼びかけは「9・30のように闘おう」ではなく「9・30を繰返すまい」ということになるのでしょうか。」
 これは極めて不適切なアナロジーに基いた私の批判の曲解である。前田氏のたとえ話に付き合うならば、私の批判の核心は、そもそも1948年4月の時点で、このたとえ話における「日大全共闘」の位置に日本人はいなかったのにあたかもいたかのように書くのはやめて欲しいという点にある。つまり、日本人が「4.24のように闘おう」と言うのは、闘ってもいないことを、あたかも闘ったかのように語るものであるからやめるべきだと批判したのである。むしろ朝鮮人が勝ち取った「4.24」をみすみす「5.5覚書」に後退させることを許した日本人の闘争の弱さを想起する意味で、日本人は「4.24を繰返すまい」と言ったほうがまだよいのではないかと書いた。

 以上である。それでも前田氏は、「敗戦直後の1948年,アメリカ占領軍と吉田政府による朝鮮学校閉鎖令に反対して日本人と在日朝鮮人は肩を組んで阪神教育闘争を闘い,撤回させた歴史があります」という記述が歴史的検証に耐えるものと考えるのだろうか。
by kscykscy | 2010-05-13 17:54 | 朝鮮学校「無償化」排除問題

再論・1948年の民族教育弾圧について――前田年昭氏の反論に答える

 前回の記事「1948年の民族教育弾圧について――前田年昭氏への疑問」に対して、前田氏が自身のブログに反論を掲載している(「阪神教育闘争再論 kscykscyさんの批判にこたえて」参照)。早速の回答に謝意を示したい。

 しかしながら、前田氏の回答によっても私の疑問は氷解するには至らなかった。なおも前回の記事で提起した疑問は未解決のままに残っているといわざるを得ない。氏の回答を参照しつつ、1948年の民族教育弾圧及び民族教育擁護闘争について以下に再論することにしよう。

 まず論点を整理しておこう。「吉田政府」の部分については訂正していただいたため、再論する必要はあるまい。ここで取り上げるべき論点は「日本人と在日朝鮮人は肩を組んで阪神教育闘争を闘い,〔学校閉鎖令を:引用者注〕撤回させた歴史」という表現は、事実として妥当なのかという問題である。さらに、この論点は「日本人と在日朝鮮人は肩を組んで阪神教育闘争を闘い」という表現の妥当性、すなわち1948年の第一次教育弾圧の際に日本人側の充分な朝鮮民族教育擁護闘争があったとみてよいのかという点(仮に論点Aとする)と、1948年1-5月の民族教育擁護闘争の結果、学校閉鎖令を「撤回させた」とみなしてよいのかという点(論点B)に分けて考える必要がある。前回記事では私の方でも特に論拠を示しておらず、説明不足であったと思う。今回は煩瑣を厭わず詳述したい。

 都合上、論点Bから先に触れよう。前田氏は「1948年の阪神教育闘争は,兵庫県で4月28日に知事が「閉鎖令を撤回」,大阪府では6月4日,大阪朝鮮人教育問題共同闘争委員会と知事が覚書を交換した」と記しており、兵庫における「4月28日」の学校閉鎖令撤回の事実をもって、私の疑問への反論としているようである。

 だがここには事実認識の誤りがある。そもそも学校閉鎖に反対する在日朝鮮人側代表と岸田幸雄兵庫県知事らが兵庫県庁において直接交渉を持ち、学校閉鎖令の撤回や朝鮮人学校の承認等の要求を受け入れさせたのは、「4月28日」ではなく、4月24日である(だから「4.24」=サイサは今でも民族教育擁護の象徴たる記念日なのである)。もとより兵庫県当局の側はそれまで朝鮮人代表と直接交渉の場を持とうとせず、実力で県下の朝鮮学校閉鎖を強行しようとしていた。だが、兵庫ではこれに抗議した一千人近くの人々が県庁に集まり、座り込み、ようやく直接交渉にこぎつけたのである。

 しかし、この学校閉鎖令撤回はほどなく再び「撤回」される。日本政府及び占領軍側は兵庫県知事の学校閉鎖撤回を朝鮮人の圧力に屈したものとみなし、23日の大阪でのデモとあわせて治安問題上の見地から重大視した。そして4月24日の午後11時、メノア神戸基地司令官は「非常事態」を宣言し、基地管内の朝鮮人の一斉検挙を開始したのである(以上の経過については荒敬「占領下の治安対策と『非常事態』――神戸朝鮮人教育擁護闘争を事例に」、同『日本占領史研究序説』柏書房、1994年所収、が詳しい)。

 そしてこうした占領軍直接介入による軍事的弾圧の吹き荒れるなか、在日本朝鮮人教育対策委員会と森戸文部大臣は再び1948年5月3日に会見し、同日午後8時に朝鮮人教育についての「覚書」に仮調印した(正式調印は5月5日、以下「5.5覚書」と略す)。よって、民族教育擁護闘争が獲得したこの時点での成果は、4.24の学校閉鎖令撤回ではなく、「5.5覚書」なのである。

 この「5.5覚書」は「朝鮮人の教育に関しては教育基本法及び学校教育法に従うこと」「朝鮮人学校問題については私立学校として自主性が認められる範囲内において、朝鮮独自の教育を行うことを前提として、私立学校として認可を申請すること」の二項で成り立っている。そしてこの覚書をうけ翌日6日付で文部省は「朝鮮人学校に関する問題について」(以下、「5.6通達」という通達を都道府県知事宛に出した。

 問題はこの「5.5覚書」及び「5.6通達」が、「閉鎖令を撤回」とまでいえるものなのかということである。「5.6通達」は財団法人を持ち設置基準に合致した朝鮮学校の私立学校としての認可、日本学校へ転学する朝鮮人への便宜供与、地方庁による朝鮮学校責任者の意見聴取などを定めたが、ここでは、あくまで教育基本法・学校教育法の枠内での「選択教科」「自由研究」「課外」としての朝鮮語、朝鮮史教育、あるいは、日本学校在学の朝鮮人児童については「放課後又は休日」の朝鮮語教育などを許容したに過ぎない。しかもこのうち「認可」をうけた学校は弾圧前に比して四割弱に過ぎず、とりわけ日本学校の校舎を借用していた学校のほとんどは強制閉鎖されてしまった(以上、小沢有作『在日朝鮮人教育論 歴史篇』亜紀書房、1973年)。確かに全面閉鎖は免れたが、朝鮮人側からすればこの「覚書」交換は、当初の「学校閉鎖令撤回」とはほど遠い相当な後退だったのである。

 これは当時の朝鮮人団体側の史料からも裏付けられる。1948年5月、朝鮮人教育対策委員会は「覚書」交換について以下のように「同胞大衆」に説明している(「覚書交換の理由」『学校を守ろう』1948年5月8日付、原文朝鮮語)。
「いまわれわれが闘っている教育闘争をこれに照らしてみるとき、明白にわれわれが勝利する条件が薄弱であることがわかる。よってわれわれの主張と要求がどこまでも正当であるということを充分に知りながらも、
 1.日本の勤労大衆との共同闘争へと発展させる指導が不充分であったことから敵の分裂政策に陥り、孤立的状態で反動権力の攻撃と日本大衆からの反発を招来し、われわれの闘争が不利な状態に入り危険性があるという点
 2.朝鮮同胞らの民族的反感がいまだ充分に政治的に鍛錬されていないため、あたかも特権を主張するかのような印象を日本人民に与えるようになれば、自ら孤立を招来する憂慮があるという点
 3.こうした状態で一挙に問題を解決しようと〔強調原文ママ、但し原文は傍点:引用者注〕しては、あるいは敵の挑発に陥る憂慮が充分にあるという点、等
 こうした条件を貫くわれわれ全般の政治性の欠如を充分に検討した結果、今般中央教育対策委員会では闘争の進退に限界性を明察し、奮起した同胞大衆からは確実に妥協的であると非難される条件をもって〔強調引用者〕5月3日、文部省と覚書を交換せざるを得なくなったのである。」
 ここでは率直に「同胞大衆からは確実に妥協的であると非難される条件」であるが、諸般条件を考慮して「覚書」を交わすに至ったことが記されている。同胞から強い批判を浴びるであろうことを認めざるを得ないほど、「5.5覚書」が妥協であることは明らかだったのである。しかし教育対策委員会が同胞らに対し学校閉鎖を「撤回させた」などという虚飾をせず、自らの「妥協」「後退」を公開の場で、率直に述べる姿勢を採ったことは注目に値するだろう。それほど学校閉鎖撤回・民族教育擁護という課題は切実だったともいえる。

 そして、この教育対策委員会の弁明のなかで注目すべきは委員会が「勝利する条件が薄弱」と判断した理由である。ここからは論点Aに関わる。

 委員会は「日本の勤労大衆」の闘争が充分に発展しなかったため、朝鮮人運動は「孤立状態」でいわば権力と大衆から挟撃されることになったこと、さらに、これ以上続けて「あたかも特権を主張するかのような印象を日本人民に与える」ことになれば、「孤立を招来する憂慮がある」ことを、「5.5覚書」受諾の理由に挙げた。私が前回の記事で「むしろ充分な日本人の闘いが無かったから、不充分な妥協案を朝鮮人団体側は呑まざるを得なかったのではなかったか」と記したのは、以上のような在日朝鮮人側の認識を根拠にしている。

 これについては以下の小沢有作の評価が比較的マトを得ているといえる。
「こうした在日朝鮮人の立ち上りにたいして、政府は「共産主義者の煽動だ」と論点をそらして宣伝し、マスコミもこれにのって報道していた。そのなかで、ただ日本共産党を中心とする少数の民主団体が在日朝鮮人の要求を支持して、これに共同したにすぎなかった。「日本共産党は、『朝鮮人の教育は日本の教育制度に従って行なわれるべきであるが、用語、教科書、教員等に関して朝鮮民族の特殊性をとり入れること』を主張し、小〔ママ〕数民族に対する圧迫に抗議した現地の党員はこの方針の下に朝鮮人側を積極的に支援した」のである(在日朝鮮人学校事件真相調査団(布施辰治他六名)報告書、『歴史と神戸』1963年4月所収)。前記平野義太郎もふくめてこの問題に関心をよせた知識人・団体は、理論的には在日朝鮮人を少数民族と規定する誤りを共通に犯していたが、阪神教育事件で共産党員の神戸市議が逮捕され、軍裁で重労働一〇年の刑をうけたように、実践的には共同行動をとっていた。しかし、このような日本人は僅かであったから、事実上は在日朝鮮人が独力で全権力を相手に、つくられた世論の非難のもとで、学校を守らねばならなかったのである〔強調引用者〕」(小沢、前掲書、236,237頁)
 強調部分の小沢の指摘はその通りだと思う。ただ、私としては、小沢の共産党ら民主団体の民族教育擁護闘争への評価は若干高すぎるように思う。少なくとも共産党の擁護闘争への支援にしても、私見では1948年の「1.24通達」から「4.24」までの間はそう目立ったものはなく、むしろマスコミが「神戸事件」としてこれをとりあげ、「共産主義者の煽動」云々というデマが流され、さらにこれが国会で問題になった1948年4月下旬以降に、主として自党防衛という見地からこの問題に関わり始めたというのが正確なところだろう。確かに共産党員の逮捕者を出してはいるが、それはむしろ占領軍・日本政府側がこれを共産党批判へとつながるために行なった攻撃的な取締の賜物と考えるべきだろう。1948年1-4月の間に、日本人側の民族教育擁護闘争があったというのは、政府による「共産主義者の煽動」というデマが作り出した幻影に自己をなぞらえたものに過ぎないのではないだろうか。

 以上みたように、前田氏の「日本人と在日朝鮮人は肩を組んで阪神教育闘争を闘い〔学校閉鎖令を:引用者注〕撤回させた歴史」なる表現は歴史的事実とは異なるものであり、権力側の弾圧を過小評価し、日本人の闘争を過大評価するものといわざるを得ない。1948年の民族教育弾圧及び民族教育擁護闘争を考える際に最低限前提とされるべきことは、朝鮮人の教育擁護闘争を「特権」と誤認する広範な日本人大衆の存在のなかで、自他共に認める不十分な「5.5覚書」を受諾せざるを得なかった、という事実の重みであろう。それこそが、現在の高校「無償化」排除の底流となっているからである。ありうべき日本人への呼びかけは、「4.24のときのように闘おう」ではなく、「4.24を繰返すまい」のはずである。
by kscykscy | 2010-05-05 19:00 | 朝鮮学校「無償化」排除問題

1948年の民族教育弾圧について――前田年昭氏への疑問

 「繙蟠録――編集人前田年昭のブログ」に3月29日付で掲載された記事「「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑 除幕集会」開催される」に、以下のような記述があった。
「敗戦直後の1948年,アメリカ占領軍と吉田政府による朝鮮学校閉鎖令に反対して日本人と在日朝鮮人は肩を組んで阪神教育闘争を闘い,撤回させた歴史があります。日本の敗戦は,侵略戦争で凍り付いた日本人の心を氷解させるよい契機だったのです。しかし,戦争責任に口をつぐんだ日本人は再び凍り付いてしまいました。」
 前田氏によれば、これは3月28日に三重県熊野市で行なわれた「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑 除幕集会」での発言とのことである。高校「無償化」から朝鮮高校を排除することへの批判など、全体の趣旨に賛同しないわけではないが、一読していくつかの疑問を感じたので、以下に記すことにする。

 第一に、前田氏は「敗戦直後の1948年,アメリカ占領軍と吉田政府による朝鮮学校閉鎖令」と記しているが、朝鮮学校に対する閉鎖令の前提となった文部省通達(1948年1月)が出た時の内閣は、片山内閣(1947年5月-48年3月)であり、また、阪神教育闘争(1948年4月)の際も芦田内閣(48年3月-10月)であって「吉田政府」ではない。学校閉鎖令も48年3月から4月にかけて都道府県レベルで出ており、ちょうど片山・芦田がバトンタッチする時期にあたる。

 これは揚げ足をとるために書いているわけではない。民族教育弾圧が吉田内閣ではなく、片山・芦田内閣期に始まったことは、今般の高校「無償化」からの排除へとつながる戦後日本の在日朝鮮人に対する「政策」をいかに把握するかと関わって極めて重要な意味をもっている。前田氏は単純に事実を誤って書いただけなのかもしれないが、民族教育弾圧を「吉田」という名に象徴させてしまうのは非常にまずいのである。

 確かに、第一次吉田内閣及び第二次・第三次吉田内閣の反動っぷりは敗戦直後日本の政治史のなかで群を抜いている。在日朝鮮人に関連しても、第一次吉田内閣の1946年は椎熊発言をはじめとする反朝鮮人ヒステリーが日本中に吹き荒れた時期であるし、第三次吉田内閣の時期には朝連解散という未曾有の弾圧を引き起こしている。だが、在日朝鮮人への弾圧に限るならば、その間に位置する片山・芦田内閣期にこれが緩んだわけではない。

 片山内閣は連立とはいえ一応社会党(右派)首班の政権である。日本国憲法体制下での選挙による最初の内閣でもあり、民法や警察法改正などの「民主的」諸施策も行なった。また、芦田は社会党員ではないが一応「リベラリスト」ということになっていたし、閣僚には社会党員も少なくない。だが上に記したように、この片山・芦田内閣の時期は、同時に民族教育への弾圧が公然と開始した時期でもある。政治史的に見れば、片山・芦田から第二次・第三次吉田内閣への移行は一つの「転換」であるが、在日朝鮮人に関していえば、吉田は片山・芦田政権の政策を「転換」させることなく、むしろその土台の上に立って朝連解散と第二次学校閉鎖という、より破壊的な朝鮮人弾圧を遂行することができた。こと在日朝鮮人への対応についていえば、日本国憲法施行前後に明確な断絶は存在しないのである。

 もちろん、民族教育弾圧には米国の東アジアにおける朝鮮政策、なかんずく大韓民国政府樹立という思惑が密接に関わっているため、民族教育弾圧を単純に片山・芦田内閣の独創とみることはできない。しかしこれらの内閣が在日朝鮮人弾圧への制動的役割を果たさなかったことはもちろん、むしろ日本国憲法体制下における新たな在日朝鮮人弾圧の論法を創出した側面すらある。

 例えば、阪神教育闘争の只中である1948年4月27日、衆議院本会議において社会党(右派)の森戸辰男文部大臣は次のように発言している(「国会会議録」より。太字は引用者)。
「実は、かような学校閉鎖とこれに伴う措置につきましては多くの困難を伴うことはすでに御承知の通りであります。朝鮮人の学校問題に関しまして、文部省がかような態度をとりましたのに対して、朝鮮人の、殊に一部の團体においては、強い反対があつたのであります。その最も中心的なものは、朝鮮人の教育の自主性ということを強く主張した点であります。この点、一應もつともな面も存在するのでありますが、他面このことは、日本の学校教育法並びに教育基本法に從わないという面をもつておるのでありまして、日本の法令に從うことを承認の上日本に残留しておる朝鮮の方々は、学校教育についてもこの法律に從い、しかも軍國主義的な形を脱した刷新日本の教育制度に服していただきたいと思つておるのであります。なお、これに続いて要求されておりますのは、教育費の國庫負担ということでございます。これは一般の私立学校と同様に行うべきでありまして、特に朝鮮人の学校に対して有利になすという取扱いはいたされないのでありますが、日本の私立学校に対してよりも、より不利な扱いはいたしてはいないのであります。
〔中略〕
 なお、最後に申し述べておきたいことは、この問題は、隣邦朝鮮と、また敗戰日本の、両民族の間にある問題でありまして、これが民族感情の反撥にならないように、あくまで努力いたさなければなりません。そのことは、東洋が平和な國として成長いたすには何よりも大事なことであると思うのであります。新しい憲法は、さいわいに平和主義と民主主義とを基調といたし、新しい学校教育と教育基本法とはこの精神によつておりまするのでどうか新しい教育の精神を生かして、両國民が平和と民主の線に沿うて手を携えて伸び行くように、私ども文部当局としては最善の努力をいたしたいと存じておる次第でございます。(拍手)
 ここで森戸が述べていることは、「大日本帝国」体制期の朝鮮民族運動弾圧の単純な延長ではない。森戸は「軍國主義的な形を脱した刷新日本の教育制度に服していただきたい」という表現でもって、在日朝鮮人の自主的な民族教育を否定しているのである。そこには教育勅語を廃し、「平和主義と民主主義とを基調」にした教育基本法・学校教育法に基く新たな戦後日本教育への自信すら見て取れる。だが、まさに森戸が戦後日本の「平和主義と民主主義」に基く教育基本法・学校教育法の価値を謳いあげているその時、神戸は占領期唯一回だけだされた非常事態宣言下にあった。そして日本警察・MPらによる朝鮮人検束が行なわれていたのである。

 教育弾圧が「吉田政府」のもとで行なわれたという理解では、以上みたような「平和主義と民主主義」と民族教育弾圧の並存という戦後日本の朝鮮人弾圧のあり方を理解することができない。同様の点から私は、「日本人と在日朝鮮人は肩を組んで阪神教育闘争を闘い,撤回させた歴史」という表現にも承服できない。そもそも、1948年の第一次教育弾圧への反対闘争は学校閉鎖令を「撤回」させるまでには至らなかった。またその際日本人による充分な民族教育擁護闘争があったとも思えない。むしろ充分な日本人の闘いが無かったから、不充分な妥協案を朝鮮人団体側は呑まざるを得なかったのではなかったか。「日本人と在日朝鮮人は肩を組んで阪神教育闘争を闘い,撤回させた歴史」という表現は、一種の願望に過ぎないのではないだろうか。

 現在の日本政府の民族教育弾圧を歴史的に遡って跡付けることは非常に重要であるが、それが正確な事実認識と批判意識を欠いたものであるならば、むしろ過去を現在から断ち切るものにもなりかねない。
by kscykscy | 2010-05-03 23:03 | 朝鮮学校「無償化」排除問題