金明秀の「術語のマキビシ的使用」について

 金明秀のツイッターに私への「反論」が掲載された。今回の金の批判の趣旨は、私の批判は詭弁である、というところにあるようだ。金の人柄がとてもよくあらわれた「反論」なので、以下に検討してみたい(強調は引用者。以下同)。

「天邪鬼みたいな輩に都合よく切り出されて利用されるようだと、やっぱり鄭栄桓にもちゃんと反論する必要があるのかな。でも、あれは批判もずれているうえに、自分が書いた文章に自分で解説するような作業を伴うので、どうもやる気が出ないんだよね。ブログに書くと大手サイトに転載されるのも面倒だし。」

「このエッセイは、いくつかの朝鮮学校で好意的に読んでいただいているとの話を伺っている。たいへんありがたいことだ。 / リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題 http://han.org/blog/2011/07/post-154.html …」

「ただし、ロジックの一部に、「朝鮮学校は日本のためになっている」という命題を含んでいるので、「日本の役に立たないなら朝鮮学校は存在してはならないということか!」と怒鳴り込んでくる人がいる。それについて、反論を書いておきたい。」

かりに「AはBである」が真でも、その裏「AでないならBでない」が真だとはかぎらない。中学生でも知っていることだけど、しばしば人はこうした発想にとらわれる。「前件否定の虚偽」といって、よく知られた論理の誤りだ。詭弁の手法の一つでもある。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A9%AD%E5%BC%81#.E5.89.8D.E4.BB.B6.E5.90.A6.E5.AE.9A.E3.81.AE.E8.99.9A.E5.81.BD_.28denying_the_antecedent.29 …」

「裏の命題「AでないならBでない」が常に偽だというわけではないので、もし裏の命題がなんらかのリスクを含んでいるなら批判の対象にはなりうる。だが、それはあくまで、「『AならばB』という命題が『AでないならBでない』という誤解を生じるようだといけない」という趣旨でなければならない。」

「言い換えると、「朝鮮学校は日本のためになっている」(AはBである)という命題に対して、「日本の役に立たないなら朝鮮学校は存在してはならないということか!」(AでないならBでないというのか!)と反論するのは、典型的な前件否定の虚偽ないし詭弁だということだ。

「何の話かというと、これのことだ。 http://kscykscy.exblog.jp/18212443/
あまりにも自明の誤謬なので、武士の情けというか、なんとなくバカバカしくてこれまで前向きに反論する気にならなかったのだけど、名誉毀損として作用することがあるようなので、書き留めておく。」

「鄭栄桓に対する反論終了。以下は、落穂ひろい的に前述のエッセイをめぐる論点を列挙していこう。」

 まず内容以前の問題として、金は「前件否定」を誤って用いている。確かに「かりに「AはBである」が真でも、その裏「AでないならBでない」が真だとはかぎらない」。だが、少なくともこれだけでは「前件否定の誤謬」にはあたらない(金が貼り付けているwikipediaの解説を見よ)。ただ「逆は必ずしも真ならず」というだけである。

 しかも、金が持ち出す具体例は「AでないならBでない」にすらなっていない。「朝鮮学校は日本のためになっている[日本のためになる学校である]」(AはBである)という命題の裏は、「朝鮮学校でないなら、日本のためにならない[日本のためになる学校ではない]」(AでないならBでない)である。どうこねくりまわしても、「「日本の役に立たないなら朝鮮学校は存在してはならないということか!」(AでないならBでないというのか!)」にはならない。そもそも「朝鮮学校は存在してはならない」は当為の言明なのであるから、「AでないならBでない」という命題の具体例になるはずがない。しかもAとBの対応関係すら合っていない。詭弁だと主張したいのならば、せめて自説の説明くらいはまともにしたらどうだろうか。

 また、金は私が「日本の役に立たないなら朝鮮学校は存在してはならないということか!」と批判したかのように書いているが、私はこのような文を書いていない。つまりこれは金の「要約」であるが、具体的にどの箇所を指しているのかすら明らかではない。大して長い文章ではないのだから、正確に引用して適宜反批判すればよいだろう。これでは議論になどなりようがない。

 「詭弁」について、もう一つあげておこう。

「「AにはBが含まれる」とか、「Aには例えばBがある」のように、「あるBはAである」と叙述する文章を「特称命題」という。それに対して、「AとはBのことだ」とか、「Aは常にBだ」のように、「すべてのBはAである」と叙述する文章を「全称命題」という。」

「特称命題(ある犬は逆立ちをする)から、全称命題(すべての犬は逆立ちをする)へと飛躍することを、「早まった一般化」という。これはとてもよく知られた論理の誤りであり、また、詭弁の作法の一つでもある。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A9%AD%E5%BC%81#.E6.97.A9.E3.81.BE.E3.81.A3.E3.81.9F.E4.B8.80.E8.88.AC.E5.8C.96_.28hasty_generalization.29 …」

「ぼくはエッセイの中で、認識のフレームを転換するような運動の一つとしてある提案を行った。例示したものである以上、特称命題だ。「認識のフレームを転換する運動(A)に、ある提案(B)は含まれる」。よって、そこから「金明秀はある提案(B)がすべてだと主張している」と読み取れば誤り。」

「ここで「ある提案(B)」といっているのは、前述の(5)のこと。ぼくは(4)を主張するために、その具体例として(5)を提案したわけだ。言い換えると、(5)の他にも(4)を実践するための手法は無数にありうる。ぼくが提案したのはあくまで一例だ。」

「ただ、エッセイの中では、「あくまで一例にすぎない」とまではハッキリ断ってはいなかったので、鄭栄桓から最初に批判を受けたときはむしろありがたいとすら思った。特称命題を全称命題だと誤読させる危険性を減らしてくれた、と考えたからだ。」

「しかし、当の鄭栄桓が、ぼくが全称命題を述べたと勘違いをして、執拗に人格攻撃を繰り返すに至っては、正直げんなりしている。以上、二つ目の落穂ひろい的論点。」

「なんかもう、本当にくだらない。ぼくはなんでこんなことを書いてるんだろう。」

 おそらく必要だから書いているのであろう。さて、ここでの全称命題/特称命題云々は無視してよい。金の主張を「翻訳」すると以下のようになる。

 エッセイで自分は「「認識のフレームを転換する」「リスク・コミュニケーション」の一例として「朝鮮学校は日本の国益につながっている」と主張してみるとよい、といっただけである。「朝鮮学校は日本の国益につながっている」という主張だけが有効だなどとはいっていない。それなのに鄭は自分がそう主張したと解釈し非難する。詭弁による人格攻撃だ。

 ただこれだけの主張である。わざわざ全称命題/特称命題などという術語を用いる必要は全くない。

 もちろん私はこのようなことを主張してはない。私は金が「リスク・コミュニケーション」の一例として、「反日教育をしている朝鮮学校に日本国民の税金を支出するなど国益につながらない」と主張するものに対し、「朝鮮学校は日本の国益につながっている」と反論をしてみよ、と提案したことを批判したのである。前者のような主張に対し、「朝鮮学校は日本の国益につながっている」と常に反論せよ、と金が主張したとは考えていない。以下に引用しよう。

「ただ、「朝鮮学校は日本の国益につながっている」というレトリックはおそらく「有効」ですらない。金明秀氏は「有効な打撃」を与えうると主張しているが、実際にはむしろ逆の効果しか生まないことは明らかだ。そもそも、「日本の国益」という言葉は、その性質上日本政府あるいは日本人マジョリティに独占的な解釈権がある。一度「朝鮮学校は日本の国益につながっている」などというレトリックを用いたが最後、今般の情勢をみればわかるように、政府や自治体、マスコミ、右翼、ネットイナゴが朝鮮学校に押し寄せて「日本の国益」に反する「事実」を無限に挙げ続けるだろう。これに反論するのは困難である。何より金明秀氏自身が認めているように、「この種のデマは事実に基づいて形成されるのでなく、情動的側面が強いため、反証する事実を示すだけでは修正されにくい。しかも、「反日教育」というあいまいで都合のよいマジックワードが、あらゆる反論を無効化してしまう」からである。よって有効ですらない。」(金明秀「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」批判

 ここに明確に記しているように、私は当初より、たった一度であっても「朝鮮学校は日本の国益につながっている」などというレトリックを用いるべきではない、それが及ぼす損害の大きさは計り知れない、と書いている。「一例」であってもダメだ、というのが私の批判の要点である。そもそも、仮に金の要約したとおりに私が批判したとして、なぜそれが「人格批判」になるのだろうか。全く理解できない。

 これで、私が詭弁により非難しているという金の主張が全く成り立たないことは明らかになったと思う。他に金は「リスク社会」云々についてもつぶやいているが、これについては再三説明したので、さしあたりは以下の文章を読んで欲しい(*1)。気が向けば追加の反論をする。

*参考
「問題は「学問分野が異なる」(金明秀)ことなどではない」

 以前の記事でも書いたことだが、この間の無償化及び補助金問題の推移は、金の推奨するような「リスク・コミュニケーション」(朝鮮学校が日本のリスクではなくメリットだと主張せよ)がほとんど何の役にも立たなかったことを証明したと思う。大阪朝高ラグビー部を描いたドキュメンタリー映画『60万回のトライ』には、橋下府知事(当時)が、大阪代表となった選手たちを褒め称えながら、同時に補助金カットをあけすけに肯定する場面があるが、これは非常に象徴的なシーンだった。ラグビーで全国大会にでようが、それとこれとは別、なのである。むしろ橋下ならば、大阪朝高ラグビー部の「メリット」をより伸ばすために、「不法な国家」との関係を断ち切らせて補助金をカットするとすら平然と言い放つであろう。繰返し書いてきたことだが、金の方こそ現状認識が甘いのである。

 ブログ「lmnopqrstuの日記」の「金明秀「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」について」という記事は、金のこうした「リスク認識」の甘さについて、次のように的確に指摘している。

「ここからが本題である。引用文中の非合理的な言表を「ひとまず引き受け」という点に注目しよう。「ひとまず引き受け」ようということは<ひとまず肯定しよう>ということに等しい。だが当該言表を肯定するということは、行為遂行的には、被害をうける者自身がわざわざ、当該言表行為を遂行する主体に対して、(その行為遂行主体が)当該言表行為遂行の権利を所有していることを肯定(=承認)することを意味する。

だから「「あなたたちの役に立っているのでいじめないでください」とでもいわんばかりのリスク・コミュニケーション戦略」は、戦略としてのいわばメタ論理性が押しつぶされて、実態としては、次のようなコミュニケーションに帰結すると考えられる。

<あなたたちに一方的にいじめられるという役割の他にも役に立っている面があるんです。だからあまりいじめ過ぎないでください。他の役割がこなせなくなりますから。>

非合理な言表を行う権利が(被害をうける者自身からわざわざ)相手に付与されていて、かつ(被害をうける者が)「ひとまず引き受け」た役割の解除が客観的に保障されていない以上、このようなコミュニケーションになるのは目に見えている。「あなたたちの役に立っているのでいじめないでください。」「ほんとだ。役に立ってるんだね。もういじめるのやめるね❤」となるわけないだろう。

要するに金明秀氏は、実際のコミュニケーションにおいては、相手の言表内容に対する肯定と相手の言表行為に対する肯定の区別を都合よく維持しうるような、メタ論理(=戦略)的肯定の立場など保障されていないということ自体がわかっていない(あるいはこの問題のリスクを著しく過小評価している)。大学の講義では壇上(メタ論理)から学生の理性(論理)に訴えて「多数派を説得」できるかもしれない。だが社会はそういう風にできていない。<それは間違っている>と言わないで「ひとまず引き受け」てどうするのか。「ひとまず引き受け」たら最後二度とおりられないのがいじめの現実だと認識する方が、はるかに合理的なリスク認識というべきである。

 金の「反論」を読むと、その議論の杜撰さもさることながら、議論の文脈上全く用いる必要がない「前件否定」「全称命題/特称命題」などの術語をあえて用いて、ことさらに私が「馬鹿」であるかのように印象付けようとする(「中学生でも知っていることだけど」!)その「手法」の幼稚さに脱力せざるをえない。こうした手法、すなわち、概念や術語を煙幕やマキビシのように利用し、議論を混乱させて批判者を煙に巻き、自らの退路を確保する手法(ツイッターに棲息する「学者」「研究者」に多く見られるようだ)を、さしあたり「術語のマキビシ的使用」と呼んでおこう。「研究者」である以上、こうした振る舞いは絶対に避けるべきであると私は考えるが、金の今回の「反論」は、この「マキビシ的使用」の典型であった。しかも、その術語すらまともに使いこなせていないのであるから議論になりようがない。

(追記 7/12)

 上に書いた、金の「詭弁」批判の誤りについては、ツイッター上でも指摘があったようだ。

「@han_org 「朝鮮学校は日本のためになっている」を(AはBである)として、「日本の役に立たないなら朝鮮学校は存在してはならないということか!」は(AでないならBでない)ではなく(BでないならAでない)に対応するのではないでしょうか…?」

「.@chol_0725 あっ、本当だ。指摘すべきは前件否定の虚偽じゃなくて、必要条件と十分条件の取り違えのほうだった。うわー、これはかっこわるい。」

「このツイート http://twitter.com/han_org/status/487010626057670656 … に対して、前件否認の虚偽には当たらないのでは、というご指摘をいただいた。ご指摘の通りでした。恥じ入るばかり。訂正の上、書き直しておきたい。」

 ここで指摘されていることは、AとBの対応関係が逆になっているのではないか、ということであり、「前件否認の虚偽には当たらないのでは」などとは一言もいわれていないのだが、いずれにしても金は自らのあげた例が「前件否定の虚偽」とは異なることに気づいたようだ。以下は指摘を受けての金の訂正である。

「正しくは、前件否認の虚偽ではなく、「AはBの部分集合である(BはAを含む)」という命題が真のとき、「AでなければBでない」という結論を得るのは誤り、という問題でした。」

「「人間は男を含む」という命題から「男でなければ人間でない」という結論を導くのは誤り。同様に、「朝鮮学校は日本のためになっている」を「日本のためにならないなら朝鮮学校ではない」と読むのは誤り。以上。」

 またもや対応関係を取り違えているため、命題の真偽まで誤っている。

 仮に「朝鮮学校は、日本のためになる学校の部分集合である」(AはBの部分集合である)という命題が成り立つとして、「AでなければBでない」に対応する具体例は、金のあげた例ではなく、「朝鮮学校でなければ、日本のためになる学校ではない」(AでなければBでない)となる。この命題の真偽は、AがBの真部分集合であるかによるので、金のいうように直ちに誤りとはいえないが、それはひとまず措こう。

 問題は、金のあげる具体例がそもそも「AでなければBでない」ではないということだ。金があげた「日本のためにならないなら[日本のためにならない学校は]朝鮮学校ではない」は、「BでなければAでない」の具体例である。そして、もしAがBの部分集合であるならば、この命題は真である。部分集合とは、ここでの例に即していえば「集合 A の要素がすべて集合 Bの要素になっている」ことを指す。朝鮮学校(A)が、日本のためになる学校(B)の部分集合である、という命題が成り立つならば、当然に、日本のためにならない学校は、朝鮮学校ではない(BでなければAでない)という命題も成り立つ。曖昧な理解のままで術語を濫用するためこうした混乱が起きるのである。

 ただ、金の主張の問題点を考えるうえで、この誤りは色々と示唆に富む。それについては機会があれば記したい。

*1 ただ、ひとつだけ発見があったので注記しておきたい。かつて金は、私の批判(「朝鮮学校は日本の国益につながっている」と反論することは誤っており有効ではない)に対し、自分の主張には「傍証ぐらいはあります」とか、「多数のエビデンスを前提としている」と反論したことがある。その「エビデンス」なるものは結局示されなかったが、今回のつぶやきで、どうやらその「エビデンス」なるものは、「試しにブログやツイッターで「朝鮮学校は日本のためになっている」という言説を投げかけてみたところ、思想的には左右両側面から《驚いた》という反応を受け」た、というものだったことがわかった。全く馬鹿げている。

(鄭栄桓)

by kscykscy | 2014-07-11 00:00 | 歴史と人民の屑箱
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