再論・1948年の民族教育弾圧について――前田年昭氏の反論に答える

 前回の記事「1948年の民族教育弾圧について――前田年昭氏への疑問」に対して、前田氏が自身のブログに反論を掲載している(「阪神教育闘争再論 kscykscyさんの批判にこたえて」参照)。早速の回答に謝意を示したい。

 しかしながら、前田氏の回答によっても私の疑問は氷解するには至らなかった。なおも前回の記事で提起した疑問は未解決のままに残っているといわざるを得ない。氏の回答を参照しつつ、1948年の民族教育弾圧及び民族教育擁護闘争について以下に再論することにしよう。

 まず論点を整理しておこう。「吉田政府」の部分については訂正していただいたため、再論する必要はあるまい。ここで取り上げるべき論点は「日本人と在日朝鮮人は肩を組んで阪神教育闘争を闘い,〔学校閉鎖令を:引用者注〕撤回させた歴史」という表現は、事実として妥当なのかという問題である。さらに、この論点は「日本人と在日朝鮮人は肩を組んで阪神教育闘争を闘い」という表現の妥当性、すなわち1948年の第一次教育弾圧の際に日本人側の充分な朝鮮民族教育擁護闘争があったとみてよいのかという点(仮に論点Aとする)と、1948年1-5月の民族教育擁護闘争の結果、学校閉鎖令を「撤回させた」とみなしてよいのかという点(論点B)に分けて考える必要がある。前回記事では私の方でも特に論拠を示しておらず、説明不足であったと思う。今回は煩瑣を厭わず詳述したい。

 都合上、論点Bから先に触れよう。前田氏は「1948年の阪神教育闘争は,兵庫県で4月28日に知事が「閉鎖令を撤回」,大阪府では6月4日,大阪朝鮮人教育問題共同闘争委員会と知事が覚書を交換した」と記しており、兵庫における「4月28日」の学校閉鎖令撤回の事実をもって、私の疑問への反論としているようである。

 だがここには事実認識の誤りがある。そもそも学校閉鎖に反対する在日朝鮮人側代表と岸田幸雄兵庫県知事らが兵庫県庁において直接交渉を持ち、学校閉鎖令の撤回や朝鮮人学校の承認等の要求を受け入れさせたのは、「4月28日」ではなく、4月24日である(だから「4.24」=サイサは今でも民族教育擁護の象徴たる記念日なのである)。もとより兵庫県当局の側はそれまで朝鮮人代表と直接交渉の場を持とうとせず、実力で県下の朝鮮学校閉鎖を強行しようとしていた。だが、兵庫ではこれに抗議した一千人近くの人々が県庁に集まり、座り込み、ようやく直接交渉にこぎつけたのである。

 しかし、この学校閉鎖令撤回はほどなく再び「撤回」される。日本政府及び占領軍側は兵庫県知事の学校閉鎖撤回を朝鮮人の圧力に屈したものとみなし、23日の大阪でのデモとあわせて治安問題上の見地から重大視した。そして4月24日の午後11時、メノア神戸基地司令官は「非常事態」を宣言し、基地管内の朝鮮人の一斉検挙を開始したのである(以上の経過については荒敬「占領下の治安対策と『非常事態』――神戸朝鮮人教育擁護闘争を事例に」、同『日本占領史研究序説』柏書房、1994年所収、が詳しい)。

 そしてこうした占領軍直接介入による軍事的弾圧の吹き荒れるなか、在日本朝鮮人教育対策委員会と森戸文部大臣は再び1948年5月3日に会見し、同日午後8時に朝鮮人教育についての「覚書」に仮調印した(正式調印は5月5日、以下「5.5覚書」と略す)。よって、民族教育擁護闘争が獲得したこの時点での成果は、4.24の学校閉鎖令撤回ではなく、「5.5覚書」なのである。

 この「5.5覚書」は「朝鮮人の教育に関しては教育基本法及び学校教育法に従うこと」「朝鮮人学校問題については私立学校として自主性が認められる範囲内において、朝鮮独自の教育を行うことを前提として、私立学校として認可を申請すること」の二項で成り立っている。そしてこの覚書をうけ翌日6日付で文部省は「朝鮮人学校に関する問題について」(以下、「5.6通達」という通達を都道府県知事宛に出した。

 問題はこの「5.5覚書」及び「5.6通達」が、「閉鎖令を撤回」とまでいえるものなのかということである。「5.6通達」は財団法人を持ち設置基準に合致した朝鮮学校の私立学校としての認可、日本学校へ転学する朝鮮人への便宜供与、地方庁による朝鮮学校責任者の意見聴取などを定めたが、ここでは、あくまで教育基本法・学校教育法の枠内での「選択教科」「自由研究」「課外」としての朝鮮語、朝鮮史教育、あるいは、日本学校在学の朝鮮人児童については「放課後又は休日」の朝鮮語教育などを許容したに過ぎない。しかもこのうち「認可」をうけた学校は弾圧前に比して四割弱に過ぎず、とりわけ日本学校の校舎を借用していた学校のほとんどは強制閉鎖されてしまった(以上、小沢有作『在日朝鮮人教育論 歴史篇』亜紀書房、1973年)。確かに全面閉鎖は免れたが、朝鮮人側からすればこの「覚書」交換は、当初の「学校閉鎖令撤回」とはほど遠い相当な後退だったのである。

 これは当時の朝鮮人団体側の史料からも裏付けられる。1948年5月、朝鮮人教育対策委員会は「覚書」交換について以下のように「同胞大衆」に説明している(「覚書交換の理由」『学校を守ろう』1948年5月8日付、原文朝鮮語)。
「いまわれわれが闘っている教育闘争をこれに照らしてみるとき、明白にわれわれが勝利する条件が薄弱であることがわかる。よってわれわれの主張と要求がどこまでも正当であるということを充分に知りながらも、
 1.日本の勤労大衆との共同闘争へと発展させる指導が不充分であったことから敵の分裂政策に陥り、孤立的状態で反動権力の攻撃と日本大衆からの反発を招来し、われわれの闘争が不利な状態に入り危険性があるという点
 2.朝鮮同胞らの民族的反感がいまだ充分に政治的に鍛錬されていないため、あたかも特権を主張するかのような印象を日本人民に与えるようになれば、自ら孤立を招来する憂慮があるという点
 3.こうした状態で一挙に問題を解決しようと〔強調原文ママ、但し原文は傍点:引用者注〕しては、あるいは敵の挑発に陥る憂慮が充分にあるという点、等
 こうした条件を貫くわれわれ全般の政治性の欠如を充分に検討した結果、今般中央教育対策委員会では闘争の進退に限界性を明察し、奮起した同胞大衆からは確実に妥協的であると非難される条件をもって〔強調引用者〕5月3日、文部省と覚書を交換せざるを得なくなったのである。」
 ここでは率直に「同胞大衆からは確実に妥協的であると非難される条件」であるが、諸般条件を考慮して「覚書」を交わすに至ったことが記されている。同胞から強い批判を浴びるであろうことを認めざるを得ないほど、「5.5覚書」が妥協であることは明らかだったのである。しかし教育対策委員会が同胞らに対し学校閉鎖を「撤回させた」などという虚飾をせず、自らの「妥協」「後退」を公開の場で、率直に述べる姿勢を採ったことは注目に値するだろう。それほど学校閉鎖撤回・民族教育擁護という課題は切実だったともいえる。

 そして、この教育対策委員会の弁明のなかで注目すべきは委員会が「勝利する条件が薄弱」と判断した理由である。ここからは論点Aに関わる。

 委員会は「日本の勤労大衆」の闘争が充分に発展しなかったため、朝鮮人運動は「孤立状態」でいわば権力と大衆から挟撃されることになったこと、さらに、これ以上続けて「あたかも特権を主張するかのような印象を日本人民に与える」ことになれば、「孤立を招来する憂慮がある」ことを、「5.5覚書」受諾の理由に挙げた。私が前回の記事で「むしろ充分な日本人の闘いが無かったから、不充分な妥協案を朝鮮人団体側は呑まざるを得なかったのではなかったか」と記したのは、以上のような在日朝鮮人側の認識を根拠にしている。

 これについては以下の小沢有作の評価が比較的マトを得ているといえる。
「こうした在日朝鮮人の立ち上りにたいして、政府は「共産主義者の煽動だ」と論点をそらして宣伝し、マスコミもこれにのって報道していた。そのなかで、ただ日本共産党を中心とする少数の民主団体が在日朝鮮人の要求を支持して、これに共同したにすぎなかった。「日本共産党は、『朝鮮人の教育は日本の教育制度に従って行なわれるべきであるが、用語、教科書、教員等に関して朝鮮民族の特殊性をとり入れること』を主張し、小〔ママ〕数民族に対する圧迫に抗議した現地の党員はこの方針の下に朝鮮人側を積極的に支援した」のである(在日朝鮮人学校事件真相調査団(布施辰治他六名)報告書、『歴史と神戸』1963年4月所収)。前記平野義太郎もふくめてこの問題に関心をよせた知識人・団体は、理論的には在日朝鮮人を少数民族と規定する誤りを共通に犯していたが、阪神教育事件で共産党員の神戸市議が逮捕され、軍裁で重労働一〇年の刑をうけたように、実践的には共同行動をとっていた。しかし、このような日本人は僅かであったから、事実上は在日朝鮮人が独力で全権力を相手に、つくられた世論の非難のもとで、学校を守らねばならなかったのである〔強調引用者〕」(小沢、前掲書、236,237頁)
 強調部分の小沢の指摘はその通りだと思う。ただ、私としては、小沢の共産党ら民主団体の民族教育擁護闘争への評価は若干高すぎるように思う。少なくとも共産党の擁護闘争への支援にしても、私見では1948年の「1.24通達」から「4.24」までの間はそう目立ったものはなく、むしろマスコミが「神戸事件」としてこれをとりあげ、「共産主義者の煽動」云々というデマが流され、さらにこれが国会で問題になった1948年4月下旬以降に、主として自党防衛という見地からこの問題に関わり始めたというのが正確なところだろう。確かに共産党員の逮捕者を出してはいるが、それはむしろ占領軍・日本政府側がこれを共産党批判へとつながるために行なった攻撃的な取締の賜物と考えるべきだろう。1948年1-4月の間に、日本人側の民族教育擁護闘争があったというのは、政府による「共産主義者の煽動」というデマが作り出した幻影に自己をなぞらえたものに過ぎないのではないだろうか。

 以上みたように、前田氏の「日本人と在日朝鮮人は肩を組んで阪神教育闘争を闘い〔学校閉鎖令を:引用者注〕撤回させた歴史」なる表現は歴史的事実とは異なるものであり、権力側の弾圧を過小評価し、日本人の闘争を過大評価するものといわざるを得ない。1948年の民族教育弾圧及び民族教育擁護闘争を考える際に最低限前提とされるべきことは、朝鮮人の教育擁護闘争を「特権」と誤認する広範な日本人大衆の存在のなかで、自他共に認める不十分な「5.5覚書」を受諾せざるを得なかった、という事実の重みであろう。それこそが、現在の高校「無償化」排除の底流となっているからである。ありうべき日本人への呼びかけは、「4.24のときのように闘おう」ではなく、「4.24を繰返すまい」のはずである。
by kscykscy | 2010-05-05 19:00 | 朝鮮学校「無償化」排除問題
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