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「在日朝鮮人に北朝鮮国民は一人もいない」のか――共産党の在日朝鮮人認識の問題

 朝鮮学校の高校「無償化」排除に関連して、2010年3月27日付『赤旗』は、山下芳夫参議院議員が「中井洽拉致問題担当相の『(朝鮮学校の生徒は)北朝鮮の国民だ」とする認識は誤りだと批判』した」と報じた(『赤旗』3月27日付web版)。これは3月26日の参院拉致問題特別委員会でのやりとりを報じたものである。記事の限りでは山下の中井批判は在日朝鮮人の国籍についての極めて不正確な理解を基にしているように読める。今回当日(3月26日)の記録が国会会議録にアップされたようなので、仔細に山下―中井のやりとりを検討したが、やはり『赤旗』の報道どおりであった。山下の議論は事実認識のレベルでも誤りがある上、あるいは今後の日朝交渉にまで波及するおそれすらあるため、この場を借りてその問題点を指摘しておきたい。

 国会会議録より抜粋した3月26日の参議院「北朝鮮による拉致問題等に関する特別委員会」における山下参議院議員と中井拉致問題担当大臣のやりとりは以下の通りである。
「○山下芳生君 そうすると中井大臣は、朝鮮学校の生徒あるいは教職員は北朝鮮の国民であるから無償化は十分考えてやってほしい、これはどうなんだろうと川端文科大臣に申し入れたということになります。〔中略〕

○国務大臣(中井洽君) 北朝鮮の学校は朝鮮総連の組織下にあります。そして、教職員の給料等はすべて朝鮮総連から賄われているんだと私は認識しております。また、学校の先生そのものは朝鮮総連の幹部の方々だと、このようにも私は認識をいたしております。また、数十年にわたって北朝鮮から多額のお金が送られて運営されている学校でございます。もとより、父兄の方々もお金はお払いになっているでしょう。そして、その中で教育されている中身は、日本の憲法でもなければ何でもないんではないですかと、全く北朝鮮人としての教育がなされている。  これはこれで、僕はやめておけとも一回も言ったことはありません。存続するなとも言っておりません。自分たちのお金で自分たちの民族の学校をおやりになる。私は小さいときからそういうことを認識してまいりました。
 しかし、そこへ今回、新たに学校への補助金として今回の無償化のお金が日本の税金から行くということについてはいかがなものかと申し上げているわけでございます。
〔中略〕

○山下芳生君 今確認いたしました、はいとおっしゃった。
 そうすると、法務省に確認します。朝鮮学校の生徒、教職員は北朝鮮の国民ですか。

○政府参考人(田内正宏君) 外国人登録上、国籍欄に朝鮮という記載をすることがございます。これは、韓国が国籍として認められなかった時代からの歴史的経緯等によりまして、朝鮮半島出身者を示すものとして用いているものであります。
 したがいまして、朝鮮の記載は、何らの国籍を表示するものではなく、もとより、いわゆる北朝鮮あるいは北朝鮮籍を意味するものでもございません。他方、韓国という記載もございますが、これは韓国の国籍を表示するものとして用いております。

○山下芳生君 今の答弁ではっきりしたと思います。日本にいる永住外国人の中に北朝鮮を国籍とする者は一人もいないんですよ。ということは、朝鮮学校の生徒にも教職員にも北朝鮮を国籍とする者、すなわち北朝鮮の国民などいないんですね。これは事実なんですよ。(発言する者あり)これ大臣、いや、ちょっと待ってください、質問しているんですから。
 川端大臣に申し入れたときの大臣の認識、朝鮮学校の云々かんぬんは北朝鮮の国民であるからと、この認識はその時点で間違っていたと、お認めになりますね。

○国務大臣(中井洽君) じゃ、国民じゃないですか。あなたは朝鮮総連の方は北朝鮮の国民じゃないとおっしゃるが……

○山下芳生君 国民じゃないですよ。
〔中略〕
 じゃ、法務省、確認します。朝鮮総連の方々は北朝鮮の国籍を持っている方ですか。

○政府参考人(田内正宏君) 外国人登録上我が国は北朝鮮を国家承認しておらないところから、北朝鮮という国籍を外国人登録では使っていないということでございます。

○山下芳生君 だから、そうなんですよ。それを大臣は北朝鮮の国民とおっしゃったんだから、北朝鮮の国民はいないんですよ。(発言する者あり)いやいや、中井さん、そうじゃないの。じゃ、これは……

○国務大臣(中井洽君) それは朝鮮人民共和国の方へ聞いてくださいよ。そうしたら日本にいる朝鮮総連の人や大半の朝鮮人学校におられる方は我が国の人民であると言うに決まっておるじゃないですか。日本に問い掛けてどうするんですか。もう法務省なんかいつでもこんな答弁ばっかりするんですよ。北朝鮮へ聞いたら、絶対自分の国の国民だと言うじゃないですか、我が同胞と言っているじゃないですか、違うんですか。これがれっきとした国民じゃないですか。僕はそれ悪いと言っていませんよ、何にも迫害しろとも言っていませんよ。ただ、北朝鮮に対しては制裁加えておるんだからと申し上げています。

○山下芳生君 私は、日本にいらっしゃる朝鮮総連の方であれ、どんな外国人の方であれ、北朝鮮の籍を持っている人は一人もいないと、これは事実なんですよね。国交ないんですから、(発言する者あり)そう、国交ないんですから、ないんですよ。ないのに、大臣の認識は、あたかも朝鮮学校に行っている子供たちが北朝鮮の子供だということを、こう言っているから、これは事実と違うでしょうと。(発言する者あり)じゃ、聞いたの、そんなことを。今のはできないでしょう。できないのにそんなことを言っていいんですか。

○国務大臣(中井洽君) 私の認識の方がはるかに進んでいるのかなと思っていますが。国籍があろうとなかろうと、日本におられて、向こうのお国の方、当然向こうのお国の方じゃないでしょうか。日本人でもないんですし、韓国籍でもないんだし、台湾籍でもないんだろうし。当然、向こうの国から見て、僕はそれでいいんだと思っていますよ。そして、日本に特別永住という格別の資格を持ってお住まいになって生活を営んでいらっしゃる。僕は、この認識、何にも変わりません。

○山下芳生君 もう終わりますけれども、なぜ北朝鮮籍の方がいないのか。今朝鮮という登録はあります。韓国という登録もある。これはやっぱり、戦前の一九一〇年の日韓併合、朝鮮併合からずっとこういう歴史的経過があって、そして植民地支配が終わった後、朝鮮籍というものにしたけれども、朝鮮戦争が起こって、帰るところがなくなって、朝鮮という国なくなったから、朝鮮籍というのはありますけれども、それは北朝鮮籍とは違うわけですよね。
 だから、中井大臣、北朝鮮の国籍持った人は一人もいないんです。その誤った認識に基づいて文部科学大臣に申し入れるようなことは、私は撤回すべきだと主張して、終わります。時間が参りました。」

 このやりとりを見て、極右的かつ頑迷固陋な中井を山下が追い詰めていると考え、溜飲が下がる思いをする人もいるかもしれない。だが、ここで中井を問い詰める山下の論法には、到底看過し得ない論理の飛躍がある。山下の議論の厄介な点は、その全てが誤っているわけではなく、一部正しい認識を基に一挙に誤った事実認識へと跳躍する点にある。しかもその跳躍の仕方は現在の日本における在日朝鮮人をめぐるイデオロギー状況に即応する面があり、そうした点で俗耳に入り易いレトリックともなっているため、非常に厄介なのである。

 結論を先回りしていえば、山下の議論の最大の問題点は、「朝鮮籍≠朝鮮民主主義人民共和国国籍」という理解を前提に、一挙に「朝鮮籍在日朝鮮人≠朝鮮民主主義人民共和国国民」という結論を導き出し、その図式をもとに中井を批判しているところにある。

 そもそも、冒頭の山下と田内正宏入管局長のやりとり自体、すでにちぐはぐなのである。山下の「朝鮮学校の生徒、教職員は北朝鮮の国民ですか」との質問に対し、田内入管局長は朝鮮籍は「北朝鮮籍」を意味するものではない、と答えている。少し考えてみればわかることだが、これは質問に対する答えになっていない。山下は朝鮮学校の生徒・教職員が朝鮮民主主義人民共和国の国民かどうかを聞いているのであって、厳密にいえば朝鮮籍が朝鮮民主主義人民共和国国籍を意味するかを聞いているわけではないからである。おそらく法務省的に「正しい」官僚答弁は「それについては朝鮮民主主義人民共和国国籍法の規定による。だが朝鮮民主主義人民共和国については国家承認していないため、在日朝鮮人の共和国国民については確認できない、よって朝鮮学校生徒・教職員の国籍の帰属についても確認できない」というもののはずである(この論法自体の問題点は後述する)。だが、田内は外国人登録上の「朝鮮籍」について答えた。この時点ですでにやりとりはかみ合っていない。

 確かに、外国人登録法上の「朝鮮籍」がただちに朝鮮民主主義人民共和国国籍を意味するわけではない。この点は田内のいうとおりである。だがなぜそういえるかというと、そもそも外国人の国籍を日本法によって一義的に規定することが法理上不可能だからである。外国人たる在日朝鮮人の国籍については、朝鮮民主主義人民共和国国籍法、あるいは大韓民国国籍法の規定による。よって、「朝鮮籍」がただちに朝鮮民主主義人民共和国国籍を意味するわけではないが、だからといって在日朝鮮人に朝鮮民主主義人民共和国国籍を有するものがいない、ということにもならない。朝鮮民主主義人民共和国国籍を有する朝鮮籍者もいるだろうし、そうではない朝鮮籍者もいる。少なくとも形式論理的にはそうなる。だが田内はこの点について朝鮮籍≠朝鮮民主主義人民共和国国籍という「事実」だけを述べて、はぐらかした。はぐらかしたのはおそらく法務省がそれは朝鮮民主主義人民共和国国籍法によるということを言いたくないからだと思われるのだが、田内のはぐらかしをうけて、山下は一挙に「朝鮮籍在日朝鮮人≠朝鮮民主主義人民共和国国民」という、実は田内の答弁と(表面上は)無関係な主張を展開していったのである。

 皮肉なことだがこれに対する中井の「それは朝鮮人民共和国の方へ聞いてくださいよ」という答弁は、正式国名を間違えている点と、政府見解に責任を負う閣僚の一員であるという点を除けば、少なくとも山下よりは幾分ましである。確かに在日朝鮮人の国籍については「朝鮮に聞いてください」というのが正しい答えなのである。だが、これは橋下府知事に言及した際にも記したことだが、そもそも日本が朝鮮民主主義人民共和国の国籍を承認していないにもかかわらず、他方で弾圧のときだけは恣意的に「北朝鮮国民(国籍)」なるものをひねり出し、社会的な憎悪の対象として名指すのはダブルスタンダードである(「橋下発言と世界「提言」、そして在日朝鮮人の「責任」)参照)。そして、中井の答弁は、これまで必要に応じて「北朝鮮国民」をいるといったり、いないと言ったりしてきた日本政府のご都合主義的な方便を継承するものであり、独立後半世紀以上が経過しているにもかかわらず、傲慢にも朝鮮民族の国籍を日本政府が恣意的に操作しうるものとみなしている点で、朝鮮民族を愚弄するものである。

 だが、だからといって山下の主張が肯定されるわけでもない。山下の議論の第一の問題点は、戦後に日本法務省が保守系政党政権下で営々と築いてきた在日朝鮮人の朝鮮民主主義人民共和国国籍に関する欺瞞的な方便を、忠実になぞっている点にある。

 山下は「北朝鮮の籍を持っている人は一人もいないと、これは事実なんですよね。国交ないんですから」と述べている。前段が誤っていることはすでに述べたが、さらに付け加えると、朝鮮民主主義人民共和国は国籍法以下、事務手続を含めて在日朝鮮人の国籍確認及び旅券取得の手続を定めているが、日本政府はそれを認めないことを選択している。その際、田内入管局長の答弁にもあるように、政府はそれを国交が無い(国家承認していない)せいだと合理化しており、山下もまた国交がないから朝鮮民主主義人民共和国国籍者は「一人もいない」と完全に受容してしまっている。

 だがこれは端的に言ってウソである。国籍の承認は常に国家承認の後でなければいけないわけではない。実際、大韓民国国籍法は日韓協定の調印・発行以前に承認されていたし、事務取扱上はそれよりはるかに以前から韓国発行の国籍証明書の証明機能を日本政府は認めていたのである。つまり、国交が無いから必然的に国籍も認められないのではなく、日本政府は技術的には可能である(そもそも日本政府は1994年の朝鮮民主主義人民共和国の国連加盟に賛成票を投じているのだから、それを理由に国籍を先行承認することだって可能なのだ)にもかかわらず、朝鮮民主主義人民共和国国籍を承認することを主体的に拒否しているのである。それは不可抗力ではなく、一つの選択の結果である。この選択について日本政府は責任を負っており、共産党はこれを追及しうる立場にいるにもかかわらず、むしろ山下はこのすり替えに乗っかってしまっているのである。

 過去であれば、例えば1970-72年をピークとする日韓協定後の国会の論戦において、共産党や社会党は繰り返し政府が韓国の国籍証明書のみ認めて朝鮮民主主義人民共和国のそれを承認しない姿勢を取っていることを批判していた。だが2010年に至ってはもはや共産党は政府見解の矛盾を突くのではなく、むしろ政府見解の上に立って中井を批判するようになっている。むろん中井は批判されてしかるべきだが、問題はそれを在日朝鮮人の朝鮮民主主義人民共和国国籍、ひいては朝鮮民主主義人民共和国の国籍証明機能そのものの否定という従来の政府見解の上に立って山下がそれを行なったことにある。どの時点で共産党の立場が変わったのか調べてはいないが、少なくとも70年代と比べて大きくその立場を変えたことは明白である。

 第二の問題点としては、こうした山下の論法がこのブログで取扱ってきた『朝日新聞』の外国人参政権からの朝鮮籍排除や高校「無償化」からの朝鮮学校排除を批判する論法に代表される、現代日本における政府批判の弱さ(というよりも卑劣さ)と軌を一にしていることが挙げられる。先に俗耳に入り易いといったのはこの点を差している。すなわち、朝鮮籍は「北朝鮮籍」ではない、朝鮮学校は「北朝鮮」とは関係ない、だから排除するのはおかしい、という論法と同様、国会議員や日本社会の朝鮮民主主義人民共和国に対する排外的感情そのものの問題点を問うことなしに、在日朝鮮人はあくまで朝鮮民主主義人民共和国とは無関係な「良民」であると表象することによって排外的感情におもねりながら自らの批判的ポーズを占めそうとする点で、深刻な問題を抱えているのである。政府への批判勢力がこうした姿勢を維持する限り、日本国家の排外的性格は絶対に是正されない(これについては「筑紫哲也の反テロ戦争的「情」について」を参照)。

 そして、第三の(そして影響力の点ではおそらく最大の)問題点は日朝交渉への影響である。今後日朝交渉が再開された場合、こうした山下の論法は深刻な問題を引き起こす。朝鮮民主主義人民共和国は1950年代以来一貫して在日朝鮮人への迫害について日本政府に対しその是正を要請しているが、山下や『朝日』的な在日朝鮮人「擁護」論は、むしろこうした迫害への批判の権利を朝鮮民主主義人民共和国に認めない方向へ向って作用する可能性があるからだ。前回の記事で1991年入管特例法制定時、今後の日朝交渉で在日朝鮮人の法的地位について朝鮮民主主義人民共和国に容喙させないために法務省は一挙に「韓国・朝鮮」籍を特例法にまとめた可能性があるとの金敬得の指摘を紹介した(「戦後日本政府の在日朝鮮人「政策」と強制連行問題」)。こうした法務省の立場からすれば、山下や『朝日』のような「擁護」論は非常に好ましいはずである。在日朝鮮人の権利問題について朝鮮民主主義人民共和国が言及する芽を、政府批判の側が自ら否定してくれるのであるから、日朝交渉は植民地支配に起因する在日朝鮮人の地位改善の問題などを抜きにして、限定的な「経済協力」や「安全保障」の問題に狭めることができるからである。

 このように、在日朝鮮人を弾圧すればするほど、非政府勢力の側が進んで転向するのだから、政府としては在日朝鮮人を弾圧しない手はない。まことに日本恐るべしである。
by kscykscy | 2010-04-30 12:12 | 朝鮮学校「無償化」排除問題

戦後日本政府の在日朝鮮人「政策」と強制連行問題

 少し前の話になるが、宮台真司が永住外国人の参政権に反対する文章を書いた。結論からいえば、特別永住者は帰化すればいい、という古典的な反対論であってとりたてて新しい知見があるわけでもない。ただ、宮台は一つだけ「新しい知見」を提示している。その「新しい知見」とは、日本政府がこれまで、現存する在日朝鮮人の大多数は強制連行による被連行者及びその子孫であるという「図式」に基き「在日政策」を立ててきた、という驚愕の新説である。

 該当部分を引用しよう。

「つまり、特別永住外国人(在日の方々)を一般永住外国人(非在日)と区別して参政権を与えるべき合理的な理由があるかどうかだけ議論してます。ここを取りのがした議論は、僕を相手にした議論にはなりません。
 この1点を議論するにはさして知識は必要ありません。1950年代後半から「在日=強制連行」図式が拡がり、これをベースに北朝鮮への「帰国運動」が自民党さえも巻き込むという文脈の中で、在日政策が固められていきます。しかし「在日=強制連行」図式は単なる虚偽でした。
 8割(それ以上という説もありますが厳密には検証不能)の在日が「強制連行」ではなく「一旗あげにきた人々」である以上「在日=強制連行」図式は不正確というより事実上虚偽です。でも僕の小学校時代(1960年代)6つの小学校に通ったけど、とこでも在日=強制連行と教わりました。
 図式が虚偽である以上、虚偽を前提にした政策の妥当性に疑問があります。これを疑問に付すことなく、一般永住者からとりわけ区別して特別永住者を処遇して参政権を与えねばならないと議論しても、まったく通用しません。」
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=866

 「特別永住者の方々が最初は2世までという約束で基本的には国籍を取っていないのに日本人に準じる権利を様々に与えられというのは、ご存知のように在日の方々の多くが強制連行で連れてこられたという左翼が噴き上げた神話が背景にあるんです。在日のなかで強制連行されてきた方というのはごく一部で、大半は一旗上げにやってきた人達なんですよ。ただ、区別がつかないから、あるいは戦争に負けて罪の意識というか原罪感覚というのがあったのでしょうか、まぁ、色んな人が混ざっちゃっているけど、しょうがないということで分かってやっている感じで特別永住の方々に対する特権の付与をやってきたわけです。僕に言わせると、あえてそれをやっているという感覚が段々薄れてきてしまっていることも問題だし、1世、2世とは違ってエスニックリソースを頼らず、日本人のネットワークをそれなりに頼っている人間が増えたのに、まだ4世、5世にも特権を与えるのが続いているのはおかしいし、」
http://blog.goo.ne.jp/politics10/e/db217173910b0fe7fc6ba53f88ae4251

「#miyadai 追加情報。慰安婦問題と結合して強制連行をマスコミが吹聴したのが80年代。研究者や政治家が強制連行問題を俎上にあげたのは59年以降(朝日新聞記事)。だから僕の小学校時代の強制連行図式の教育がありました。神話は二段階で形成された。 帰国運動は59年から84年まで。 」
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=868


 以上である。つまり、宮台によれば日本政府は「『在日=強制連行』図式」を前提に在日朝鮮人の法的地位に関する政策を採ってきたのであるが、その「図式」は虚偽であるため「在日政策」も変更すべきである、ということになる。よって特別永住外国人が日本国籍を取得しないまま地方参政権を取得することには反対だ、というわけだ。

 宮台の議論については金明秀がこれを批判して、両者の間に若干の論争があったようだが、この部分については全く触れられぬまま終息を迎えたようである。私は宮台の議論は「『帰化すればいい』という傲慢」ともいえるものであり、ヘイト・スピーチであるという金明秀の結論に賛同するのであるが、なぜ金がこの点に触れず、また、宮台がこの説を維持しているのにも関わらず矛をおさめて和解したのか理解しかねる。

 問題点は極めて単純である。宮台のいうところの「『在日=強制連行』図式」に則って日本政府が「在日政策」を立てたことなどあるのか、ということである。私の知る限りそんなことは一度も無かった。もしあるというなら宮台は論拠を示すべきだろう(まさか小学校時代の教師の言が証拠とでもいうのだろうか)。例えば、1952年に法律126号「ポツダム宣言の受諾に伴ない発する命令に関する件に基づく外務省関係諸命令の措置に関する法律」(いわゆる法126)の第二条六項で在日朝鮮人の在留が「在留資格なき在留」となったとき、あるいは、1965年の日韓法的地位協定の締結過程で、あるいは1991年の入管特例法の制定過程で、日本政府は「『在日=強制連行』図式」を前提にしていたという論拠を、である。できないのであれば(十中八九できないだろう)、それこそ宮台の流した最大の「デマ」である。

 むしろ歴代の日本政府の発想は宮台のそれに近い。例えば、在日朝鮮人の法的地位をめぐる日韓交渉でも、日本政府はできるだけ永住許可の対象を狭く限定し、特に子孫については極力これを排除しようとした。宮台は「まだ4世、5世にも特権を与えるのが続いているのはおかしい」と言っているが、日本政府も同じようなことを考えていたのである。それでも日本政府の主張より永住許可の対象が広がったのは、何も政府内に「『在日=強制連行』図式」があったからではない。韓国政府が求めたからである。

 同時代の言論も別にこうした政府の姿勢を批判していたわけではない。有名な社説だが、例えば日韓協定締結をうけて『朝日新聞』は次のように日本政府を批判している。

「厳密にいうならば、在日韓国人に永住権を認める範囲は、サンフランシスコ平和条約発効前に日本に在住していた韓国人にかぎられるべきであろうが、日本政府は韓国の主張に歩みよって、日韓会談の協定発足後五年以内に生れた韓国人に永住権を与えるところまで、譲歩しているといわれる。ところが、韓国側はこれにたいして、在日韓国人の子々孫々にまで永住権を与えるよう主張し、その理由として、在日韓国人の二世、三世になるほど日本への定着性が強まることをあげているようである。しかし〔中略〕在日韓国人の子孫全部にそうした権利を認めることは、韓国人が外国人でありながら、日本において特権的な地位を持つという不合理な事態を招くことになろう。また、在日韓国人が韓国人でありながら、実質的に日本国内で少数民族を形成するということにもなりかねまい。むしろ、一定の時期以後に生れた在日韓国人は成人するまでは永住権を持つものと同様にあつかい、それ以後は一般外国人と同様になるか、あるいは帰化するかの道をえらぶべきではあるまいか」(1965年3月7日付「在日韓国人と永住権の限界」、強調引用者。以下同。)

「子孫の代まで永住を保障され〔中略〕るとなると、将来この狭い国土の中に、異様な、そして解決困難な少数民族問題をかかえ込むことになりはしまいか。出入国管理上の、一般外国人の取扱いに比してあまりにも”特権的”な法的地位を享受することが、果して在日韓国人のためになると、一概に決めこむが出来るかどうか、民族感情というものの微妙さ、複雑さはいまさら言うまでもなく、その意味で将来に禍根を残さないよう、法律上のスジを通しておくことがとくに肝要だといいたい」(1965年3月31日付「『法的地位』には筋を通せ」)


 どうだろうか。二世、三世以降への永住「権」付与を「特権」と呼ぶところや、それらが「果して在日韓国人のためになると、一概に決めこむが出来るか」など、在日朝鮮人のためを思って言っているといわんばかりの主張をしていることなど、私にはこの1965年の朝日の社説は、2010年の宮台の議論ととてもよく似ているように見える。つまり、宮台の議論はこうした戦後日本の政府やマスコミの議論の「伝統」から寸分も逸れることのない、まさに古典的かつ凡庸な議論なのである。むしろ宮台はこれまでの認識は間違っていたなんてハッタリをかまさず、こうした戦後日本の「伝統」の継承者として振舞えばよい。ちなみに、これは在特会も同様である。在特会は基本的に戦後日本政府のやり口を模倣しているに過ぎない。特別永住を「特権」と名指すこともそうであるし、朝鮮学校に暴力的に押し入ることだって、90年代に散々日本政府が繰返したことである。

 私が危惧するのは入管特例法が国内法という形式で制定されてしまったことにより、日本政府やマスメディア(及びそれを反復する宮台や在特会)のような「在日特権」論に基く在日朝鮮人の在留権の侵害が、現実に起る可能性が戦後のいずれの時期によりも高くなっていることである。これについては入管特例法制定当時の金敬得の以下の評価を改めて思い起こすべきである。

「九一年協議の結論が国内法的効力を有する条約の形式をとらなかったことは、結果として、在日韓国・朝鮮人の法的地位問題をできるだけ日本のフリーハンド(国内問題)にしたいとの日本側の思惑に合致することになったが、そうなったことの背景には南北の分断状況が影を落としている。〔中略〕九一年覚書は、在日韓国・朝鮮人に認められた権利の内容面では、六五年の法的地位協定よりも優れていたが、法形式の面では、法的地位協定よりも劣るものとなった(九一年覚書も両国外相により署名された国際的合意であり、日本政府が韓国との関係において覚書に拘束されることは、日韓法的地位協定の場合と変わりはない。ただし、日韓法的地位協定は、それ自体が法律に優先する国内法的効力を有するのに対し、九一年覚書にはそのような国内法的効力はない)」(金敬得「九一年日韓覚書後の法的地位の課題」『新版 在日コリアンのアイデンティティと法的地位』明石書店、2005年、186-188頁)

 少し説明が必要だろう。1965年の地位協定は言うまでも無く日韓の条約という形式で結ばれたため、対象となる「在日韓国人」の法的地位をいじるためには、協定の改訂、即ち韓国側の同意が必要となる。だが91年覚書は日本国内法で在日朝鮮人の在留資格を定めることを決め、実際その後入管特例法が制定された。入管特例法は65年協定よりも内容においては改善があったが、これはあくまで日本の国内法であるため、究極的には韓国の同意を得ずに在日朝鮮人の法的地位をいじれるようになる。しかも、入管特例法は朝鮮籍者も含んでいたので、当時始まっていた日朝交渉において在日朝鮮人の法的地位が取り上げられることを日本側は避けることもできて一石二鳥である(逆にいえば朝鮮民主主義人民共和国は在日朝鮮人の法的地位改善のために日本側に要請する建前を失う)。だから、金は「法形式の面では、法的地位協定よりも劣るものとなった」と評価したのである。

 当時、入管特例法についてはほとんどが内容面での前進を評価するものであったが、金敬得はそのなかで数少ない法形式面での後退を指摘した論者だった。こうした指摘はいわば、今後日本政府が入管特例法を改悪しないとも限らないという、日本政府についての(私からみれば正当な)不信が無ければなしえない。おそらく当時は国内法形式に対し、国家の都合で在日朝鮮人の地位が「翻弄」される条約形式よりまし、というのが大勢だったのではなかろうか。だが今日の視点から見れば、それは今後日本政府がこれ以上悪くなることはないということを暗黙の前提にしたあまりに楽観的な認識であったように思う。現に戦後日本の「伝統」の上に立つ在特会や宮台のような議論が決して少数派としてではなく存在し、しかもその声はより強まっている。再言するが、私は金敬得の91年覚書の評価、そしてその背後にある日本への不信は極めてまっとうなものであると思う。

 強制連行に話を戻すと、近年しきりに朝鮮人強制連行が攻撃されているのは、在日朝鮮人の歴史から植民地支配の痕跡を抹消することにより、上述のようないわばこのように日本政府が法形式面でのフリーハンドを握っている状態を前提にした「在日特権」論的在留権制限の政策化のための、いわば露払いであるように思う。私はむしろ日本政府は敗戦直後から強制連行(強制労働含む)の事実とその責任を直視し、それらへの反省に基いた政策を立てるべきだった、と考えている。もちろん在日朝鮮人の形成は強制連行のみならず、日本の植民地支配の直接的な結果なのであるが、だからといって逆に強制連行を外して在日朝鮮人の存在を理解できるわけでもない。

 宮台は強制連行そのものを否定しているわけではないと言っているが、そもそも朝鮮人の日本渡航を「一旗あげにきた人々」という表現で示すこと自体、在日朝鮮人の形成についての認識に問題があるのだ。強制連行でなければ「一旗あげにきた人々」であるという二分論は極めて乱暴であるばかりか、「一旗あげにきた人々」というイメージは、在日朝鮮人形成の背後にある植民地支配による農村経済の破壊という現実を無視するものである(むしろ「一旗あげにきた人々」というのは、在日朝鮮人よりも在朝日本人の実態に近い)。強制連行否定論者は在日朝鮮人を日本での生活に憧れてやってきた「移民」として表象しようとする。自発的移民ならば、その処遇について日本政府に何ら負い目を持つ必要はない、むしろ別途の処遇をすればそれは「特権」となる、というのが現代の歴史修正主義の論法だとすれば、宮台はそれを正確になぞっているのである。そして、何より私が危惧するのは宮台のような誤った認識が流布されるなかで、それを批判する側までもが、在日朝鮮人という存在が形成される過程において「強制連行」が持つ比重を過小に評価し、あるいは意図的にこれを避けるようになることである。
by kscykscy | 2010-04-23 02:20 | 日朝関係