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「闘う反共リベラリスト」姜尚中の不気味な予言

 韓国の日刊紙『朝鮮日報』に姜尚中のインタビューが掲載されている。タイトルは「闘うリベラリスト」。これがなかなか凄まじい内容に仕上がっている。

 まず、このインタビューにはやたらと「反共」の話が出てくる。以下抜粋。

―教授の大学時代(1970年代初盤)はまさしく日本は混乱の時代でした。

「私は反共から出発しました。左翼全盛期に。(この野暮ったく旧態依然として「反共」という単語を「闘うリベラリスト」から聞くことになるとは想像もしなかった)。大学(早稲田大)の頃、台湾の友人がいました。その友人と共に大学で私は「マイノリティー」でした。毛沢東万歳を叫んでいた時期です。容共というか、左翼に染まった人が多かった。「左翼小児病(極端に走り易い性向)」が流行した時期に、私たちは「右翼小児病者」と呼ばれました。総連に接近されましたが全部拒絶しました」

―流行を追わなかった。

「よい先輩のおかげでした。私が身を寄せた在日韓国人グループ「韓国学生同盟」のリーダーでした。彼は「反共でなければわれらのレゾン・デートル(存在理由)はない」と言ったんです。(当時私たちが尊敬していた)金大中氏も基本的に反共だと」

―なぜ反共だったのですか?

「私は『韓国カテゴリー』の中にいます。理念ではなく祖国なのです。韓国は反共を土台に成立した国です。4・19の際、学生たちは「われらは赤色独裁に反対する。よって白色独裁にも反対する」と言いました。だから韓国の学生運動は日本の左翼運動とは違うのです。祖国を救うという愛国運動でした。正しい方向でした。私たちはその道から外れませんでした。正しい道を進んだからこそ、今の日本社会を批判できるのです」

〔中略〕

―マックス・ヴェーバーを研究されましたね。

「ヴェーバーとカール・ポパーが好きでした。ヴェーバーはマルクス批判を曲げませんでしたね。ドイツ革命の際にも(左翼革命家だった)カール・リープクネヒトや、ローザ・ルクセンブルクを強力に批判しながら、社会主義の限界を指摘しました。ヴェーバーは正しかったのです。私は1979年に西ドイツに留学するなかで反共を基盤として国家を作る姿を目の当たりにしました。マルクス-レーニンに対する反対の上に、社会民主主義であれリベラルであれ成立しえたのです」


 いくらなんでもそれは無いだろう。別に姜尚中に何かを求めているわけではないが、李明博政権成立後のバックラッシュが猛威を振るうなかで、極右反共で名だたる『朝鮮日報』にこれを載せるというのはあまりに破廉恥すぎやしないか。しかも記者の注記を信じるならば、反共の話をし始めたのは姜尚中からのようだ。姜尚中は筑紫哲也の追悼会で「韓国はせっかく手にした民主化を浪費してしまった。いま韓国で起こっている反動について日本の人々はもう少し知る必要があるのではないか」と警告したらしいが(『世界』2010年1月号)、その「反動」に便乗しているのは自分自身ではないか。あと、私が心配することではないが、韓学同出身者はこんなことを韓国で言いふらされて平気なのか。

 続いて天皇訪韓に関して。

―(東北アジアオリンピックは)鳩山由紀夫総理の「東北アジア共同体」の理念とも合致します。中国上海も引き込めますね。

「時期的によいです。ビリー・ブラント(膝をついて謝罪した旧西ドイツの総理)を願うわけではありません。鳩山総理が旧西大門刑務所や銅雀洞国立墓地を訪問し日本が誤っていたとの意思を確実に伝えれば、天皇訪韓も成功するかもしれません。天皇は本当に韓国に行きたがっています。来年(庚戌国恥100年)は歴史的な年ですから、国会決議や総理訪韓を通して歴史についての日本の立場を再び確実にするのもよいでしょう。天皇訪韓が成功すれば、(在日同胞の宿願である)地方参政権付与も実現するのではないかと思います。

―韓国は民主国家です。統制が可能だった1992年の中国(10月天皇訪中)とは異なり、デモや抗議が無いわけではないと思います。日本もこうした姿を受け入れる姿勢を備えなければなりませんね。

「「いまのありのままの韓国社会」を受け入れられる自信を日本がどうやって備えるかの問題でしょう。そうした反対を最小化するための事前努力がだから必要です」


 天皇訪韓反対デモを許容する気などさらさら無い『朝鮮日報』の「民主国家」云々は一笑に付すべきであるが、姜尚中の言っている「反対を最小化するための事前努力」というのが不気味だ。もちろん日本のなかでの「反対」とも読めなくも無いが、普通に読めばこれは韓国内での天皇訪韓反対を「最小化」するための事前努力だろう。何をするつもりかは知らないが、在日朝鮮人が韓国内でこういうことを言うこと自体がその「事前努力」に入ることは間違いない。

 ちなみに和田春樹も韓国メディアに対して在日朝鮮人が東北アジアの架け橋になるみたいな言い方をして、その代表格として姜尚中を持ち上げている。こういう在日朝鮮人への言及の仕方には警戒するべきだと思うが、見事に「橋」になっている姜尚中にもおそれいる。韓国政治に対しても西ドイツが大連立で東方外交やったみたいに、大連立をやって「対北政策」やりなさい、とこれまた「橋」になっている。 「ひとつの橋の建設がもしそこに働く人びとの意識を豊かにしないものならば、橋は建設されぬがよい、市民は従前どおり、泳ぐか渡し船に乗るかして、川を渡っていればよい」とはフランツ・ファノンの言であるが、少なくとも私は日韓の間にかかるこの「橋」を渡りたくはない。
by kscykscy | 2009-12-15 06:59 | 日朝関係

伊藤真は日本国憲法の価値を知っているのか

 前回の末尾で私は、伊藤真の外国人参政権論を「あからさまな事実誤認」「論理的思考力の無さ」「外国人参政権をつぶすための謀略なのではないか」と決めつけたが、罵りっぱなしはよくないので、改めてその問題点について詳述しておきたい。

 まず「あからさまな事実誤認」だが、これは大きく二点ある。第一は以下の部分。

 「明治憲法の時代、日本は多くの植民地を持っていました。朝鮮半島、台湾などを占領し、そこに住んでいた人々を大日本帝国の臣民つまり日本国民にしてしまいました。そして、帝国臣民として日本民族に同化させるため、日本名や日本語の強要、天皇崇拝などの皇民化政策がとられます。日本国籍を持つことになるわけですから、制限はあるものの参政権(選挙権、被選挙権)が保障されていました。

 前回にも書いたが、植民地期を通して大多数の朝鮮人には帝国議会の参政権は無かった。衆議院議員選挙法が朝鮮に施行されなかったからである。あったのは一定の条件を満たした在「内地」の朝鮮人成人男性だけである。よって「日本国籍を持つことになるわけですから、制限はあるものの参政権(選挙権、被選挙権)が保障されていました」と、あたかも「臣民」になったことにより直ちに参政権が保障されたかのように記すのは事実誤認である。

 第二点は以下の段落。

 「戦後、日本はポツダム宣言を受諾し、台湾、朝鮮などの旧植民地に関する主権(統治権)を放棄します。その結果、旧植民地の人々は日本国籍を失い、外国人として生活することを余儀なくされます。これにより日本国内における生活実態は何も変わらないにもかかわらず、参政権は奪われました。

 これも歴史的事実に反している。確かにポツダム宣言の第八項には「「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルヘク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ」とある。これを受諾したのだから当然日本は朝鮮などの主権を放棄したことになる。だが日本政府は、これがただちに在日朝鮮人の法的地位の変動――つまり独立に結びつくことを全力で阻止した。具体的には在日朝鮮人は1945年9月3日以降も、引き続き「帝国臣民」であるとの立場を堅持したのである。連合国側もおおむねこれを黙認した。よって、ポツダム宣言受諾の結果、「旧植民地の人々は日本国籍を失い、外国人として生活することを余儀なくされます」という理解も誤りである。日本政府は在日朝鮮人が「日本国籍を失」うことを認めなかったのである。

 だが確かに、在「内地」朝鮮人成年男子の参政権は「奪われた」。1945年12月の衆議院議員選挙法改正の際、戸籍法適用対象者以外の者について参政権を「停止」したからである。ここでわざわざ戸籍を持ち出したのは、日本政府としては在日朝鮮人が「帝国臣民」でなくなり、独立国民として帝国の支配の枠から脱してしまうのを容認したくない、だからといってそれまでのように参政権を持ったままでは、来る1946年の総選挙で何を主張されるかわからない、もしかしたら国体変革の有力な勢力になってしまうかもしれない。こうした二つの憂慮を同時に無くすために、日本政府は戸籍を持ち出したのである。

 つまり、日本政府はポツダム宣言受諾によって在日朝鮮人が即時「外国人」になったとの解釈を採用しないために、「戸籍」という基準で朝鮮戸籍令適用対象者の参政権を「停止」したのである。

 伊藤は「臣民」になればただちに参政権が付与されると誤解しているので、ポツダム宣言受諾と同時に朝鮮人は「臣民」でなくなり、よって参政権も無くなったと考えたようである。

 この間違いは「大日本帝国」という存在についての根本的な考え違いに由来するものと思われる。伊藤は、大日本帝国が、そもそも不平等を悪いこととみなしていない体制であるという事実を忘れているのである。比較的巷間に流布しているものとして、大日本帝国の頃は朝鮮人も同じ「国民」だった、だからまがりなりにも平等だった、的な物言いがあるが、これは大きな間違いである。私は「平等をうたっていたのに差別があった」と言いたいのではなくて、そもそも大日本帝国は「平等」などはなからうたっていないのである。

 まず、帝国憲法にはそもそも主権者(天皇)が臣民を差別してはいけないなど一言も書いていない。それどころか朝鮮には帝国憲法すら施行されていない。あんまり弾圧しすぎて「統治」がうまくいかなくなったとか、兵隊や労働者が足りなくなってつれてくる必要がある、とかいうときに「一視同仁」みたいなことを言ってみるだけである。大日本帝国に「平等」の文字など無いのだ。だから別に朝鮮に衆議院議員選挙法を施行しなくても平気なのである。伊藤はここのところが理解できていない。なんとなく、無自覚に日本国憲法的なシステムが戦前にもあったかのように考えているのである。そうした意味では、伊藤はある意味で日本国憲法の「ありがたさ」を本当には理解していないのである。

 さて、次は「論理的思考力の無さ」である。この植民地期の話をマクラに、伊藤は現代の外国人参政権の話に持っていく。

 「そもそも、選挙権のような参政権は、民主主義を実現するための人権です。そして民主主義とは、治者と被治者の自同性という言葉で表されますが、その国で支配される者が支配する側に廻ることができる、つまり一国の政治のあり方はそれに関心を持たざるを得ないすべての人々の意思に基づいて決定されるべきだということを意味します。
 とするなら、日本で生活し、日本の権力の行使を受ける者であれば、その政治に関心を持たざるを得ないのですから、たとえ外国人であっても、それらの者の意思に基づいて政治のあり方が決定されるべきだということになります。
 つまり外国人であっても生活の本拠が日本にあるのであれば、選挙権が保障されるべきだということになります。このことは民主主義原理からはむしろ当然の要請なのです。」


 非常に単純明快である。だがそもそもこの話をするのに前段の「明治憲法」の話は必要なのだろうか。伊藤も言っているように植民地期には日本政府は朝鮮人を「臣民」とみていたわけだから、在「内地」朝鮮人の参政権は「外国人参政権」ではない。もちろん、帝国憲法下において外国人に参政権など無い。植民地期の参政権の話は「外国人であっても生活の本拠が日本にあるのであれば、選挙権が保障されるべきだ」という主張を何ら補強することにはならないのである。だから私は「論理的思考力の無さ」をあげつらい、どこからでも批判できるから「外国人参政権をつぶすための謀略なのではないか」と罵ったのである。

 そもそも小沢一郎や舛添要一のような人物が植民地の在「内地」朝鮮人の参政権をことさらに持ち出すのは、彼らが自覚的な右派だからである。彼らは日本政府と在日朝鮮人の関係性について、植民地期の帝国政府と在「内地」朝鮮人の関係性を参照しつつ、参政権と帰化の両方を念頭に置きながら語っている。そもそも大日本帝国が否定されるべき対象だと思っていない(つまり右派)からこそ、『嫌韓流』がそうだったように植民地期を日本と朝鮮の理想時代と捉え、そこから何かを汲み取ろうとする(もちろん米国と戦争して負けたことは「反省」している)。その限りで彼らは一貫している。

 だがまがりなりにも日本国憲法を「護る」と言っている立場の人間が、大日本帝国期の異民族支配のあり方についてこれほど無知でいいのだろうか。日本国憲法の理念(そんなものがあるのならばだが)を擁護するものが外国人参政権を語るなら、間違っても在「内地」朝鮮人の参政権など参照してはいけないのである。「リベラル」は本当に大日本帝国を忌むべき対象と思っているのか。はなはだ疑問だ。
by kscykscy | 2009-12-11 22:43 | 日朝関係

「普通の宗主国」論

 ここ数回、永住外国人の地方参政権をめぐる問題について与党側の議論を批判的に検討してきた。誤解を避けるために記しておくが、私は外国人の政治的権利を否定しているわけではない。ただ、私としては、①現在の「永住」外国人の地方参政権法案をめぐる議論が在日朝鮮人という存在についての看過しがたい歴史認識を基になされていること、②それが単なる法案を通すための方便に留まらず在日朝鮮人に対する日本政府の施策全般に影響を与える可能性が高く、現に与えていること、③さらに、在日朝鮮人団体や在日朝鮮人をめぐる諸問題について課題に取り組む団体においても、こうした傾向について批判的に検討する視点がそう多く見られないこと、に危機感を抱き、警鐘を鳴らしているのである。

 もし、ここで言及した「旧臣民の論理」や「同化の論理」が、参政権反対派の口から出たものならば、そこまでの危機感は抱かなかったと思う。つまり、推進派が植民地支配責任への清算、とまではいかなくても、少なくとも普遍主義的な立場から外国人の政治的権利を要求するのに対し、反対派の側が「旧臣民の論理」「同化の論理」を持ち出してそれを制限しようとする、という構図ならばである。だが、実際には「旧臣民の論理」「同化の論理」を持ち出しているのは推進派の側であり、「外国人住民」という視点からの参政権論に立つ人々も、法案成立のための戦術的要請からこれに異論をさしはさむことを控えているように見える。

 また、報道を見る限りでは、「国交のない国(北朝鮮等)の出身の方は参政権付与の対象にしない」という自由党時代の小沢の認識は、民主党の法案に具現化されており、小沢の発言を軽視するべきではない。参政権取得はよりスムーズな帰化への道筋であるとの小沢の言明についても、単なる方便とは見ることができないだろう。私はおそらく近い将来、特別永住者への国籍取得緩和に関連する法案が、地方参政権に対抗するのではない形で提起される可能性が高いのではないと思っているが、現時点で私の推測に留まるのでこれについては再論したい。

 ところで、前回は言及しなかったが、私は小沢が自らの参政権についての見解のなかで、日韓関係を英国と「かつて植民地支配した英連邦出身の永住権取得者」との関係になぞらえて自説を補強していることは、なかなか興味深いと思う。たしかに英国はコモンウェルス加盟国の市民及びアイルランド市民について、国政・地方の参政権を承認している。ただ、これは単純な外国人参政権というよりも、「大英帝国」が解体されていく過程で認められるようになったものである。これを日韓関係になぞらえるというのは、実はある重要な歴史的事実を一つ消去しないとできない。

 その事実とは何か。問題をわかりやすくするために英国と「英連邦出身の永住権取得者」の参政権という構図を、日本に置き換えてみよう。よく知られているように、1920年以来、日本「内地」に居住する朝鮮人成年男子のうち一定の要件を満たした者には、国政・地方の選挙権・被選挙権があった。衆議院議員選挙法が属地法だったからである。逆に朝鮮には衆議院議員選挙法は施行されなかったので、朝鮮にいる朝鮮人には選挙権・被選挙権は無く、同じく在朝日本人にも無かった。だが、朝鮮のなかでは植民地支配に協力的な層のなかでも、朝鮮に衆議院議員選挙法が施行されていないことへの批判は強かった。実際、実施こそされなかったが戦時期末期には朝鮮からの衆議院議員選出と貴族院議員の植民地枠の創出が日程に上ったこともあった。

 ここまで書けば明らかであるが、小沢が差当り消去している歴史的事実とは、日本が連合国に敗北し、朝鮮が独立したという事実である。小沢の参照する英国と「かつて植民地支配した英連邦出身の永住権取得者」との関係、というのは、大日本帝国が存続し、何らかの朝鮮「統治」上の必要から衆議院議員選挙法を施行するか、あるいは朝鮮が大日本帝国の枠内で「自治」の方向へと向っていくなかで、日本「内地」在住の朝鮮人に引続き帝国議会の参政権を承認しているような状態だと考えればよい。小沢のアナロジーは、日本が連合国に敗北し、朝鮮が植民地から独立したという事実を現代の日本国家を規定する決定的な事実として捉えない、できるだけ過小評価するという姿勢が無ければ成り立たない。

 こうした小沢の認識を、彼の代名詞たる「普通の国」論になぞらえて、差当り「普通の宗主国」論と呼んでおこう。大日本帝国が敗北した衝撃、それが現在の「日本国」に与えているインパクトをできるだけ少なく見積もり、英国やフランス的な連合国側の「普通の宗主国」であるかのような姿勢で在日朝鮮人に対する参政権を扱う。もちろん、私は英国やフランスがよいと言っているわけではない。その逆である。せっかく大日本帝国は負けたのに、その負けたことの衝撃を逸らすことによって、「勝つ」ことで宗主国たる地位を1945年以後も維持した国々と並ぼうとするその姿勢を、私は批判しているのである。

 もちろん、ここで私が「せっかく大日本帝国は負けたのに」、というときの「負けた」は米国に負けたとか、「一時の国策の誤り」とかではなくて、少なくとも19世紀以来の「坂の上の雲」的な近代日本の歩みがまるごと敗れ去ったという意味での「負けた」である。せっかく負けたのにもかかわらず、戦後日本は結局「負けた」ことの重みをより深め、大日本帝国を否定する方向へ進むのではなく、大勢はゆるやかに大日本帝国と戦後日本を接続する方向へと(そこに天皇がいるのであるから容易に可能だ)、そしてそれを自認する「普通の宗主国」論へと行き着いてしまっているのではないか。植民地期に在日朝鮮人に参政権があったことを無批判に現在の外国人参政権論議につなげたり、英国と英連邦の関係になぞらえたりするのも、そうした日本の敗北を「せっかく負けたのに結局こんな国になってしまった」という痛恨の心情として受け止めないような感性だからこそ、可能なのではないか。私はそう思わざるを得ないのである。

 そうした痛恨の感覚の欠落は、私は別に小沢に限ったことではないと思う。もとより小沢にそれを期待してもいないが、以前に言及した進藤榮一しかり、「リベラル」といわれる人々においてあまりにもこの感覚は希薄だ(*1)。むしろこうした感覚を欠落していることが、現代の「リベラル」の条件なのかもしれない。


*1 例えばここで開陳されている伊藤真の外国人参政権論は「リベラル」の無感覚の典型であろう。この論説は、そのあからさまな事実誤認と併せて伊藤真という人物の論理的思考力の無さを如実に示していて興味深い。外国人参政権をつぶすための謀略なのではないとすら思わせる奇天烈ぶりである。
by kscykscy | 2009-12-10 22:34 | 外国人参政権

「旧臣民への施恵」ならばお断りだ――小沢一郎の参政権論について

 以前、2000年前後の永住外国人参政権論議の過程で推進派側から、「旧臣民の論理」と「同化の論理」が繰り返し提起されたことに触れた(「「多民族社会」日本の構想」参照)。この問題は非常に重要なので、この場を借りて再論したい。

 「旧臣民の論理」と「同化の論理」について以前の記事では公明党を取り上げたが、これについては民主党もそう変わらないようである。小沢一郎のHPには自由党時代の2003年に小沢が発表した「永住外国人の地方参政権について」という文章が掲載されている。特に訂正もされずに掲載されていることから、とりあえず現時点でも小沢はどうようの立場であると仮定しよう。ここで小沢は次のように記している。

「公の政治に参加する権利―参政権―が国家主権にかかわるものであり、また、国民の最も重要な基本的人権であることに間違いはなく、その論理は正当であり、異論をさしはさむ気はまったくありません。ただ、政治的側面から考えると、主として永住外国人の大半を占める在日韓国・北朝鮮の人々は、明治43年の日韓併合によって、その意に反して強制的に日本国民にされました。すなわち、日本が戦争によって敗れるまでは、大日本帝国の同じ臣民でありました。日本人としてオリンピックに参加し、日の丸を背負い金メダルを取っています。また、日本のために多くの朝鮮の方々が日本人として、兵役につき、戦い、死んでいきました。このような意味においては、英連邦における本国と植民地の関係よりもずっと強く深い関係だったと言えます。私達はこのような歴史的な経過の中で今日の問題があることを忘れてはなりません。」

 「在日韓国・北朝鮮の人々」は強制的に日本国民にされました、オリンピックにも出ました、日本のために多くの人々が戦争で戦い死にました、こういう「歴史的な経過」があります、という話である。特に注目すべきは日本のために朝鮮人も戦争に行って死んだ、という部分だろう。確かに朝鮮人も侵略戦争に駆り出された。自分が植民地支配されているにも関わらず、その手先にさせられて中国や東南アジアで「敵」と戦い侵略軍の一員として死んだ朝鮮人は決して少なくない。それを小沢は日本軍の侵略への評価は素通りしつつ、曖昧に「強く深い関係」と呼ぶ。この文章の趣旨からいえば、こういう「歴史的な経過」があるんだから、永住外国人の地方参政権は肯定されるべきだと主張していると言っていいだろう。同じ日本人だったのだから、一緒に「敵」を殺したのだから、地方参政権を与えようよ、と訴えているわけである。

 続けて小沢は反対論を念頭に次のように記している。

「法案に反対する人達の多くの方の主張は「そんなに参政権が欲しければ帰化をして日本国籍を取得すればいい」という考え方があります。私もそれが一番いい方法だと思っておりますし、また在日のほとんど多くの人々の本心であると思います。

 しかし、このことについては日本側・永住外国人側双方に大きな障害があります。日本側の問題点からいうと、国籍を取得する為の法律的要件が結構厳しいということと同時に、制度の運用が、(反対論の存在が念頭にあるせいなのかはわかりませんが)現実的に非常に帰化に消極的なやり方をしています。〔中略〕

 一方、永住外国人のほとんど多くの人は日本で生まれ育って、まったくの日本人そのものであり、その人達が日本人として生涯にわたって生きていきたいと願っていることは、紛れもない事実だと私は思います。ただ、過去の併合の歴史や、それに伴う差別や偏見に対して心にわだかまりがあるのも事実なのです。」


 小沢は帰化論を「一番いい方法」だといい、「在日のほとんど多くの人々の本心」と勝手に在日朝鮮人の「本心」を騙っている。だが「日本側・永住外国人側双方に大きな障害」がある。つまり日本側には厳格な帰化要件が、「永住外国人側」には「過去の併合の歴史や、それに伴う差別や偏見」への心の「わだかまり」がある、だから一気に帰化にはいかないのだ、と小沢はいうのである。帰化について小沢は率直に「以上のような政治的側面、制度的側面双方から考え合わせ、一定の要件のもとに地方参政権を与えるべきだと考えます。そして、そのことにより日本に対するわだかまりも解け、また、結果として帰化も促進され、永住外国人が本当によき日本国民として、共生への道が開かれることになるのではないでしょうか」とあけすけに語っている。

 つまり小沢がいっているのは、参政権反対論者がいうように帰化するのが最善の策だし、在日朝鮮人も実はそう思っている、だけど今は「障害」があるから地方参政権を与え、ひいては「よき日本国民」への帰化が促進されるようにしましょう、という話である。しかも、この文章に付された「補足」というのが奮っている。

「※補足
 この問題につきましては、意見が多数寄せられ、少数の方からの反対意見が寄せられたので、さらに補足として申し上げます。
反対意見に、「北朝鮮に支配されている北鮮系の総連の方に、地方参政権を与えるのはとんでもない」という意見がありましたが、我々自由党では国交のない国(北朝鮮等)の出身の方は参政権付与の対象にしないという考えです。

 国政を預かる政治家として、ホームページ上で自分の考える全てのことを申し上げることはできませんが、この問題は主として、在日の朝鮮半島の方々の問題であることからあえて申し上げます。もし仮に朝鮮半島で動乱等何か起きた場合、日本の国内がどういう事態になるか、皆さんも良く考えてみてください。地方参政権付与につきましては、あらゆる状況を想定し考えた末での結論です。」


 まったく堂々としたものである。「併合の歴史」や「差別や偏見」に対する心の「わだかまり」を帰化を妨げる「永住外国人側」の障害として列挙する歴史認識といい、あからさまな帰化論といい、「北鮮系」と平然と引用する感覚といい、少し前であればこんな議論は「妄言」と呼ばれていたはずだ。今般の参政権論議の過程で小沢のこの文章は比較的取り上げられているようであり、参政権反対派は小沢のさらに右からこれを叩いているが、賛成派がこれを批判した文章を読んだことがない。

 この小沢の議論は、噛み砕いていえば、在日朝鮮人・台湾人は大日本帝国の「臣民」だったんだし(「旧臣民の論理」)、もうほとんど日本人なんだから(「同化の論理」)地方参政権くらいあげようよ、どうせすぐ帰化するから安心してくださいよ反対派のみなさん、という話である。外国人の政治的権利など全く眼中に無いし、そもそも外国人参政権論と読んでいいのかどうかすら怪しい。小沢は白昼堂々・公然とこの文章を陳列しているわけで、参政権推進論者は完全になめられていると思ったほうがいい。

 繰り返しになるが、小沢の言っている「永住外国人の地方参政権」なるものは、「旧臣民への施恵」に過ぎない。そんなものはお断りだ。
by kscykscy | 2009-12-01 21:59 | 外国人参政権