「公的確認」の論理と教育「内容」の問題――朝鮮学校と高校「無償化」問題②

 朝鮮学校の高校「無償化」をめぐって、排除派からの突き上げをうけて文科省内では「授業内容と本国の教育課程が日本の学習指導要領におおむね合致していると確認できること」を「無償化」の条件とする案が浮上しているとのことである。

 この問題をめぐっては複数のメディアが似たような内容の報道をしているが、文科省の朝鮮学校処遇をめぐる最低限の事実経過が抑えられておらず、しかも非常に不正確な表現が使われているため、これが新たな問題を引き起こしかねない。以下に文科省の論法の背景と教育「内容」のチェックという言葉の問題点について指摘しておきたい。

 まず今回の排除派からの突き上げに伴い、文科省内で「授業内容と本国の教育課程が日本の学習指導要領におおむね合致していると確認できること」が排除の条件として検討されているというものだが、仮に事実とすれば、これは文科省が2003年に外国人学校に対する大学入学資格の「弾力化」を行った際に朝鮮学校を排除するために用いたものと全く同じ論法である。

 2003年、文科省は規制緩和の観点からインターナショナルスクール等の大学受験資格制限の「弾力化」を試み、当初は国際バカロレア、アビトゥア、バカロレアなどの資格保有者及び国際的な評価団体の認定を受けた外国人学校(事実上欧米系学校を意味する)にのみこれを行おうとした。だがこのあからさまな差別的措置への反対が高まったため、文科省は制限基準を修正した。その際に用いた論法が、外国の正規の高等課程と位置づけられているかにつき「公的確認」が可能な学校には大学入学試験を認める、というものだったのである。

 文科省がこうした紛らわしい論法を用いたのは、端的に言って朝鮮学校を排除するためである(実際、朝鮮学校以外のほとんどの外国人学校には受験資格が認められている)。ただ、単に国交がある国の学校というだけでは台湾系の中華学校まで排除してしまうため、「公的確認」なる恣意的な概念を導入したのである。この結果、文科省は最大の外国人学校である朝鮮学校の生徒・卒業生にのみ入学資格を認めず、個別審査により入学資格が判定されることになった。つまり、他の外国人学校については卒業を根拠に大学入学資格が認められるにも関わらず、朝鮮学校の生徒・卒業生は各大学と個々に大学資格審査判定の手続をしなければならなくなったのである。

 2003年に文科省がこうしたあからさまな差別的取扱いをしたことにより、事実上朝鮮学校の生徒・卒業生に対しては、「弾力化」以前とほとんど変わらない負担が残ることになった。ここで主として問題となっていたのは一律受験資格を認めていなかった国立大学であるが、私立の場合も独自の判断で認めていない大学は数多く存在した。もし卒業資格をもって大学入学資格を承認すると文科省が方針を打ち出せば、国公立・私立共に全大学が横並びに資格を承認したはずである。だが文科省は個別審査とするというかたちで各大学に丸投げしてしまったため、結局学生たちは受験前にいちいち受験資格を認めているかどうかを大学・専門学校に確認し、各種資料を提出して「審査」を受ける負担を引続き負うことになったのである。しかも「弾力化」以後、逆に独自判断で資格を認めなくなった大学も現れた。学生の立場になればわかることだが、受験シーズンになっていちいち志望校に問い合わせ審査を受けるようなリスクを負うならば、はじめから高卒認定試験を受ける方が安全である。このため、今でも朝鮮学校の学生たちの多くは高卒認定試験を受けているのが実情なのだ。これでは大検を受けていた2003年以前と何ら状況は変わらないのである。

 いずれにしても、今回の文科省の高校「無償化」排除の論法は、こうした9.17以後につくり出した理屈ならぬ理屈をそのまま引っ張り出してきたものなのである。しかもその理屈は上述のように教育政策とはおよそ無関係な、極めて浅薄な外交的「配慮」のためにひねりだされたものだった。少なくとも文科省の今回の対応を報道するならば、最低限このくらいの経過をおさえておかなければ、なぜ「授業内容と本国の教育課程が日本の学習指導要領におおむね合致していると確認できること」などという文句が突然出てきたのかさっぱり理解できない。
 
 ネット上では朝鮮学校にはそもそも大学受験資格すら無いのに高校「無償化」に含めるなどもってのほか、との意見が散見されるが、こうした議論はそもそも大学受験資格から排除された経緯と今般のそれが全く軌を一にしていることを無視した、全くもって倒錯したものと言わざるを得ない。また、朝鮮学校には受験資格を認めている大学もあるのだから高校「無償化」に含めてもいいじゃない、という善意の反論も同様に不正確である。厳密にいえば朝鮮学校はいまでも大学受験資格を認められていないのである。あくまで生徒・卒業生が個別審査によって認められたに過ぎない。大学によっては審査を基に以後同校生徒・卒業生については審査を免除する措置を採っているところもあるが、それはあくまで善意でそうしているに過ぎない。いつひっくり返ってもおかしくないのである。

 こうした経緯を一切すっ飛ばした報道も去ることながら、そこでの語彙の選択があまりに恣意的に行われていることは一層問題である。各紙は平野官房長官の2月22日の記者会見での発言について、「教育の中身をチェック」(日経web版、2月22日付)、「朝鮮学校の教育内容で判断」(共同通信web版、同日付)「無償化にふさわしいカリキュラム(教育課程)かも含め、文部科学省がチェックしなければならない」(産経web版、同日付)などの見出しをつけて報道した。

 ここで注意しなければならないのは「教育の中身」「内容」という用語である。記事を読む限りでは少なくとも平野が言ったのはカリキュラム、すなわち教育「課程」をみて判断するということなのであって、これは教育の「中身」「内容」をチェックするということとは全く意味が違う(そうした意味では三つの中では『産経』が最も正確である)。教育課程とは教科、カリキュラム、授業時間数などの形式的・外形的なものであって、これらの教科で具体的にいかなる教育が行われているかの「中身」「内容」とは全く異なる。だが報道は極めて恣意的に「教育の中身」「内容」をチェックすると平野官房長官が言ったかのような見出しをつけており、案の定「反日教育をやっているから駄目だ」的な反論を呼び起こしている。

 そもそも高校の課程相当の各種学校は「無償化」の対象に含めるといっておきながら、改めて朝鮮学校に限定して教育課程の資料提出を要求するということ自体、どうあっても正当化しようのないものであるが、百歩譲って教育課程ならば、この間の受験資格問題の経験により各校共に資料の準備はできているだろう(これ自体悲しいことであるが)。だが上に見たような無定見な報道は、教育課程の審査を越えて、教育「内容」の審査にまで文科省に踏み込ませる方向へ世論を誘導する可能性がある。朝鮮学校が各教科でいかなる「内容」の教育をしているのかをつまびらかにしなければ「無償化」の対象に含めない(あるいは判断すら開始しない)ような状況は、言うまでも無く政府による教育内容への差別的干渉である。各紙が無知でそうしているのか、狙ってやっているのかは私には判断できないが、こうした「事実」報道がスクラムを組んで在日朝鮮人の民族教育の立地を日々がけっぷちに追い込んでいるのである。
by kscykscy | 2010-02-23 03:40 | 朝鮮学校「無償化」排除問題
<< 案の定の『朝日新聞』社説――朝... 『産経新聞』は何を「明らかに」... >>