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鳩山「国交」発言にみる狎れあいの構図――朝鮮学校と高校「無償化」問題④

 鳩山首相がおそろしく不用意な発言をした。鳩山は26日夜の記者会見で「国交がないから、教科内容を調べようがない。国交のある国を優先するのは無理のない話だ」と話していたが(時事ドットコム、2月26日付)、これは重大な発言である。高校「無償化」から朝鮮学校が排除される理由が「国交がないから、教科内容を調べようがない」ことなら、同じく「国交がない」中華民国系の中華学校も、同様に排除されることになるからだ。だが、断言してもよいが、この鳩山発言は早晩修正されるだろう。「国交がない」ことで外国人学校を区切ってしまっては大学入学資格の排除基準と齟齬が生じることになり、文科省から注文がつくことは必至だからである。早ければ明日27日にでも修正するかもしれない。修正後の排除基準はすでに文科省内で検討されている伝えられている「授業内容と本国の教育課程が日本の学習指導要領におおむね合致していると確認できること」に近いものになるはずである。つまり「公的確認」の論理である。

 しかも鳩山は言ったそばから墓穴を掘っている。鳩山は朝鮮学校排除と拉致問題との関連を否定したそうだが、すでに記したように、「公的確認」の論理は9.17後、拉致問題がイシュー化されるなかで大学受験資格から朝鮮学校を排除するために文科省が作り出した理屈である。多くの報道は拉致問題を理由に排除することと、教育制度上の理由によって排除することが別のことであるかのように歪めて伝えているが(上記の時事ドットコムなど)、繰り返しになるが、「公的確認」の論理自体が拉致問題を契機に作られたものなのである。逆に言えば、拉致問題を直接的理由として朝鮮学校を排除するような省令を作るほうがよっぽど難しいのである。メディアは拉致問題を理由に排除することと、教育制度上の理由によって排除することを対比的に描くことによって、むしろ鳩山政権に加担しているとさえいえる。

 より腹立たしいのは、鳩山がするであろう「国交」から「公的確認」への修正が、特に説明もなく、しれっとなされるだろうことが眼に見えていることである。そこで、なぜ26日夜の時点では「国交がないから」といっていたのを、別の基準に修正したのかと突っ込む記者は、皆無であろう。政府のみならず、報道機関もまた、所詮は政府のいうことは朝鮮学校を排除するための方便にすぎないことを熟知しており、あからさまな方便をただし、疑おうとする一片の良識も持っていないことは明らかだ。朝鮮学校排除のために「知恵を絞れ」とアジった『産経』は確かに下劣であるが、実際に政府が「知恵を絞る」姿を無批判に垂れ流す他の報道機関も、同様に下劣である。こういうのを「狎れあい」というのだ。
by kscykscy | 2010-02-27 02:00 | 朝鮮学校「無償化」排除問題

案の定の『朝日新聞』社説――朝鮮学校と高校「無償化」問題③

 在日朝鮮人をめぐる現代日本の擬似対立の構図が見事に出揃った観がある。『朝日新聞』2月24日付社説「高校無償化―朝鮮学校除外はおかしい」の論法はこのブログで引き続き批判してきた『朝日』的擁護論の問題を反復したものとなっている。私は以前の記事で、『産経』的批判論に対し、「他のメディアは傍観するか、お茶を濁すだけだろう。せいぜい「最近は韓国籍の人も通っている」とか「朝鮮学校も変わっている」云々というだけ」と推測も込めて記したが(「『産経新聞』は何を「明らかに」したのか――朝鮮学校と高校「無償化」問題」参照)、その通りになった。

 タイトルからわかるように『朝日』社説の趣旨は、高校「無償化」から朝鮮学校を除外することに対する批判である。朝鮮学校を除外するために『産経』及び中井拉致相が持ち出した論拠に疑問を呈している。問題はその論法である。

 「北朝鮮という国家に日本が厳しい姿勢をとり、必要な外交圧力を加えるのは当然だ。しかしそれと、在日朝鮮人子弟の教育をめぐる問題を同一の線上でとらえていいのだろうか。
 朝鮮学校は日本の敗戦後、在日朝鮮人たちが、母国語を取り戻そうと各地で自発的に始めた学校が起源だ。1955年に結成された朝鮮総連のもとで北朝鮮の影響を強く受け、厳格な思想教育が強いられた時期もある。
 だが在日の世代交代が進む中、教育内容は大きく変わった。大半の授業は朝鮮語で行われるが、朝鮮史といった科目以外は、日本の学習指導要領に準じたカリキュラムが組まれている。
 北朝鮮の体制は支持しないが、民族の言葉や文化を大事にしたいとの思いで通わせる家庭も増えている。
 かつては全校の教室に金日成、金正日父子の肖像画があったが、親たちの要望で小・中課程の教室からは外されている。そうした流れは、これからも強まっていくだろう。」


 『朝日』ならこの問題をどう論じるか、の模範解答のような論理展開である。一読して明らかなように、『朝日』は外国人参政権からの朝鮮籍排除論に留保をした際と全く同様に、北朝鮮は問題だ、だが在日朝鮮人は変わった、昔とは違う、北朝鮮を支持しない者もいる、だから『産経』的排除論はおかしい、という論法を採用している(「『朝日』社説「外国人選挙権―まちづくりを共に担う」の問題」参照)。

 何度でも繰り返すが、こうした在日朝鮮人の思想・信条あるいは行動が日本社会が許容可能な程度のものになったことを根拠に「権利」付与を擁護するような論法は、長期的にみればむしろ在日朝鮮人を追い詰める結果を確実に招来する。「在日の世代交代が進む中、教育内容は大きく変わった」という表現は、「変わった」という事実を記しているのではなく、「変わった」ならば擁護しよう、という一種の圧力として機能するからである。

 高校課程相当の各種学校から朝鮮学校だけをあえて排除するという場合、説明責任を求められているのは排除する側の日本政府なのであって、朝鮮学校が排除されなくてもよい理由を列挙するというのは倒錯した議論なのである(「「多民族社会」日本の構想」参照)。朝鮮学校が高校課程相当の各種学校であることが確認されさえすれば、高校「無償化」の枠内に含むのが当然なのであって、「在日の世代交代が進む中、教育内容は大きく変わった」「北朝鮮の体制は支持しないが、民族の言葉や文化を大事にしたいとの思いで通わせる家庭も増えている」云々という言い草は、日本の反朝鮮感情におもねったものであって非常にたちが悪い。

 川端文科相は「外交上の配慮や教育の中身に関してのことが判断材料になるものではない」と語ったとのことであるから、「教育の中身」の変化を持ち出して排除反対の論理を組み立てた『朝日』の社説は、文科相と比べても遥かに問題含みであることがわかる。

 なお誤解を避けるために言っておくが、私は、朝鮮学校側はこうした主張をしていないとか、こうした主張を望んではいないと言っているわけではない。むしろ学校関係者からすれば、こんな社説でもありがたいと思うのは当然であろうし、また、学校側は自らが当事者であるがゆえに『朝日』社説と同内容の弁明をせざるを得ない状況に置かれている。問題は当事者がほとんど発言の選択肢の無い状況でなさざるを得ない理不尽な弁明を、何ら自省することなくマスメディアが反復することにある。

 こうした意味では「中井担当相は一度、川端文科相とともに朝鮮学校を視察してみてはどうだろう。/そこで学んでいるのは、大学を目指したり、スポーツに汗を流したり、将来を悩んだりする、日本の学校と変わらない若者たちのはずである」というこの社説の結びは、こうした当事者の苦渋を無視した、能天気の極みといわざるを得ない。

 これまでも朝鮮学校は繰り返し公開授業を行い、各種の文化行事を開いて「地域社会」に自らの姿をさらしてきた。なぜ学校に通う/通わせる可能性のある在日朝鮮人を主たる対象としてではなく、「地域社会」を対象に公開授業を行わなければならないのか。それは言い換えれば朝鮮学校が「地域社会」に包囲されているからではないのか。これは体験的なことであるが、以前参加した「在特会」批判の集会で、良心的な支援者が「朝鮮学校側ももっと地域社会に自らを開いてください」と要望するのを聞いたことがある。ただでさえ在特会の件で腹が立っているのに、この発言には本当に失望させられた。朝鮮学校が「地域社会に開」く負担を負わされている状況と、在特会が跋扈する状況は地続きではないのか、という問いが決定的に欠落しているのである。
 

 こうした文脈で『朝日』が記す「朝鮮学校に通う生徒も、いうまでもなく日本社会の一員である」という一文は、なかば脅迫に近い。案の上の『朝日』の社説であった。
by kscykscy | 2010-02-24 18:08 | 朝鮮学校「無償化」排除問題

「公的確認」の論理と教育「内容」の問題――朝鮮学校と高校「無償化」問題②

 朝鮮学校の高校「無償化」をめぐって、排除派からの突き上げをうけて文科省内では「授業内容と本国の教育課程が日本の学習指導要領におおむね合致していると確認できること」を「無償化」の条件とする案が浮上しているとのことである。

 この問題をめぐっては複数のメディアが似たような内容の報道をしているが、文科省の朝鮮学校処遇をめぐる最低限の事実経過が抑えられておらず、しかも非常に不正確な表現が使われているため、これが新たな問題を引き起こしかねない。以下に文科省の論法の背景と教育「内容」のチェックという言葉の問題点について指摘しておきたい。

 まず今回の排除派からの突き上げに伴い、文科省内で「授業内容と本国の教育課程が日本の学習指導要領におおむね合致していると確認できること」が排除の条件として検討されているというものだが、仮に事実とすれば、これは文科省が2003年に外国人学校に対する大学入学資格の「弾力化」を行った際に朝鮮学校を排除するために用いたものと全く同じ論法である。

 2003年、文科省は規制緩和の観点からインターナショナルスクール等の大学受験資格制限の「弾力化」を試み、当初は国際バカロレア、アビトゥア、バカロレアなどの資格保有者及び国際的な評価団体の認定を受けた外国人学校(事実上欧米系学校を意味する)にのみこれを行おうとした。だがこのあからさまな差別的措置への反対が高まったため、文科省は制限基準を修正した。その際に用いた論法が、外国の正規の高等課程と位置づけられているかにつき「公的確認」が可能な学校には大学入学試験を認める、というものだったのである。

 文科省がこうした紛らわしい論法を用いたのは、端的に言って朝鮮学校を排除するためである(実際、朝鮮学校以外のほとんどの外国人学校には受験資格が認められている)。ただ、単に国交がある国の学校というだけでは台湾系の中華学校まで排除してしまうため、「公的確認」なる恣意的な概念を導入したのである。この結果、文科省は最大の外国人学校である朝鮮学校の生徒・卒業生にのみ入学資格を認めず、個別審査により入学資格が判定されることになった。つまり、他の外国人学校については卒業を根拠に大学入学資格が認められるにも関わらず、朝鮮学校の生徒・卒業生は各大学と個々に大学資格審査判定の手続をしなければならなくなったのである。

 2003年に文科省がこうしたあからさまな差別的取扱いをしたことにより、事実上朝鮮学校の生徒・卒業生に対しては、「弾力化」以前とほとんど変わらない負担が残ることになった。ここで主として問題となっていたのは一律受験資格を認めていなかった国立大学であるが、私立の場合も独自の判断で認めていない大学は数多く存在した。もし卒業資格をもって大学入学資格を承認すると文科省が方針を打ち出せば、国公立・私立共に全大学が横並びに資格を承認したはずである。だが文科省は個別審査とするというかたちで各大学に丸投げしてしまったため、結局学生たちは受験前にいちいち受験資格を認めているかどうかを大学・専門学校に確認し、各種資料を提出して「審査」を受ける負担を引続き負うことになったのである。しかも「弾力化」以後、逆に独自判断で資格を認めなくなった大学も現れた。学生の立場になればわかることだが、受験シーズンになっていちいち志望校に問い合わせ審査を受けるようなリスクを負うならば、はじめから高卒認定試験を受ける方が安全である。このため、今でも朝鮮学校の学生たちの多くは高卒認定試験を受けているのが実情なのだ。これでは大検を受けていた2003年以前と何ら状況は変わらないのである。

 いずれにしても、今回の文科省の高校「無償化」排除の論法は、こうした9.17以後につくり出した理屈ならぬ理屈をそのまま引っ張り出してきたものなのである。しかもその理屈は上述のように教育政策とはおよそ無関係な、極めて浅薄な外交的「配慮」のためにひねりだされたものだった。少なくとも文科省の今回の対応を報道するならば、最低限このくらいの経過をおさえておかなければ、なぜ「授業内容と本国の教育課程が日本の学習指導要領におおむね合致していると確認できること」などという文句が突然出てきたのかさっぱり理解できない。
 
 ネット上では朝鮮学校にはそもそも大学受験資格すら無いのに高校「無償化」に含めるなどもってのほか、との意見が散見されるが、こうした議論はそもそも大学受験資格から排除された経緯と今般のそれが全く軌を一にしていることを無視した、全くもって倒錯したものと言わざるを得ない。また、朝鮮学校には受験資格を認めている大学もあるのだから高校「無償化」に含めてもいいじゃない、という善意の反論も同様に不正確である。厳密にいえば朝鮮学校はいまでも大学受験資格を認められていないのである。あくまで生徒・卒業生が個別審査によって認められたに過ぎない。大学によっては審査を基に以後同校生徒・卒業生については審査を免除する措置を採っているところもあるが、それはあくまで善意でそうしているに過ぎない。いつひっくり返ってもおかしくないのである。

 こうした経緯を一切すっ飛ばした報道も去ることながら、そこでの語彙の選択があまりに恣意的に行われていることは一層問題である。各紙は平野官房長官の2月22日の記者会見での発言について、「教育の中身をチェック」(日経web版、2月22日付)、「朝鮮学校の教育内容で判断」(共同通信web版、同日付)「無償化にふさわしいカリキュラム(教育課程)かも含め、文部科学省がチェックしなければならない」(産経web版、同日付)などの見出しをつけて報道した。

 ここで注意しなければならないのは「教育の中身」「内容」という用語である。記事を読む限りでは少なくとも平野が言ったのはカリキュラム、すなわち教育「課程」をみて判断するということなのであって、これは教育の「中身」「内容」をチェックするということとは全く意味が違う(そうした意味では三つの中では『産経』が最も正確である)。教育課程とは教科、カリキュラム、授業時間数などの形式的・外形的なものであって、これらの教科で具体的にいかなる教育が行われているかの「中身」「内容」とは全く異なる。だが報道は極めて恣意的に「教育の中身」「内容」をチェックすると平野官房長官が言ったかのような見出しをつけており、案の定「反日教育をやっているから駄目だ」的な反論を呼び起こしている。

 そもそも高校の課程相当の各種学校は「無償化」の対象に含めるといっておきながら、改めて朝鮮学校に限定して教育課程の資料提出を要求するということ自体、どうあっても正当化しようのないものであるが、百歩譲って教育課程ならば、この間の受験資格問題の経験により各校共に資料の準備はできているだろう(これ自体悲しいことであるが)。だが上に見たような無定見な報道は、教育課程の審査を越えて、教育「内容」の審査にまで文科省に踏み込ませる方向へ世論を誘導する可能性がある。朝鮮学校が各教科でいかなる「内容」の教育をしているのかをつまびらかにしなければ「無償化」の対象に含めない(あるいは判断すら開始しない)ような状況は、言うまでも無く政府による教育内容への差別的干渉である。各紙が無知でそうしているのか、狙ってやっているのかは私には判断できないが、こうした「事実」報道がスクラムを組んで在日朝鮮人の民族教育の立地を日々がけっぷちに追い込んでいるのである。
by kscykscy | 2010-02-23 03:40 | 朝鮮学校「無償化」排除問題

『産経新聞』は何を「明らかに」したのか――朝鮮学校と高校「無償化」問題

 国庫からの就学支援金助成を内容とする、いわゆる高校「無償化」法案が1月29日に閣議決定されたが、この法案では各種学校も助成の対象に含まれているため、すかさず『産経新聞』が騒ぎ始めた。各種学校には朝鮮学校も入っていることを問題にしているのである。しかもいかにも『産経』らしい姑息なやり口で。

 とりわけ『産経』2月11日付web版の「北、朝鮮学校に460億円送金 昨年も2億…高校無償化に影響」という記事は度を越している。この記事は「北朝鮮が過去半世紀以上にわたり、在日朝鮮人に民族教育を行う各種学校「朝鮮学校」に対して総計約460億円の資金提供を実施し、昨年も約2億円の「教育援助金」を送金していたことが10日、明らかになった」(太字は引用者、以下同じ)という驚きの一節から始まる。

 さて、「明らかになった」とは、どういうことだろうか。この文章前段のどの部分にかかっているのだろうか。そもそも朝鮮総連は繰り返し朝鮮民主主義人民共和国が在日朝鮮人に教育援助費を送ってきていることを明らかにしている。「昨年」についても、『朝鮮新報』はきちんと金額まで明記して記事にしている。『産経』の記事は「北朝鮮の政治的影響下にある上に、資金提供が発覚したことで、無償化の是非について議論を呼びそうだ」(太字は引用者)と結んでいるが、そもそも当人たちが隠しもせず、むしろ積極的に公表している情報をそのまま載せて何が「発覚」なのか。
 
 仮に『産経』がこの事実を知らなかったとすれば、こんな基本的な事実も知らずに記事を書かせるような新聞社の「北朝鮮報道」とは一体何なのか。だが、『産経』が知っていたとすれば、ここで扇情的に用いている「明らかになった」とか「発覚」とかいういかにも「スクープ」であるかのような表現の利用は、語句の使用というレベルで全く正確さを欠いているだけではなく、事実報道の形を借りた印象操作というほかない。周知のことながら、『産経』が報道としての最低限の倫理を自ら完全に放棄し、むしろ積極的に印象操作することによって糊口をしのぐ排外主義的プロパガンダメディアだということをここに記しておく。

 もちろん、『産経』は一度としてまともなメディアであったことなど無いのだろうが、MSNを通じて大量に配信されている現状では、ハエ叩きのように各々のイシューに即して繰り返し指摘するほかない。今回の記事は高校「無償化」の枠に各種学校が入り、これまでのように「各種学校だから」という口実で排除することができないため、「「教育援助金」を送金していたことが10日、明らかになった」とか、「資金提供が発覚したことで、無償化の是非について議論を呼びそうだ」とかいって、排除の「空気」を作ろうとしていることは一目瞭然である。

 はっきりと書いておくが、朝鮮民主主義人民共和国から教育援助費をもらうことを理由に、各種学校が対象になっているにもかかわらず、朝鮮学校を高校「無償化」から排除することは、何ら合理的根拠の無い差別である。韓国学校であれ、ブラジル人学校であれ、財政状況が苦しいなか本国から金銭的支援を受けているケースは朝鮮学校に限らず存在する。何が悪いというのか。

 以前、朝鮮籍者は必ずしも「北朝鮮」を「支持」しているわけではないという『朝日』的擁護論は、必ずや朝鮮籍者が「北朝鮮支持者」であることを論証しようとする『産経』的反対論を呼び起こす、と書いたことがある(『朝日』社説「外国人選挙権―まちづくりを共に担う」の問題)。『産経』はこういう「空気」をつくれば排除できるとわかっていて、さんざん煽っている。しかし他のメディアは傍観するか、お茶を濁すだけだろう。せいぜい「最近は韓国籍の人も通っている」とか「朝鮮学校も変わっている」云々というだけ。

 だが教育援助費をもらっているのは事実なのだ。もちろん朝鮮籍の子供も通っている。だがそれは各種学校の中でとりわけ朝鮮学校だけを高校「無償化」の対象から排除する根拠にはなりえないし、してはいけない。この最も初歩的な事実をこそ指摘すべきである。繰り返しになるが、私には『産経』的論調と『朝日』的論調はタッグを組んでいるようにしか見えない。『産経』が理不尽に朝鮮人にレッテルを貼ってぶっ叩き、そのあとに『朝日』が現れてかばうふりをしながら後ろ足で思いっきりこづく。『産経』的排外主義もさることながら「朝鮮学校が変化した」ことを理由に、施しを与えようとする議論にも警戒すべきだろう。
by kscykscy | 2010-02-17 19:36 | 朝鮮学校「無償化」排除問題

外国人参政権と「中国脅威」論

 永住外国人の地方参政権について原口総務大臣は「サンフランシスコ講和条約で日本国籍を離脱しなければならなかった特別永住外国人への付与と、それ以外の人とでは全く議論が違う」と語ったとのことだ(『日経』1月30日付web版)。また、仙谷行政刷新担当大臣は「戦前の(朝鮮半島への)植民地侵略の歴史があり、その残滓(ざんし)としての在日問題がかかわっているので、その方々の人権保障を十二分にしなければならない。地方参政権も認めていくべきだ」と強調し、参政権の範囲についても「小さな議論だ。もう少し大きく広い、深い議論をする必要がある」と言ったという(時事ドットコム1月15日付web版)。

 このように民主党政権の閣僚たちは、最近になって「旧臣民」たる朝鮮人が参政権問題をめぐる独特の地位を有していることに盛んに言及している。仙谷と原口には若干のニュアンスの違いがあるようだが(少なくとも仙谷の言っていることを言葉通り受け取れば反対する理由はない)、私としてはこれらの発言は、中国籍者外しのための前ふりなのではないかと疑っている。

 外国人参政権問題について最も強く反対の論陣を張っている『産経新聞』であるが、その主調をなしているのは「中国脅威」論である。例えば以下の櫻井よし子の主張を見てみよう。

 「いま参政権問題は特別永住外国人への参政権付与という数年前の議論とは様相を変えている。戦前日本国民として日本に移住し、戦後、自らの意思で帰国せず日本に残った人たちとその子孫である特別永住者の参政権問題だったはずが、民主党の提案は、特別永住者を超えて一般の永住外国人を対象にしているのだ。そしてこの中には急速に増えつつある中国人が含まれている。
 日本在住外国人の中でいま最大のグループは65万5000人余の中国人である。うち14万2000人が永住権を取得済みだ。年に約1万人ずつ帰化し、減少し続けている朝鮮半島出身の特別永住者とは対照的に、永住権を取得する中国人の増加は際立っている。
 民主党提案の外国人参政権法案の先に、中国共産党の党員が日本で投票権をもち、日本の政治を動かすという事態の発生も考えなければならない。
 これは共生や友愛の問題ではない。国家としての理念と国益の問題である。」


 冒頭の櫻井の理解は事実誤認である。外国人参政権の付与対象は、当初永住外国人全体だったのが、外国人登録の国籍欄が国名ではない者以外となり、ついで相互主義へと縮小されていったのである。少なくとも相互主義の規定が入るまで一貫して中国籍者は付与対象に含まれていた。それを今般の議論のさなかに『産経』が問題視し始めたのである。櫻井が無知からこうしたことを言っているならば最低限の事実を学んで発言するべきであるし、知った上での発言ならば悪質な世論の誤導である。

 加えて、より問題であるといえるのは「中国共産党の党員が日本で投票権をもち、日本の政治を動かすという事態の発生も考えなければならない」という箇所である。ここでは、個々の中国人の投票行動の背後に共産党による直接の操縦があるかのようにみなされている。こうした類の言説は、通常の「中国脅威」論の何倍も悪質である。

 なぜなら、この議論は中国という国家の持つ軍備をもって安全保障上の脅威とみなす「中国脅威」論ですらなく、個々の中国人への選挙権付与が中国共産党による日本政治の操縦につながると主張しているからだ。通例の「中国脅威」論自体にももちろん問題はあるが、ここでの櫻井の議論は、そもそも軍備等にすら根拠を置いておらず、その根柢にあるのは中国共産党員たる中国人への選挙権付与=中国共産党による日本政治の操縦という反証不可能な妄想でしかない。

 当然中国人には共産党員である者もいるだろう。仮に選挙権が与えられた場合に、地方自治体の選挙における投票行動が、中国政府の「利益」と一致するケースもあるかもしれない。だが、もし日本社会が櫻井のこうした認識を受け入れることにならば、仮にこれらが外観上一致した場合に、中国籍者たちはかかる投票行動が中国共産党の指示によりなされたのではないかとの疑念を日本社会から絶えず向けられることになる。そしてこうした疑念を晴らすことは、その疑念の性質上絶対に不可能なのである。

 櫻井の言説は以前に橋下府知事が在日朝鮮人に対して行った発言と同種の問題を抱えており、こうした言説は、参政権問題への賛成・反対といった問題を越えて、それ自体が中国籍者個々人に対する「脅威」視をうながすヘイト・スピーチであると言わざるを得ない。

 このように『産経』は反対の論陣を張る際に立論の根拠として悪質な「中国脅威」論を援用しているのであるが、民主党政権の閣僚たちがこうした反対論を全く知らないとは到底考えられない。むしろ現在の参政権をめぐる議論のなかで、「中国脅威」論的反対論が非常に根強いことを政権当事者たちは理解しているのではないか。だから、冒頭で述べたように原口や仙谷はしきりに「旧植民地」のことに言及しているのではないだろうか。技術的には相互主義の水準に戻るということである。すでに朝鮮籍者を外すことについてはある程度「合意」があると考えられるので、相互主義を採ればもれなく中国籍者も外すことができる。韓国籍者は対象になるので韓国政府との外交関係も安心である。

 あくまで以上の見立ては一つの推測に留まるが、少なくともこれを阻止する要因は日本社会のどこにも存在しない。民団はそもそも韓国籍者だけが通ればよいのであるし、日本人の「左翼」「リベラル」を自称する人々の多くは、とりあえず外国人参政権が実現すれば内容は何でもよいというスタンスなのだから、政界内でいかに反外国人的な認識をもとにした談合が行われようと、何ら問題は無いのだろう。例えば以下の「超左翼おじさん」こと松竹伸幸氏の文章などはそうした「左翼」の議論の典型である。

 「現在の日本社会の到達では、日本人と外国人の共存の仕方というのが、この程度なのだ。どんなに理論的には参政権を付与すべきだと言っても、現状の到達を飛び越えて、一挙に先をめざすというのは、問題が多い。
 だから私は、小さな一歩というものを提唱する。被選挙権などは問題にしないでいい。国交のある国に限って、相互主義でもいい。あるいは、もっと小さな一歩でもいい。実際に一歩を踏み出してみるのだ。」


 ある権利が制限される過程でいかなる認識が社会的にばら撒かれるのか、それが当事者たる外国人にいかなる影響をもたらすのかについて、これほどの無感覚を示す者を果して「左翼」と呼んでよいのだろうか(左翼を「超」えているのだから左翼ではないのかもしれないが)。この間の議論を見ていてわかったことは、少なくとも現在の日本には『産経』並みの熱量でもって外国人の政治的権利を擁護しようとする「左翼」が、存在しないという事実である。とても勉強になった。
by kscykscy | 2010-02-02 00:56 | 外国人参政権