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問題は「学問分野が異なる」(金明秀)ことなどではない

 ちょうど二年ほど前のことになるが、このブログで金明秀氏(以下、敬称略)の「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」というエッセイを批判したことがある。これに対しては、ツイッターを通じて金からの「反論」があったが、金が論点をずらし続けたため全く議論にならなかった。私としては金との議論そのものにはあまり価値を見出していないので、それはよいのだが、最終的に金がレッテル貼りで「告発を無力化」しようとしたため、これについては「抗議」を掲載した。いずれにしても非常に不毛な体験だった(その後の金のツイッターでの対応をみると、他の「論争」においても似たようなスタイルで応じているようだ)。

 そんな金のツイッターに一月前、以下の投稿がなされた。

「あっ、kscykscyは本名を開示したのか。だったら反論してもいいなあ。」

「と思って読み直してみたけど、反論する意欲が立ち上がってこない。「「リスク社会」云々は一種のハッタリと考えられるので無視して構わないだろう」と何度も主張しているあたりに、時代状況への深刻な鈍感さが伺われて、(対立的であっても)正面から対話する価値を見出しにくい。」

 以前の記事を読んでいただければわかるが、すでに匿名の時代から金は私への「反論」を行っており、「本名を開示した」から「反論してもいいなあ」という金の主張は奇妙なのだが、それは措こう。わざわざ反論の予告があったので待っていたのだが、結局今に至るまで「反論」はない。「反論する意欲が立ち上がってこない」といったきりである。

 あるいは金は、そもそも反論する価値がない、という「反論」をしているのかもしれないが、だとすれば非常に困ったものである。この投稿だけを読んだ者は、論点を現代を「リスク社会」かどうかをめぐるものであると考え、私が現代は「リスク社会」ではないとみなして金を批判しているかのように誤解するであろう。もちろん私はそんなことは言っていない。金が意図的に議論を誤導し、私の批判が検討にすら値しない無価値なものだという印象を読者に与えようとしていると思いたくはないが、私としてはこれを放置するわけにもいかないので以下に再論したい。

 金は上の投稿に続けて、次のように書いている。

「学問分野が異なると、世界を認識するフレームが違うため、《見えている世界》そのものが異なるという場合がある。でもそれぞれに学問的信念に根ざした社会洞察であることが、(たとえ自分の専門と異なる対象であっても)自分こそが正しいと思い込ませてしまうのかもしれないなあ。」

「だからこそ、かと。 RT @aminah2500: それなのに「学際的学部で学際的教育をせよ」というむちゃくちゃな要求をするのが文科省。RT @han_org: 学問分野が異なると、世界を認識するフレームが違うため、《見えている世界》そのものが異なるという場合がある。(以下略)」

「そうそう、研究対象が同じであればディシプリンが違ってもだいたい話は通じますからね。 RT @modi_operandi: @han_org 見えているもの以外にも、疑わない(疑えない)前提が大きく異なりそうですね。」

「相手方がディシプリンの大前提にしてしまっていることを、こちらが問題化せざるをえないようなとき、しばしばディシプリン間の衝突は生じますね。」

 直接的に明示しているわけではないが、上の投稿に続くものなので、私の批判を想定したものだと考えてよいだろう。つまり私が金の主張を理解できないのは「学問分野」が異なり、「世界を認識するフレームが違うため」だというわけだ。二年前の批判を「学問分野」の違いということで落着させたいのであろうか。そのようなことにいかほどの意味があるのか私には理解しがたい。

 もちろん問題は「学問分野」の違いなどではない。金の最初のエッセイの要旨は、現代はリスク社会であるからマイノリティーからの反論としては、人権や平等などの近代の市民的規範に沿った主張ではなく、「リスク・コミュニケーション」が有効だ、具体的には在日朝鮮人や朝鮮学校がいかに日本の「リスク」ではないかを証明することが必要であり有効だ、というものだった。そして「反日教育をしている朝鮮学校に日本国民の税金を支出するなど国益につながらない」という批判がなされた場合、金は「私の経験から具体的にいうと、「朝鮮学校は日本の国益につながっている」と反論すれば、デマに対して有効な打撃を与えるようだ」と主張したのである。

 私はそんな反論はむしろ在日朝鮮人が歴史的に行ってきた民族教育の意義を貶めるものであり、そもそも「有効」ですらない、と批判した。実際あれから二年が経ちながらも朝鮮高校生は無償化から除外されたままであり、それどころか補助金の全国的な削減が進んでいる。遺憾ながら、朝鮮学校が日本の多文化共生にとって役立っている云々の主張(だけ)を語る人は後を絶たないが(そうした意味では金明秀式の論法は「勝利」している。ただ、さすがに「朝鮮学校は日本の国益につながっている」と「反論」する人物はみたことがないが)それがどの程度の「有効性」を持ちえていたかは大いに疑問である。

 さて、上の投稿で金がこだわっている「リスク社会」をめぐる主張については、これもかつて「続々・金明秀「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」批判」の「9.「リスク社会」というハッタリについて」で批判した。関連箇所を再掲する。

「また、私は「「リスク社会における「他者」」という問題設定そのもの」がハッタリであると述べているのではない。私は続編記事で次のように記した。

「ちなみに、前回の記事で私は金のいう「リスク社会」云々はハッタリであると書いた。理由は金のベックからの引用はほとんど意味がないからだ。確かにベックは「危険社会」がスケープゴート社会への内在的な傾向を含んでいると指摘しているが、その際に、「他者」の側が「リスク・コミュニケーション」をする必要があるなどとは一言も書いてない。金のベックからの引用はすべて『危険社会』からのものだが、そもそも「リスク・コミュニケーション」なる語自体が『危険社会』には登場しない。よって私はベックへの言及はその社会科学的分析を前提にするためではなく、自らの主張を粉飾するためのハッタリと判断した。エッセイは金の地の文章として読めばそれで十分である。」。」(「続・金明秀「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」批判」)
 
 ここからもわかるように、私は金によるベックの引用そのものがハッタリである、と述べた。エッセイにおける金の主張の根幹をなす部分はベックとは何ら関係ないため、あくまで金の地の文章としてエッセイを読めば十分だ、と指摘したのである。

 なお、誤解を避けるために断っておくが、私はハッタリとしてのベックの引用自体を非難するつもりもない。短いエッセイであるから、引用が断片的になることは十分ありうる。しかし、あのエッセイには、「リスク・コミュニケーション」云々についてもベックが主張しているかのように読めてしまう不親切さがある。このため、ベックとは無関係に、金の地の文として読めば十分であると釘を刺したのである。もちろん、ベックと無関係な金の地の文であることが、それ自体として文章の妥当性を損なうものでもない。」

 少なくともベックは『危険社会』において、今はリスク社会だからマイノリティーは「リスク・コミュニケーション」が必要だ、などとはは言っていないのである。私はもしベックがそのようなことを主張しているならば、それに即して金を批判しようと思い探したのだが見つからなかった。金自身もそれは認めている。つまりベックとは関係ない金自身の主張なのである。よって「ハッタリ」だと書いた。金のエッセイを検討するものはベック云々を考慮する必要はさしあたりはない、また、金も自らの言葉で反論すればよいではないか、と。もちろん、「学問分野」の問題などでもない。

 いずれにしても、民族的・歴史的な権利性を前面に押し出さない歪んだ言説は日本の「反レイシズム」を極めて問題の多いものにしている。「反差別」「反レイシズム」を自称する言論人のなかにも、在日朝鮮人の歴史についての歪んだ認識を持つ者は少なくない。例えば安田浩一『ネットと愛国』は、「終戦直後に一部の在日コリアンがアウトロー化したのは事実」(p.219)として「愚連隊と化した一部の朝鮮人・台湾人」などという表現を使い、解放直後の在日朝鮮人の生活権擁護闘争や民族教育擁護闘争についても「暴動」「騒擾事件」と位置づけている。驚くべき認識である。また、平気で朝鮮人に対し差別発言を用いて罵倒している野間易通のような人物が、「反レイシズム」運動の首領のような扱いを受けている現状にはめまいすら覚える。特に野間の「糞チョソン人」という発言は、本来ならばこれだけであらゆる反差別運動から追放されてもおかしくない種類の罵倒・差別発言である。罵倒語としてあえて朝鮮語を利用するこの人物の振る舞いを見過ごすことができるならば、在特会すらも許容できるのではないだろうか。野間『「在日特権」の虚構』の問題については別に詳しく扱いたい。

(鄭栄桓)

by kscykscy | 2014-06-03 00:00 | 朝鮮学校「無償化」排除問題

悪い朝鮮人だけ殺せ?――民族差別・民族教育弾圧批判

 在特会が2013年2月に掲げて有名になった「良い韓国人も悪い韓国人もどちらも殺せ」というプラカードがある。言うまでもなくこのプラカードは朝鮮民族全体の殺害を煽動する最悪のレイシズムの表現であり、反対するのは当然である。だが、これに憤る人びとは一体この文句のどの箇所を問題だと考えているのだろうかについて、ある疑念があった。もしかしたらこの人びとは「良い韓国人」まで「殺せ」と言ったことに対し、激しく憤っているのではないか、「悪い朝鮮人だけ殺せ!」こそが正しいのだと考えているのではないか、という疑念である。

 このプラカードは意識的に書かれていたように思う。「良い韓国人/悪い韓国人」を分けて後者への差別を肯定しながら、自らだけは救われようとする哀れな「戦略」を採る人びと――「北朝鮮」が差別されるのは当然だが、自分たちは違う、「北朝鮮」に制裁を加えるのは賛成だが、民族差別はいけないと弁明する人びとを嘲笑するようなメッセージだ。もちろん在特会は完全なるレイシストであるから、そんな弁明などはお構いなしである。こうした「戦略」をあえてあざ笑うために「良い韓国人も悪い韓国人もどちらも殺せ」というプラカードを掲げたのではないかと私は考えていた。

 いうまでもなく、こうした「戦略」を採った民族団体の典型は民団である。以前に『民団新聞』の論説を取り上げたこと があったが、ここであらためて民団自体が無償化問題にどのような態度を採ってきたかを振り返っておく必要がある。

 民団はこれまで二度、朝鮮高校生への「無償化」適用に事実上反対する意思を日本政府に伝えている。一度目は2010年9月の「朝鮮高校に対する授業料無償化についての意見書」 である。この意見書は、無償化は「原則的に適用されるべき」と主張しながらも、「そのためには、次の点について朝鮮学校の検証と改善がなされなければならない」として三つの条件をつけた。(1)朝鮮学校の「人事権及び学校経営権」から朝鮮総連を分離すること、(2)「金日成、金正日父子の崇拝教育」をはじめとする「思想教育」をやめること、(3)朝鮮戦争やラングーン事件、大韓航空機事件と拉致問題に関する教育内容を是正すること、である。

 意見書は無償化について「原則的に適用されるべき」としているため、一見すると民団は条件付き賛成の立場のようにみえる。だが問題はそう単純ではない。実はこの意見書が提出される直前の2010年8月31日には、文科省の「高等学校等就学支援金の支給に関する検討会議」(5月26日設置)が、「高等学校の課程に類する課程を置く外国人学校の指定に関する基準」を発表していた。検討会議は、無償化の基準を客観的に専修学校と同等の教育条件を備えているかで判断するとし、「外国人学校の指定については、外交上の配慮などにより判断すべきものではなく、教育上の観点から客観的に判断すべきものである」とする政府統一見解を明記した。つまり教育内容にかかわらず無償化の適用について判断する、という基準が示されたのである。

 民団の意見書は明らかにこの指定基準を修正させるために出されたものだ。検討会議が個別教育内容の判断によらないという方向へ傾いたのを押し戻し、教育内容を問題化させて無償化の適用から排除させようとしたのである。無償化に「事実上反対する意見書」だと評したのはこのためである。さらにこの意見書は末尾で「大阪府をはじめとして幾つかの自治体でも、朝鮮学校の内部の透明化を求める動きが出ております。各都道府県としても、同様な取り組みがあってしかるべきと考えます」とも述べて、当時橋下知事のもとで進んでいた朝鮮学校への介入を高く評価したうえで、「総連をはじめ一部人士の「無償化は民族教育の保障」という主張はあてはまらないことは明白であり、個人崇拝、思想教育はやめさせなければなりません」と、現行のままでの無償化排除は決して民族差別ではない、と主張したのである。

 二度目は2012年2月13日の民団団長による文科大臣への申し入れ である。この申し入れでは、無償化適用に「慎重を期する必要がある」として先の意見書よりもさらに排除のトーンを強め、その理由として「朝鮮高校は運営面においても教科内容の面においても、また教育全般面においても朝鮮総連の指導を通じ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の完全なコントロール下にあり、日本社会一般の常識をはるかに越えるような教育、指導が現在も変わらず行われてい」ることをあげた。また、念入りに「仮に就学支援金の支給対象に含めることになる場合には、教育内容と運営の全般的において文部科学省から特段の指導を講じることを条件に付するべきであると考えます」と、とにかく教育内容と運営に行政が介入するよう求めている。

 結局これらの要望がかない無償化については依然として朝鮮高校生は排除されたままであるが、民団の徹底した朝鮮学校の教育内容や運営への介入要求についても、神奈川などの自治体レベルでの教科書記述の修正要求(「神奈川モデル」 )にみられるように、全国的に実現しつつあると言ってよい。こうした経過をみれば、大阪などの極右首長の自治体や執拗に補助金の削減を訴えてきた「救う会」や在特会に加え、民団もまた教育内容への介入という形態の弾圧の推進者であったことは明白である。

 しかも民団は、もし文科省が朝鮮高校生を無償化適用から外したとしてもそれは民族差別にはあたらないと繰返し主張した。他でもない在日朝鮮人から「民族差別ではない」とのお墨付きが得られるのだから、文科省としてはこれ以上の援軍はない。こればかりは極右首長や救う会、在特会がいくら頑張ってもできない。「当事者」ではないからである。そうした意味では、民団の果たした負の役割は極めて大きく、朝鮮学校のみならず在日外国人全般の権利状況を引き下げるのに大いに貢献したといえる。

 こうした民団の「戦略」は弾圧を正当化し民族分断を加速させる悪質なものであると同時に、極めて愚かな振る舞いでもある。いま各地でなされている朝鮮学校の教育内容への干渉は決して朝鮮民主主義人民共和国に関連するものに限られてはいない。民主党政権下においては無償化適用を阻止するためもあり、自民党や橋下なども総連との関係に焦点を絞って攻撃していた。だが自治体によっては朝鮮近代史教育全般に干渉するケースがあらわれており、安倍政権が成立してからはこうした動きはさらに拡がりを見せている。

 二つの事例をあげよう。埼玉県の上田知事は2012年6月22日の県議会で、朝鮮学校の教科書について「日本が日韓併合条約を捏造したとか、戦後、在日朝鮮人の帰国について必要な対策を講じなかったとあるが、いずれも事実に反する。拉致問題も記載していない」と発言した(『産経新聞』2012年6月22日付web版、強調引用者)。上田知事は「全部断ち切ると、子供たちが反日教育だけを受ける可能性がある」「在日の人が日本社会で共生できるように、きちっとした教育をしてもらいたい。それを見極めるために要請、指導をして判断をする」とも述べている(同上)。ここで問題とされている「教育内容」は、決して拉致問題にとどまることなく、「併合条約」の不法性や朝鮮人の帰国に関する記述にまで及んでいるのである。

 また、今年3月25日、四日市市議会が四日市朝鮮初中級学校への補助金を可決した際、議会は同校が拉致問題や領土問題についての教育内容を改善したことを確認することを条件とした(『朝日』2014年03 月26日・朝刊、3社会)。ここでの「領土問題」とは、「竹島」について日本政府が領有権を主張している事実を教えることを指す。実はこれでも相当にトーンが弱まっており、この日の議会では、1.拉致の首謀者が誰か、国家ぐるみの犯罪であったこと、2.竹島は日本固有の領土であること、3.正しい歴史教育をきちんと教育内容として実践をしていること、を確認したうえでないと補助金は出すべきではない旨の修正動議が出されていた(否決)。(四日市市議会中継の「再生リスト2」を参照)。

 そもそも2013年度の四日市市による補助金は、民主党の諸岡覚議員の修正動議が可決されて全額削減されていたのだが、その際の諸岡の排除の理由付けも「本来、母国北朝鮮が賄うべき民族教育の予算を本市が肩がわりすることは間接的な経済支援であり、これは国連決議の本来趣旨からも逸脱するものである」ことに加えて、朝鮮学校の「学習の中身は、日本国政府の見解とは大きく異なる反日教育であり、我々の先人の歴史をおとしめる内容が含まれております」というものだった(四日市市議会会議録中の諸岡発言を参照)。

 これらの埼玉県や四日市市の事例からもわかるように、現在の各自治体による教育内容への干渉のレベルは朝鮮民主主義人民共和国との関係に加えて、歴史教育にまで及んでいる。いまのところは威嚇の段階で留まっているものの、韓国併合条約は合法である、「竹島」は日本の領土であるといった内容を教えることを補助金支給の条件にするというレベルまで要求の水準は上がっている。これが朝鮮学校が直面している現実なのである。これらの干渉が、東京韓国学園の教育内容にまで及ぶ可能性がないと言い切れるだろうか。「日本社会一般の常識をはるかに越えるような教育、指導が現在も変わらず行われてい」ることをもって朝鮮学校の教育内容への干渉を正当化した民団は、その時批判しうるのだろうか。民団の弾圧正当化が愚かな振る舞いであり、在日外国人全体の権利状況を引き下げるものだと考えるゆえんである。

 こうしてみると、民団が「良い韓国人も悪い韓国人もどちらも殺せ」というスローガンのどこに反発したのかがわかるだろう。2013年2月に掲げられたこのスローガンは、上に見た民団の無償化排除正当化論の展開をあざ笑うかのようなものだった。いうまでもなく民団は「良い韓国人」として振舞っていたにもかかわらず、「殺せ」といわれたのだから。冒頭で「もしかしたらこの人びとは「良い韓国人」まで「殺せ」と言ったことに対し、激しく憤っているのではないか」との疑念を持ったのは、こうした民団の振る舞いを見ていたからでもある。明らかに民団は「悪い朝鮮人だけ殺せ!」の論理に立っていた。

 自治体の極右首長や救う会、在特会は今後も朝鮮学校補助金に狙いを定めて教育内容への干渉を強めることは間違いないだろう。これらの攻撃が民族教育権への深刻な侵害であるという事実を繰り返し主張していく必要がある。民団や救う会の枠組みのなかでの「反差別」や「反ヘイトスピーチ」では、この点が全く問題化されないどころか、むしろ侵害はより一層強まっていくだろう。偶然元しばき隊の清義明という人物のツイッターを目にしたが、朝鮮学校への教育内容への干渉や補助金削減、歴史修正主義を肯定しているようであり、非常に象徴的だと感じた。おそらく朝鮮学校の関係者が最も頻繁に接触せざるをえないのはこの種の主観的には善意でありながらも、平気で「監視者」として教育内容に口出しする人間たちであろうから、繰り返しになるが、こうした言説こそが最大の問題であると強調しておきたい(この人物のツイッターは非常に典型的なのである意味いい教材になる)。こうした「反差別」界隈の体質こそがむしろ問題化されなければならないのである。

 本質的な問題は、いま行われている朝鮮学校の無償化排除がすでに明白な民族差別であるという点にある。行政による排除が韓国学園にまで及んでいるかどうかは関係ない。だがこの点は充分に理解されていないようだ。2014年4月号の『現代思想』に掲載の金泰植「朝鮮学校の現在」に次のような一文があった。

「現在の状況は「民族教育への弾圧」というよりも「朝鮮学校への弾圧」というほうが正しい。何故なら同じ「民族」である韓国学校は無償化の適用対象であり、ヘイト・スピーチの対象にはなっても、行政による差別は行われていないからだ。」(167頁)

 この記述は非常に危ういものである。金の立論によれば、韓国学校も含むあらゆる在日朝鮮人の民族教育が排除されない限り、「民族教育への弾圧」とは言い得ないことになってしまう。仮に一校だけを対象としたものであったとしても、それが民族教育を狙った弾圧なのであれば、「民族教育への弾圧」であることは明白であろう。もちろん今ある民族教育のなかで圧倒的多数を占める朝鮮学校が閉鎖に追い込まれれば、日本における朝鮮民族の学校教育は事実上壊滅するだろう。そういう意味でも朝鮮学校への攻撃は事実上民族教育全体への攻撃に等しい性格を持っている。だが重要なのはそうした比重の問題ではなく、朝鮮学校が「無償化」から排除されているという一点で、すでに民族差別であり「民族教育への弾圧」だということだ。しかも、上に述べたように現在行われている干渉は、明白に民族教育そのものに向けられているのである。こうした論法は、上述の民団や補助金停止派の「民族差別ではない」という弁明を正当化する危険性がある。

 以前に紹介した朝鮮大学校の冊子で正しく指摘されているように、「在日朝鮮人は過去日本の植民地統治と侵略戦争の犠牲者として日本にきた人びとであり、その子孫である。[中略]日本政府は、以上のような民族教育の国際的慣例からしても自国の教育方針にてらしてみても在日朝鮮人の民族教育を当然認めるべきである。/とくに、日本政府は不幸な過去の歴史的事実からみても、在日朝鮮人の民族教育の権利を保障すべき歴史的、法的、道義的責任がある」。こうした民族教育の権利は、朝鮮民主主義人民共和国の公民としての教育を受ける権利と矛盾するものではない。エスニックな教育だけが民族教育として認められるわけではなく、そこには当然ネーションとして自己を形成する教育の権利も包含されている。とりわけ、植民地支配を行い、朝鮮民族の自決権を否定してきた日本政府は、より手厚く自決権を認め、ネーションの形成のための教育を保障する義務を負っているともいえる。朝鮮民族、とりわけ在日朝鮮人の歴史的経験に即してみるならば、民族的マイノリティの権利であると同時に、民族の自決の権利という二重の権利性という次元で、民族教育権をとらえる視点が求められるのではないだろうか。

 「悪い朝鮮人だけ殺せ!」という言説を許さない実践と思想こそが必要なのだ。

(鄭栄桓)

by kscykscy | 2014-04-21 00:00 | 朝鮮学校「無償化」排除問題

民族教育介入の「神奈川モデル」

 民族教育介入の「神奈川モデル」とでも呼ぶべきものが成立しつつある。3月19日、神奈川県の黒岩知事は、朝鮮学校の児童生徒への学費補助を「拉致問題に関する独自教科書を作って授業を行うことが条件で、それまでは執行停止する」と述べた。前日に県議会が可決した新年度予算案が、「拉致問題に関する独自の教科書を作成し授業で使用する」ことを支給条件としたことをうけたものである。

 この間、大阪や埼玉と並び、神奈川県は補助金支給をダシにした朝鮮学校の教育内容への干渉の先頭にいた。散々恫喝だけして補助金を停止した大阪に比べれば、神奈川は補助金を出すといっているだけマシではないか、と思う人もいるかもしれない。だが、教育内容への干渉というレベルで考えるならば、数年間にわたって徐々に、しかし確実に内容への干渉を実現させてきた神奈川の黒岩県政は、ある意味ではより悪質であり、むしろ教育干渉の最先端にいるともいえる。

*参考
教科書干渉と「多文化共生社会」の始まり――朝鮮学校と高校「無償化」問題⑪
http://kscykscy.exblog.jp/15700342/

 『神奈川新聞』の3月26日付社説「当初の理念を忘れるな」は、今回の条件付き補助金交付について、以下のようにその問題点を指摘している。

「議案の可決と引き換えに、朝鮮学校に対して拉致問題の独自教科書の作成などがあたかも条件のように課された点は問題を残した。/ 県議会には朝鮮学校に対する厳しい見方もある。制度創設という実を取るため、やむを得なかった事情は分かる。しかし、「国際政治・情勢に左右されずに外国人学校の子どもたちが教育を受ける機会を安定的に確保する」という、新制度の理念は薄らいでしまった。/ さらに黒岩祐治知事の発言も危うさをはらむ。会見で「条件と言っているわけではない」とする一方、「中身を見て判断する。日本人が見て拉致に真っ正面から向き合っていると思うかも問われる」と教科書の記述内容にまで踏み込んだ。/ 「私学の自主性の尊重」がうたわれている教育基本法や私立学校法を持ち出すまでもなく、補助金を口実に私立の各種学校である朝鮮学校の教育内容に介入するような言動は厳に慎まなければならない。」

 教育内容への介入に疑義を呈した点に限れば妥当な批判であるが、だからこそ、社説がこれに続けて「神奈川朝鮮学園が拉致問題をすでに授業で扱っている事実もくむべきだ。同学園側から「教科書改訂までの暫定措置で拉致問題を明確にした独自教科書を作成する」と伝えてきている以上、斜に構えず信頼して待つという姿勢で十分ではないか」と提案したのは、蛇足といわざるをえない。上のような視点があるならば、むしろこうした朝鮮学校側の対応を引き出すにいたったこれまでの県の教育介入を改めて問題にするべきであって、それ自体を努力や成果のように位置づけるのは矛盾である。「補助金を口実に[…]朝鮮学校の教育内容に介入するような言動は厳に慎まなければならない」という立場をより徹底すべきだろう。

 しかし、教育内容への介入問題については、この『神奈川新聞』社説のような立場ですらも例外的であるのが実情だ。朝鮮学校の教育内容への介入は、あまりにも安易に主張されている。一例として『毎日新聞』地方版(広島)の黄在龍記者による「揺れる朝鮮学校」(1~4、3/13~3/16付)の最終回に掲載された「識者」のコメントをみよう。

 ここでは、「北朝鮮による核実験や進展がない拉致問題を背景に、国の朝鮮学校への高校授業料無償化不指定や、県と広島市の広島朝鮮学園への補助金交付の停止は続く。政治的事情と教育支援の関係をどう考えればいいのだろうか」という問いに、木村幹(神戸大学)、佐野通夫(こども教育宝仙大)、西岡力(「救う会」)の三人が答えている。佐野は「(認めない理由として)朝鮮総連とのつながりや歴史への価値観が異なるためという主張もあるが、それらは「高校無償化」対象外とする理由にはならない」と除外に反対し、西岡は「独裁体制を賛美するような教育が今でも公然と行われている。公的扶助を受けるには、まったくふさわしくない教育内容」と除外を肯定する。

 ここで重要なのは木村の「高校無償化の対象外や補助金交付の停止といった政策は、対外的には日本の印象を損なう効果しか持たない。朝鮮学校がある一定、北朝鮮のイデオロギーに沿った教育を行っているのは事実だが、その責任を子供たちに押しつけるのは筋違いだ。教育内容は行政指導などで対応すべきだ」というコメントである。「教育内容は行政指導などで対応すべき」と、内容への干渉を肯定しているのである。そもそも補助金停止反対の理由も、日本の印象を悪くするからという理由のもので、ある意味では現在の「反差別」言説のスタンダードといえる。教育内容への「行政指導」が、具体的に何を指すのか明らかではないが、ここで強調しておきたいのは、冒頭で述べた「神奈川モデル」の形成に一役買ってきたのは、無償化反対論のみならず、木村の主張に典型的にあらわれているような、教育内容への干渉を前提とした無償化/補助金交付擁護論であったということである。

 この連載には「揺れる朝鮮学校」という無責任なタイトルが付されているが、もちろん朝鮮学校は勝手に揺れているわけではなく、それどこから激しく揺さぶられてきた。揺さぶっているのは、無償化排除論者のみならず、無償化に賛成しながら教育内容への干渉を是とする論調でもある。高校無償化法ができてからというもの、マスコミはあたかも朝鮮学校の「教育内容」が適用の争点であるかのような報道を続け、誤った認識を拡散し続けてきた。今回の記事のように、報道は文科省や政府への追及をせず、あたかもそこだけが「現場」であるかのように、朝鮮学校に殺到した。そして、このようなニセの争点を作り上げ、朝鮮学校を揺さぶった責任は、『毎日新聞』にもある。

 これまで度々『朝日新聞』の論説――朝鮮学校の教育内容はかつてのようなものから変化したので排除するのはおかしいという主張――を俎上に載せてきたが、この機会に『毎日新聞』の社説の変遷から、この種の無償化擁護論の問題点をふりかえっておきたい。

 まず、中井洽拉致問題担当大臣が除外を要請した(2010/2下旬)直後、3月11日の社説をみよう。

「この生徒たちは、日本に生まれ育った社会の構成員であり、将来もそうだ。高校無償化は「子ども手当」とともに、社会全体で子供の成長を支えるという基本理念に立つ。その意味で子供自身に責任のないことで支援有無の区別、選別をするのは筋が通るまい。/ 北朝鮮の姿勢を理由に除外を押し通すなら、見せしめの措置と国際社会では受け止められかねない。子供たちに疎外感を持たせて何の益もない。〔…〕各種学校については、無償化法成立後、文部科学省令で高校課程に類する教育をしていることを判断基準に対象を定める。川端達夫文科相が「外交上の配慮などが判断の材料にならない」としているのは適切だ。〔…〕今回の論議を機に、朝鮮学校をはじめ外国人学校の実態に関心が高まり、地域社会との交流活発化などにつながることも期待したい。」(「社説:朝鮮学校 無償化除外、筋が通らぬ」2010.03.11・朝刊) 

 この社説の「期待」どおり、これ以後朝鮮学校の「実態に関心が高まり」、教育現場は報道をはじめ日本社会からの好奇の目にさらされ続けた。「外交上の配慮などが判断の材料にならない」ことに賛意を示しておきながら、民族教育権や外国人の教育権への関心の高まりではなく、「実態」への関心の高まりに期待を寄せるのはなぜなのか。すでにこの時点で全くもっておかしいのだが、後の論調に比べればまだ穏やかである。

 無償化法が施行され朝鮮高校生が事実上排除されてからの『毎日』の社説は、坂道を転がり落ちるようにひどくなっていく。以下は文科省が朝鮮高校生への「審査基準」を決定した直後の社説だが、まずは前半部の抜粋を読んでいただきたい。

「無償化は学校への支援制度ではなく、高校段階の生徒たちに国全体が学びの機会を支援するものだ。その理念から、基準をクリアしているならば、支給は当然といえよう。/ただ、朝鮮学校を対象とすることへの異論や反対意見は多く、政権内でも批判、疑問の声がある。歴史教科で、独善的な金父子独裁体制礼賛や反日的な内容があったり、朝鮮戦争は米・韓国側から起こされたと主張するなど国際的な共通認識や教育姿勢とは相いれないものがある。/拉致事件など重大問題で、北朝鮮側に誠実な対応が見られない状況も続く。そうした国につながる学校を認知するかのような支援に、割り切れない思いの人も少なくない。/審査基準は、他の私立学校同様に「教育内容の是非」を項目にしていない。しかし、適用反対意見も踏まえ、文科省は今後教育内容に「懸念される実態」があれば、自主的な改善を強く促し、どう対応したか報告を求めることを表明した。日本の高校の政治・経済の教科書を使う案も提示している。支援金が授業料に充当されているかもチェックする。」(「社説:朝鮮学校無償化 開かれた教育へ脱皮を」2010.11.06・朝刊)

 なぜ他の私立学校とは別に、朝鮮学校だけが教育内容に「懸念される実態」があるかどうかを審査されなければならないのか。「無償化は生徒たちに国全体が学びの機会を支援するもの」「基準をクリアしているならば、支給は当然」という認識に立つなら、文科省のあからさまな差別的「審査基準」に異を唱えてしかるべきだろう。だが、この社説はそのような方向へと議論を進めることなく、むしろ次のように朝鮮学校に提案する。

「一方、朝鮮学校側にとっては、注目される今こそ、自ら改革する好機と考えてはどうだろうか。多くの生徒は日本に生まれ、その文化、風習になじんでいる。学校以外では地域社会に根差している納税者の子供たちだ。開かれた学校として脱皮することに違和感はあるまい。〔…〕自主的で地域に開かれた改革を進めることによって、朝鮮学校もまた多様な学校の一つとして大事な位置を得るだろう。強く期待したい。」(同上)

 この社説が結論で「開かれた教育へ脱皮を」求める対象は、何と文科省ではなく、朝鮮学校なのである。このような包囲状況でなされる「改革」を「自主的」といえる感覚は到底理解できない。前半部で朝鮮学校の教育内容への不信を「国際的な共通認識や教育姿勢とは相いれない」と第三者的に紹介しているが、この論説委員はこうした「不信」自体を問いなおすことを考えようともしない。むしろ、「歴史教科で、独善的な金父子独裁体制礼賛や反日的な内容があったり、朝鮮戦争は米・韓国側から起こされたと主張する」ならば、無償化から外されても仕方ないという心情に理解を示しているとすら読める。だが表だっていうのははばかられる。だから世間が(そして論説委員である「私」が)、気持よく賛成できるように「自主的」に「改革」してくれ、というわけだ。倒錯というほかない。

 第二次安倍政権が成立し、正式に無償化から排除された直後の社説でも、この点は変らない。

「教育内容でも、北朝鮮の独裁体制の礼賛や独善的な見方がみられ、問題があるとこれまでも指摘されてきた。こうした状況では無償化の対象にすることへの違和感や反対する意見も多く出よう。/だが、朝鮮学校に学ぶ生徒の大半は日本に生まれ育ち、将来も日本社会に生きる。教科学習も日本の高校に相当し、多くの大学は朝鮮学校卒業生に受験資格を認めてきた。高校のスポーツ競技でも交流は活発だ。/生徒それぞれの学びの機会を経済的に支える、という制度の理念に、朝鮮学校の生徒を一律に除外するのはそぐわない。/社会に根差した生徒たちを、単に排除的に扱うだけでは解決にはなるまい。他方、朝鮮学校や総連側も問題指摘には応えるべきで、社会の無理解があるというのならば、積極的な情報公開が必要である。」(「社説:無償化見送り 排除にとどまらず」2012.12.30)

 この社説は文科省に対して「前政権や文科省がこの問題についてどう審査し、判断していたか詳しく検証し、公開することも必要ではないか」と注文をつけてはいるが、根拠があいまいな「社会」の「無理解」をあげて、朝鮮学校に「情報公開」を求めていることは変らない。生徒たちは「日本社会」に根差している、だから排除してはいけない。しかし、「日本社会」はまだまだ朝鮮学校や総連を「理解」しきれていない、だから情報公開が必要だ、という理屈である。この論説委員のいうような意味で「日本社会」が朝鮮学校を「理解」する日が来るとすれば、それは朝鮮学校の教育内容を「日本社会」が完全な管理下に置いた日であろう。神奈川での「県民感情」の名の下での教育介入は、その第一歩といえる。

 このように、中井洽による排除工作が始まってから、「審査」を口実に民主党が事実上排除した段階を経て、安倍政権が正式に排除を確定するまで、『毎日』の社説は一度も在日朝鮮人の歴史性や民族教育の権利という視点を採らず、むしろ朝鮮学校の教育内容への日本社会の無理解に共感を寄せ、その無理解に朝鮮学校が対応してこなかったことが問題であるかのような主張を繰り返した。「神奈川モデル」の成り立ちに『朝日』『毎日』などの擁護論が一役買ったと考えるゆえんである。

 神奈川で冒頭に紹介したような要求が議会で通ったということは、これからも「県民感情」の名の下に、朝鮮学校のあらゆる教育内容への干渉がありうるということだ。「神奈川県の朝鮮人は県民ではないのか」という反論など、ほとんど意味をなさないだろう。それどころか、県民であるところの朝鮮人児童生徒が朝鮮学校から異常な教育をうけているのだから、この児童生徒のためにも、県がしっかりと監視し指導しなければいけない、というさらなる干渉のレトリックが襲ってくるだけだ。実際、大阪で橋下はそのように断言した。小手先の理屈でどうにかなる段階ではない(もちろん、そんな「段階」は日本に一度も成立したことなどないが)。

(鄭栄桓)
by kscykscy | 2014-03-27 00:00 | 朝鮮学校「無償化」排除問題

「日本は世界で最も開かれた国なのです」(金時鐘)

 中野重治の「ある側面」という文章に、魯迅の文学についての次のような一節がある。
「政治的発言をした文学者はたくさんいた。正しく政治的発言をした文学者もたくさんいた。しかし魯迅は、彼の人間的発言、彼の文学的発言が、多くの場合ただちに、政治的な言葉を伴わない、しかしもっとも痛烈な政治的発言であった。ここに子供がいる。その子を目がけて狂犬が飛びかかってくる。それを見たある人々が、いかにも政治的であるかのように自分で思い込みながら、小児と狂犬との距離は急速に縮小しつつある、という風にいってつっ立っている。飛び出してきて魯迅が叫ぶ。その犬をうち殺せ、子供をさらいこめ。人が思わず犬にとびかかろうとする。子供の帯をつかまえようとして、思わず手を出す。そこに魯迅の文学の特殊の感銘があった。」(『魯迅案内』岩波書店、1956年、36-37頁)
 『毎日新聞』(2013.3.6付、大阪朝刊)「論ステーション:朝鮮学校、無償化ならず」はここでの狂犬と小児の比喩を思い出させる、なかなかに醜悪な特集だった。この比喩にならうならば、狂犬がバリバリと小児を喰らっている横で、小児に罪はないが犬よもっと喰らえ、それが小児のためだ、と絶叫しているのが有本。木村幹は、まさしく「いかにも政治的であるかのように自分で思い込みながら、小児と狂犬との距離は急速に縮小しつつある、という風にいってつっ立っている」識者で、そんなもん喰ってもいま必要な栄養は補給できないヨ、と犬にアドバイスしている。誰も「その犬をうち殺せ」とは言わない。

 有本と木村はもとより狂犬の側であるから特に驚きはしないが、この記事で最も愚かで哀れなのは、狂犬の脇で弱々しく批判めいたことを言いながら、小児にも問題あるけどあなたは本当はそんな犬じゃないでしょうと哀願する金時鐘である。なかでも「日本は世界で最も開かれた国なのです」という一文は凄まじい。政府が、朝鮮高校生を無償化から排除していることについてのコメントで、この一言をいえてしまうとは、自分が何について話しているのか理解しているのだろうか。事実として完全に誤っているこの一文には、これまでの金のすべての文の価値(それがあればの話だが)をまるごと粉砕するほどの破壊力がある。

 金はこう言う。確かに朝鮮学校では偏った教育が行われているかもしれないが、「日本は世界で最も開かれた国」だから、日常的にそうした知識は修正されて学校のいうとおりにはなりませんよ、だから大丈夫ですよ、と。驚くべきことに、金のこうした論理は、朝鮮学校の教育はおかしいといっている点では有本と共通しているのだ。有本は、だから子供たちは卒業したら日本の社会で苦しむ、よって朝鮮学校は有害だから無償化なんか絶対ダメだ、といっている。おそらく有本には、自らの所属する社会が、朝鮮学校卒業生に大して確実に「自分たちがおかしな教育を受けたと気付いて、大きな抵抗を感じ」させるよう追い込む力を持っていることへの自信があるのだろう。もちろん、普通そういう抑圧の働く社会を「開かれた国」とはいわない。

 だが、金はどうか。もしかしたらこの人は、有本の暗い確信とは別の意味で、本当に日本が「開かれた国」だと思ってるのかもしれない。確かに、9.17以降の金の発言には、一貫して危ういナイーブさと、同胞全体を勝手に代表しているかのような傲慢さが漂っていた。そしてそういった発言をすればするほど、一部での金の人気は高まっていった。しかし、金時鐘をまつりあげる日本のインテリが増えたことと、現在の日本社会の抑圧性・閉鎖性の解消は何の関係もない。当たり前すぎる話である。むしろ、このように金が日本社会の「開放性」を言明することで、ますますこの社会に生きる人々は反省しなくなるだろう。朝鮮学校の無償化排除への批判も、「開かれた国・日本」の度量を示すという話にすりかえられる(木村幹を見よ)。差別をやめろといわれているだけなのにもかかわらず、である。

 今回の金のコメントは見事にその役割を果たした。絶対に、何があっても、断固として、「越境」などしたくないとの確信を抱かせるコメントであった。
by kscykscy | 2013-03-13 00:00 | 朝鮮学校「無償化」排除問題

閑話休題:「教育と外交(政治)は別」という言葉について

 朝鮮高校生の「無償化」からの排除は明らかに外交的理由によるものである。つまり、「無償化」を認めると、現在政府が「制裁」を科している朝鮮民主主義人民共和国を利することになる、と民主党政権は判断し、就学支援金の適用の判断を外交の論理――というよりも、「制裁」の論理に従属させたのである。誰の眼にも明らかであったこうした排除の動機について、当初民主党政権は否定し詭弁を弄していたが、天安艦沈没事件後、この詭弁すら放棄して居直るに至った。

 さて、これに対する批判として「教育と外交(政治)は別」という言葉をしばしば耳にする。この言葉は一面では正しい。確かに、就学支援金制度創設の趣旨を鑑みれば、外交上の理由で朝高生のみを支給から排除するのは許されない違法な行為だ。ただ、「教育と外交は別」のスローガンは、一種の曖昧さと弱さを残しているのではないかと思う。

 「教育と外交は別」には以下の三つの用法がある。

(1) 正しい用法

 本来、「教育と外交は別」という言葉を仮に用いるならば、朝鮮高校生がいずれも朝鮮民主主義人民共和国の公民であり、かつ、個々の信条として共和国を支持していたとしても、それとは無関係に就学支援金は支給されるべきだ、という意味で用いるべきであり、これが唯一正しい用法である。つまり、在日朝鮮公民が日本で朝鮮の公民教育を受ける権利の尊重と、日本の対朝鮮外交とは別だ、という意味である。これは現行法における就学支援金支給の要件からも当然に導かれる原則であり、いわば、日本政府は自らの定めた法を遵守せよというスローガンに等しい。問題の根本は日本政府の違法な行為にあり、これを前提としてのみ、「無償化」排除批判論は権利論としての相貌を保ちうる。

 但し、この正しい用法においても、「教育と外交は別」というスローガンは、朝鮮への「制裁」については態度を留保するものとなる。というよりも、留保していることをアピールする面すらあるともいえる。もちろん、現行法上「制裁」解除が「無償化」適用の必要条件ではないことは明らかなのであるから、あえてこの論点に触れずに「教育と外交は別だ!」とのスローガンを用いることがただちに問題であるとは言い切れない。ただ、現実に「制裁」が在日朝鮮人の諸権利を制約する重要な前提となっている以上、「制裁」反対無き「無償化」排除批判は不充分であり、弱さを残していると思う。

 そうした意味で、「正しい用法」であっても、特に用いる必要はないように思う。「「無償化」を適用せよ!」で充分だろう。

(2) 誤った用法

 しかし、現在「教育と外交は別」というスローガンは全く誤った意味において用いられることが多い。それは、朝鮮高校生には韓国籍者や日本国籍も多く「北朝鮮」とは直接の関係はない、学校運営においても「北朝鮮」とは距離を取っている、だから就学支援金を支給すべきだ、という用法である。この用法によれば、日本政府は朝鮮学校の性格を誤認している、という主張になるのであるから、厳密にいえば「教育と外交は別だ!」とは言っていないことになる。ここで実際に叫ばれているのは、「教育と外交は別だ!」ではなく、「朝鮮高校(生)と朝鮮民主主義人民共和国は別だ!」というスローガンだからだ。

 ここでは問題の根本は日本政府の無知にあることになり、「知って下さい、見て下さい、国益になります」が問題解決の唯一の手段となる。こうした思考からは権利論の生じる余地は無い。しかも、朝鮮民主主義人民共和国と密接な関係を有する教育機関である場合排除していいのか、という問いとの対決を避けているため、「教育と外交は同じだ!」という主張を許容する余地を残すものとなっている。

 というよりも、この用法はむしろ朝鮮への「制裁」を容認し、かつ「無償化」適用を擁護するために編み出されたといってもいい。朝鮮民主主義人民共和国への「制裁」は必要だが、それと朝鮮高校生は別だ、という『朝日新聞』の主張などはその典型といえよう。

(3) 悪用

 さらに悪いのは、「教育と外交は別」という曖昧さを残したスローガンが後者の意味として誤認されて流布した状況に乗じて、これを朝鮮学校に対する教育干渉の論理として用いるケースである。つまり、朝鮮民主主義人民共和国との関係を有しているから「無償化」から排除するのだ/されるのだ、「教育と外交(政治)は別だ!」、関係を断ち切れ、と。言うまでも無く、これは橋下の用法である。しかし、橋下だけではなく、「無償化」排除批判論者の一部にもこうした心性は共有されている。

 現在の日本で見られるのは、ほとんど(2)か(3)の誤った用法である。おそらく主観的には誤った用法との意識は無いのであろう。以前に触れた「朝鮮籍者は朝鮮民主主義人民共和国国民ではない!」と主張した共産党議員の「無償化」適用擁護論が悪意より発しているとは思わないが、結果としてこうした擁護論がもたらすのは、在日朝鮮人の権利の後退である。しかも、(2)は、(3)の朝鮮民主主義人民共和国と関係を有する教育機関は排除してよい、という主張について対決せず、事実上容認する論理に立つため、被害を拡大させることになる。

多くの場合、主観的には(2)の立場の人間は、自らを(1)と近しい立場であり、(3)とは敵対すると考えている。だから批判されると「何で味方なのに批判するんだ!」と逆ギレする場合が多い。しかし、実際に(2)が論理のレベルで対立しているのは(1)であり、(3)とは親和的である。むしろ、この(1)と(2)の対立が十分に認識されないところに、問題の深刻さがある(私の金明秀批判をめぐるnosなる人物の対応はその典型といえる)。

 いずれにしても、比較的よく使われる割には、「教育と外交は別」という言葉を用いる利点は無いように思える。使用を控えた方がいいのではないだろうか。
by kscykscy | 2012-05-16 00:00 | 朝鮮学校「無償化」排除問題

金明秀「朝鮮学校「無償化」除外問題Q&A」について――朝鮮学校と高校「無償化」問題⑬

 “SYNODOS JOURNAL”に金明秀「朝鮮学校「無償化」除外問題Q&A」が掲載された。
  http://webronza.asahi.com/synodos/2012051100001.html

  このQ&Aは、このブログで幾度か批判した、金のいうところの「リスク社会」における「新たな運動戦略」の実践篇とでもいうべき内容となっている。すでに朝鮮学校が再三述べてきた主張を取り入れている部分を除けば、金のオリジナルの部分の論理は前にも指摘したように『朝日新聞』のラインの無償化適用論であるといえる。さまざまな問題点があるが、ここではさしあたり重要な問題点に絞って指摘したい。

 *参考 
  朝鮮学校「無償化」排除問題 http://kscykscy.exblog.jp/i6
  抗議 http://kscykscy.exblog.jp/18212443/

  第一に、このQ&Aは朝鮮学校の教育「内容」に踏み込み、無償化排除問題を論じてしまっている。

 具体的に、金は朝鮮学校は「反日教育」をしておらず、朝鮮民主主義人民共和国とは異なる「教育制度」の「在日コリアンの学校」である、と主張する。しかし、無償化排除問題の焦点は朝鮮学校の教育「内容」ではない。こうした「反論」に有効性は無く、むしろ論点を朝鮮学校の教育「内容」へと固定する効果を生む。

 例えば「【Q9】反日教育をしている朝鮮学校に公金を支出するのは抵抗がある。」という問い。この問いへの正しい答えは、具体的な教育内容は就学支援金の支給とは関係がない、である。

 しかし、これに対し金明秀は、朝鮮学校では反日教育をしていない、と誤った答えを与える。しかも、その論証の方法は、20年近く前に実施された調査における、朝鮮学校に通ったことのある人間の各国への愛着度の提示、というものである。そもそも卒業生の意識は朝鮮学校で反日教育がなされていないことの直接的な「論拠」にはなりえない。もし、本当にこうした反論をするためには、当然ながら、朝鮮学校の教育「内容」の検討に踏み込まざるを得なくなる。そして実際、『産経』や極右知事はそうした方法を採っている。つまり、金の解答はそれ自体が不適切である上に、反論にすらなっていない。

 これでは「教育内容は変わったから適用しろ」(『朝日』)→「じゃあ見せてみろ」(『産経』・知事)→「見たんだから許してやれよ」(『朝日』)→「当日だけそうしたのではないか、もっと見せろ」(『産経』・知事)⇒「〔一緒に〕もっと見せろ」(『朝日』『産経』)の無限ループを止めることはできない。それどころか拍車をかけることになる。朝鮮学校の教育「内容」が論点であるという前提自体を許している限り、この状況を脱することはできない。

 そして、特に強調しておきたい重要なポイントだが、そもそも、現在の朝鮮高校無償化排除をめぐって知事や極右メディアが問題としているのは「反日教育」云々ではない。朝鮮民主主義人民共和国及び朝鮮総連との関係である。というよりも、おそらく排除派は現時点では「反日教育」問題を論点とすることを意識的に避けている。

 なぜか。もし「反日教育」問題として論を立てると、当然ながら韓国学校・中華学校の教育「内容」の問題にも飛び火することになり、アジア系の外国人学校全体を批判せざるを得なくなる。逆に言えば朝鮮学校と韓国・中華学校を連帯させかねない。おそらく排除派からすれば、民団が朝鮮学校の無償化排除に賛成して在日朝鮮人団体が分断している現状は大変好ましいものであり、わざわざ「反日教育」問題という新たな論点を立てるような真似はしないだろう。よって注意深くこの論点を避け、「拉致を行い不法なテロ国家である朝鮮民主主義人民共和国・朝鮮総連との関係」という問題から一点突破しようとしているものと思われる。しかも、この議論ならば、民団が極右に成り代わって主張しているように、民族的マイノリティの教育を否定しているわけではなく、朝鮮総連と関係を有する朝鮮学校を否定しているだけだ、という弁解が成り立つ。

 金は『人権と生活』のエッセイ以来、一貫して朝鮮学校の「反日教育」という論点を重視しているが、これはこうした現状を全く理解していないものといわざるを得ない。

 第二に、第一の問題と関連するが、このQ&Aは朝鮮学校を「民族的マイノリティの学校」としてのみ規定してしまっている。

 例えば、「【Q2】北朝鮮とは国交がなく朝鮮学校の教育内容を確認できないので、「高校無償化」の対象から外されているのではないか」という問いへの金の答えにそれは典型的に現れている。

 金は文科省令の以下の三類型、
(イ)高等学校に対応する外国の学校の課程と同等の課程を有するものとして当該外国の学校教育制度において位置付けられたもの
(ロ) その教育活動等について、文部科学大臣が指定する団体(国際的に実績のある評価機関)の認定を受けたもの
(ハ) 文部科学大臣が定めるところにより、高等学校の課程に類する課程を置くものと認められるもの
 のうち、朝鮮学校が(イ)には該当しないことを前提としている。しかし、常識的に考えれば朝鮮学校は明らかに(イ)に該当するはずであり、だからこそ、文科省は(イ)に該当させないための詭弁を弄したのである。そして、文科省は(ハ)にあたるかどうかというレベルへと問題を自らの都合のいいように後退させたのである。

 しかし金はこの点を理解せず、(イ)に該当しないことを大前提としてしまう。ここで金は「第二に、そもそも朝鮮学校は「北朝鮮の高校に相当する」学校ではありません。というのも、北朝鮮の学校と朝鮮学校とでは教育制度が異なるからです。北朝鮮では、幼稚園が1年、小学校4年、中学校6年の計11年が義務教育です。一方、朝鮮学校は日本の教育制度に合わせて6-3制をとっています。したがって、たとえ北朝鮮政府と外交関係があったとしても、「朝鮮学校が北朝鮮の高校に相当する」ことを証明できるかどうか極めて微妙です。」と述べる。

 これは韓国学校や中華学校と同じ適用ルートから朝鮮学校を外すことを、在日朝鮮人の側から主張してくれたわけであるから、文科省にとっては大変好ましいものといえる。文科省の詭弁の矛盾をつくことができない。

 しかも、ここでいう「外国の学校の課程と同等の課程を有する」とは、金のいうような朝鮮学校が「北朝鮮の高校に相当する」という意味ではない。(イ)ならば、その判断は朝鮮民主主義人民共和国側によるものとなるが、(ハ)のみ該当となると当然、文科大臣のみとなる。もちろん、だとしても文科省の除外措置は違法であるが、(イ)の可能性を除外してしまうのは大問題である。

 これは金がこのQ&Aにおいて、朝鮮学校は「北朝鮮の高校」ではなく、「民族的マイノリティの学校」として押し出す戦略を採ったことから帰結したものといえる。しかし、この結果、無償化排除後に現在地方自治体が行っている補助金削除における教育「内容」への干渉への有効な批判をなしえていない。

 また、金は「【Q8】閉鎖的な朝鮮学校の側にも問題がある。お互いに理解に向けて努力すべきでは」と問いを立て、「日本の新聞各社は朝鮮学校の「無償化」除外を批判しながら、一方で朝鮮学校も閉鎖性を改善すべきだと社説に書いています。どうやら、朝鮮学校が閉鎖的であるというイメージはずいぶん強固なようです」と答えて、朝鮮学校が閉鎖的でないことの説明を試みる。

 しかしこれは「反日教育」と同じく、問いの設定自体が極めて不正確である。金は「新聞各社」の具体名を挙げていないが、無償化適用賛成論の『朝日新聞』の場合、朝鮮学校が閉鎖的で問題があることの指摘は、さして重要なポイントではない。『朝日』らが重視しているのは、朝鮮学校の教育「内容」の変化と朝鮮総連との関係である。以前にも言及したが、例えば以下の二つの社説を見てみよう。
「だが在日の世代交代が進む中、教育内容は大きく変わった。大半の授業は朝鮮語で行われるが、朝鮮史といった科目以外は、日本の学習指導要領に準じたカリキュラムが組まれている。/北朝鮮の体制は支持しないが、民族の言葉や文化を大事にしたいとの思いで通わせる家庭も増えている。/かつては全校の教室に金日成、金正日父子の肖像画があったが、親たちの要望で小・中課程の教室からは外されている。そうした流れは、これからも強まっていくだろう。」(『朝日』社説、2010.2.24)

「在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)と結びついた学校のあり方にも疑念の声がある。文科省はそうした点にも踏み込み、調査を続けてきた。/その間の議論を通じ、学校側は開かれた教育への姿勢を示しつつある。教科書の記述も改める動きが出てきた。父母の間にも、祖国の「3代世襲」に違和感を持つ人はいる。教室に肖像画を掲げることも考え直す時期だろう。そして、自国の負の部分も教えるべきだ。/多様な学びの場の一つとして認めた上で、自主的改善を見守る。そんな関係を築けばよい。」(『朝日』社説、2012.3.3) 
  つまり、朝鮮学校の教育「内容」は、朝鮮民主主義人民共和国とは距離をとるものになっている、だから、適用すべきだ、と主張している。前提となっているのは、あくまで朝鮮民主主義人民共和国及び朝鮮総連との関係である。

 すでに述べたように、同じく、現在自治体や右翼メディアが問題としているのは「マイノリティの教育」の実践ではなく、また、「反日教育」の有無でもない。それは朝鮮民主主義人民共和国並びに朝鮮総連との関係であり、具体的に各知事は拉致問題を知事の指示通りに教授せよと干渉している。よって「民族的マイノリティの教育」を擁護することは、現行の無償化排除問題における有効な批判になりえず、むしろ『朝日』を初めとする朝鮮学校の教育「内容」修正=無償化適用論と相補的といえる。

 このように、金は排除派の主張に正面から反論しない。金は、在日朝鮮人の自主的な民族教育権(もちろんそこには朝鮮民主主義人民共和国の公民教育を行う権利も包含される)の擁護ではなく、むしろ朝鮮学校が「民族的マイノリティの教育」であると表象することによって迂回的にこれを「擁護」しようとするため、結果的には現在問題となっている排除継続への有効な反論となっていない。それどころか、むしろ論点を誤った方向へと誘導しかねない。

 これは、金が「【Q10】そもそもなぜ日本生まれの四世、五世にもなって民族教育を行う必要があるのか。日本の公立学校に通えばいいのでは。」という問いに対し、日本の公立学校の教育内容が日本人に限定された民族教育だからだ、と誤った答えを与えるところにも現れている。これでは民族教育の存在意義は、日本の公立学校の教育内容の改善問題と関連付けられることになってしまう。そもそも日本の公立学校における教育を「民族教育」と捉えるべきか疑わしいが、それはおくとしても、この理屈だと日本の公立教育が十分に多民族・多文化を尊重するものへと転換し生徒の「自尊心」が満たされるならば、朝鮮学校の存在意義は消滅する。しかし、朝鮮学校の存在意義は差別的な日本の学校の代替のみにあるわけではない。

 また、金は「移民の子孫は「国家と国家の懸け橋」にたとえられることがありますが、朝鮮学校出身者は日韓朝3か国の懸け橋になれる可能性を持った貴重な人材です。「反日教育をしている」といった根拠のない偏見によってその価値を否定するのは、とても残念なことです」と述べているが、こうしたこれまでウンザリするほど繰り返されてきたレトリックは、権利としての民族教育という視点を欠いた、在日朝鮮人を道具視するものであり、一部のマスコミ業界内在日朝鮮人を除けば、実態にすら合っていない。

 以上のみたようにこのQ&Aは、(1)朝鮮学校の教育「内容」という排除論者の土俵に乗ってしまっている、(2)排除論や巷間の「誤解」の焦点を「反日教育」問題であると誤解している、(3)朝鮮民主主義人民共和国との関係という排除論の主論点に関わることを回避し、「民族的マイノリティの学校」論へと逃げている、という問題を抱えている。これらはこれまで繰り返し指摘した金のエッセイ以来の問題点を継承したものといえる。しかし、同じく繰り返し述べてきたように、必要かつ有効なのは日本社会にとって受け容れられやすいものへと変化したことのアピールではなく、もちろん、在日朝鮮人の「懸け橋」アピールでもなく、在日朝鮮人の民族教育権の擁護/日本政府の不法性の徹底的な追及である。
by kscykscy | 2012-05-13 16:33 | 朝鮮学校「無償化」排除問題

続々・金明秀「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」批判

1.はじめに

 金明秀氏(以下、敬称略)が私の「抗議」に接し、一連のツイートを投稿した。しかし、ツイートは抗議への弁明や訂正ではなく、私の批判に対する反批判である。抗議に対する弁解は無い。本来ならば、これらの非難の撤回を前提とすべきだが、この度の金の反批判にも数多くの誤りが含まれているため、問題点に即して逐次検討したい。

*参考
金明秀「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」批判
続・金明秀「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」批判(以下、続編記事)
金明秀氏の筆者に対する不当な非難への抗議(以下、抗議記事)


2.「朝鮮大学校あたりの人」について

「ぼくがふと別件で書くことを思い立って、たまたまアクセスしなければ、半年だろうが一年だろうが読まれずに放置されていたわけでね。「緊急で…抗議する」というなら、こちらのツイートを読んだその場で@を付けて反論してくればいいものを。疲れるなぁこの人。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/195858336275632129

「別件というのは、(1)かつての記事からこの人を「朝鮮大学校あたりの人」と思い込んでいたが、続編の書きぶりは研究者の思考様式とは異なるので、おそらく見当外れの見立てだった、(2)同業者なら同じ土俵で論じることができるだろうにと書いたが、1を前提とするなら的外れだった、ということ。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/195859509506355200


 これは明らかにおかしい。抗議記事を読めば明らかなように、金が私を「朝鮮大学校あたりの人」だと推定したツイートは、続編記事についての感想としてつぶやかれたものだ。当然ながら、最初の記事への感想ではない。にもかかわらず、「かつての記事からこの人を「朝鮮大学校あたりの人」と思い込んでいたが、続編の書きぶりは研究者の思考様式とは異なるので、おそらく見当外れの見立てだった」とはどういうことだろうか。もし続編を読んで「見当はずれの見立てだった」と思ったのならば、なぜ続編記事に対し「朝鮮大学校あたりの人」と推測したのか。これは全く成り立たない弁解である。なぜこのような明らかに虚偽の弁明をするのか、私には理解しかねる。

 なお、念のため断っておくが、私は自らが「朝鮮大学校あたりの人」ではない、そのような推定は誤りだ、と弁明しているわけではない。前回の抗議記事でも書いたように、金のふるまいは、批判対象の属性を無根拠に推定し、かつ、その推定に基づき批判対象を不当に印象操作することによって、批判内容そのものの信頼性に打撃を加えようとする悪質な「人格攻撃」である、と主張しているのである。


3.「人格攻撃」について

「しかも、ぼくのツイート群をつまみ食いして印象操作かw それでよくも人格攻撃じゃないなどと言い張れたもんだな。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/195860662243700737


 私はつまみ食いではなく、関連するツイートを全文掲示し、私の批判が「人格攻撃」ではなく内容への批判であることの証明を試みた。確かに私の口調は激しいが、それは金の人格攻撃に向けられたわけではない。「つまみ食い」とは具体的にどの部分を指すのであろうか。金は根拠を提示すべきである。


4.「反日教育をしている朝鮮学校に日本国民の税金を支出するなど国益につながらない」との主張に対しては、「朝鮮学校は日本の国益につながっている」と反論するのが「有効な打撃を与える」リスク・コミュニケーションだ、という金の主張は誤っている、という私の批判について

「愛読者になっていただいたらしいから、あなたが設定したアジェンダに沿って答えてあげましょう。論点1はエビデンスがない。つまりはあなたの思い込みです。一方のぼくはといえば、傍証ぐらいはあります。一応はプロの研究者なのでね。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/195861654112698368


 これは反論というより、最大限好意的に解釈しても反論の予告である。私としては新たな反論をする必要を感じないため、初めの批判記事の該当箇所を再掲するに留める。

 「「リスク社会」云々は一種のハッタリと考えられるので無視して構わないだろう。ここでの核心は、高校「無償化」除外に対し在日朝鮮人は「朝鮮学校は日本の国益につながっている」と反論するのが有効だ、という部分にある。さて、在日朝鮮人は高校「無償化」除外に際し、「朝鮮学校は日本の国益につながっている」と反論するべきだろうか。また、そうした反論は果たして有効だろうか。
 現状をみるに、確かに朝鮮高校や在日朝鮮人団体のうち、「朝鮮学校は日本の国益につながっている」という理屈で「無償化」除外反対を訴えるものはいない。理由は明白であろう。そもそも事実に反するからである。朝鮮学校は在日朝鮮人の民族教育のために存在しているのであり、「日本の国益」とは無関係である。市民社会に訴えるために「日本の多文化共生に役立っている」くらいは言っている朝鮮人団体もあるかもしれないが(それ自体大変危うい主張であると思うが)、さすがに「朝鮮学校は日本の国益につながっている」はない。
 何より、「日本の国益につながっている」などという理屈は事実に反する上、これまで日本政府の弾圧政策にも屈せず民族教育を継続し、担ってきた在日朝鮮人一人ひとりの歴史と尊厳を毀損するものである。金明秀氏のいうように「朝鮮学校は日本の国益につながっている」という理屈を用いて仮に「無償化」適用となったとしても、私は、その後永久に朝鮮学校は「日本の国益」という鎖につながれ、また、数多くの在日朝鮮人の尊厳を傷つけることにより、金銭ではあがないきれないほどの大きな「損害」を蒙ることになるのではないかと考える。」(「金明秀「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」批判」



5.「反日教育をしている朝鮮学校に日本国民の税金を支出するなど国益につながらない」との主張に対しては、「朝鮮学校は日本の国益につながっている」と反論するのが「有効な打撃を与える」リスク・コミュニケーションだ、という金の主張には有効性が無い、という私の批判について

「論点2もあなたの思い込み。『人権と生活』にも書いたとおり、この点に関するぼくの主張は多数のエビデンスを前提としている。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/195862078123278336


 これも同様であるため、私の批判を再掲する。

 「ただ、「朝鮮学校は日本の国益につながっている」というレトリックはおそらく「有効」ですらない。金明秀氏は「有効な打撃」を与えうると主張しているが、実際にはむしろ逆の効果しか生まないことは明らかだ。そもそも、「日本の国益」という言葉は、その性質上日本政府あるいは日本人マジョリティに独占的な解釈権がある。一度「朝鮮学校は日本の国益につながっている」などというレトリックを用いたが最後、今般の情勢をみればわかるように、政府や自治体、マスコミ、右翼、ネットイナゴが朝鮮学校に押し寄せて「日本の国益」に反する「事実」を無限に挙げ続けるだろう。これに反論するのは困難である。何より金明秀氏自身が認めているように、「この種のデマは事実に基づいて形成されるのでなく、情動的側面が強いため、反証する事実を示すだけでは修正されにくい。しかも、「反日教育」というあいまいで都合のよいマジックワードが、あらゆる反論を無効化してしまう」からである。よって有効ですらない。」(「金明秀「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」批判」


6.金は自らの主張は「ネトウヨ」の「認識フレーム」を転換させるものだ、と主張したが、金の主張はむしろその「認識フレーム」にとどまることを積極的に主張したものである、という私の批判について

「論点3。ぼくは「ネトウヨ」の「フレーム」を転換するということは論じていないつもりなのだけどね。いま自分の原稿を確認してみたが、やはり書いていない。藁人形を勝手にこしらえてぼくの名前を張り付けられても、それはぼくじゃないよ。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/195863162929688576


 これはあまりに明白な言いがかりである。金は2012年1月9日、私の批判への弁解として、次のようにつぶやいた。

「ぼくが試行錯誤して見つけた中では、「朝鮮学校は日本の国益になる」というレトリックがネトウヨの認識フレームを揺るがす効果を持っているというだけの話。手段として有効な別のレトリックがあるなら、それを使えばいい。 @gurugurian @mujigedari」
https://twitter.com/#!/han_org/status/156291332254613504


 このように、金は明確に「「朝鮮学校は日本の国益になる」というレトリックがネトウヨの認識フレームを揺るがす効果を持っているというだけの話」と自らのエッセイについて補足説明をした。私は決して揚げ足をとっているわけではない。そもそもこのツイートがあったからこそ、私は「ネトウヨ」の「認識フレーム」云々に言及したのである。しかも、私は続編記事でわざわざこのツイートを引用し、次のように批判した。

「しかし、一方で金は、私の批判への弁明として「あのエッセイで最も重要な論点は、認識のフレームを転換するような運動が必要だということ」「「朝鮮学校は日本の国益になる」というレトリックがネトウヨの認識フレームを揺るがす効果を持っているというだけ」とも述べている。しかし、「朝鮮学校は日本の国益になる」というレトリックは、「国益になるなら無償化してやる」という「認識フレーム」を前提にしている。「国益にならない」と思ってる「ネトウヨ」に、いや国益になるよ、と言い返すことが「認識フレームを揺るがす」ものではないことは明らかである。金は「国家の敵」云々の箇所でも「その不正義を許容できるのか」と結論をぼかして書いているが、これはおそらく「その不正義を許容して、それを前提に戦うべきだ」と書いてしまうとあからさまに卑屈であるため言いづらいが(実際には金の主張は卑屈なのだが)、「その不正義を許容すべきではない」と書くと自らのエッセイと矛盾することになるからだろう。」(「続・金明秀「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」批判」)

 以上の事実から、私に対する「藁人形を勝手にこしらえてぼくの名前を張り付けられても、それはぼくじゃないよ」という批判はあたらない。金への批判としては上に掲げた主張に付け加えるものは無い。


7.金は「歴史的、現在的日本の加害を問わない、日本国民国家の枠組みの中での「多文化共生論」や「在日論」などは、抑圧者の論理と支配に加担する犯罪行為だとさえいえる」との徐勝の主張を好意的に引用し賞賛しているが、むしろ金の主張こそが「日本国民国家の枠組みの中での「多文化共生論」や「在日論」」である、という私の批判について

「論点4。あなたがまったく理解できていない重要な論点が少なくとも2つあり、その一つがここだ。ナショナリズムと一口に言っても、多様なスタイルが実践され、提案され続けている。あなたが70年代的なナショナリズムしか想定できないからといって、ぼくもそうだと決めつけられては困る。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/195864159123021827


 確かに私には、金のこのツイートも含めて、なぜ金が徐勝氏の批判を肯定的に引用するのか理解できない。

 むしろ金のエッセイの趣旨からすれば、徐勝の主張は批判の対象になるのではないだろうか。なぜなら、金は短期的に見た場合、マジョリティの認識フレームを転換させるのは困難であるから、その枠内での主張を行うべきだ、と主張しているからである。これはあてこすりではなく、単純に論理の問題として徐勝の指摘は金のエッセイの主張とは全く異なるものであり、むしろ金の主張は徐勝の批判対象であると思う。もちろん、私は金の主張と徐勝のそれが異なること自体が非難の対象になるとは思わない。率直に言って、単純に論理のレベルでなぜ金が徐勝氏のあの指摘を賞賛するのか私には理解できない。ただ、その要因は、私の理解力の不足ではなく、金の自説に対する理解力の貧しさにあると考える。


8.金は、宮台との論争についての私の記事が「誤解」であると主張するが、誤解ではない、という私の主張について

「論点5。ぼくは宮台氏に粘着しているわけではないので、彼がその後どういう主張を展開しているか知る由もない。が、あの議論の場面で彼は自説の誤りを明確に撤回し、その後は少なくともぼくが知るかぎり、ぼくが批判した内容の発言はしていない。あなたはリアルタイムで見てたわけじゃないんでしょ?」
https://twitter.com/#!/han_org/status/195865270777167872


 ここにも問題のすりかえがある。私は以前、金と宮台のやり取りについて次のように記した。

「つまり、宮台によれば日本政府は「『在日=強制連行』図式」を前提に在日朝鮮人の法的地位に関する政策を採ってきたのであるが、その「図式」は虚偽であるため「在日政策」も変更すべきである、ということになる。よって特別永住外国人が日本国籍を取得しないまま地方参政権を取得することには反対だ、というわけだ。
 宮台の議論については金明秀がこれを批判して、両者の間に若干の論争があったようだが、この部分については全く触れられぬまま終息を迎えたようである。私は宮台の議論は「『帰化すればいい』という傲慢」ともいえるものであり、ヘイト・スピーチであるという金明秀の結論に賛同するのであるが、なぜ金がこの点に触れず、また、宮台がこの説を維持しているのにも関わらず矛をおさめて和解したのか理解しかねる。
 問題点は極めて単純である。宮台のいうところの「『在日=強制連行』図式」に則って日本政府が「在日政策」を立てたことなどあるのか、ということである。私の知る限りそんなことは一度も無かった。もしあるというなら宮台は論拠を示すべきだろう(まさか小学校時代の教師の言が証拠とでもいうのだろうか)。」(「戦後日本政府の在日朝鮮人「政策」と強制連行問題」)


 また、続編記事で私は次のように記した。

 「実はこのブログで金に言及したのは今回が初めてではなく、以前にも一度宮台真司の問題と関連して触れたことがある(戦後日本政府の在日朝鮮人「政策」と強制連行問題)。
 その時私は、宮台が、日本政府がこれまで現存する在日朝鮮人の大多数は強制連行による被連行者及びその子孫であるという「図式」に基き「在日政策」を立ててきた、という驚愕の新説を主張したことに触れ、金がなぜ宮台がこの主張を取り下げていないにもかかわらず和解したのだろうか、と書いた。これに対し、金は「ありゃ、kscykscy氏に誤解されておる。ちょっと凹むなぁ。その「驚愕の新説」を取り下げたので「矛をおさめて和解した」のだけど…。」とあたかも私が「誤解」したかのようにつぶやいた。
しかし、少なくともネット上にある文章を見た限りでは、宮台は、日本政府がこれまで現存する在日朝鮮人の大多数は強制連行による被連行者及びその子孫であるという「図式」に基き「在日政策」を立ててきた、という認識を誤りとは認めておらず、私は誤解だとは思っていない。もし誤解というなら証拠を示すべきだろう。」(「続・金明秀「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」批判」)


 ここからもわかるように、私は論争の「その後」の宮台の主張を問題にしたわけではない。

 私は論争を「リアルタイム」で読んでいたが、なぜ宮台が、日本政府がこれまで現存する在日朝鮮人の大多数は強制連行による被連行者及びその子孫であるという「図式」に基き「在日政策」を立ててきた、という主張を修正していないにもかかわらず、金が批判の矛を収めたのか純粋に疑問に思ったのである。金も日本政府がこのような認識を前提に在日朝鮮人への政策を立てたとは思っていないであろうから、不思議に思い、それを指摘したのである。しかしこれに対し、上に挙げたように、金はその指摘は私の「誤解」であるとツイートした。

 確かに宮台は自説の一部を修正した。しかし、当時の宮台のツイートをみる限りでは(私も「その後」の宮台のツイートは見ていない)、上記の点についての自説修正は無かった。このため、金による「誤解」との指摘は大変意外であった。私としてもそれなりに探索したが、現時点では金による私の主張が「誤解」だとする指摘は妥当性を欠くものであると考えている。


9.「リスク社会」というハッタリについて

 「さて、あなたが自分で設定したアジェンダは以上の5点だったみたいだけど、大事な論点が一つ抜けてるんだよね。「金のいう「リスク社会」云々はハッタリである」というあなたの認識の妥当性だ。先ほど書いた、あなたが理解できていないことの一つがそれ。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/195865754778865664

 「なるほど、「ハッタリ」だという指摘は完全な誤りというわけでもない。震災直後、リスク論に世間の注目が集まっていたので、いい機会だと思って名前を借りたという側面は確かにある。また、本来の論点は「再帰的近代における他者論」なので、ベックよりもさらに適切な研究者はいる。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/195866565894356993

 「でもね、「再帰的近代(あるいはリスク社会あるいは排除型社会)における他者」という問題設定そのものはハッタリじゃないんだよ。あなたの言うとおり、ベックはそういう趣旨では書いてないんだけど、この分野ではむしろオーソドックスな問題設定なんだ。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/195867108020723712


 この金の弁明に、私は正直困惑せざるを得ない。エッセイを読めば誰しも理解できると思うが、金は明らかに「リスク社会における「他者」」を論じると表明し、ベックを参照した。しかし、ここに至ってエッセイの「本来の論点は「再帰的近代における他者論」」である、論点を理解しろという。後出しジャンケンそのものである。率直に言って、あのエッセイから「「再帰的近代における他者論」という「本来の論点」」を見抜くことなど不可能である。また、「再帰的近代」と「リスク社会」そして「排除型社会」は明らかに異なる概念である。これを安易に並列して、付け足し的に言い逃れようとする姿勢には「社会学者」としての誠実さを疑わざるを得ない。

 また、私は「「リスク社会における「他者」」という問題設定そのもの」がハッタリであると述べているのではない。私は続編記事で次のように記した。

 「ちなみに、前回の記事で私は金のいう「リスク社会」云々はハッタリであると書いた。理由は金のベックからの引用はほとんど意味がないからだ。確かにベックは「危険社会」がスケープゴート社会への内在的な傾向を含んでいると指摘しているが、その際に、「他者」の側が「リスク・コミュニケーション」をする必要があるなどとは一言も書いてない。金のベックからの引用はすべて『危険社会』からのものだが、そもそも「リスク・コミュニケーション」なる語自体が『危険社会』には登場しない。よって私はベックへの言及はその社会科学的分析を前提にするためではなく、自らの主張を粉飾するためのハッタリと判断した。エッセイは金の地の文章として読めばそれで十分である。」。」(「続・金明秀「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」批判」)
 

 ここからもわかるように、私は金によるベックの引用そのものがハッタリである、と述べた。エッセイにおける金の主張の根幹をなす部分はベックとは何ら関係ないため、あくまで金の地の文章としてエッセイを読めば十分だ、と指摘したのである。

 なお、誤解を避けるために断っておくが、私はハッタリとしてのベックの引用自体を非難するつもりもない。短いエッセイであるから、引用が断片的になることは十分ありうる。しかし、あのエッセイには、「リスク・コミュニケーション」云々についてもベックが主張しているかのように読めてしまう不親切さがある。このため、ベックとは無関係に、金の地の文として読めば十分であると釘を刺したのである。もちろん、ベックと無関係な金の地の文であることが、それ自体として文章の妥当性を損なうものでもない。

 「日本(と朝鮮籍在日)に固有の問題ももちろんある。歴史性を度外視しては何も語れない。でもその一方で、これは世界的に同時に進行している現象の一部という側面もある。その両者を視野に入れることで、この困難な状況を生き抜く活路を見出そうというのが『人権と生活』のエッセイの趣旨だった。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/195868220891217920

 「ぼくは何度も何度もそのことを指摘したはずだが、あなたは一貫してその論点をスルーした。それこそ、この問題を認識するフレームを持ち合わせていないか、あるいは意図的にぼくの論点を矮小化しようとしているかのいずれかでしょうね。いずれにせよ、議論が成立する状況じゃない。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/195868864616214528


 「~という側面もある」までの箇所は、「日本(と朝鮮籍在日)」と並列する意味が不明なのを除けば、一般論としては同意する。しかし、金のエッセイは、日本の固有性と、世界的な同時進行現象であるという側面「を視野に入れることで、この困難な状況を生き抜く活路を見出そうという趣旨」に留まるものではない。これについてはすでに再三述べたので、繰り返す必要はないと思う。また、金は「何度も何度もそのことを指摘したはずだが、あなたは一貫してその論点をスルーした」と述べているが、私は金のベックを援用した「リスク社会」及び「リスク・コミュニケーション」論はベックとは関係の無いハッタリである、とすでに述べた。「ハッタリ」については、上に挙げたツイートで明らかなように金自身も認めている。私は決して論点をスルーしていない。


10.結び

「批判自体は歓迎です。それが適切な論点であれば、なおありがたい。でも、あなたの続編以降のそれは、批判という形式をかたった攻撃感情の発露でしかない。自分の正義に酔っぱらっていると、落とし穴に落ちますよ。」
https://twitter.com/#!/han_org/status/195870277870161921


 以上からもわかるように、私の批判は金に対する「攻撃感情の発露」ではなく、金の主張への批判である。私は金の人格に問題があると言っているのではなく、また、金を攻撃することそのものを目的にしているのでもなく、金の主張が誤っている、と述べているのである。

 また、前回の抗議の繰り返しとなるが、金に対し、私の主張が「陰で人格攻撃」「卑劣な対応」「言いがかり」「主張の内容ではなく人格を攻撃する愚論」であるという非難を撤回することを求めて、この記事の結びとしたい。
by kscykscy | 2012-04-28 00:00 | 朝鮮学校「無償化」排除問題

続・金明秀「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」批判

 ZED氏の記事「金明秀という男について」には教えられるところが多かった。なかでも、金明秀氏(以下、敬称略)の議論ではネット右翼や極右政治家は批判できても「より巧妙で悪質な差別主義者や抑圧者」への反撃になりえないという指摘は、正鵠を射たものだと思う。例えば少し前の『朝日』の社説は次のように書いた(「朝鮮学校―無償化の結論だすとき」『朝日』2012.3.3)

「在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)と結びついた学校のあり方にも疑念の声がある。文科省はそうした点にも踏み込み、調査を続けてきた。/その間の議論を通じ、学校側は開かれた教育への姿勢を示しつつある。教科書の記述も改める動きが出てきた。父母の間にも、祖国の「3代世襲」に違和感を持つ人はいる。教室に肖像画を掲げることも考え直す時期だろう。そして、自国の負の部分も教えるべきだ。/多様な学びの場の一つとして認めた上で、自主的改善を見守る。そんな関係を築けばよい。/歴史を思えば、私たちは在日の人たちとその社会をもっと知る努力をすべきだ。/韓流ドラマの翻訳を支えるのは民族の言葉を学んだ在日だ。年末の全国高校ラグビーには、大阪朝鮮高校がホームタウンの代表として3年連続で出た。彼らは北朝鮮だけを背負っているわけではない。生まれ育った国と祖国の間で悩み、揺れながら生きる若者がいる。/なぜ自分たちがハンディを負わされるのか――。政治の動きに巻き込まれ、生徒たちは苦しんできた。アウェーの寒風をいつまでも浴びせてはならない。」 

 『朝日』は「その間の議論を通じ、学校側は開かれた教育への姿勢を示しつつある」と書いているが、事実の問題として、この間あったことは「議論」ではない。就学支援金と補助金をダシにした政府、国会議員、知事、都道府県議会議員とマスコミによる恫喝である。朝鮮学校と文科省が対等の立場で「議論」する場が設けられたことは一度も無いにもかかわらず、『朝日』はこの間の恫喝を「議論」と強弁して、そろそろ「無償化」を適用したらどうか、と主張している。しかも「自主的改善を見守る」と、以後の教育内容の監視まで宣言している。

 繰り返しになるが、この二年間の朝鮮学校への教育干渉に責任を負っているのは『産経』や極右政治家だけではない。『朝日』も、朝鮮学校の教育内容の修正をもって無償化の条件とする点では極右と同一の立場に立っている。問題は、文科省は各種学校の外国人学校も就学支援金の対象とすると言っておきながら、なぜ朝鮮学校だけ「学校のあり方」を調査するのか、であり、問われるべきは文科省の行為の違法性である。にもかかわらず、朝鮮学校の「法令違反」が云々されている。

 この点を一切問わず、暴力的な恫喝を「議論」と言い換え、教育内容への干渉を実質的に肯定しながら、上から目線で「無償化」が適用を促す(それも「北風と太陽」を連想させる比ゆを用いて)。『朝日』は朝鮮高校生への「無償化」適用が争点となった当初から、このラインで主張を展開し続けた。『朝日』はZED氏のいうところの「より巧妙で悪質な差別主義者」の典型といえよう。自らの立場の脆さをそれなりに自覚している文科省は、朝鮮高校生を全面的に排除する理屈が容易に見つからないため、知事が「法令違反」を探し出すのを待ちながら「審査中」という方便を繰り返している。よって、右派が騒ぐことにより朝鮮学校の教育内容や朝鮮総連との関係という虚偽の争点が注目されるのは、文科省にとっては大変都合がよい。

 こうした状況を踏まえるならば、金明秀の主張の問題は明らかである。金は『朝日』の論理を朝鮮人側から語りなおすことを促しているのである。むしろ、『朝日』ですら使っていない「朝鮮学校は日本の国益につながっている」というレトリックを用いており、金のほうがより踏み込んでいるともいえる。金の議論は全く新しいものではなく、むしろ『朝日』のような「より巧妙で悪質な差別主義者」の議論に沿うものである。これは文科省にとっては大変都合がいいため、運動戦略という観点からも全く有効でない。

 ちなみに、前回の記事で私は金のいう「リスク社会」云々はハッタリであると書いた。理由は金のベックからの引用はほとんど意味がないからだ。確かにベックは「危険社会」がスケープゴート社会への内在的な傾向を含んでいると指摘しているが、その際に、「他者」の側が「リスク・コミュニケーション」をする必要があるなどとは一言も書いてない。金のベックからの引用はすべて『危険社会』からのものだが、そもそも「リスク・コミュニケーション」なる語自体が『危険社会』には登場しない。よって私はベックへの言及はその社会科学的分析を前提にするためではなく、自らの主張を粉飾するためのハッタリと判断した。エッセイは金の地の文章として読めばそれで十分である。

 さて一方の金はというと正面から反論するわけでもなく、ツイッターで断片的な弁明を続けている。自分を批判したら朝鮮学校の子どもたちにとばっちりがいくぞ、と言わんばかりの恫喝つぶやきには、率直に言って嫌悪感しか抱かないが、それでも反論らしきものが書いてあるのは、あるフォロワーが金に「お気持ちはよく分かるのですが、在日が「国益」になる/ならないという判断の下に置かれるということは、いつでも恣意的に”ならない”に振り捨てられるということでもあり、「認識フレームを転換する」ことにはならないのでは」というまっとうな質問をしてからだ。この質問は基本的に私の金への批判と同じ理屈である。以下はその問いへの金の反応である。

https://twitter.com/#!/han_org/status/156351008631554048
「3つの観点からお答えします。一つは、外国籍住民はつねに/すでに「国益になる/ならない」という判断にされされてきたということ。在日の場合、恣意的に「国益にならない」と規定されてきたのはデフォルトです。ならば、それを前提に戦略を立てるべきだという話。 @unspiritualized」

https://twitter.com/#!/han_org/status/156352461119045632
「もう一つは、短期的な運動課題と中長期的な運動課題とを弁別すべきだということ。ナショナリズムを超克する制度の創出によって問題を根本的に解消するという理想も数十年スパンの課題として考えるべきでしょう。でも、現状でやれることも推進すべきです。 @unspiritualized」

https://twitter.com/#!/han_org/status/156354131387367425
「最後に、運動のターゲットの問題。「フレームを転換する」というとき、国家による外国人政策のフレームも問題となりますが、個々のマジョリティの認識フレームも同様に重要です。前者は法律を盾に改善を迫ることもできますが、後者は理詰めだけでは動きません。 @unspiritualized」

https://twitter.com/#!/han_org/status/156369577893298177
「もともと、日本人読者のうち、「国益」レトリックの適用自体に違和感を覚えるような方や、損得抜きに同じ住民だという実感を持っている方は、あのエッセイの直接の想定読者ではありませんでした。 @unspiritualized」

https://twitter.com/#!/han_org/status/156370926978605058
「ただし、「国益」レトリックに次のようなメタメッセージは込めました。(1)朝鮮学校の生徒たちは《国家の敵》として人権侵害にあっている。(2)在日は《国家の敵》でないことを主張せざるをえないところに追い込まれている。その不正義を許容できるのか。 @unspiritualized」

https://twitter.com/#!/han_org/status/156373673744400384
「エッセイにも書いたとおり、「その移民集団が当該社会の利益になっている」という理解は、多くの国で排外意識を引き下げているという証拠があります。また(続く) @unspiritualized」

https://twitter.com/#!/han_org/status/156374397270237185
「ぼくがあのエッセイに込めたメタメッセージの一つは、「マジョリティである自覚を持て」というものでした。根拠のない不安によってスケープゴートを不法に排除したり、踏み絵を踏ませたりする特権を持つ立場だと。(続く) @unspiritualized」

https://twitter.com/#!/han_org/status/156375254405627905
「そのために、使用する用語も、分析視角も、意図的にマジョリティ目線をたどったつもりです。日本人の特権性をマジョリティ目線で可視化するという拙い意図が成功したかどうか、まあ怪しいところではありますが。 @unspiritualized」

https://twitter.com/#!/han_org/status/156377721595891713
「結局、あれかな。あのエッセイもメタメッセージを込めすぎた失敗例だろうか。意外と文脈が共有されないな。」

https://twitter.com/#!/han_org/status/156380318302093312
「「国益」レトリックは、国家の犠牲になっている現実を可視化するためのカウンターとして用いたものですが、「国益につながらなければ排除してよい」という反応は別途、問題化されなければなりません。 @unspiritualized」


 大変わかりづらい「つぶやき」である。おそらく大意は、①在日は「国益になる/ならない」という判断にさらされてきた。よってそれを前提に戦うべきである、②「ナショナリズムを超克する制度の創出によって問題を根本的に解消する」のみならず、短期的には「現状でやれることも推進すべき」である、③国家による外国人政策のフレームは「法律を盾に改善を迫ることもでき」るが、「個々のマジョリティの認識フレーム」は「理詰めだけでは動」かない、の三点ということになるだろう。

 これは基本的にエッセイで金が書いたことの繰り返しである。すなわち、在日朝鮮人は「国益になる/ならない」という「認識フレーム」を前提に戦うべきであり、それが有効だ、というものだ。よって、フォロワーの「在日が「国益」になる/ならないという判断の下に置かれるということは、いつでも恣意的に”ならない”に振り捨てられるということでもあり、「認識フレームを転換する」ことにはならないのでは」との疑問に対しては、「認識フレームを転換する」必要はありませんし、そもそもすぐにはできません、というのが金の回答になるはずである。

 しかし、一方で金は、私の批判への弁明として「あのエッセイで最も重要な論点は、認識のフレームを転換するような運動が必要だということ」「「朝鮮学校は日本の国益になる」というレトリックがネトウヨの認識フレームを揺るがす効果を持っているというだけ」とも述べている。しかし、「朝鮮学校は日本の国益になる」というレトリックは、「国益になるなら無償化してやる」という「認識フレーム」を前提にしている。「国益にならない」と思ってる「ネトウヨ」に、いや国益になるよ、と言い返すことが「認識フレームを揺るがす」ものではないことは明らかである。金は「国家の敵」云々の箇所でも「その不正義を許容できるのか」と結論をぼかして書いているが、これはおそらく「その不正義を許容して、それを前提に戦うべきだ」と書いてしまうとあからさまに卑屈であるため言いづらいが(実際には金の主張は卑屈なのだが)、「その不正義を許容すべきではない」と書くと自らのエッセイと矛盾することになるからだろう。

 こうした明らかに矛盾したメッセージを読者に示しているにもかかわらず、金は「あのエッセイもメタメッセージを込めすぎた失敗例だろうか。意外と文脈が共有されないな」と読者に責任転嫁する。だが、以上みたように金のエッセイとその後の弁明が「理解」されないのは、読み手の責任ではない。金の主張が支離滅裂だからである。真面目に金のエッセイと「つぶやき」に付き合っている読者に失礼である。

 
 ちなみに金は、徐勝氏の「東アジアの諸民族や朝鮮民族の奪われた諸権利の回復こそが、われわれの「正義」であるので、歴史的、現在的日本の加害を問わない、日本国民国家の枠組みの中での「多文化共生論」や「在日論」などは、抑圧者の論理と支配に加担する犯罪行為だとさえいえる」という指摘に対し、「そう、これぞまさに正論。たとえ同種の言説に聞こえようとも、左翼ナショナリズムの枠内から発せられるそれとは根本的に異なる。」「民族的マイノリティにとっての左翼ナショナリズムって麻薬のようなものだね。安定的な貴族の物語に酔っぱらい、実態とのかい離を冷静に見つめる視座をマヒさせる。しかも、祖国ナショナリズムに準拠しながら居住国ナショナリズムを撃つという矛盾にも気づかなくなる。」 とつぶやいているが、金のエッセイは「日本国民国家の枠組みの中での「多文化共生論」や「在日論」」の典型である。自らの主張が「犯罪行為」と名指されているのにそれに気づかないのは喜劇である。

 今回の件もそうだが、金は問いに対して正面から答えようとせず、批判者にレッテルを貼ることで批判の陳腐化を図る傾向がある。実はこのブログで金に言及したのは今回が初めてではなく、以前にも一度宮台真司の問題と関連して触れたことがある(戦後日本政府の在日朝鮮人「政策」と強制連行問題)。

 その時私は、宮台が、日本政府がこれまで現存する在日朝鮮人の大多数は強制連行による被連行者及びその子孫であるという「図式」に基き「在日政策」を立ててきた、という驚愕の新説を主張したことに触れ、金がなぜ宮台がこの主張を取り下げていないにもかかわらず和解したのだろうか、と書いた。これに対し、金は「ありゃ、kscykscy氏に誤解されておる。ちょっと凹むなぁ。その「驚愕の新説」を取り下げたので「矛をおさめて和解した」のだけど…。」とあたかも私が「誤解」したかのようにつぶやいた。

 しかし、少なくともネット上にある文章を見た限りでは、宮台は、日本政府がこれまで現存する在日朝鮮人の大多数は強制連行による被連行者及びその子孫であるという「図式」に基き「在日政策」を立ててきた、という認識を誤りとは認めておらず、私は誤解だとは思っていない。もし誤解というなら証拠を示すべきだろう。以前は面倒だったのでわざわざ書かなかったが、いい機会なのでこの場を借りて付言しておく。
by kscykscy | 2012-04-01 00:00 | 朝鮮学校「無償化」排除問題

金明秀「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」批判

 前回と同様発表から若干時間が経っているが、社会学者の金明秀氏が昨年書いた「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」という文章がある。はじめ在日本朝鮮人人権協会発行の『人権と生活』に掲載され、現在は加筆・修正の上、金明秀氏自らが管理するサイトにアップされている。これは在日朝鮮人の「民族運動」に対する一種の「提言」であるが、その内容は大変危うい。少し日が経ってしまったが、まかり間違えてこの提言が受け入れられることのないよう、ここに批判を記す次第である。

  金明秀氏の主張は次のように要約できる。現代日本は「リスク社会」になったのだから、在日朝鮮人も「人権」「平等」などの「近代の市民的規範」を訴えるばかりではだめだ、リスク・コミュニケーションが必要だ。そして、「反日教育をしている朝鮮学校に日本国民の税金を支出するなど国益につながらない」との主張に対しては、「朝鮮学校は日本の国益につながっている」と反論するのが「有効な打撃を与える」リスク・コミュニケーションだ、と述べている。

  「リスク社会」云々は一種のハッタリと考えられるので無視して構わないだろう。ここでの核心は、高校「無償化」除外に対し在日朝鮮人は「朝鮮学校は日本の国益につながっている」と反論するのが有効だ、という部分にある。さて、在日朝鮮人は高校「無償化」除外に際し、「朝鮮学校は日本の国益につながっている」と反論するべきだろうか。また、そうした反論は果たして有効だろうか。

 現状をみるに、確かに朝鮮高校や在日朝鮮人団体のうち、「朝鮮学校は日本の国益につながっている」という理屈で「無償化」除外反対を訴えるものはいない。理由は明白であろう。そもそも事実に反するからである。朝鮮学校は在日朝鮮人の民族教育のために存在しているのであり、「日本の国益」とは無関係である。市民社会に訴えるために「日本の多文化共生に役立っている」くらいは言っている朝鮮人団体もあるかもしれないが(それ自体大変危うい主張であると思うが)、さすがに「朝鮮学校は日本の国益につながっている」はない。

 何より、「日本の国益につながっている」などという理屈は事実に反する上、これまで日本政府の弾圧政策にも屈せず民族教育を継続し、担ってきた在日朝鮮人一人ひとりの歴史と尊厳を毀損するものである。金明秀氏のいうように「朝鮮学校は日本の国益につながっている」という理屈を用いて仮に「無償化」適用となったとしても、私は、その後永久に朝鮮学校は「日本の国益」という鎖につながれ、また、数多くの在日朝鮮人の尊厳を傷つけることにより、金銭ではあがないきれないほどの大きな「損害」を蒙ることになるのではないかと考える。

 ただ、「朝鮮学校は日本の国益につながっている」というレトリックはおそらく「有効」ですらない。金明秀氏は「有効な打撃」を与えうると主張しているが、実際にはむしろ逆の効果しか生まないことは明らかだ。そもそも、「日本の国益」という言葉は、その性質上日本政府あるいは日本人マジョリティに独占的な解釈権がある。一度「朝鮮学校は日本の国益につながっている」などというレトリックを用いたが最後、今般の情勢をみればわかるように、政府や自治体、マスコミ、右翼、ネットイナゴが朝鮮学校に押し寄せて「日本の国益」に反する「事実」を無限に挙げ続けるだろう。これに反論するのは困難である。何より金明秀氏自身が認めているように、「この種のデマは事実に基づいて形成されるのでなく、情動的側面が強いため、反証する事実を示すだけでは修正されにくい。しかも、「反日教育」というあいまいで都合のよいマジックワードが、あらゆる反論を無効化してしまう」からである。よって有効ですらない。

 さて、金明秀氏は結びの部分で、こうした批判を想定していたとでもいわんばかりの調子で、次のように記している。

 「祖国志向の強い在日コリアンであれば、「朝鮮学校の存在が日本のためになる」という発想そのものを嫌悪するかもしれない。また、「あなたたちの役に立っているのでいじめないでください」とでもいわんばかりのリスク・コミュニケーション戦略に、強い屈辱を感じる人も少なくはないだろう。
 しかし、そういう人に考えてもらいたいことが二つある。
 一つは、「移民はこの国の役に立つ」と信じている人ほど移民に悪感情を持たない(逆にいえば、「移民はこの国の厄介者だ」と信じている人ほど移民の排斥に賛成する)ということだ。この命題は、世界各国の調査で手堅く支持されている。
 たしかに、在日コリアンがこの国の厄介者だという信念は、まことに馬鹿げたものである。世界の民族状況を知れば、在日コリアンはむしろ「モデル・マイノリティ」と呼べる理想的な隣人であることがわかるはずだ。とはいえ、いかにナンセンスであろうとも、実際にそういう誤解と偏見が流布してしまっているなら、それを払しょくするために合理的な努力をせざるをえまい。
 もう一つは、朝連解散以降、在日コリアンは、実際に日本社会において「リスク」とみなされないように努力してきたという歴史だ。前述した通り、在日コリアンは、差別と不平等にあえぎながら、それを克服して日本人と相同の社会的地位を形成してきた。
 世界中の国家が民族的マイノリティにそれを望んで膨大な予算を支出しているというのに、在日コリアンは日本政府からそのための補助など受けることなく、独力で不利益を跳ね返してきたのだ。この地で立派に市民生活を営んできたということ自体、いくらでも誇ってよい民族集団の歴史なのである。」


 確かに、私は金明秀氏の主張を嫌悪する。何より、予想される反論に「祖国志向の強い」という限定をかける金明秀氏の手法にも嫌悪感を抱く。福岡安則氏が用いて人口に膾炙して以来、心ある在日朝鮮人を苛立たせ続けている「祖国志向」云々のレッテル貼りを、金明秀氏はなぜ立論とは直接関係が無いにもかかわらず持ち出したのだろうか。そこには論敵を陳腐化する「戦略」があるのではないか、と勘ぐりたくなる。また、「朝鮮学校は日本の国益につながっている」という主張は、実は「あなたたちの役に立っているのでいじめないでください」よりも多くのことを述べている。正確には金明秀氏は「あなたたちの国の国益になっているのでいじめないでください」といえと勧めている。これは容易に「あなたたちの国の国益になりますのでいじめないでください」に変わりうる。これは嫌悪せざるをえない。

 何より、私は金明秀氏がその「リスク社会」なる像をすでに到来し受け入れざるをえないものとして提示するところに嫌悪感を抱く。在日朝鮮人が進んで自らが「日本の国益につながっている」と主張し、日本政府と日本人がそれをうけて「在日朝鮮人はこの国の役に立つ」と信じ、在日朝鮮人を「モデル・マイノリティ」(この言葉をここまで肯定的に用いる在日朝鮮人を私は始めて知った)として位置づける社会。「移民」がマジョリティにとって「役に立つ」限りで「悪感情を持たない」社会。マイノリティに「役に立つ」競争を求める社会。確かにこれは日本社会そのものだろう。しかし、ベックという「権威」を用いてそうした社会が到来したのだと宿命論的に説き、在日朝鮮人に対し、これに抵抗するのではなく、順応すべしと説く金明秀氏の主張には、どうあっても嫌悪感を抱かざるをえない。朝鮮学校側がこの「提言」を採用しないことを願うばかりである。
by kscykscy | 2012-01-08 23:20 | 朝鮮学校「無償化」排除問題

朝鮮学校への行政の介入と「不当な支配」――朝鮮学校と高校「無償化」問題⑫

 すでに何度か書いたとおり、「無償化」排除問題は朝鮮高校生の就学支援金支給からの排除から一歩進み、補助金を口実とした都道府県知事による教育内容への干渉という事態に至った。こうした大阪、神奈川、東京の各知事らのデマも交えた攻撃的な教育干渉に対し、朝鮮学校側はデマへの不毛な反論という消耗戦に追い込まれている。

 朝鮮学校側は石原に学校を見に来るよう訴えているようが、私はむしろ、石原慎太郎に授業を監視されるという体験が東京朝鮮高校の学生らの人格の健やかな形成を阻害し取り返しのつかない精神的な外傷を生むことを恐れる。

 それは措くとしても、現在の知事らの朝鮮学校攻撃は、個々の知事による教育干渉に留まらず、朝鮮学校への更なる弾圧強化のための中央政府も巻き込んだ連係プレーへと発展する可能性がある。その推測の根拠について以下に記しておきたい。

 現在の右派政治家らの朝鮮学校攻撃言説の核心は、朝鮮総連と朝鮮学校の関係は教育基本法第16条1項の「教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない」とあるうちの「不当な支配」にあたる、というものだ。

 例えば、高市早苗は自らのブログで「菅内閣が昨年11月30日に閣議決定した答弁書には、「朝鮮総聯は、朝鮮人学校と密接な関係にあり、同校の教育を重要視し、教育内容、人事及び財政に影響を及ぼしているものと認識している」と書かれてありました。つまり、朝鮮人学校は、教育基本法第16条が禁じる「不当な支配」を受けている学校だと言えます」として、「無償化」阻止を叫んでいる(高市早苗「朝鮮学校無償化を阻止しよう」

 実は国会でも「無償化」排除問題が議論された昨年以降、この「不当な支配」問題をめぐって右派政治家の質問が相次いでいる。特に朝鮮学校叩きの質問を連投しているのが、ヤンキー先生こと義家弘介である。義家の質問主意書は全てweb上で閲覧できるので、2010-11年の関連する質問主意書とあわせてを以下に列挙しておこう。

2010.10.25提出:佐藤正久「朝鮮人学校の思想教育と高校授業料無償化等に関する質問主意書」
2010.11.22提出: 義家弘介「朝鮮学校に関する質問主意書」
2010.11.26提出:山谷えり子「朝鮮学校への高校授業料無償化適用に関する質問主意書」
2010.12.3提出:義家弘介「朝鮮学校に関する再質問主意書」
2010.12.3提出:義家弘介「朝鮮学校に対する教育基本法第二条の適用に関する質問主意書」
2010.12.3提出:義家弘介「朝鮮学校の無償化手続きの停止に関する質問主意書」
2011.1.26提出:山谷えり子「朝鮮学校無償化審査の手続き停止に関する質問主意書」
2011.1.27提出:義家弘介「朝鮮学校無償化手続き停止の法的根拠などに関する質問主意書」
2011.1.27提出:義家弘介「朝鮮学校無償化手続き停止の理由に関する質問主意書」
2011.1.27提出:義家弘介「北朝鮮による韓国砲撃事件と朝鮮総連及び朝鮮学校の関係に関する質問主意書」
2011.1.27提出:義家弘介「朝鮮学校無償化手続き再開の条件に関する質問主意書」
2011.8.30提出:山谷えり子「朝鮮学校の高校授業料無償化の審査再開に関する質問主意書」
2011.11.24提出:義家弘介「朝鮮総連と朝鮮学校の関係などに関する質問主意書」

 一見してヤンキー先生の「奮闘」ぶりがわかるだろう。衆議院での質問に朝鮮学校関連のものは含まれていないため、義家弘介は衆参あわせて朝鮮学校の高校「無償化」排除の急先鋒に立っているといえる。

 実は前述の高市が言及している菅内閣の答弁書というのも、義家の最初の質問主意書に対する政府の答弁書を指している。ただ、高市がおそらくは意図的に伏せている部分がある。それは、現時点で日本政府は朝鮮総連と朝鮮学校の関係が「不当な支配」にあたるとは明言していないということである。

 義家の、「「朝鮮総聯は、朝鮮人学校と密接な関係にあり、同校の教育を重要視し、教育内容、人事及び財政に影響を及ぼしている」という政府見解によれば、朝鮮総聯による朝鮮人学校に対する影響の行使は、教育基本法第十六条第一項の「不当な支配」に該当すると考えられるが、政府の見解を示されたい」との質問に対し、政府は2010年12月14日の答弁書で以下の通り答えた。

「一及び二について
教育基本法(平成十八年法律第百二十号)第十六条第一項に規定する「不当な支配」とは、国民全体の意思を離れて一部の勢力が教育に不当に介入する場合を指すものであり、具体的には、個別の事実関係に即して判断されることとなる。
お尋ねについては、一般論としては、ある団体が教育に対して影響を及ぼしていることのみをもって、直ちに「不当な支配」があるとはいえないが、いずれにせよ、これまでのところ、いわゆる朝鮮高級学校の所轄庁である都道府県知事からは、それらの教育施設においてお尋ねの点を含む法令違反による行政処分等を行った実績はないとの報告を受けている。」


 すなわち、「一般論としては、ある団体が教育に対して影響を及ぼしていることのみをもって、直ちに「不当な支配」があるとはいえない」、また、現時点では都道府県知事から法令違反による行政処分を行ったとの報告もない、これが日本政府の立場である。高市はこの政府答弁書を無視して「朝鮮人学校は、教育基本法第16条が禁じる「不当な支配」を受けている学校だと言えます」と断言しているが、これは事実を歪曲したものである。

 ただし、政府答弁は都道府県知事が「法令違反による行政処分」を行った場合、「不当な支配」に関する異なる解釈を示しうるようにも読める。このため、義家は2011年11月24日の質問主意書において、『産経』の報道を根拠に朝鮮学校が補助金を不正流用し「公立高等学校に係る授業料の不徴収及び高等学校等就学支援金の支給に関する法律施行規則第一条第一項第二号ハの規定に基づく指定に関する規程」に違反しているのではないか、と再度質問している。

 こうした状況を勘案すると、いま知事らが騒いでいるのは、補助金カットに留まらず、口実を設けて「法令違反による行政処分」の既成事実を作り、これを根拠に文科省に朝鮮総連と朝鮮学校の関係が「不当な支配」にあたると言わせ、これをもって就学支援金の交付を阻止し、あわよくばそれ以上の「制裁」を課すためなのではないかとの危惧を抱かざるを得ない。

 そもそも、この「不当な支配」条項は、旧教育基本法では「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである」(第10条)となっていたものであり、教育行政による介入を抑制するための条項であった。だからこそ右派の教育基本法改正論者は、「不当な支配」条項の削除を求めてきた歴史がある。多くの改正批判論者も「不当な支配」条項の改悪に警鐘を鳴らしてきた。現行法は「不当な支配」という言葉を残しながらも、「この法律及び他の法律の定めるところにより」の文言を挿入することにより教育行政への抑制という性格を薄めたものとなっている。実際、新教育基本法第16条「不当な支配」条項は、早速朝鮮学校の弾圧に使われることになった。

 しかし、補助金を口実に朝鮮学校の教育内容に都道府県が介入することは、教育行政による「不当な支配」には該当しないのであろうか。確認してみたところ、新教育基本法においても知事は「不当な支配」の主体たりうるというのが16条に関する政府解釈のようだ。現行法第16条について、日本政府は当初「不当な支配」の主体に知事は含まれないとの解釈を取ってきたが、2006年11月22日、当時の伊吹文部科学大臣が知事もまた「不当な支配」の主体たりうると政府解釈を変更している。今般の朝鮮学校への知事らの介入について、逆にそれを「不当な支配」として訴訟を提起する必要があるのではなかろうか。

 特にこの問題に関して、教育基本法改悪論争において盛んに発言していた改悪反対論者たちは声をあげるべきではないか。教育基本法は実際に改悪され、そして改悪論者たちは新法を利用して見事に悪事を働いている。改正運動が改正と同時に解散するなら話はわかるが、改悪阻止運動が改悪と同時に解散してしまうなどという話は聞いたことが無い。今声をあげなければ他に声をあげるときなどない。
by kscykscy | 2011-12-23 17:46 | 朝鮮学校「無償化」排除問題