朴裕河の記者会見における「反論」について

1.日本の「学者」問題

 朴裕河が12月2日、ソウルプレスセンターで在宅起訴に反論する記者会見を開いた。在宅起訴自体に抗議するのは、一方の当事者であるから理解はできる。それを論評するつもりはない。だが、そこでの『帝国の慰安婦』の内容に関連する「反論」はあまりに問題だらけの内容であった。以下に具体的にその問題点をするが、それに先立ち一つだけ今回の事件について記しておきたい。

 もし刑事裁判で決着をつける以外にこの問題の「解決」への道があるとすれば、朴裕河が民事裁判後の刑事調停で女性たちが求めた条件を容れて謝罪し、34ヶ所伏せ字版の修正と日本語版の当該箇所を削除することで赦しを乞い、女性たちに告訴取り下げを求める以外の方法はないと思う。「ナヌムの家」の発表をみても、刑事調停が成立すれば、女性たちは民事も含めたあらゆる訴えを取り下げるつもりだったという。女性たちにしても刑事罰を課すことが目的ではないのだ。民事裁判の資料を見る限り判決はそれでも抑制的であり絶版にせよとまでは命じていない。あくまで該当箇所の削除である。朴裕河の対応如何で別の展開もありえたことは明白である。

 だが前回書いたとおり、朴裕河と出版社の判決後の対応はあまりに挑発的であり、これでは判決の意味がないと考えても無理はない。この点も含めて朴裕河は女性たちに謝罪し、赦しを乞うべきなのではないか。少くとも私からみて、『帝国の慰安婦』における朴裕河の主張が当事者女性たちに著しい二次加害を与えていることは否定しがたいと思う。もちろん、朴裕河にその「意図」はなかったかもしれない。だが、現に出版されているテキストには、明らかに女性たちの名誉を侵害する内容が含まれている。女性たちの主張には相応の根拠があるのだ。「ナヌムの家」の女性たちに無用な裁判の負担を負わせないためにも、朴裕河は上のような対応をただちに採るべきではないだろうか。もちろん、「ナヌムの家」の女性たちが受け入れるかどうかまでは保証できない(一度あった機会を壊してしまったのだから、拒否されても文句はいえないと思う)。もう手遅れかもしれないが、一応申し添えておく。

 私はこれまで韓国の歴史学研究誌やSNS上で朴裕河と『帝国の慰安婦』の内容をめぐりいくどか「論争」をしてきた。その際、常に頭の片隅にあったのは、なぜこんな簡単な話が伝わらないのだろうか、もしかしたら朴裕河は本当に何も問題を理解していないのではないか、という疑念であった。今回の記者会見をみても、同様の疑念は晴れなかった。本当に自分はなぜ善意なのに批判されるのだろう、誤解されるのだろう、と信じきっている可能性がある。「意図」「真意」を語れば理解してもらえると考えているかもしれない。『帝国の慰安婦』のような本を書きながら、なおかつこのように信じられるのは、確かに研究者としては完全に失格であると思う。ただこのような人間はざらにいる。だからこそ、朴裕河の知人・友人たちは「確かにあなたは善意なのだが、この文章は表現上明らかにこれこれのことを書いている。客観的にこういう意味になる」という批判を本人に伝えるべきだと思う。

 なぜこのような事を書くかというと、日本の「学者」たちの支持声明に心底腹が立っているからである。私は本当に朴裕河を小馬鹿にしているのは、この「学者」たちであると思う。私には朴裕河を政治利用しているようにしか見えない。上野千鶴子にしろ、大沼保昭にしろ、自分が責任をとる必要のない安全圏で事態を煽っている。歴史修正主義的な内容を含む本書の問題(秦郁彦は吉見義明の裁判において「外出の自由」があった根拠として『帝国の慰安婦』の記述をあげている)を隠蔽し、「和解」のために自分たちが言いたいことを「韓国人女性」に言わせて、反論が起こると言論弾圧だと騒ぎ出す。朴裕河もまた、自分には日本の「リベラル」知識人がついているという自信があるから、絶対に反省もせず、強硬姿勢を貫く。朴裕河の強硬姿勢の背景には、明らかに日本の知識人が自分にはついているという自信があると思う。

 だが、どう考えてもこの「学者」たちが『帝国の慰安婦』の内容のもつ問題点を理解していないとは思えない。もちろんその可能性もあるが、「河野談話」の事実上の修正に帰着するであろう本書の叙述の問題点を理解したうえで、あくまで政治的観点から賛同しているのではないか。大沼保昭が朴裕河の国際法理解に賛同しているとは到底思えず、浅野豊美にしてもそうだ。ほかの「学者」たちも同様であろう。和田春樹はより酷薄である。日本への紹介者の一人であったにもかかわらず、いま朴裕河と関わるのは「和解」の関係上まずいと判断したのであろう、声明に名を載せていない。もちろん、紹介を反省してのことならばよい。ならば公に批判すべきであろう。わかりづらい『帝国の慰安婦』「批判」をするのも、酷薄な政治的リアリズムのためと考えるほかない。かつて鈴木裕子が日本の朴裕河礼賛の風潮を「朴裕河現象」と呼んだことがあるが、私がこの呼称に抵抗があるのは、日本軍「慰安婦」問題をめぐる国民基金路線での「和解」運動において、朴裕河は明らかに従であり、和田春樹や大沼保昭が主だからだ。朴裕河問題として矮小化すべきではない。これは和田春樹問題であり、大沼保昭問題であり、上野千鶴子問題なのである。

 おそらく現実にはこのような「解決」の方向には向かわないと思う。朴裕河は徹底抗戦の構えである。日本リベラルの飛び道具の役割を演じ続けることになろう。そして、当分『帝国の慰安婦』をめぐる不毛な「論争」が続くことになる。だが、これは「朴裕河問題」ではない、ということだけは強調しておきたい。とりわけ日本にいる私たちはこの点を忘れてはならないと思う。

2.記者会見での「反論」について

 前置きが長くなった。記者会見での「反論」の検討にうつろう。この記者会見での論法には、批判に反論する際朴がしばしば用いた論点のすりかえ術が用いられている(一年近く朴裕河の著作と反論に付き合い続けたので、流石にその「クセ」がわかってきた)。『帝国の慰安婦』を正確に読解するうえでも(そして、あらゆる詭弁にだまされないためにも)、こうしたすりかえへの批判が重要であると考えるため、以下に要点のみを指摘したい。

 『帝国の慰安婦』の叙述には、ある規則性が存在する。まず、韓国で流布している「慰安婦」に関するイメージ(なるもの)を提示する(A)。次に、この枠に収まりきらない事実を紹介し(B)、Bの事実こそが「本質」であると主張する(C)。これを図式化すると以下のようになる。

 通説提示(A)
通説におさまらない個別的事例の提示(B)
個別的事例の一般化(C)

 そもそも朴裕河の示す通説(A)や事実(B)自体が、著者に都合よく加工されているという問題があるが、ひとまずそれは措こう。一見してわかるように、ここで重要な問題はBからCへの一般化に妥当性があるかどうかである。例えば、ある兵士に恋をしたと語る元「慰安婦」の証言があるとする。日本兵がつねに慰安婦たちをモノあつかいし乱暴にあつかった、というイメージを持っている者がいるとすれば、この証言は確かにそうしたイメージとは異なるものであろう。だが、だからといって日本軍「慰安婦」の多くが兵士に恋をした、という話にはならないことは明白である。Cと主張するためには、さらに検討すべき問題が山ほどあるからだ。

 だが朴裕河は『帝国の慰安婦』において、何らの論証手続を経ずにBを一般化する誤謬をしばしば犯している。「愛国」的な証言(B)を提示したのち、これこそが日本軍「慰安婦」の「本質」であるという(C)。なぜ「本質」といえるのか。それは朝鮮人「慰安婦」は「帝国の慰安婦」だからだ、と。本来、朝鮮人=日本人「慰安婦」=「帝国の慰安婦」という主張は、朴が本書で証明すべき仮説だったはずだ。だが本書ではしばしばその仮説を根拠に、Bの一般化が「説明」される。ここに本書の極めて深刻な方法上の問題がある。

 『帝国の慰安婦』への批判の核心は、Cへの批判であった。日本軍「慰安婦」制度の本質は朴裕河のいうように規定できないのではないか、という疑問である。これに対する朴の批判は、普通ならばCが本質的であるという証明に費やされねばならない。だが朴はそうはしない。朴は驚くべきことに、批判者たちはBという事実を認めようとしない、なぜならそれは批判者たちにとって都合が悪いからだ、と「反論」するのである。確かに朴のAやBの理解そのものが間違っている場合もあるため、本書の事実理解そのものへの批判があることは事実だ。だが、本書への最も本質的な批判は、なぜそのような一般化が可能なのか、それは妥当なのか、というところにある。朴はこれに答えず、自分はBという異なる「事実」を指摘し、問題の多様な側面を示したかっただけだ、と「反論」する。Cへの批判を、あたかもBという事実の提示そのものへのであるかのようにすりかえ、批判者たちが利害関係からAの通説に固執する極めて偏狭な頑固者のように印象操作をするのである。

 朴裕河のこうした論点のすりかえ術をふまえて、今回の記者会見を読み解いてみよう。

 第一に「業者」をめぐる弁明をみよう。最も端的にこのすりかえがあらわれている箇所である。

「この本で論争の対象となったもうひとつの概念〈業者〉の問題を語ったのも、まずは国家政策を口実に協力し、利得を得る経済主体の問題としてみたかったためですが、実際はそうした〈協力と抵抗〉の問題を語りたかったためでもあります。[…]しかし、こうしたあらゆる指摘は研究者と支援団体にとって不都合なものです。彼らは他の状況をみることは、ただ〈日本を免罪〉することだと考えます。そして〈日本〉という政治共同体だけを罪と責任の対象とみなします。私はこの本で日本に責任があることを語りました。[…]」

 これだけをみると、「研究者と支援団体」が朝鮮人業者の問題を語ること自体を、日本を免罪するものだと批判しているように読める。だが朴裕河は業者「にも」責任を問うべきだと主張したわけではない。以下のように、日本国家には法的責任を問えず、それは業者「に」問うべきだと主張した。そこが批判されているのだ。

「慰安婦たちを連れていった(「強制連行」との言葉が、公権力による物理的力の行使を意味する限り、少なくとも朝鮮人慰安婦問題においては、軍の方針としては成立しない)ことの「法的」責任は、直接には業者たちに問われるべきである。それも、あきらかな「だまし」や誘拐の場合に限る。需要を生み出した日本という国家の行為は、批判はできても「法的責任」を問うのは難しいことになるのである。」(日本語版46頁)

 問題となっているのは、業者の責任を指摘したこと(B)ではなく、業者の責任を語ることを通じて、日本軍の法的責任一般を否定したこと(C)なのであるが、朴裕河は論点をすりかえている。しかも、厄介なことに、本書には「慰安婦となる民間人募集を発想した国家や帝国としての日本にその〈罪〉はあっても、法律を犯したその〈犯罪性〉は、そのような構造を固め、その維持に加担し、協力した民間人にも問われるべきであろう。」(34頁)などという叙述もあり、後者は一見すると軍「にも」「法律を犯したその〈犯罪性〉」を問えると主張しているかのように読めてしまう。矛盾する叙述が平気で並存しているのである(明らかに著者の主張は前者にある)。私は本書を学問的論争以前の欠陥品であると考えるゆえんである。

 朴裕河はこうして本来問われていることに答えず、批判者たちは朝鮮人の加担を認めるのは都合が悪いから自分を否定しているのだ、という誤った説明を流布する。こうした「説明」は、韓国は反日ナショナリズムに囚われて歴史認識を歪めている、という日本の(リベラル含む)韓国認識=予断と極めて相性がいい。むしろ日本の韓国認識を念頭において、わざとこのような「説明」を放っているのかもしれない。そして一部の、主観的には「大衆」のナショナリズムを「憂慮」している韓国知識人もこれに飛びつく。結果、朴裕河の誤った「説明」は、あたかも「研究者や支援団体」の実態であるかのような認識が拡大する。『帝国の慰安婦』が行ったことと全く同じすりかえ術が繰り返されるのである。極めて不誠実なやり口であると言わねばならない。

 「反論」の第二の問題は、「売春」「同志的関係」に関する論点のすりかえである。まずは「売春」に関する説明をみよう。

「原告側は特に〈売春〉と〈同志的関係〉という単語を問題にしました。/しかし彼らの考えは売春婦ならば被害者ではないという考えに基づいたものです。こうした職種に幼い少女たちが動員され易いのは今日でも同様ですが、年齢/売春の如何に拘らず、この苦痛は奴隷の苦痛と異なるところがありません。いわば慰安婦を単純な売春婦だとして責任を否定する者たちや、売春婦ではないといって「少女」イメージに執着する者たちは、売春に対する激しい嫌悪と差別感情を持っているのです。「虚偽」だと否定する心理もまた同様であるといえます。重要なことは、女性たちが国家の利益のため故郷から遠く離れた場所に移動させられたなかで身体を毀損されたという事実のみである。」

 驚くべき「反論」である。日本軍「慰安婦」制度は性奴隷制度であった、あるいは「強制売春」であった、という批判に対し、「売春を差別するな」と朴裕河は反論しているのである。流石にこれは誰がみてもわかる論点のすりかえだと思う。なぜ「売春」が本質的側面であるのかを説明すべきところで、批判者たちが「売春」であることを否定するのは「売春」を差別しているからだ、とレッテル貼りをして切り抜けようとしているのである。ちなみに以前にも触れたことがあるが、本書は明らかに日本軍「慰安婦」制度を、女性たちが「自発的」に行った「売春」制度という枠組みで理解するよう促している(自発的に行くような意識を作り出した社会の問題を指摘しているが、自発的に行ったこと自体は否定していない)。

 朴裕河の手法は「業者」の説明の際と全く同じである。本来ならなぜ「売春」が本質であるといえるのかと問われているのに、批判者たちは「売春」を差別しているから自分を批判するのだ、と問題をすりかえる。それを聞いた朴裕河支持者たちが「挺対協はナショナリズムから少女イメージにこだわって売春を差別するのか」と一緒になって責め立てる。あまりに理不尽であるが、現実に起こっているのはこういうことである。

 そして、朴裕河は「反論」の際に、意味不明なことを述べて聴衆を煙に巻くことも忘れない。

「このような私の本が慰安婦のお婆さんたちを批判したり貶める理由がありません。検察が〈名誉毀損〉と指摘した部分は、大部分〈売春婦扱い〉をしたと彼らが断定した叙述です。しかし〈売春〉という単語を用いたといっても、それがただちに〈売春婦扱い〉をしたことにはなりません。ひいては売春婦だという者たちを批判するために用いた部分すら、原告と仮処分裁判部と検察は確認もせずにそれを私が書いた言葉であると置換させました。もちろん言論は大部分そのまま報道しました。しかしやはり一次的な責任は原告と仮処分裁判部と検察にあるといわざるをえません。」

 「しかし〈売春〉という単語を用いたといっても、それがただちに〈売春婦扱い〉をしたことにはなりません」とはどういう意味なのか。何の意味もないのだろう。ただ矛盾したことを、本当に「なんとなく」言ってみただけだと思う。だが一応大学教授であるから、普通はこれがどういう意味なのかを考えてみたり、朴裕河の意図を推し量ったりしてしまう。本当はそのような作業は全くの無駄なのだが、少くとも朴裕河はこれで時間は稼げる。このような時間稼ぎを許さないためにも、わからないことは「意味がわかりません」と表明することが必要である。

 最後に「同志的関係」についての朴裕河の説明をみよう。

「また、〈同志的関係〉という単語を用いた第一の理由は、朝鮮は他の国とは違い、日本人の植民地支配をうけ〈日本帝国〉の一員として動員されたという意味です。また、そうした枠組みのなかでありえた日本軍と朝鮮人女性のもうひとつの異なる関係を書いたのは、まずは総体的な姿を示すためのことであり、同時にこうした姿すらみてこそ表面的な平和のなかに存在した差別意識、帝国の支配者の差別意識もみることができるためです。
 
 第二の理由は、朝鮮人慰安婦を徴兵された朝鮮人たちと同じ枠組みでみなすことになれば、すなわち〈帝国〉に性と身体を動員された個人としてみなすようになれば、日本に対する謝罪と補償の要求がより明確になるからです。前に述べたとおり、彼ら[徴兵された朝鮮人]ですら補償された法の保護がなかったことを、日本に向かって言うためでした。つまり、彼らのいう単純な〈売春婦〉ではないということを言おうとしたのです。」

 これらの反論を読む際に気をつけねばならないことが二つある。第一に、朴裕河は「動員」「補償」「謝罪」という言葉を、一般的な用法とは相当に異なる意味で使っているということである(これについても以前にも説明した)。「動員された」と言っているが、これは国家権力による直接的な徴集を意味しているわけではない。それではどういう意味なのだろうか。それは誰にもわからない。私も何度も読んでいるが、朴裕河のいう「動員」の意味は全く理解できない。おそらく本人もよくわかっていないのではないだろうか。これらの大事な用語を朴裕河は「なんとなく」使っていると考えるほかない。

 第二に、本書出版後に朴裕河が公表した「要約」や説明は、多くの場合、本書の内容とは異なっていることである。引用した反論のはじめの段落でも、「同志的関係」とは「〈日本帝国〉の一員として動員されたという意味」と説明しているが、本書の理解としてこうした説明は誤りである。本書は日本が外的な力で「同志的関係」に組み込んだことのみを問題にしているのではなく、女性たちと日本人兵士のあいだに「同志的関係」があったとし、女性の内面においても「同志意識」があったことを、日本軍「慰安婦」制度を理解するうえでの核心的要素であると主張している。とりわけ女性たちにとっては酷い記述だと思うのは、本書はこうした「記憶」を女性たち自らが解放後の韓国で生きるために抑圧し隠蔽した、と一般化して記していることだ。このような本書の主張が一般的に受け入れられるならば、女性たちのあらゆる異議申し立ては「ウソ」とみなされ、無化されてしまうだろう。いずれにしても、本書が上記のような主張をしていることは明白なのであるから、本書の内容とは異なる「意図」を示して論点をすりかえるべきではない。

 次の段落も同様である。本書は朝鮮人慰安婦と朝鮮人日本兵を同じ枠組みでみることを主張したわけではない。「同志的関係」はあくまで日本人日本兵との関係を指す概念である。そもそも「彼ら[徴兵された朝鮮人]ですら補償された法の保護」とは何を指すのか。恩給法や遺族等援護法から朝鮮人元軍人・軍属が排除されたことは周知の事実であるが、近年支払われた一時金・弔慰金を指しているのだろうか。最近朴裕河は日本軍「慰安婦」は軍属であった、と主張し始めているが(日韓会談理解に関する私の批判に反論するため)、つまり軍属として一時金・弔慰金を支払え、と主張しているのであろうか。軍属であるという主張と、朴の業者責任論は矛盾しないのだろうか。朴裕河の意図を詮索する暇はないので、この問題はひとまず措くが、いずれにしてもここで朴が新しい論点を持出して『帝国の慰安婦』とは関係のない話をしていることだけは確かだ。

 もちろん反論するのは結構だが、問題となっているのは『帝国の慰安婦』における著者の主張なのであるから、それに即して反論を行うべきであろう。批判の内容を歪曲してレッテル貼りし陳腐化しようとしたり、本書とは関係のない論点を絶え間なく繰り出して煙に巻こうとする態度は、私の批判を封じ込めたり、周囲の知人たちに弁明するうえでは「有効」だったかもしれないが、問題はもはや個別的な論争の次元を超えているのである。何より、自身の主張により名誉を傷つけられたと主張する人びとが現に存在するという事実に、真摯に向き合うべきではないだろうか。

 朴裕河や韓国・日本の「学者」声明の支持者たちは、おそらく今後、本書への批判は些細な誤りの揚げ足取りをしている、全体をみていない、といった類の反論をくり返すことになるだろう。だが少くとも私としては、あまたある本書の些細な事実関係の誤りはひとまずおき、本書の核心的テーゼとその方法に絞って批判を展開したつもりだ。金富子や能川元一による批判も同様である。本当ならば、「徴兵自体は国民として国家総動員法に基づいて行なわれたものなので、「日本国民」でなくなった韓国人はいまや日本による補償の対象ではないことになる。」(184頁)といった呆れた叙述(徴兵の根拠法は兵役法)は山ほどあり、揚げ足をとろうと思えばいくらでもできる。だが些末なものには目をつむり、朴裕河が最も重要であるとみなす主張に多くの批判者たちはあえて付き合っているのである。繰り返しになるが、現実に名誉を傷つけられたと主張する人びとのいる問題なのだから、もう少し真面目に考えて欲しい。まずは自ら著作を改めて読みなおすところからスタートすべきだ。

(鄭栄桓)

by kscykscy | 2015-12-04 00:00 | 歴史と人民の屑箱
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