朴裕河の徐京植批判について

 朴裕河の反論の検討に入る前に、せっかくなので朴裕河「批判が志向する場はどこなのか?――鄭栄桓の『帝国の慰安婦』批判に答える(1)」(以下、「反論(1)」)にも触れておこう。これを読むと朴裕河の議論のスタイルがよくわかる。私への反論をはじめるにあたり、朴は自らへの批判を「理解するためのヒント」として、以下のような「構図」を紹介する(以下、[]内は引用者注)。

「私は彼[ここだけはおそらく私を指す]とは、私が最も関心を抱き、また発表もした日本のある研究会で2000年代初頭に出会った。その研究会は日本の在日僑胞問題、沖縄問題など帝国日本が生み出した様々な問題に対する関心が高い場であったし、何より知的水準が極めて高い場であったため、その存在を知ってからは企画があれば参加していた。文富軾、鄭根埴、金東椿などが、その研究会が関心を持ち招待されたこともある人々だった。

 徐京植もその研究会でとても大事な存在であることはただちにわかったし、私もまた彼に好感を持っていたため彼と本を交換もした。ところが私が在日僑胞社会の家父長制問題について発表すると、彼らの態度は変わった。徐京植は「ジェンダーより民族問題が優先」だと露骨に言ったこともあった。当時の研究会メンバーたちの間では、公式の場ではそうした徐京植を批判しなくとも、私的な席では徐京植を批判した者もいた。

 いわば徐京植、尹健次、そしていまや鄭栄桓に代表される私への在日僑胞たちの批判は、基本的には「ジェンダーと民族」問題をめぐるポジションの差異から生じるものだ。興味深いことに、私に公式的かつ本格的に批判を行ったのは、みな男性の学者たちだった。女性である場合は、金富子や尹明淑ら慰安婦問題研究者に限られる。この構図をどう理解するかが、私と彼らの対立を理解する第一のヒントになるだろう。韓国で徐京植から始まった私への批判に加勢した学者たち――イ・ジェスン、朴露子、尹海東ら――もみな男性の学者だった。(もちろん、女性の学者、あるいは女性学専攻の者たちのはかにも訴訟に反対したり、私に好意的に反応した者は極めて珍しかった。)

 後にも書くが、彼らの批判は約束でもしたかのように、私の論旨が「日本を免罪」するという前提から出発する。鄭栄桓が繰り返し強調するのもその部分である。」

 念のため確認しておくが、この文章の副題は「鄭栄桓の『帝国の慰安婦』批判に答える」である。だがこの調子で「反論(1)」はひたすら徐京植の話が続く。「あえてこの文章で徐京植に言及する理由は、鄭栄桓が『和解のために』を批判する際に徐京植の批判を持ちだしたから」ということのようだ。

 朴はここで、〈在日社会の家父長制を批判する私 vs 「民族問題が優先」だという在日の男(徐京植)たち〉という構図を提示して批判者に「家父長制批判を許さない民族主義者」のレッテルを貼っている。だが、これはあまりに乱暴な単純化である。大体、私を批判したのは「みな男性の学者だった」、但し慰安婦問題研究者除く、とはどういうことなのだろうか。それでは「みな男性の学者」ではないのではないか。イ・ジェスンや朴露子からの批判もあるなら「在日僑胞たちの批判」でもないではないか。提示した直後に破綻するような粗雑な「構図」など、何の「ヒント」にもならない。

 何より、徐京植の議論をあまりに歪めている。2000年代前半の徐は「ジェンダーより民族問題が優先」などという粗雑な議論はしておらず、むしろ植民地支配が二つのカテゴリーによる複合的な差別を生み出し、解放後の在日朝鮮人たちも二重の桎梏のもとにあったことを指摘していた。「慰安婦」問題についても、1998年の文章で徐京植は次のように書いている。

「憤り、悔しさ、悲しさ、申し訳なさ、それらすべての入り混じった思いに胸が詰まる。――十六歳の少女に加えられた凄まじい暴虐に。国家意志によって、組織的に、何千、何万という女性たちに対して、こうした暴虐が加えられたことに。それが当たり前だと考えていた植民地支配者の民族差別と性差別に。それ以上に、現在なお、それを当たり前だと考えて疑わない人々がこんなにも多くいることに。「慰安婦」の存在を知識としては知っていながら、こんなにも長い間、具体的なことは何もしてこなかった私自身の罪深さに。そして、日本の国家犯罪の「手先」となって同胞の少女を売買し、殴打し、搾り取り、寄生虫として私腹を肥やした「サイ」や「コウ」、その他多数の朝鮮人犯罪者にも。
 朝鮮人の「手先」がいたからといって、「元締め」である日本国家の責任はいささかも減免されない。「『慰安婦』を連行した業者の中には『朝鮮人』もいた」などという、民族差別意識につけこんだ責任のがれは許されてはならない。同時に、いかに「元締め」の罪が大きかろうと、「手先」には「手先」なりの罪がある。「元締め」の罪を追及するためにも、これら朝鮮人内部の犯罪者の追及は私たち朝鮮人自身の手でやりとげなければならない。」(「母を辱めるな」、『ナショナル・ヒストリーを超えて』東京大学出版会、1998年、引用は『半難民の位置から』影書房、2002年、31頁より)

 この文章からもわかるように、朝鮮人「業者」の問題を指摘したのは別に朴裕河が初めてではない。強制連行の有無という論点の問題点についても、すでに同じ文章で徐京植は「日本による朝鮮「併合」そのものが「強制」だった。あの時、すべての朝鮮人が大日本帝国の臣民へと「強制連行」されたのだ。それ以上、どんな詮索が必要だろうか。」(35頁)と指摘している。朴裕河は「批判者たちは私の本は決して引用しない。最近ではこの問題を植民地支配の問題として見なければならないという私の提起まで、引用なしに使う者まで現れている。」と憤激するが(「反論(2)」)、その理由は簡単である。朴裕河に教えられるまでもなく、上にあげた徐京植をはじめとして、1990年代に朴裕河の議論よりもはるかに本質的な指摘があったからだ。二番煎じを引用する必要はない。むしろ朴裕河はこうした議論を横領して歪曲したからこそ、その横領と歪曲に批判が集中するのである。当然のことだろう。

 そもそもこうしたレッテル貼りは、あくまで別個かつ独立の人格である私や徐京植ほかここであげられた人々への侮辱であるのみならず、朴裕河自身の言論の価値を貶めるものである。それぞれの批判に即して反批判をするべきであって、批判者たちにレッテルを貼って済ませてよいはずがない。「~~だと露骨に言ったこともあった」とか、「私的な席では徐京植を批判した者もいた」といった類の下劣な内輪話ではなく、当人の主張に即して、具体的に批判をすればよいではないか。批判者たちが同じ指摘をするということは、誰しもが共通して見出しうるような欠陥が『和解のために』や『帝国の慰安婦』にあることの証左ではないのか。

 「反論(1)」の数少ない私への批判として、朴裕河はこうも書いている。

「それ[徐京植]に比べれば鄭栄桓は、それでもバランスを取ろうと苦心しており、その部分では一歩進んだ在日僑胞の姿ではある。だが鄭栄桓は、私の「方法」が、何らかの不純な意図を持ったものであるかのようなやり方で書いている。本の全体の意図と結論を完全に無視し、文脈を無視した引用とともに、フレームをかぶせて「危険で不道徳な女性」に見えるようにするのが彼の「方法」である。そうであるために私の本が結論的には「日本の責任」を問う本であることはどこにも言及されていない。彼らは日本に責任を問う方式が、自身らとは異なるということだけをもって、私を非難しているのである。」

 どうあっても話を「在日僑胞(男)からの批判」というフレームにおさめたいようだ。「日本の責任」云々については、「反論(2)」が具体的に論じているのでそちらの検討に譲る。困ったものだと思うのは、「フレームをかぶせて「危険で不道徳な女性」に見えるようにするのが彼の「方法」である」という箇所である。私は『帝国の慰安婦』の誤りを指摘し、方法の上でも看過しがたい問題があると指摘したのであって、別に著者自身を「危険で不道徳な女」などとは書いていない。論文で朴裕河の人格について論じるわけがないではないか。繰り返しになるが、こういう論法は自らの言論の価値と品性を貶めるので、やめたほうがよいと思う。

 ところで「人格」と「方法」で思い出したのだが、朴裕河の思い出話にあるように、私が朴を知ったのは2003-4年ごろだった。民族差別と家父長制をあまりに機械的に論じる議論の雑な人だな、とは思っていた。ただ朴裕河が私にとって忘れられない存在になったのはそのためではなく、その論文から受けた衝撃ゆえである。

 私が初めて読んだ朴裕河の論文は、2003年11月号の『思想』に掲載された「1960年代における文学の再編 「国民文学」と「在日文学」の誕生」である。内容はよいとして、今でも鮮明に憶えているのはその「注」の書き方である。「むろん、その言説[江藤淳のような本質主義]から排除されているはずの「在日」社会においても正しい「父」=「近代国民国家」が夢見られている限り(注51)、江藤や『こころ』の浮上に現れる「精神」は忠実に踏襲されていたことになる。」(121頁)という一文があるのだが、何とこの注51をみると、「代表的な存在として尹健次をあげることができよう。」(125頁)と書いてあるのだ。著作や論文といった主張ではなく「存在」である。「正しい「父」として「近代国民国家」を夢見ている」「存在」=尹健次……。後にも先にも学術論文で「存在」が出典として表示された例は見たことがない。大変衝撃的だった。『思想』編集部は何も言わなかったのかと思ったものである。

 もちろん、だから朴裕河の『帝国の慰安婦』は信用ならない、といいたいわけではないし、いえるはずもないのだが、『帝国の慰安婦』の出典の示し方などを考えると徴候的であるとは思う。

(鄭栄桓)

by kscykscy | 2015-09-05 00:00 | 歴史と人民の屑箱
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