秦郁彦の「女子挺身勤労令不適用」説と朴裕河の「挺身隊=自発的志願」説

1.軟体動物

 「君の関節技がすべてきまっているのに当人は全く意に介さず平気にしている、実は軟体動物だったのではないか」――ある読者の朴裕河評である。確かにそうかもしれない。「関節」とは、事実や文献理解の正確性や論旨の整合性、あるいは推論の妥当性といった、広い意味での「論証」の比喩であろう。私は『帝国の慰安婦』における「論証」の破綻を指摘し続けているが、「反論」にも明らかなように、赤面してしかるべきこれらの自著の欠陥を朴裕河が反省した形跡はない。朴裕河にとって「論証」などどうでもいいからであろうか。そうした意味では骨格なき軟体動物との喩えは適確といえる。

 確かに『帝国の慰安婦』を読んでいると、憤激を通り越して脱力することが多々ある。例えば、朴裕河の挺身隊に関する理解である。以前にも触れたが、『帝国の慰安婦』朝鮮語版には、次のような記述があった。

「慰安婦の募集は比較的早い時期になされたが、「挺身隊」の募集は戦争末期、すなわち一九四四年からだった。そして挺身隊とは朝鮮人たちを対象にしたものではなく日本で施行された制度だった。日本は一九三九年から「国民徴用令」、「国民勤労報国協力令」、「国民勤労動員令」などへと名前を変えてゆき一四~四〇歳の男子、一四~二五歳の未婚女性を国家が動員できるようにしたが、「一二歳以上」が対象となったのは一九四四年八月だった(日本ウィキペディア「女子挺身隊」の項目)。/それさえも、「植民地朝鮮では公式的に発動されなかった」。」(p.43)

 この箇所は日本語版では以下のように修正されている。

「慰安婦の募集は早い時期からあったが、「挺身隊」(=勤労挺身隊)の募集は戦争末期、一九四四年からだった。そして挺身隊は最初から朝鮮人を相手に行われた制度ではなく、日本で行われた制度だった。日本は一九三九年から「国民徴用令」「国民勤労報国協力令」「国民勤労動員令」など名前を変えながら一四~四〇歳の男子、一四~二五歳の未婚女性を国家が動員できるようにした。そして一二歳にまで募集対象年齢が下がったのは、一九四四年八月だった(チョン・ヘギョン(鄭恵瓊)二〇一二)。/それさえも、「朝鮮では公式には発動されなかった」(イ・ヨンフン(李栄薫)二〇〇八、一二〇頁)。」(52頁)

 日本語版はwikipediaから出典を急いで差し替えたためか、鄭恵瓊論文は当該箇所の出典としては必ずしも妥当ではないうえ、書誌情報まで誤っている。かつて指摘したとおり、「朴は日本人を対象とした勤労動員の拡大を時系列的に叙述しているが、鄭報告はそれとは異なり朝鮮人女性を対象とした勤労動員を主題にしたものだ。wikipediaに従って書いたものを、体裁を整えるために無理に他の出典表示に置き換えたため、不適切な引用となってしまったのだろう。」(「朴裕河『帝国の慰安婦』の「方法」について(2)」) 

 「論証」などどうでもよい者にそのことを指摘したところで、確かに無意味なのかもしれない。ただ一般的には軟体動物だとは思われていないのであるから、問題の所在を正しく知らせる社会的責務があることは間違いあるまい。上の挺身隊関連の記述の問題は、実はこれに留まらない。朴裕河『帝国の慰安婦』の挺身隊理解の誤りについては金富子の批判があるが(*1)、以下ではさらにふみこんでこの問題について考えてみたい。

2.挺身隊認識の問題①:秦郁彦「女子挺身勤労令不適用」説の受容と無理解

 前回触れたように、朴裕河の日本軍「慰安婦」制度の理解は秦郁彦『慰安婦と戦場の性』と似通っているのであるが、これは挺身隊についても同様である。ただ、朴裕河は秦郁彦の所説を正確に理解していないため、『帝国の慰安婦』には秦郁彦説を受容しているにもかかわらず、秦であれば書かないような記述も散見される。その代表例が、挺身隊の動員に関する矛盾した記述である。

 前掲の引用末尾で、朴は「それさえも、「朝鮮では公式には発動されなかった」」と記している。「それ」が何を指すかはこれだけでは判然としないが、後述するように、「それ」は女子挺身勤労令を指すものと思われる。つまり、朴は女子挺身勤労令は「朝鮮では公式には発動されなかった」と書いているのである。しかしながら、他方で本書には、「法律を作って挺身隊を合法的に動員できるようにしながら、「慰安婦」はそうはしなかったのは、それが植民地での穏健統治の臨界が壊れることだったからである」(225)という記述もある。一方では勤労令が発動されなかったといい、他方では法律を作って動員した、という。二つの記述は完全に矛盾している。

 なぜこのような矛盾が生じるのだろうか。まずは出典を確認しよう。「朝鮮では公式には発動されなかった」という記述の出典は李栄薫論文である。李は「日帝は、44年8月に「女子挺身勤労令」を発動して、十二歳から四十歳の未婚女性を産業現場に強制動員する。だが、この法令は日本人を対象にしており、植民地朝鮮では公式に発動されなかった」(李栄薫「国史教科書に描かれた日帝の収奪の様相とその神話性」、小森陽一他編『東アジア歴史認識のメタヒストリー 「韓日、連帯21」の試み』青弓社、2008年、97頁)と書いている。李論文は根拠を示していないが、おそらく秦郁彦を参照したものと思われる。秦は「女子に対しては、国民徴用令も、女子挺身勤労令も朝鮮半島では適用しなかった」(『慰安婦と戦場の性』367頁)と記しているからだ。ちなみに「法律を作って挺身隊を合法的に動員できるようにしながら」という文には出典が示されていない。

 さらに遡るならば、秦郁彦の主張の根拠は、朝鮮総督府鉱工局労務課『国民徴用の解説』(1944)である。秦は同書の「今後に於ても女子を動員する場合、女子挺身勤労令発動によるといふ考は今の所持ってをりません。今まで朝鮮の女子挺身隊は、みな官の指導斡旋によるもので、内地の[中略]立派な施設の整った飛行機工場等に出してをります。今後ともこの官の指導斡旋を建前とする心算」との記述を根拠に、女子挺身勤労令が適用されなかった、と主張した。すなわち、朴裕河の「それさえも、「朝鮮では公式には発動されなかった」」という叙述の大元は朝鮮総督府『国民徴用の解説』ということになる。

 以上を図式化すると下記のようになる。

図 女子挺身勤労令解釈の典拠

(1)朝鮮総督府『国民徴用の解説』:「今後に於ても女子を動員する場合、女子挺身勤労令発動によるといふ考は今の所持ってをりません」
(2)秦郁彦『慰安婦と戦場の性』:「女子に対しては、国民徴用令も、女子挺身勤労令も朝鮮半島では適用しなかった」
(3)李栄薫「国史教科書に描かれた日帝の収奪の様相とその神話性」:「日帝は、44年8月に「女子挺身勤労令」を発動して、十二歳から四十歳の未婚女性を産業現場に強制動員する。だが、この法令は日本人を対象にしており、植民地朝鮮では公式に発動されなかった」
(4)朴裕河『帝国の慰安婦』:「それさえも、「朝鮮では公式には発動されなかった」」

 図からも明らかなように、まず検討すべきは秦郁彦の勤労令についての解釈である。総督府『国民徴用の解説』(以下『解説』)の記述を確認しよう。

「問 今後、朝鮮で女子挺身勤労令は内地と同じやうにする方針ですか。

答 女子挺身勤労令は朝鮮にも施行されて居りますが、しかし朝鮮では前に申しました通り一般女子の登録を行ってゐませんから、その対象となるものは、国民登録の要申告書である女子の十三種の技能者たる技術者だけになります。
 従ってこれに該当する者は非常に僅少です。今後に於ても女子を動員する場合、女子挺身勤労令発動によるといふ考は今の所持ってをりません。今迄朝鮮の女子挺身隊は、みな官の指導斡旋によるもので、内地の最も勤労管理の立派な、施設の整った飛行機工場等に出してをります。その工場は工場か学校の延長かどちらか解らない様に立派なものです。今後ともこの官の指導斡旋を建前とする心算です。
 然しながら戦局の推移に依っては、女子動員をもっともっと強化しなければならぬ時が来ると思ひます。国民はその覚悟だけは持って居らねばならなぬと思ひます。」(『国民徴用の解説』1944年、66頁)

 秦郁彦=李栄薫は、この記述を根拠に勤労令が「適用」「発動」されなかったと主張した。これについては若干の補足説明が必要である。はじめ日本政府は女性労働力の動員のため「勤労挺身隊」の自主的な結成を促したが低調であった。このため1944年8月に勅令を発して強制力のある「女子挺身勤労令」を制定する。この勤労令は朝鮮にも施行された。秦が「女子に対しては、国民徴用令も、女子挺身勤労令も朝鮮半島では適用しなかった」というのは、『解説』にもあるように、施行したが適用しなかった、ということを意味する。だが、この解釈にはなお検討すべきいくつかの問題がある。

 第一の問題は、『解説』はあくまで1944年10月現在の方針を述べているにすぎず(「今の所持ってをりません」)、勤労令適用の実態を示した史料ではないことである。『解説』末尾に「戦局の推移に依っては、女子動員をもっともっと強化しなければならぬ時が来ると思ひます」とある通り、『解説』のみをもって植民地期に勤労令が一切適用されなかった論拠とするには不十分である。また『解説』にもあるように、1944年10月現在の時点でも少数ながら勤労令適用対象となる朝鮮人女性がいることを総督府自らが指摘している。「今の所持ってをりません」を「朝鮮半島では適用しなかった」論拠とするには一層の検証が必要であろう(*2)。

 第二の問題は、秦郁彦が「官斡旋」による連行を強制連行から排除していることである。『解説』は朝鮮で女子挺身隊を動員しないとしているわけではない。「今迄朝鮮の女子挺身隊は、みな官の指導斡旋によるもの」だったが、「今後ともこの官の指導斡旋を建前とする心算です」と述べており「官斡旋」方式による徴集を継続する、と説明しているのである。しかし、秦は「いわゆる「強制連行」は、この徴用令[1944年9月の国民徴用令の全面発動:引用者注]に基づく内地等への労働力移入を指すが、最終的には「徴用」へ統合吸収した事情もあり、論者によっては自由募集や官斡旋段階からふくめてそう呼ぶ例が見られる。」(『慰安婦と戦場の性』367頁)とし、「強制連行」を徴用に限定する。秦がわざわざ挺身隊の説明で勤労令の不適用を強調するのは、おそらく挺身隊の動員は強制連行ではないと主張したい含意があると思われる。

 『帝国の慰安婦』の「朝鮮では公式には[ママ]発動されなかった」という記述は、こうした二つの問題を抱えた秦郁彦の解釈を、李栄薫経由で継承したものである。だが朴裕河は秦説の含意を理解していないがために(『慰安婦と戦場の性』が論拠であることを知らない可能性もある)、平然と「法律を作って挺身隊を合法的に動員できるようにしながら、「慰安婦」はそうはしなかった」とか、「挺身隊」の「『公的』な徴用」(55-56)と書いてしまう。しかも朴裕河は『ソウル新聞』記事の挺身隊理解の「誤り」を指摘する際、「日本で施行された制度がそのまま韓国でも施行されたかのように理解し、さらに挺身隊に行くとそのまま慰安婦になるものだったと考えていたのである。」(53)と批判していることから、勤労令が朝鮮では施行されていない、と考えている可能性すらある。

 本書の挺身隊に関する著しく矛盾した記述の氾濫は、朴裕河の挺身隊動員への無理解に加え、秦郁彦説への無理解に起因するものといえる。

3.挺身隊認識の問題②:「挺身隊=自発的志願」説

 それでは、結局のところ朴裕河は挺身隊の動員についてどのように理解しているのだろうか。結論からいえば、朴は挺身隊を「自発的志願」というフレームで理解しているといえる。「合法的に動員」や「公的な徴用」という言葉は、不用意と無知ゆえに記したに過ぎず、挺身隊動員の実態理解としては「自発的志願」が本質であると考えているとみてよい。これについて、以下では千田夏光『従軍慰安婦』に紹介された申河澈の証言についての朴の「解釈」を検討しながら考えてみよう。

 申河澈は京畿道加平郡で代々居酒屋を経営してきた人物で、千田夏光の取材に応じて挺身隊徴集の目撃談を語っている(千田夏光『従軍慰安婦』108頁以下)。証言の要旨は以下の通りだ。

「連れて行く三日前に”お前は挺身隊だ“という通知書が来るのです。駐在所の警官が持ってきました。」(十八歳以下の未婚の女性が対象で、三日後には駐在所前に娘達が集められる。:引用者注)「そこから警官が引率してトラックや汽車にのせ、逃亡しないよう監視しながらソウルへ連れて行きました。見送る家族、母親などは娘の足もとにすがり号泣し、それを警官が引き離そうとすると、今度はその警官の足にすがって、“返してくれ、助けてくれ”と泣きながら訴えるのですが、蹴とばされましてね。どこの国に娘が兵隊の慰みものになるのを喜んで見送る親がいるでしょうか。貧しい百姓でも人間ですからね」(千田『従軍慰安婦』110頁)

 朴はこの証言に対して、二通りの批判を加える。第一は、これは「慰安婦」の徴集の証言ではない、という批判である。証言からわかるように、申は「挺身隊」として徴集された女性たちが「慰安婦」にされたと考えている。だが朴はこれは「慰安婦」ではなく、「挺身隊」の「『公的』な徴用」の場面だったはずだ、と指摘する(55-56)。ここでも挺身隊を「公的」「徴用」と記して、秦郁彦説への無理解を露わにしているが、ひとまずそれは措こう。確かに朴のような解釈も成り立つだろう。

 問題は第二の批判である。朴はこうした徴集のやり方は、挺身隊の徴集としても例外的である、と批判する。

「村から強制的にトラックに乗せられていった女性たちの姿は、だまして連れていった業者たちによるものか、挺身隊をめぐる状況だった可能性が高い。ただし、挺身隊の場合だとしても、人狩りのような〈強制〉的な場面ではなかったはずだ。なぜなら、後述するように、当時における挺身隊とは〈国家のために〉「挺身」するものであって、たとえば兵士がそうであるように、構造的には強制でも、あたかも自発的であるかのような形を取っていたからである。」(56)

 すなわち、女子挺身隊とは自発的に志願するものだった、強制的な場面ではなかったはずだ、というのが朴の主張である。朴は以下のようにも書いている。

「内地-日本で挺身隊募集が始まると朝鮮ではこのような〈自発的な動員〉が始まった。[中略]それは朝鮮で徴兵が始まる前に志願兵制度が始まったことと軌を一にしている。そのような国家の呼び声に「志願」していく女性たちが多かったのはむしろ当然というべきだろう。その後実際に「ここに志願兵の姉がいる、生産戦場はどこですか、ハンナム(咸南)から挺身隊を志願」(同年九月一四日付)、「挺身隊でなくても、二人の女性嘆願を聞いてとりあえず事務委嘱」(同年九月一六日付)、「家庭も国があってこそ、血書で女子挺身隊嘆願した有馬嬢」(同二○日付、以上すべて同新聞、同、二六四〜二六六頁)など、志願は相次いだようだ。もちろんそれは非国民にならないための、〈自発の自己強制〉というべき事態だった。」(60)

 朴は挺身隊への「志願」の動機を、基本的には「挺身」という言葉通りの意味で捉えていることがわかる。「慰安婦」となった女性たちの動機について、朴が「愛国」というフレームで理解することと同じく、ここでも「非国民にならないための」「挺身」として、挺身隊への「志願」の動機を捉えているのである。

 だが、朴によればこうした『毎日新報』(総督府の御用新聞)が報じたような「自発性」(〈自発の自己強制〉?)という動機付けは、解放後の韓国では隠ぺいされたという。

「植民地は一貫した〈抵抗の地〉でなければならず、それは本人の記憶や意志を超えての、新しく出発した独立国家の夢でもあったのだろう。その過程における、さまざまな〈自発〉への沈黙は、〈嘘〉というより、むしろ「モラル」でさえあったはずだ。その出発からして「ポスト植民地国家」は、ほとんどの国民が経験した〈過去の否定〉から始まるほかなかったのである。」

 つまり、朴の主張はこうだ。挺身隊は自発的な志願だった、だが自発的に志願してしまうところに植民地の「構造」がある、にもかかわらず韓国ではこうした〈自発の自己強制〉はナショナリズムゆえに無視されてきた、と。池上彰が泣いて喜びそうな主張である。

 だが問題は「志願」の内容であろう。それを『毎日新報』の報じた通りの「非国民にならないための」「挺身」などと位置づけることができるのであろうか。挺身隊の募集に応じた女性たちの証言は、「志願」の内実について朴裕河の描くものとは異なる姿を示している。一例として、伊藤孝司編著『証言 従軍慰安婦・女子勤労挺身隊 強制連行された朝鮮人女性たち』(風媒社、1992年)の7人の元挺身隊の女性たちの証言から、なぜ募集に応じたのかを抜き出してみよう。

金福禮(1929年生、名古屋・三菱):国民学校卒業後に女学校へ行くつもりだったが、「隣組」の組長に日本で勤めながら勉強したらどうかと誘われ、三菱の「学校」へ行くつもりで挺身隊へ。
李東蓮(1930年生、名古屋・三菱):国民学校六年の時に三菱から「募集」があった。担任の日本人の先生に勧められた。三菱が校長に依頼したようだ。「日本では、工場で働きながら勉強させてあげるから」と言われ承諾。両親は強く反対した。
朴良徳(1931年生、名古屋・三菱):新聞で「挺身隊募集」を知った。「学校で勉強ができるなら」と応募した。「国(日本)に協力しよう」という気持ちもあった。
孫相玉(1925年生、名古屋・三菱):国民学校の教師をしていたところ、校長に呼ばれる。後藤という軍人と「三菱」から来た男が二人おり、校長から挺身隊の引率に指名される。
李鐘淑(1931年生、富山・不二越):父が徴用で連れていかれたところに挺身隊の募集があった。小学校の校庭で募集をしていて、募集要項には「挺身隊として日本に行って働いたら、女学校の卒業証書がもらえる」と書いてあった。勉強をしたくて募集した。
梁春姫(1930年生、富山・不二越):女学校二年生のときに挺身隊の話があった。日本人の先生から話があり「挺身隊に行けば卒業証書をくれる、待遇が良い、指導者としての資格の証明書をくれる」と言われ募集した。
李在允(1932年生、光州・鐘紡):姉に「挺身隊」の「徴用令」が来た。姉が「挺身隊」の講習も受けていたが行きたくないといって隠れていたら、日本人巡査と朝鮮人の面事務所職員がさがしにきた。見つからなかったので私を連れていった。駐在所にトラックが来ていて無理やり連れていかれた。

 これらの証言に共通するのは、企業(三菱や不二越)から学校に募集依頼があったこと、女性たちにとっては「学校に行ける」という勧誘が募集に応じる決定打になったこと、である。確かに朴良徳のように「国に協力しよう」と思ったという動機も語られてはいるが、朴にとっても第一の動機は学校に行くことであった。これは前述の『解説』が「その工場は工場か学校の延長かどちらか解らない様に立派なものです」と、挺身隊の動員先を美化していたこととも符合する。実際には彼女たちの「学校に行きたい」という願いは動員先の工場では果たされることなく、無残に打ち砕かれるのであるが、朴のいう「挺身」という動機付けという理解が、植民地下における女性たちの状況とそれにつけこんで「募集」をかけた企業の責任を無視した謬論であることが理解できよう。「状況」や「構造」という言葉を好んで用いるにもかかわらず、植民地支配の構造への理解が決定的に不足しているのだ。

 もちろん、これらの証言をもってただちに挺身隊の「動機」の全体を代表させることはできないだろう。だが総督府御用紙の表面的な報道を批判的に検討する重要な事実を指摘していることは確かだ。また李在允の証言は、「募集」に応じたケースにとどまらず、暴力的な連行のケースも存在したこと、「徴用令」による徴集があった可能性も伺わせるものといえる。容易に読むことができるこれらの証言をなぜ朴裕河は無視し、総督府の戦時動員の宣伝を間に受けて、挺身隊への応募の動機が文字どおりの「挺身」であったかのように語るのであろうか。理解に苦しむ。

 この箇所には前回も指摘したような朴裕河の論法がはっきりと現れている。総督府の挺身隊は自発的な志願だという主張に対し、具体的な事実関係のレベルで志願かどうかを争うのではなく、確かに志願だ、だが志願した「構造」が問題だ、とさっさと事実について総督府の見方を承認したうえで「見方」の争いに移行するのである。しかも実際には「構造」についての考察は極めて平板なものに留まる。驚くべきことであるが、朴裕河の挺身隊=自発的志願説の論拠はただ『毎日新報』のみなのである。

 さて、朴のように「挺身隊=自発的志願」説を取った場合、都合の悪い事実がある。自らが挺身隊徴集の場面だと指摘した、申河澈の証言の扱いである。申河澈は「今度はその警官の足にすがって、“返してくれ、助けてくれ”と泣きながら訴える」親たちの姿を千田に語っていた。朴はこの証言を以下のように読み解く。

「とはいえ、さきほどの「泣きながら訴える」親に関する証言を無視することはできない。/そこで考えられるのは、親たちが娘たちの行く先が、単なる「挺身隊」ではないと考えていた可能性である。その形が〈自発〉だろうが〈強制〉だろうが、娘たちを待っているのが「慰安婦」の仕事と考えての悲しみであったかもしれない。そこには、娘たち自身の悲しい〈嘘〉――性にかかわる仕事ではないと自分と親に納得させるために、内容が分かっていながら「挺身隊」に行くと話すような――があったかもしれないし、娘を貧しさゆえに売った親たちの〈嘘〉が介在していたのかもしれない。多くの売春女性や強姦された女性たちが、その事実を公には言えなかった差別的な社会構造こそが、挺身隊と慰安婦の混同を引き起こし、いまだにひきずっている根本的な原因とも考えられる。」(61)

 申河澈が目撃した親たちは、なぜ警官に「泣きながら訴え」ていたのか。それは親たちが娘たちが「慰安婦」にされると思っていたからだという。そして、親たちがそう「誤解」するに至った背景には、娘たちが本当は「慰安婦」になるとわかっていながら「挺身隊」に行くと親に言った〈嘘〉や、親たちが娘を「慰安婦」として業者に売っていたにもかかわらず、「挺身隊」に連れて行かれた言うと〈嘘〉が社会的に広がっていたからだ、というのだ(この読み方は相当に朴に好意的な解釈である。この段落は読みようによってはもっとひどいことを言っているようにも読める)。

 衝撃的な解釈である。もし朴のいうように親たちが「挺身隊」を「慰安婦」と理解していたとするならば、その最大の要因は日本軍が朝鮮人「慰安婦」を実際に使った事実があったからであろう。それが、当事者女性やその親たちの〈嘘〉のせいにされている。そもそも、朴のいうように、自発的に行った女性も娘を売った親もみんな「挺身隊」に行くと嘘をついていたならば、なぜ親たちは挺身隊動員を「慰安婦」への徴集だと考えることができたのか、全く説明がつかないではないか。

 そもそも、娘を挺身隊に取られることに抵抗し警官に泣きながら訴える人がいるという事実に、なぜ朴は疑いを差し挟むのだろうか。逆にいえば、なぜ朴は、挺身隊に取られるのならば親が泣くはずはない、と考えるのだろうか。上にあげた元挺身隊女性たちの証言にも、家族が身を案じて反対した、という話は沢山出てくる。申河澈は、戦時末期には挺身隊逃れのため急遽結婚させるケースが増えたため、解放後に悲惨な離婚をした者が多かったと語ってもいる。朴裕河には、戦時動員そのものの暴力性・抑圧性への想像力が一切ないように思える。「たとえ相対的な〈善政〉があったとしても、それはあくまでも体制に抵抗しない人々に限ることでしかなかった。」(225)と書けてしまう植民地支配認識の甘さが、ここでも露呈している。

 さらにこの記述からは、証言や史料の解釈の際に朴が重視しているのが、植民地支配を生きた人々の声に耳を傾けることではなく、朴自身の図式・思い込み――挺身隊には自発的に志願して行った――であることがわかる。自らの図式を維持するためには、他者を貶めることも厭わない。朴はここで自説を維持するために、二つの〈嘘〉を登場させているが、そこには何の根拠も示されていない。本当は「慰安婦」になるとわかっていながら「挺身隊」に行くと親に言った者、娘を「慰安婦」として業者に売っていながら「挺身隊」に連れて行かれたと言った者は本当にいたのか。朴の想像にすぎないではないか。「文学」とはかくも「自由」なものなのか。

 朴はこれらの根拠なき推論にさらなる推論を重ねる。

「おそらく、このような混同を生み出したのはまずは業者の嘘によるものだったはずだ。「挺身隊に行く」と偽って、実際には「慰安婦」にするために戦場に送るような嘘である。それは自分の利益のためのみならず、軍が要望する圧倒的な数に応えるためにも、「挺身隊」という装置が必要だったのだろう。合法的な挺身隊の存在が、不法なだましや誘拐を助長したとも言える。そこに介在した嘘は、慰安婦になる運命の女性たち自身や周りの人々、そしてその家族をその構造に入りやすくする、無意識のうちに共謀した(嘘〉でもあった。そこで行われている最後の段階での民族的蹂躙を正視しないためにも必要だった、〈民族の嘘〉だったのかもしれない。
 つまり、彼女たちのみならず、彼女たちを守れなかった植民地の人々すべてが、〈慰安婦ではなく挺身隊〉との〈嘘〉に、意識的あるいは無意識的のうちに加担した結果でもあったのである。そして、そのような嘘を必要とする事態こそが、「植民地支配」というものでもあった。」(61-62)

 こうして、業者の嘘、女性たちの嘘、親たちの嘘は、「共謀した〈嘘〉」として渾然一体となり、周到に日本軍の嘘のみを排除したうえで、〈民族の嘘〉なる驚くべき言葉が作られるに至る。朝鮮人たち――業者、女性、親――が「挺身隊」を隠れみのに共謀して嘘をついた、それはこの朝鮮人たちを「その構造に入りやすくする」ような「無意識のうちに共謀した〈嘘〉」であった。目を疑う記述だが、本当に朴裕河はこう言っているのである。しかも何の根拠もない。

 この「共謀した〈嘘〉」なる言説が破綻していることは、上の引用だけからでも明らかである。女性や親たちが嘘をついたとするならば、業者は嘘をついていないことになる。業者が連れていく目的を伝えていなければ、親や女性たちは嘘などつきようがない。結局朴のいう「共謀した〈嘘〉」「民族の〈嘘〉」論は、業者すら免責し、末端の民衆たちに責任を転嫁する言説なのである。植民地支配下を生きざるをえなかった朝鮮民衆の経験を根本的に侮辱する、この〈民族の嘘〉なる言説を、朴は何らの根拠も示さないばかりか、挺身隊についての初歩的な理解すらしていないなかで主張した。この本は正しく「反動的」な著作と呼ぶべきである。

 繰り返しになるが、この本を讃えている者たちは、一体自らが何を褒めているのかを知り、真摯に反省すべきである。本来ならば論証なき著作(「軟体動物」)は一笑にふされ屑箱に放り込まれてしかるべきである。にもかかわらず、軟体動物は数々の賞を得て、生き延びている。知識人の社会的責任を放棄したうえ、被害者たちへの侮辱に手を貸す「識者」たちの責任は極めて大きい。こうした軟体動物の群れには、確かに「関節技」に留まらない相応の料理法を考えねばならないのかもしれない。力を合わせ、知恵を絞って大釜を拵えねばなるまい。ただ、その前に指摘すべき誤りがまだまだ残っている。

*1 金富子「混迷する『慰安婦』問題を考える 朝鮮人「慰安婦」と植民地支配」『静岡県近代史研究』40号、2015年、日本軍「慰安婦」問題webサイト制作委員会編、金富子・板垣竜太責任編集『Q&A朝鮮人「慰安婦」と植民地支配責任 あなたの疑問に答えます』(Fight for Justiceブックレット3)、御茶ノ水書房、2015年など。

*2 なお、秦は該当箇所を林えいだい編『戦時外国人強制連行関係史料集』(明石書店、1991年)から引いたとしているが、同書に『国民徴用の解説』は収録されていない。林えいだいの解説からの孫引きの可能性もある。

(鄭栄桓)


by kscykscy | 2015-11-03 00:00 | 歴史と人民の屑箱
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