民族教育介入の「神奈川モデル」

 民族教育介入の「神奈川モデル」とでも呼ぶべきものが成立しつつある。3月19日、神奈川県の黒岩知事は、朝鮮学校の児童生徒への学費補助を「拉致問題に関する独自教科書を作って授業を行うことが条件で、それまでは執行停止する」と述べた。前日に県議会が可決した新年度予算案が、「拉致問題に関する独自の教科書を作成し授業で使用する」ことを支給条件としたことをうけたものである。

 この間、大阪や埼玉と並び、神奈川県は補助金支給をダシにした朝鮮学校の教育内容への干渉の先頭にいた。散々恫喝だけして補助金を停止した大阪に比べれば、神奈川は補助金を出すといっているだけマシではないか、と思う人もいるかもしれない。だが、教育内容への干渉というレベルで考えるならば、数年間にわたって徐々に、しかし確実に内容への干渉を実現させてきた神奈川の黒岩県政は、ある意味ではより悪質であり、むしろ教育干渉の最先端にいるともいえる。

*参考
教科書干渉と「多文化共生社会」の始まり――朝鮮学校と高校「無償化」問題⑪
http://kscykscy.exblog.jp/15700342/

 『神奈川新聞』の3月26日付社説「当初の理念を忘れるな」は、今回の条件付き補助金交付について、以下のようにその問題点を指摘している。

「議案の可決と引き換えに、朝鮮学校に対して拉致問題の独自教科書の作成などがあたかも条件のように課された点は問題を残した。/ 県議会には朝鮮学校に対する厳しい見方もある。制度創設という実を取るため、やむを得なかった事情は分かる。しかし、「国際政治・情勢に左右されずに外国人学校の子どもたちが教育を受ける機会を安定的に確保する」という、新制度の理念は薄らいでしまった。/ さらに黒岩祐治知事の発言も危うさをはらむ。会見で「条件と言っているわけではない」とする一方、「中身を見て判断する。日本人が見て拉致に真っ正面から向き合っていると思うかも問われる」と教科書の記述内容にまで踏み込んだ。/ 「私学の自主性の尊重」がうたわれている教育基本法や私立学校法を持ち出すまでもなく、補助金を口実に私立の各種学校である朝鮮学校の教育内容に介入するような言動は厳に慎まなければならない。」

 教育内容への介入に疑義を呈した点に限れば妥当な批判であるが、だからこそ、社説がこれに続けて「神奈川朝鮮学園が拉致問題をすでに授業で扱っている事実もくむべきだ。同学園側から「教科書改訂までの暫定措置で拉致問題を明確にした独自教科書を作成する」と伝えてきている以上、斜に構えず信頼して待つという姿勢で十分ではないか」と提案したのは、蛇足といわざるをえない。上のような視点があるならば、むしろこうした朝鮮学校側の対応を引き出すにいたったこれまでの県の教育介入を改めて問題にするべきであって、それ自体を努力や成果のように位置づけるのは矛盾である。「補助金を口実に[…]朝鮮学校の教育内容に介入するような言動は厳に慎まなければならない」という立場をより徹底すべきだろう。

 しかし、教育内容への介入問題については、この『神奈川新聞』社説のような立場ですらも例外的であるのが実情だ。朝鮮学校の教育内容への介入は、あまりにも安易に主張されている。一例として『毎日新聞』地方版(広島)の黄在龍記者による「揺れる朝鮮学校」(1~4、3/13~3/16付)の最終回に掲載された「識者」のコメントをみよう。

 ここでは、「北朝鮮による核実験や進展がない拉致問題を背景に、国の朝鮮学校への高校授業料無償化不指定や、県と広島市の広島朝鮮学園への補助金交付の停止は続く。政治的事情と教育支援の関係をどう考えればいいのだろうか」という問いに、木村幹(神戸大学)、佐野通夫(こども教育宝仙大)、西岡力(「救う会」)の三人が答えている。佐野は「(認めない理由として)朝鮮総連とのつながりや歴史への価値観が異なるためという主張もあるが、それらは「高校無償化」対象外とする理由にはならない」と除外に反対し、西岡は「独裁体制を賛美するような教育が今でも公然と行われている。公的扶助を受けるには、まったくふさわしくない教育内容」と除外を肯定する。

 ここで重要なのは木村の「高校無償化の対象外や補助金交付の停止といった政策は、対外的には日本の印象を損なう効果しか持たない。朝鮮学校がある一定、北朝鮮のイデオロギーに沿った教育を行っているのは事実だが、その責任を子供たちに押しつけるのは筋違いだ。教育内容は行政指導などで対応すべきだ」というコメントである。「教育内容は行政指導などで対応すべき」と、内容への干渉を肯定しているのである。そもそも補助金停止反対の理由も、日本の印象を悪くするからという理由のもので、ある意味では現在の「反差別」言説のスタンダードといえる。教育内容への「行政指導」が、具体的に何を指すのか明らかではないが、ここで強調しておきたいのは、冒頭で述べた「神奈川モデル」の形成に一役買ってきたのは、無償化反対論のみならず、木村の主張に典型的にあらわれているような、教育内容への干渉を前提とした無償化/補助金交付擁護論であったということである。

 この連載には「揺れる朝鮮学校」という無責任なタイトルが付されているが、もちろん朝鮮学校は勝手に揺れているわけではなく、それどこから激しく揺さぶられてきた。揺さぶっているのは、無償化排除論者のみならず、無償化に賛成しながら教育内容への干渉を是とする論調でもある。高校無償化法ができてからというもの、マスコミはあたかも朝鮮学校の「教育内容」が適用の争点であるかのような報道を続け、誤った認識を拡散し続けてきた。今回の記事のように、報道は文科省や政府への追及をせず、あたかもそこだけが「現場」であるかのように、朝鮮学校に殺到した。そして、このようなニセの争点を作り上げ、朝鮮学校を揺さぶった責任は、『毎日新聞』にもある。

 これまで度々『朝日新聞』の論説――朝鮮学校の教育内容はかつてのようなものから変化したので排除するのはおかしいという主張――を俎上に載せてきたが、この機会に『毎日新聞』の社説の変遷から、この種の無償化擁護論の問題点をふりかえっておきたい。

 まず、中井洽拉致問題担当大臣が除外を要請した(2010/2下旬)直後、3月11日の社説をみよう。

「この生徒たちは、日本に生まれ育った社会の構成員であり、将来もそうだ。高校無償化は「子ども手当」とともに、社会全体で子供の成長を支えるという基本理念に立つ。その意味で子供自身に責任のないことで支援有無の区別、選別をするのは筋が通るまい。/ 北朝鮮の姿勢を理由に除外を押し通すなら、見せしめの措置と国際社会では受け止められかねない。子供たちに疎外感を持たせて何の益もない。〔…〕各種学校については、無償化法成立後、文部科学省令で高校課程に類する教育をしていることを判断基準に対象を定める。川端達夫文科相が「外交上の配慮などが判断の材料にならない」としているのは適切だ。〔…〕今回の論議を機に、朝鮮学校をはじめ外国人学校の実態に関心が高まり、地域社会との交流活発化などにつながることも期待したい。」(「社説:朝鮮学校 無償化除外、筋が通らぬ」2010.03.11・朝刊) 

 この社説の「期待」どおり、これ以後朝鮮学校の「実態に関心が高まり」、教育現場は報道をはじめ日本社会からの好奇の目にさらされ続けた。「外交上の配慮などが判断の材料にならない」ことに賛意を示しておきながら、民族教育権や外国人の教育権への関心の高まりではなく、「実態」への関心の高まりに期待を寄せるのはなぜなのか。すでにこの時点で全くもっておかしいのだが、後の論調に比べればまだ穏やかである。

 無償化法が施行され朝鮮高校生が事実上排除されてからの『毎日』の社説は、坂道を転がり落ちるようにひどくなっていく。以下は文科省が朝鮮高校生への「審査基準」を決定した直後の社説だが、まずは前半部の抜粋を読んでいただきたい。

「無償化は学校への支援制度ではなく、高校段階の生徒たちに国全体が学びの機会を支援するものだ。その理念から、基準をクリアしているならば、支給は当然といえよう。/ただ、朝鮮学校を対象とすることへの異論や反対意見は多く、政権内でも批判、疑問の声がある。歴史教科で、独善的な金父子独裁体制礼賛や反日的な内容があったり、朝鮮戦争は米・韓国側から起こされたと主張するなど国際的な共通認識や教育姿勢とは相いれないものがある。/拉致事件など重大問題で、北朝鮮側に誠実な対応が見られない状況も続く。そうした国につながる学校を認知するかのような支援に、割り切れない思いの人も少なくない。/審査基準は、他の私立学校同様に「教育内容の是非」を項目にしていない。しかし、適用反対意見も踏まえ、文科省は今後教育内容に「懸念される実態」があれば、自主的な改善を強く促し、どう対応したか報告を求めることを表明した。日本の高校の政治・経済の教科書を使う案も提示している。支援金が授業料に充当されているかもチェックする。」(「社説:朝鮮学校無償化 開かれた教育へ脱皮を」2010.11.06・朝刊)

 なぜ他の私立学校とは別に、朝鮮学校だけが教育内容に「懸念される実態」があるかどうかを審査されなければならないのか。「無償化は生徒たちに国全体が学びの機会を支援するもの」「基準をクリアしているならば、支給は当然」という認識に立つなら、文科省のあからさまな差別的「審査基準」に異を唱えてしかるべきだろう。だが、この社説はそのような方向へと議論を進めることなく、むしろ次のように朝鮮学校に提案する。

「一方、朝鮮学校側にとっては、注目される今こそ、自ら改革する好機と考えてはどうだろうか。多くの生徒は日本に生まれ、その文化、風習になじんでいる。学校以外では地域社会に根差している納税者の子供たちだ。開かれた学校として脱皮することに違和感はあるまい。〔…〕自主的で地域に開かれた改革を進めることによって、朝鮮学校もまた多様な学校の一つとして大事な位置を得るだろう。強く期待したい。」(同上)

 この社説が結論で「開かれた教育へ脱皮を」求める対象は、何と文科省ではなく、朝鮮学校なのである。このような包囲状況でなされる「改革」を「自主的」といえる感覚は到底理解できない。前半部で朝鮮学校の教育内容への不信を「国際的な共通認識や教育姿勢とは相いれない」と第三者的に紹介しているが、この論説委員はこうした「不信」自体を問いなおすことを考えようともしない。むしろ、「歴史教科で、独善的な金父子独裁体制礼賛や反日的な内容があったり、朝鮮戦争は米・韓国側から起こされたと主張する」ならば、無償化から外されても仕方ないという心情に理解を示しているとすら読める。だが表だっていうのははばかられる。だから世間が(そして論説委員である「私」が)、気持よく賛成できるように「自主的」に「改革」してくれ、というわけだ。倒錯というほかない。

 第二次安倍政権が成立し、正式に無償化から排除された直後の社説でも、この点は変らない。

「教育内容でも、北朝鮮の独裁体制の礼賛や独善的な見方がみられ、問題があるとこれまでも指摘されてきた。こうした状況では無償化の対象にすることへの違和感や反対する意見も多く出よう。/だが、朝鮮学校に学ぶ生徒の大半は日本に生まれ育ち、将来も日本社会に生きる。教科学習も日本の高校に相当し、多くの大学は朝鮮学校卒業生に受験資格を認めてきた。高校のスポーツ競技でも交流は活発だ。/生徒それぞれの学びの機会を経済的に支える、という制度の理念に、朝鮮学校の生徒を一律に除外するのはそぐわない。/社会に根差した生徒たちを、単に排除的に扱うだけでは解決にはなるまい。他方、朝鮮学校や総連側も問題指摘には応えるべきで、社会の無理解があるというのならば、積極的な情報公開が必要である。」(「社説:無償化見送り 排除にとどまらず」2012.12.30)

 この社説は文科省に対して「前政権や文科省がこの問題についてどう審査し、判断していたか詳しく検証し、公開することも必要ではないか」と注文をつけてはいるが、根拠があいまいな「社会」の「無理解」をあげて、朝鮮学校に「情報公開」を求めていることは変らない。生徒たちは「日本社会」に根差している、だから排除してはいけない。しかし、「日本社会」はまだまだ朝鮮学校や総連を「理解」しきれていない、だから情報公開が必要だ、という理屈である。この論説委員のいうような意味で「日本社会」が朝鮮学校を「理解」する日が来るとすれば、それは朝鮮学校の教育内容を「日本社会」が完全な管理下に置いた日であろう。神奈川での「県民感情」の名の下での教育介入は、その第一歩といえる。

 このように、中井洽による排除工作が始まってから、「審査」を口実に民主党が事実上排除した段階を経て、安倍政権が正式に排除を確定するまで、『毎日』の社説は一度も在日朝鮮人の歴史性や民族教育の権利という視点を採らず、むしろ朝鮮学校の教育内容への日本社会の無理解に共感を寄せ、その無理解に朝鮮学校が対応してこなかったことが問題であるかのような主張を繰り返した。「神奈川モデル」の成り立ちに『朝日』『毎日』などの擁護論が一役買ったと考えるゆえんである。

 神奈川で冒頭に紹介したような要求が議会で通ったということは、これからも「県民感情」の名の下に、朝鮮学校のあらゆる教育内容への干渉がありうるということだ。「神奈川県の朝鮮人は県民ではないのか」という反論など、ほとんど意味をなさないだろう。それどころか、県民であるところの朝鮮人児童生徒が朝鮮学校から異常な教育をうけているのだから、この児童生徒のためにも、県がしっかりと監視し指導しなければいけない、というさらなる干渉のレトリックが襲ってくるだけだ。実際、大阪で橋下はそのように断言した。小手先の理屈でどうにかなる段階ではない(もちろん、そんな「段階」は日本に一度も成立したことなどないが)。

(鄭栄桓)
by kscykscy | 2014-03-27 00:00 | 朝鮮学校「無償化」排除問題
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