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秦郁彦の「女子挺身勤労令不適用」説と朴裕河の「挺身隊=自発的志願」説

1.軟体動物

 「君の関節技がすべてきまっているのに当人は全く意に介さず平気にしている、実は軟体動物だったのではないか」――ある読者の朴裕河評である。確かにそうかもしれない。「関節」とは、事実や文献理解の正確性や論旨の整合性、あるいは推論の妥当性といった、広い意味での「論証」の比喩であろう。私は『帝国の慰安婦』における「論証」の破綻を指摘し続けているが、「反論」にも明らかなように、赤面してしかるべきこれらの自著の欠陥を朴裕河が反省した形跡はない。朴裕河にとって「論証」などどうでもいいからであろうか。そうした意味では骨格なき軟体動物との喩えは適確といえる。

 確かに『帝国の慰安婦』を読んでいると、憤激を通り越して脱力することが多々ある。例えば、朴裕河の挺身隊に関する理解である。以前にも触れたが、『帝国の慰安婦』朝鮮語版には、次のような記述があった。

「慰安婦の募集は比較的早い時期になされたが、「挺身隊」の募集は戦争末期、すなわち一九四四年からだった。そして挺身隊とは朝鮮人たちを対象にしたものではなく日本で施行された制度だった。日本は一九三九年から「国民徴用令」、「国民勤労報国協力令」、「国民勤労動員令」などへと名前を変えてゆき一四~四〇歳の男子、一四~二五歳の未婚女性を国家が動員できるようにしたが、「一二歳以上」が対象となったのは一九四四年八月だった(日本ウィキペディア「女子挺身隊」の項目)。/それさえも、「植民地朝鮮では公式的に発動されなかった」。」(p.43)

 この箇所は日本語版では以下のように修正されている。

「慰安婦の募集は早い時期からあったが、「挺身隊」(=勤労挺身隊)の募集は戦争末期、一九四四年からだった。そして挺身隊は最初から朝鮮人を相手に行われた制度ではなく、日本で行われた制度だった。日本は一九三九年から「国民徴用令」「国民勤労報国協力令」「国民勤労動員令」など名前を変えながら一四~四〇歳の男子、一四~二五歳の未婚女性を国家が動員できるようにした。そして一二歳にまで募集対象年齢が下がったのは、一九四四年八月だった(チョン・ヘギョン(鄭恵瓊)二〇一二)。/それさえも、「朝鮮では公式には発動されなかった」(イ・ヨンフン(李栄薫)二〇〇八、一二〇頁)。」(52頁)

 日本語版はwikipediaから出典を急いで差し替えたためか、鄭恵瓊論文は当該箇所の出典としては必ずしも妥当ではないうえ、書誌情報まで誤っている。かつて指摘したとおり、「朴は日本人を対象とした勤労動員の拡大を時系列的に叙述しているが、鄭報告はそれとは異なり朝鮮人女性を対象とした勤労動員を主題にしたものだ。wikipediaに従って書いたものを、体裁を整えるために無理に他の出典表示に置き換えたため、不適切な引用となってしまったのだろう。」(「朴裕河『帝国の慰安婦』の「方法」について(2)」) 

 「論証」などどうでもよい者にそのことを指摘したところで、確かに無意味なのかもしれない。ただ一般的には軟体動物だとは思われていないのであるから、問題の所在を正しく知らせる社会的責務があることは間違いあるまい。上の挺身隊関連の記述の問題は、実はこれに留まらない。朴裕河『帝国の慰安婦』の挺身隊理解の誤りについては金富子の批判があるが(*1)、以下ではさらにふみこんでこの問題について考えてみたい。

2.挺身隊認識の問題①:秦郁彦「女子挺身勤労令不適用」説の受容と無理解

 前回触れたように、朴裕河の日本軍「慰安婦」制度の理解は秦郁彦『慰安婦と戦場の性』と似通っているのであるが、これは挺身隊についても同様である。ただ、朴裕河は秦郁彦の所説を正確に理解していないため、『帝国の慰安婦』には秦郁彦説を受容しているにもかかわらず、秦であれば書かないような記述も散見される。その代表例が、挺身隊の動員に関する矛盾した記述である。

 前掲の引用末尾で、朴は「それさえも、「朝鮮では公式には発動されなかった」」と記している。「それ」が何を指すかはこれだけでは判然としないが、後述するように、「それ」は女子挺身勤労令を指すものと思われる。つまり、朴は女子挺身勤労令は「朝鮮では公式には発動されなかった」と書いているのである。しかしながら、他方で本書には、「法律を作って挺身隊を合法的に動員できるようにしながら、「慰安婦」はそうはしなかったのは、それが植民地での穏健統治の臨界が壊れることだったからである」(225)という記述もある。一方では勤労令が発動されなかったといい、他方では法律を作って動員した、という。二つの記述は完全に矛盾している。

 なぜこのような矛盾が生じるのだろうか。まずは出典を確認しよう。「朝鮮では公式には発動されなかった」という記述の出典は李栄薫論文である。李は「日帝は、44年8月に「女子挺身勤労令」を発動して、十二歳から四十歳の未婚女性を産業現場に強制動員する。だが、この法令は日本人を対象にしており、植民地朝鮮では公式に発動されなかった」(李栄薫「国史教科書に描かれた日帝の収奪の様相とその神話性」、小森陽一他編『東アジア歴史認識のメタヒストリー 「韓日、連帯21」の試み』青弓社、2008年、97頁)と書いている。李論文は根拠を示していないが、おそらく秦郁彦を参照したものと思われる。秦は「女子に対しては、国民徴用令も、女子挺身勤労令も朝鮮半島では適用しなかった」(『慰安婦と戦場の性』367頁)と記しているからだ。ちなみに「法律を作って挺身隊を合法的に動員できるようにしながら」という文には出典が示されていない。

 さらに遡るならば、秦郁彦の主張の根拠は、朝鮮総督府鉱工局労務課『国民徴用の解説』(1944)である。秦は同書の「今後に於ても女子を動員する場合、女子挺身勤労令発動によるといふ考は今の所持ってをりません。今まで朝鮮の女子挺身隊は、みな官の指導斡旋によるもので、内地の[中略]立派な施設の整った飛行機工場等に出してをります。今後ともこの官の指導斡旋を建前とする心算」との記述を根拠に、女子挺身勤労令が適用されなかった、と主張した。すなわち、朴裕河の「それさえも、「朝鮮では公式には発動されなかった」」という叙述の大元は朝鮮総督府『国民徴用の解説』ということになる。

 以上を図式化すると下記のようになる。

図 女子挺身勤労令解釈の典拠

(1)朝鮮総督府『国民徴用の解説』:「今後に於ても女子を動員する場合、女子挺身勤労令発動によるといふ考は今の所持ってをりません」
(2)秦郁彦『慰安婦と戦場の性』:「女子に対しては、国民徴用令も、女子挺身勤労令も朝鮮半島では適用しなかった」
(3)李栄薫「国史教科書に描かれた日帝の収奪の様相とその神話性」:「日帝は、44年8月に「女子挺身勤労令」を発動して、十二歳から四十歳の未婚女性を産業現場に強制動員する。だが、この法令は日本人を対象にしており、植民地朝鮮では公式に発動されなかった」
(4)朴裕河『帝国の慰安婦』:「それさえも、「朝鮮では公式には発動されなかった」」

 図からも明らかなように、まず検討すべきは秦郁彦の勤労令についての解釈である。総督府『国民徴用の解説』(以下『解説』)の記述を確認しよう。

「問 今後、朝鮮で女子挺身勤労令は内地と同じやうにする方針ですか。

答 女子挺身勤労令は朝鮮にも施行されて居りますが、しかし朝鮮では前に申しました通り一般女子の登録を行ってゐませんから、その対象となるものは、国民登録の要申告書である女子の十三種の技能者たる技術者だけになります。
 従ってこれに該当する者は非常に僅少です。今後に於ても女子を動員する場合、女子挺身勤労令発動によるといふ考は今の所持ってをりません。今迄朝鮮の女子挺身隊は、みな官の指導斡旋によるもので、内地の最も勤労管理の立派な、施設の整った飛行機工場等に出してをります。その工場は工場か学校の延長かどちらか解らない様に立派なものです。今後ともこの官の指導斡旋を建前とする心算です。
 然しながら戦局の推移に依っては、女子動員をもっともっと強化しなければならぬ時が来ると思ひます。国民はその覚悟だけは持って居らねばならなぬと思ひます。」(『国民徴用の解説』1944年、66頁)

 秦郁彦=李栄薫は、この記述を根拠に勤労令が「適用」「発動」されなかったと主張した。これについては若干の補足説明が必要である。はじめ日本政府は女性労働力の動員のため「勤労挺身隊」の自主的な結成を促したが低調であった。このため1944年8月に勅令を発して強制力のある「女子挺身勤労令」を制定する。この勤労令は朝鮮にも施行された。秦が「女子に対しては、国民徴用令も、女子挺身勤労令も朝鮮半島では適用しなかった」というのは、『解説』にもあるように、施行したが適用しなかった、ということを意味する。だが、この解釈にはなお検討すべきいくつかの問題がある。

 第一の問題は、『解説』はあくまで1944年10月現在の方針を述べているにすぎず(「今の所持ってをりません」)、勤労令適用の実態を示した史料ではないことである。『解説』末尾に「戦局の推移に依っては、女子動員をもっともっと強化しなければならぬ時が来ると思ひます」とある通り、『解説』のみをもって植民地期に勤労令が一切適用されなかった論拠とするには不十分である。また『解説』にもあるように、1944年10月現在の時点でも少数ながら勤労令適用対象となる朝鮮人女性がいることを総督府自らが指摘している。「今の所持ってをりません」を「朝鮮半島では適用しなかった」論拠とするには一層の検証が必要であろう(*2)。

 第二の問題は、秦郁彦が「官斡旋」による連行を強制連行から排除していることである。『解説』は朝鮮で女子挺身隊を動員しないとしているわけではない。「今迄朝鮮の女子挺身隊は、みな官の指導斡旋によるもの」だったが、「今後ともこの官の指導斡旋を建前とする心算です」と述べており「官斡旋」方式による徴集を継続する、と説明しているのである。しかし、秦は「いわゆる「強制連行」は、この徴用令[1944年9月の国民徴用令の全面発動:引用者注]に基づく内地等への労働力移入を指すが、最終的には「徴用」へ統合吸収した事情もあり、論者によっては自由募集や官斡旋段階からふくめてそう呼ぶ例が見られる。」(『慰安婦と戦場の性』367頁)とし、「強制連行」を徴用に限定する。秦がわざわざ挺身隊の説明で勤労令の不適用を強調するのは、おそらく挺身隊の動員は強制連行ではないと主張したい含意があると思われる。

 『帝国の慰安婦』の「朝鮮では公式には[ママ]発動されなかった」という記述は、こうした二つの問題を抱えた秦郁彦の解釈を、李栄薫経由で継承したものである。だが朴裕河は秦説の含意を理解していないがために(『慰安婦と戦場の性』が論拠であることを知らない可能性もある)、平然と「法律を作って挺身隊を合法的に動員できるようにしながら、「慰安婦」はそうはしなかった」とか、「挺身隊」の「『公的』な徴用」(55-56)と書いてしまう。しかも朴裕河は『ソウル新聞』記事の挺身隊理解の「誤り」を指摘する際、「日本で施行された制度がそのまま韓国でも施行されたかのように理解し、さらに挺身隊に行くとそのまま慰安婦になるものだったと考えていたのである。」(53)と批判していることから、勤労令が朝鮮では施行されていない、と考えている可能性すらある。

 本書の挺身隊に関する著しく矛盾した記述の氾濫は、朴裕河の挺身隊動員への無理解に加え、秦郁彦説への無理解に起因するものといえる。

3.挺身隊認識の問題②:「挺身隊=自発的志願」説

 それでは、結局のところ朴裕河は挺身隊の動員についてどのように理解しているのだろうか。結論からいえば、朴は挺身隊を「自発的志願」というフレームで理解しているといえる。「合法的に動員」や「公的な徴用」という言葉は、不用意と無知ゆえに記したに過ぎず、挺身隊動員の実態理解としては「自発的志願」が本質であると考えているとみてよい。これについて、以下では千田夏光『従軍慰安婦』に紹介された申河澈の証言についての朴の「解釈」を検討しながら考えてみよう。

 申河澈は京畿道加平郡で代々居酒屋を経営してきた人物で、千田夏光の取材に応じて挺身隊徴集の目撃談を語っている(千田夏光『従軍慰安婦』108頁以下)。証言の要旨は以下の通りだ。

「連れて行く三日前に”お前は挺身隊だ“という通知書が来るのです。駐在所の警官が持ってきました。」(十八歳以下の未婚の女性が対象で、三日後には駐在所前に娘達が集められる。:引用者注)「そこから警官が引率してトラックや汽車にのせ、逃亡しないよう監視しながらソウルへ連れて行きました。見送る家族、母親などは娘の足もとにすがり号泣し、それを警官が引き離そうとすると、今度はその警官の足にすがって、“返してくれ、助けてくれ”と泣きながら訴えるのですが、蹴とばされましてね。どこの国に娘が兵隊の慰みものになるのを喜んで見送る親がいるでしょうか。貧しい百姓でも人間ですからね」(千田『従軍慰安婦』110頁)

 朴はこの証言に対して、二通りの批判を加える。第一は、これは「慰安婦」の徴集の証言ではない、という批判である。証言からわかるように、申は「挺身隊」として徴集された女性たちが「慰安婦」にされたと考えている。だが朴はこれは「慰安婦」ではなく、「挺身隊」の「『公的』な徴用」の場面だったはずだ、と指摘する(55-56)。ここでも挺身隊を「公的」「徴用」と記して、秦郁彦説への無理解を露わにしているが、ひとまずそれは措こう。確かに朴のような解釈も成り立つだろう。

 問題は第二の批判である。朴はこうした徴集のやり方は、挺身隊の徴集としても例外的である、と批判する。

「村から強制的にトラックに乗せられていった女性たちの姿は、だまして連れていった業者たちによるものか、挺身隊をめぐる状況だった可能性が高い。ただし、挺身隊の場合だとしても、人狩りのような〈強制〉的な場面ではなかったはずだ。なぜなら、後述するように、当時における挺身隊とは〈国家のために〉「挺身」するものであって、たとえば兵士がそうであるように、構造的には強制でも、あたかも自発的であるかのような形を取っていたからである。」(56)

 すなわち、女子挺身隊とは自発的に志願するものだった、強制的な場面ではなかったはずだ、というのが朴の主張である。朴は以下のようにも書いている。

「内地-日本で挺身隊募集が始まると朝鮮ではこのような〈自発的な動員〉が始まった。[中略]それは朝鮮で徴兵が始まる前に志願兵制度が始まったことと軌を一にしている。そのような国家の呼び声に「志願」していく女性たちが多かったのはむしろ当然というべきだろう。その後実際に「ここに志願兵の姉がいる、生産戦場はどこですか、ハンナム(咸南)から挺身隊を志願」(同年九月一四日付)、「挺身隊でなくても、二人の女性嘆願を聞いてとりあえず事務委嘱」(同年九月一六日付)、「家庭も国があってこそ、血書で女子挺身隊嘆願した有馬嬢」(同二○日付、以上すべて同新聞、同、二六四〜二六六頁)など、志願は相次いだようだ。もちろんそれは非国民にならないための、〈自発の自己強制〉というべき事態だった。」(60)

 朴は挺身隊への「志願」の動機を、基本的には「挺身」という言葉通りの意味で捉えていることがわかる。「慰安婦」となった女性たちの動機について、朴が「愛国」というフレームで理解することと同じく、ここでも「非国民にならないための」「挺身」として、挺身隊への「志願」の動機を捉えているのである。

 だが、朴によればこうした『毎日新報』(総督府の御用新聞)が報じたような「自発性」(〈自発の自己強制〉?)という動機付けは、解放後の韓国では隠ぺいされたという。

「植民地は一貫した〈抵抗の地〉でなければならず、それは本人の記憶や意志を超えての、新しく出発した独立国家の夢でもあったのだろう。その過程における、さまざまな〈自発〉への沈黙は、〈嘘〉というより、むしろ「モラル」でさえあったはずだ。その出発からして「ポスト植民地国家」は、ほとんどの国民が経験した〈過去の否定〉から始まるほかなかったのである。」

 つまり、朴の主張はこうだ。挺身隊は自発的な志願だった、だが自発的に志願してしまうところに植民地の「構造」がある、にもかかわらず韓国ではこうした〈自発の自己強制〉はナショナリズムゆえに無視されてきた、と。池上彰が泣いて喜びそうな主張である。

 だが問題は「志願」の内容であろう。それを『毎日新報』の報じた通りの「非国民にならないための」「挺身」などと位置づけることができるのであろうか。挺身隊の募集に応じた女性たちの証言は、「志願」の内実について朴裕河の描くものとは異なる姿を示している。一例として、伊藤孝司編著『証言 従軍慰安婦・女子勤労挺身隊 強制連行された朝鮮人女性たち』(風媒社、1992年)の7人の元挺身隊の女性たちの証言から、なぜ募集に応じたのかを抜き出してみよう。

金福禮(1929年生、名古屋・三菱):国民学校卒業後に女学校へ行くつもりだったが、「隣組」の組長に日本で勤めながら勉強したらどうかと誘われ、三菱の「学校」へ行くつもりで挺身隊へ。
李東蓮(1930年生、名古屋・三菱):国民学校六年の時に三菱から「募集」があった。担任の日本人の先生に勧められた。三菱が校長に依頼したようだ。「日本では、工場で働きながら勉強させてあげるから」と言われ承諾。両親は強く反対した。
朴良徳(1931年生、名古屋・三菱):新聞で「挺身隊募集」を知った。「学校で勉強ができるなら」と応募した。「国(日本)に協力しよう」という気持ちもあった。
孫相玉(1925年生、名古屋・三菱):国民学校の教師をしていたところ、校長に呼ばれる。後藤という軍人と「三菱」から来た男が二人おり、校長から挺身隊の引率に指名される。
李鐘淑(1931年生、富山・不二越):父が徴用で連れていかれたところに挺身隊の募集があった。小学校の校庭で募集をしていて、募集要項には「挺身隊として日本に行って働いたら、女学校の卒業証書がもらえる」と書いてあった。勉強をしたくて募集した。
梁春姫(1930年生、富山・不二越):女学校二年生のときに挺身隊の話があった。日本人の先生から話があり「挺身隊に行けば卒業証書をくれる、待遇が良い、指導者としての資格の証明書をくれる」と言われ募集した。
李在允(1932年生、光州・鐘紡):姉に「挺身隊」の「徴用令」が来た。姉が「挺身隊」の講習も受けていたが行きたくないといって隠れていたら、日本人巡査と朝鮮人の面事務所職員がさがしにきた。見つからなかったので私を連れていった。駐在所にトラックが来ていて無理やり連れていかれた。

 これらの証言に共通するのは、企業(三菱や不二越)から学校に募集依頼があったこと、女性たちにとっては「学校に行ける」という勧誘が募集に応じる決定打になったこと、である。確かに朴良徳のように「国に協力しよう」と思ったという動機も語られてはいるが、朴にとっても第一の動機は学校に行くことであった。これは前述の『解説』が「その工場は工場か学校の延長かどちらか解らない様に立派なものです」と、挺身隊の動員先を美化していたこととも符合する。実際には彼女たちの「学校に行きたい」という願いは動員先の工場では果たされることなく、無残に打ち砕かれるのであるが、朴のいう「挺身」という動機付けという理解が、植民地下における女性たちの状況とそれにつけこんで「募集」をかけた企業の責任を無視した謬論であることが理解できよう。「状況」や「構造」という言葉を好んで用いるにもかかわらず、植民地支配の構造への理解が決定的に不足しているのだ。

 もちろん、これらの証言をもってただちに挺身隊の「動機」の全体を代表させることはできないだろう。だが総督府御用紙の表面的な報道を批判的に検討する重要な事実を指摘していることは確かだ。また李在允の証言は、「募集」に応じたケースにとどまらず、暴力的な連行のケースも存在したこと、「徴用令」による徴集があった可能性も伺わせるものといえる。容易に読むことができるこれらの証言をなぜ朴裕河は無視し、総督府の戦時動員の宣伝を間に受けて、挺身隊への応募の動機が文字どおりの「挺身」であったかのように語るのであろうか。理解に苦しむ。

 この箇所には前回も指摘したような朴裕河の論法がはっきりと現れている。総督府の挺身隊は自発的な志願だという主張に対し、具体的な事実関係のレベルで志願かどうかを争うのではなく、確かに志願だ、だが志願した「構造」が問題だ、とさっさと事実について総督府の見方を承認したうえで「見方」の争いに移行するのである。しかも実際には「構造」についての考察は極めて平板なものに留まる。驚くべきことであるが、朴裕河の挺身隊=自発的志願説の論拠はただ『毎日新報』のみなのである。

 さて、朴のように「挺身隊=自発的志願」説を取った場合、都合の悪い事実がある。自らが挺身隊徴集の場面だと指摘した、申河澈の証言の扱いである。申河澈は「今度はその警官の足にすがって、“返してくれ、助けてくれ”と泣きながら訴える」親たちの姿を千田に語っていた。朴はこの証言を以下のように読み解く。

「とはいえ、さきほどの「泣きながら訴える」親に関する証言を無視することはできない。/そこで考えられるのは、親たちが娘たちの行く先が、単なる「挺身隊」ではないと考えていた可能性である。その形が〈自発〉だろうが〈強制〉だろうが、娘たちを待っているのが「慰安婦」の仕事と考えての悲しみであったかもしれない。そこには、娘たち自身の悲しい〈嘘〉――性にかかわる仕事ではないと自分と親に納得させるために、内容が分かっていながら「挺身隊」に行くと話すような――があったかもしれないし、娘を貧しさゆえに売った親たちの〈嘘〉が介在していたのかもしれない。多くの売春女性や強姦された女性たちが、その事実を公には言えなかった差別的な社会構造こそが、挺身隊と慰安婦の混同を引き起こし、いまだにひきずっている根本的な原因とも考えられる。」(61)

 申河澈が目撃した親たちは、なぜ警官に「泣きながら訴え」ていたのか。それは親たちが娘たちが「慰安婦」にされると思っていたからだという。そして、親たちがそう「誤解」するに至った背景には、娘たちが本当は「慰安婦」になるとわかっていながら「挺身隊」に行くと親に言った〈嘘〉や、親たちが娘を「慰安婦」として業者に売っていたにもかかわらず、「挺身隊」に連れて行かれた言うと〈嘘〉が社会的に広がっていたからだ、というのだ(この読み方は相当に朴に好意的な解釈である。この段落は読みようによってはもっとひどいことを言っているようにも読める)。

 衝撃的な解釈である。もし朴のいうように親たちが「挺身隊」を「慰安婦」と理解していたとするならば、その最大の要因は日本軍が朝鮮人「慰安婦」を実際に使った事実があったからであろう。それが、当事者女性やその親たちの〈嘘〉のせいにされている。そもそも、朴のいうように、自発的に行った女性も娘を売った親もみんな「挺身隊」に行くと嘘をついていたならば、なぜ親たちは挺身隊動員を「慰安婦」への徴集だと考えることができたのか、全く説明がつかないではないか。

 そもそも、娘を挺身隊に取られることに抵抗し警官に泣きながら訴える人がいるという事実に、なぜ朴は疑いを差し挟むのだろうか。逆にいえば、なぜ朴は、挺身隊に取られるのならば親が泣くはずはない、と考えるのだろうか。上にあげた元挺身隊女性たちの証言にも、家族が身を案じて反対した、という話は沢山出てくる。申河澈は、戦時末期には挺身隊逃れのため急遽結婚させるケースが増えたため、解放後に悲惨な離婚をした者が多かったと語ってもいる。朴裕河には、戦時動員そのものの暴力性・抑圧性への想像力が一切ないように思える。「たとえ相対的な〈善政〉があったとしても、それはあくまでも体制に抵抗しない人々に限ることでしかなかった。」(225)と書けてしまう植民地支配認識の甘さが、ここでも露呈している。

 さらにこの記述からは、証言や史料の解釈の際に朴が重視しているのが、植民地支配を生きた人々の声に耳を傾けることではなく、朴自身の図式・思い込み――挺身隊には自発的に志願して行った――であることがわかる。自らの図式を維持するためには、他者を貶めることも厭わない。朴はここで自説を維持するために、二つの〈嘘〉を登場させているが、そこには何の根拠も示されていない。本当は「慰安婦」になるとわかっていながら「挺身隊」に行くと親に言った者、娘を「慰安婦」として業者に売っていながら「挺身隊」に連れて行かれたと言った者は本当にいたのか。朴の想像にすぎないではないか。「文学」とはかくも「自由」なものなのか。

 朴はこれらの根拠なき推論にさらなる推論を重ねる。

「おそらく、このような混同を生み出したのはまずは業者の嘘によるものだったはずだ。「挺身隊に行く」と偽って、実際には「慰安婦」にするために戦場に送るような嘘である。それは自分の利益のためのみならず、軍が要望する圧倒的な数に応えるためにも、「挺身隊」という装置が必要だったのだろう。合法的な挺身隊の存在が、不法なだましや誘拐を助長したとも言える。そこに介在した嘘は、慰安婦になる運命の女性たち自身や周りの人々、そしてその家族をその構造に入りやすくする、無意識のうちに共謀した(嘘〉でもあった。そこで行われている最後の段階での民族的蹂躙を正視しないためにも必要だった、〈民族の嘘〉だったのかもしれない。
 つまり、彼女たちのみならず、彼女たちを守れなかった植民地の人々すべてが、〈慰安婦ではなく挺身隊〉との〈嘘〉に、意識的あるいは無意識的のうちに加担した結果でもあったのである。そして、そのような嘘を必要とする事態こそが、「植民地支配」というものでもあった。」(61-62)

 こうして、業者の嘘、女性たちの嘘、親たちの嘘は、「共謀した〈嘘〉」として渾然一体となり、周到に日本軍の嘘のみを排除したうえで、〈民族の嘘〉なる驚くべき言葉が作られるに至る。朝鮮人たち――業者、女性、親――が「挺身隊」を隠れみのに共謀して嘘をついた、それはこの朝鮮人たちを「その構造に入りやすくする」ような「無意識のうちに共謀した〈嘘〉」であった。目を疑う記述だが、本当に朴裕河はこう言っているのである。しかも何の根拠もない。

 この「共謀した〈嘘〉」なる言説が破綻していることは、上の引用だけからでも明らかである。女性や親たちが嘘をついたとするならば、業者は嘘をついていないことになる。業者が連れていく目的を伝えていなければ、親や女性たちは嘘などつきようがない。結局朴のいう「共謀した〈嘘〉」「民族の〈嘘〉」論は、業者すら免責し、末端の民衆たちに責任を転嫁する言説なのである。植民地支配下を生きざるをえなかった朝鮮民衆の経験を根本的に侮辱する、この〈民族の嘘〉なる言説を、朴は何らの根拠も示さないばかりか、挺身隊についての初歩的な理解すらしていないなかで主張した。この本は正しく「反動的」な著作と呼ぶべきである。

 繰り返しになるが、この本を讃えている者たちは、一体自らが何を褒めているのかを知り、真摯に反省すべきである。本来ならば論証なき著作(「軟体動物」)は一笑にふされ屑箱に放り込まれてしかるべきである。にもかかわらず、軟体動物は数々の賞を得て、生き延びている。知識人の社会的責任を放棄したうえ、被害者たちへの侮辱に手を貸す「識者」たちの責任は極めて大きい。こうした軟体動物の群れには、確かに「関節技」に留まらない相応の料理法を考えねばならないのかもしれない。力を合わせ、知恵を絞って大釜を拵えねばなるまい。ただ、その前に指摘すべき誤りがまだまだ残っている。

*1 金富子「混迷する『慰安婦』問題を考える 朝鮮人「慰安婦」と植民地支配」『静岡県近代史研究』40号、2015年、日本軍「慰安婦」問題webサイト制作委員会編、金富子・板垣竜太責任編集『Q&A朝鮮人「慰安婦」と植民地支配責任 あなたの疑問に答えます』(Fight for Justiceブックレット3)、御茶ノ水書房、2015年など。

*2 なお、秦は該当箇所を林えいだい編『戦時外国人強制連行関係史料集』(明石書店、1991年)から引いたとしているが、同書に『国民徴用の解説』は収録されていない。林えいだいの解説からの孫引きの可能性もある。

(鄭栄桓)


by kscykscy | 2015-11-03 00:00 | 歴史と人民の屑箱

なぜ朴裕河『帝国の慰安婦』は右派に受け入れられるのか

 乗りかかった船であるし批判を始めた社会的責任もあるため、いま全面的に『帝国の慰安婦』の再検証をしているが、この本にはまだまだ数えきれないほどの誤りがある。誇張ではなく、毎日何かしらの誤りが見つかる。私がこれまで書いてきたことですら、本書の誤謬のほんの一部に過ぎないのである。石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞文化貢献部門大賞を受賞したようだが、改めてこのような本が次々と学術・論壇関連の賞を獲得し続けることに呆然とせざるをえない。

 ところで、石橋賞の授賞理由のなかでホルヴァート・アンドリューは『帝国の慰安婦』は「日韓両国民の多くが抱く「ウソ」を冷静に分析」したとし、「本は日本人が抱く「ウソ」にも厳しい」と記している。朴裕河自身も、自著(そして自身)について左派も右派も批判したと表象しているし、朝鮮語版だけにある後記でも、ハンギョレ新聞の記者が『和解のために』を「日本右翼の賛辞を受けた」と書いたことに激怒している(318頁)。

 だが『帝国の慰安婦』に関していえば、日本の右派への批判は全く「厳しい」ものではないし、むしろ右派の賛辞を得ているという評価はあながち間違っていないと思う。アジア太平洋賞特別賞の選考委員は明らかに右派であるし、朴を賞賛する長田達治なども同様である。ほかにも例えば秦郁彦は次のように書いている。

「筆者は『慰安婦と戦場の性』(新潮選書、1999)などで、第二次大戦からベトナム戦争に至るまで、韓国をふくむ参戦諸国が慰安婦を利用していた事実があり、彼女たちは公娼(売春婦)という職業の戦地版にすぎず、日本軍慰安婦だけが批判の的にされる理由は乏しいと反論してきた。
意外にも筆者と似た理解を示したのは、韓国世宗大学校の朴裕河教授である。しかし強制連行や性奴隷説を否定し、「韓国軍、在韓米軍の慰安婦の存在を無視するのは偽善」と指摘した彼女は、慰安婦の支援組織から「親日的」だとして提訴された。
 熊谷本[『慰安婦問題』(筑摩新書)のこと]は吉見と秦=朴の中間的立場を取るが、論争の経過や争点を手際よく整理してくれているので、概説書としては最適だろう。ただし「フェミニズムによる挑戦」という観念論に傾き、韓国等の反日ナショナリズムに圧倒されがちな現実から目をそらしているのが物足りない。」(『週刊文春』2015年5月7・14日ゴールデンウィーク特大号[57巻18号]、146頁)

 「秦=朴」と書くほどに、『帝国の慰安婦』は自身「と似た理解」であると考えているのである。私は秦郁彦の『帝国の慰安婦』理解は決して誤っていないと考える。朴の業者主役説をはじめとする日本軍「慰安婦」制度理解は秦郁彦と極めて似通っている。日本軍責任否定論者にとっては、朴の所説は都合のいいものだろう。しかも、「黙認」「需要」の責任はあるといったレトリックで、責任を認めたかのような粉飾までしているのだから、大変便利である。

 ただ、右派が『帝国の慰安婦』を受け容れる理由としては、こうした積極的理由(自らにとって都合がいい)に加えて、消極的理由、すなわち朴の右派批判が右派にとって痛くも痒くもない、という事実をあげておかねばなるまい。

 朴は『帝国の慰安婦』第三部第一章「否定者を支える植民地認識」で、「慰安婦」否定論者への「批判」を行っている。具体的には、(1)女性たちは自発的に金儲けに行った娼婦であり、強制連行などなかった、(2)軍隊は女性たちを保護しようとした、(3)慰安婦は当時は合法だった、(4)戦場の慰安婦たちはとても「性奴隷」には見えなかった、という四つの主張への「反論」を試みているのだが、これが全く「反論」になっていない。

 そもそも、「否定者」というだけで否定論者は具体的に名指しされておらず、わずかに第四節において、小野田寛郎「私が見た従軍慰安婦の正体」『WiLL』2007年8月号増刊、諏訪澄「「従軍慰安婦」に入れ揚げたNHK」(同上)、木村才蔵「慰安婦問題を斬る!」『国体文化』、2007年5月、日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会編『歴史教科書への疑問――若手国会識員による歴史教科書問題の総括』が名指されているにとどまる。しかも最後の『歴史教科書への疑問』は日本軍「慰安婦」問題に関する記述への反論ではない。相手を特定しない批判ならば、大して痛くはないだろう。

 そして一番の問題は「反論」の論理である。詳しくは別の機会に譲るが、結論からいうならば、朴の反論は基本的に相手の主張を全て認めて事実関係を争わず、その「見方」のレベルで勝負しようとするものである。いわば、相手の土俵に全面的に乗った「反論」といえる。

 例えば、「女性たちは自発的に金儲けに行った娼婦である」という主張に対して、朴は、確かに自発的に行った娼婦だったが、そうさせた「構造」が問題だ、と切り返す。

「しかし、たとえ〈自発的〉に行ったように見えても、それは表面的な自発性でしかない。彼女たちをして「醜業」と呼ばれる仕事を選択させたのは、彼女たちの意志とは無関係な社会構造だった。彼女たちはただ、貧しかったり、植民地に生まれたり、家父長制の強い社会に生まれたがために、自立可能な別の仕事ができるだけの教育(文化資本)を受ける機会を得られなかった。」(229-230)

 「彼女たち」が「自発的」に行ったこと、「醜業」を「選択」したことを認めてしまうのである。「強制連行」の概念が恣意的に切り縮められていることの指摘すらなく、事実関係に至っては全く争わない。そのうえで「選択」させたのは「意志とは無関係な社会構造だった」と「反論」する。

 当時は「合法」だった、という主張についても同様だ。

「慰安婦たちがたとえ慰安婦になる前から売春婦だったとしても、そのことはもはや重要ではない。朝鮮人慰安婦という存在が、植民地支配の構造が生んだものである限り、「日本の」公娼システム――日本の男性のための法に、植民地を組み込んだこと自体が問題なのである。慰安所利用が「当時は認められていた」とする主張は、「朝鮮人慰安婦」問題の本質を見ていない言葉にすぎない。」

 確かに合法だった、だがそれは男たちがつくった「法」だった、という「反論」である。これほど当時の条約や法律にすら違反していた事例が紹介されているにもかかわらず、ただちに合法であったことを認めてしまう。「遅ればせながらでも、過去のあることを、「正しくないこと」と新たに認識することが重要」だという指摘は一見いいことを言っているように聞こえる。だが合法性が問題となっている際に、相手の主張を認めたうえで「慰安所の利用を常識とし、合法とする考えには、その状況に対する恥の感覚が存在しない。」などという倫理の次元の論点を繰り出すのは、単なる逃避であろう。

 植民地支配は「善政」だった、という主張への反論もふるっている。

「植民地支配の内実が実際にはよい統治だったと強調する人も日本には多い。しかし、たとえ相対的な〈善政〉があったとしても、それはあくまでも体制に抵抗しない人々に限ることでしかなかった。逆に言えば、日本の統治が〈穏健〉だったのは、日本国家への服従が前提とされていた空間でのことだった。法律を作って挺身隊を合法的に動員できるようにしながら、「慰安婦」はそうはしなかったのは、それが植民地での穏健統治の臨界が壊れることだったからである。同じく、植民地ではなく戦場で、さきの小説でのようなことがあり得たのは、そこが「国家」(法律体系)の外の空間だったからである。つまり、そこはもはや、日常を維持する法を作動させなくてよい空間だった。」(225)

 植民地統治に服従する人々にとっては確かに善政だったのだそうだ。まだまだある。

 とても「性奴隷」には見えなかった、という主張に対しては、それは彼女たちが精一杯「国家」に尽くそうとしたからだ、「愛国」しようとしたからだ、と「反論」する。

「彼女たちは、自分たちに与えられていた「慰安」という役割に忠実だった。彼女たちの笑みは、売春婦としての笑みというより、兵士を慰安する役割に忠実な〈愛国娘〉の笑みだった。たとえ「兵士や下士官を涙で輻して規定の料金以外に金をせしめているしたたかな女」(同)がいたとしても、兵士を「慰安」するために、植民地支配下の彼女たちを必要とした主体が、彼女たちを非難することはできないはずだ。そして、そのようなタフさこそが、昼は洗濯や看護を、夜は性の相手をするような過酷な重労働の生活を耐えさせたものだったのだろう。」
「植民地人として、そして〈国家のために〉闘っているという大義名分を持つ男たちのために尽くすべき「民闘」の「女」として、彼女たちに許された誇り――自己存在の意義、承認――は「国のために働いている兵隊さんを慰めている」(木村才蔵二○○七)との役割を肯定的に内面化する愛国心しかなかった。「内地はもちろん朝鮮・台湾から戦地希望者があとをたたなかった」(同)とすれば、そのような〈愛国〉を、ほかならぬ日本が、植民地の人にまで内面化させた結果でしかない。」(232)

 ここでもかつての兵士側からの一方的な追憶を他の史料によって批判的に相対化する作業などは試みることすらせず(千田夏光の本だけからでも反論できる証言は山程ひきだせる)、確かにそうだ、だがそれは彼女たちが一生懸命「愛国」しようとしたからだ、と認めてしまうのである。「戦場における兵士たちの性行為は、死という非日常を押しつけられた中で「日常」をとりもどそうとする切ない欲望の表出でもあって、一概に非難することはできない」(233)と物分りのよい態度を示しながら。

 私はこの本の核心となるテーゼの一つ、朝鮮人「慰安婦」は〈愛国〉的存在であった、という主張は、全く証明できていないと考えている(千田もそんなことは主張していない)。だが、朴は事実関係や証言、史料と真摯に向き合わず、自らが考えついた図式に基づいて右派の主張を事実認識のレベルで全面的に認めたうえで、「彼女たちがそのような場所まで行って日本軍とともにいたことを、日本の愛国者(慰安婦問題を否定する日本人の中には愛国者が多いようだ)たちが批判するのは矛盾している」(232)といった、「愛国者」としての首尾一貫性だけを問題にする。朴の右派への「反論」は一事が万事この調子である。このような机上の屁理屈の「批判」が右派の脅威になるはずがない。右派にとって『帝国の慰安婦』の批判など何らの痛痒も感じさせないものであるばかりか、事実関係については右派の認識を全面的に肯定してくれるのでむしろ都合がいいとさえいえる。『帝国の慰安婦』が右派に受け入れられるのは当然であろう。

(鄭栄桓)

by kscykscy | 2015-10-26 00:00 | 歴史と人民の屑箱

朴裕河の「反論」を検証する――再論・『帝国の慰安婦』の「方法」について(6・終)

6.結び

 以上で朴裕河の「反論」をすべて検証した。私の「批判が誤読と曲解に満ちたものだった」という論難は誤っており、朴の「反論」は何ら反批判たりえていないことが証明されたのではないだろうか。

 朴裕河は「反論」の結びとして、「5.生産的な談論のために」と題して以下のように書いた。

「鄭栄桓はもはや徐京植や高橋哲哉すら批判する。高橋はリベラル知識人のなかでもとりわけ「反省的な」視角と態度を堅持してきた人物であり、徐京植と共同作業を数多くしてきた人物でもある。こうした者たちまで批判する鄭栄桓に最初の答弁で問うた言葉を再び問いたい。鄭栄桓の批判はどこを志向するのか?
 確かなことは、鄭栄桓の「方法」は日本社会を変化させるどころか、謝罪する心を持った者たちすら背を向けさせ、在日僑胞社会をより苦しくさせるだろうということだ。もちろん日本社会に問題がありもするが、それ以上に鄭栄桓の非難に「致命的な問題」があるからだ。その問題を私に対する批判の方式が証明している。存在しもしない意図を探しだすために貴重な時間を消耗するよりも、生産的な談論の生産に力を使って欲しいと願う。」

 私のような批判を野放しにしておくと、在日同胞社会が損をするぞ、その証拠に徐京植や高橋哲哉すら批判しているではないか、と読者に「忠告」しているわけだ。呆れた「反論」である。

 残念ながら、この結びにもあらわれているように朴の「反論」は『帝国の慰安婦』に輪をかけて質が低く、事実上反論をしていないに等しい。本論中でも指摘したように、私の論文からのまともな引用も出来ていないうえ、自らの著作すら理解しているか怪しい。その代わりに幼稚な揶揄(「歴史研究者である鄭栄桓がテキスト分析について文学研究者ほどの緊張がないのは仕方のないこと」云々)を投げつけ、論点をそらし(「こうした批判は、日本人男性の小説はその存在自体が日本に有利な存在であるかのように考える偏見が生み出したもの」云々)、「誤読と歪曲」をしていると批判者に責任を転嫁する。これは極めて異様なことである。

 私が朴裕河の「反論」に何より欠けていると思うのは、自らが発表した著作に対する責任意識である。私たちは何かを書くときには、常に何らかの意図と目的を持って調査するがゆえに、それを適切に表現できるか、読み手に伝わるかどうか苦悶しながら執筆し、公表する。そして公の場に示された著作は、もはや著者の意図を離れ、それ自体独立のテキストとして評価されざるをえない。それゆえテキストに即した批判に対しては、反論をする側も改めてテキストに即して説明するほかない。本当はこう書きたかったんだ、という「意図」を示したところで、テキストとは異なる内容であるならばそれは「反論」にはなりえない。人格を論じているのではなく、その著作を論じているのだから当然である。著者には公の場にテキストを公表した責任として、そこで書いたこと(「書こうとしたこと」ではない)への責任が生じると私は考える。

 今回の反論にもこうした責任意識の欠如がよくあらわれている。『帝国の慰安婦』では書いていないことを「要約」して示してみたり、明らかに書いていることを書いてないと「反論」してみたり、ディシプリンの違いに逃げ込んだりすることに、それはよく現れている。自らの著作を理解していないのである。だからこそ、批判に対して、批判者のスタイルや属性をまず問題視するような「反論」が書けるのだろう。自らの著作に愛着と責任を感じるのなら、絶対にこうした「反論」のスタイルは試みないと思うのだが、どうだろうか。

 最後に、以下の二段落の叙述については改めてその「根拠」を問い、抗議したい。

「鄭栄桓は同じ方法で私が「韓日合邦を肯定」したと書く。だが私は韓日合邦無効論に懐疑を示しながらも、「もちろん現在の日本政府が慰安婦問題をはじめとする植民地支配に対する責任を本当に感じるのであれば、そしてそれを敗戦以後国家が正式に表現したことが無かったという認識がもし日本政府に生じたならば、「法的」には終わった韓日協定だといっても、再考の余地はあるだろう。女性のためのアジア平和国民基金の国内外の混乱は、その再考が源泉的に排除された結果でもある」(『和解のために』235)と書いた。私は韓日合邦も韓日協定も「肯定」していない。

 私は慰安婦を作り出したのは、近代国民国家の男性主義、家父長主義、帝国主義の女性/民族/階級/売春差別意識であるため、日本はそうした近代国家のシステムの問題であったことを認識し、慰安婦に対し謝罪/補償をすることが正しいと書いた。にもかかわらず鄭栄桓は「朴裕河は韓日合邦を肯定し、1965年体制を守護しており、慰安婦のハルモニの個人請求権を認めない」というのである。私は「学者」によるこうした歪曲は犯罪レベルのものであると考える。」

 すでに指摘したが、私は朴が「韓日合邦を肯定」したなどとは書いていない。繰り返しになるが、引用符を引用でもない箇所で用いるべきではない。また、朴が併合条約を合法とし、慰安婦女性たちの請求権を認めないのは、『帝国の慰安婦』を一読すれば明らかである。日韓協定の再協商を否定し、協定の枠内での調停すら批判する朴の立場が「1965年体制」を「守護」するものと理解することも決して逸脱した解釈ではあるまい。にもかかわらず、「「学者」によるこうした歪曲は犯罪レベルのものであると考える」その根拠は何か。それがいかなる「犯罪」に該当するのか。朴裕河には回答する義務がある。なお、この点については『歴史批評』の編集委員会にも責任があると考えるため、再反論の掲載を求めるつもりである。

(鄭栄桓)

by kscykscy | 2015-10-07 00:01 | 歴史と人民の屑箱

朴裕河の「反論」を検証する――再論・『帝国の慰安婦』の「方法」について(5)

5.「反論」の検証⑤――在朝鮮日本財産と「個人の請求権」について

 朴裕河は「反論」において、元「慰安婦」被害者たちの「個人の請求権」に関連して次のように指摘した。

「鄭栄桓は487頁から488頁で私の本から長く引用しながらも、米国が日本人たちの朝鮮半島財産を接収して韓国に払い下げ、それを外地から日本人を帰還させた費用を相殺させたという部分を抜いて引用する。だがこの部分こそが私が日本に請求権を請求するのが難しいと理解するようになった部分である。国家が相殺してしまった「個人の請求権」を再び認めるならば、日本人もまた朝鮮半島に残した資産の請求が可能になるという問題が生じるからだ。」(476頁)

 はじめに強調しておきたいのは、こんな主張は初耳だ、ということである。確かに私は、『歴史批評』論文では朴の在朝鮮日本財産に関する主張について検討していない。だがそれは不都合な箇所であったからではない。朴の立論にとって重要な箇所ではないと判断したからである。この「反論」で朴は、「個人の請求権」が認められない論拠として、在朝鮮日本財産の問題を指摘しているが、こんな主張を『帝国の慰安婦』ではしていない。もししていたら取り上げないはずがない。驚くべき珍説だからだ。

 まずは、私が「抜いて引用」したといわれた『帝国の慰安婦』の該当箇所を全文引用しよう(段落記号は筆者が付した)。

「【A】しかし、不思議なことに、人的被害に対する要求は、1937年以降の、日中戦争における徴用と徴兵だけに留まり、突然の終戦によって未回収となった債権などの、金銭的問題が中心となっていた。つまり、1910年以降の36年にわたる植民地支配による人的・精神的・物的事柄に関する損害ではなく(実際の日本の「支配」は「保護」に入った1905年からとするべきだが)、1937年の戦争以降の動員に関する要求だったのである。
【B】決裂することもあったほどに、互いに植民地時代を強く意識していながら、そういうことになったのは、日韓会談の背景にあった、サンフランシスコ条約があくまでも戦争の後始末――文字どおり「戦後処理」のための条約だったからである。日韓会談の枠組みがサンフランシスコ条約に基づくものであったために、その内容は戦争をめぐる損害と補償について、ということになっていたのだろう。
【C】会談は、金銭的な問題については、日本が残してきた資産と韓国が請求すべき補償金(対日債権、韓国人の軍人軍属官吏の未払い給与、恩給、その他接収財産など)をめぐっての議論が中心だったようである。そして請求権に関して、基本条約の付随条約――「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」が結ばれたのだった。つまり、日本がこだわっていた朝鮮半島内の日本人資産は放棄され、(アメリカが戦勝国として)「接受」し、それを韓国に分け与えた形を取った。これも反共戦線を作るためのアメリカの思惑が働いてのことのようで、アメリカが日本から受け取るべき費用(引揚者の帰国費用など)をそのようにして肩代わりすることで、韓国の自立を助けたという(浅野豊美二〇〇八[『帝国日本の植民地法制』:引用者注]、六〇六~六〇七頁)。
【D】いずれにしても、1965年の条約及び協定内容と金銭の名目に「植民地支配」や「謝罪」などの言葉が含まれなかったのは、そのときの韓国の「請求権」が、1937年以降の戦争動員に限るものだったためであろう。そして、その賠償金はすべて韓国政府に渡され、国家が個人請求に応える形となった。」(『帝国の慰安婦』日本語版、248-249頁)

 【A】~【D】4つの段落のうち、『歴史批評』論文では【C】を省略し、朴が「経済協力」を「賠償金」と理解している論拠として示した。朴が「この部分こそが私が日本に請求権を請求するのが難しいと理解するようになった部分」としたのはこの【C】である。叙述が錯綜しておりわかりづらいため、この箇所を改めて整理し直すと以下のようになる。

(1)韓国政府がサンフランシスコ講和条約の枠組みを意識して、日中戦争以降の動員による人的被害への賠償だけを求めた(【A】【B】)
(2)日韓会談では在朝鮮日本財産と「韓国が請求すべき補償金」の処理が議題となった。米国が反共戦線を作り韓国の自立を助けるため、前者は放棄された。(【C】)
(3)日韓請求権協定により日本政府は「1937年以降の戦争動員に限る」賠償金を韓国に支払い、韓国政府が個人の請求に応えることとなった。(【D】)

 こうしてまとめると、正しいかは別にして、朴の意図はよくわかる。韓国は1937年以降の戦争に限って対日賠償請求をして請求権協定で賠償が支払われた(誤っているが)一方、日本は米国の政策により対韓財産請求を放棄した、と言いたいのであろう。ただ【C】の叙述は時系列が混乱しており、大変読みづらい。【C】をさらに分解すると以下の通りになる。

【C1】日韓会談では在朝鮮日本資産と韓国の請求する補償金が議題となり、請求権協定が結ばれた。(1952-65年)
【C2】日本は在朝鮮日本資産を放棄し、米国が戦勝国として「接受」し韓国に与えた。(1945-48、51、57年)
【C3】米国の政策の意図は反共戦線を作り韓国の自立させるためであった。(?年)

 おそらく【C2】は1957年の米国政府による米軍政令解釈の日本政府への提示を念頭に置いた叙述なのであろうが、「(アメリカが戦勝国として)「接受」し、それを韓国に分け与えた形を取った」という曖昧な書き方をしているため、日韓会談開始以前の接収と払い下げを指すようにしか読めない。よって時系列的には過去へと遡るように読めるにもかかわらず、朴は【C1】と【C2】を「つまり」で接続するため、前提知識の無い者が読むと、日韓交渉の最中に米国が旧日本資産を接収したうえで韓国に与え、日本の対韓財産請求を封じ込めたと読んでしまう可能性が高い。逆に、ある程度歴史的経緯を知っている者がこの箇所を読むと、突然タイムマシーンに乗せられて過去に放り込まれたような、不条理な感覚に襲われるのである。

 何よりここでの問題は、この叙述から元「慰安婦」被害者の「請求権を請求するのが難しいと理解する」ことができるか、ということである。

 まず、【C】における在朝鮮日本財産への言及は、あくまで米国が「反共戦線」と韓国の自立のため日本に請求を放棄させた、という主張を支えるためのものである。この主張の当否はひとまずおくとしても、元「慰安婦」被害者の「個人の請求権」が認められない論拠として触れられたわけではないことは明らかだ。本書を未読の者は「反論」の主張は自著の該当箇所を「要約」したものであると考えるであろうがが、上の引用から明らかなように、『帝国の慰安婦』で朴はそのような主張を行ったわけではない。「反論」における在朝鮮日本財産と「個人の請求権」に関する主張は、『帝国の慰安婦』にはみられない全く新しい主張なのである。

 朴裕河が『帝国の慰安婦』刊行後に講演やfacebook等で示した「要約」なるものは、多くの場合要約たりえていないが、今回も同様である。少なくとも『帝国の慰安婦』から、「この部分こそが私が日本に請求権を請求するのが難しいと理解するようになった部分である」という朴の意図を読み取ることは不可能である。朴が先行研究や証言、史料を適切に読み解けていないことを私は再三指摘してきたが、ここではそれどころか、朴が自著すらも全く読み解けていないことが露呈している。

 ところで、【C】の段落には浅野豊美の著作が出典として示されている。浅野が「個人の請求権」について朴の「反論」のような主張をしたのであろうか。念のため該当箇所と思われる部分を以下に引用しよう。

「アメリカの主導する東アジアの地域統合プランがこうして大幅に修正される[中国東北・北朝鮮の重工業設備に日本から撤去した賠償設備を加えて中国・朝鮮の近代化を実現する構想が、中国共産党の勝利により日本の復興支援政策へと修正されたこと:引用者注]前に、南朝鮮における在外財産の接収は、初期の懲罰的賠償計画の一環として1945年12月の米軍政令33号によって行われた。それらは「敵産」の払下げという形で現地の住民に移譲されたが、その国際法上の位置づけは、あくまでアメリカが受けとった賠償物資を、現地の住民に対してアメリカからの援助の一部として移譲するというものであった。そして、一度接収された在外私有財産の返還は、あくまで日本政府と日本国民との間で解決されるべき問題と、アメリカはみなしていた。前述した占領方針中の私有財産処理原則にもかかわらず、アメリカが日本人私有財産の所有権移転に踏み切ったのは、北朝鮮における日本人私有財産が没収処分を受けていたため、南朝鮮でのみその補償を前提とする敵産管理政策を持続すれば、朝鮮人からの不信を招くとする理由からであった。アメリカはその処分をサンフランシスコ講和条約四条b項により日本に認めさせ、また、後述する1957年末の日韓両政府への覚書でも、在韓私有財産の請求権が日本にはないという解釈を提示することによって、両国の実質的仲介役となっていた。」(浅野豊美『帝国日本の植民地法制』名古屋大学出版会、2008年、p.606-607)

 浅野はこのように、あくまで南朝鮮において米軍政が日本財産の接収に踏み切った背景を説明しているのであって、「個人の請求権」については語っていない。本来ならこうした「反論」は無視してもよいのであろうが、朴がとりわけ強調したい論拠でもあるようなので、簡単にだけその妥当性を検証しておこう。

 朴は「米国が日本人たちの朝鮮半島財産を接収して韓国に払い下げ、それを外地から日本人を帰還させた費用を相殺させたという部分[…]こそが私が日本に請求権を請求するのが難しいと理解するようになった部分である。国家が相殺してしまった「個人の請求権」を再び認めるならば、日本人もまた朝鮮半島に残した資産の請求が可能になるという問題が生じるからだ。」と主張する。朴が何を言いたいのか私には正確には理解できないのだが、あえて整理するならば、「反論」には以下の二つの命題が含まれていると考えられる。

元「慰安婦」被害者たちの「個人の請求権」は、米国が在朝鮮日本財産を韓国に払い下げて日本人の引揚げ費用と相殺させたため、認められない。
元「慰安婦」被害者たちの「個人の請求権」を認めると、在朝鮮日本財産に対する日本人の請求が可能になる。

 結論からいえば、このような主張は成り立たないと考えられる。在朝鮮日本財産については、在朝鮮米軍政庁が1945年12月6日の米軍政令33号で接収し、政府樹立に伴い韓国に払い下げたが、日本政府はこの効力を1951年9月8日調印のサンフランシスコ講和条約第4条(b)項で認めている。1952年以降の日韓交渉で確かに日本政府は在朝鮮日本資産の問題を「逆請求権」として論点化するが、サ条約で効力を認めたため本当に請求できるとは流石に思っておらず、当時の日本側の表現を借りれば一種の「バーゲニング・トゥール」以上の意味はなかった(*1)。上の浅野の引用にもあるように、米国は1957年に日本側が権利を主張できないとの米軍政令の解釈を日本政府に伝えており日韓会談でも議論されている。

 よって旧日本財産に対する何らかの補償を日本人が韓国政府に請求するためには、現時点ではサ条約を改定するほかなく、それは不可能であろう。少なくとも韓国政府を相手にするものに関する限り、「国家が相殺してしまった「個人の請求権」を再び認めるならば、日本人もまた朝鮮半島に残した資産の請求が可能になる」という事態が発生するとは考えにくい。

 また、かつても指摘したように日韓会談で元「慰安婦」被害者への補償問題が議論された形跡はなく、日韓両政府による「相殺」されたと考えることは困難であろう。何より朴の「反論」は、旧日本財産と日本人の引揚げ費用が相殺されたため、元「慰安婦」被害者たちの「個人の請求権」が認められない、という奇妙な理屈が展開されており、仮にそのような主張をするのであれば論拠を示すべきであろう。そもそも、元「慰安婦」被害者たちが求めている「請求」の内容は、単純な財産の返還・補償請求ではなく、人的・物的被害に対する補償も含まれたより広範なものだ。全く位相が異なる問題である。

 いずれにしても、朴の「反論」における主張はあまりに珍奇なため、これだけでは何を主張したいのか理解しがたい。相応の論拠を示していただきたい。

*1 太田修「二つの講和条約と初期日韓交渉における植民地主義」、『歴史としての日韓国交正常化Ⅱ脱植民地化編』(法政大学出版局、2011年)等を参照。

(鄭栄桓)


by kscykscy | 2015-10-07 00:00 | 歴史と人民の屑箱

朴裕河『帝国の慰安婦』の「第27回アジア・太平洋賞」特別賞受賞について

 朴裕河『帝国の慰安婦』が「第27回アジア・太平洋賞」特別賞を受賞した。朴は自身のfacebookで「(授賞)を辞退しない理由」と題して、「指折りの進歩新聞」である毎日新聞社から賞を与えられた喜びを綴っているが、そのなかに以下のような一節があった(強調は引用者)。

「毎日新聞社で「アジア・太平洋賞特別賞」受賞者に内定したとの知らせを興奮した声で電話で知らせてくれたのも彼女[朝日新聞出版の担当編集者]だった。私はその知らせを地下鉄のホームで受けた。はじめに頭をかすめたのは、このことをもってまた歪曲し非難する者たちがいるだろうという考えだったから、喜びよりも複雑な心境だったが、いずれにしろ高い評価を受けたのは彼女の苦労のおかげであると考えて、私は真心を込めて彼女にありがとうと言った。在日僑胞学者の執拗な批判が影響を及ぼすのではないかと編集者は心配したが、大賞ではない理由がそこにあるのかどうかはまだよくわからない。

 「在日僑胞学者の執拗な批判」とは、おそらく私の批判を指すのであろう。確かに残念である。私は本書が数多くの事実関係の誤りと恣意的な方法により綴られた、到底評価するに値しない問題作であることを丁寧に説明し、批判してきたつもりだ。学問的論争以前の欠陥品であることをそれこそ「執拗」に様々な論点をあげて指摘した。「在日僑胞学者の執拗な批判」がなければ大賞もありえたかのように書ける神経には絶句するほかないが(授賞を辞退するつもりなどもとより無いだろう)、いずれにしろ数多くの批判など存在すらしないかのような今般の授賞には憤りをおぼえざるをえない。

 もちろん授賞が「アジア・太平洋賞特別賞」の価値を減ずるといいたいわけではない。選考委員の顔ぶれをみると(北村正任・アジア調査会長、田中明彦・国際協力機構理事長、渡辺利夫・拓殖大学総長、白石隆・政策研究大学院大学学長、伊藤芳明・毎日新聞社主筆)、さもありなんという印象である(*1)。ただこの授賞で権威づけられることにより、本書が今後さらに日本社会で「まともな本」「信頼すべき本」として扱われ、その誤りに満ちた記述が「歴史」とみなされ、日本の朝鮮支配の事実を歪め、植民地支配の被害者たち、証言者たちの尊厳が再び踏みにじられることが耐え難いのである。暗澹たる気分になる。おそらく本書は今後も何らかの賞を与えられるであろう。さらなる「執拗な批判」が必要である。

*1 ちなみに「指折りの進歩新聞」である元毎日新聞社ソウル支局長で現アジア調査会理事(常勤)の長田達治はかつて「ナヌムの家」の人々による『帝国の慰安婦』への抗議を以下のように批判した。

「ナヌムの家の連中(挺対協[訴えたのは挺対協ではない:引用者注])が世宗大学に何度も抗議に訪れるなど、朴裕河さんに対する嫌がらせを継続しているそうだ。ソウル大学の学者などが挺対協の応援団にいる。この要塞のような反日利益集団に楔を打ち込み、真実を韓国国民に知らせるためには米軍基地慰安婦問題を韓国で大々的にキャンペーンするのがいいと思う。「ハルモニ=韓国の天皇」という頑迷左派のイデオロギーを崩さないことには韓日和解などとうていできない。」(2014年7月5日)

 また、私の『帝国の慰安婦』批判について「人格攻撃」「滅茶苦茶な批判論文」とし、「挺対協など反日団体の回し者」と非難した。「進歩新聞」記者の言説として、記録しておきたい。

「鄭栄桓氏は挺対協など反日団体の回し者か。朴裕河さんの書物を実証的に批判するのでなく、彼女への人格攻撃に終始している。<本書において筆者は明確に、植民地支配を「不正義」と認識してこれを批判・糾弾する立場を放棄するよう朝鮮人側に求めている(しかも「証言者」の言葉を借りて)。(続く)」
「鄭栄桓氏が日本語で滅茶苦茶な批判論文を出してくれているので、韓国における朴裕河氏を誹謗中傷する嵐のような反日の悪意の論の空気を少しだけ体験できた。こういう悪意の塊のような反日勢力が「絶対に日本を許すな」と論陣を張り続け、朴槿恵大統領もそれにはアンタッチャブルなのだ。困ったもんだ。」
 長田達治@osada_tatsuji 2014年12月31日
 http://twilog.org/osada_tatsuji/month-1412
 
(鄭栄桓)


by kscykscy | 2015-10-06 00:00 | 歴史と人民の屑箱

朴裕河の「反論」を検証する――再論・『帝国の慰安婦』の「方法」について(4)

4.「反論」の検証④――【4.鄭栄桓の「韓日協定」理解の誤謬】について

 いよいよ核心の第四節である。私は『歴史批評』論文の半分以上を朴裕河の韓日協定・韓日会談理解の誤謬への批判に割いた。あまりに深刻な先行研究の誤読と歪曲があり、かつそれが本書の核心的主張の根拠とされていたからだ。「4.鄭栄桓の「韓日協定」理解の誤謬」はこれへの反論である。

(1)日本軍責任論の理解について

 私は『歴史批評』論文で、まず朴が日本軍の責任を「慰安所」制度を「発想」し、「需要」を生み出したことに限定し、これらの責任についても「法的責任」を否定したことを指摘した。朴裕河はこれについて次のように反論する。

「1)慰安婦問題に関する責任について
 鄭栄桓は私が慰安婦問題の「責任を日本国家に問えない」(480)としたと整理する。だが私は「法的責任を問うならばまず業者に問わねばならない」といったにすぎず、日本国家の責任がないとはいっていない。また、知られていない様々な状況を勘案して判断するならば、「法的」責任を前提とした賠償要求は無理だというのが私の考えだ。私が「業者」ら中間者に注目する理由は、日本国家の責任を否定するためではなく、彼らこそが過酷な暴力と強制労働の主体であり、それによる利得を得たからである。誘拐や詐欺などは当時でも処罰の対象だったからだ。何より慰安婦の「恨み」は彼らに向けられていからでもある。」

 この段落は大いに読者を混乱させる。「「法的責任を問うならばまず業者に問わねばならない」といったにすぎず、日本国家の責任がないとはいっていない。」という一文を読んだ者は、当然ながら朴が日本国家の「法的責任」を認めている、と考えるだろう。「まず業者に問わねばならない」というからには、日本国家の法的責任を問うことも想定していると考えられるからだ。この一文に関する限り、問題は業者と軍に責任を問う順序に過ぎない。だが朴の叙述はそうした予測を裏切り、あろうことか「また」という並列の接続詞を用いて法的責任を否定する文章へと接続する。結局のところ朴は、法的責任は業者にのみ問える、軍には問えない、と言っているに過ぎない。

 何より、朴が、日本軍の責任を「慰安所」制度を「発想」し、「需要」を生み出したことに限定し、これらの責任についても「法的責任」を否定した、という私の整理は何ら誤っていない。実際、朴は本書で次のように記している。

「日本軍は、長期間にわたって兵士たちを「慰安」するという名目で「慰安婦」という存在を発想し、必要とした。そしてそのような需要の増加こそが、だましや誘拐まで横行させた理由でもあるだろう。他国に軍隊を駐屯させ、長い期間戦争をすることで巨大な需要を作り出したという点で、日本は、この問題に責任がある。[中略]慰安婦の供給が追いつかないと分かっていたら、募集自体を中断すべきだったろう。数百万の軍人の性欲を満足させられる数の「軍用慰安婦」を発想したこと自体に、軍の問題はあった。慰安婦問題での日本軍の責任は、強制連行があったか否か以前に、そのような〈黙認〉にある。その意味では、慰安婦問題でもっとも責任が重いのは「軍」以前に、戦争を始めた国家である。」(三二頁)
「この請求[元「慰安婦」被害者らによる憲法訴願:引用者注]の根拠は最初にあるように「婦女売買禁止条約」に日本が違反したというところにあった。[中略]しかし人身売買の主体はあくまで業者だった。日本国家に責任があるとすれば、公的には禁止しながら実質的には〔中略〕黙認した〔中略〕ことにある。そして、後に見るようにこのような「権利」[日本国家に損害賠償を請求する権利:引用者注]を抹消したのは、韓国政府でもあった。」(一八〇頁)

 朴が日本軍の責任に言及した数少ない箇所の一つである。注意深く日本軍の「責任」を「発想」と「黙認」に限定していることは明らかであろう。さらに今回の反論では慰安所設置の指示について次のように書いている。

「私は慰安婦問題の「本質は公式的な指揮命令系統を通して慰安所設置を指示」したという吉見の主張を大体のところ支持するが、女性の「徴集を命令したものであった」という規定は物理的な強制連行を想像させるものであり、業者の自律性を無視するものである以上、もう少し繊細な規定が必要だと考える。また「兵站付属施設」だという永井和の指摘もまた支持するが、既存の遊郭を使用した場合も多かった点が補完されねばならないと考える。/もちろん、それをみる理由は日本の責任を稀釈させるためではなく、支援者たちがいう「真相究明」のためだ。」

 吉見の指摘を支持するならば、日本軍の責任は制度の「発想」や人身売買の「黙認」に留まるという朴の主張は維持できないはずだ。軍が女性の徴集を命じなければ、人身売買も起きようはずがなく、その責任を軍もまた負うべきであることは当然であろう。だが、朴は「女性の「徴集を命令したものであった」という規定は物理的な強制連行を想像させるものであり、業者の自律性を無視するものである以上、もう少し繊細な規定が必要だと考える」という弁明でもって、あくまで自らの主張は正しいという。朴のいう「業者の自律性」とは何か。軍の指示とは関係なく、業者が自ら女性を集め、軍に出向いて商売をした、ということだろうか。だとすれば吉見の指摘への「支持」と矛盾するのではないか。この箇所も全く「反論」足りえていない。

 さらに朴は、次のように私の指摘が「飛躍」だと批判する。

「鄭栄桓の私に対する批判が純粋な疑問を逸脱した曲解であることは、需要をつくったこと自体、すなわち戦争をしたこと自体を批判する私の文章を引用しながら、「上の引用は見ようによっては供給が追いつく程度であれば軍慰安所制度に問題がなかったかのようにも読める」(481)とまでいっている指摘にあらわれている。甚だしくは「業者の逸脱だけを問題視するならば、軍慰安所という制度自体の責任が免除されるのは当然の論理的帰結」(481)だと書く鄭栄桓の飛躍にはただ驚くばかりだ。
 私は「軍による慰安所設置と女性の徴集、公権力を通じた連行」(482)を同列において「例外的なこと」と記述してはいない。私が例外的であると書いたのは、朝鮮半島での「公権力を通した連行」のみである。にもかかわらず鄭栄桓はこうした方式で要約し、私が「軍の慰安所設置」をあたかも例外的なこととみなしたかのように見えるように試みる。」

 ここで朴は、当然に私の主張が「飛躍」であるかのように書いているが、「慰安婦の供給が追いつかないと分かっていたら、募集自体を中断すべきだったろう。」(『帝国の慰安婦』32頁)という叙述から、「供給が追いつく程度であれば軍慰安所制度に問題がなかったかのようにも読める」と考えるのは、決して「飛躍」した解釈ではない。むしろ素直な読み方であろう。なぜ「飛躍」なのかを説明したうえで反論すべきである。

 なお、「例外的なこと」に関するについては確かに私の書き方が不正確であった。公権力を通じた連行のみを「例外的なこと」と記述したと書くべきだった。なぜなら、「軍による慰安所設置と女性の徴集」については、「例外的なこと」としての言及どころか、本書では全く言及されていないからだ。はっきりと「軍による慰安所設置と女性の徴集」に言及していない、と記すべきであった。

(2)憲法訴願の論点と藍谷論文の趣旨の誤読について

 次に私は、朴が憲法訴願の論点と藍谷論文の趣旨を誤って理解していることを指摘した。これに対し、朴は次のように反論する。

「2)憲法裁判決について
 憲法裁判決について、私は確かに「請求人たちの賠償請求権」に対し懐疑的である。だがこれはそうした形式――裁判に依拠した請求権要求という方式とその効果に対する懐疑だっただけで、補償自体に反対したことはない。にもかかわらず、「請求権自体を否認する立場」だと誤読させるような整理をする。
 また、私は支援団体が依拠してきた「婦人及び児童の売買禁止に関する国際条約」をもとにしては、「慰安婦制度を違法にはでき」ず、よって損害賠償を得られないという藍谷の指摘に共感したにすぎず、「責任がない」というために引用したわけではない。藍谷の意図が「個人の賠償請求権を否定」したものではなくても、そうした方法の枠組みでは「成立しえない」ことを主張した論文であることは確かであり、私はその部分に注目しただけだ。「個人の請求権を否定した研究であるかのように引用」したという指摘もまた、単純な誤読か意図的な歪曲であるのみだ。鄭栄桓はいつも形式否定を内容否定に等置させる。甚だしくは、いまは支援団体自らが「法的責任」の主張を変更したことも鄭栄桓は参考にしなければならないだろう。」

 第一段落の滑稽さは今回の反論のなかでもとりわけ際立っている。「私は確かに「請求人たちの賠償請求権」に対し懐疑的である。」と書いた同じ段落で、「にもかかわらず、「請求権自体を否認する立場」だと誤読させるような整理をする」という。請求権の存在に懐疑を表明する人物の主張を、「請求権自体を否認する立場」だと整理することは「誤読」なのだろうか。そんなことはあるまい。むしろどう整理すれば「誤読」ではないのかを教えてもらいたいくらいだ。

 第二段落の藍谷論文の誤読という指摘への弁明も、全く反論の体をなしていない。本書193-195頁で、朴は藍谷論文に全面的に依拠して、「挺対協の主張する法的賠償の根拠はない」(195頁)ことを主張した。明確に朴は藍谷論文を「「個人の請求権を否定した研究であるかのように引用」した」のであって、私の批判が「単純な誤読か意図的な歪曲であるのみだ」という反論は全く成り立たない。藍谷論文は、「婦人及び児童の売買禁止に関する国際条約」は違法性の根拠でありこの条約をもっては損害賠償の根拠とすることは難しいと指摘したうえで、ハーグ条約・ILO条約に基づく損害賠償請求について論じたのである。そして、これまで裁判所は個人が国際法の法的主体たりえないことを理由に損害賠償請求を退けてきたが、藍たには近年の国際法の理論的深化は個人を法的主体として認める方向へと向かっている、と指摘するのである。藍谷論文から、「法的賠償の根拠はない」という結論は導き出しえない。

 だが朴は「藍谷の意図が「個人の賠償請求権を否定」したものではなくても、そうした方法の枠組みでは「成立しえない」ことを主張した論文であることは確か」という。一体何を言いたいのであろうか。「そうした方法の枠組みでは「成立しえない」ことを主張した」とは、何を主張したことを意味するのか。全く意味が明らかでない。曖昧な弁明でお茶を濁すのではなく、具体的に誤読でないことを反論すべきである。

(3)金昌禄論文の誤読について

 さらに私は、韓国政府が「慰安婦」たちの請求権を進んで放棄したという朴の主張は証明されておらず、根拠とした金昌禄論文の理解も誤っていることを指摘した。この箇所は本書においてとりわけ重要な箇所である。朴は日韓会談において元「慰安婦」の請求権を韓国政府が自ら進んで放棄した、と主張した。「韓国憲法裁判所の決定は、個人が被害補償を受ける機会を奪ったのは日本政府ではなく韓国政府だったこと、そして九〇年代にもう一度日本政府による補償が行われ、相当数の慰安婦が日本の補償を受け入れたことは見届けていないようだ。」(193頁)と。後に自ら記した『帝国の慰安婦』の「要約」でも、朴は次のようにまとめている。

「そして日本は「個人の請求権」は個別に請求できるようにしたほうがいいと言っていた。しかし韓国側は、北朝鮮を意識して、韓半島唯一の「国家」としての韓国が代わりにもらおうとしてその提案を拒否した。つまり「韓国」だけが補償を請求できる正統性を認めてもらおうとしたのには(チャン・バクチン)、厳しい冷戦時代のさ中にいたという歴史的経緯がある。」(朴裕河<帝国の慰安婦ー植民地支配と記憶の闘い>要約

 この「要約」は『帝国の慰安婦』での朴の主張と若干異なるのだが、いずれにしても、日本側は「個人の請求権」を認めようとしたのに、韓国側が進んでそれを放棄した、という主張は本書の核心的主張の一つであることは間違いない。私は『歴史批評』論文において、こうした朴の主張には全く根拠がないことを指摘した。これへの朴の反論は次の通りである。

「3)韓日会談について
 鄭栄桓は私が金昌禄論文も「反対に引用」したというが、私は金昌禄が引用した様々な会談文案を鄭栄桓の指摘とは異なる文脈で用いた。これもまた根拠なき非難である。
 金昌禄が指摘したように、当時論議されたのは「被徴用者の未収金」であったし、鄭栄桓自身がいうように、当時の慰安婦に関する論議はただ「未収金」だけが問題視されたのだろう。だがいまや慰安婦が「軍属」であったとする資料も出てきたのであるから、私の論拠に依拠するならば、日本が慰安婦を「軍属」として認定することもできるだろう。朝鮮人日本軍すら補償を受けられる「法」が存在したが、慰安婦たちにはそうした「法」は存在しなかったし、そうした認識は慰安婦に関する「補償」を引き出すことができるというのが私の主張であった。」

 これでは問いかけへの答えになっていない。韓国側が進んで日本軍「慰安婦」の個人の請求権を放棄した、と朴は金昌禄論文を根拠に主張した。だが金昌禄論文は元「慰安婦」個人が「被害補償を受ける機会を奪ったのは日本政府ではなく韓国政府だった」などとは主張していない。「被徴用者」の、しかも未払い賃金の問題のやりとりを分析したに過ぎず、そこで日本政府は元「慰安婦」についても、あるいはその肉体的・精神的被害への補償についても全く言及していないのである。むしろ韓国政府は日本法上の未払賃金や恩給に限定せずに肉体的・精神的被害への補償を求め、会談で議題とならなかった事柄については「解決」の枠外に置こうとした。これが金昌禄論文の指摘である。つまり、朴が本書でくり返す「被害補償を受ける機会を奪ったのは日本政府ではなく韓国政府だった」という事実は、全く立証されていないのである。

 朴は一体何を根拠に「被害補償を受ける機会を奪ったのは日本政府ではなく韓国政府だった」と主張するのか。根拠があるならば提示すべきだ、というのが私の批判の趣旨であった。この批判に朴は全く答えていない。朴は史料を「鄭栄桓の指摘とは異なる文脈で用いた」というのみで、全く具体的な反論を行っていない。不誠実の極みである。ついでに指摘するならば、「要約」で新たに付け加えた「韓国側は、北朝鮮を意識して、韓半島唯一の「国家」としての韓国が代わりにもらおうとしてその提案を拒否した」という主張も、同じく全く根拠がない。未払い賃金をめぐるやりとりで韓国側がこのように主張した証拠はない。そもそも「未払い賃金」の支払いは「被害補償」ではない。

 朴は「鄭栄桓自身がいうように、当時の慰安婦に関する論議はただ「未収金」だけが問題視されたのだろう。」と私の批判を「要約」しているが、私はそのような主張をしてはいない。日韓会談関係文書から見つかっている唯一の「慰安婦」への言及は、1953年の会談で韓国側委員が「韓国女子で戦時中に海軍が管轄していたシンガポール等南方に慰安婦として赴き、金や財産を残して帰国してきたものがある」との指摘だけだ、と記したにすぎない。明示的に韓国政府が「慰安婦」の請求権を放棄した証拠などないことを指摘するための傍証としてあげたものだ。

 重要なことなので再度くり返すが、朴裕河の「被害補償を受ける機会を奪ったのは日本政府ではなく韓国政府だった」という主張には何の根拠もなく、今回の「反論」においても説得的な根拠は示されていない。

(4)張博珍の著書の誤読について

 最後の反論に移ろう。私は、日韓協定による経済協力が戦後補償であり、1937年以降の戦争の賠償であったという朴の理解は誤っており、根拠とした張博珍の著作の理解も誤っていることを指摘した。これに対し、朴は次のように反論する。

「鄭栄桓は私が韓日協定で日本が支給した金額を「戦後補償」だとしたというが、私はサンフランシスコ会談に依拠した会談であるため連合国との枠組みのなかで定めるほかなく、よって日本としては「帝国後処理」ではない「戦後処理」に該当するといっただけだ
 鄭栄桓は487頁から488頁で私の本から長く引用しながらも、米国が日本人たちの朝鮮半島財産を接収して韓国に払い下げ、それを外地から日本人を帰還させた費用を相殺させたという部分を抜いて引用する。だがこの部分こそが私が日本に請求権を請求するのが難しいと理解するようになった部分である。国家が相殺してしまった「個人の請求権」を再び認めるならば、日本人もまた朝鮮半島に残した資産の請求が可能になるという問題が生じるからだ。
 何より私はこの時の補償が「戦争」後処理であるにすぎず、「植民地支配」後処理ではないといい、65年補償が不完全であることを確かに言及した。それなのに鄭栄桓はこれについては言及せず、私が1965年体制を「守護」するというのである。
 私は韓日協定金額を「戦争に対する賠償金」だとはいっていない。「戦後処理に従った補償」といった。また、張博珍の研究を引用したのは冷戦体制が影響を与えたという部分においてである。「脈絡とは全く異なるように文献を引用」したわけではなく、張博珍が「韓国政府に追及する意思がなかったと批判」した文脈を無視したわけではない。
 鄭栄桓がいまだに知らないのは、韓国政府がこの時、植民地支配に対する「政治的清算」すらしてしまったということだ。浅野論文は『帝国の慰安婦』出版以後に出た。私は本で日本に向けて「植民地支配補償」ではなかったため、補償が残っていると書いたが、浅野論文を読んでむしろ衝撃を受けた。韓日協定をめぐる論議は今後は浅野論文を度外視しては語れなくなるだろう。」

 「敵産接収」問題については節を改めて論じるとして、まず第一段落の「戦後補償」に関する弁明からみよう。朴は自分は日韓協定による経済協力は「戦後補償」であるとは言っていない、という。だが、本書には「日韓基本条約(ママ)は、少なくとも人的被害に関しては、〈帝国後〉補償ではない。あくまでも〈戦後〉補償でしかなかった」(二五一頁)とはっきり書いてある。さらにこの反論のなかでも、「私は韓日協定金額を[中略]「戦後処理に従った補償」といった。」と書いている。「戦後補償」と「〈戦後〉補償」と「戦後処理に従った補償」は別物なのか。
 
 今回の「反論」検証の(1)でも書いたが、朴はこうした重要な概念について必要最低限の定義すらしていないにもかかわらず、思わせぶりな〈 〉を多用するため、読者は混乱するほかないのである。朴のいう「〈戦後〉補償」が仮に「戦後補償」とは別の意味を持つ言葉なのであれば、その説明を本書でしておくべきであろう。そうした説明なしに「〈戦後〉補償」と「戦後補償」と「戦後処理に従った補償」は違うかのように主張されて、違いを弁別できる読者などいるわけがない。朴にはそもそも定義などなく、思いつきでこれらの言葉を濫用していると疑わざるをえない。

 また、朴は「私は韓日協定金額を「戦争に対する賠償金」だとはいっていない。」ともいう。だが本書には次のような記述がある。

「いずれにしても、1965年の条約及び協定内容と金銭の名目に「植民地支配」や「謝罪」などの言葉が含まれなかったのは、そのときの韓国の「請求権」が、1937年以降の戦争動員に限るものだったためであろう。そして、その賠償金はすべて韓国政府に渡され、国家が個人請求に応える形となった。」(249頁)

 朝鮮語版にも次のような記述がある。

「韓日両国が1965年の国交正常化条約[ママ]の締結に先立ち、過去についての論議を行い、その結果として日本が韓国に無償3億ドル、政府借款2億ドルの「補償」をしたことは間違いのない事実だ。ところがこの賠償[ママ]は「独立祝賀金」と「開発途上国への経済協力金」という名前で実施された。言い換えれば、日本政府は莫大な賠償を行ったが、条約では「植民地支配」や「謝罪」や「補償」といった表現を全く用いなかった。」(258頁)
「ところが結局支払われたのは1910年以降36年間にわたる「植民地支配」による人的・精神的・物的損害に対してではなく(実際の日本の「支配」は「保護」に入った1905年からというべきだ)中日戦争以降の強制動員に関する補償であった。」(259頁)

 朴は明らかに日韓協定に基づく経済協力を「賠償」「補償」と呼んでいる。今回の「反論」で、朴は挺対協の用法に従って「賠償」「補償」を使い分けたと弁明しているが、これも上の引用をみると苦しい言い逃れであることがわかる。経済協力について、一方では「賠償」といい、一方では「補償」という。「賠償」や「補償」を何らかの意図をもって使い分けている形跡は見いだせない。

 しかも、1937年以降の戦争に限られた「請求権」要求に応じたものと位置づけている。そして、その根拠として張博珍の著書を用いたのである。だが『歴史批評』論文で指摘したように、張が韓国政府が1937年以降の戦争動員被害の賠償のみを主張した、というのは1949年の韓国政府の対日賠償要求方針を指すのであって、1965年の経済協力を指すものではない。朴の日韓協定理解は完全に誤っており、その根拠とした張博珍の著作の理解も誤っている。

 朴は「張博珍の研究を引用したのは冷戦体制が影響を与えたという部分においてである。「脈絡とは全く異なるように文献を引用」したわけではなく、張博珍が「韓国政府に追及する意思がなかったと批判」した文脈を無視したわけではない。」と記しているが、以上から、この弁明が全く反論になっていないことは明らかである。1949年の韓国政府の方針を指摘した箇所を、1965年の経済協力の性格を説明するものであるかのように用いるのは、明らかな先行研究の誤用・歪曲ではないか、という質問に答えるべきである。

 そもそも最後の段落は一体何なのだろうか。浅野論文の指摘が重要だというのならば、最低限その要旨を紹介し、具体的に反論すべきではないのか。公刊前の論文をあえて反論に持ち出す以上、最低限その程度の作業を行うべきであろう。全く無意味なほのめかしをすることに貴重な紙数を割く余裕があるならば、一つでも具体的な反論をすべきである。

(鄭栄桓)

by kscykscy | 2015-09-26 00:00 | 歴史と人民の屑箱

朴裕河の「反論」を検証する――再論・『帝国の慰安婦』の「方法」について(3)

3.「反論」の検証③――【3.『和解のために』批判について】について

 「反論」第三節は、拙稿の「3.『和解のために』と『帝国の慰安婦』」への反論である。なお、『歴史批評』掲載の拙稿は、下記のブログ「東アジアの永遠平和のために」に全文転載していただいた。ブログ管理者のご厚意に感謝したい。

정영환「일본군 ‘위안부’문제와 1965년 체제의 재심판 ― 박유하의 『제국의 위안부』 비판」(『역사비평』111호、2015年여름)

 拙稿の「3.『和解のために』と『帝国の慰安婦』」は、韓国の読者向けに『和解のために』をめぐる論争を整理したものだ。『和解のために』が出版された時点では朴裕河は韓国ではほとんど名前が知られておらず、本も話題にはならなかった。よって『和解のために』への批判も日本語圏の人々によるものがほとんどだった。いくつかの批判は韓国で翻訳されはしたがあまり知られていないため、金富子や徐京植の議論を中心に『和解のために』への批判を紹介したのである。ここでの私の批判は、以下の二つの記事をもとにしている。

朴裕河『和解のために』をめぐる「論争」をふりかえる(1)(2)

 私は、上の記事でも書いたように、金富子・徐京植らの朴裕河批判は妥当なものであると考えている。『歴史批評』論文でも①吉見義明の研究の誤読、②軍「慰安所」設置の目的、③国民基金の評価という三つの論点に即して議論を整理し、朴裕河批判は妥当であると評価した。朴裕河はこうした私の評価について反論を試みている。

 朴はまず、①吉見義明の研究の誤読との指摘について、次のように反論する。

「1)道徳的攻撃の問題

 鄭栄桓は金富子を引用しながら、私が既存の研究者らの文章について「正反対の引用」(477)をしたという。これは鄭栄桓が私に論旨のみならず道徳性にも問題があるかのように考えるよう仕向けるために選択した「方法」である。

 だが鄭栄桓が知らないことがある。あらゆるテクストは常にその文章を書いた意図に準じて引用しなければならないわけではない。言い換えれば、あらゆる文章は著者の全体の意図とは異なる部分もいくらでも引用されうる。鄭栄桓自身が私の本を私の意図とは正反対に読んでいるように。重要なことはこの過程に歪曲があってはならないということだが、私は歪曲してはいない。私は吉見義明のような学者が「「強制性」を否定している」というために引用したわけではない。日本の責任を追及するいわゆる「良心的」な学者ですら、「物理的強制性は否定するのであるから、この部分は信頼しなければならないのではないか」というために用いただけだ。この後、軍人が連れて行ったといったような強制性に対する問題提起が受け入れられるなかで、論議が「人身売買」へと移っていったのは周知の事実だ。いまでは「構造的強制性」があるという者は少なくないが、「構造的強制性」という概念はまさに私が『和解のために』で初めて使った概念だった。慰安婦を売春婦だという者たちに向けて「当時の日本が軍隊のための組織を発想したという点では、その構造的な強制性は決して稀釈されない」(改訂版、69)と。

 だが批判者たちは私の本は決して引用しない。最近ではこの問題を植民地支配の問題として見なければならないという私の提起まで、引用なしに使う者まで現れている。これについては改めて書くつもりだ。

 2015年5月、米国の歴史学者たちの声明が示したように、もはや「軍人が連れて行った強制連行」は世界はもちろん支援団体すら主張しない。だが多くの者たちは「強制連行」とだけ信じていた時点から、強制連行ではないということがわかったために、私は「強制性」について否定的な者たちがこの問題の責任を稀釈させることを防ぐため、10年前に「構造的強制性」について語った。また、『帝国の慰安婦』で「強制性の有無はこれ以上重要ではない」と書いた。」

 朴の「反論」は妥当なものだろうか。「あらゆるテクストは常にその文章を書いた意図に準じて引用しなければならないわけではない」――確かにそうだ。引用の過程で「歪曲があってはならない」――これもその通りだ。しかしながら、「私は歪曲してはいない」――これは誤りである。「吉見義明のような学者が「「強制性」を否定している」というために引用したわけではない」という朴の反論は成り立たない。

 かつて朴裕河は『和解のために』で次のように書いた。

「ところで「強制性」についての異議は、韓国内部でも唱えられている。ソウル大学の李栄薫は、「強制的に引っ張られて行った」「慰安婦」はいなかったとしている。[中略]
 慰安所の設置には日本政府が関与したことをはじめて明らかにした、「慰安婦」研究者の吉見義明もまた、「「官憲による奴隷狩りのような連行」が朝鮮・台湾であったことは、確認されていない」(吉見義明・川田文子、一九九七、二四頁)と述べている。」(『和解』、62-63頁)

 この記述の問題について私は次のように指摘した。

「この段落を素直に読めば、「吉見義明もまた」「「強制性」についての異議」を唱えている論者であると読者は考えるであろう。朴はあくまで吉見の指摘した「ファクト」を紹介したに留まると反論しているが、この弁解は成り立たない。明らかに「「強制性」についての異議」の例示として(「吉見義明もまた」)、吉見の指摘が紹介されているからだ。吉見の主張の核心が、「強制性」を「官憲による奴隷狩りのような連行」に矮小化する主張への反駁である以上、これを「「強制性」についての異議」の例示として用いることは金富子のいうとおり「真逆の引用」といわざるをえない。」(「朴裕河『和解のために』をめぐる「論争」をふりかえる(1)」)

 朴の「意図」はともかく、このように『和解のために』では明らかに「「強制性」についての意義」の例示として吉見を引用している。今回の「反論」でも、朴は吉見のような「「良心的」な学者ですら、「物理的強制性は否定するのであるから、この部分は信頼しなければならないのではないか」というために用いただけだ」という。だが吉見は「強制性」を「官憲による奴隷狩りのような連行」へと狭く限定するべきではない、と指摘したのであって、「物理的強制性」(この言葉が何を意味するかが不明だが)を「否定」したわけではない。「占領地においては奴隷狩りのような暴力的な連行を示す資料さえあり、植民地においては奴隷狩りのような暴力的な連行のケースを別にすれば、広義の強制連行を示す資料はある」と、吉見は明確に指摘している(吉見義明「「従軍慰安婦」問題と歴史像-上野千鶴子氏に答える」)。

 なぜ朴裕河は吉見の研究の意義を正しく理解できないのだろうか。もう一歩踏み込んで考えてみよう。『和解のために』以来の朴の「強制性」をめぐる議論の最大の問題は、日本の右派が設定した「狭義の強制性/広義の強制性」という政治的枠組みを受け入れるところにある。朴は「この後、軍人が連れて行ったといったような強制性に対する問題提起が受け入れられるなかで、論議が「人身売買」へと移っていったのは周知の事実だ」と、あたかも、日本軍「慰安婦」に関する研究の進展とともに、論点が「人身売買」へと移っていったかのように書く。だが、これは誤りである。軍「慰安婦」をめぐる強制性を、「軍人が連れて行ったといったような強制性」とそれ以外へ分割した背景にあるのは、実態解明の進展ではなく、政治的な要請である。

 強制性を「奴隷狩り」のような暴力的・直接的拉致に限定しようとするのは、日本の歴史修正主義者たちの常套手段であった。そしてついて安倍晋三首相(第一次内閣)は2006年10月6日、「家に乗り込んでいって強引に連れていった」ことを「狭義の強制性」とし、「そうではなくて、これは自分としては行きたくないけれどもそういう環境の中にあった、結果としてそういうことになったこと」を「広義の強制性」として、前者を示す資料がないとして軍の関与を否定しようとした(衆議院予算委員会での答弁)。このような政治的な広義/狭義の分割に対し、実態からみてそうした線引きはあまりに恣意的であるとの批判があがり続けた。「強制性に対する問題提起が受け入れられ」たのではなく、政治的に無理やり狭義/広義という枠組みが作られたにすぎない。こうした事情を朴裕河自身も知らないわけがないにもかかわらず、朴は『帝国の慰安婦』においても、安倍政権による狭義/広義という政治的な線引を受け入れる。

 朴裕河の「強制性」理解が、このように安倍政権的な枠組みを前提とせざるをえないのは、その「和解」論がそもそもにおいて外交的・政治的な決着を目的として設計されているからであろう。日本軍「慰安婦」の被害実態やそれをめぐる研究と運動の進展、何より当事者たちの主張を出発点とするのではなく、あくまで日本・韓国両政府の「和解」を目的とするがゆえに、日本政府の設定した「慰安婦」問題理解の枠組みを前提に思考せざるをえない。歴史修正主義者、並びに安倍政権の設定した狭義/広義の強制性という枠組み自体を問うのではなく、その枠組のなかで、すなわち「広義の強制性」という土俵に限定して、日本政府の「責任」を問い、何らかの「和解」への行動を引き出そうとする。それゆえ、朴の日本軍責任論は、強制連行や軍慰安所設置や軍慰安婦徴集の指示といった「狭義の強制性」の土俵に踏み込みかねない事例を避け、慰安所を「発想」した責任であるとか、慰安婦を大量かつ暴力的に業者が集めねばならないような「需要」を作り出した責任、といった珍妙な「責任」論に限定されるのだ。

 吉見義明の研究の意義を朴が根本において理解できないのもこのためだ。朴裕河の「意図」はよくわかる。李栄薫も秦郁彦も吉見義明も、朝鮮では「官憲による奴隷狩りのような連行」を示す文書を確認できないという点では一致している、それなら強制連行にこだわるのをやめて、一致している論点(「広義の強制性」?)だけ議論して「和解」しましょう、というわけだ。だが繰り返しになるが、吉見はそのような論点の設定そのものを批判的に問うているのである。この点を朴は全く理解しておらず、おそらく今後も理解することはできないだろう。

 朴裕河は「「構造的強制性」という概念はまさに私が『和解のために』で初めて使った概念だった。」と誇るが、結局のところこの「構造的強制性」なる「概念」は、安倍政権のいう「広義の強制性」とほとんど大差ないものになってしまっている。「物理的強制性」なる造語は、同じく「狭義の強制性」と大差ない。吉見の議論からもわかるように、「官憲による奴隷狩りのような連行」に「強制性」を限定すべきではないという議論は、『和解のために』以前から存在する。朴のオリジナリティは、安倍政権的な政治的かつ恣意的な「強制性」の分割線を、政治主義的な「和解」の達成のために、「慰安婦」論争に持ちこんだところにあるとみるべきだろう。

 「この問題を植民地支配の問題として見なければならないという私の提起まで、引用なしに使う者まで現れている」という朴裕河の憤慨に至っては、率直にいって失笑を禁じ得ない。日本軍「慰安婦」問題を考えるうえで植民地支配という要因を重視する視点は当然ながら朴裕河のオリジナルではない。それどころか極めて一般的な指摘であろう。むしろ『帝国の慰安婦』のオリジナリティは、表面的には「植民地」について饒舌に語りながらも、実際には「帝国の問題」云々といって朝鮮人「慰安婦」と日本人「慰安婦」の類似性を強調したところにある(*1)。自著を改めて読みなおし、日本-朝鮮、すなわち宗主国と植民地の間の質的差異を軽視したことこそ、「私の提起」であると朴裕河は自覚すべきだ。

 朴裕河は次に、②軍「慰安所」設置の目的について次のように反論する。

「2)誤読と歪曲

 鄭栄桓は私が慰安婦が「一般女性のための生贄の羊」(『和解のために』87)であったと書いた部分を指し、あたかも私が「一般女性の保護を目的」(金富子)としたかのように非難する(478)。だが「日本軍のための制度」という事実と、「慰安婦が一般女性のための生贄の羊」だっという認識は代置されない[訳者注:互いに排他的ではないという意味か?]。

 歴史研究者である鄭栄桓がテキスト分析について文学研究者ほどの緊張がないのは仕方のないことだが、「批判」の文脈であれば、しかも訴訟を起こされている相手に対する批判ならば、もう少し繊細に接近せねばならない。加えて鄭栄桓は一般女性にも責任がないわけではない、という私の反駁すら非難しながら、「敵国の女性」に責任があったということなのか(金富子)という誤読に加え、「日本軍の暴力をどうしようもない当然のものとして前提」(478)とした、「戦場での一般女性が自らの代わりに強姦された慰安婦たちに責任がある」という主張だとすらいう。

 私が一般女性の問題について指摘したのは階級の視点からだ。つまり、「学のある奥様」(『和解のために』88)の代わりに慰安婦として出た慰安婦の存在に注目したのであり、彼女たちを見下して後方で平穏な生活を送ることのできな韓/日の中産層以上の女性たち、そして彼女たちの後裔たちにも責任意識を促すための文脈である。もちろん、その基盤には私自身の責任意識が存在する。」

 「「敵国の女性」に責任があったということなのか(金富子)」としているが、金はこのような批判をしたわけではない。これは私からの批判である。もちろん、①と同様に、ここでの朴裕河の「意図」がわからないではない。私も「一般女性のための生贄の羊」云々の箇所を読みながら、本当は日本の(朝鮮が入っているとは思わなかったが)「中産層以上の女性たち」の「生贄の羊」だと言いたいのだろうな、とは考えた。だが実際には朴の「テクスト」には、次のように書かれているのだ([]内数字は筆者が挿入)。

「戦地における「慰安婦」とは、直接的には一般女性[①]の「強姦」を抑止するために考案された存在だった(吉見、一九九八、二七頁)。そのような意味では、「容認された強姦」の性格を帯びた売春は、一般人女性[②]を保護するためのものでもあった。いわば「慰安婦」とは、構造的には一般女性[③]のための生贄の羊でもあったのである」(『和解』、87頁)

 この文章をどう読んでも、「生贄の羊」となった③の「一般女性」が、「韓/日の中産層以上の女性たち」であったとは読めない。①と②の「一般女性」は、明らかに「強姦」される可能性のある中国などの「戦地における」女性を指すからだ。正しく「意図」を伝えたいならば、丁寧に推敲すべきである。

 最後に、③国民基金の評価について、朴は次のように反論する。

「3)総体的没理解
 鄭栄桓は徐京植の批判に依存しながら、アジア女性基金と日本のリベラル知識人らを批判するが、徐京植の批判にはどこにも根拠がない。旧植民地宗主国らの「共同防御線」を日本のリベラル知識人たちの心性と等置させるならば、具体的な準拠を示さねばならなかった。
そして私は韓日葛藤を挺対協の責任にだけ負わせているわけではない。日本側もはっきりと批判した。にもかかわらず鄭栄桓をはじめとする批判者たちは、私が「加害者を批判せず被害者に責任を負わせる」と規定し、以後その認識は拡散した。

 あまりにひどい言いがかりである。末尾では再び例の悪癖があらわれている。あたかも引用であるかのように記しているが、私は「加害者を批判せず被害者に責任を負わせる」などと書いていない。また、徐京植は何の根拠も示さずに、国民基金が「旧植民地宗主国らの「共同防御線」」の一環であると主張したわけではない。徐は「和解という名の暴力」で次のように指摘している。

「前に述べたような、「植民地支配責任の回避」という先進国共通の防御線を守るために頻繁に使用されたレトリックが「道義的責任」である。

 日本政府が「植民地支配」の事実をしぶしぶ認めたのは敗戦から五〇年を経た一九九五年のことである。当時の連立政権で首相を務めた社会党出身の村山富市が記者会見で、「過去の戦争や植民地支配は『国策を誤った』ものであり、日本がアジアの人々に苦痛を与えたことは『疑うことのできない歴史的事実』」であると述べたのである。

 この談話は植民地支配の事実すら認めようとしなかった従来の政府の立場から見れば一歩前進と言うこともできよう。しかし、談話発表時の記者会見で村山首相は、天皇の戦争責任があると思うかという質問に対して「それは、ない」と一言で否定した。また、いわゆる韓国「併合」条約は「道義的には不当であった」と認めつつ、法的に不当であったということは認めず従来の日本政府の見解を固守したのである。この線、すなわち「象徴天皇制」と呼ばれる戦後天皇制を守護し、植民地支配の「法的責任」を否定すること、相互に深く関連するこの二つの砦を死守するための防御線を当時の日本政府は引いたのだといえる。

 これが、それ以来、日本政府が頑強に維持している防御線であり、いわゆる「慰安婦」問題においても国家補償をあくまで回避して「女性のためのアジア平和国民基金」(以下、国民基金)による「お見舞い金」支出という不透明なやり方に固執した理由でもある。国民が支出する「お見舞い金」は「道義的責任」の範囲と解釈されるが、政府が公式に補償金を支出すればそれは「法的責任」を認めることにつながるからである。ここで「道義的」という語は、法的責任を否認するためのレトリックとして機能している。

 私たちはやがて、このようなレトリックに、別の文脈で遭遇することになる。

 先に述べた二〇〇一年のダーバン会議において、初めて、奴隷制度と奴隷貿易に対する補償要求がカリブ海諸国とアフリカ諸国から提起された。しかし、欧米諸国はこれに激しく反発し、かろうじて「道義的責任」は認めたが、「法的責任」は断固として認めなかったのである。その結果、ダーバン会議の宣言には奴隷制度と奴隷貿易が「人道に対する罪」であることは明記されたが、これに対する「補償の義務」は盛り込まれなかった。欧米諸国が法的責任を否認する論拠は、「法律なければ犯罪なし」とする罪刑法定主義の原則であり、奴隷制は現代の尺度から見れば「人道に対する罪」に該当するかもしれないが、当時は合法だった、という論法である。

 ここに、どこまでも植民地支配責任を回避しようとし、そして、それができない場合でも、「法的責任」を否定して「道義的責任」の水準に止めようという、先進国(旧植民地宗主国)の共同防御線がはっきりと見て取れるのである。」

 これは「具体的な準拠」ではないのだろうか。朴の「どこにも根拠がない」という主張こそ「どこにも根拠がない」決めつけである。

 朴は、この節の結びとして、次のように「反論」する。

鄭栄桓は私が使った「賠償」という言葉を問題視するが、挺対協は「賠償」に国家の法的責任の意味を、「補償」に義務ではないものとの意味を込め、区別して用いている。鄭栄桓が指摘する「償い金」とは本にも書いたように「贖罪金」に近いニュアンスの言葉だ。もちろん日本はこの単語に「賠償」という意味を込めなかったし、私もまた挺対協が使うような意味に準じて、「賠償」という意味を避けて「補償」といってきた。これは基金をただ「慰労金」とみなした者たちへの批判の文脈でだった。「償い金が日本の法的責任を前提とした補償ではない」(479)という点には、私もまた異論はない。だが鄭栄桓は誤った前提で接近しながら、私が用いた「補償」という単語が「争点を解消」(480)させたと非難する。
 参考に言及するが、日本政府は国庫金を直接使えないという理由から、はじめは間接支援することになっていた300万円すら、結局は現金で支給した。アジア女性基金を受領した60名の韓国人慰安婦たちは実際には「日本国家の国庫金」ももらっていたことになる。依然として「賠償」ではないが、基金がただの「民間基金」だとの理解も修正されねばならない。」

  拙稿の関連する箇所は以下の通りである。

「『帝国の慰安婦』と関連して注目せねばならない点は、ここで朴裕河が国民基金の「償い金」を「補償」と呼んでいることだ。西野瑠美子が指摘したように、日本政府は「国民基金」の「償い金」は「補償」ではないと繰り返し主張してきた。国民基金副理事長であった石原信雄は「これは賠償というものじゃなくて、ODAと同じように、人道的見地からの一定の支援協力ということです」と語った。「償い金」が日本政府の法的責任を前提とした補償ではないということが徐京植の批判の核心であるが、朴裕河は一括してこれらを「補償」と総称してこの争点を解消してしまうのである。」

 つまり、「補償」かどうかは極めて重要な問題であったにもかかわらず、朴裕河は国民基金は実質的な「補償」だったというレトリックでこの対立点を曖昧にしてしまっている、と批判したのである。私が「「賠償」という言葉を問題視する」と朴はいうが、ここをみればわかるように、私が問題視したのは朴の「補償」の恣意的な用い方である。「賠償」の用法を問題視したのは、朴裕河の日韓協定に関する理解を問う文脈においてであり、別問題であるため、これについては後述する。また自らが挺対協の「補償」「賠償」の定義に従っているという主張についても、この「反論」で初めて登場したものであるため、節を改めて検討したい。

 いずれにしても、この項での「補償」をめぐる朴の主張は、相変わらず全く反論の体をなしていない。徐京植はダーバン会議を例にあげて、国民基金は法的責任を否定する「旧植民地宗主国らの「共同防御線」」を共に守るものだと主張した。一方、朴裕河は「償い金が日本の法的責任を前提とした補償ではない」ことに「異論はない」という。だとすれば、少なくとも事実認識のレベルで徐京植と朴裕河の対立は無いはずだ。そして、このような事実認識に立脚するならば、本来朴裕河のすべき反論は、徐の国民基金=「旧植民地宗主国らの「共同防御線」」という等式は誤りだ、ではなく、国民基金=「旧植民地宗主国らの「共同防御線」」のラインの「和解」で何が悪い、というものでなければならないはずだ。徐は「償い金が日本の法的責任を前提とした補償ではない」ということをもって、他の旧宗主国が絶対に譲らない線を日本もまた守ろうとしている、と主張しているのであるから、少なくとも朴のなしうる反論は「それで何が悪い」以外にありえないだろう。


*1 『帝国の慰安婦』のこうした植民地認識の問題を指摘する興味深い書評があった。ペ・サンミ(女性文化理論研究所)「主題書評 慰安婦言説のフェミニズム的転換の必要性」(『女/性理論』31号、2014年11月、図書出版ヨイヨン)は、朴裕河『帝国の慰安婦』は「帝国主義戦争に対する歪曲された理解と、慰安婦制度が[ママ]戦場での女性動員が持つ問題の核心を度外視」している、と批判する(268頁)。「和解」が実現しないのは、朴裕河のいうように「慰安婦」の動員/管理主体(軍or業者)が不明確であることや、女性たちの「誇張された被害」に照明があたったためではなく、日本が帝国主義膨張による植民地支配と、満州事変以後続いた戦時体制下で行った収奪と搾取を認め、それへの反省をしないからだ、と至極まっとうな指摘をしている。他にも「慰安婦」たちが「精神的「慰安者」」としての役割を果たしたという朴の主張についても、日本軍側からの史料や小説をもってそのように規定することの問題点に言及している。後半の上野千鶴子評価には同意しがたいところもあるが、『帝国の慰安婦』評価としてはまっとうな書評であると思う。

 なかでも興味深いのは、朴裕河の矛盾した叙述についての次のような指摘である。

「ところが矛盾することに、著者もまた慰安婦制度が帝国主義膨張政策と相俟ったものであることを知っており、慰安婦制度には米国も例外なく責任を感じねばならないと主張している(280-289頁)。慰安婦制度が帝国主義と密接な関係を結んでいることを知っている彼女が、日本の慰安婦問題の場合は帝国主義への反省と結びつけようとしない理由は、彼女の考える韓国と日本の「和解」像が慰安婦問題における日本の責任を軽減させ、韓国における日本への反感を縮小させ、日本帝国主義自体とその遺産への総体的な反省ではなく、慰安婦個人に極限した謝罪と補償のレベルで慰安婦問題を解決しようとするためだろう。」(269頁)

(鄭栄桓)

by kscykscy | 2015-09-18 00:00 | 歴史と人民の屑箱

朴裕河の「反論」を検証する――再論・『帝国の慰安婦』の「方法」について(2)

2.「反論」の検証②――【2.「方法」批判について】について

 「反論」第二節「「方法」批判について」の検証に入ろう。朴裕河はここで私の「方法」批判について、自らの「方法」を理解せずに批判している、的はずれな批判であると主張する。この節は三つの項に分かれているので、それぞれについて検討しよう。

「1)的外れの物差し
 鄭栄桓は私の本が概念を「定義」せず混乱しているという。だが多くの資料を用いながらも、その本を学術書の形態では出さなかったのは、一般の読者を念頭に置いていたからであり、一般の読者たちは誰もそんな問題提起をしていない。この本が鄭栄桓にとって「読みやすい本ではな」(474)いのは、概念を定義していないためではなく、この本の方法と内容が鄭栄桓にとって馴染みが薄いからだ。」

 一般書に学術書のような定義を求めるのはおかしい、実際、「一般の読者」でそのような「問題提起」をしたものはいない、という批判である。確かに、一般向けの本に学術書レベルの精緻な定義を求めるのは「的外れ」であろう。だが私は朴裕河に学術書レベルの定義を期待したわけではない。「強制動員」や「補償」、「責任」といった、本書のテーマを理解するためには不可欠の、極めて論争的な概念について、最低限の定義をすべきだと指摘したのである。それが無いと著者が何を言いたいのかがわからないからだ。必ずしも「読みやすい本ではな」いとしたのは、そのためである。

 実際に、本書は行論の都合上必要な最低限の定義すら欠いており、そのため誠実な読者ほど混乱に陥る。例えばすでに拙稿で指摘した通り、「強制動員」について朴は極めて特殊な意味で用いているにもかかわらず、全く説明がない。また、国民基金について日本政府が明確に補償であったことを否定したにもかかわらず、実質的な「補償」であるとも書いている。だとすれば著者なりの定義と説明が必要であるのは当然であろう。だがその作業が一切ないため、読み手がそれぞれの概念がいかなる意味で用いられているかを推し量り、再構成しなければならないのである。「本書は読み手に法外な負担を強いる――にもかかわらず得られるものは極端に少ない――驚くべき書物」(「朴裕河『帝国の慰安婦』の「方法」について(6)」)と評したゆえんである。逆に書き手には、真意や「意図」を後出しすることで反論に代える怠慢が許される。

 次に移ろう。

「2)貶め
 鄭栄桓は私が慰安婦の差異について言及した箇所を問題視して、「差異があるという主張自体は取り立てて新しいわけではな」(474)く、「数多くの研究が日本軍が占領した地域の慰安婦徴集や性暴力問題にあらわれる特徴を論じている」という。だが私は朝鮮人と日本人のポジションの類似性(もちろん、彼らの間の差別についてもすでにかなり前に指摘した)を指摘しながら、大日本帝国に包摂された女性たちと、それ以外の地域の女性たちの「差異」を指摘した研究を知らない。鄭栄桓の「方法」は、私の本が「売春」に言及したことをもって、実は右翼がすでにした主張だと貶める方法に似ている。だが私の試みは、ただ「慰安婦は売春婦」だというところにあるのではなく、そう主張する者たちに向けて「売春」の意味を再規定するところにある。」

 この「反論」を読んだ者は、私が「朝鮮人と日本人のポジションの類似性」を指摘した研究はたくさんあると主張した、と考えるだろう。朴裕河はそれについて、そのような研究はない、自分が初めて言ったのだと反論した、と。確かに本当に私がそのように指摘したのならば、朴の反論は妥当だ。しかし、朴裕河が引用した箇所を含む段落で、私は次のように指摘した。

もちろん、朝鮮と中国の「慰安婦」にその被害実態において差異があるという主張自体は取り立てて新しいものではない。すでに数多くの研究が日本軍が占領した各地域の「慰安婦」徴集や性暴力問題にあらわれる特徴を論じている。だがこの本の問題は朝鮮人と日本人「慰安婦」は「帝国の慰安婦」という意味で似ているという命題を前提に史料を解釈するところにある。」(474頁)

 一読して明らかなように、私が先行研究に指摘があるといった「差異」とは朝鮮と中国のそれである。朝鮮と日本ではない。むしろ、本書の特徴として、「朝鮮人と日本人「慰安婦」は「帝国の慰安婦」という意味で似ているという命題を前提に史料を解釈するところにある」とはっきり書いている。私は正しく朴の主張を理解していると考えているが、どこに問題があるのだろうか。何が「貶め」なのであろうか。「鄭栄桓の「方法」は、私の本が「売春」に言及したことをもって、実は右翼がすでにした主張だと貶める方法に似ている。」という決めつけに至っては、残念ながら私には朴裕河が何を「反論」したいのかすら、この文だけでは理解することができない。
 
 三番目の項、「3)「方法」理解の未熟」は若干長いため、三つに分けて検討しよう。

鄭栄桓は朝鮮人慰安婦の「精神的慰安者」としての役割についての私の指摘が、「飛躍」であり「推測」であるという。だがこれはまず証言で容易に見いだせる。そして私が指摘しようとしたのは、心情以前に朝鮮人慰安婦がそうした枠組みのなかにいたということだ。「国防婦人会」のタスキをかけ、歓迎/歓送会に参加した者たちが、仮に内心その役割を否定したかったといっても、そうした表面的状況に対する解釈が否定されねばならないわけではない。根拠なき「推測」はもちろん排除されねばならないが、あらゆる学問は与えられた資料を通じて「想像」した「仮説」を構築する作業であるほかない。何より私は、あらゆることを証言と資料に基づかせた。本で用いなかった資料も、すぐに他で整理して発表するつもりだ。「同志」という単語を用いたのも、まずは帝国日本に動員され「日本」人として存在したことをいうためだった。」

 自らの「推測」には根拠があり、「飛躍」ではないという。では私が問題にした「飛躍」とは何であったか。拙稿の関連箇所を引用しよう。

「朴裕河は千田夏光が紹介したある日本軍兵士の証言――日本人慰安婦が「立派に死んでください!」と言ったという回顧――を紹介しながら、日本は「帝国の慰安婦」に日本軍兵士の身体的「慰安」とあわせて、精神的「慰安」も求めたが、こうした「精神的「慰安」者としての役割――自己の存在に対する(多少無理な)矜持が彼女たちが直面した過酷な生活を耐えぬく力になることもありえただろうことは、充分に想像できることだ」(朝鮮語版、61頁)と主張する。「もちろん、「朝鮮人日本軍」がそうであったように、「愛国」の対象が朝鮮ではなく「日本」であったという点で、「朝鮮人慰安婦」たちを日本軍慰安婦と同様に扱うことはできない。」(朝鮮語版、62頁)という留保をひとまずはしながらも、結論的には日本軍兵士の証言をもとに、その証言には登場すらしない朝鮮人「慰安婦」の意識を推測する飛躍を犯しているのである。

 私のいう「飛躍」の意味は明らかであろう。千田夏光の紹介した証言は、日本軍兵士による、日本人「慰安婦」に関するものである。にもかかわらず、なぜそこから朝鮮人「慰安婦」の意識を「推測」することができるのか。それは「飛躍」ではないのか。これが私の批判の核心である。だがこの問いについて、朴は上にみられるように、全く反論していない。一般論を繰り返すばかりで、「証言で容易に見いだせる」とか、「あらゆることを証言と資料に基づかせた」といいながら、その実、「証言」も「資料」も示していない。なぜ、千田夏光の紹介した日本人「慰安婦」についての証言から、朝鮮人「慰安婦」の意識まで「推測」できるのか。この問いについて朴裕河は誠実に応答すべきである。

 私は本書を読んだとき、これはあくまで朴裕河の想像であり、朴の言葉を借りるならば「根拠なき「推測」」にすぎないと判断した。それゆえに、「この本の問題は朝鮮人と日本人「慰安婦」は「帝国の慰安婦」という意味で似ているという命題を前提に史料を解釈するところにある」と指摘したのである。個々の証言や資料から実態に迫るのではなく、朴があらかじめ作り上げたストーリーに沿って、証言や資料を解釈しているのである。だからこそ、日本人「慰安婦」に関する証言を、ただちに朝鮮人「慰安婦」にも妥当するものと読んでしまうのだ。この「方法」にこそ、本書の最大の問題がある。

 また、朴は「「国防婦人会」のタスキをかけ、歓迎/歓送会に参加した者たちが、仮に内心その役割を否定したかったといっても、そうした表面的状況に対する解釈が否定されねばならないわけではない。」と「反論」を試みている。おそらく朴はここで、当事者たちは「内心その役割を否定したかった」かもしれないが、「表面的状況に対する解釈」、すなわち客観的には「歓迎/歓送」したと解釈しうる、と言いたいのであろう。

 この主張には二つの問題がある。第一に、このような「表面的状況に対する解釈」は、まさしく表面的にすぎる。普通こうした事実、つまり、(A)「国防婦人会」に動員されて「歓迎/歓送会」に参加した朝鮮人がいたという事実と、(B)内心では「歓迎/歓送」する役割を否定したいと思っていた事実を示す史料があったならば、表面的には動員されているが(A)、動員の際に用いられたイデオロギーを朝鮮人たちは内面化していなかった(B)と解釈すべきであろう。実際、(A)を示す史料は決して珍しくないが(体制のイデオロギーを「表面的」に説明するものであるから当然であろう)、(B)のような史料を見出すのは容易ではない。それはみながイデオロギーを「内面化」していからではなく、民衆の心性の記録はなかなか残されないからである。戦時体制期であればなおさらだ。それゆえ貴重なのである。にもかかわらず、朴は(B)のような事実よりも、(A)を重視するというのだ。まさしく「表面的」解釈である。

 第二はより深刻である。上に引用した『帝国の慰安婦』の記述を読めばわかるように、朴は明らかに、元「慰安婦」たちが「内心」において、「「精神的「慰安」者としての役割」への「(多少無理な)矜持」を持ち、それが「彼女たちが直面した過酷な生活を耐えぬく力になることもありえた」と「想像」している。「内心その役割を否定したかった」ことを指摘したわけではない。「内心」において、生きるために「「慰安」者としての役割」を引き受けた、と主張したのだ。よって「仮に内心その役割を否定したかったといっても、そうした表面的状況に対する解釈が否定されねばならないわけではない。」という「反論」は、全く反論になっておらず、それどころか従前の自らの主張を大幅に変更しているのである。自らの解釈の誤りに気づいたならば、それを明らかにすべきである。こっそり変えるような真似をすべきではない。もしこの「反論」が自らの従前の主張とは異なることに気づいてすらいないとすれば、なおさら問題は深刻であるが。

 検証を続けよう。朴裕河は次のようにいう。

「鄭栄桓は軍人に関する慰安婦の「追憶」を論じた箇所をあげて、「追憶」とそれに対する「解釈」とに「遠い距離がある」(475)と批判する。だが学者の作業は「個別的な例」を分析して総体的な構造をみることだ。私が試みた作業は、「証言の固有性が軽視」されるどころか、この間埋もれてきた一人一人の証言の「固有性を重視」し、結果を導き出すことだった。「対象の意味」を問う作業に自らが習熟していないからといって、他の者の作業を貶めてはならない。
 同じ文脈で鄭栄桓は「日本人男性」の、それも「小説」の使用という「方法それ自体に大きな問題がある」(475)と批判する。こうした批判は、日本人男性の小説はその存在自体が日本に有利な存在であるかのように考える偏見が生み出したものだが、私は日本が慰安婦をいかに過酷に扱ったかを説明するための箇所で小説を用いた。慰安婦らの残酷な生活が、他でもない慰安婦を最も近くでみていた軍人たち、後に作家となった者たちの作品のなかにあらわれるからだ。いわば日本人たちに向けて、自身らの祖先が書いた物語であることをいうために、慰安婦の証言が嘘であるという者たち向けて、証言に力を与えるための「方法」として用いたにすぎない。鄭栄桓は歴史研究者たちによくみられる「小説」軽視の態度をあらわにしているが、小説が、虚構の形態を借りてときに真実以上の真実を明らかにするジャンルであることは常識でもある。」

 拙稿の該当箇所は上にあげた段落に続くもので、次の通りである。

「裁判で問題となった「同志的関係」を論じる方法もそうだ。証言と小説をもとに日本軍と「同志的関係」があった、「同志意識があった」との解釈をするが、ある個人が日本軍人の追憶を語ることと、「朝鮮人慰安婦」と日本軍が「同志的関係」にあったという解釈のあいだには、あまりに遠い距離がある。証言の固有性が軽視されているのである。日本人男性の小説を通して朝鮮人「慰安婦」としての「彼女」の意識、それも日本軍との「同志意識」の存在を論じる方法自体に大きな問題がある。」

 朴裕河は、ここでも私の問いに何ら具体的に答えていない。しかも朴は、あたかも私が小説という表現形式そのものの「真実」性を否定しているかのように問題をすり替えている。『歴史批評』論文では、目次をみればわかるように本書の日韓協定理解への批判を第一の目的とした。このため紙数の都合上、「同志的関係」への批判は具体的な例をあげて行うことができなかった。私はあくまで具体的な小説作品におけるエピソードの扱い方を問題にした(ブログでは指摘したので、それは朴も理解していると思うのだが)のだが、この結果、朴の幼稚な言い逃れを許すことになってしまったのは本当に残念である。

 私がここで念頭に置いているのは、本書における古山高麗雄の小説の扱い方である。朴は、古山高麗雄の小説「蟻の自由」にあらわれる「慰安婦」の描写を紹介して、次のように指摘した。

「ここには騙されてきたと言いながらも「軍人たちが銃弾を撃ち込まれること」と「慰安婦になること」を、ただ運が悪かったとみなし軍人を恨まない慰安婦がいる。彼女がこのように語ることができるのは、彼女がすでに植民地となって長い土地で育ち、自らを「日本」の一員と信じたためであろう。いわば彼女の目の前にいる男性は、どこまでも同族としての「軍人」であるのみで、敵国としての「日本軍」ではない。彼女が日本軍を加害者ではなく、自らと同様の不幸な「運」を持つ「被害者」とみて共感と憐憫を示すことが出来たのも、彼女にそうした同志意識があったからだ。」(『帝国の慰安婦』朝鮮語版、75頁)

 だがここで朴は、「古山の視点から描かれた小説の描写を、あたかも「彼女」の意識を示す材料であるかのように用いている。古山の小説から朝鮮人「慰安婦」としての「彼女」の意識、しかも日本軍との「同志意識」なるものの存在を論じるという方法自体が、すでに破綻しているのである。」(「朴裕河『帝国の慰安婦』の「方法」について」)。

 朴裕河は「小説が、虚構の形態を借りてときに真実以上の真実を明らかにするジャンル」であるという。確かにそのような例もあろう。だが私が問うているのは、一般的な小説の真実性如何ではない。なぜ、古山の小説に描かれた朝鮮人「慰安婦」像から、現実の朝鮮人「慰安婦」たちに「同志意識があった」ことを主張できるのか、という具体的な問題である。この問いに答えるべきである。「歴史研究者たちによくみられる「小説」軽視の態度をあらわにしている」云々といった揶揄でもって、ディシプリンの差異へと問題をすりかえるべきではない。

 むしろ私は、本書に対して文学研究者からの異論や批判があらわれないことが不思議で仕方がない。小説の描写をただちに現実を表現するものと捉え、それを歴史的な現象の解釈にあてはめるようなナイーブな「文学」観は、端的に言って文学研究の素人のそれではないだろうか。フィクションであるところの小説から、いかなる歴史に関するリアリティを導き出し、解釈するのか。その方法こそが文学研究者の腕の見せ所であると文学研究の素人である私は想像するのであるが、朴の古山の小説の論じ方には、そうした痕跡を全く見いだせない。ただ、古山の小説の描写を引用し、そこから、「事実」を推し量るだけだ。これは「文学研究」なのだろうか。文学研究者の方々にぜひ教えていただきたい。

 「反論」第二節の最後の箇所を引用しよう。

「鄭栄桓は、自身の状況を「運命」であると語った慰安婦を私が評価したことを批判するが、慰安婦の証言に対する評価もまた「固有性を重視」することだ。「運命」という単語で自身の状況を受け入れる態度を私が評価したのは、世界に対する価値観と態度に肯定的な何らかのものを見出したからだ。個々人の価値観から生じるそうした「評価」が否定されねばならない理由もないが、それと反する態度への批判が慰安婦の「痛みに耳を傾ける行為とは正反対」(476)となるものではない。学者であればむしろ、証言に対する共感に留まるのではなく、付随的な様々な状況を客観化できねばならない。加えて嘘の証言すら黙認するという話ではないはずだ。そうした状況に対する黙認はむしろ解決を困難にする。
 何より、私が「運命」だと語った選択を評価したのは、ただ、そのように語る慰安婦が存在した事実、しかしそうした声が聞こえてこなかったという事実を伝えなかったためにすぎない。日本を赦したいと語った彼女の声を伝えたのも同じ理由だ。私は「異なる」声を絶対化しなかったし、鄭栄桓のいうようにただ「耳を傾けた」だけだ。そうした声がこの間あらわれえなかった理由は、他の声を許容しない抑圧が、彼女たちにも意識されていたからだ。さらにいえば、鄭栄桓のいう「証言の簒奪」はむしろ、鄭栄桓のような態度と思考方式をもつ者によって生じるというのが、私がこの本で指摘したかったことでもある。
 よって私の「方法」が「倫理と対象との緊張関係を欠いた方法」であり「歴史を書く方式として適切ではない」(476)という批判は、私の「方法」を理解できないところから来た批判であるにすぎない。」

 ここでも朴裕河は、私の批判を誤って理解しているようだ。私は次のように書いた。

「この「証言」を最大限評価する反面、「天皇が私の前にひざまずいて謝罪するまで私は許せない」と「証言」したある女性には、「〈道徳的に優位〉という正当性による〈道徳的傲慢〉」、「相手の屈服自体を目指す支配欲望のねじれた形」、「屈辱的な屈服体験のトラウマによる、もう一つの強者主義」と最大限の罵倒をする(299-300頁)。こうした文章を書く方式は、「証言」の痛みに耳を傾ける行為とは正反対の、「証言」の簒奪行為ではないか。」

 私は「自身の状況を「運命」であると語った慰安婦を私が評価したことを批判」したわけではない。なぜ天皇を批判したこの女性は、ここまで朴に罵倒されねばならないのか、と問うたのだ。結局朴はただ「耳を傾けた」のではなく、「運命」と許す声と、天皇を許さないとした声を選別しているのではないか、という問いである。また、奇妙なのは、朴の「加えて嘘の証言すら黙認するという話ではないはずだ。そうした状況に対する黙認はむしろ解決を困難にする」という「反論」である。これは何を指しているのだろうか。管見の限りでは、本書で朴は、「嘘の証言」なるものについては何も書いていない。誰かが「嘘の証言」をしている、ということなのだろうか。これだけでは全く意味が不明である(*追記参照)。

 以上みたように第二節でも、朴裕河は抽象論と揶揄・皮肉をくり返すだけで、私の批判に一切まともに答えていない。

*追記

 ようやく『歴史批評』最新号を手に入れたので確認したところ(facebookの「反論」では注が省略されている)、上記の「嘘の証言」に関する文に付した注で、朴裕河は次のように記していた。

「李容洙ハルモニの証言はこの20数年間、何度か変わった。最近、過去の証言集に対する不満を吐露したが、これは証言の不一致を指摘されたからと考えられる。http://www.futurekorea.co.kr/news/articleView.html?idxno=28466」

 つまり、朴裕河の言う「嘘の証言」とは李容洙氏の証言を指すようだ。ちなみに、「天皇が私の前にひざまずいて謝罪するまで私は許せない」と語ったのは李容洙氏である。朴裕河が引用した『未来韓国』の記事は、李容洙氏の「証言集への不満」について次のように紹介する。

「李容洙ハルモニは挺対協が1993年に出版した証言集への不満も吐露した。証言の聴取を不誠実に行い、日本に行き証言した時にも通訳がまずく慰安婦となった経緯が事実とは異なるかたちで伝わったというのだ。
「証言は私の命のようなもの。それなのに挺対協の担当者たちは本人に確認もせずに事実とは違う証言集を出し、6500ウォンで販売までした。証言を聞きたいならば、静かなところで正式にするべきなのに、食事をしながら「ハルモニ、どこに行って来たの?」と質問して答えたのが大部分です。それで証言にはちぐはぐなところが多いのです。」」

 ここからは、李容洙氏の「不満」とは、「慰安婦」となった経緯に関するものであることがわかる。経緯の証言の変化、不一致を「嘘の証言」などと断じることができるのかそもそも疑問であるが、変化や不一致があるからといって「〈道徳的に優位〉という正当性による〈道徳的傲慢〉」、「相手の屈服自体を目指す支配欲望のねじれた形」云々といった罵倒が許されるわけではあるまい。李容洙氏が「慰安婦」被害者であることには変わらないのであるから「天皇が私の前にひざまずいて謝罪するまで私は許せない」と主張するのは当然ではないのだろうか。それとも朴裕河は、李容洙氏の証言の総体が「嘘」であるとでもいうのだろうか。

(鄭栄桓)


by kscykscy | 2015-09-17 00:00 | 歴史と人民の屑箱

朴裕河の「反論」を検証する――再論・『帝国の慰安婦』の「方法」について(1)

 韓国の歴史学術誌『歴史批評』112号に朴裕河氏(以下、敬称略)の反論が掲載された(朴裕河「日本軍慰安婦問題と1965年体制――鄭栄桓の『帝国の慰安婦』批判に答える」『歴史批評』112号、2015年秋、以下「反論」と略す)。 「反論」の目次は以下の通りである。

1.誤読と曲解――鄭栄桓の「方法」
 1)慰安婦問題に関する日本国家の責任に対する立場
 2)韓日協定に対する立場
 3)方法について(以上、(1)で検証)
2.「方法」批判について
 1)的外れの物差し
 2)貶め
 3)「方法」理解の未熟
3.『和解のために』批判について
 1)道徳的攻撃の問題
 2)誤読と歪曲
 3)総体的没理解
4.鄭栄桓の「韓日協定」理解の誤謬
 1)慰安婦問題に関する責任について
 2)憲法裁判決について
 3)韓日会談について
5.生産的な談論のために

 「反論」は私の批判への反駁であると同時に、私の批判のあり方への批判も含んでいる。だが「反論」における朴裕河の反駁のあり方は、『帝国の慰安婦』における著者の「方法」の欠陥を改めて浮き彫りにしたと私は考える。率直にいって『歴史批評』編集委員会は、本人のためにも、もう少し意味のある反論になるよう意見をつけて返却すべきだったのではないかと思う。

 検証に先立ち指摘しておきたいが、朴裕河は『帝国の慰安婦』への批判的指摘の深刻さをもう少し真摯に受け取るべきなのではないだろうか。少なくとも私は、『帝国の慰安婦』が一般向けの歴史書(この本は学術書ではない)としての最低限のモラルすら欠いた欠陥品である、と主張し、研究者としての倫理を疑うような批判を放っているのである。相応の検証の末に、あまりの酷さに愕然とし、全面的な批判の論評を『歴史批評』に掲載したのである。

 しかし、今回の「反論」もまた、残念ながらあまりにレベルが低く、まともな反論になっていない。問われていることの深刻さは、批判を中途半端に切り貼りし、適当に皮肉を織り交ぜつつコメントすることで「反論」できるような次元のことではない。まず自らへの批判を丹念に読み、そして何より、自らが何を書いたかを仔細に再検討すべきである。そうでなければ生産的な論争など成り立ちようがない。手遅れかもしれないが、朴裕河には批判に誠実に向き合うよう、改めて強く求めたい。

 ただ、そういった朴裕河の杜撰さも含めて「反論」それ自体を検証することは、いまだに朴への幻想を抱いている日本語圏の人々にとってもそれなりに有益であろうと思う。以下に、「反論」を詳しく翻訳・紹介しながら、私の批判に答えたものになっているのか、「反論」たりえているのかについて、順を追って検証したい。なお、拙稿「日本軍『慰安婦』問題と1965年体制の再審判 朴裕河の『帝国の慰安婦』批判」の目次は以下の通りである。基本的にはブログで連載してきた『帝国の慰安婦』批判を基に再構成し、韓国向けに加筆修正したもので大きな変更はない。

1.はじめに
2.『帝国の慰安婦』の「方法」について
3.『和解のために』と『帝国の慰安婦』
4.『帝国の慰安婦』の韓日協定理解の誤謬
 1)『帝国の慰安婦』の憲法裁判所決定批判の論理
 2)争点の錯誤
 3)韓日会談論の問題点① 権利を抹消したのは韓国政府?
 4)韓日会談論の問題点② 「経済協力」は「戦後補償」なのか?
5.おわりに

1.「反論」の検証①――【1.誤読と曲解――鄭栄桓の「方法」】について

 「反論」はあわせて五節で構成される。まずは第一節の「誤読と曲解――鄭栄桓の「方法」」からはじめよう。ここで朴裕河は反論に先立ち、私が『帝国の慰安婦』を批判したことそれ自体を問題視する。「反論」は次のように始まる(なお、以下では「反論」からの引用は青字で示す。強調は引用者。)。

「在日僑胞学者鄭栄桓が私の本『帝国の慰安婦――植民地支配と記憶の闘争』への批判を『歴史批評』111号に掲載した。まずこの批判の当為性について語る前に、批判自体に遺憾を表明したい。なぜなら、私は現在この本の著書として告発されている状態であり、そうである限り、あらゆる批判は執筆者の意思を離れ、直接・間接的には告発に加担することになるからだ。
 実際に、2015年8月に提出された原告側文書には、鄭栄桓の批判論旨が借用されていた。[中略]私への批判に加わった学者・知識人たちがこうした状況を知ってか知らずか、私は知り得ない。だが批判をしたいのであれば、訴訟を棄却せよという声をまずあげねばならないのではないか。それこそが「法廷に送られた学術書」に対して取るべきであった、「学者」としてなすことでなかったか。」

 私の考えは朴裕河とは異なる。「あらゆる批判は執筆者の意思を離れ、直接・間接的には告発に加担することになる」という決めつけを学術誌で表明できる感覚は、そもそも私には理解できないが、朴裕河が9人の元「慰安婦」被害者たちに「人格権と名誉権」を侵害したとして告発されたことと、公的な言論の空間で『帝国の慰安婦』を論評することは全く別の次元の問題である。私が『帝国の慰安婦』を論評する自由は、元「慰安婦」被害者の告発によっても妨げられはしない。しかも、本書は日本語でも出版されており、日本と韓国の読者を主たる対象とした本書について、告発を理由に論評を控えねばならない理由はどこにも存在しない。

 確かに私は9人の被害者たちの主張の多くに賛同するが、告発それ自体を批判する立場からしても、「人格権と名誉権」の侵害かどうかが争われる法廷での議論を離れて、本書が総体として公的な言論空間で論評されることは著者にとって望ましいことなのではないか。そして、仮に「この本の著書として告発されている状態」であるから論評をするなというのならば、本書を賞賛する論評に対してもまた、朴裕河は同様の「遺憾を表明」すべきではないのか。朴の「遺憾」の表明は次元の異なる問題を持ちだした不当なものである。

 続けて朴裕河は次のように記す。

「早くから始まりついにはハンギョレ新聞にまで引用されて私に対する世論の批判に寄与したにもかかわらず、鄭栄桓の批判にこれまで答えてこなかったのは、彼の批判が誤読と曲解に満ちたものだったからだ。彼の文章は、彼が私が行ったと主張した「恣意的引用」によって綴られたものであり、結論が先にあり、敵対を前提にしており、実際、読むこと自体が憂鬱であった。よって、具体的な反論に入る前に、まず私の立場と論拠を確認しておくことにしよう。」

 私の批判は「誤読と曲解に満ちたもの」であり「恣意的引用」によって綴られ、「結論が先にあ」る、という。だがこの指摘は誤っているうえ、反論に際して朴は再び「恣意的引用」を繰り返し、生産的な議論を妨げている。以下に具体的に検証しよう。

 朴裕河の第一の反論は、自らは日本国家の責任を追及しているのに、あたかも責任を否定したかのように歪曲する、というものだ。以下、いかに私が朴裕河の主張を「歪曲」しているか、という「反論」が続く。

「鄭栄桓は私が「日本国家の責任を否定」(482-483頁、以下「頁」は省略)したとして、「植民地主義批判が無い」(492)ために、「植民地支配責任を問う声を否定しようとする「欲望」にこの本はよく呼応」するといい、甚だしくは「歴史修正主義者たちとの隠密な関係を検討せねばならない」(491)とまでいう。だが私は慰安婦問題において、日本国家の責任を否定しなかった。私が否定したのは「法的」責任であるに過ぎず、当然ながら日本国家の責任を問うた。日本語版では「国会決議」が必要だと書きもした。にもかかわらず鄭栄桓は、こうした部分に沈黙するのみならず、「歴史修正主義者」という、韓国で批判されている存在を呼び出し、彼らと同じような存在であると考えさせるような「歪曲」を、自身の批判の「方法」として用いる。」

 このパラグラフでは、私の批判から三箇所が引用されている。それぞれの箇所を以下に引用しよう。まずは「日本国家の責任を否定」の箇所から(太字は朴の引用箇所)。

「朴裕河の「決定」批判の特徴は、以上見たように日本軍「慰安婦」制度について、事実関係のレベルで日本国家の責任を否定するところにある。だがこうした論理の基底には、憲法訴願の争点についての錯誤がある。元来、憲法訴願の争点は日本軍「慰安婦」制度についての日本国家の責任の有無ではなく、韓日請求権協定第三条が基底した「解決のための措置」を韓国政府が採らなかったという不作為が、憲法違反かどうかにあった。だが朴裕河は『和解』の論理を踏襲し、「業者主犯説」を展開して日本国家の責任を否定した。前述したように、朴裕河は日本軍の責任はどこまでも「需要」を作り出した責任、あるいは人身売買を「黙認」した責任にあり、こうした行為についても法的責任を問うことはできない、と主張する。」(拙稿「日本軍『慰安婦』問題と1965年体制の再審判 朴裕河の『帝国の慰安婦』批判」、482-483頁)

 「私が否定したのは「法的」責任であるに過ぎず、当然ながら日本国家の責任を問うた」と朴はいう。確かに責任を問うかのような記述はある。だが仔細に読むとそれは業者を主犯として、日本軍の責任を「需要」創出と人身売買「黙認」に限定するものだ。それは日本軍「慰安所」制度への誤った理解に基づくものではないのか。これが私の批判の論旨である。私は朴が日本国家の責任を「慰安婦」の「需要」を作り出し、人身売買を「黙認」したことに限定し、かつこれらの行為についても法的責任を否定した、と正確に要約している。あたかも責任を問うかのように書いているが、実際には日本国家の直接的な責任を否定し、しかも限定的に認めた「需要」「黙認」についてすら、法的責任を否定しているではないか、と私は問うたのである。これは歪曲ではなく、批判である。

 次に「植民地主義批判が無い」以下の箇所について。私は次のように書いた。

「『帝国の慰安婦』の流通と消費の構造もまた上のような徐京植の指摘を避けては理解できないだろう。「民主主義者」としての「名誉感情」を維持したまま、植民地支配責任を問う声を否定しようとする「欲望」に、この本はよく呼応しているからだ。わかりやすい歴史修正主義者とは距離を置く「リベラル」知識人たちと歴史修正主義の隠密な関係を検討せねばならない
 『帝国の慰安婦』は表面上は従来の戦争責任論の限界を克服し植民地支配責任の観点から日本軍「慰安婦」問題を論じた著作のようにみえる。だが、この本が主張する内容の核心に植民地主義批判はない。韓日会談を論じる際、朴裕河は韓国政府がどれほど植民地支配の補償を求めなかったかを強調する。これは筆者も同意する事実だ。にもかかわらず朴裕河はこの「1965年体制」を再審しようとする傾向を批判しながら、むしろ「いま必要なのは、当時の時代的限界を見ることであり、そのうえでその限界を乗り越えられる道を探すこと」「そのような時代的限界を検証し補うこと」(252-253頁)であると説く。」(同上、491-492頁)

 ここでも私は、『帝国の慰安婦』には、一見すると植民地主義を問うような叙述があるが、実際には異なるものである、と批判している。朴の議論を紹介したうえで、それを批判しているのであり、「歪曲」しているわけではない。「日本国家の責任を問うた」ことに「沈黙」など全くしておらず、むしろ長々と朴の議論を紹介したうえで、そのレトリックの詐術を暴いているのである。主張を誤ったかたちで紹介すること(歪曲)と、主張に同意しないこと(批判)の違いを、朴は理解していない

 続けて朴裕河は次のように反論する。

「鄭栄桓の言うとおりならば、この本に対する日本人たちの反応――「この問題提起に日本側がどのように答えていくのかという問いが私たちに向けられている」(杉田敦、書評、朝日新聞2014.12.7)、「どこでもあったことだと日本が強弁せず、帝国主義膨張を越える思想を新たに提起できるならば世界史的意義は大きいのではないか[という朴裕河の問いに]私は反対する理由を考えられない」(山田孝男、コラム、毎日新聞2014.12.21)、「私はこの本を読んで慰安婦のお婆さんたちに対する痛い気持ちが一層深まっただけだ」(若宮啓文、コラム、東亜日報2014.7.31)――はみな誤った書評だという話になる。ある右派は私の本が戦争責任の枠組みでのみ扱われてきた慰安婦問題で、植民地支配責任を問おうとするものだといって「日本の左派より怖い本」だといったり、「固陋とした支配責任論を持ち出してきた」と非難すらした。」

 このパラグラフに典型的にあらわれているように、朴はしばしば、進歩メディアの××が評価しているのに私を右翼だというのか、とか、逆に、右翼の××が私を批判するのに歴史修正主義だというのか、といった論法での「反論」をする。だが朴裕河批判の多くは、産経・文春的な歴史修正主義のみならず、朝日・岩波的なリベラルを批判している。朴が『産経』的な右翼であるとだけいっているわけではない。その『朝日』的な言論を批判しているのである。それは朴自身がよくわかっているはずである。「リベラル」による賞賛記事を持ちだしても何の「反論」にもならない。

 ついでにいえば、『帝国の慰安婦』の出版元=朝日新聞出版と同系列の朝日新聞や元朝日記者の若宮の好意的書評を紹介しても、一般的にはただの「宣伝」と受け取られるだけだろう。また、『週刊文春』で秦郁彦が朴裕河の主張は自らと同じものと褒めていたが、それはどうなるのか。そもそも、紙数を充分に与えられなかったと憤るならば、誰それに褒められた/けなされたから、といったことで自らの主張を飾り立てるような幼稚な「反論」など載せないほうがよい。言論は社交ではないのである。ちなみに、朴裕河の言うとおり、私はこれらの論評における『帝国の慰安婦』の評価は誤っていると考えているので、このパラグラフに異論はない。

 朴はさらに「歪曲」の実例として、次のように記す。

鄭栄桓は同じ方法で私が「韓日合邦を肯定」したと書く。だが私は韓日合邦無効論に懐疑を示しながらも、「もちろん現在の日本政府が慰安婦問題をはじめとする植民地支配に対する責任を本当に感じるのであれば、そしてそれを敗戦以後国家が正式に表現したことが無かったという認識がもし日本政府に生じたならば、「法的」には終わった韓日協定だといっても、再考の余地はあるだろう。女性のためのアジア平和国民基金の国内外の混乱は、その再考が源泉的に排除された結果でもある」(『和解のために』235)と書いた。私は韓日合邦も韓日協定も「肯定」していない。」

 朴裕河には、引用でもないのに引用符を用いる、という研究者としては致命的な悪癖がある。この箇所を読んだ者は当然ながら、私が、朴が「韓日合邦を肯定」したと書いたと思うだろう。だが驚くべきことに、私はこんなことは書いていないのである。実際この引用には頁数が記されていない。存在しないから当然である。そもそも私は「韓日合邦」などという表現は用いない。私が「併合」の問題に言及したのは以下の箇所である。

「ところで金昌禄によれば、こうした韓国政府の「経済協力=賠償」論は、韓日基本条約第二条の解釈と関連があるという。韓国政府は第二条をはじめから韓国併合条約が無効であることを表現したものとして解釈し、「併合無効論」を前提にした「経済協力」であるため、「賠償」であるという解釈を採ったのである。『帝国の慰安婦』では、朴裕河は「併合」が法的に有効であることを繰り返し主張しているため、1965年当時の韓国政府とも立場は異なる。」(488頁)

 これがどうして「韓日合邦を肯定」という話になるのだろうか。朴は韓国併合条約が無効であることを認めない、と書いただけだ。「韓日合邦無効論に懐疑を示し」たことは、当の朴自身が認めている。しかも、朴の紹介する『和解のために』からの引用は、「併合」条約に関する主張ではなく日韓協定についての説明であって、何らの「反論」にもなっていない。しかも、こうした杜撰な「反論」をもとに、朴裕河は次のような主張を展開する。

「私は慰安婦を作り出したのは、近代国民国家の男性主義、家父長主義、帝国主義の女性/民族/階級/売春差別意識であるため、日本はそうした近代国家のシステムの問題であったことを認識し、慰安婦に対し謝罪/補償をすることが正しいと書いた。にもかかわらず鄭栄桓は「朴裕河は韓日合邦を肯定し、1965年体制を守護しており、慰安婦のハルモニの個人請求権を認めない」というのである。私は「学者」によるこうした歪曲は犯罪レベルのものであると考える。
 鄭栄桓の批判の「方法」は、徐京植や金富子ら他の在日僑胞たちの私の批判の方式と非常に似ている。彼らもまた、『和解のために』の半分が日本批判であるという事実に言及せず、私を「右翼に親和的な歴史修正主義者」というようにいってきた。」

 ここでも、引用でもないのに引用符を用いる悪癖があらわれている。後述するが、朴裕河が元「慰安婦」女性たちの対日賠償請求権を認めていないのは、『帝国の慰安婦』の叙述を読めば明らかである(「朴裕河『帝国の慰安婦』の「方法」について(4)」も参照)。また、韓日協定の再協商を否定し、協定の枠内での交渉を求めた憲法裁決定すら認めないのも同様である。「韓日合邦を肯定し」た云々は馬鹿げた「歪曲」であるが、併合条約の不法性を認めないのも上にあるように事実ではないか。朴裕河の主張を要約して紹介し、かつそれを批判的に論評したことが、なぜ「犯罪レベル」なのか。朴がそこまで主張するのならば、私の批判がいかなる「犯罪」を構成するのか、説明すべきであろう。この箇所は私に対する名誉毀損であるというほかない。

 また、私は「『和解のために』の半分が日本批判であるという事実に言及せず」に批判したわけではない、言及したうえで、その批判のあり方を批判したのである。それは、上にあげたいくつかの引用を読めば明らかである。事実に言及していないのではない。朴の主張を承認していないだけだ。両者を混同してはいけない。

 「反論」第一節は残すところ三つのパラグラフとなった。以下に引用する。

「鄭栄桓は私が「1965年体制の守護を主張」(492)しているという。だが再協商が無理だという考えが、ただちに「守護」になるわけではない。実際、私は日本に向けて書いた箇所で韓日協定は植民地支配への補償ではなかったと書いた。鄭栄桓がいうような「守護」どころか、その体制に問題があるとはっきりと指摘した。韓国政府が請求権を無くしてしまったことを指摘したのは、1965年体制を「守護」するためではなく、自身らがしたことへの「責任」意識が伴わねばならないと考えたためだ。」

 協定への評価については、第二節以降で本格的に論じているので、ひとまず措く。第一節の締めくくりとして、朴裕河は次のように指摘する。

「鄭栄桓とは異なり、批判したいと考えるほど、自らも省みるのが私の「方法」である。歴史学者や法学者には馴染みのない方法かもしれないが、問題それ自体以上に、両国の「葛藤」の原因と解消に関心が大きい研究者として必然的な「方法」でもある。
 鄭栄桓は日本語版と韓国語版が異なることに、陰険な「意図」があるかのようにいうが、この本が対立する両国国民らに向けて可能な限り事実に近接した情報を提供しながらも、「どう考えればよいのか」に重心を置く本である以上、日本語版が日本語読者を意識して「再び」書かれたのは当然のことだ。また、時々刻々悪化する韓日関係を眺めながら、可能な限り早く出さねばならないという考えにとらわれた韓国語版には、当然ながら粗い箇所が多かった。よって日本語版を書いたときにそれらを修正するのも当然のことだ。「韓国の問題」、「日本の問題」を別に見ることができるよう構成を変えたのも、そうした脈絡からであるに過ぎない。」

 「方法」云々はくだらない言葉遊びなので相手にする必要はあるまい。しつこいようだが、ここでも引用でもないのに、引用であるかのように引用符を用いる悪癖が出ている。私は朝鮮語版と日本語版での書き分けに、「陰険な「意図」があるかのようにい」ってはいない。「意図」という言葉自体、私は使っていない。読者が異なる以上、朝鮮語版と日本語版で内容が異なる場合があるのは当然であろう。あたかも私が書き分けたことそれ自体を批判したかのように書くのは、それこそ歪曲である。かつて書いた指摘を再掲する。

「その前に、本書を「読む」上で、筆者の主張の再構成や矛盾の指摘、そして日本語版と朝鮮語版を比較対照することがいかに重要かについて記しておきたい。言うまでもないことだが、日本語版の刊行に際して加筆や修正を加えることは当然ありうることだ。修正を行ったこと自体を批判するつもりは全くない。これまでの作業は、あるいは悪意をもって朴の主張を歪曲するためにあえて重箱の隅をつついているにうけとられるかもしれないが、私からすれば筆者の主張の再構成という作業抜きに本書を「読む」ことが出来てしまう方が不思議である。

 論旨の再構成と矛盾の指摘という作業が重要な意味を持つのは、本来これらの前後矛盾や不整合、自家撞着は本書の欠陥を示すものにすぎないにもかかわらず、ある局面においては、本書への批判を無効化する機能を果たすからである。AとBという相対立する叙述が同居することは、普通に考えれば単なる欠陥である。だが雑多な情報が不整理のまま盛り込まれ、明瞭さが著しく欠如している場合、A批判に対しては「Bとも書いている」と言い返し、B批判に対しては「Aとも書いている」と言い返すことであたかも反批判をしているかのような外観を取り繕うことが可能になることがある。本書はまさにその典型例といえる。」(「朴裕河『帝国の慰安婦』の「方法」について(6)」

 また、朝鮮語版と日本語版の双方を読んだ立場からいえば、後者よりも前者のほうがはるかに内容としては整っている。「韓国語版には、当然ながら粗い箇所が多かった」というが、日本語版のほうが粗さが増しているのである。『歴史批評』論文では紙数の都合上省略せざるを得なかったが、これまでの記事を読んでいただければ、日本語版がなぜ原書に輪をかけて支離滅裂なものになったかがわかると思う。

 以上、全五節の「反論」のうち、第一節についてほぼ全文を引用して検討した。この「反論」には、『和解のために』批判への反論と同様の、朴の手法が典型的にあらわれている。日本を批判しているのに、あたかも歴史修正主義者や右翼のように扱う批判者は、私の主張を歪曲している、という「反論」である。だが、こうした「反論」は上に見たように、完全に破綻している。また、恣意的な引用にとどまらず、「反論」では引用らしきものの創作すら行っている。『帝国の慰安婦』で露わになった問題点が、再び噴出しているのである。

(鄭栄桓) 

by kscykscy | 2015-09-15 00:00 | 歴史と人民の屑箱

朴裕河の徐京植批判について

 朴裕河の反論の検討に入る前に、せっかくなので朴裕河「批判が志向する場はどこなのか?――鄭栄桓の『帝国の慰安婦』批判に答える(1)」(以下、「反論(1)」)にも触れておこう。これを読むと朴裕河の議論のスタイルがよくわかる。私への反論をはじめるにあたり、朴は自らへの批判を「理解するためのヒント」として、以下のような「構図」を紹介する(以下、[]内は引用者注)。

「私は彼[ここだけはおそらく私を指す]とは、私が最も関心を抱き、また発表もした日本のある研究会で2000年代初頭に出会った。その研究会は日本の在日僑胞問題、沖縄問題など帝国日本が生み出した様々な問題に対する関心が高い場であったし、何より知的水準が極めて高い場であったため、その存在を知ってからは企画があれば参加していた。文富軾、鄭根埴、金東椿などが、その研究会が関心を持ち招待されたこともある人々だった。

 徐京植もその研究会でとても大事な存在であることはただちにわかったし、私もまた彼に好感を持っていたため彼と本を交換もした。ところが私が在日僑胞社会の家父長制問題について発表すると、彼らの態度は変わった。徐京植は「ジェンダーより民族問題が優先」だと露骨に言ったこともあった。当時の研究会メンバーたちの間では、公式の場ではそうした徐京植を批判しなくとも、私的な席では徐京植を批判した者もいた。

 いわば徐京植、尹健次、そしていまや鄭栄桓に代表される私への在日僑胞たちの批判は、基本的には「ジェンダーと民族」問題をめぐるポジションの差異から生じるものだ。興味深いことに、私に公式的かつ本格的に批判を行ったのは、みな男性の学者たちだった。女性である場合は、金富子や尹明淑ら慰安婦問題研究者に限られる。この構図をどう理解するかが、私と彼らの対立を理解する第一のヒントになるだろう。韓国で徐京植から始まった私への批判に加勢した学者たち――イ・ジェスン、朴露子、尹海東ら――もみな男性の学者だった。(もちろん、女性の学者、あるいは女性学専攻の者たちのはかにも訴訟に反対したり、私に好意的に反応した者は極めて珍しかった。)

 後にも書くが、彼らの批判は約束でもしたかのように、私の論旨が「日本を免罪」するという前提から出発する。鄭栄桓が繰り返し強調するのもその部分である。」

 念のため確認しておくが、この文章の副題は「鄭栄桓の『帝国の慰安婦』批判に答える」である。だがこの調子で「反論(1)」はひたすら徐京植の話が続く。「あえてこの文章で徐京植に言及する理由は、鄭栄桓が『和解のために』を批判する際に徐京植の批判を持ちだしたから」ということのようだ。

 朴はここで、〈在日社会の家父長制を批判する私 vs 「民族問題が優先」だという在日の男(徐京植)たち〉という構図を提示して批判者に「家父長制批判を許さない民族主義者」のレッテルを貼っている。だが、これはあまりに乱暴な単純化である。大体、私を批判したのは「みな男性の学者だった」、但し慰安婦問題研究者除く、とはどういうことなのだろうか。それでは「みな男性の学者」ではないのではないか。イ・ジェスンや朴露子からの批判もあるなら「在日僑胞たちの批判」でもないではないか。提示した直後に破綻するような粗雑な「構図」など、何の「ヒント」にもならない。

 何より、徐京植の議論をあまりに歪めている。2000年代前半の徐は「ジェンダーより民族問題が優先」などという粗雑な議論はしておらず、むしろ植民地支配が二つのカテゴリーによる複合的な差別を生み出し、解放後の在日朝鮮人たちも二重の桎梏のもとにあったことを指摘していた。「慰安婦」問題についても、1998年の文章で徐京植は次のように書いている。

「憤り、悔しさ、悲しさ、申し訳なさ、それらすべての入り混じった思いに胸が詰まる。――十六歳の少女に加えられた凄まじい暴虐に。国家意志によって、組織的に、何千、何万という女性たちに対して、こうした暴虐が加えられたことに。それが当たり前だと考えていた植民地支配者の民族差別と性差別に。それ以上に、現在なお、それを当たり前だと考えて疑わない人々がこんなにも多くいることに。「慰安婦」の存在を知識としては知っていながら、こんなにも長い間、具体的なことは何もしてこなかった私自身の罪深さに。そして、日本の国家犯罪の「手先」となって同胞の少女を売買し、殴打し、搾り取り、寄生虫として私腹を肥やした「サイ」や「コウ」、その他多数の朝鮮人犯罪者にも。
 朝鮮人の「手先」がいたからといって、「元締め」である日本国家の責任はいささかも減免されない。「『慰安婦』を連行した業者の中には『朝鮮人』もいた」などという、民族差別意識につけこんだ責任のがれは許されてはならない。同時に、いかに「元締め」の罪が大きかろうと、「手先」には「手先」なりの罪がある。「元締め」の罪を追及するためにも、これら朝鮮人内部の犯罪者の追及は私たち朝鮮人自身の手でやりとげなければならない。」(「母を辱めるな」、『ナショナル・ヒストリーを超えて』東京大学出版会、1998年、引用は『半難民の位置から』影書房、2002年、31頁より)

 この文章からもわかるように、朝鮮人「業者」の問題を指摘したのは別に朴裕河が初めてではない。強制連行の有無という論点の問題点についても、すでに同じ文章で徐京植は「日本による朝鮮「併合」そのものが「強制」だった。あの時、すべての朝鮮人が大日本帝国の臣民へと「強制連行」されたのだ。それ以上、どんな詮索が必要だろうか。」(35頁)と指摘している。朴裕河は「批判者たちは私の本は決して引用しない。最近ではこの問題を植民地支配の問題として見なければならないという私の提起まで、引用なしに使う者まで現れている。」と憤激するが(「反論(2)」)、その理由は簡単である。朴裕河に教えられるまでもなく、上にあげた徐京植をはじめとして、1990年代に朴裕河の議論よりもはるかに本質的な指摘があったからだ。二番煎じを引用する必要はない。むしろ朴裕河はこうした議論を横領して歪曲したからこそ、その横領と歪曲に批判が集中するのである。当然のことだろう。

 そもそもこうしたレッテル貼りは、あくまで別個かつ独立の人格である私や徐京植ほかここであげられた人々への侮辱であるのみならず、朴裕河自身の言論の価値を貶めるものである。それぞれの批判に即して反批判をするべきであって、批判者たちにレッテルを貼って済ませてよいはずがない。「~~だと露骨に言ったこともあった」とか、「私的な席では徐京植を批判した者もいた」といった類の下劣な内輪話ではなく、当人の主張に即して、具体的に批判をすればよいではないか。批判者たちが同じ指摘をするということは、誰しもが共通して見出しうるような欠陥が『和解のために』や『帝国の慰安婦』にあることの証左ではないのか。

 「反論(1)」の数少ない私への批判として、朴裕河はこうも書いている。

「それ[徐京植]に比べれば鄭栄桓は、それでもバランスを取ろうと苦心しており、その部分では一歩進んだ在日僑胞の姿ではある。だが鄭栄桓は、私の「方法」が、何らかの不純な意図を持ったものであるかのようなやり方で書いている。本の全体の意図と結論を完全に無視し、文脈を無視した引用とともに、フレームをかぶせて「危険で不道徳な女性」に見えるようにするのが彼の「方法」である。そうであるために私の本が結論的には「日本の責任」を問う本であることはどこにも言及されていない。彼らは日本に責任を問う方式が、自身らとは異なるということだけをもって、私を非難しているのである。」

 どうあっても話を「在日僑胞(男)からの批判」というフレームにおさめたいようだ。「日本の責任」云々については、「反論(2)」が具体的に論じているのでそちらの検討に譲る。困ったものだと思うのは、「フレームをかぶせて「危険で不道徳な女性」に見えるようにするのが彼の「方法」である」という箇所である。私は『帝国の慰安婦』の誤りを指摘し、方法の上でも看過しがたい問題があると指摘したのであって、別に著者自身を「危険で不道徳な女」などとは書いていない。論文で朴裕河の人格について論じるわけがないではないか。繰り返しになるが、こういう論法は自らの言論の価値と品性を貶めるので、やめたほうがよいと思う。

 ところで「人格」と「方法」で思い出したのだが、朴裕河の思い出話にあるように、私が朴を知ったのは2003-4年ごろだった。民族差別と家父長制をあまりに機械的に論じる議論の雑な人だな、とは思っていた。ただ朴裕河が私にとって忘れられない存在になったのはそのためではなく、その論文から受けた衝撃ゆえである。

 私が初めて読んだ朴裕河の論文は、2003年11月号の『思想』に掲載された「1960年代における文学の再編 「国民文学」と「在日文学」の誕生」である。内容はよいとして、今でも鮮明に憶えているのはその「注」の書き方である。「むろん、その言説[江藤淳のような本質主義]から排除されているはずの「在日」社会においても正しい「父」=「近代国民国家」が夢見られている限り(注51)、江藤や『こころ』の浮上に現れる「精神」は忠実に踏襲されていたことになる。」(121頁)という一文があるのだが、何とこの注51をみると、「代表的な存在として尹健次をあげることができよう。」(125頁)と書いてあるのだ。著作や論文といった主張ではなく「存在」である。「正しい「父」として「近代国民国家」を夢見ている」「存在」=尹健次……。後にも先にも学術論文で「存在」が出典として表示された例は見たことがない。大変衝撃的だった。『思想』編集部は何も言わなかったのかと思ったものである。

 もちろん、だから朴裕河の『帝国の慰安婦』は信用ならない、といいたいわけではないし、いえるはずもないのだが、『帝国の慰安婦』の出典の示し方などを考えると徴候的であるとは思う。

(鄭栄桓)

by kscykscy | 2015-09-05 00:00 | 歴史と人民の屑箱