続・金明秀「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」批判

 ZED氏の記事「金明秀という男について」には教えられるところが多かった。なかでも、金明秀氏(以下、敬称略)の議論ではネット右翼や極右政治家は批判できても「より巧妙で悪質な差別主義者や抑圧者」への反撃になりえないという指摘は、正鵠を射たものだと思う。例えば少し前の『朝日』の社説は次のように書いた(「朝鮮学校―無償化の結論だすとき」『朝日』2012.3.3)

「在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)と結びついた学校のあり方にも疑念の声がある。文科省はそうした点にも踏み込み、調査を続けてきた。/その間の議論を通じ、学校側は開かれた教育への姿勢を示しつつある。教科書の記述も改める動きが出てきた。父母の間にも、祖国の「3代世襲」に違和感を持つ人はいる。教室に肖像画を掲げることも考え直す時期だろう。そして、自国の負の部分も教えるべきだ。/多様な学びの場の一つとして認めた上で、自主的改善を見守る。そんな関係を築けばよい。/歴史を思えば、私たちは在日の人たちとその社会をもっと知る努力をすべきだ。/韓流ドラマの翻訳を支えるのは民族の言葉を学んだ在日だ。年末の全国高校ラグビーには、大阪朝鮮高校がホームタウンの代表として3年連続で出た。彼らは北朝鮮だけを背負っているわけではない。生まれ育った国と祖国の間で悩み、揺れながら生きる若者がいる。/なぜ自分たちがハンディを負わされるのか――。政治の動きに巻き込まれ、生徒たちは苦しんできた。アウェーの寒風をいつまでも浴びせてはならない。」 

 『朝日』は「その間の議論を通じ、学校側は開かれた教育への姿勢を示しつつある」と書いているが、事実の問題として、この間あったことは「議論」ではない。就学支援金と補助金をダシにした政府、国会議員、知事、都道府県議会議員とマスコミによる恫喝である。朝鮮学校と文科省が対等の立場で「議論」する場が設けられたことは一度も無いにもかかわらず、『朝日』はこの間の恫喝を「議論」と強弁して、そろそろ「無償化」を適用したらどうか、と主張している。しかも「自主的改善を見守る」と、以後の教育内容の監視まで宣言している。

 繰り返しになるが、この二年間の朝鮮学校への教育干渉に責任を負っているのは『産経』や極右政治家だけではない。『朝日』も、朝鮮学校の教育内容の修正をもって無償化の条件とする点では極右と同一の立場に立っている。問題は、文科省は各種学校の外国人学校も就学支援金の対象とすると言っておきながら、なぜ朝鮮学校だけ「学校のあり方」を調査するのか、であり、問われるべきは文科省の行為の違法性である。にもかかわらず、朝鮮学校の「法令違反」が云々されている。

 この点を一切問わず、暴力的な恫喝を「議論」と言い換え、教育内容への干渉を実質的に肯定しながら、上から目線で「無償化」が適用を促す(それも「北風と太陽」を連想させる比ゆを用いて)。『朝日』は朝鮮高校生への「無償化」適用が争点となった当初から、このラインで主張を展開し続けた。『朝日』はZED氏のいうところの「より巧妙で悪質な差別主義者」の典型といえよう。自らの立場の脆さをそれなりに自覚している文科省は、朝鮮高校生を全面的に排除する理屈が容易に見つからないため、知事が「法令違反」を探し出すのを待ちながら「審査中」という方便を繰り返している。よって、右派が騒ぐことにより朝鮮学校の教育内容や朝鮮総連との関係という虚偽の争点が注目されるのは、文科省にとっては大変都合がよい。

 こうした状況を踏まえるならば、金明秀の主張の問題は明らかである。金は『朝日』の論理を朝鮮人側から語りなおすことを促しているのである。むしろ、『朝日』ですら使っていない「朝鮮学校は日本の国益につながっている」というレトリックを用いており、金のほうがより踏み込んでいるともいえる。金の議論は全く新しいものではなく、むしろ『朝日』のような「より巧妙で悪質な差別主義者」の議論に沿うものである。これは文科省にとっては大変都合がいいため、運動戦略という観点からも全く有効でない。

 ちなみに、前回の記事で私は金のいう「リスク社会」云々はハッタリであると書いた。理由は金のベックからの引用はほとんど意味がないからだ。確かにベックは「危険社会」がスケープゴート社会への内在的な傾向を含んでいると指摘しているが、その際に、「他者」の側が「リスク・コミュニケーション」をする必要があるなどとは一言も書いてない。金のベックからの引用はすべて『危険社会』からのものだが、そもそも「リスク・コミュニケーション」なる語自体が『危険社会』には登場しない。よって私はベックへの言及はその社会科学的分析を前提にするためではなく、自らの主張を粉飾するためのハッタリと判断した。エッセイは金の地の文章として読めばそれで十分である。

 さて一方の金はというと正面から反論するわけでもなく、ツイッターで断片的な弁明を続けている。自分を批判したら朝鮮学校の子どもたちにとばっちりがいくぞ、と言わんばかりの恫喝つぶやきには、率直に言って嫌悪感しか抱かないが、それでも反論らしきものが書いてあるのは、あるフォロワーが金に「お気持ちはよく分かるのですが、在日が「国益」になる/ならないという判断の下に置かれるということは、いつでも恣意的に”ならない”に振り捨てられるということでもあり、「認識フレームを転換する」ことにはならないのでは」というまっとうな質問をしてからだ。この質問は基本的に私の金への批判と同じ理屈である。以下はその問いへの金の反応である。

https://twitter.com/#!/han_org/status/156351008631554048
「3つの観点からお答えします。一つは、外国籍住民はつねに/すでに「国益になる/ならない」という判断にされされてきたということ。在日の場合、恣意的に「国益にならない」と規定されてきたのはデフォルトです。ならば、それを前提に戦略を立てるべきだという話。 @unspiritualized」

https://twitter.com/#!/han_org/status/156352461119045632
「もう一つは、短期的な運動課題と中長期的な運動課題とを弁別すべきだということ。ナショナリズムを超克する制度の創出によって問題を根本的に解消するという理想も数十年スパンの課題として考えるべきでしょう。でも、現状でやれることも推進すべきです。 @unspiritualized」

https://twitter.com/#!/han_org/status/156354131387367425
「最後に、運動のターゲットの問題。「フレームを転換する」というとき、国家による外国人政策のフレームも問題となりますが、個々のマジョリティの認識フレームも同様に重要です。前者は法律を盾に改善を迫ることもできますが、後者は理詰めだけでは動きません。 @unspiritualized」

https://twitter.com/#!/han_org/status/156369577893298177
「もともと、日本人読者のうち、「国益」レトリックの適用自体に違和感を覚えるような方や、損得抜きに同じ住民だという実感を持っている方は、あのエッセイの直接の想定読者ではありませんでした。 @unspiritualized」

https://twitter.com/#!/han_org/status/156370926978605058
「ただし、「国益」レトリックに次のようなメタメッセージは込めました。(1)朝鮮学校の生徒たちは《国家の敵》として人権侵害にあっている。(2)在日は《国家の敵》でないことを主張せざるをえないところに追い込まれている。その不正義を許容できるのか。 @unspiritualized」

https://twitter.com/#!/han_org/status/156373673744400384
「エッセイにも書いたとおり、「その移民集団が当該社会の利益になっている」という理解は、多くの国で排外意識を引き下げているという証拠があります。また(続く) @unspiritualized」

https://twitter.com/#!/han_org/status/156374397270237185
「ぼくがあのエッセイに込めたメタメッセージの一つは、「マジョリティである自覚を持て」というものでした。根拠のない不安によってスケープゴートを不法に排除したり、踏み絵を踏ませたりする特権を持つ立場だと。(続く) @unspiritualized」

https://twitter.com/#!/han_org/status/156375254405627905
「そのために、使用する用語も、分析視角も、意図的にマジョリティ目線をたどったつもりです。日本人の特権性をマジョリティ目線で可視化するという拙い意図が成功したかどうか、まあ怪しいところではありますが。 @unspiritualized」

https://twitter.com/#!/han_org/status/156377721595891713
「結局、あれかな。あのエッセイもメタメッセージを込めすぎた失敗例だろうか。意外と文脈が共有されないな。」

https://twitter.com/#!/han_org/status/156380318302093312
「「国益」レトリックは、国家の犠牲になっている現実を可視化するためのカウンターとして用いたものですが、「国益につながらなければ排除してよい」という反応は別途、問題化されなければなりません。 @unspiritualized」


 大変わかりづらい「つぶやき」である。おそらく大意は、①在日は「国益になる/ならない」という判断にさらされてきた。よってそれを前提に戦うべきである、②「ナショナリズムを超克する制度の創出によって問題を根本的に解消する」のみならず、短期的には「現状でやれることも推進すべき」である、③国家による外国人政策のフレームは「法律を盾に改善を迫ることもでき」るが、「個々のマジョリティの認識フレーム」は「理詰めだけでは動」かない、の三点ということになるだろう。

 これは基本的にエッセイで金が書いたことの繰り返しである。すなわち、在日朝鮮人は「国益になる/ならない」という「認識フレーム」を前提に戦うべきであり、それが有効だ、というものだ。よって、フォロワーの「在日が「国益」になる/ならないという判断の下に置かれるということは、いつでも恣意的に”ならない”に振り捨てられるということでもあり、「認識フレームを転換する」ことにはならないのでは」との疑問に対しては、「認識フレームを転換する」必要はありませんし、そもそもすぐにはできません、というのが金の回答になるはずである。

 しかし、一方で金は、私の批判への弁明として「あのエッセイで最も重要な論点は、認識のフレームを転換するような運動が必要だということ」「「朝鮮学校は日本の国益になる」というレトリックがネトウヨの認識フレームを揺るがす効果を持っているというだけ」とも述べている。しかし、「朝鮮学校は日本の国益になる」というレトリックは、「国益になるなら無償化してやる」という「認識フレーム」を前提にしている。「国益にならない」と思ってる「ネトウヨ」に、いや国益になるよ、と言い返すことが「認識フレームを揺るがす」ものではないことは明らかである。金は「国家の敵」云々の箇所でも「その不正義を許容できるのか」と結論をぼかして書いているが、これはおそらく「その不正義を許容して、それを前提に戦うべきだ」と書いてしまうとあからさまに卑屈であるため言いづらいが(実際には金の主張は卑屈なのだが)、「その不正義を許容すべきではない」と書くと自らのエッセイと矛盾することになるからだろう。

 こうした明らかに矛盾したメッセージを読者に示しているにもかかわらず、金は「あのエッセイもメタメッセージを込めすぎた失敗例だろうか。意外と文脈が共有されないな」と読者に責任転嫁する。だが、以上みたように金のエッセイとその後の弁明が「理解」されないのは、読み手の責任ではない。金の主張が支離滅裂だからである。真面目に金のエッセイと「つぶやき」に付き合っている読者に失礼である。

 
 ちなみに金は、徐勝氏の「東アジアの諸民族や朝鮮民族の奪われた諸権利の回復こそが、われわれの「正義」であるので、歴史的、現在的日本の加害を問わない、日本国民国家の枠組みの中での「多文化共生論」や「在日論」などは、抑圧者の論理と支配に加担する犯罪行為だとさえいえる」という指摘に対し、「そう、これぞまさに正論。たとえ同種の言説に聞こえようとも、左翼ナショナリズムの枠内から発せられるそれとは根本的に異なる。」「民族的マイノリティにとっての左翼ナショナリズムって麻薬のようなものだね。安定的な貴族の物語に酔っぱらい、実態とのかい離を冷静に見つめる視座をマヒさせる。しかも、祖国ナショナリズムに準拠しながら居住国ナショナリズムを撃つという矛盾にも気づかなくなる。」 とつぶやいているが、金のエッセイは「日本国民国家の枠組みの中での「多文化共生論」や「在日論」」の典型である。自らの主張が「犯罪行為」と名指されているのにそれに気づかないのは喜劇である。

 今回の件もそうだが、金は問いに対して正面から答えようとせず、批判者にレッテルを貼ることで批判の陳腐化を図る傾向がある。実はこのブログで金に言及したのは今回が初めてではなく、以前にも一度宮台真司の問題と関連して触れたことがある(戦後日本政府の在日朝鮮人「政策」と強制連行問題)。

 その時私は、宮台が、日本政府がこれまで現存する在日朝鮮人の大多数は強制連行による被連行者及びその子孫であるという「図式」に基き「在日政策」を立ててきた、という驚愕の新説を主張したことに触れ、金がなぜ宮台がこの主張を取り下げていないにもかかわらず和解したのだろうか、と書いた。これに対し、金は「ありゃ、kscykscy氏に誤解されておる。ちょっと凹むなぁ。その「驚愕の新説」を取り下げたので「矛をおさめて和解した」のだけど…。」とあたかも私が「誤解」したかのようにつぶやいた。

 しかし、少なくともネット上にある文章を見た限りでは、宮台は、日本政府がこれまで現存する在日朝鮮人の大多数は強制連行による被連行者及びその子孫であるという「図式」に基き「在日政策」を立ててきた、という認識を誤りとは認めておらず、私は誤解だとは思っていない。もし誤解というなら証拠を示すべきだろう。以前は面倒だったのでわざわざ書かなかったが、いい機会なのでこの場を借りて付言しておく。
by kscykscy | 2012-04-01 00:00 | 朝鮮学校「無償化」排除問題
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