朴裕河『帝国の慰安婦』の「方法」について(5)

 前回、本書『帝国の慰安婦』の、元「慰安婦」女性たちの請求権は日韓会談で韓国政府によって放棄されたという「新説」が、先行研究の歪曲により彫琢されたものであることを指摘した。だが出典とされた文献の恣意的な解釈や引用による「新説」の創出は、先の個人請求権に関する箇所に留まらない。日韓協定に基く「経済協力」についても、朴は本書で驚くべき新解釈を提示している。以下ではこの問題を本格的に論じた第三章「ふたたび、日本政府に期待する」の「1,一九六五年の日韓協定の限界」の叙述に即して、朴の主張を検討してみよう。

1.「経済協力」=「事実上の補償」「賠償」説

 日韓協定に基く「経済協力」の性格について朴は以下のように「事実上の補償」「賠償」であると主張する。

「日韓両国は国交を正常化するにあたり、過去のことについて話しあい、その結果として日本は韓国に合計一一億[ママ]ドルの無償・有償金[ママ]や人的支援[ママ]をした。しかしその提供は、「独立祝賀金」と「開発途上国に対する経済協力金」との名目でなされたものだった。つまり、日本政府は、莫大な賠償をしながらも、条約[ママ]ではひとことも「植民地支配」や「謝罪」や「補償」の文言を入れていない。つまり事実上は補償金でありながら、名目は補償とはかかわりのないようなことになっていたのである。皮肉にもこのことは、九〇年代の「基金」が事実上は政府が中心となったものでありながら、あたかも国家とは関係ないかのような形をとったことと酷似している。」(247)

 まず事実関係の誤りから指摘しておこう。請求権・経済協力協定は日本政府が韓国政府に対し、無償3ドル、有償2億ドル相当の「経済協力」を行なうことを定めた。朴はここで「一一億ドルの無償・有償金や人的支援をした」と記しており、何をもって11億ドルと算定しているかはわからないが、誤りである。また「無償・有償金」とあるが日本政府は無償3億ドルの金銭を韓国政府に支払ったわけではない。3億ドル相当の「日本国の生産物及び日本人の役務」を供与(請求権協定第一条1a)したのである(ちなみに朝鮮語版では「日本が韓国に無償3億ドル、政府借款2億ドルの「補償」をしたことは間違いのない事実だ」(258頁)となっている)。もちろん「政府が中心となったものでありながら、あたかも国家とは関係ないかのような形をとった」わけもない。

 本題に移ろう。上の引用に明らかなように、朴は「経済協力」は「事実上の補償」「賠償」であると主張する。朝鮮語版でも「この賠償は「独立祝賀金」と「開発途上国への経済協力金」という名前で実施された。言い換えれば、日本政府は莫大な賠償を行ったが、条約では「植民地支配」や「謝罪」や「補償」といった表現を全く用いなかった。実際には補償金であるにもかかわらず、その「名目」は補償とは関連の無いもののように見えるのである」(259頁)と記しており、この点は変わりない。

 ただし、「経済協力」は「事実上の補償」であるという主張自体は必ずしも新しいわけではない。請求権・経済協力協定に基づく「経済協力」の性格については、日韓両政府の間に長らく解釈の対立があった。日本政府は「経済協力」は請求権問題「解決」の対価ではなく、両者に法的な相関関係はない、との解釈を採っており、「賠償的性格」も全面的に否定する(*1)。他方、韓国政府は無償3ドルの供与は、「実質的な賠償である」と主張してきた。日韓協定批准の国会における張基榮経済企画院長官の答弁(1965年8月5日)は次の通りである。

「ご存知のとおり、サンフランシスコ平和条約第二十一条により大韓民国はどう条約第十四条による賠償以外には受け取れないものとなっております。しかし請求権協定にはご覧のとおり、請求権協定の前文に明白にこれは請求権問題の解決を主とし、付随的にその結果として経済協力を加味することになったものです。
 政府はいわゆる請求権の場合に、その根拠と証拠物を提示して検討するよりかは、一括的に受け取る方が有利であると考えました。そのためこの請求権第二項にあるいわゆる無償三億ドルは請求権ではなく、さらに一歩進んで実質的には賠償的な性格を持つものと考えます。
 そうした意味ではこれは経済協力ではなく請求権が主となっており、請求権ではなく、この三億ドルは賠償である。実質的には賠償である、こうした見解を持っております。」(『第五十二回国会 韓日間条約と諸協定批准同意案審査特別委員会会議録』第五号、18-19頁)

 朴の「経済協力」理解が、協定締結当時の韓国政府、つまり朴正煕政権と同じ立場のものであることがわかる。それでは、いかなる根拠に基づき、一方当事者である日本政府が明確に否定する「経済協力」=「賠償」説を朴は主張するのか。先にあげた金昌禄論文によれば、韓国政府の「経済協力」=「賠償」という解釈は、日韓基本条約第二条の解釈と関連していたという。第二条「千九百十年八月二十二日以前に大日本帝国と大韓帝国との間で締結されたすべての条約及び協定は、もはや無効であることが確認される。」の規定について、韓国政府は、当初より併合条約が無効であることを意味すると解釈した(日本政府は有効であると解釈する)。よって併合無効を前提とした「経済協力」であるから、補償であるという理屈になるのだという(なお、こうした論法は日朝平壌宣言の「解釈」としても存在する。「日本政府は変わったのか? 「平壌宣言=実質的補償」論について」参照)。だが朴は以前にも触れたように、本書は韓国併合に関する条約は合法的に成立したと主張するため、韓国政府と同様の解釈を採るとも思えない。

2.「経済協力」=1937年以降の「戦争動員」に対する「賠償金」?

 この問題について探るため、もう少し丁寧に第三章の「1,一九六五年の日韓協定の限界」における朴の議論を読み解いてみよう。本節の課題は「日韓協定の限界」を議論することである。日韓基本条約や関連する諸協定には植民地支配への反省や謝罪を示す文言はなく、「植民地支配による」「損害」への言及も規定されていないが、朴はそうした「日韓協定の限界」をもたらした原因として次のように指摘する。

「不思議なことに、[韓国政府の:引用者注]人的被害に対する要求は、一九三七年以降の、日中戦争における徴用と徴兵だけに留まり、突然の終戦によって未回収となった債権などの、金銭的問題が中心となっていた。つまり、一九一〇年以降の三六年にわたる植民地支配による人的・精神的・物的事項に関する損害ではなく(実際の日本の「支配」は、「保護」に入った一九〇五年からとするべきだが)、一九三七年の戦争以降の動員に関する要求だったのである。」(248頁)
「[なぜなら:引用者注]日韓会談の背景にあった、サンフランシスコ条約があくまで戦争の後始末――文字どおり「戦後処理」のための条約だったからである。日韓会談の枠組みがサンフランシスコ条約に基くものであったために、その内容は戦争をめぐる損害と補償について、ということになっていたのだろう。」(248頁)
一九六五年の条約及び協定内容と金銭の名目に「植民地支配」や「謝罪」などの言葉が含まれなかったのは、そのときの韓国の「請求権」が、一九三七年以降の戦争動員に限るものだったためであろう。そして、その賠償金はすべて韓国政府に渡され、国家が個人請求に応える形となった。」(249頁)
「植民地支配を終えて二〇年もの歳月を経て作られた条約に、ひとことも「植民地支配」や「謝罪」の言葉がなかった理由は、おそらくここにある。日韓基本条約は、少なくとも人的被害に関しては、〈帝国後〉補償ではない。あくまでも〈戦後〉補償でしかなかったのである。」(251頁)

 これらの記述をさらに要約すれば次のようになる。

〈日韓会談における韓国政府の人的被害に関する要求は「1937年の戦争以降の動員に関する」ものにとどまった。それは日韓会談がサンフランシスコ講和条約に基くものだったからである。結果、会談では「戦争をめぐる損害と補償」に関するものだけが議論され、請求権・経済協力協定では、「1937年以降の戦争動員」に限り、「賠償金」が韓国政府に渡された。〉

 朴のここでの議論の趣旨は、日韓協定がいかに「〈帝国後〉補償」(植民地支配総体の損害への補償という意味か?)ではなかったか、を論じるところにある。それ自体は確かに事実なのだが、それでは実際になされた「経済協力」は「〈戦後〉補償」なのだろうか。そもそも「〈戦後〉補償」を朴がいかなる意味で用いているのかが明らかではないため確かめようがないが、朴が日韓協定に基く「経済協力」が「事実上の補償」「賠償」であると主張する根拠をあえて本書から探るとすれば、「1937年以降の戦争動員」に対する「賠償金」であった、と理解しているがゆえということになるだろうか。朴は本書で「経済協力」が、いかに「植民地支配に対する賠償金」(178頁)ではなかったか(これは事実である)を度々指摘するのであるが、それは「戦争に対する賠償金」であったという意味なのだろうか。だとすれば、これは驚くべき「新説」というほかない(*2)。

 むしろこれまで度々指摘されてきたのは、日韓会談は連合国と日本との「戦争」をめぐる賠償等の交渉の枠外で行われた、ということである。確かに、日韓会談と対日講和条約には密接な関係があることは事実である。特に第四条(a)は日本国・日本国民と、「第二条に掲げる地域」(日本国が権利・権原を放棄する地域=朝鮮、台湾、樺太等)の当局及びそこの住民との間の「請求権」の処理を両当局間の「特別取極の主題とする」とした。ただし、だからといって、第四条(a)の「請求権」をめぐる交渉が、ただちに「戦争」をめぐる損害の交渉を意味したわけではない。むしろ太田修の指摘するように、第四条の「請求権が日本と連合国から除外された韓国の間で処理されるべきものだとしたに過ぎず、まして植民地支配・戦争による損害と被害の清算を規定した概念ではなかった」(太田修『日韓交渉』クレイン、2003年)からである。

 対日講和条約から韓国政府が外された事実自体は、朴も指摘している。だとするならば、「1937年の戦争動員」への「賠償金」という記述はどこから出てきたのか。出典として示された文献にあたってみよう。

 この節の議論にあたって、朴がほぼ全面的に依拠したのは張博珍『植民地関係清算はなぜ成し遂げられなかったか 韓日会談という逆説』(ノンヒョン、2009年)である。この本は在日同胞の著者が、なぜ日韓会談で過去清算問題が「消滅」せざるをえなかったのかという問題意識に立ち、主として韓国政府の交渉戦略とそれを取り巻く構造(国際環境)を批判的に分析した548頁に及ぶ大著である。日韓会談を日本・韓国両政府の対立の歴史とみるのではなく、むしろ過去清算を「消滅」させるための共犯関係の構築として捉えており、非常に刺激的で示唆に富む労作である(*3)。朴が依拠したのは、このうち会談開始前の韓国政府の過去清算構想を検討した第六章第一節である。

 張がこの節で分析したのは、1949年9月に李承晩政権が作成した『対日賠償要求調書』(以下、『調書』)である。『調書』は賠償請求の正当性の根拠として「1910年から45年8月15までの日本の韓国支配は自由意志に反する日本単独の強制的行為」であることをあげたため、先行研究は『調書』の立場を(それ以後とは異なり)植民地支配期を総体として問題とし賠償を求めたものと解釈してきた。だが、張はむしろこうした基本方針の闡明にもかかわらず、実際には『調書』は賠償要求の範囲を「中日戦争及び太平洋戦争期間中に限り直接戦争により我々が被った人的・物的被害」に限定したことに注目する。韓国政府が範囲を限定したのは、張によれば、講和条約における賠償問題があくまで連合国と日本の戦争の処理という枠組みで行なわれることが予想されたためだった。そして「この事実は韓国政府が交渉が始まった当初から日本の植民地支配に対して包括的にその責任を追及する姿勢を持っていなかったことを意味する」と指摘するのである(247頁)。

 朴のいう「1937年の戦争動員」云々の叙述が依拠する張の分析は以上のようなものだ。一読してわかるとおり、張がここで論じたのは、1949年段階における韓国政府の交渉方針であって、1965年に日韓で妥結された「経済協力」の中身ではない。つまり、韓国政府が1937年以降の被害に賠償要求を限定しようとした、と指摘したに過ぎない。むしろ張が怒りを込めて(と私には読める)論じたように、実際に日韓会談が始まると、韓国政府はこの日中戦争以後の戦争被害に関する賠償すら十分には主張しなかった。当然ながら、張は請求権・経済協力協定の「経済協力」が、「1937年の戦争動員」の「賠償金」を意味するなどという馬鹿げたことを論じてはいない。

 それどころか、張は1965年当時の韓国政府の「経済協力」=「実質的な賠償」という解釈について、韓国側はそもそも交渉でこう主張しておらず、成り立たないと強く批判する。日韓交渉過程での議論自体が、こうした韓国政府の説明が虚偽であることを証明しているとし、「韓国側もまた提供される資金が請求権に基き受け取るものではないにもかかわらず、請求権問題が解決されることを認める論理矛盾をそのまま受容していたのである」(523頁)と指摘する。そして、「請求権問題に関して、韓国の対日請求権が行使され、それに基き日本から資金が提供されたことで問題が解決したと判断しうる解釈の余地が全くない」、「請求権問題はそうした意味ではただ「消滅」されたに過ぎなかった」(524頁)と結論づけるのである。

 つまり、請求権・経済協力協定に基き支払われた「経済協力」は、「1937年以降の戦争動員」に関連する「請求権」に基いて支払われた「賠償金」である、という理解は、依拠した文献の主張を朴が理解していないがゆえに生じた誤謬である。しかもその誤謬に基づく解釈がその文献自身が積極的に批判する主張(「事実上の補償」説)とつまみ食い的に接合されている。珍妙な「新説」が本書で頻出する背景には、こうした「方法」の問題があるといわざるをえない。

(鄭栄桓)

*1 「経済協力」の性格についての日本外務省見解は下記の通りである。

「経済協力を行う趣旨は、戦争の結果、韓国がわが国から分離独立したことを念頭におき、今後日韓両国間の友好関係を確立するという大局的見地に立って、この際わが国にとって望ましい韓国経済の発展と安定に寄与するため、同国に対し無償有償の供与を行なうこととし、これと併行して請求権問題を最終的に解決することとしたものであり、経済協力は請求権の対価ではなく、両者間に法的相関関係はないが、交渉の経緯上同一の協定で扱うこととなったものである。/今次の協定の無償供与の方式は、賠償協定の例によっているものが多いが、これは今回の経済協力が賠償的性格をもっているからではなく、従来経験を積み重ねてきた無償供与方式としての賠償の方式を採用することが、便利かつ適当であるという実際上の理由によるものである。」(山口達夫[外務省条約局条約課]「経済協力」、『時の法令別冊 日韓条約と国内法の解説』大蔵省印刷局、1966年、42-43頁)
「協定第一条1の末尾に、無償供与および貸付けは、大韓民国の経済の発展に役立つものでなければならない旨の規定が設けられているが、これは、この無償供与および貸付けが、賠償または請求権の対価として行なわれるものではなく、韓国経済の発展に寄与する経済協力として行なわれることを明らかにし、この目的にそわない供与や貸付けは、年度実施計画の合意または契約認証の際に、これを除くことができるように意図した規定である。」(同上、44-45頁)

*2 この「新説」を読み思い出したのは、かつて韓浩錫が唱えていた「日朝平壌宣言」は日朝の「戦争被害」を相互認定したものだった、という説である。詳細については「韓浩錫「朝・日頂上会談の推進背景と朝・日平壌宣言の歴史的意義」批判」を参照。

*3 このため、先に金昌禄論文を紹介した際に触れた個人の請求権行使の余地に関する韓国側代表の発言に対しても、「これが韓国側の真正な要求事項ではなかったことは何よりその後の同問題に対する韓国政府の対応自体が立証した」(526頁)と厳しい評価を下している。

by kscykscy | 2015-01-08 00:00 | 歴史と人民の屑箱
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