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橋下発言と世界「提言」、そして在日朝鮮人の「責任」

  日本のマスコミは朝鮮民主主義人民共和国の人工衛星打ち上げをひたすら「ミサイル発射」と連呼し続けているが、その渦中に産経新聞が報じた橋下大阪府知事の以下の発言は、なかなか問題含みだと思う。

 「大阪にも多くの北朝鮮籍の人が住んでいる。言論の自由が保障されている日本に住む北朝鮮籍の人は、北朝鮮の今の体制について厳しく批判しないといけない。国民に変える気概がなければ、国は変わらない」

 まず、日本は朝鮮民主主義人民共和国と国交を結んでおらず、別途共和国の国籍を承認する措置を講じているわけでもないので、少なくとも日本政府の見解によれば「大阪にも多くの北朝鮮籍の人が住んでいる」というのは誤りである。ただし、共和国国籍法上は日本にいる朝鮮民族は潜在的に共和国国籍なので、その限りでは橋下知事のこの発言は妥当するが、大阪府独自の判断で共和国国籍を承認するつもりなど無いだろうから、ただ無知なだけだろう。

 自分で否定しておきながら、その事実を知らないというのは、なかなか日本的で興味深いのだが、私がもっと重大だと思うのは別にある。橋下知事はここで「北朝鮮籍」の人間は「北朝鮮の今の体制」を「批判しないといけない」と言っている。言い換えれば、大阪府在住の朝鮮人のうち「北朝鮮籍」の人間は、「今の体制」を批判する義務、あるいは責任がある、と言っているわけである。

 大阪府の「北朝鮮籍」の人間に「今の体制」を「批判しないといけない」と知事が命令することは、人工衛星打ち上げを「ミサイル発射実験」であると理解し、かつそれを深刻な「脅威」と理解している大阪府民に対し、府内にその「脅威」に何らかの責任を負う朝鮮人が存在することを示す行為に他ならない。しかもより深刻なことに、前述のように政府見解上「北朝鮮籍」の人間はいないため、事実上これは全朝鮮人に対する大阪府民の「脅威」視を誘発する。一言でいえばレイシズムである。

こうした状況が存在するからこそ、民団は朝鮮総連に抗議する(朝鮮民主主義人民共和国に、ですらない)ことにより自らの「無罪」を日本に訴えるといった、親日派のお手本のような振る舞いに出るのである。もちろん民団の今回の振る舞いの醜さ・愚かさは目に余るものがあるし、ああ人間ここまでダサく生きられるんだなあ、という感慨すら覚えるが、その背景には橋下知事の発言を典型とするレイシズムの扇動があることを、とりあえずはそれに先んじて批判する必要がある。橋下知事の発言はレイシズムであり、断じて許容してはならない。これが第一に言いたいことである。

 それに加えて、私はもう少し考えておくべきことがあると思う。それというのも、橋下知事は在日朝鮮人のうち「北朝鮮籍」の人間は、「北朝鮮」を批判する責任がある、と語ったわけだが、別の論理で同様の結論を導き出している文章があるからである。それは他でもない、このブログで繰り返し批判してきた『世界』の「共同提言」である。朝鮮民主主義人民共和国の核開発をめぐって、「提言」は次のように書いている。

「日本は一九四五年に広島と長崎を経験し、原子爆弾のおそろしさを身をもって経験した。日本人は日本に住む朝鮮人とともに核兵器にあくまで反対する責任を人類の前に負っている

 ここで「提言」は、在日朝鮮人には核兵器に反対する責任がある、と書いている。なぜか。「原子爆弾のおそろしさを身をもって経験した」からであるという。これは何ともおかしな文章である。そもそも私には「反対する責任を人類の前に負っている」という言葉の意味が全くわからない。

 原子爆弾の被害を受けた者が、原子爆弾に反対する「権利」がある、というのならわかる。あるいは、原爆被害者はそうでない人間より優先的な批判権をもつ、とか、その主張は優先的に政策に反映されるべきである、ならわかる。だが「責任」を負っている、というのはどういうことだろうか。

普通に考えれば、原爆に反対する責任を負っているのは、原爆投下国である米国政府あるいはその国民である。もしくは自らの(旧)植民地で繰り返し核実験を行ってきたフランスを初めとする国際的に公認された(というよりも自分で認めているだけなのだが)核保有国の政府あるいはその国民である。

 だがここで「提言」は被害を受けた日本人及び朝鮮人が、「あくまで反対する責任」を有しているというのである。「提言」発表当時の状況から考えて、ここでの「核兵器」が朝鮮民主主義人民共和国のそれを指すことは明らかである。つまり、「提言」は、在日朝鮮人は共和国の「核兵器」に反対する「責任」を「人類の前に」負っている、と言っているわけである。

 人工衛星打ち上げと核開発は違う、という意見もありうるし、それについては別に検討するが、とりあえずここまでの検討で橋下知事と「提言」が、在日朝鮮人には「北朝鮮」の核兵器保有あるいは「ミサイル発射」に反対する「責任」があるという、同じ結論に達していることがわかる。もちろん、その結論に至る論理は違う。

おそらくタチが悪いのは「提言」の論理だろう。「提言」では巧妙にもこの「責任」なるものの主体は「日本人は日本に住む朝鮮人とともに」とされており、ここに日本人と朝鮮人の「責任」は「人類」の名の下に融合してしまっている。米国あるいはフランスなど核保有国に核兵器反対の「責任」があると前に述べたが、私は戦後一貫してこれら諸国の核保有に賛成し、自らの領土内に核兵器を搭載する原潜を停泊させ、かつそれを「非核三原則」なるウソでごまかしてきた日本政府、あるいはそれを許した国民もその「責任」を負っていると考えている。そうした日本人の「責任」はどこかへ吹き飛び、「人類の前に」ナゾめいた「責任」が朝鮮人に課されてしまっている。

 橋本発言に対しては、さすがに賛同する朝鮮人はいないだろう。おそらく、在日朝鮮人は、一部を除いては「北朝鮮」と何の関係も無い市民(大阪の地域住民)であり、むしろ日本と朝鮮のはざまでいじめられた被害者ですらある、そんな人間を「北朝鮮籍」だから体制を「批判しないといけない」と名指しするなんて、とんでもない、という反論が上る。だが、そうしたメンタリティの論者にとって、「提言」の論理は(結論は同じ、あるいは近似しているにもかかわらず)非常に受け入れやすい。これならば、民団のような醜態をさらさなくても、自らを「北朝鮮」から分離し、「安全」な市民であると示すことができる。在日朝鮮人には「北朝鮮籍」者としての責任は無い、だが「人類の前に」「責任」を負っている、だから「北朝鮮」を批判する、というわけだ。

 私はこれは非常に問題のある議論だと思う。誤解の無いように言っておくが、私は朝鮮人には朝鮮半島に存在する国家がいかなる政策を取るかに関与する「権利」があると考えている(さらに言っておくが、朝鮮に居住する外国籍者にもその権利はある)。当然、共和国の核保有に反対する「権利」も持っている。だが「提言」のいうような論理に基づく「責任」などは存在しないのである。
by kscykscy | 2009-04-18 01:05 | 世界「共同提言」批判

世界「共同提言」と日朝平壌宣言

 これまで四回にわたって世界の「提言」を批判してきた。この「提言」への左からの批判は比較的少なくなく(多いわけでもないが)、それぞれの批判から学ぶところが無いわけではない。ただ、それらの批判を読んでいて、何とも理解できない点がある。

 それは、世界「提言」を批判する論説が、日朝平壌宣言に極めて肯定的、あるいは黙認の姿勢を取っていることである。私がここで世界の「提言」を批判し続けているのは、日朝平壌宣言批判の延長線上でのことである。平壌宣言によって、日朝国交締結過程で日本の植民地支配責任が「無答責」とされる可能性が一気に高まり、しかもそれに批判的に言及する人々が全く存在しないことを私は批判している。そして平壌宣言のラインで、つまり植民地支配責任を全く問題にしないかたちで、しかも朝鮮への「介入の論理」すら用いて国交締結しようとしているからこそ、世界「提言」を俎上に乗せているのである。

 例えば、「提言」の共同執筆者の和田春樹は、今号の『世界』に「韓国併合100年と日本 何をなすべきか」という文章を寄稿しているが、そこで次のように書いている。

「国交正常化の過程を国交樹立と経済協力に分け、まず日朝基本条約調印による日朝国交樹立を実現することに進むことができる。これはほとんど日朝平壌宣言を基本条約に組み替えることで可能になる。そのときには、経済制裁はすべて白紙に戻し、在朝被爆者や元慰安婦などの被害者個人に対する医療福祉支援措置を実施する。生存していることが明らかになった日本人はすべて返してもらわなければならない。」(166頁)

 ここで和田は、あくまで日朝基本条約は平壌宣言のラインで締結されうることを確認している。後段の被爆者や元「慰安婦」への「医療福祉支援措置」というのも、個人も含め請求権を相互に放棄することを規定している平壌宣言に忠実な提言なのである。ただ、朝鮮民主主義人民共和国側は、平壌宣言で放棄された請求権には「慰安婦」などの人的被害は含まれないという立場を取っているため、あくまでこれは日本外務省側の平壌宣言理解に和田が忠実だという意味である。

 いずれにしても世界「提言」は、明確に平壌宣言の枠内で自らの議論を展開しているのであって、「提言」と平壌宣言を切り離して、一方は批判するが一方は評価するという立場はありえない。

 しかし、私は、世界「提言」批判をしている論者が、同時に平壌宣言を批判しているのを見たことがない。例えば、「自主・平和・民主のための広範な国民連合」は、「共同提言「対北政策の転換を」への疑問」と題して、「提言」の認識の問題点を逐一批判しているが、同「国民連合」の2002年9月以来の活動を見ると、あくまで日朝平壌宣言のラインで国交正常化を成し遂げようという趣旨らしい。つまり、上に書いた世界「提言」は批判するが、平壌宣言は批判しない、という立場である。

 だがこうした立場からの批判は、いきおい瑣末な方向へと向かわざるをえない。例えばここでは「提言」が「強制連行」や「創氏改名」について言及していないことを批判しているが、平壌宣言が「1945年8月15日以前に生じた事由に基づく両国及びその国民のすべての財産及び請求権を相互に放棄する」ことを「基本原則」にしている以上、これらが宣言を下敷きにした「提言」で扱われないのはある意味当然である。

 もし、扱われるとしたら、日本にそれら被害に補償する法的責任は無いが、自発的に何らかの措置を取る、という論理にならざるを得ない。「提言」はそこのところをよくわかっているからこそ、元「慰安婦」に対する「個別的措置」という言葉を使っているのである。また、今回の和田春樹論文では「強制動員労働者問題」は「懸案問題」の一つとして言及されており、「苛酷な強制連行(強制動員)を正面からとりあげてはいない」という批判はあたらない。だが、だから和田がいいといっているのではない。ここでも和田はこれまでと同様、あくまで「新しい基金をつくって企業、国民、政府が道義的責任を果たすことが必要」と書いている(168頁)。法的責任を絶対に承認しない、という平壌宣言のラインで議論を展開していることがわかる。

 つまり、重要なのは、強制連行が扱われているかいないかではなく、いかなる論理によってその被害に対する日本国家の責任が根拠付けられているのか、なのである。「国民連合」は平壌宣言第二項についての評価が不明瞭なため、日本国家の植民地支配責任という論点を立てることができず、結局、世界「提言」への批判も不十分たらざるを得ない。もう少しいえば、世界「提言」の方が少なくとも論理的には整合性が取れている(むろん、だからいいというわけではない。和田論文では天皇訪韓問題をめぐる驚くべき「提言」がなされており、これについては改めて批判する)。

 国民連合は「この共同提言は、日朝国交正常化に対する日本政府の考え方とどこが違うのだろうか」と「提言」執筆者たちに問いかけているが、本人たちに確認するまでもなく、「提言」と政府・外務省の考え方には、基本的には違いは無い。いまさら聞くまでも無いのである。むしろ私は、平壌宣言を肯定しつつ、世界「提言」とは異なる論理をどうやって構築するのかと問いたい。少なくとも植民地支配責任に関する限り、平壌宣言第二項を肯定した上で、責任を問うという立場は矛盾である。

 繰り返しになるが問題は平壌宣言である。日朝平壌宣言に対しいかなる態度を取るか。それこそが最大の論点にならねばならない。そこを回避した批判には意味がないのである。
by kscykscy | 2009-03-15 02:06 | 世界「共同提言」批判

「共同提言 対北政策の転換を」を批判する④――日韓条約と日本の責任

 少し間が空いてしまったが、世界「提言」の批判に戻ろう。前回、「提言」が戦後日本の対アジア諸国外交を極めて高く評価していること、そして「大韓民国との清算が曲がりなりにも果たされた」とされる日韓共同宣言が、実質的に日韓条約への高い評価を打ち出していることを指摘した。日韓条約の問題は非常に重要なので、もう少し検討を続けよう。

 日韓交渉における論点の一つに「管轄権問題」というものがある。朝鮮が分断状態にあるなかで、韓国政府の管轄権の範囲をどこまでとみなすのかという問題である。これに関連して「提言」は「3 これまでの国交正常化の努力の評価」の項目で次のように説明している。

韓国政府は大韓民国が朝鮮半島における唯一の正統政府だと主張したが、日本政府は、ついに同調せず、大韓民国を休戦線の南のみを有効支配している国家であると認めるにとどめた。つまり休戦線の北側には別の国家があると日本は認識していたのである。ただし、その国家とは外交関係をもたないと決めていた。」(128頁)

 下線部は非常に不可解な書き方をしている。なぜ不可解なのかというと、この一文は、韓国の朝鮮半島における唯一の正統政府との主張に日本は同調しなかった、と書いているわけだが、そうなると韓国を朝鮮半島における唯一の正統政府と認めるかどうかが、ここでの争点であったということになってしまうからだ。だが管轄権問題について少し勉強したことのある人ならば誰でも知っていることだが、そんなことは一度も日韓交渉で問題になってはいない。問題になっていたのは、韓国の主権が全朝鮮半島に及ぶのか、あるいは南半部だけに及ぶのかである。韓国が朝鮮半島における唯一の政府であることについて、日韓間での意見の対立は無かったはずである。

 実際、締結された日韓条約第三条には「大韓民国政府は、国際連合総会決議第百九十五号(III)に明らかに示されているとおりの朝鮮にある唯一の合法的な政府であることが確認される」と記されている。ここで引用されている国連総会決議では、国連臨時朝鮮委員会が観察した地域(つまり38度線以南)において「有効な支配と管轄権を及ぼす合法な政府(大韓民国政府)が樹立されたこと」、同地域における「選挙民の自由意思の有効な表明」により韓国政府が選出されたこと、そして「この政府が朝鮮における唯一のこの種の政府であること」が宣言されている。どう読んでも、朝鮮における政府は韓国政府のみであることが謳われていると解釈するのが妥当だろう。

 これだけを見ても、日韓共に韓国政府が朝鮮における「唯一の合法的な政府」であることについては認めていたのであり、日韓条約にもそう記されていることは歴然としている。ただ、日本側は朝鮮半島に「唯一の合法的な政府」の支配の及ばない地域が存在すると主張していただけだ。

 さらに続けて「提言」は「休戦線の北側には別の国家があると日本は認識していた」と書いているが、これも意味不明だ。日韓条約第三条が記しているのは、朝鮮半島にある合法的な政府は韓国だけであるということであって、「休戦線の北側」には「別の国家」があるとはどこにも書いていない。日韓条約第三条に書いてあるのは、国連朝鮮臨時委員会が観察した地域(「休戦線」ではない)にある政府だけが合法的な政府である、つまり、その地域以外に仮に政府があるとしてもそれは非合法的な政府である、ということだ。

 引用した段落は続けて次のように記す。

「大韓民国も朝鮮民主主義人民共和国もそれぞれ自らが朝鮮半島における唯一の正統政府だと主張していたので、韓国と国交をもつ日本が北朝鮮と国交をもつことは不可能であった」(128頁)

 二つの引用文をつなげて読むと、日本としては韓国の「唯一の正統政府」だとの主張には同調しなかったが、朝鮮では南北がそれぞれ「唯一の正統政府だと主張していた」、だから日本は朝鮮民主主義人民共和国と国交をもつことが不可能であった、という物語が出来上がる。つまり日本が朝鮮民主主義人民共和国と国交を結べなかった原因は、朝鮮の南北がそれぞれ「唯一の正統政府だと主張していた」から、ということになる。

 だがこれは滅茶苦茶な話である。日本と朝鮮民主主義人民共和国の国交交渉が全く進まなかったのは、日本が韓国を「唯一の合法的な政府」として承認したからであって、南北の両政府が互いに「唯一の正統政府」だと主張し合っていたからではない。この段落を一読すると、あたかも日本側は朝鮮民主主義人民共和国との国交交渉の余地を賢明にも残していたかのような印象を受けるが、これは問題のすりかえである。

 しかも、日本側が韓国の管轄権を南半部に限定したのも、別に「国交正常化の努力」のためではない。

  確かに交渉の最終局面において、全朝鮮に主権が及ぶことを主張する韓国と、朝鮮南半部のみとする日本の見解は対立していた。だが、すでに吉澤文寿が指摘しているが、1951年11月7日の国会答弁で西村熊雄条約局長は「北鮮〔ママ〕にある日本の財産の問題も大韓民国政府相手の交渉の内容をなす結果になる」と答えているのである(吉澤『戦後日韓関係』48頁。なお同答弁についてはここで全文閲覧できる)。

 つまり、日本は自らの「財産」を請求する際には、韓国の管轄権に朝鮮半島全域を含ませようとしていたのである。逆に、交渉の最終段階では、韓国側が北半部の分も対日請求権を持っていると主張していたため、日本側は対日請求権を値切るために管轄権を限定した。別に日本による朝鮮民主主義人民共和国との「国交正常化の努力」として肯定的に評価できるようなものではない。

 世界「提言」は、事実を捻じ曲げ、問題をすりかえ、朝鮮側に責任をなすりつけてまで、戦後日本外交を肯定したいのだろうか。
by kscykscy | 2009-02-21 03:52 | 世界「共同提言」批判

閑話休題 外務省見解と世界「提言」の論理

 外務省HPの「外交政策Q&A」のページには「北朝鮮との国交正常化は本当に日本の国益となるのでしょうか」という問いへの外務省の回答が載っている。日付は平壌宣言調印前の2001年4月である。

 この外務省による回答をさらに要約するならば、

 ・植民地支配をした地域との関係を正常化することは歴史的・道義的な課題である。
 ・国連加盟国中、北朝鮮とだけ国交がない。隣国なのに国交がないのは不正常だ。
 ・国交を結べば北東アジア地域に安全をもたらし、日本の安全保障を高められる。
 ・対話を進めることで「拉致問題などの人道問題」などの解決の糸口が見つかる。
 ・以上の諸点をふまえた国交正常化は国益に資する。

 といったところになるだろうか。
 
 一読してわかるように、この外務省の論理は世界「提言」の言っていることと全く同じである。というよりも、世界「提言」が外務省と同じことを言っているのである。もちろん、国交正常化すべし、という結論が一緒だと言っているのではない。そこにいたる論理が同じなのである。大の大人が集まって政府見解と同じことを政府に「提言」したというわけだ。そういうのを果たして「提言」というのだろうか。
by kscykscy | 2009-02-19 20:45 | 世界「共同提言」批判

「共同提言 対北政策の転換を」を批判する③――「戦後日本」礼賛

 前回、「提言」が「介入の論理」に立って日朝国交正常化を説いていることを批判した。「侵略責任継承国」としての日本が、その責任を果たすために日朝国交正常化を求めるのではなく、「北朝鮮」に「変わってほしい」ために国交正常化を求めるという論理である。

  では「提言」は、そもそも敗戦後の日本と被侵略国・地域との関係をどのように認識しているのだろうか。それは、一言でいえば「戦後日本」礼賛である。今回は、前回後述すると記したこの論点について、批判することにしよう。「提言」は次のように記す。

「植民地支配は一九四五年に終わった。そのときから六三年が経過したが、朝鮮北部に生まれた朝鮮民主主義人民共和国との間には、植民地支配の清算がいまだ終わっていない。 日本は一九四五年八月一五日以前の関係を清算する作業をアジア諸国との間でながい歳月かけて行ってきた。この国との清算は最後に残った作業である」(124頁)

  一読してわかるように、「提言」は敗戦後日本の歴史を、アジア諸国との間で「関係を清算する作業を」「ながい歳月かけて行ってきた」歴史として提示する。ここではその「作業」の内実についての批判意識はかけらも見えない。だが問題がより明確化するのは、日韓関係についての記述である。「提言」は1965年の日韓条約締結の際にはわずかに「椎名外相が仮調印のさいの共同コミュニケの中で「このような過去の関係は遺憾であって、深く反省している」と述べたにすぎない」ことを紹介し、次のように記す。

「日本政府が植民地支配について正式に表明したのは、それから三〇年後の一九九五年の村山首相談話においてである。〔…〕そしてこの内容が一九九八年の日韓共同宣言において、韓国金大中大統領に向かって小渕首相から表明されたのである。これによって南の大韓民国との清算は、曲がりなりにも果たされた と考えられる」(125、126頁)

  「提言」は明確に98年の日韓共同宣言において「清算」は「果たされた」と記している。これを「日韓条約は問題だが、共同宣言では問題が克服された」という意味にとるべきだろうか。共同宣言は日韓条約よりは「マシ」になった、そう理解しているのだろうか。一見そう読んでしまいそうになるが、実はそうではない。日韓共同宣言の全文を読んでみると、それがよくわかる。まず共同宣言の有名な第二項を見てみよう。

「2.両首脳は、日韓両国が21世紀の確固たる善隣友好協力関係を構築していくためには、両国が過去を直視し相互理解と信頼に基づいた関係を発展させていくことが重要であることにつき意見の一致をみた。
 小渕総理大臣は、今世紀の日韓両国関係を回顧し、我が国が過去の一時期韓国国民に対し植民地支配により多大の損害と苦痛を与えたという歴史的事実を謙虚に受けとめ、これに対し、痛切な反省と心からのお詫びを述べた。


  確かに、平壌宣言と同様「多大の損害と苦痛を与えた」と記されている。日韓条約の際に植民地支配について言及が無かったことに比べれば「進歩」に見えなくはない。だが問題は次だ。共同宣言の第三項は次のように記す。

「3.両首脳は、過去の長い歴史を通じて交流と協力を維持してきた日韓両国が、 1965年の国交正常化以来、各分野で緊密な友好協力関係を発展させてきており、このような協力関係が相互の発展に寄与したことにつき認識を共にした。小渕総理大臣は、韓国がその国民のたゆまざる努力により、 飛躍的な発展と民主化を達成し、繁栄し成熟した民主主義国家に成長したことに敬意を表した。 金大中大統領は、戦後の日本の平和憲法の下での専守防衛及び非核三原則を始めとする安全保障政策並びに世界経済及び開発途上国に対する経済支援等、国際社会の平和と繁栄に対し日本が果たしてきた役割を高く評価した。両首脳は、日韓両国が、自由・民主主義、市場経済という普遍的理念に立脚した協力関係を、両国国民間の広範な交流と相互理解に基づいて今後更に発展させていくとの決意を表明した。」

  ここでは日韓条約以後、両国が「友好協力関係を発展させてき」たことが述べられ、ついで小渕首相が韓国が「飛躍的な発展と民主化を達成し」たことに「敬意を表し」、それに対し金大中大統領が戦後日本の安保政策と、「世界経済及び開発途上国に対する経済支援等」の役割を果たしたことを「高く評価した」とされている。

  ここからもわかるように、共同宣言は植民地支配責任の問題について日韓条約の問題点を克服した宣言というよりも、日韓条約後の両国の関係を礼賛した宣言なのである。しかも、韓国の「発展と民主化」が、あたかも日韓条約によってもたらされたかのように記されている。金大中大統領が「高く評価した」日本の「開発途上国に対する経済支援」には、日韓条約による経済協力が含まれていると考えるべきだろう。日韓条約による経済協力も含めて、金大中大統領が「高く評価した」のが、この日韓共同宣言なのである。

  こうした認識を踏まえるならば、「提言」は日韓条約後の両国関係を礼賛するこの共同宣言によって「清算」が「果たされた」と強弁していることになる。「提言」は第三項を完全に無視することによって、共同宣言が「お詫び」という文句を入れて日韓条約の問題点を克服したかのように偽装しているのである。こうした偽装を積み重ねることによってしか、「提言」は、「関係を清算する作業を」「ながい歳月かけて行ってきた」歴史としての日本の戦後史を描けなかったともいえるだろう。

  以前批判した「平壌宣言=実質的補償」論は日韓条約と平壌宣言の違いを強調していた。これは平壌宣言の「意義」を顕彰するための屁理屈に過ぎないのであるが、それでも一応日韓条約形式に対する批判意識はあった。だが、こと「提言」に至っては、共同宣言の恣意的な解釈によって、日韓条約への批判意識すら完全に吹き飛んでしまっているといわざるを得ない。そこにあるのは真摯に日本の侵略を問い直し、被害に向き合う姿勢ではなく、「戦後日本」を礼賛し、肯定したいという欲望だけだ。
by kscykscy | 2008-12-28 01:04 | 世界「共同提言」批判

「共同提言 対北政策の転換を」を批判する②――「介入の論理」

  なぜ、日本は朝鮮との国交正常化を行わなければいけないのか。これは当たり前のように見えて、とても重要な問いだ。「提言」は、前の記事で書いたとおり、朝鮮とは国交が無いから、国交を結ぶべき、と記していたが、これは循環論法である。国交云々の話をするからには国交が無いに決まっている。重要なのはその先だ。もし「侵略責任継承国」という認識があるならば、国交が無い状態は責任遂行が未済の状態であると理解される。つまり日本が変わらなければいけないという認識になる。この責任を果たす必要があり、その過程で国交正常化が行われる、という論法になろう。

 だが「提言」にその認識は無い。ただ漠然と「日本は一九四五年八月一五日以前の関係を清算する作業をアジア諸国との間でながい歳月かけて行ってきた。この国との清算は最後に残った作業である」(124)と記されているだけである。(この一文は、戦後日本の対アジア関係の評価について興味深い論点を含んでいるが、この点については後述)。繰り返すが「侵略責任継承国」としての論理ではない。

 その代わりに「提言」が持ち出すのは「介入の論理」である。おそらくは「あんな危険な国と国交正常化するべきなのか」といった類の意見を念頭に置きつつ、朝鮮の経済難、日朝間の関係遮断、そして世論調査で朝鮮が日本人のもっとも「嫌いな国」にあがったことに触れた上で「提言」はこう語りかける。

 「このままでよいはずがない。隣の国を理解しようと努めること、その苦難に心寄せること、隣人が飢えていれば助けること、敵対と緊張をつくりだす要因をとりのぞくこと、危険な核ミサイルの開発配備をやめさせること、拉致問題の解決を進めること、隣国を「嫌う」のをやめるように努力すること――これが当然に必要である」(125)
 「朝鮮民主主義人民共和国とわれわれの関係を変えたい、この国のありかたも変わってほしいと思うなら、世界のすべての国の中でこの国とのみ国交をもたない、この国との過去の歴史を清算しないままにしている、そういう自国のありかたを変えることが必要不可欠なのである」(同上)


  下線部に注目していただきたい。 「ありかたも変わってほしい」「この国」は続く文章との関係から、朝鮮であることがわかる。(核ミサイル開発配備を念頭に置きつつ)朝鮮に変わって欲しいと思っているのなら、国交正常化が必要だ、「提言」はこう記している。

  これを私が「介入の論理」と呼ぶのは、まずどこを探しても日本が変わることが国交正常化と関連付けられていないからだ。問題は日本にあるわけではないのだ。「提言」からすれば、変わらなければいけないのは朝鮮の方なのである。核を配備したりする朝鮮を国交正常化を通じて変えられれば、日本の世論も「嫌い」とは思わなくなるだろう、だから朝鮮を変えるために国交正常化しよう。まさに「介入」としての国交正常化である。

  植民地支配責任を果たすこと、つまり日本自体が変わることなど全く問題にされず、代わりに朝鮮を変えるための「国交正常化」という「介入の論理」が用いられる。「嫌い」と感じる「空気」を正面から相手にせずに、その「空気」に寄り添って国交正常化が必要だと説く。こういうのを「俗情との結託」というのではないか。
by kscykscy | 2008-10-19 06:53 | 世界「共同提言」批判

「共同提言 対北政策の転換を」を批判する①――欠落した「侵略責任継承国」という認識

  2008年7月号の『世界』に和田春樹氏らの12名の連名で「共同提言 対北政策の転換を」(以下「提言」)が出た。提言者に名を連ねているのは石坂浩一、川崎哲、姜尚中、木宮正史、小森陽一、清水澄子、田中宏、高崎宗司、水野直樹、山口二郎、山室英男、和田春樹の12氏で、平和基本法系の人脈に加えて、日朝国交正常化、朝鮮植民地支配、あるいは在日朝鮮人の諸権利をめぐる問題に比較的積極的に関わってきた人々が網羅されているといっていい。一読して、私はあまりの内容のひどさに衝撃を受けた。早く批判しなければと思いつつ今までまとめることができなかったが、以後何度かにわけてこの「提言」の分析と批判を行っていきたい。

 具体的な批判を始める前に、まずはこういう「良心派」の提言に対する誤った対応について触れておこう。それは「この人々はそれでも最も良心派なのだし、朝鮮をめぐる情勢が悪い中ではよくやっているほう」といった妙な温情をかけて、放置し容認する態度である。だが、こういう対抗的な「提言」が、以下記すような驚くべき認識を示していることは、むしろ日本国内のこの問題をめぐる認識が「統一」されていっていることを表している。「最も良心派だから」容認するのではなく、だからこそしっかり批判しなければいけない。当たり前すぎることだが、一応確認しておこう。

 さて、「提言」の内容の検討に入っていこう。まずタイトルである。「提言」は「対北政策」という用語を使用している。「対朝鮮政策」でも「対北朝鮮政策」でもない「対北」である。「良心派」はもはや朝鮮民主主義人民共和国を「北」としか略さなくなったようだ。ただ問題は、この「北」という略称は、「提言」の内容とそれなりに符合しているということだ。一読すればわかるのだが、「提言」は一貫して共和国との国交問題を、「朝鮮北部の国」との国交の問題として位置づけている。

 冒頭で「提言」は「国交を持たない唯一の国」という節から説き起こす。共和国は隣国にもかかわらず日本と国交を持たない唯一の国なのだ、これは異常だ、と。日朝関係の問題の核心は、「日本と朝鮮北部の国の間に国交が無いこと」として把握される。これはまえがき的部分として読み過ごす人もいるかもしれないが、非常に重要な、「提言」の日朝関係観の核心的部分だ。次に「1500年の交流」が続くのにも理由がある。この節では、高句麗と日本の交流を説き、高句麗の壁画古墳と日本の高松塚古墳の影響関係を語り、豊臣秀吉の平壌占領に言及する。すべて「朝鮮北部の国」と日本の交流の前例として出されてくる。日朝関係の問題を「日本と朝鮮北部の国の間に国交が無いこと」というレベルでしか把握しないならば、当然こういう超歴史的な記述になる。

 だが翻って考えるならば、朝鮮民主主義人民共和国と日本との国交正常化交渉と、高句麗や朝鮮王朝に何の関係があるのだろうか。ここで問題となるべきは、戦前日本の侵略・植民地支配と、それを継承した戦後日本の法的・政治的責任である(もちろんそれ以外にも「戦後責任」がある。後述)。つまり「侵略責任継承国」としての日本という認識が求められる。豊臣秀吉の平壌占領について謝罪と賠償をするなら(つまり、秀吉の侵略責任を国家として継承しているというラディカルな視点ならば)別だが、そうでない以上、ここで豊臣秀吉が持ち出されるのはおかしい。問題になっているのは、日本列島に歴史的に存在してきた日本ではなく、19世紀中ごろ以降の近代国家日本である。だが、「提言」の筆者たちが、そもそも日朝交渉をそうした戦前日本の侵略・植民地支配の責任を継承した戦後日本と、旧植民地の朝鮮の交渉というレベルでとらえていないと考えるならば、この叙述は納得がいく。

 「提言」の筆者たちにとって、あくまで日朝交渉は「朝鮮北部の国」と日本との交渉に過ぎず、豊臣秀吉の朝鮮侵略も、植民地支配もその間にあったさまざまな不幸な出来事の一つなのだろう。後に植民地支配の清算が第一の課題だと「提言」は記すが、これもあくまでこうした様々な不幸のなかで時間的に近く、被害者が生存しているから言っているにすぎないことになる。

 こうした戦前日本の侵略・植民地支配責任とそれを継承した戦後日本が問題にされているという認識の欠落が端的に示されているのが、日清戦争の位置づけである。「提言」では「1500年の交流」に続いて「36年間の植民地支配」の節が始まるが、日清戦争は「1500年の交流」の最後に記されている。日清戦争の最大の地上戦闘が平壌の戦いであったことや、日本軍が平壌を占領したことが触れられつつ、あくまでこれは「1500年の交流」の最後なのである。

 日清戦争前後、日本軍は甲午農民戦争に蜂起した東学軍・農民軍を武力で弾圧し、3万人以上を殺戮した。その後続く義兵戦争における殺戮と合わせて、広い視野からみればこれは日本と朝鮮の「植民地戦争」といえるものだが、「提言」ではこうした数一〇年にわたる植民地戦争の結果としての「併合」という視点は無く、せいぜい日露戦争以降の「併合」過程に切り縮められてしまっている。何より、豊臣秀吉の朝鮮侵略と日清戦争を特に区別することなく併記する発想自体が、「侵略責任継承国」として朝鮮と交渉をしているという認識が欠落している証拠である。

 このように、「提言」の冒頭は後に続く問題含みの各論を準備する認識を提示している。その認識とは日朝関係を「侵略責任継承国」と旧植民地の交渉とみるのではなく、あくまで隣国なのに国交のなかった「朝鮮北部の国」と、日本との交渉として見ようという認識なのである。(続)
by kscykscy | 2008-10-05 02:53 | 世界「共同提言」批判