ちょうど二年ほど前のことになるが、このブログで金明秀氏(以下、敬称略)の「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」というエッセイを批判したことがある。これに対しては、ツイッターを通じて金からの「反論」があったが、金が論点をずらし続けたため全く議論にならなかった。私としては金との議論そのものにはあまり価値を見出していないので、それはよいのだが、最終的に金がレッテル貼りで「告発を無力化」しようとしたため、これについては「抗議」を掲載した。いずれにしても非常に不毛な体験だった(その後の金のツイッターでの対応をみると、他の「論争」においても似たようなスタイルで応じているようだ)。 そんな金のツイッターに一月前、以下の投稿がなされた。
以前の記事を読んでいただければわかるが、すでに匿名の時代から金は私への「反論」を行っており、「本名を開示した」から「反論してもいいなあ」という金の主張は奇妙なのだが、それは措こう。わざわざ反論の予告があったので待っていたのだが、結局今に至るまで「反論」はない。「反論する意欲が立ち上がってこない」といったきりである。 あるいは金は、そもそも反論する価値がない、という「反論」をしているのかもしれないが、だとすれば非常に困ったものである。この投稿だけを読んだ者は、論点を現代を「リスク社会」かどうかをめぐるものであると考え、私が現代は「リスク社会」ではないとみなして金を批判しているかのように誤解するであろう。もちろん私はそんなことは言っていない。金が意図的に議論を誤導し、私の批判が検討にすら値しない無価値なものだという印象を読者に与えようとしていると思いたくはないが、私としてはこれを放置するわけにもいかないので以下に再論したい。 金は上の投稿に続けて、次のように書いている。
直接的に明示しているわけではないが、上の投稿に続くものなので、私の批判を想定したものだと考えてよいだろう。つまり私が金の主張を理解できないのは「学問分野」が異なり、「世界を認識するフレームが違うため」だというわけだ。二年前の批判を「学問分野」の違いということで落着させたいのであろうか。そのようなことにいかほどの意味があるのか私には理解しがたい。 もちろん問題は「学問分野」の違いなどではない。金の最初のエッセイの要旨は、現代はリスク社会であるからマイノリティーからの反論としては、人権や平等などの近代の市民的規範に沿った主張ではなく、「リスク・コミュニケーション」が有効だ、具体的には在日朝鮮人や朝鮮学校がいかに日本の「リスク」ではないかを証明することが必要であり有効だ、というものだった。そして「反日教育をしている朝鮮学校に日本国民の税金を支出するなど国益につながらない」という批判がなされた場合、金は「私の経験から具体的にいうと、「朝鮮学校は日本の国益につながっている」と反論すれば、デマに対して有効な打撃を与えるようだ」と主張したのである。 私はそんな反論はむしろ在日朝鮮人が歴史的に行ってきた民族教育の意義を貶めるものであり、そもそも「有効」ですらない、と批判した。実際あれから二年が経ちながらも朝鮮高校生は無償化から除外されたままであり、それどころか補助金の全国的な削減が進んでいる。遺憾ながら、朝鮮学校が日本の多文化共生にとって役立っている云々の主張(だけ)を語る人は後を絶たないが(そうした意味では金明秀式の論法は「勝利」している。ただ、さすがに「朝鮮学校は日本の国益につながっている」と「反論」する人物はみたことがないが)それがどの程度の「有効性」を持ちえていたかは大いに疑問である。 さて、上の投稿で金がこだわっている「リスク社会」をめぐる主張については、これもかつて「続々・金明秀「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」批判」の「9.「リスク社会」というハッタリについて」で批判した。関連箇所を再掲する。
少なくともベックは『危険社会』において、今はリスク社会だからマイノリティーは「リスク・コミュニケーション」が必要だ、などとはは言っていないのである。私はもしベックがそのようなことを主張しているならば、それに即して金を批判しようと思い探したのだが見つからなかった。金自身もそれは認めている。つまりベックとは関係ない金自身の主張なのである。よって「ハッタリ」だと書いた。金のエッセイを検討するものはベック云々を考慮する必要はさしあたりはない、また、金も自らの言葉で反論すればよいではないか、と。もちろん、「学問分野」の問題などでもない。 いずれにしても、民族的・歴史的な権利性を前面に押し出さない歪んだ言説は日本の「反レイシズム」を極めて問題の多いものにしている。「反差別」「反レイシズム」を自称する言論人のなかにも、在日朝鮮人の歴史についての歪んだ認識を持つ者は少なくない。例えば安田浩一『ネットと愛国』は、「終戦直後に一部の在日コリアンがアウトロー化したのは事実」(p.219)として「愚連隊と化した一部の朝鮮人・台湾人」などという表現を使い、解放直後の在日朝鮮人の生活権擁護闘争や民族教育擁護闘争についても「暴動」「騒擾事件」と位置づけている。驚くべき認識である。また、平気で朝鮮人に対し差別発言を用いて罵倒している野間易通のような人物が、「反レイシズム」運動の首領のような扱いを受けている現状にはめまいすら覚える。特に野間の「糞チョソン人」という発言は、本来ならばこれだけであらゆる反差別運動から追放されてもおかしくない種類の罵倒・差別発言である。罵倒語としてあえて朝鮮語を利用するこの人物の振る舞いを見過ごすことができるならば、在特会すらも許容できるのではないだろうか。野間『「在日特権」の虚構』の問題については別に詳しく扱いたい。 (鄭栄桓)
by kscykscy
| 2014-06-03 00:00
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