歴史系「論壇」における知的頽廃――與那覇潤『中国化する日本』について(3)

4.植民地支配の「絶対に外せない歴史的事態の本質」?

 先に見た創氏改名の記述は全体の中ではそれでもまだマシな方である。創氏改名の話に続いて植民地支配の「本質」の話に入るのだが、ここからは與那覇の理屈を理解すること自体が困難になってくる。

 まず、與那覇の議論の前提を確認しておこう。この節の冒頭で、與那覇は近代日本の植民地支配をとらえるポイントとして次のように記す。
「決定的に重要なポイントは、それらを「江戸時代」を東アジアに輸出する試みとして理解することです(本野英一「歴史の変奏としての東アジアの現在」。むろん、その多くは押し売りでしたが)」(p.190-191)
 本野英一論文の出典表示はこの一文のみにかかっており、「江戸時代〔化〕」というワードは與那覇の造語なので、いかなる意味の出典なのか興味が湧き調べてみた。すると、そこには次のように記されていた。
「巨視的比較文明論の最近の定説を踏まえると「大東亜共栄圏」をどのように解釈すべきだろうか。この問題を考える上で一番参考になるのは、中根千枝が『社会人類学・アジア諸社会の考察』(講談社学術文庫)で示した人間関係に関する考察だと考える。私は、日本の戦国時代以降伝わってきた「イエ」社会文明の価値観、タテ社会的な人間関係観を大陸社会に武力で押しつけ、これに基づく社会再編を推進したのが「大東亜共栄圏」だったと解釈している。
 この価値観によれば、日本人が強制した、人為的「イエ」社会の序列の頂点に立つのは、当然天皇家を頂く日本人だということになる。大陸諸民族は、その下に「家来」か「弟」分という形で下位に置かれる。このような手前勝手な序列を武力で押し付ければ、押し付けられた側がこれに反発し、抵抗するのが当然である。これが二十世紀前半に日本がユーラシア大陸東部から南部沿海部とその周辺地域との間に引きおこした戦争の本質だったのではあるまいか。
 しかし、敢えてこの時の日本側の行動を一つだけ弁護するならば、明治維新以降の日本の制度、価値観に匹敵できるそれを自力で構築できず、大陸へ事業活動に進出した日本人の資産を食い物にする現地人ばかりが横行するという、アジア大陸社会の現実に直面せざるを得なかった日本人に他の選択がありえたのか、という問題が提起できるのではあるまいか。現在、アジア大陸社会、特に華中沿岸部に進出した日本企業と現地社会との間でも、かつて起きていたのと類似の事例が起こっているのではないかと思う時、私は日中関係の今後に大きな危惧を抱いている」(本野英一「歴史の変奏としての東アジアの現在」、『「東アジア」の時代性』渓水社、2005年、p.209-210)
 この文章は、あるシンポジウムの報告へのコメントとして記されたものであるが、なるほど確かにこれは與那覇の主張の出典といえる。本野は「大東亜共栄圏」について語っているので、これで植民地支配全体を理解できるとする與那覇の主張は「独創」といっていいが、誤った出典表示であるとはいえない。

 問題は本野の記述そのものである。私が、この不毛極まりない作業のなかで得た数少ない収穫は、世の中には信じがたいことを主張する「歴史学者」が、與那覇以外にも少なくない数いるという事実を改めて知らされたことにある。そもそも日本の侵略への反抗は「イエ」社会押しつけ云々以前から起こっているため、本野の記述は「説明」になりえていないが、何より、最後の段落で本野が展開する「大東亜共栄圏」弁護論には目を疑った。「大陸へ事業活動に進出した日本人の資産を食い物にする現地人ばかりが横行するという、アジア大陸社会の現実に直面せざるを得なかった日本人に他の選択がありえたのか」とは、「一つだけ」の弁護どころか、「大東亜共栄圏」の全面的弁護ではないだろうか。またこの理屈だと、今後の日本の侵略すら「弁護」できてしまう。

 與那覇の本に戻ろう。これをうけて與那覇は植民地支配の「本質」について次のように記す。
「こういうこと〔「江戸時代化」の輸出:引用者注〕を日本が朝鮮半島で行ったのは、実はこの時がはじめてではありません。江戸時代の政治体制とは基本的に戦国大名の作り上げた国家の連合体なわけですが、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際も、占領地の住民に国内の検地と同様の指出の提出を命じていることから、朝鮮を日本内地と同様の石高制に組み込む構想があったものと見られています(岸本美緒・宮嶋博史『明清と李朝の時代』)――要するに、やがて江戸時代を生み出す国家システムで、東アジアのほかの地域も覆ってしまおう、という発想です。
 秀吉の場合は朝鮮半島を一時は占領したものの、短期間に敗戦してその野望は潰えるのですが、明治以降の日本人は西洋近代産の重火器で武装していましたから、朝鮮はおろか満洲(中国東北部)へ、さらに大陸の奥へ、ともっと深くまで攻め込んでしまった、というのが帝国日本の「侵略」なり「進出」なりの全体像です。
 つまり、長い鎖国のあいだも戦国時代以来の行動様式を延々と受け継いできた日本人が「開国」を迎えた結果、近世初頭から思想の遺伝子が凍結保存されていたかのような発想のままにユーラシア大陸に飛び出してしまって、すでに「中国化」していた東アジアの諸地域にまで「再江戸時代化」を拡大しようとしたというのが、絶対に外せない歴史的事態の本質なのであって、その過程の呼び名に、逐一「侵略××」のような冠詞をつけるか否かなどというのは、最後は各自の価値観で決めることですから、枝葉末節の問題にすぎません(ちなみに、私個人は「侵略」をつけてもいいと思いますが、人に強制しようとは思いません)。」(p.192-193)
 「近世初頭から思想の遺伝子が凍結保存されていたかのような発想」という表現を躊躇無く太字できる感性は私には理解しがたいが、この記述は果たして朝鮮侵略の「本質」の説明になっているだろうか。この記述を読む限り、與那覇は近代日本の朝鮮侵略を豊臣秀吉のそれの再現とみているように読める。つまり、16世紀と19世紀の超連続説、あるいは先祖がえり説ということだ。その論拠としてさらに與那覇はシュンペーターをもち出して次のように述べる。
「実は、これは必ずしも日本の帝国主義に限られたことではなくて、イノベーションの概念で知られる経済学者シュンペーターは、欧米列強の植民地獲得競争も「アタヴィズム」(隔世遺伝)に過ぎないと断じていました(木谷勤『帝国主義と世界の一体化』)。
 そもそも、領土の拡大が国益に直結するのは、主要産業が農業である場合にのみ自明なのであって、商工業中心の近代社会にとって、植民地経営が黒字を出すか赤字になるかははっきりしない。〔中略〕それ〔植民地獲得が「黒字」になるとは限らない〕にもかかわらずヨーロッパ諸国が時代錯誤な植民地獲得に狂奔したのは、ローマ帝国のごとき旧時代の行動様式に囚われていたからだ、と、シュンペーターは見るわけです」(p.193-194)
 この記述からわかることは、與那覇が、①朝鮮植民地支配を当時の日本の「国益に直結する」(「黒字になる」)かどうかは疑わしかったと判断していること、そして、②にもかかわらず当時の「日本人」がそれを強行したのは豊臣秀吉の朝鮮侵略期の行動様式に囚われていたからだ、と理解していることである。すなわち、近代における朝鮮植民地化という「国益」に合致しない行動がなされた背景には、豊臣秀吉の朝鮮侵略期の行動様式の残存がある、という理解である。

 果たしてこれは妥当だろうか。いくつかの視点から検討しよう。

 第一に、シュンペーターの帝国主義論の理解として妥当かという問題。シュンペーターの帝国主義論のポイントは、(1)帝国主義を資本主義から切り離すこと、(2)帝国主義を近代のナショナリズムや軍国主義と区別すること、そして、(3)帝国主義を民衆から切り離すことにある。シュンペーターは帝国主義の担い手をある特定の時代条件の基で形成された、好戦的で戦争そのものから利益を得る旧時代のエリート層によるものと把握した。特に近代帝国主義については「君主国家の遺産」と捉えた(〔都留重人訳〕『帝国主義と社会階級』岩波書店、1956年、p.157)。シュンペーターは「近代帝国主義は、資本主義そのものの「内在的論理」からは決して生れてこなかったはずのものだ」(同上)とも述べており、木谷もいうようにこれは「資本主義を免責する理論の一種」といえる(『帝国主義と世界の一体化』)。

 こうした理解を前提に、與那覇の主張を検討しよう。まず、シュンペーターが「ヨーロッパ諸国が時代錯誤な植民地獲得に狂奔したのは、ローマ帝国のごとき旧時代の行動様式に囚われていたからだ」とみた、という解釈は誤りである。シュンペーターは近代帝国主義は「君主国家の構造要因や組織形態や利益関連や人的態度などの残存物であり、また前資本主義的諸力――或る程度まで初期資本主義的方法によって君主国家が再組織したところの――の産物である」(p.157)とみる。つまり、ここで念頭においているのは絶対主義国家であり、古代ローマ帝国ではない。シュンペーターは過去の非合理的要素が何でも「遺伝」するといういい加減なことを述べているわけではなく、それなりに議論を限定している。これは與那覇が原典にあたらず「隔世遺伝」という比喩に惑わされた結果であろう。

 また、「長い鎖国のあいだも戦国時代以来の行動様式を延々と受け継いできた日本人が「開国」を迎えた結果、近世初頭から思想の遺伝子が凍結保存されていたかのような発想のままにユーラシア大陸に飛び出してしまって」云々、という理解もシュンペーターの議論を理解していない。そもそも、シュンペーターは「帝国主義の社会学」の冒頭で「いろいろな国家〔中略〕の攻撃的態度のうち、民衆の実質的具体的利益によって直接かつ明瞭に説明されうるのは、一部分にすぎない、という事実からわれわれの問題が起こってくる」(p.26)と問いを立てる。よって、「日本人」全体に攻撃的態度が維持され、その発露として対外侵略がなされる、という歴史認識はシュンペーターの前提そのものと対立する。逆にシュンペーターは各時代において好戦的支配層が温存された諸条件に着目する。よってこれは不適切な援用である。

 第二に、歴史的実態の問題。與那覇の、朝鮮植民地支配を当時の日本の「国益に直結する」(「黒字になる」)かどうかは疑わしかったにもかかわらず当時の「日本人」がそれを強行したのは豊臣秀吉の朝鮮侵略期の行動様式に囚われていたからだ、という理解には具体的論拠が無い。出典とされる本で宮嶋博史は、壬辰倭乱の際、咸鏡道を占領した日本軍が朝鮮の郷吏らに租税の内訳を自己申告させたことに触れ、「占領した地域でただちに指出を提出させていることは、そこにおいて国内と同じ石高制的な支配を行い、大名たちに分け与えることを構想していたことを示している」と評価したが、(『明清と李朝の時代』p.207)、もちろん、これが近代日本の朝鮮支配と同質のものであるとは書いていない。

 與那覇が触れているわけではないが、確かに、明治期の「征韓」思想が神功皇后の伝説や豊臣秀吉の朝鮮侵略の故事を好んで援用した事実はある。しかし、それが侵略の性格が同質であることを意味しないことも言うまでも無いだろう。與那覇は日本の制度(「江戸時代化」)を持ち込もうとしたことを持って、同質性の論拠としているようだが、日本の制度押し付けという点のみをもって300年を隔てた歴史的事象の同質性が立証されるのならば、世界史の数多くの事象はほとんどが同質であることになる。また、ここでも與那覇は「江戸時代化」を明確に定義せず用いているため、読者はその具体的内容を各自推測するほかなく、反証可能性がない。よって、與那覇の主張は成り立たない。

 このように與那覇の「説明」は根拠を欠くものであり、論理的にも破綻している。おそらく與那覇の説明が破綻をきたした理由は次のようなものだ。すなわち、前回述べたように與那覇は、1930年代以降日本は本格的に「再江戸時代化」すると主張し、「創氏改名」は「江戸時代化」の輸出だ、と規定する。だとすると日本の朝鮮侵略政策がなぜ行なわれたのか説明できない。このため、「隔世遺伝」という苦しい説明に逃れるしかなくなるのである。

 また、「中国化」「江戸時代化」というキーワードを除いてみると、その議論が実は非常に凡庸な主張であることがみえてくる。すなわち、朝鮮植民地化を合理的な国益論とは対立する非合理的な勢力によるもの、とする見方は、近年の伊藤博文礼賛論と同様の「気分」を表しているし、1930年代以降の「再江戸時代化」云々は一頃流行った総力戦体制論の焼き直しである。しかも、前者に関しては與那覇はこれを「日本人」一般に還元し、具体的に「戦国時代以来の行動様式を延々と受け継いできた」支配層内の勢力を特定しないため、より受け容れられ易いものとなる。後者についても、総力戦体制論には当時から総動員期の植民地のあり方を植民地主義一般の特徴と混同するため、むしろ植民地支配固有の特徴が見えなくなってしまうという批判がなされていたが、與那覇はその欠陥を最も極端かつ粗雑に、しかも総力戦体制への批判的視座すら欠落させた形で、「継承」したといえる。

 最後に「侵略」と呼ぶかどうか、という部分についての與那覇の主張を検討しよう。ここは與那覇の「思想」をよく示している。まず、與那覇は「逐一「侵略××」のような冠詞をつけるか否か」と述べているが、そもそも「侵略」は冠詞ではない(というか日本語に冠詞は無い)。それはいいとしても、與那覇は朝鮮植民地化や日中戦争についても、「各自の価値観で決めること」と評価を避け、また、「ちなみに、私個人は「侵略」をつけてもいいと思います」と予防線を張りながらも、実際には「「侵略」なり「進出」」と併記するかたちで「相対主義」のポーズをとる。

 そもそも朝鮮植民地化や日中戦争が侵略であることは歴史学以前の厳然たる事実――もし日中戦争が侵略戦争ではないなら、この世には侵略戦争など存在しない――であり、文科省が「進出」を強要しようとしてきたことが唯一の問題である。しかも、これは侵略加害の当事者である日本政府と日本国民が当たり前の事実を承認するかどうか、という問題なのであるから、「枝葉末節」どころか歴史認識の根幹に位置する問題といえる。これを相対主義風の言明で逃げるのは、実際には「進出」という表現を容認することに等しい。

 ちなみに、以前名古屋市長の河村が南京大虐殺の存在を否定する発言をした際、『朝日新聞』は呉智英と與那覇にコメントをとった(『朝日』12/2/24・名古屋本社版・朝刊)。両者とも南京虐殺そのものにはあまり触れず、河村発言の原因は思想的なムラ社会で育ったからだ(與那覇)、とか反中感情の高まりは市長にとってプラスかもしれないが落とし所が難しいのでは(呉)、といったそれこそ「枝葉末節」にのみ言及したコメントが並んだが、「事件」そのものについての唯一の言及が與那覇の「南京事件そのものがなかったとの考えを支持するプロの歴史学者はいない」というものだった。あたかも歴史学ギルドのスポークスマンのような口ぶりだが、「南京事件はあった」ではなく、「なかったとの考えを支持するプロの歴史学者はいない」というところに與那覇の特徴がよく出ている。

 以前、東浩紀が自分は歴史学者ではないので南京事件があったともなかったともいえない、という言い方をしたことがあったが、與那覇のこうした振る舞いは、これを「歴史学」の側から正当化するものといえる。個々の歴史認識の判断の責任は、究極のところ(特に言論人であればなおさら)その個人に帰着するはずである。仮に精緻な歴史研究を当該筆者ではない人間が援用したとしても、それを信頼して選択した責任を援用した人間もまた負うのは当然である。東の弁明はこの点で言論人としての最低限のモラルを欠くものだが、與那覇の上のような振る舞いは、こうしたモラル・ハザードを「歴史学」業界の側から助長するものといえる。

 若干脇道にそれてしまった。次回も引き続き帝国主義論及び「植民地責任」論について検討したい。

(続)
by kscykscy | 2012-05-09 00:00 | 歴史と人民の屑箱
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