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「共同提言 対北政策の転換を」を批判する②――「介入の論理」

  なぜ、日本は朝鮮との国交正常化を行わなければいけないのか。これは当たり前のように見えて、とても重要な問いだ。「提言」は、前の記事で書いたとおり、朝鮮とは国交が無いから、国交を結ぶべき、と記していたが、これは循環論法である。国交云々の話をするからには国交が無いに決まっている。重要なのはその先だ。もし「侵略責任継承国」という認識があるならば、国交が無い状態は責任遂行が未済の状態であると理解される。つまり日本が変わらなければいけないという認識になる。この責任を果たす必要があり、その過程で国交正常化が行われる、という論法になろう。

 だが「提言」にその認識は無い。ただ漠然と「日本は一九四五年八月一五日以前の関係を清算する作業をアジア諸国との間でながい歳月かけて行ってきた。この国との清算は最後に残った作業である」(124)と記されているだけである。(この一文は、戦後日本の対アジア関係の評価について興味深い論点を含んでいるが、この点については後述)。繰り返すが「侵略責任継承国」としての論理ではない。

 その代わりに「提言」が持ち出すのは「介入の論理」である。おそらくは「あんな危険な国と国交正常化するべきなのか」といった類の意見を念頭に置きつつ、朝鮮の経済難、日朝間の関係遮断、そして世論調査で朝鮮が日本人のもっとも「嫌いな国」にあがったことに触れた上で「提言」はこう語りかける。

 「このままでよいはずがない。隣の国を理解しようと努めること、その苦難に心寄せること、隣人が飢えていれば助けること、敵対と緊張をつくりだす要因をとりのぞくこと、危険な核ミサイルの開発配備をやめさせること、拉致問題の解決を進めること、隣国を「嫌う」のをやめるように努力すること――これが当然に必要である」(125)
 「朝鮮民主主義人民共和国とわれわれの関係を変えたい、この国のありかたも変わってほしいと思うなら、世界のすべての国の中でこの国とのみ国交をもたない、この国との過去の歴史を清算しないままにしている、そういう自国のありかたを変えることが必要不可欠なのである」(同上)


  下線部に注目していただきたい。 「ありかたも変わってほしい」「この国」は続く文章との関係から、朝鮮であることがわかる。(核ミサイル開発配備を念頭に置きつつ)朝鮮に変わって欲しいと思っているのなら、国交正常化が必要だ、「提言」はこう記している。

  これを私が「介入の論理」と呼ぶのは、まずどこを探しても日本が変わることが国交正常化と関連付けられていないからだ。問題は日本にあるわけではないのだ。「提言」からすれば、変わらなければいけないのは朝鮮の方なのである。核を配備したりする朝鮮を国交正常化を通じて変えられれば、日本の世論も「嫌い」とは思わなくなるだろう、だから朝鮮を変えるために国交正常化しよう。まさに「介入」としての国交正常化である。

  植民地支配責任を果たすこと、つまり日本自体が変わることなど全く問題にされず、代わりに朝鮮を変えるための「国交正常化」という「介入の論理」が用いられる。「嫌い」と感じる「空気」を正面から相手にせずに、その「空気」に寄り添って国交正常化が必要だと説く。こういうのを「俗情との結託」というのではないか。
by kscykscy | 2008-10-19 06:53 | 世界「共同提言」批判

「共同提言 対北政策の転換を」を批判する①――欠落した「侵略責任継承国」という認識

  2008年7月号の『世界』に和田春樹氏らの12名の連名で「共同提言 対北政策の転換を」(以下「提言」)が出た。提言者に名を連ねているのは石坂浩一、川崎哲、姜尚中、木宮正史、小森陽一、清水澄子、田中宏、高崎宗司、水野直樹、山口二郎、山室英男、和田春樹の12氏で、平和基本法系の人脈に加えて、日朝国交正常化、朝鮮植民地支配、あるいは在日朝鮮人の諸権利をめぐる問題に比較的積極的に関わってきた人々が網羅されているといっていい。一読して、私はあまりの内容のひどさに衝撃を受けた。早く批判しなければと思いつつ今までまとめることができなかったが、以後何度かにわけてこの「提言」の分析と批判を行っていきたい。

 具体的な批判を始める前に、まずはこういう「良心派」の提言に対する誤った対応について触れておこう。それは「この人々はそれでも最も良心派なのだし、朝鮮をめぐる情勢が悪い中ではよくやっているほう」といった妙な温情をかけて、放置し容認する態度である。だが、こういう対抗的な「提言」が、以下記すような驚くべき認識を示していることは、むしろ日本国内のこの問題をめぐる認識が「統一」されていっていることを表している。「最も良心派だから」容認するのではなく、だからこそしっかり批判しなければいけない。当たり前すぎることだが、一応確認しておこう。

 さて、「提言」の内容の検討に入っていこう。まずタイトルである。「提言」は「対北政策」という用語を使用している。「対朝鮮政策」でも「対北朝鮮政策」でもない「対北」である。「良心派」はもはや朝鮮民主主義人民共和国を「北」としか略さなくなったようだ。ただ問題は、この「北」という略称は、「提言」の内容とそれなりに符合しているということだ。一読すればわかるのだが、「提言」は一貫して共和国との国交問題を、「朝鮮北部の国」との国交の問題として位置づけている。

 冒頭で「提言」は「国交を持たない唯一の国」という節から説き起こす。共和国は隣国にもかかわらず日本と国交を持たない唯一の国なのだ、これは異常だ、と。日朝関係の問題の核心は、「日本と朝鮮北部の国の間に国交が無いこと」として把握される。これはまえがき的部分として読み過ごす人もいるかもしれないが、非常に重要な、「提言」の日朝関係観の核心的部分だ。次に「1500年の交流」が続くのにも理由がある。この節では、高句麗と日本の交流を説き、高句麗の壁画古墳と日本の高松塚古墳の影響関係を語り、豊臣秀吉の平壌占領に言及する。すべて「朝鮮北部の国」と日本の交流の前例として出されてくる。日朝関係の問題を「日本と朝鮮北部の国の間に国交が無いこと」というレベルでしか把握しないならば、当然こういう超歴史的な記述になる。

 だが翻って考えるならば、朝鮮民主主義人民共和国と日本との国交正常化交渉と、高句麗や朝鮮王朝に何の関係があるのだろうか。ここで問題となるべきは、戦前日本の侵略・植民地支配と、それを継承した戦後日本の法的・政治的責任である(もちろんそれ以外にも「戦後責任」がある。後述)。つまり「侵略責任継承国」としての日本という認識が求められる。豊臣秀吉の平壌占領について謝罪と賠償をするなら(つまり、秀吉の侵略責任を国家として継承しているというラディカルな視点ならば)別だが、そうでない以上、ここで豊臣秀吉が持ち出されるのはおかしい。問題になっているのは、日本列島に歴史的に存在してきた日本ではなく、19世紀中ごろ以降の近代国家日本である。だが、「提言」の筆者たちが、そもそも日朝交渉をそうした戦前日本の侵略・植民地支配の責任を継承した戦後日本と、旧植民地の朝鮮の交渉というレベルでとらえていないと考えるならば、この叙述は納得がいく。

 「提言」の筆者たちにとって、あくまで日朝交渉は「朝鮮北部の国」と日本との交渉に過ぎず、豊臣秀吉の朝鮮侵略も、植民地支配もその間にあったさまざまな不幸な出来事の一つなのだろう。後に植民地支配の清算が第一の課題だと「提言」は記すが、これもあくまでこうした様々な不幸のなかで時間的に近く、被害者が生存しているから言っているにすぎないことになる。

 こうした戦前日本の侵略・植民地支配責任とそれを継承した戦後日本が問題にされているという認識の欠落が端的に示されているのが、日清戦争の位置づけである。「提言」では「1500年の交流」に続いて「36年間の植民地支配」の節が始まるが、日清戦争は「1500年の交流」の最後に記されている。日清戦争の最大の地上戦闘が平壌の戦いであったことや、日本軍が平壌を占領したことが触れられつつ、あくまでこれは「1500年の交流」の最後なのである。

 日清戦争前後、日本軍は甲午農民戦争に蜂起した東学軍・農民軍を武力で弾圧し、3万人以上を殺戮した。その後続く義兵戦争における殺戮と合わせて、広い視野からみればこれは日本と朝鮮の「植民地戦争」といえるものだが、「提言」ではこうした数一〇年にわたる植民地戦争の結果としての「併合」という視点は無く、せいぜい日露戦争以降の「併合」過程に切り縮められてしまっている。何より、豊臣秀吉の朝鮮侵略と日清戦争を特に区別することなく併記する発想自体が、「侵略責任継承国」として朝鮮と交渉をしているという認識が欠落している証拠である。

 このように、「提言」の冒頭は後に続く問題含みの各論を準備する認識を提示している。その認識とは日朝関係を「侵略責任継承国」と旧植民地の交渉とみるのではなく、あくまで隣国なのに国交のなかった「朝鮮北部の国」と、日本との交渉として見ようという認識なのである。(続)
by kscykscy | 2008-10-05 02:53 | 世界「共同提言」批判

なぜ「平壌宣言」を持ち出すのか

  朝日平壌宣言はこれまで書いたように、「日本無答責」をはっきりと明記した宣言なのだが、ほとんどの人々はここのところを無視したまま「平壌宣言に基づいた国交正常化を!」と叫んでいる。言い分はこうだろう。平壌宣言には「双方は、この宣言に示された精神及び基本原則に従い、国交正常化を早期に実現させるため、あらゆる努力を傾注すること」と記されている。だからいろいろ問題はあるにしても、「国交正常化」の早期実現への努力を明記した(つまり日本政府が約束した)平壌宣言を利用して、正常化を成し遂げようじゃないか、と。
 
  だが、平壌宣言は日朝関係の包括的な事項について記している。単に「国交正常化を実現しよう!」と叫ぶのならわかる。私も賛成だ。だが、「平壌宣言の精神に則って国交正常化を実現しよう!」と言った瞬間、朝鮮植民地支配に関する認識も平壌宣言と共有することになる。そこのところを「平壌宣言の精神」云々という人々はわかっているのだろうか?ここは強く主張したいところだが、「平壌宣言」に賛同することと、国交正常化を求めることはイコールではない。「平壌宣言」に賛同することは、国交正常化実現よりもはるかに多くのことを言ったことになる。

  そこのところはもちろん平壌宣言にも書いてある。宣言はあくまで「この宣言に示された精神及び基本原則に従い」国交正常化への努力を明記しているに過ぎない。ここでいう「精神及び基本原則」には、今までに書いた植民地支配への「日本無答責」も含まれている。これを含みこんだ形で国交正常化への努力をしましょう、こう宣言は書いているのである。だから、宣言を称揚しつつ、「歴史認識の部分には若干問題はあるが…」云々とお茶を濁す立場はありえない。確かに国交正常化は必要だ。だが、だったらそれだけ主張すればいいのだ。
by kscykscy | 2008-10-03 23:11 | 日朝平壌宣言批判