歴史系「論壇」における知的頽廃――與那覇潤『中国化する日本』について(2)

3.創氏改名は「同化」ではなく「江戸時代化」だった?

 それでは與那覇が植民地問題について論じた「帰ってきた朝鮮出兵:植民地問題をまじめに考える」についてみよう。この節は創氏改名についての記述から始まる。
 
「朝鮮史研究の最新の成果によれば、これ〔創氏改名:引用者注〕は近年まで誤って教えられてきたような、朝鮮人や台湾人を日本民族に吸収し同一化させるための同化政策ではありません〔原文ゴチック体、以下同〕――たしかに現地の住民を日本人風の姓名表記に変えさせたのですが、しかしその一方で「本当の日本人にはあまり見ない氏」をつけさせる例が目立つなど、改名後も「もとは朝鮮人(台湾人)であった」ことがわかるような命名を行ったケースが多いためです。
  それでは、いったいなぜ改名させたのかというと、総督府側の力点はむしろ「創氏」の方にありました。朝鮮や台湾の親族体系は近世中国と同じ父系血縁のネットワーク方式ですから、同じ家でも「夫婦別姓」であり、遠方の同姓縁者との紐帯を維持しています――このような社会は、やはり中国近世型の市場中心的で流動性の高い行動様式につながりがちなので、「再江戸時代化」の進んだ昭和日本の統治構造には組み込みにくい。
  そこで、「イエ」を単位として動員をかける近世日本以来の政治権力が支配しやすくなるように、強引に新たな氏を作って父系血統集団を分割・弱体化し、一家の内部では全員同姓にすることが、政策者の主眼だったとみられています(水野直樹『創氏改名』)。いいかえれば、総督府は「同化」というよりも、「江戸時代化」を強制したのです。」(p.191-192)
 與那覇は「朝鮮史研究の最新の成果によれば〔中略〕朝鮮人や台湾人を日本民族に吸収し同一化させるための同化政策ではありません」と断定するが、水野直樹『創氏改名』だけが出典として記されているため、つまり水野が「同化政策ではありません」と言っているということだろう。さて、水野は創氏改名が「同化政策ではありません」などと言っているのだろうか。水野は創氏改名の性格について次のように書いている。
「創氏改名には、もう一つ見落としてはならない側面がある。創氏改名は植民地支配の同化主義的性格を端的に表わす政策ととらえられてきたが、本書で検討したように、同化の側面と差異化の側面が同時にあらわれたものであった。1940年という植民地支配の最終段階にいたっても、支配当局は差異、差別をなくそうとはしなかった。」(水野『創氏改名』岩波書店、p.231、以下特にことわりのない限り、下線は引用者)
 このように、水野は「同化の側面と差異化の側面が同時にあらわれた」とは書いているが、決して「同化政策ではない」とは書いていない。水野によれば、1939年の立案段階で総督府は朝鮮人に「内地人風の氏」をつけさせようとしたが、総督府警務局や在朝日本人の反対を意識して、総督府法務局は「日本既存の氏」の模倣を不可とし、「朝鮮的」な氏――つまり日本風でありながら明らかに朝鮮人であるとわかる氏――へと誘導しようとした。「同化の側面と差異化の側面が同時にあらわれたもの」という評価はこうした事実を前提にしたものだ。

 ちなみに高校日本史や世界史の記述では、創氏改名について「朝鮮では、姓名を日本風に改める創氏改名の実施や神社参拝などが強制された」(『改訂版詳説日本史研究』p.454)、「日本の植民地下の朝鮮でも、民衆を戦争に動員するための皇民化政策がとられ、朝鮮人の姓名を日本式に改めさせたり(創氏改名)、神社への参拝が強制された」(『新選世界史B』東京書籍、p.222)と記されており、これは一面的ではあるが、誤っているわけではない。

 水野自身、創氏改名は「皇民化政策」の典型であり、徴兵制適用の準備であった、また植民地支配の基本方針であるところの「同化」政策を象徴するものであった、という理解について、不十分であるが「間違っているわけではない」と述べている(『創氏改名』p.11-12)。よって、創氏改名は「同化政策ではありません」という断定は、「朝鮮史研究の最新の成果」とは関係のない、與那覇の独創というほかない(*1)。

 さて、さらに問題なのはこれに続く記述である。與那覇は総督府の創氏改名のねらいについて「「イエ」を単位として動員をかける近世日本以来の政治権力が支配しやすくなるように、強引に新たな氏を作って父系血統集団を分割・弱体化し、一家の内部では全員同姓にすることが、政策者の主眼だった」と述べる。 與那覇は犬養内閣以降の日本を「再江戸時代化」したと捉えているようなので(p.176)、この記述を言い換えると、創氏改名とは、1930年代以降の日本の統治構造に組み込みにくい、朝鮮の「市場中心的で流動性の高い行動様式につながりがち」な「父系血縁のネットワーク方式」を改編し、「イエ」を単位とする動員をかけるために総督府が採った政策である、という理解になる。

 この與那覇の理解に欠落しているのは、それでは何のために朝鮮民族を動員する必要があったのか、という問いである。出典とされる水野は創氏改名を行なった総督府のねらいについて次のように記す。
「〔総督府のねらいは:引用者注〕朝鮮的な家族制度、特に父系血統にもとづく宗族集団の力を弱め、日本的なイエ制度を導入して天皇への忠誠心を植えつけることである。/当時出版された解説書は、「従来は一身が宗族に結びつけられたが、今後は『各家族が直接天皇に結びつけられて居る』この理念が第一義となるのである」とその意義を説明している(緑旗連盟)。朝鮮人を兵士などとして戦争に動員するためには、天皇への忠誠心が必要だったからである。〔中略〕朝鮮人を「血族中心主義」から脱却させて「天皇を中心とする国体」の観念、「皇室中心主義」を植え付けること――これが創氏の真のねらいだったのである。〔中略〕明治中期に日本で作り出された「イエ」制度を植民地に持ち込もうとしたのが、朝鮮民事令の改正だったのである。しかし、朝鮮には「イエ」の伝統がなかったため、これを朝鮮人に強圧的に押し付けることによってしか、普及・定着を図ることができなかった。この点に大きな問題、誤りがあったといわねばならない」(p.50-52)
 そして、水野はこうした創氏による家族制度改編と天皇への忠誠心植え付けは、総督府によって「戦争動員の前提条件」と考えられていた(p.216)、と指摘する。つまり、これまでも多くの研究が指摘してきたように、皇民化政策及び創氏改名実行の前提には、日中全面戦争後の対アジア侵略の深化という要因が大前提としてある。そうでなければ、総督府内に20年代から日本的「イエ」制度の朝鮮への移植の声があったにもかかわらず、なぜこの時点で実現したのか、という問いを解けないからだ。

 水野『創氏改名』は従来の創氏改名研究が徴兵制との関連を強調してきたことに対し、その直接的な連関に留保をつける立場であり、本書も家族制度の説明に比重が置かれている。ただ、上でもみたように、「創氏改名」が「戦争動員の前提条件」であることは水野も認めている。しかし與那覇は侵略への動員という側面を一気に捨象し、「昭和日本の統治構造」云々という制度――つまるところ家族制度の移植の問題へと「創氏改名」を解消してしまう。そもそも水野は「イエ」制度を明治中期に日本で作り出されたものと理解しており、制度的側面からみても、近世以来の統治構造(あるいは「昭和日本の統治構造」)の移植であるとはみておらず出典としては不適切なのだが、與那覇は侵略への動員という側面を無視して無理やり植民地期を自らの枠組みに当てはめようとする為、極めて歪んだ歴史理解を披瀝することになる。

 この「創氏改名」の記述は非常に特徴的なのだが、與那覇はこの本で、研究史を乱暴に歪曲し、「最新の成果」なるものの表層部分だけを掬い取って「新説」「常識」として打ち出す、という手法をしばしば採る。「創氏改名」についての與那覇の見解は「朝鮮史研究の最新の成果」を不正確に理解した「独創」というほかないが、それでもこの創氏改名の箇所はまだましな方なのである。次回は植民地支配の「本質」に関する與那覇の議論をみてみよう。

*1 ただし、水野はこの本で、「内地人風の氏名とする」という意味での「同化」と、植民地支配の基本方針であるところの「同化政策」という異なるレベルの概念を同じ「同化」という語によって表現しており、この点は曖昧さを残している。

 「植民地支配の基本方針」という表現を使っているところから、後者の「同化政策」は天皇の臣民化を意味するものと考えられ(武田幸男編『朝鮮史』山川出版社、2000年、p.279)、これは天皇制国家による朝鮮植民地支配固有のイデオロギー及び政策である。しかし、前者の「内地人風の氏名とする」という意味での「同化」は、どちらかといえばもう少し抽象的な社会学的概念として用いているようである。

 本来問われるべきは、こうした天皇制国家固有のイデオロギーである「同化政策」と創氏改名の関連であり、その際、「内地人風の氏名とする」ことを同じく「同化」と表現してしまうと、混乱を招くのではないか。特に、前者のような用い方は、天皇制国家の「同化政策」の固有性を稀釈する方向へと作用するおそれがあり、與那覇のような突飛な「理解」を許す背景には、水野の著書において社会学的「同化」概念が前面に出ていることと関係があるのではないだろうか。


(続)
by kscykscy | 2012-05-06 00:00 | 歴史と人民の屑箱
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