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徐京植を読み直す――「反動的局面」と現在(1)

1.はじめに――福島は「奪われた野」か

 最近、1995-2000年頃の徐京植の文章を読み直している。改めて読んでみて、やはりこの頃の徐の文章は緊張感に満ち、情況分析としても示唆に富んでいると感じる。例えば、98年に書かれた次の文章。

「植民地支配全体の責任を認めないということは、旧植民地宗主国が共同で張っている最後の防御線だということをとくに付け加えておきたいと思います。現在はまだ戦争犯罪という線に下がることさえ拒もうという動きとの鬩ぎ合いの最中ですが、それを突破した後も、さらにこの防御線が待ちうけている。そのなかで、1965年に結ばれた日韓条約が日本の植民地責任をあいまいにしたかたちで終っているという状況を、朝鮮人の側から変える、そのような「別の朝鮮」、それから朝鮮民主主義人民共和国と日本との国交交渉が進められていくときに、この問題[植民地支配責任]については絶対にゆるがせにしないという、その朝鮮、これが私のなかに構想されている「別の朝鮮」の重要な要素です。それと同時に日本が朝鮮植民地化を進める過程で日本と朝鮮との間で韓国併合条約にいたるさまざまの条約が結ばれていたからという形式的法理論は論外として、これを見直していくときに植民地支配全般について、日本国家がその不法性を認める、日本国民がそれを認めるという、「別の日本」が力強く構想されていることを、ぜひ求めていきたいと思います」(「民族差別と「健全なナショナリズム」の危険」、『半難民の位置から 戦後責任論争と在日朝鮮人』影書房、2002年、55頁〔初出は『ナショナリズムと「慰安婦」問題』青木書店、1998年〕)

 全く同感である。率直に言って、私がこのブログでこれまで書いた文章は、基本的に徐のこの指摘を反復しているに過ぎない。

 だが、最近の徐の文章には残念ながら違和感を覚えることが多い。韓国の日刊紙『ハンギョレ』(2012.2.9付)に掲載されたコラム「李相和の「奪われた野」と福島」(日本語訳はこちら)もそうだ。

 これはソウルで開く福島についての写真展に「奪われた野にも春は来るか」というタイトルをつけたらとの提案について考えた文章だ。「奪われた野にも春は来るか」とは李相和が1926年に書いた詩である。徐はこれについて次のように書く。

「かつて朝鮮人の土地を奪ったのは日本帝国主義であった。 それと今自国政府と企業によって土地を奪われた福島を同じ次元で話しても良いのだろうか? 植民地支配と原発災害を同一平面上に置くことにより、そうでなくとも植民地支配の責任に対する自覚のない日本国民に誤った認識を持たせるのではないか?
 私はそのような疑問を抱いてもう一度その詩を読んでみた。
〔中略〕
 この詩で福島を表象することにどのような意味があるだろうか。私はそこに積極的な意味があると考えるようになった。「春は来るか」という問いは、「春は必ず来る」という根拠の無い未来志向的な標語ではない。季節としての春が巡り、花々が咲いたとしても、何か決定的に損傷されたということ、「春すら奪われるのか」というのがこの詩の重要なポイントである。
 日本政府と東京電力の説明ですら、原子炉廃棄まで40年の歳月がかかるという。その時は放射能は引きつづき拡散されるだろう。一方、汚染除去は技術的に困難であり莫大な費用がかかる。むしろ汚染された土地を放棄し移住を推進しなければならないという専門家の指摘もある。放射能被害は目に見えず匂いもしない。しかしそれは未来の何世代にもわたり健康と生活に引きつづき決定的な損傷を与えるだろう。健康被害を確認できるようになるには、今からさらに何年も経たねばならない。それが原発被害の本質だ。であるならば「併呑」されて100年が過ぎた今も植民地支配による損傷が朝鮮民族全体の生活に決定的な影響を引きつづき及ぼしている事実と共通点があるといえる。
 福島と李相和の詩を連結させることは、朝鮮人たちに福島の苦悩に対する想像力を発動させる助けになる。そしてそれが日本国民が朝鮮人らに与えた植民地支配の傷がどれほど深く、その責任がどれほど重いのかの想像力を発動する機会を提供するならば、李相和の詩をコンセプトとするのに問題はない。」


 苦しい説明だと思う。何より「植民地支配と原発災害を同一平面上に置くことにより、そうでなくとも植民地支配の責任に対する自覚のない日本国民に誤った認識を持たせるのではないか?」という自身の問いに答えていない。事実として福島は植民地ではないし、仮に「何世代にもわたり健康と生活に決定的な損傷を与える」という「共通点」があるとしても、日本人がそこから朝鮮植民地支配への想像力をわざわざ発動させるかは疑問である。

 むしろその「共通点」の抽出は、徐自身が批判してきた「「普遍主義」の暴力」とどう違うのだろうか。以下は97年の鵜飼哲との対談での徐の発言である。

「「われわれはみんなユダヤ人だ」というのは、六〇年代でも、いかにもフランスならではのスローガンだと感じますね。ちょうど同じ頃、日本では逆に、六五年の日韓条約反対運動やベトナム反戦運動、入管法反対闘争などを経て、日本と朝鮮と中国との異質性を認識するというプロセスがきわめて不充分ですが始まっていた。つまり、互いの異質性、当時の言葉でいうと「立場性」ということがつねに意識されるようになってきていました。ただし、四半世紀後の今日、日本人は全体としては、そうした「立場性」の認識に失敗したと言うほかないのが現実ですが。
 ともあれ、そうした異質性の認識という段階をくぐり抜けて、もう一度、共通の場所で互いが向かいあえるような文法を獲得しなければならないという意識が、私にはあります。そうでなければ、悪しき文化相対主義の罠におちることになりかねない。だから、私はその限りではランシエールに賛成ですが、ただ難しいのは、そうした言説が絶えず暴力的な「普遍主義」によって盗用されるという、今日ますます明らかになってきた構造です。」(鵜飼哲・徐京植「あらゆる扉を叩く」、徐京植『新しい普遍性へ 徐京植対話集』1999年、244頁〔初出は『影書房通信』15号、1997年6月20日付〕)


 福島=「奪われた野」という等式は、徐がここでいう「暴力的な「普遍主義」による盗用」を助長するものとしか思えない。以前にも書いたが、最近の徐の文章は90年代の自らの主張から離れているように読める。最近出版された『在日朝鮮人ってどんなひと?』(平凡社、以下新著と略す)はこの差異が典型的なかたちで現れているので、以下検討したい。

2.「日本人としての責任」をめぐって

 徐は2000年の文章で、94年以降の日本の政治状況を「証言の時代」の「反動的局面」と位置づけている(「「日本人としての責任」再考――考え抜かれた意図的怠慢」、『半難民の位置から 戦後責任論争と在日朝鮮人』影書房、2002年、93頁〔初出は『日本軍性奴隷制を裁く――2000年女性国際戦犯法廷の記録 第二巻』緑風出版、2000年〕)。91年の金学順さんら証言者たちの日本への責任追及に対し、「自虐史観」批判の名の下にバックラッシュが吹きあれたことを指したものだ。

 この「反動的局面」に対峙した徐の議論の特徴は、①「つくる会」や小林よしのりに代表される歴史修正主義的免責論への批判や、②「日本人の誇りの回復/日本の国益のために謝罪すべき」という偽りの謝罪論への批判に加え、③構成主義的国民観に立って「日本人としての責任」から逃れようとする上野千鶴子や西川長夫を徹底的に批判したところにあった。特に③の知的装いをこらした悪質な免責論は一見バックラッシュに対抗しているようなポーズを取っていたため、実際には「反動的局面」を支えていたにもかかわらず、驚くほど批判が少なかった。徐はその数少ない批判者だった。例えば、次の文章を読んで欲しい。

「上野〔千鶴子:引用者注〕氏は「新しい歴史教科書をつくる会」の「国民的プライド」回復の欲望は「国民のあいだに集団的アイデンティティをうちたてたいという欲望と同一のものだ」と指摘したうえで、こう続ける。「そこでは国民国家と自分の同一化、『国民の一人としてのわたし』および『わたしたち』への誘惑と強制がある。このなかには、『加害国民の一人としてのわたし』も含まれる。が、それもまた国民国家と自分の同一化にもとづいている。そして国民国家と個人とのこの同一化を、わたしたちはナショナリズムと呼ぶ」
 このような定義を適用して、上野氏は、橋爪説も高橋説もともにナショナリズムであるとみなすのであろう。だが、それは乱暴というものではないか。
〔中略〕
 この文章の前半で述べたように、私は自分の「韓国人としての責任」を認めるものだが、その理由は、私が「国民の一人としてのわたし」という幻想にとらわれて、自分と韓国という国家とを「同一化」しているからではない。そうではなく、国家のほうが私を「国民の一人として」拘束しているからなのだ。国民国家と自分との分離を欲望するのであれば(私もそれを欲望する者のひとりだが)、国家が自分を拘束しているという現実から目を背けるのではなく、その現実そのものを変革していく以外にないのである。付け加えて率直に言わせてもらえば、日本社会においては「加害国民の一人としてのわたし」という観念の過剰が問題なのではなく、その過少が、そして、その内実の空虚さこそが問題だと私は考えている」(「「日本人としての責任」をめぐって――半難民の位置から」、『半難民の位置から』79-80頁、初出は『ナショナリズムと「慰安婦」問題』青木書店、1998年)

「私は、文化的な本質としての「日本人」なるものとか、民族的なエッセンスとしての「日本人」とか「国民性」という議論には与しません。したがって、そういう「実体」に絡め取られる「主体」は危険だと考えます。しかし、特権や既得権の政治共同体としての日本国家はあり、その成員としての日本国民というものはある。戦争当事者でない世代の日本人にも、たとえ直接の罪意識はなくても、私はやはり「恥」以上のものを感じるべき責任があると言いたいのです。
 日本という国がかつての収奪や殺戮の上にインフラ整備や資本蓄積をやり、日本国民はありとあらゆる特権、経済的だけでなく文化的特権を享受している。後の世代も、日高六郎先生の言葉で言うと「負の国民性」を自覚すべきだし、そのような角度からこそ責任を引き受ける日本人の主体性というものがいま一度ここで問題にされなければならない。そしてそれを問題にする角度は、和田さんの方向や加藤さんの方向ではなく、「死」そのものを回収する装置としての象徴天皇制とどのように向き合うのか、それをどのように否定することによって自らの主体性を打ち立てるか、ということに尽きるだろうと思います。この点を曖昧にした「日本人の主体」論は、ことごとく「危険な主体」へと流されていくことでしょう」(徐京植「空虚な主体と危険な主体」、『分断を生きる 「在日」を超えて』影書房、1997年、192頁〔初出は『国民文化』444号、1996年11月25日付〕


 一方で本質主義的な国民観(①②)を批判しつつ、同時に「国民の一人としてのわたし」を拒否し責任を負うことを避ける主張(③)も批判する。それどころか、両者が相互補完関係にあることを指摘する。これが「反動的局面」における徐の論理であった。

 だが、近年の徐の著作はこの③の論点についてトーンダウンしている印象を受ける。例えば、新著で徐は「他者とともに生きる社会」をつくる条件として「1.事実(歴史を含めて)を知る」に加えて、次の条件を挙げる。

「2.個人と国を同一化しない。
 日本国や日本政府が批判されると、それを自分への非難だと感じる人がいます。それは、国や政府と自分が心理的にくっついているからです。知らず知らずのうちに、人が国に自分を代表させているのです。
 あなたという人間と国とはイコールではありません。国はあなたを守ることもあるけれど、あなたを傷つける、害することもあります。国と自分を同一化しては、自分で事実を知り、考え、自分の立場を決めることはできません。」(63頁)


 また、「過去の植民地支配はもう仕方がないのではないだろうか。日本だけが責任者ではないはずだ。日本も加害者であるとともに、被害者でもあるのだ。〔中略〕私たち日本人も、生活がかかっているのだ」という大学生の質問に対し、次のようにコメントする。

「被害者は「日本だけが責任者」だと責めているのではなく、日本政府の責任を事実どおりに認めるよう求めているのです。
〔中略〕
 しかし、もっと大きな問題だと私が思うことは、先ほどアイデンティティについて述べたように、この人が「日本」と自分を一体化してしまっていることです。被害者はこの人を非難しているのではありません。日本政府に対して、過去の日本国の行為についての謝罪と補償を求めているのです。それが、この人にとっては自分自身への非難に聞こえるようです。どうしてでしょう?この人自身も日本国によってさまざまな被害を受けることだってありうるというのに。むしろ、被害者と連帯して日本政府に反省を促し、アジアの諸民族と和解して平和に共存していくことのほうが、この人にとっても幸せなのに、なぜそこまで国家と運命を共にしようとするのでしょうか?」(228-229頁)


 「個人と国を同一化しない」という条件は、①②への批判としては有効だが、③への批判にはなっていない。というよりも、このままだと③と親和的ですらある。

 ここでの論点は「日本人としての責任」をどう考えるかだが、特に90年代に論点となったのは「戦後世代の戦争責任」だった。つまり、戦争当事者でもないのに、なぜ責任を追及されねばならないのか、という「若い世代」の居直りにどう応じるのか、という問題である。これについて徐は98年の文章で次のように指摘する。

「私は学生によく尋ねますが、あなたはその鹿島建設に就職しないのか。その下請け、取引先、メインバンクに就職しないか。あなたがそこに就職した時、鹿島の企業責任を問う覚悟はあるのか。言うまでもなく、就職するという分りやすい関係だけではないですね。あなたの属している自治体が鹿島に発注しているのではないのか、鹿島に利益をもたらしているのではないか。鹿島というのはたんなる例ですが、日本の旧財閥系企業や今日の大手ゼネコンはほとんどすべてが植民地支配と戦争で大きな利益を得た。そこで行なわれた本源的蓄積とインフラ構築の土台のうえに戦後日本の繁栄があり、あなた方のひとりひとりはその受益者ではないのか。その特権の構造のなかにいるのではないかということなのです」(「民族差別と「健全なナショナリズム」の危険」49頁)

「さて、国家に補償責任をとらせていくときに個々の国民はどういう立場に立つか、もうこれは先ほど言ったことの繰り返しに過ぎませんけど、個々の日本国民は現在の国家の政治意思の決定にかかわっているわけです。主体的にかかわっていると言えるし、それによって拘束されているとも言えるわけですね。日本の国家を変えていく一義的な責任者はあなた方日本人なんですよ。あなた方の払った税金が使われているし、あなた方が選出した議員たちが政策を決定しているのです。その国家と企業と日本国民とが過去の共犯関係をそのまま持ち越して現在もその利権を維持しているのではないか、というのが私が繰り返し強調している疑いなんです。」(「民族差別と「健全なナショナリズム」の危険」53頁)


 戦後日本の特権の受益者であり、日本政府が責任を果さないことを主権者として放置している以上、戦争当事者でない若い世代にも「日本人としての責任」はある、という明快な議論である。

 だが新著ではこの点について若干ニュアンスの異なる記述になる。

「若い人たちがこのような考えをもつ背景には、身に覚えのないことで被害者たちから非難されているという感覚をもってしまったことがあると思います。植民地支配や戦争の時代を生きた人たちにとっては身に覚えのあることでも、若い世代はそれを教えられていないからです。冷静に考えてみれば、若い世代を脅かしているのはアジアの被害者たちではなく、侵略戦争や植民地支配をしておきながらきちんと後始末しないままに居直っている上の世代なのですが、そのことを認識することが難しいようです。
 このとき、直接の当事者である世代が自分たちの過去の行為を率直に認めて、「申しわけないが、自分たちの世代が残したマイナスの遺産がここにある。それをいっしょに担ってほしい」と若い世代に頼むことがこの問題の唯一の解決法です。しかし、上の世代は若者たちに歴史の真実を教えず、その結果彼らが抱いた「身に覚えのない非難」という感情をいいことに、むしろその感情を利用して自分たちの正当化をはかっていると私は見ています」(230頁)


 戦争当事者である「上の世代」が「若い世代」に「マイナスの遺産」を共に担おうと促さないこと、歴史の事実を教えないことを問題としているが、「若い世代」が「日本人としての責任」の当事者であるとは言っていない。徐がこの主張を放棄したかどうかまではわからないが、ここでも③に関わる論点に触れていないといえる。

(続)
by kscykscy | 2012-02-16 00:00
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