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1948年の民族教育弾圧について――前田年昭氏への疑問

 「繙蟠録――編集人前田年昭のブログ」に3月29日付で掲載された記事「「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑 除幕集会」開催される」に、以下のような記述があった。
「敗戦直後の1948年,アメリカ占領軍と吉田政府による朝鮮学校閉鎖令に反対して日本人と在日朝鮮人は肩を組んで阪神教育闘争を闘い,撤回させた歴史があります。日本の敗戦は,侵略戦争で凍り付いた日本人の心を氷解させるよい契機だったのです。しかし,戦争責任に口をつぐんだ日本人は再び凍り付いてしまいました。」
 前田氏によれば、これは3月28日に三重県熊野市で行なわれた「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑 除幕集会」での発言とのことである。高校「無償化」から朝鮮高校を排除することへの批判など、全体の趣旨に賛同しないわけではないが、一読していくつかの疑問を感じたので、以下に記すことにする。

 第一に、前田氏は「敗戦直後の1948年,アメリカ占領軍と吉田政府による朝鮮学校閉鎖令」と記しているが、朝鮮学校に対する閉鎖令の前提となった文部省通達(1948年1月)が出た時の内閣は、片山内閣(1947年5月-48年3月)であり、また、阪神教育闘争(1948年4月)の際も芦田内閣(48年3月-10月)であって「吉田政府」ではない。学校閉鎖令も48年3月から4月にかけて都道府県レベルで出ており、ちょうど片山・芦田がバトンタッチする時期にあたる。

 これは揚げ足をとるために書いているわけではない。民族教育弾圧が吉田内閣ではなく、片山・芦田内閣期に始まったことは、今般の高校「無償化」からの排除へとつながる戦後日本の在日朝鮮人に対する「政策」をいかに把握するかと関わって極めて重要な意味をもっている。前田氏は単純に事実を誤って書いただけなのかもしれないが、民族教育弾圧を「吉田」という名に象徴させてしまうのは非常にまずいのである。

 確かに、第一次吉田内閣及び第二次・第三次吉田内閣の反動っぷりは敗戦直後日本の政治史のなかで群を抜いている。在日朝鮮人に関連しても、第一次吉田内閣の1946年は椎熊発言をはじめとする反朝鮮人ヒステリーが日本中に吹き荒れた時期であるし、第三次吉田内閣の時期には朝連解散という未曾有の弾圧を引き起こしている。だが、在日朝鮮人への弾圧に限るならば、その間に位置する片山・芦田内閣期にこれが緩んだわけではない。

 片山内閣は連立とはいえ一応社会党(右派)首班の政権である。日本国憲法体制下での選挙による最初の内閣でもあり、民法や警察法改正などの「民主的」諸施策も行なった。また、芦田は社会党員ではないが一応「リベラリスト」ということになっていたし、閣僚には社会党員も少なくない。だが上に記したように、この片山・芦田内閣の時期は、同時に民族教育への弾圧が公然と開始した時期でもある。政治史的に見れば、片山・芦田から第二次・第三次吉田内閣への移行は一つの「転換」であるが、在日朝鮮人に関していえば、吉田は片山・芦田政権の政策を「転換」させることなく、むしろその土台の上に立って朝連解散と第二次学校閉鎖という、より破壊的な朝鮮人弾圧を遂行することができた。こと在日朝鮮人への対応についていえば、日本国憲法施行前後に明確な断絶は存在しないのである。

 もちろん、民族教育弾圧には米国の東アジアにおける朝鮮政策、なかんずく大韓民国政府樹立という思惑が密接に関わっているため、民族教育弾圧を単純に片山・芦田内閣の独創とみることはできない。しかしこれらの内閣が在日朝鮮人弾圧への制動的役割を果たさなかったことはもちろん、むしろ日本国憲法体制下における新たな在日朝鮮人弾圧の論法を創出した側面すらある。

 例えば、阪神教育闘争の只中である1948年4月27日、衆議院本会議において社会党(右派)の森戸辰男文部大臣は次のように発言している(「国会会議録」より。太字は引用者)。
「実は、かような学校閉鎖とこれに伴う措置につきましては多くの困難を伴うことはすでに御承知の通りであります。朝鮮人の学校問題に関しまして、文部省がかような態度をとりましたのに対して、朝鮮人の、殊に一部の團体においては、強い反対があつたのであります。その最も中心的なものは、朝鮮人の教育の自主性ということを強く主張した点であります。この点、一應もつともな面も存在するのでありますが、他面このことは、日本の学校教育法並びに教育基本法に從わないという面をもつておるのでありまして、日本の法令に從うことを承認の上日本に残留しておる朝鮮の方々は、学校教育についてもこの法律に從い、しかも軍國主義的な形を脱した刷新日本の教育制度に服していただきたいと思つておるのであります。なお、これに続いて要求されておりますのは、教育費の國庫負担ということでございます。これは一般の私立学校と同様に行うべきでありまして、特に朝鮮人の学校に対して有利になすという取扱いはいたされないのでありますが、日本の私立学校に対してよりも、より不利な扱いはいたしてはいないのであります。
〔中略〕
 なお、最後に申し述べておきたいことは、この問題は、隣邦朝鮮と、また敗戰日本の、両民族の間にある問題でありまして、これが民族感情の反撥にならないように、あくまで努力いたさなければなりません。そのことは、東洋が平和な國として成長いたすには何よりも大事なことであると思うのであります。新しい憲法は、さいわいに平和主義と民主主義とを基調といたし、新しい学校教育と教育基本法とはこの精神によつておりまするのでどうか新しい教育の精神を生かして、両國民が平和と民主の線に沿うて手を携えて伸び行くように、私ども文部当局としては最善の努力をいたしたいと存じておる次第でございます。(拍手)
 ここで森戸が述べていることは、「大日本帝国」体制期の朝鮮民族運動弾圧の単純な延長ではない。森戸は「軍國主義的な形を脱した刷新日本の教育制度に服していただきたい」という表現でもって、在日朝鮮人の自主的な民族教育を否定しているのである。そこには教育勅語を廃し、「平和主義と民主主義とを基調」にした教育基本法・学校教育法に基く新たな戦後日本教育への自信すら見て取れる。だが、まさに森戸が戦後日本の「平和主義と民主主義」に基く教育基本法・学校教育法の価値を謳いあげているその時、神戸は占領期唯一回だけだされた非常事態宣言下にあった。そして日本警察・MPらによる朝鮮人検束が行なわれていたのである。

 教育弾圧が「吉田政府」のもとで行なわれたという理解では、以上みたような「平和主義と民主主義」と民族教育弾圧の並存という戦後日本の朝鮮人弾圧のあり方を理解することができない。同様の点から私は、「日本人と在日朝鮮人は肩を組んで阪神教育闘争を闘い,撤回させた歴史」という表現にも承服できない。そもそも、1948年の第一次教育弾圧への反対闘争は学校閉鎖令を「撤回」させるまでには至らなかった。またその際日本人による充分な民族教育擁護闘争があったとも思えない。むしろ充分な日本人の闘いが無かったから、不充分な妥協案を朝鮮人団体側は呑まざるを得なかったのではなかったか。「日本人と在日朝鮮人は肩を組んで阪神教育闘争を闘い,撤回させた歴史」という表現は、一種の願望に過ぎないのではないだろうか。

 現在の日本政府の民族教育弾圧を歴史的に遡って跡付けることは非常に重要であるが、それが正確な事実認識と批判意識を欠いたものであるならば、むしろ過去を現在から断ち切るものにもなりかねない。
by kscykscy | 2010-05-03 23:03
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