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徐京植を読み直す――「反動的局面」と現在(2)

3.在日朝鮮人とは誰か

 もう一つ「反動的局面」の頃と比べて微妙な違いがあるのは、「在日朝鮮人とは誰か」の定義である。例えば、97年の文章で徐は次のように記す。

「私は、「在日朝鮮人」を「日帝の植民地支配の歴史的な結果として旧宗主国である日本に住むことになった朝鮮人とその子孫」と規定している。在日朝鮮人が①「少数民族」一般とは異なり、「本国」をもつ「定住外国人」であること、②「移民およびその子孫」一般とは異なり、その定住地がほかならぬ旧宗主国であること、この二点を明確にするためにこのような規定をしているわけである。このことに加えて、在日朝鮮人は、③本国が南北に分断されており、④その本国(とくに「北」)と日本とが分断されているという、ヨコにもタテにも分断された存在であり、そうした分断線を個々人の内部にまで抱え込まされた存在であると言えるだろう」(「「エスニック・マイノリティ」か「ネーション」か」、『半難民の位置から』153頁〔初出は『歴史学研究』増刊号、1997年10月〕

 対して新著では次のように定義する。

「在日朝鮮人とは誰かを定義しようとすれば真っ先に、それは「日本社会のマイノリティである」〔太字は原文ママ〕であるということができます。
マイノリティminorityというのは「少数者」という意味の英語で、その反対の「多数者」はマジョリティmajorityです。ひとつの社会の中で、無視されたり、低く見られたり、さまざまな不公平を押しつけられたりしているのに、その存在がマジョリティにあまり知られていない人たち、社会的に力の弱い人たち、それがマイノリティです。
 ここでまず言っておきたいことは、マイノリティについて知ることはマジョリティについて知ることであり、在日朝鮮人について考えることは、日本という社会、そして、多数者である日本人自身について考えることだということです。在日朝鮮人の歴史は、日本人にとって「他人」の歴史ではありません。日本という国が直接に関わってつくりだした歴史であり、いうならば日本自身の歴史です」(8頁)
 「在日朝鮮人の多くは、こういう事情〔日本の朝鮮植民地支配:引用者注〕で日本に住むことになった者とその子孫です。在日朝鮮人は日本にいる外国人(在日外国人)の一部ですが、他の在日外国人とは違う特徴があります。それは、
(1)過去に日本が植民地支配した人々だということ、
(2)その人々はかつて「日本国民」だった、ということです。
きちんと定義すると、「在日朝鮮人とは日本の植民地支配の結果として日本に居住することになった朝鮮人とその子孫である」ということになります」(10-11頁)


 新著は真っ先に「日本社会のマイノリティ」と定義し、その上で植民地支配の問題を語る。97年の定義にある①②は若干力点が変わり、③④については言及が無い。97年の文章は在日朝鮮人の未来像を「エスニシティ」として描こうとする金賛汀や文京洙の「在日論」を批判し、他方で「内政不干渉」を掲げて日本の市民運動に関わろうとしない朝鮮総連などの「在日民族団体という小「ネーション」」を批判、在日朝鮮人の独自の「ネーション」構想を論じたものだ。末尾に次のような指摘がある。

「「国民」を近代国民国家という政治共同体の「主権者」ととらえた場合、全地球を覆う現在の国民国家システムのなかで、主権からたえず排除されてきた旧植民地の人びとが自らを「主権者」に形成しようとすることは当然かつ正当な要求であるといえよう。こうした要求は、文化本質主義的な「国民」観念に呪縛されているためでも、「民族自決というイデオロギー」を無秩序に「信仰」しているためでもなく、旧植民地出身の人びとが現在も差別構造の中に置かれつづけているという事実そのものによると考える。どれほど「民族」という観念が否定されようと、民族の別による差別が現実に存在し、かつ再生産される構造がある限り、どのような形態であれ、「われわれ」意識がなくなることはない。こうした構造、つまり「われわれ」意識の「下部構造」にこそ着目しなければならない。
 一方では本国と居住国の二重の拘束のもとに置かれながら、他方では同時に、たえず両者の外側へと排除されている在日朝鮮人は、そうした独自の立場から、自らにとっての「ネーション」を構想することが必要となるのである」(「「エスニック・マイノリティ」か「ネーション」か」175頁)


 ここでは安易な国民国家相対化論を排しつつ、既存の分断国家へと包摂されるだけではない「ネーション」構想の試みが宣言されている。だが、新著には次のような記述になっている。

「「自分は何者なのだろうとたえず悩み続けている存在、それが在日朝鮮人だ。マジョリティにそんな悩みはない。しかし、マイノリティの悩みには貴重な意味がある。それは、国家というものを超える次の時代を見とおす人間がもつ悩みだからだ。在日朝鮮人とは、国やマジョリティの横暴に服従しない人間のことだ」
 現在のような国(近代国家)の形ができるはるか以前から人間は生きてきました。近代国家のもつ問題点が極限まで発揮されたのが植民地支配、差別、虐殺、そして戦争だといえます。おそらく近代国家の時代が終わった後にも人間たちは生きつづけていくでしょう。それがどういう時代になるのか、どういう時代であるべきなのか。近代国家の時代を被害者として経験してきた者(在日朝鮮人のような存在)は、そういう未来の姿を人類全体に提案する位置に立たされているのです。つらいことですが、やりがいのあることでもあるでしょう」(223頁)


 ここでは国民国家から排除されたマイノリティ=在日朝鮮人が、近代国家を超える未来の姿を提案する位置にある、とされている。「マイノリティ」に力点が置かれ、「ネーション」は言葉としても登場しない。

 実際新著で徐が、在日朝鮮人はなぜ日本国籍を取得しないのか、という問いに答える箇所(157-169頁)は大変歯切れが悪い。ここでは帰化行政の差別性が指摘されるのみで、なぜ自らが韓国国籍を維持するのかへの言及が無い。読者の疑問としては、では帰化行政が改善されれば国籍を取得するのか、という問いが浮かぶし、その際は韓国国籍維持の理由を説明する必要があると思うが、その点は避けている。かわりに、新著は朝鮮籍について「無国籍」という文脈で言及するケースが目立つ。

 現在ほとんどの在日朝鮮人は韓国籍であるし、統計的にも朝鮮籍からの帰化よりも韓国籍からの帰化のほうが圧倒的に多いのであるから、韓国籍者としてなぜそれを維持するのかを説明することは、在日朝鮮人中学生も読み手に想定されている以上、必要なことだったのではないだろうか。私はこの点については、徐の論理が97年とは異なり国民国家相対化論へ傾斜しているため韓国籍維持の論理を見出し難くなっており、その代わりとして国民国家相対化論と親和的な「無国籍」=朝鮮籍への言及が増えているのではないかと考えている。これは「ネーション」への言及が無い事と同種の問題であろう。

4.結び

 ネットの感想しかわからないが『在日朝鮮人ってどんなひと?』は評判がいいようだ。私も悪い本だとは思わないが、『分断を生きる』や『半難民の位置から』などの頃の徐京植の文章とは随分違いがある。最も良質の部分が色あせている。

 冒頭に述べた「「普遍主義」の暴力」に対する緊張感が弱まっているように思えるし、何より「日本人としての責任」論と「ネーション」に関わる論点に関して、国民国家相対化論/エスニック・マイノリティ論へと著しく傾斜している感がある。構成主義的国民観による免責論(③)への批判が弱いのも同じ文脈であろう。「反動的局面」では徐の批判対象であった③の人々は、むしろ新著ではその好意的な読者になりうるようなつくりになっている。もしかしたら、③の批判を避け、かつ「ネーション」について多くを語っていないことこそ、評判のよい理由なのかもしれない。

 だが、「反動的局面」はいまもなお続いている。それどころか、2000年代に国内の対抗的言説がなくなり「反動」の必要すら無くなっているのではないか。私は今こそ、90年代の徐の著作が読み直されるべきだと思う。大きなお世話かもしれないが、新著で関心を持った人はぜひ90年代の著作を読むことを勧める。
by kscykscy | 2012-02-16 00:01
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